茅野の新星劇場へ行った

茅野駅近く、中央線の線路際に新星劇場という映画館がある。

近くを通るたびに気になる存在だ。
毎年9月に開催される「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」には、映画祭の会場になり、入り口の駐車場にレッドカーペットが敷かれ、地元のスタッフによるふるまい酒、コーヒー、ポップコーンなどの出店が並ぶ。
映画祭は県外からの来訪者も多く、上映作品には沢山の観客が訪れる。

昨年の映画祭パンフレット

令和2年は映画祭が中止になった。
山小舎おじさんは過去の映画祭で、この劇場で司葉子のトークショーを聞いた。

シネコンやらミニシアターとは異なる、天井が高い造りと大画面。
かつては全国に存在した、旧スタイルの映画館の造りを今に残す、という誠に懐かしい空間でもある。

この新星劇場、興行を常打ちしていない。
劇場経営者の女性に聞くと、今では出張上映や貸館を主にしているとのこと。
出張上映用のデジタル上映機器を持っているのは県内でここだけとのことだった。

星空の映画祭。映写は当劇場の出張によるとのこと

ということで、今年も一度くらいは新星劇場に入りたい、と思っていた。

ある日、通りかかると映画のポスターがデイスプレイされていた。
軽トラを駐車場に入れ、窓口へ寄ってみると、いつもは人気のない入口に経営者の女性がいた。
戸を開けて聞いてみるとちょうど午後の回の上映開始直後とのこと。

よしっとばかりにシニア料金1,100円を払って飛び込んだ。
とうとう3度目の新星劇場入場ができた!
しかも映画祭で、ではなくて一般上映で!

新星劇場の場内。懐かしい映画館の雰囲気が残る

場内にはほかに2人の観客がいた。
上映中の作品は「夜明けを信じて」。
新作である。
幸福の科学の製作作品であるが、日活配給の一般作品の扱いとのこと。

映画の内容は、教祖・大川隆法の自伝で、ひたすら同人へのよいしょに終始した、信者向けのものだった。
しかしなんとなく憎めない雰囲気があったのは、主演の新人俳優の個性のせいだったのか?

宗教がらみのスポンサード映画というと、創価学会の「人間革命」(1973年)が真っ先に思い出される。
監督、主演ともに通常映画でも大作仕様のものだったが、何よりも脚本に橋本忍という、日本映画の脚本家の重鎮を起用しており、同作品は宗教枠を超えて、例えば、橋本忍からみの回顧上映においてもフューチャーされる程のクオリテイーを有していた(ようだ)ことが印象的な作品だった。

このように、1970年代の新興宗教映画が、大向う受けを狙ったもので、たとえていえば、田舎の成金百姓が自宅をお城のように作りたがるようなコンセプトだったとすれば、眼前に展開する2020年の新興宗教映画は、現代の一般社会・一般人の価値観・ムードを理解し、それに迎合したもの、として映った。

今どきの新興宗教は上から目線ではだめだ、こけおどしでは人は騙せない、との理解に立ったうえでの戦略なのであろうか。

そうはいえどもやっぱりスポンサード映画。
主人公はともかく、また一般の芸能人崩れの千眼美子(旧名・清水富美加)などはともかく、脇役で出ている、映画テレビで初めて見る方々は、俳優、女優としてはプロなのだろうが、その全員に漂う不自然さ、マイナー感、は、作品そのものに対するそれ、よりもより多くの違和感を生じせしめていた。

戦略の不徹底か、隠しようにも隠し切れない本質の一端なのか。

上映後、もぎり役の女性から改めてお話を伺った。
定期上映より、出張上映に力を入れざるを得ない要因として、人気作の上映条件がきつい、とのことだった。
例えば人気アニメの「鬼滅の刃」は1日8回の上映が条件だったりするのでやりたくてもやれないとのこと。

シネコン上映が前提条件だったりする現在の興行の難しさを感じた。
これからも存続してほしい新星劇場だが、ご高齢に近い現在の経営者に後継者が現れるかどうかがカギだろうと思われる。

塩尻の東座で「ひまわり」を観た

塩尻に東座という昔ながらの映画館があります。
シネコンではなく、フィルム上映も可能な、座席数168の映画館です。
1号館、2号館があり、それぞれ一般映画とピンク映画を上映してます。

「大蔵映画」の看板を掲げる映画館は他に現存しているだろうか

たまたま塩尻を訪れたときにこの映画館を見つけ、是非一度映画を見に来たいと思っていました。
調べてみると「ひまわり」(1970年、イタリア・ソ連合作)がリバイバル上映中とわかり、改めて駆けつけました。

一般映画の上映作品はいわゆるミニシアター系が多そう

「ひまわり」は、日本公開当時の1970年時点で10代以上の映画ファンなら、誰でも知っているであろう名作です。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニという、イタリアでは人間国宝級の二人の共演。
監督はヴィットリオ・デ・シーカ。
戦後直後に、イタリア社会の現実をドキュメンタルに描写した「ネオレアリスモ」と呼ばれた一連の作品群の代表作である、「靴みがき」(1946年)、「自転車泥棒」(1948年)を監督した人です。

デジタル上映でよみがえった名作を見て感じたことを表してみたいと思います。

館内は傾斜があり、とても見やすい。この回の入場者は6人ほど

その1、イタリア軍のロシア戦線の従軍

「ひまわり」は愛し合った男女の戦争による離別を骨格とした物語です。
イタリアの男は戦争当時、徴兵されることが当然でした。

主人公もそれは覚悟で、徴兵の猶予期間(12日の新婚期間、入営が猶予される)狙いで結婚し、あまつさえ狂言で精神病院へ入院までするのだが、狂言がばれて送られた先がロシア戦線だった。

第二次世界大戦で、イタリア軍も北アフリカでドイツ軍の補助に参加したのは知っていたが、ロシア戦線に従軍したのは知らなかった。

調べてみると計23万人ものイタリア軍がドイツ軍に呼応してロシア戦線に従軍したとのこと。

当初はルーマニア、ハンガリーもドイツ軍として従軍したロシア戦線。
スターリンの圧政に苦しむ当時のウクライナでは、ドイツ軍が「解放軍」として迎えられたとのエピソードが示す通り、複雑かつ混とんとした情勢の中、ソ連軍の反抗と冬将軍の到来に撤退を余儀なくされた時、イタリア軍は15万人になっていたという。

「11人以下の人数の戦い(サッカーのこと)だと強い」「マンマが見ているときだけ強い」などと揶揄されるイタリア男性。

イタリア軍についても、「エチオピアを植民地とすべく攻め込んだイタリア軍が、騎馬と槍で武装したエチオピア軍に何度も跳ね返された挙句、毒ガスを使ってやっと勝った」とか、「北アフリカ戦線で、水不足とSOSを発したイタリア軍部隊に、救援のドイツ軍部隊が駆けつけてみると、盛大にスパゲテイを茹でていた」など、うそか誠か、でも「いかにも」と思わせるエピソードに事欠かない。

ところが、第二次大戦のロシア戦線でのイタリア軍は奮戦したらしい。
ドン川周辺の占領地域の防御戦で再三ソ連軍の反抗を跳ね返し、ソ連軍に「白い悪魔」と呼ばれたスキー部隊もいた、とのこと。

本作での、ロシア戦線での戦闘描写、厳寒の雪原を敗走する場面、戦後になって妻がソ連に夫を探しに行ったときに目の当たりにする、丘一面の無数の白樺の墓標、は決して大袈裟な描写ではなかったのだ。

映画「ひまわり」の歴史的背景描写と史実は決して乖離してはいなかった。

上映予定表。予約割引、メンズデイなどの有益情報も記載されている

その2、イタリア映画の豊かな伝統

「ひまわり」は、イタリアの大プロデユーサー、カルロ・ポンテイの製作作品で、ソビエトロケやトップ女優・リュドミラ・サベリーエワの出演など、ソ連との合作によって実現した大作という側面が強い。
一方で、イタリア映画の細かな伝統を随所に感じさせる作品でもある。

【イタリア映画の伝統その1】

主人公二人が新婚時代を過ごす町の広場で三々五々過ごす人々の自然な描写。
駅で出征兵士を送る母親年代の女性達の味のある顔また顔。

イタリア映画のエキストラの存在感。
セリフもないエキストラ達は、アップになっても得も言われぬ存在感を醸し出す。

演技がうまいのか、もともと人々の個性が強いのか。
多分両方なのだろう。

画面を引いて、駅の建物一杯に人々が行きかう群衆シーンになっても画面のリアリテイは失われない。

【イタリア映画の伝統その2】

カメラを固定させ、アップもパンも多用しなかったネオレアリスモの時代の後、イタリア映画に於ける撮影はその技量を高めていったように思う。
質感あふれる引きの構図があるかと思えば、独創的な移動ロングショットがあったりする。

マストロヤンニとサベリーエワの夫婦が都市のアパートへ引っ越すときのトラックを、前面から回り込み助手席のサベリーエワ親子をアップでとらえるまでのワンショットの移動撮影。
カメラマンのよほどのやる気と技術と準備がなければできない撮影だ。

イタリア映画でのエキストラの活かし方と、熟練の撮影は、ベルナルド・ベルトルッチ監督にも引き継がれている。
同監督の「暗殺の森」(1970年)、「1900年」(1976年)では、迫真に迫るエキストラシーンと、見事な撮影を観ることができる。

ロビーに置いてあるマップ。塩尻の食堂、カフェなどの情報満載

その3、主題は戦争の悲劇にとどまらず

さて、本作の主題。
ここにもイタリア映画の伝統が強烈に顔を出す。

「ひまわり」という映画のこれまでの印象はというと、山小舎おじさんは「戦争が引き裂いた夫婦の別れ。二人とも運命を受容。悪いのは戦争だ」、というもの。
だからこそのキレイな悲劇の物語。

実はそれにとどまらないのがイタリア映画のしつこいところ。
戦争などで引き裂かれても、イタリア女性はそんなことではあきらめない。
死力を尽くして愛する夫を探し当てる。

女性は、戦争などでは夫への愛を「あきらめ」ないが、反面、夫が別な女性と愛し合っている事実を確認すると、「あきらめ」る。
後に、ソ連からやってきた元夫とイタリアで再会した時も、戦争のせいにする夫を許しはしない。

肉食的というか、頭ではなく体で生きるというか。
イタリア女性の面目躍如。
きれいごとで済まさないところがスゴイ。
それを扱うイタリア映画もスゴイ。

とはいえ、別れた時間は容赦がない。
それぞれに家庭と子供があり、元に戻ることは現実的にはできない、という「落としどころ」に落ち着く。

「ひまわり」撮影時、ソフィア・ローレン34歳、マストロヤンニ46歳。
名コンビとはいえ、新婚時代からを演じるにはギリギリの実年齢。
無理がある?とも思ったが、合作の大作としては必要なキャステイングだったのだろう。

結果としてはリバイバル上映にも十分耐えうる二人の存在感には何も言えない。ソフィアは、若い時と、夫を探すとき、夫を見切ってから、と3つの時代を演じる。
それぞれが素晴らしいが、特に夫をソ連に探しに行ってから見切るまでの時代の演技が素晴らしい。

ソ連で「戦争と平和」のヒロインを演じたこともある、モスフィルムの名花にして、当時のソ連を代表する美人女優のリュドミラ・サベリーエワ。
本役にはもったいないくらいの美貌だが、彼女とてただの悲劇のヒロインではない。

随所に現れる、サベリーエワの人間臭いセリフと動作。
さすがイタリア映画の演出である。
ただの悲劇のヒロインなど一人も出てこない。

随所に現れるマストロヤンニの母親。
息子の行方不明を嘆き、初めて嫁であるソフィアのところへやってきたとき、コーヒーを勧める嫁に、それを断るところ・・・。

人間の描写にいちいち真実をつかないと気が済まない?のがイタリア映画。
これが「人間復興」というものなのか?ルネッサンスの伝統なのか?

一筋縄では行かない大作の「ひまわり」でした。

上田映劇で観た「星屑の町」

好きな町・上田に行ってきました。
上田映劇の13時からの回が、のん主演の「星屑の町」だったこともありました。

6月からコロナ後の上映を再開した上田映劇。
日芸を出た後、地元にUターンして、NPO法人・上田映劇を立ち上げた支配人によると、「再開後の業績は2割減」とのこと、この日の「星屑の町」の入場者も全5人。
平日としては通常運転の入りではないでしょうか。

いつものたたずまいの上田映劇

「星屑の町」。
2020年公開の新作です。
売れない中年コーラスグループを題材にした、ラサール石井の舞台劇の映画化。
のんこと能年玲奈の6年ぶりの映画出演作です。

なんとなく、のんをヒロインとしたロマンチックなファンタジーをイメージして観たのですが、いろんな意味で「裏切られ」ました。

上映作品のポスターが貼られている

ドサまわり数十年の売れないおじさんコーラスグループの話。
誰も興味のない題材です。
演ずるのはラサールをはじめ、渡辺哲、でんでんといった配役。
いずれも正直「一仕事終わった」役者だ。
キャラに準じた配役だということはわかるが、もうそろそろ彼らのキャラを演ずる役者も、10歳くらい若返って世代交代してはどうか?と、映画の最後まで思って観ていた。
ただ、ひねくれキャラの有薗芳記という役者だけは良かった(というか他の出演作の色がまだついてい役者だった)。

コーラスグループのボーカル役の太平サブローの配役がまた微妙。
当時の彼のメインの仕事の「快傑えみチャンネル」で女帝のアシスタントを務める合間を縫っての出演だったろうが、そのしゃがれた関西弁といい、醸し出す「すれきった」芸人の風情といい、この作品に一つの深みを与えていた。
すなわち、「芸達者なインテリおじさん役者たちが『批評的』に演じる、芸能界の底辺を題材とした、いわば『学芸会』に、芸能界の底辺を体で知っているホンモノ芸人がもたらす場違いなリアリテイー」みたいなものをサブローは振りまいていました。

大平サブローの配役は、すんでのところで映画全体のコンセプトもぶち壊してしまいかねないものでしたが、ギリギリでコントロールされていました。
劇中で、グループ解散のきっかけとなる、サブローと他のメンバーの言い争いのシーンがありましたが、リアルな彼らの本音の言い合いを見ているようで、本気でひやひやしたものでした。

のん、ですが、よくぞ制作側が配役してくれた!
期待通り、期待以上の出来上がりでした。

制作の背景には、岩手県などの協力がありました。
のん、と岩手県を代表とするその支援者たちは、まだ、あの偉大な「あまちゃん」を引きずっているのです。
背景的にも、舞台設定的にも「星屑の町」は「あまちゃん」の後日譚でもあったのです。

「あまちゃん」放送時の2013年当時は、山小舎おじさんもよく東北に出張していましたが、盛岡の駅が「あまちゃん」一色だったことを思い出します。

イメージより大柄で、下半身もがっちりしている、のん、ですが、前半は、高卒後数年、不本意ながら地元岩手で、実家のスナックを手伝いながらくすぶっているという「あまちゃん」の後日譚を淡々と演じますが、後半になって文字通りさく裂します。

おじさんコーラスグループのボーカルに入って、めきめきと売り出し、温泉の休憩所から、体育館、テレビスタジオへと活躍の場をステップアップしてゆきます。
おじさんコーラスをバックに歌うのは、ピンキーとキラーズの「恋の季節」、島倉千代子の「本気かしら」、映画オリジナルの「シャボン玉」など。

ちょいとレトロなファッションで、舞台用のメイク。
ステージシーンの、のんの、映えること映えること!

踊りも表情も、相変わらず素人っぽいというかぎこちなさが残っていますが、彼女のスター性がすべてをカバーして余りあります。

「おじさんたちの物語」という映画の主題上、のんのステージシーンはサワリに徹しており、物足りなさが残りますが、これくらいでちょうどいいのかもしれません。

古い歌謡曲がバンバン出てきて、60歳代のレトロな心情を直撃します。
メイクアップした、のん、が古い歌謡曲にまた不思議と合うのです。

この作品のメインテーマ曲が、島倉千代子の「本気かしら」。
昭和、ムード歌謡、芸能界、ドサまわり、といった世界をドンピシャの感性で表現する名曲だと思います。
「ウオーターボーイズ」(2001年 矢口史靖監督)におけるフィンガーファイブの「学園天国」の使い方を思い出します。
映画のイメージとピッタリの選曲です。

あと、忘れてはならないのが戸田恵子。
おじさんコーラスの更に前座を務める売れないおばさん歌手役です。

彼女は、見た目は地味な便利屋風ですが、まがうことなき実力派です。
作曲家・宮川彬良の音楽番組を偶然見たことがあるのですが、彼女が生バンドをバックにキーハンターの主題歌「非情のライセンス」を歌っていた姿が忘れられません。
これを見たときは、瞬間、野際陽子のパロデイだと思いましたが、オリジナルより数段上の歌唱力で、宮川ワールドを体現していました。

戸田恵子は劇中でも、おじさんグループの前座ながら、彼女のオリジナル曲も含めてたっぷり歌い上げています。
彼女の実年齢が山小舎おじさんの一つ下なのがびっくりですが、まさに「これしかない」配役だと思います。

「星屑の町」は、のんが「あまちゃん」からリスタートする瞬間を題材とした作品でもありました。
劇中でのんが「もう前しか見ない」と叫んでいましたが、次回もぜひいい意味で裏切られる、のんの新作を見たいものです。

毎月発刊されている「上田映劇ジャーナル」

「星屑の町」を観た日、上田の町を歩く

真田坂にある新刊書店、平林堂にいきました。
雰囲気がよく、入りやすい本屋さんで、郷土関係書がそろっています。

レジのお姉さんに「上田のタウン誌はないの?」と聞いてみると、「10年前くらいまではあったが、広告が取れなくなってなくなった」とのこと。
唐突な問い合わせにも、話を切ることなく応対してくれました。

市内の目抜き通りに接する、平林堂書店
今回のお買い上げ

昼食は、気になっていた相生食堂へ。
昼食時なので店内にはほかに、昼休みと思われる2組ほどが。

70歳代の夫婦がやっています。
ソースカツ丼を注文。650円でした。
食後にヤクルトをくれました。
ちょっとうれしかった。

ソースカツ丼。650円。漬物は自家製。てんぷらはニンジン葉です
相生食堂の前景。食後にもらったヤクルトと

映画まで時間があったので、いつもの富士アイスでソフトクリーム。
150円です。

海野町商店街の富士アイスにて

信州第三の町・上田に残る産業遺産。

表通りの裏側から蔵造りの倉庫を撮る
今は閉店した倉庫兼商店の建物
旅館の建物。「日本ボロ宿紀行」にも紹介されました

街角点描。
個性豊かな町、上田の街角。
さりげない風景の中に得もいわれぬ個性がにじむ。

古いゲーム機専門のゲームセンター。ローカルテレビで紹介されていました
ピザの看板がかかっていますが、揚げパンがおいしいテイクアウト店

上田には信州大学の繊維学部があります。

明治創設の上田蚕糸専門学校が母体。国立大唯一の繊維学部
信州大学は松本に本部を置くが、長野、伊那などに分かれて学部が存在する

県内で累計200人ほどの感染状況ですが、コロナ下の上田の飲食店街の現状です。

ここで昼食を食べたかったが・・・。

ジーン・セバーグという女優

ジーン・セバーグという女優がいました。
「悲しみよこんにちは」(1957年オットー・プレミンジャー監督)のセシルカット姿、「勝手にしやがれ」(1959年ジャン₌リュック・ゴダール監督)を颯爽と駆け抜けるミューズで、世に映画文化が残る限りその存在を永遠に刻印するであろう、アメリカ人女優です。

ジーン・セバーグ

極私的なジーン・セバーグ

山小舎おじさんにとってのジーン・セバーグは、テレビの映画劇場で観た「悲しみよこんにちは」、16ミリ上映会で観た「勝手にしやがれ」がすべてです。
子供の頃に「ペンチャーワゴン」(1969年ジョシュア・ローガン監督)を映画館で観ていますが、残念ながら長尺のにぎやかな西部劇ミュージカルだったこと、リー・マービンの存在が強烈だったことしか覚えていません。(この作品には、セバーグのほかにクリント・イーストウッドも出ていたらしい)。

なんといっても「勝手にしやがれ」の主演女優だったことが、彼女に対しての印象の80パーセントを占めています。
映画史上の一大ムーブメントだったヌーベルバーグの旗手であるゴダールの代表作にて主演・ジャン₌ポール・ベルモンドの相手役を務めたのですから。

生き生きとした若々しい彼女がヌーベルバーグ勃興期の記念すべき代表作にさっそうと登場した姿。
ゴダール映画らしく突然ストーリーの中から消えていった姿。
ヌーベルバーグとの、否、映画史とジーン・セバーグとの運命的、歴史的な邂逅の瞬間でした。

「勝手にしやがれ」ジャン・ポール・ベルモンドと

ギャリー・マッギー著「ジーン・セバーグ」

セバーグの評伝が出ていた。
3500円の定価。
西荻窪の古書店・音羽館に2200円で出ていたので買った。
山小舎おじさんにとっての大枚です。

評伝表紙

セバーグの生い立ちから早すぎるその死までを、両親、兄弟、恩師、結婚相手などなど多数の関係者に取材してまとめた労作です。

アメリカの中西部・アイオワ州の田舎町に生まれ、チャンスを得て「聖女ジャンヌ・ダーク」(1957年オットー・プレミンジャー監督)で主演デビュー。

初期作品の不評などにより、ハリウッドメジャーでの活躍歴は少ないが、フランス人弁護士との結婚によりフランスを拠点に映画のキャリアを重ねてゆく。
後に生涯のパートナーともいえる、作家のロマン・ギャリと再婚。

一方、彼女が持って生まれた弱者に寄りそう正義感に満ちた性格により、ブラックパンサー運動を支援して、FBIから要注意人物として生涯マークされることになる。
1979年車の中で死体で発見される。

同著ではセバーグとフランスの深い関係性を表すエピソードに触れることができる。

「聖女ジャンヌ・ダーク」

「悲しみよこんにちは」が公開された当時。
ヌーベルバーグをしょって立つ若手監督の出身母体だった映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の表紙を彼女が飾り、同誌の主筆の一人フランソワ・トリュフォーがセバーグを「映画の新女神降臨」と絶賛したこと。

後にセバーグ自身が、トリュフォーの新作「華氏451」(1966年)に出演を希望したがかなわなかったこと。

こんどは、トリュフォーの代表作の一つになった「アメリカの夜」(1973年)の撮影に際し、トリュフォーが主演にセバーグを考え、連絡を取ったがつながらなかったこと。

ジャン=リュック・ゴダールと(下)

スターの持つ輝き

スターの輝きというものは不思議というか特別なもので、どんなに古い、モノクロフィルムでも、スターの輝き・オーラというものが時空を超越して画面に現れることがあります。

「晩春」(1949年)ほかの原節子、「弥太郎笠」(1952年)の岸恵子、「素直な悪女」(1956年)のブリジット・バルドー・・・。
男優では、「おしどり駕籠」(1958年)の中村錦之助・・・。

観ている方が驚くのですが、彼女たちがが登場した瞬間、スクリーンからその存在がまぶしくきらめいたのでした。

youtubeで、ジーン・セバーグが「聖女ジャンヌダーク」に出たときのオーデイションフィルムを見たことがあります。
17歳の彼女が「ジーン・セバーグです」と微笑みながら自己紹介する姿が映っていたモノクロフィルムからは、間違いなくスターという特別な存在だけが持つ輝きが放射されていました。

デヴュー当時
「悲しみよこんにちは」撮影時

「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」を読む(下)

ハリウッドと米国の40年代を俯瞰する大冊を読み終えました。

当時を過ごした米国人ならではの、また名字から察するに、ドイツか東欧にルーツを持つおそらくユダヤ系の著者(オットー・フリードリック)ならではの、「距離感」がキープされた、批評精神に満ちた一冊でした。

本書後半のテーマは歴史の潮流に翻弄された、ハリウッドとそこに依拠する芸術家たちの顛末になります。

1940年代後半のアメリカの歴史潮流は、冷戦時代を背景にした、ルーズベルトのニューディール政策など容共的な姿勢からの反動をベースにしたもので、反米活動的なものの摘発が盛んだったようです。

ハリウッドでは後にマッカーシズムとも赤狩りともいわれる、いわゆる「非米活動」の摘発が下院で繰り広げられ、また社会の空気に支配的となり、結果として左翼的(具体的にはアメリカ共産党員か、シンパか)な芸術家(映画製作者、監督、脚本化、俳優など)が摘発、投獄されていったのでした。

当初は、MGM、ワーナーなど大手撮影所の「帝王」たちも、言論の自由を武器の観点から、自社の映画製作の自由を宣言しますが、後には共産主義については反対に回ります。

政治家たち(のちの大統領ニクソンもその一人)の執拗な干渉(左派と思しきハリウッド人に対する下院への召喚と証言の強要)の結果、チャールズ・チャップリンン、ベルナルド・ブレヒトは米国を去り、俳優のジェームス・ガーフィールドは失意の死に至ります。
エドワード・G・ロビンソンも仕事が激減したそうです。
シンパとみなされそうになった、ハンフリー・ボカードは身をひるがえして活動から去ってゆきました。

下院に召喚されたハリウッド人は19人いました。
その中で最も戦闘的でかつ証言を拒否した、10人のハリウッド人(ハリウンドテン)は侮辱罪で投獄されます。
監督のエドワード・ドミトリク、脚本家のドルトン・トランボなどです。
著者のフリードリックは必ずしも彼らハリウッドテンを英雄視せず、同情的でもなく、公聴会で質問をはぐらかすハリウッドテンたちのしたたかさを強調しているのが印象的です。

そうこうしている間に、産業としての映画そのものの凋落傾向が見えてきます。
大手撮影所がヒットを生む企画に往生し、ならばと有力芸術家たちが立ち上げたいわゆる独立プロダクションでも、例えば名作「素晴らしき哉・人生」を製作したフランク・キャプラらのプロダクションが破産しています。
ほかの独立プロは推して知るべしでした。

独禁法違反でブロックブッキングシステム(映画制作会社が末端の映画館までを直営支配する構造)が摘発され,大手映画会社の凋落を後押しします。

40年代終盤にはこうした凋落の打開策として、聖書を題材にした大作が企画され、「サムソンとデリラ」「クオバデイス」などが製作されますが大勢に影響はありませんでした。

こうした時代の潮流の中、本書の著者は、チャップリン、イングリッド・バークマン、ビリー・ワイルダーなどの映画人にスポットを当てています。

チャップリンについては、本人が『いかに見栄っ張りで単純でセンチで様々な知的な罪を犯そうとも、ハリウッドのどの作家にまして時代の核となる問題を把握し、映画で正しく評価することをやってのけた』としています。
言うまでもなく「モダンタイムス」から「独裁者」「殺人狂時代」の製作を評価してのことでしょう。

イタリアの監督ロベルト・ロッセリーニの下へ走ったバークマンの行いがいかにハリウッド人に理解されなかったか(彼らは、バークマンには関心と興味があったものの、彼女が愛したロッセリーニの「戦火のかなた」「無防備都市」には全く興味を示さず、理解の対処外だった)についても淡々と述べています。

名匠の名高いビリー・ワイルダーが「失われた週末」の成功に続いて製作した「サンセット大通り」についてのエピソードにも章を割いています。
著者によるとワイルダーは『人間嫌いで、死を連想させる不気味な感性を持ち、冷酷で粗暴』だそうです。
それくらいの個性でないとハリウッドでのし上がり、生き残っていけないのでしょう。
もちろん有り余る才能は当然として。

ある意味で映画史のエッセンスともいえる1940年代前後のハリウッド通史です。

この本は、日本人の映画評論家には書けないし、書きたくても情報を持っていない題材に満ちたところの「10年間のハリウッドにおける全事象についての論評」です。
生々しいエピソードの数々もさることながら、その背景に切り込んだ筆致により、ハリウッドの否映画という文化の本質と流れに理解が至ります。
目から鱗が落ちる思いで読みました。

「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」を読む(上)

三鷹駅北口の水中書店という古本屋で800円で購入した本を読んでいます。
599ページの大冊で、本体定価3,689円1994年初版の文芸春秋社刊の翻訳本「ハリウッド帝国の興亡」です。

小中学生時代に、リバイバル上映で「80日間世界一周」や「エデンの東」「シェーン」などを映画館で観て映画に心惹かれ、長じては生意気に監督別に作品を追っかけたりしてきた山小屋おじさんの映画人生ですが、齢を越えてようやく映画を「線」で観ようと思い立ちました。

個別の作品に感動したり、好きなスターや監督作品を追いかけるのが、「点」で観るということならば、映画の歴史の流れにのっとった形で作品を選択・鑑賞するのが「線」で観るということだと、遅まきながら気づいたのです。

名画座・渋谷シネマヴェーラではずいぶん前から「映画史上の名作特集」というのをやっていて、サイレント時代の「イントレランス」(1916年)から50年代の作品までデジタル上映しています。
当初は、翻訳なしの素材をやっていましたが、今では自前で翻訳しているようで、歴史上の名作を系統的に(フィルムノワール特集、ミュージカル特集、サイレント時代特集など)上映しています。

最初はこれらの古い名作群のラインナップに心が動かなかったのですが、フィルムノワール特集などで1,2本観てみるとそこには実に味わい深いものがありました。
「夜の人々」(1948年)、「ハイシエラ」(1941年)といった作品は、映画の原点ともいうべき要素が詰まっており、見ごたえがありました。

思い返してみると、おじさんが小学生後半から高校生にかけてテレビの古い洋画放送を観たときも、様々な作品に感動したものでした。
当時は淀川長治さん解説の日曜洋画画劇場のほか、金曜、土曜の夜、日曜の昼間、平日の昼間などに洋画放送があり、そこで数々の映画に接したものでした。

テレビで数々の作品にアトランダムに接したことは財産になりました。
「我が谷は緑なりき」(1941年)、「私は死にたくない」(1958年)、「アパートの鍵貸します」(1960年)、「終身犯」(1962年)などをの作品を思い出します。

ということで、山小屋おじさん、映画鑑賞人生50年の膨大な時間をブラウン管とスクリーンにかけてたどり着いたのが、1940、50年代のアメリカ映画(特にフィルムノワールと呼ばれる分野)と大蔵貢時代の新東宝映画、という魅力的な?「2大分野」です。
映画の歴史という「線」の中で浮かび上がってきた二つの「黄金の時間帯」です。

特に40年代のフィルムノワールがアメリカの映画界で生まれた歴史上の必然や、日本では知られていなかった作品群を知りたいなと思い、関連する本なども探してみたのです。40,50年代のアメリカ映画を「線」上で観るための参考書が欲しかったのです。

そんな時に見つかったのが「ハリウッド帝国の興亡」でした。

著者のオットー・フリードリックという人は1929年生まれ。40年代の映画はボストンでの学生時代に週2、3回観ており、イングリッド・バーグマンの大ファンで、ロナルド・レーガンが死を演じる場面には涙を禁じ得ない、との自己紹介。

本著作では40年代を各年ごとに章で区切り、著者が選んだエピソードを、辛辣な批評を加えるかたちでピックアップしています。
関係者にインタビューなどはせず、文献を漁ってまとめる手法で、矛盾するエピソードも並立に示して、全盛期のハリウッドの歴史、つまりは映画そのものの歴史についてつづっています。

前半の1945年までを読みましたが、そこでつづられているエピソードは、例えば・・・。

ハリウッドの撮影所で絶対的な帝王として君臨するプロデユーサー達。
MGMのルイス・B・メイヤー、ワーナーのジャック・ワーナー、パラマウントのアドルフ・ズーカー、20世紀フォックスのダリル・F・ザナックなど。

⇒ロシヤや東欧出身で、屑屋や職人から身を起こしたそうした初代「帝王」たちの無知ぶりと暴君ぶり。
ジャック・ワーナーは靴職人時代からの癖で、撮影所内を歩いていても釘が落ちていると拾ってくわえていた、など。

⇒コロンビアの「帝王」ハリー・コーンのオフィスにはイタリアファシスト党の党首・ムソリーニの肖像画かかっていたり、MGMの「帝王」メイヤーのオフィスは、レザー張りの壁、4台の電話、暖炉、グランドピアノがすべて白で統一されていたそうです。

とにかく「帝王」たちは、『独りよがりで、無学、貪欲、冷酷で人をだます』人たちだった、とあります。
著者の「帝王」たちに対する姿勢には妥協も忖度もありません。
経営者たちの実像を描くことは、夢の工場と言われたハリウッドの産業としての映画のある意味での背景というか実像に迫ることでもあります。

戦前にドイツから亡命してハリウッドにたどり着いた映画人たち。
フリッツ・ラング、ビリー・ワイルダー、ロバート・シオドマークなど。

⇒フリッツ・ラングのハリウッドにおける成功。
「激怒」(1936年)がヒットして以降、ドイツ人でもアクション映画が撮れると認められたこと。
ビリー・ワイルダーのハリウッドにおけるあくなき成り上がり。

亡命してきた文化人たちのこと。
トーマス・マン(文学)、アーノルド・シェーンベルグ(音楽)、ベルナルド・ブレヒト(演劇)達とその顛末。

⇒なぜかハリウッド周辺にたどり着いた彼ら文化人亡命者。
その多くは祖国での栄光に比して、最後までみじめな境遇にあったこと。

ハリウッドのスタッフ組合と、ロシア移民のチンピラだった、ウイリー・ビオツという組合ゴロの顛末。

⇒チンピラ上りが組合のボスを買収し、ストをチラつかせるなどして会社側をゆすり、のし上がっていった末の悲惨な終焉。

戦争時におけるハリウッド人たちのふるまい。

⇒戦時債券を買った人にキスでお礼するヘデイ・ラマールとラナ・ターナーと、軍隊慰問に特化してゆくボブ・ホープのことなど。

10万ドルの予算で年1本を自由に制作できる破格の条件でRKOというハリウッドの弱小スタジオに乗り込んだ23歳のオーソン・ウエルズが、ジョージ・シェーファーというプロデユーサーの後ろ盾を得て、「市民ケーン」を製作公開するまでの手練手管。

⇒モデルとなった新聞王・ハーストに批判的だとバッシングの中、ウエルズは「テスト」と称してカメラを回し撮影を敢行。
作品完成後は、敵対陣営からの高額でのネガの買取り申込みをシェーファーが謝絶。
作品公開直後にRKOが買収され、制作者:シェーファー、監督:ウエルズともに、RKOを追放されるまでのわずかの間に、「市民ケーン」という映画史上のベストワン作品(ウエルズが思うままに作った最初で最後の映画)が生まれたことの奇跡。

俳優、スタッフを7年間縛り続けるハリウッド独特の契約システムと数々の犠牲者たちとその反撃。

⇒奴隷的契約に風穴を開けた、ワーナーに対するオリビア・デ・ハビランドの抵抗。

・ハリウッドの「帝王」たちが、末端の映画館までを経済的に支配した「ブロックブッキング」は1939年に独禁法違反となっていたが、「帝王」たちは無視していた。
そこに1944年司法省の告発が入って「帝国」の独占にひびが入り始める。

・のちの「ハリウッドの赤狩り」の萌芽ともいえる、映画人のいわゆるブラックリストが、撮影所の「帝王」たちによって作り始められた。

著者お気に入りの監督のエピソード。
オットー・プレミンジャー、チャールズ・チャップリン、ジョン・ヒューストン、プレストン・スタージェス達。

⇒これらの監督たちがハリウッドで仕事するに至るまでの様々な経緯と、そのもてる才能のこと。
そして彼らを高額報酬で「囲った」挙句、その才能を換骨奪胎せんとする、撮影所の「帝王」たちとの闘いと往々にしての敗退。

著者お気に入りのスターのエピソード。
リタ・ヘイワース、エロール・フリン、バーグマン、レーガンなどについての様々なこと。

⇒スペイン人の父を持ち、黒々とした巻毛の少女が、直毛の赤毛に直して芸名をリタ・ヘイワースとし、「カバーガール」(1943年)で女神になるまで、など。

以上、基本的に著者の好みに寄った選別でつづられるエピソードではありますが、リアルタイムに歴史に接してきた記述には臨場感があります。
といっても著者はハリウッドに暮らしていた、いわゆる関係者ではないので皮肉と辛らつを込めた距離感もあります。

ハリウッドのスキャンダルと言えば、写真をメインに、チャップリンやエロール・フリンなどのスキャンダルを集めた「ハリウッドバビロン」という本もありました。

本作もスキャンダルを扱ってはいますが、歴史、政治、芸術性の流れを見失うことなく、独特のユーモアある筆致が魅力的です。

本の後半が楽しみです。

「石井輝男キングオブカルトの猛襲」VOL.3 最終兵器「直撃地獄拳・大逆転」

というわけで、ラピュタ阿佐ヶ谷の石井輝男監督特集も最終週。
今回は伝説のハチャメチャ空手映画「直撃地獄拳・大逆転」(1974年東映)を観に行ってきました。

実は前日に、この作品を観ようとラピュタを訪れた山小屋おじさん。
4番目で入場できる券を買い、昼食へと外へ出た。
13時開映と思い込み、ラピュタへ戻ったのが12時45分頃。
そこでは、平日の初回とはいえ誰もいないロビーで、スタッフのお兄さんが一人、次回特集の看板用ポスターを繋ぎ合わせていました。

13時上映と思い込んでいたおじさんは、開映10分前に「10分前だけど?」とお兄さんに声をかけましたが、帰ってきた言葉は「12:30から始まってます」。
おじさんは焦ったが、すでに上映開始を30分近くも過ぎており、入場は不可。

結局は入場料を払い戻してくれましたが、ラピュタのスタッフには大変なご迷惑。
さぞ、思い込みの激しいクレーマー爺め、と思ったことでしょう。お手数かけました。

これが老化というものか・・・。
自分のせいとはわかりつつも、おじさん自身にもショックな出来事。

折からロビーへやってきた、人生の先輩と思しき70がらみの御仁と雑談して心を落ち着ける。
先輩はバスの無料パスを駆使して、都内の劇場をめぐるのがご趣味とのこと。
三山ひろしなどの演歌歌手が座長を務める講演や、会員パスを使っての映画鑑賞がターゲットで、この日も池袋の文芸座に高峰秀子特集を観に行ったものの番組が変わっており、池袋から中野行きのバスに乗って阿佐ヶ谷まで来たとのこと。

インターネットは使わないので、もっぱらビラを集めて鑑賞のスケジューリングをしているとのことで、山小屋おじさんにも演歌講演や文芸座のビラをくれました。

この先輩との雑談で、この度の「ショック」もどうにか和らいだ山小屋おじさん。
出直しの阿佐ヶ谷駅へと向かう元気が出たものでした。

殻に閉じこもりがちな映画ファンとの雑談は、旧知の間柄でもなくてはほとんどありえないもの。
対話に応じてくれた先輩には感謝のみ。
気を付けてお過ごしください。

さて翌日懲りずにラピュタへ。
今度こそ12:30分の上映開始に間に合うようにロビーへ。

「直撃地獄拳・大逆転」。
シリーズ第1作目の好評を受けて石井監督が受けざるを得なかった作品とのこと。
内容のハチャメチャ具合がすべてを物語っています。

たとえ監督さんの希望の企画ではなくても、プロならばメッセージ性を付与するなりして仕上げるところ、本作にはそういったものがほとんど見られません。
当時空手アクションでバリバリだった、千葉真一のアクションはたっぷりフューチャーしているものの、後の時間はおふざけと楽屋落ちに終始しています。

その楽屋落ちに付き合うのが、丹波哲郎、嵐寛十郎といった、石井組の重鎮たちなのですから、監督の不思議な魅力こそおそるべしです。
ラピュタの石井監督特集の最終兵器として、満を持しての上映です。

主演の千葉真一は、「仁義なき戦い・広島死闘篇」(1973年)で仁義もくそもない凶暴なやくざを演じ、鮮烈に芸域を広げていたものの、本作ではそれまでのヒーロー路線に戻っている。
というか、千葉ちゃんには折からの空手映画ブームをけん引する一連のシリーズ(「殺人拳」「ボデイガード牙」)という、いわば「本業」があるということでしょう。
アクションの切れはすさまじいものがあります。

ヒロインは東映入社2年目の中島ゆたか。
貴重な22歳の時の出演です。
1970年代、映画の時代は退潮をを迎え、この女優さんの代表作ともいうべき作品を残しえなかったのは残念です。

中島ゆたかと同クラスでクレジットされているのが、悦っちゃんこと志穂美悦子。
思えば「帰ってきた女必殺拳」(1975年)で彼女のアクションをスクリーンで初めて見たときは、その激しさ、華麗さ、りりしさが鮮烈に目に焼き付いたものでした。

本作ではラストで華麗なアクションを披露します。
久しぶりに彼女のアクションをスクリーンで観て目が覚める思いでした。
気合の入った掛け声がいいですね。

余談ですが後に長渕剛と結婚した悦っちゃん。
長渕が体を鍛えるようになった原因は、夫婦げんかの度にぼこぼこにされる長渕が、悦っちゃんに対抗しようとしたからだ、という話さえあります。

ということで、石井輝男監督特集が終わりました。
新東宝から東映に移り、活劇に独特なテンポを持ち込み、「地帯シリーズ」などに結実。
題材に、戦後闇市から、三国人との争い、麻薬や人身売買、香港マカオといったアングラなテーマを選び、その遊び心と好奇心はのちの、東映異常性愛路線につながります。

この間、「網走番外地」などのヒット作も連発。
松竹、日活にも招かれて腕を披露しています。

新東宝時代からの吉田輝夫、三原葉子、嵐寛十郎、丹波哲郎をはじめ、東映時代の小池朝雄から近年の岡田奈々まで、お気に入りの役者というか石井組の常連がいるもの特色。

日本映画の歴史の1ページを彩る個性的な映画監督です。

ラピュタ阿佐ヶ谷、モーニングショウの女優特集は、「江利チエミ」でした。

フィルムノワールの世界

フィルムノワールという映画のジャンルがあります。
直訳すると暗黒映画ということになります。

イメージ的には、1940年代のモノクロスタンダードサイズのアメリカ映画で、犯罪的だったり退廃的だったりする登場人物が、必然的にもしくは自業自得として犯罪行為を行い、これまた必然的に破滅へと向かう物語です。

当時流行した探偵・犯罪小説家だった、レイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメット、ジェームス・M・ケインなどの原作物の映画化が多く見られます。

派手にマシンガンを撃ち合うギャングものというよりは、ひっそりと裏街道に潜む市井の人物が、仲間の犯罪集団や悪女の誘惑にあらがえず、自滅してゆくという宿命的なドラマが特徴です。

年末年始にわたり、渋谷シネマヴェーラという名画座で、「フィルム・ノワールⅢ」という特集があり、何本か観ることができました。

「殺人者」1946年 ロバート・シオドマーク監督

スターになる前のバート・ランカスターとエヴァ・ガードナーの主演作です。

監督はドイツからの亡命者・シオドマーク。
代表作は、ドロシー・マクガイアが盲目の少女を演じるスリラー「らせん階段」(1945年)でしょうか。

夜や闇の撮影が上手いイメージの映画です。

ガードナー扮する悪女に振り回されるこれまた悪人のランカスターが自滅してゆく物語。
悪女はもちろん、悪人ながら主人公のランカスターにもほとんど感情移入を許さない乾いたタッチの作品です。

この作品のエヴァ・ガードナーのスチールを見てから、気になっていた映画でした。
後の大女優は、若々しいものの、すでに貫禄が感じられました。

「ガラスの鍵」1942年 原作:ダシール・ハメット

元祖「奥様は魔女」(1942年)のヴェロニカ・レイクを観たかったのです。
レイクはコメデイーを含め、様々な役柄に扮しており、また共演のアラン・ラッドとコンビで売り出されていたようです。

本作はノワール調は控えめで、レイクも完全な悪女ではありません。
むしろスピーデイーな身のこなしのラッドの颯爽ぶりを見る作品なのかもしれません。
レイクは様々なファッションに身を包んで登場します。

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」1946年 原作:ジェームス・M・ケイン

完璧な美女だが下品さを隠し切れない悪女、ラナ・ターナー。
悪女と会った瞬間に自分と同類であることを知り、宿命的に破滅してゆく半端者、ジョン・ガーフィールド。

場末のドライブインを舞台に救いのないノワールな世界が繰り広げられる。

3度目の映画化だが特に悪女役は、ラナ・ターナーを置いて他にありえないと思わせる適役。
原作の退廃性、犯罪性、をすべて彼女が体現している。

撮影がどうこうより、ストーリーがどうこうより、ラナ・ターナーの存在そのものがノワールな記念碑的な作品だと思います。

「ハイ・シエラ」1941年 ラオール・ウォルシュ監督

ノワールとかなんとかの枠を超えた傑作だと思います。

登場人物が全員、犯罪者であったり日陰者だったりするところは「ノワール」です。

必ずしも退廃的ではない日陰者たちの性格描写にも力がはいっており、様々な伏線を巡らせながら、ラストの破滅に向かってテンポよくドラマが進みます。

最終的には犯罪者でありながら人間性に優れた主人公と、日陰者でありながら主人公の人間性に惹かれるヒロインの、破滅への道行きにドラマが収斂。

「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」など、いわゆる『ボーイ&キーチもの』と呼ばれる一連の作品の基調をなす、イノセントな犯罪カップルの破滅への逃避行がこの作品のハイライトです。

ハイウエイをぶっ飛ばしてのパトカーとのカーチェイスのほか、長距離バスでの逃避行シーン。
これに簡易結婚式場での結婚シーンが加われば、「夜の人々」「拳銃魔」とシチュエーションが重なります。

ヒロインのキャラクターの健気さ(不幸な環境、しっかり者、家事もこなす)は「夜の人々」のヒロイン像と重なります。
そう、前3作と異なり、観客の感情移入を許す主人公像がこの作品にはありました。

主人公役はこれが出世作となった、ハンフリー・ボガート。ヒロイン役はのちの「エデンの東」(1955年)でジェームス・デイーンの実母の女郎屋の女主をやった、アイダ・ルピノです。

平凡社新書「ハリウッド100年史講義」を読む

上記の新書を読みました。
副題に「夢の工場から夢の王国へ」とあります。

映画産業の通史という映画史研究家の本はほとんど読んだことがなかったので貴重な経験でした。

この本を読むと、映画というものがいかに工業的な発展とともに進化してきたか、また見世物という人間の根源に訴えかける「即物的な」装置なのかがわかります。

また、映画の工業性、即物性に着目し、徹底してそれに倣い発展して来たハリウッドが昔も今も映画というジャンルの発信源であることも。

映画という光学的な装置による表現手段は、1895年にフランスで生まれました。

その後の発展は、いわれるようなエジソン一人による発明に基づくものではなかったようです。

様々な手によって工学的にも発展していった映画は、興行的な出し物として圧倒的な人気を博し、全米にニッケルオデオンと言われる庶民向けの急ごしらえの上映劇場が展開するに至ります。

この時代のニッケルオデオンの興行主たちが、のちのハリウッドメジャーの立役者たちになってゆくのです。

映画製作の現場では、後に「ハリウッドの父」と呼ばれたD・W・グリフィスが、制作現場での分業化をすすめ、監督、脚本、撮影、照明などの役割分担を明確にしました。

グリフィスは、サイレント時代のハリウッド畢竟の大作「イントレランス」(1916年)を撮ったことで映画史に永久にその名を残します。

必ずしもグリフィス一人の創造ではないものの、ロングショット、クローズアップなどの撮影技法、ロケーションなど今に至る映画技法が確立されたのもこの時期でした。

第一次大戦後の1920年代、娯楽産業として急成長した映画産業に銀行などからの投資が集中しその資本規模と観客動員数を伸ばしてゆきます。

この間、フォックス、MGMなどの映画製作会社は、興行収益の最大化を図るため、映画館の買収などをおこないます。映画産業が、制作から、配給、上映までを統合したものとなり、映画に関する収益がすべて映画会社に収斂するようになってゆきます。

制作現場では、スターと呼ばれる出演者のほかに、政治的な背景を持った監督(ドイツなどからの亡命者)などが才能を発揮し、全権を把握するプロデューサーが大立者としての幅を利かせます。

喜劇のほか、メロドラマ、犯罪もの、ミュージカルなどのジャンルが生まれ、また現在の作品でも見られる様々な映画技法が生まれます。

この間、一貫してハリウッドが忘れなかったのが、「見世物としての映画」という精神です。

通俗的な題材の重要性から、トーキー、カラー、ワイドスクリーン、CGにいたる技術的発展の背景にまでその精神は一貫しています。
だからこそハリウッドは映画産業の中心でいられたのです。

1960年代の大作主義とその反省から、現在のハリウッドは関連業種とのタイアップ。
つまり事前の大量宣伝、関連商品、ソフトの販売、テレビ放送などなどにより、興行的なリスクは狭小化され、映画産業は巨大な収益事業となっています。
映画そのものの興行収益は、関連事業収益の1から2割程度でさえあるのです。

いつしか辣腕プロデユーサーが幅を利かせた時代は終わり、映画会社が配給、上映までを統合経営していた時代も終わり、作品ごとに関連会社と連携してビジネスを行う、という方向に変わっています。

かつては場末の粗末な劇場で来訪者を待っていた映画産業が、現在では劇場に来ようと来まいと、人々がブームに引きずり込まれ、自動的になにがしかの金銭を吸い上げれんばかりの一大装置になってしまった、というのは言い過ぎでしょうか。

制作本数だけではハリウッドを越えるインドのような国もあります。
が、見世物性と不即不離であり、かつ資本や商業性との親和性に富んだ映画というものと、アメリカという国は宿命ともいうべき共通性に満ち満ちており、映画はすなわちハリウッドだとつくづく思わざるを得ません。

「ハリウッド100年史講義」はそのことを理路整然と通史的に教えてくれました。

「石井輝男キングオブカルトの猛襲」VOL.2 「女王蜂と大学の竜」他を観る

名画座・ラピュタ阿佐ヶ谷で年をまたいで催されている石井輝男監督特集。

先回報告の「戦場のなでしこ」の後、「女体渦巻島」(1960年・新東宝)、「神火101・殺しの用心棒」(1966年・松竹)、「女王蜂と大学の竜」(1960年・新東宝)、「緋ぢりめん博徒」(1972年・東映)と映画館に駆けつけてきました。

石井輝男という映画監督、専属だった新東宝倒産のあとは、東映をベースに松竹、日活と招かれて作品を作っており、単なるカルト系のマニアックな映画監督ではなく、職人としての腕が映画会社全般に買われていることがわかります。

かといって、娯楽的ストーリーをそつなくまとめるだけの監督では全くありません。
それは作品の主題やちりばめられたエピソードを観れば一目瞭然です。

例えば「女体渦巻島」の舞台は対馬で、そこで行われている麻薬と人身売買が背景となっています。

麻薬はともかく、戦後に対馬で日本人が人身売買されていたのかどうかはわかりません。

とはいえ、古くは戦国時代から戦前まで続く、日本人奴隷とからゆきさんの歴史を見ると、占領時代から朝鮮戦争へと続くどさくさの時代の玄界灘の離島にあっては無きにしも非ずと思わせる題材です。

同じく1960年の新東宝作品「女王蜂と大学の竜」ではその背景が戦後闇市時代で、やくざと三国人の抗争が主なエピソードとなっています。

これまた、現在では微妙な題材と言わざるを得ません。

中国訛りのある悪役というのは、藤村有弘から小沢昭一に至るまでカリカチュアライズされた正体不明の悪役像でしたが、今でも可能な描写かどうか?

また、東映では「仁義なき戦い」(1972年・深作欣二監督)、「実録・私設銀座警察」(1973年・佐藤純弥監督)などで闇市における三国人と、日本人やくざもしくは特攻崩れの若者との暴力沙汰が描写されていましたが、今では無理でしょう。

「女王蜂と大学の竜」ではトラックに乗って押し寄せる三国人と、機関銃を備えて迎え撃つ(不発でした)やくざという場面が正面から描かれています。
戦後の渋谷では同様の抗争事件があったのが歴史上の事実です。

この作品では、三国人との抗争が、負の歴史として苦渋に満ちた描写ではなく、無国籍なアクション映画のように軽快明瞭に描写されています。

もうこういう映像は制作されないのじゃないでしょうか。
現在ではタブーへの挑戦になってしまいます。

闇市のセットの念の入りようといい、「女王蜂と大学の竜」には戦後直後の日本の風景の再現という意味で、文化遺産的な価値、をさえ感じてしまう山小屋おじさんです。

また、本作には三原葉子の着流し女やくざに「緋牡丹博徒」の原点があったり、嵐寛十郎が立ち回りでバラセンに巻かれるサディステックなシーンがあったりなど、随所に石井輝男監督の非凡なセンスと独特の好みが見られます。

全体を通して、流動的な時代背景を舞台に、伝統を引きずるやくざの親分(嵐寛十郎)と、自由自在に躍動する若い主人公(吉田輝夫、三原葉子)が三国人相手に大暴れするという映画です。
エピソードも盛りだくさんで、新東宝作品らしい場末感に満ち満ちています。
久しぶりに「明るい・前向きな」映画を観た、とおじさんは思いました。

ちなみにラピュタ阿佐ヶ谷における新東宝作品は、フィルムセンターからの貸し出しによるそうです。
渋谷のシネマヴェーラは、新東宝作品の管理会社から直接貸し出してもらえるそうですが、内情はわかりません。

「神火101・殺しの用心棒」は、ヌーベルバーグを経て混迷期に入った、60年代の松竹に呼ばれて石井監督が作った作品の一つで、香港が舞台です。
若き日の竹脇無我が後年とは違った軽々しさを発揮して、監督のタッチとマッチしています。
現在ではほとんど上映機会のない作品で、貴重な上映でした。

この作品でも背景に、中国の海上民である、虱民と彼らが暮らすサンパンの群れを描写するところに石井監督らしさがありました。
今は一掃されているであろう、虱民の風景だけでも貴重な映画なのかもしれません。

藤純子の後継者に予定していた中村英子という女優売り出しのための「緋ぢりめん博徒」は、中村英子の非力もあり全く様にならない作品となっていました。
出てきた若い女優がことごとく様になっておりませんでしたが、その中では盲目の仕込み杖使いに扮した、藤浩子という女優の暗闇での立ち回りのシーンが雰囲気が出ていました。

中村英子は「仁義なき戦い」で梅宮辰男扮する悪魔のキューピー・大西の情婦役をやり、短い登場時間でしたが印象深かったです。
この人は、のちに山口組三代目の田岡組長の子息と結婚。
一子を設けた後自殺しています。

「仁義なき戦いシリーズ」は、既成の女優を別人のように輝かせる舞台でした。
中村英子のほかに、梶芽衣子、池玲子などが印象印に残っています。
これに「仁義の墓場」の多岐川裕美、「人切り与太」の渚まゆみを加えると、深作欣二監督の女優の活かし方には刮目せざるを得ません。

いずれの作品も女優さんを無理にフーチャーするのではなく、無茶苦茶する男どものあくまでも脇として使い、理不尽な状況の中で耐える女の魅力を引き出していることに気づきます。
耐えるだけではなく、控えめながらも状況に抵抗する彼女たちの哀れにも凛とした姿が忘れられません。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーでは往年の映画スターのプロマイドが売られています。女優さんの写真はよく売れるそうです。

ロビー奥には書籍コーナーもあります。