「ひなぎく」 1966年 ヴェラ・ヒテイロヴァー監督 チェコスロバキア 上田トラムザイゼ(デジタル上映)
全く知らなかった映画。
チェコ映画そのものを見たことがなかった。
チェコといえば中欧の工業国。
自動車や戦車を自国で生産できた。
1964年の東京オリンピックでは体操の女子総合で、チャスラフスカ選手が優勝し、その成熟した美しさとともに『東京の恋人』ともいわれた。
チャスラフスカは4年後のメキシコオリンピックにも出場し、個人総合で再び優勝するのだが、この年’68年はプラハにソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が進駐し、自由化に進んでいたチェコのドプチェク政権を葬り去った。
チャスラフスカは国家的英雄としてドプチェク政権に参画しており、その後しばらくは日陰の生活を強いられることになる。
筆者には、’68年のテレビ画面に映るメキシコオリンピックの体操会場で、チャスラフスカが大歓声を受け、片やライバルのソ連選手(クチンスカヤという10代の美少女)が結えないブーイングを受けていた光景を見ていた。

「ひなぎく」は、チェコ自由化の波が生まれつつあった66年に製作された。
政治の自由化に伴う表現の自由への希求を背景に、それでもなお、社会主義国の桎梏、権力者の特権階級化、それに連なるプチブルジョアともいえる上級国民の存在、圧倒的多数の労働者階級の沈黙などなど、過去の負の遺産のが刻印された歴史の影が色濃い。
それを表現するのに、抽象化するのではなく、不条理劇とするのではなく、ファッションでガーリーな二人の少女の行動を通して描くのがこの映画である。

2人の主人公の人物像についての説明はない。
二人で住んで、働いているのかいないのか、どうやって生活しているのかわからない。
描かれるのは彼女らの、まったく自由で衝動的な行動だけだ。
金髪の彼女の方は常にひなぎくの花飾りを頭につけている。
金持ちの紳士に取り入り、高級なレストランで食事をする。
今でいうパパ活だろうか。
呼んでいないのにもう一人のほうが勝手にテーブルに座り、勝手にオーダーし、口の周りを汚しながら盛大に食べ飲み続ける。
帰りに駅まで紳士を見送りにゆき、同伴を期待する紳士を列車に残して飛び降りバイバイする。
別な日には、チャールストン風にボードビリアンが踊るキャバレーに乱入し、有閑階級のテーブルの酒をかってに飲みつつ、ボードビリアンのショウを妨害し、ボーイにつまみ出される。
ある日は、蝶の標本を収集する金持ちオタク風の青年の家で、金髪の方の彼女が、標本で隠しつつストリップ風のポーズで青年をおちょくる。
2人の部屋では、天井からぶら下がったソーセージを鋏で切り、食べ、ミルクをこぼしての宴会を繰り広げる。

そしてクライマックスシーンでダメを押す。
工場の上階にある貴賓室に侵入し、豪勢なパーテイのために準備されたのであろう、ごちそうや高級なウイスキーを、貪り食い、飲みこぼし、挙句の果てには踏みつけ、なぎ倒しての乱暴狼藉を繰り広げる。
主賓は最後まで出てこないが、共産党幹部のための豪勢な宴会が準備されていたのだろうと思われる。
画面はモノトーンでパートカラー。
モノトーンはセピア調だったり白黒だったり。
短いカットインのポップな流れは、60年代のリチャード・レスター(「ビートルズがやって来る・ヤア!ヤア!ヤア!」風でもある。
何より二人の女の子の気分に、女性監督の”らしさ”が出ている。
その行動に理由も原因もないという、女性らしさが。
女の子そたちは、社会主義体制が硬直し、権力者や上流階級だけが享楽を独占している硬直化した社会構造の中で、勝手気ままに、それらを粉砕して回る。
いわゆる『反体制運動』よりも過激なアンチテーゼである。
ウーマンリブ的に、男性社会を揶揄した場面もある。
被害者意識むき出しだったり、説得的な抗議をするのではなく、まったくナンセンスで衝動的な行動によって。
ガーリーでポップな感覚の背後には、とてつもない社会的闇と硬直しきった歴史の存在が色濃く匂う。

チャスラフスカは、オリンピックというこれ以上ない表舞台で太陽のように咲き乱れた存在だったとすれば、ヒテイロヴァー監督と、勇敢でかわいらしい主演の二人が作った「ひなぎく」は、ひそかに咲いた日陰の花のように自由で感覚的なものだったのだろう。
両者ともに68年に他国から侵入した戦車のによってその尊厳が踏みにじられたのであるが。

この日のトラムザイゼは入場者が7人。
金曜11時40分からの回にしては多めの観客だったのではないか。
この作品に関する潜在的関心の高さを感じた、といえば大げさだろうか。
