八ヶ岳美術館と井戸尻考古館

秋の半日、原村と富士見町にある美術館と博物館を訪ねた。

八ヶ岳美術館、原村歴史資料館

まず、原村にある八ヶ岳美術館へ。
原村中心部から八ヶ岳山麓方面へ上ってゆく。
八ヶ岳連峰の赤岳登山口の美濃戸の近く、御柱が山出しされる道の近くに目指す美術館がある。

この美術館は、原村出身の彫刻家・清水多嘉示の作品収納展示のために作られた村立の美術館。
原村の歴史資料館も兼ねており、むしろそっちの部分への関心のため訪れたのだった。

八ヶ岳の麓、集落は途絶え別荘が点在する森林地帯に美術館はある。
駐車場から入り口までのアプローチが長く、地元の中学の卒業生徒が毎年作っているというブロンズ像が野外に並んでいる。

美術館へのアプローチに立つ中学生の卒業ブロンズ像

入場する。
ほかに2,3組の入場者。

係のお姉さんに写真撮影の可否を聞くと、記入用紙に住所氏名と目的を記入せよとのこと。
目的の記入ですったもんだしているうちにそのお姉さんと話が弾む。

来館目的は美術鑑賞というよりは、縄文遺跡だったり歴史物の展示だというと、「どうして?」と聞かれたので、縄文文化と諏訪の神様の関連性を知りたい、と答える。

「館長さんがいればよかったのに。館長さんは諏訪湖の御神渡りの時にお祓いをする神社の宮司さん。」とのこと。「縄文に関心があるなら、富士見の井戸尻考古館がいい」などとも。

こういった施設の学芸員らしく、縄文や諏訪の神様にも関心の深いそのお姉さん。
話が尽きないので入場する。

館内は、よくある地方の埃っぽい郷土資料館ではなく、芸術家のアトリエっぽい雰囲気。
独特の採光性の良い建物の中にブロンズ像がずらりと並んでいる。
郷土出身の作者のフランス留学時代の写真や手紙の展示が興味をそそる。

肝心の歴史資料関係では縄文土器の常設展示と、この地方の伝統である裂織という織物の特別展示が中心だった。

この施設は美術館というだけあってアトリエのようなしゃれた美術館であった。
また、裂織展のような、地方性に富んだ特別展示にも力を入れており、地方の資料館にありがちな沈滞しきった雰囲気ではなく活気があり、よく整備されている感じがした。

井戸尻考古館、富士見町歴史民俗資料館

美術館を出て、富士見町の井戸尻考古館まで行って見る。

井戸尻考古館は長野県と山梨県の県境に近く、JR信濃境駅からほど近い、井戸尻遺跡にある。

井戸尻考古館入り口

館内は主に遺跡から出土した土器、土偶、石器などが展示されている。
考古館の入り口からは山梨方面に山並みが広がり、富士山も遠望される。
絶好のロケーションであり、ここで暮らした縄文人をうらやましく思う。

考古館入り口より望む展望

物言わぬ土器や石器にはいまいちロマンを感じることができない山小舎おじさんだが、土偶も含めこれらの物量が、何千年後かに出土した遺跡というものの存在感に思いをはせることはできる。

展示物。竪穴住居復元模型

隣の胸の歴史民俗資料館へ。

予想通り、農機具のほか、江戸時代以降の生活用具が展示されている。
目を引くのが当時の農家の家屋の復元模型。
また、昔のチェーンソーや薄い板を引くことができるのこぎりなどは貴重なものだった。

館内の農家家屋復元模型
初期のチェーンソー
板を縦引きするノコギリ!

明治以降の生活用具の数々には日本人の生活レベルの高さと、当時の地方の生活水準の高さがうかがえる。
また、奥の部屋には戦国時代からの刀剣、兜などが展示されており、この地方の歴史の深さを感じることができる。

帰りにJR富士見駅周辺に寄ってみる。
駅前ロータリーには立食いそば店もあり、食堂も並んでいる。
駅から続く商店街も小規模ながら残っており、地元に根付いたいい感じである。
ゆっくりと再訪してみたい富士見駅周辺だった。

今年のスイカ村

松本の農協では毎年夏にスイカ村が開かれています。
今年も行きました。

会場は波田と呼ばれる、松本市郊外のスイカの名産地に立地する農協。
毎年7月中旬から8月上旬にかけて、数軒のスイカ農家が出店を出してスイカ村が開かれ、客が詰め掛けます。

7月下旬のある日、軽トラでスイカ村へ行きました。
土曜日ということで、県外ナンバーの車も目立つ会場。
数軒のスイカ農家がテントを張って出店しています。
人気のある店には客が列を作ります。

山小舎おじさんは毎年買っている店に並びました。
待つまでもなく買えました。
L玉2個で、3,800円。
夏の来客用です。

信州の短い夏の収穫期が始まりました。

善光寺御開帳

7年に一度の善行寺御開帳に行ってきました。

軽トラで山小舎を出発。
上田市真田地区経由、地蔵坂峠を越え、長野市松代地区を抜けて長野市街地へ入りました。

権堂商店街にほど近い駐車場に軽トラを止め、まずは昼飯。
権堂商店街のミニシアター相生座の入り口に近い、蕎麦処とがくしに行きました。

相生座に行くたびに、なんで入り口に蕎麦屋があるのだろう?映画館付属の立食い蕎麦なのだろうか?などと思っていました。
ローカルテレビで紹介されたところによると、界隈で有名な女主が経営する、蕎麦にこだわった店とのことでした。

相生座入り口にあるそば処とがくし

カウンターのみの店内には主の知人らしき年配の女性客が一人いました。

ざるそば大盛を注文しました。
手際よく出てきたのがこの1枚。

大盛にしては少なめ?に見えた分量ですが、食べ応えがありました。
そばといいツユといい洗練された味です。
県内随一の都会、その中心部で歴史を刻んだ店の味です。

食べ終えるころ、観光客らしき中年男女の4人連れが入店しました。
主は知人らしき先客に暖簾の片付けを頼んでいました。

ひとまず腹を満たした山小舎おじさんは、店を出て善光寺へ向かうことにしました。

ざるそば大盛

権堂通り商店街のアーケードは善行寺参道と直交しています。
表参道へ出ると善行寺御開帳を参拝する観光客の姿が目立ちます。

長野市内には御開帳のポスターが

7年に一度行われる善光寺御開帳は、普段は秘仏の本尊を公開し、その手を回向柱とひもでつなげています。
参拝客が回向柱に触れると、本尊のご利益を頂けるというありがたいもの。
全国から参拝客が詰め掛けます。

この日、すでに参拝客の姿は、善行寺から歩いて10分ほどの権堂通あたりまで伸びています。

参道を善光寺に向けて進みます。
仁王門のあたりではあたりの雰囲気が、のんびりしたものから、観光地のそれに変わっています。
日常から非日常への場面転換です。

仁王門
仁王門と山門の間にある門前市

門前の店先にかかると、人数はさらに増えます。
善光寺参道のこのあたりはいつ行っても混んではいますが、御開帳ともなるとさらに賑やかな感じがします。
コロナ明けも近いのでしょうか?

門前市を過ぎると山門

山門を過ぎると善行寺の境内です。
回向柱が見え、参拝客が並んでいます。

法衣に身を包んだ体格のいい御坊さんたちの姿も見えます。

山小舎おじさんも回向柱へと向かう列に並びました。
20メートルほどの列は5分ほどで回向柱へと到着しました。
自身と家族の健康を願って柱へタッチします。

本堂の前には本尊とひもで結ばれた回向柱が立つ
参拝客は回向柱に触れて祈祷

警備員のハンドマイクに追われるように柱を離れ、本堂への階段を上りました。
さらにお参りの列が続いていたのですがこれはパス。
賽銭だけを投げて、本堂からの階段を下りました。

本堂から山門方面を望む

長野といえば善行寺。
民間信仰の長い歴史を感じる場所が長野にはあるのでした。

家族へのお土産は善行寺のだるま

鹿教湯温泉文殊堂御開帳

上田市丸子地区の三才山トンネルふもとに近く、鹿教湯温泉があります。
環境庁指定の国民保養地で、歓楽的要素はない温泉地です。

立ち寄りの、文殊の湯が源泉近くにあり、300円で入浴できるため、寄ることが多い温泉です。

鹿教湯温泉、文殊の湯脇の渓谷

文殊の湯の脇を流れる渓谷には、屋根付きの五台橋という風流な木造の橋が架かっており、紅葉の季節などには温泉地特有の澄んだ空気感とともに、一服の風景画のような風情を醸し出します。

渓谷にかかる五台橋

この五台橋を渡り、崖に穿っている石段を上ると文殊堂があります。

奈良時代に行基により創設されたと伝えられ、現在のお堂は宝永6年(1709年)の竣工。
奈良時代の仏像を本尊とする霊験あらたかなお堂と伝えられます。

26年ぶりの御開帳と聞き、行ってきました。
文殊堂まで登るのは、これで2回目でしょうか。

鹿教湯温泉の無料駐車場に軽トラを止め、入浴道具を持参のうえ、文殊の湯の脇をとおって、五台橋を渡ります。
石段を上ると回向柱が目に入ります。

本堂のご本尊とひもで結ばれた回向柱に触れるだけでご本尊の霊験に触れることができるといわれます。

回向柱が立つ文殊堂
お堂の奥にご本尊が見える
回向柱に触れる
境内には石の像が並ぶ

参拝客は他に誰もいません。
温泉地特有の峻烈な空気があたりを支配しています。
この感じが霊験といわれるものの感触なのでしょうか。

お参りも早々に、一巡します。
境内のはずれには薬師堂があり、ご利益により病の癒えた人々の感謝の羅漢んが立てられています。

薬師堂
薬師堂わきの羅漢?

境内から下って、文殊の湯に入湯しました。
ぬるめの湯ですが芯から効きます。
いつ来てもいい温泉です。

文殊堂付近の石畳

北国街道 上田宿

北国街道はその昔、信州を南北につなげた街道です。
軽井沢追分で中山道と別れて北上し、上田、善行寺などを経て越後に至りました。
佐渡の金などを江戸に運ぶ重要な道筋だったとのこと。

3月下旬のある日、上田市内に残る北国街道の跡をたどりました。

ヨコの線上を歩く。タテの線は旧上田電鉄線

柳町通

上田市内で最も旧北国街道の姿を残している一角が柳町通です。
銘酒・亀齢の岡崎酒造や味噌醸造所などが残り、往時の風情を残しています。

柳町。左手に岡崎酒造

古い商家をパン屋やカフェなどに転用した店もたくさんあり、シーズンには観光客の姿も多く見られます。
「犬神家の一族」(1976年)のロケ地にもなりました。

岡崎酒造の土間に飾られる江戸時代のひな人形

紺屋町

柳町を左折すると紺屋町という通りが続きます。
城下町には、大手、鍛冶、馬場、紺屋などの町名がつきものですが、上田にも一通りあります。
紺屋町とは染め物職人が集まった一角です。

お城の北側を進みます。

柳町から上紺屋町に左折したあたり

この通り、今では生活道路として住宅街の中に落ち着いており、観光客の姿もまずありません。
往時は軒を連ねていたであろう商家の建物はポツンポツンと残るだけです。

紺屋町には造り酒屋も残る。和田龍酒造
このあたりの民家。奥に長い敷地を木の塀で囲っている

旧北国街道は、現在の常磐城という一帯で右折し、矢出川を渡って現国道18号線に合流します。

矢出川沿いの石垣と古民家

歴史の散歩道

常磐城から右折する北国街道ですが、地図に寄ればこの付近に「歴史の散歩道」なる一角があるようです。

お城の西側に位置するこのあてり、曲がりくねった細道が多く、たまに異様に広い敷地を持つ民家があったりします。

名もしれぬお堂がたたずむ
住民は隣組を組む
お城近くにあった解放会館。休館日だった

花園と上田電鉄

帰りは北国街道沿いを戻るのではなく、赤線があったという旧花園地区を通りました。

バス停には花園の名が残る

明治以降、上田市街地の外側に新地と呼ばれる赤線が作られたとのこと。
その時代には上田電鉄という私鉄が上田駅から、お城のお濠脇をとおり、赤線に近い花園駅までつなげていたとのことです。

上田電鉄はこのほかに、丸子線、別所線を持っていましたが、現在のこっているのは別所線だけです。

上田電鉄花園駅があったあたり

現在の花園あたりは完全な住宅街になっています。
名残は病院名や営業所名に残る「花園」の冠名だけ。
まっすぐな道と、入り口近くの料理屋、鰻屋に特徴を残すくらいです。

赤線入り口があった場所には食堂が残る
赤線といえば鰻屋
電柱には新地の名が残る
この場所に建つ花園病院

一味違う上田の歴史をたどったこの日の散歩でした。

山小舎の初詣

山小屋の〈お正月〉は例年、3月下旬から4月にかけて、です。
今年も3月に地元の神社に初詣をしました。

生島足島神社

信濃の国二ノ宮、日本中央を鎮守下さる古社にお参りします。

今年は7年に一度の御柱祭の年ですが、諏訪地方からは大峠を越えた塩田平にあるこの神社にも御柱祭の看板がありました。

諏訪大社の御柱祭に賛同でもしているのかと思いきや、独自の御柱祭を4月16日から3日間に行うとのことでした。

まずは本殿にお参りです。
3月下旬の肌寒い日のこととて参拝客もほとんどありませんでしたが、いつ来てもおごそかな中に親しみを感じる神社です。

家内安全のお札をもらい、去年のお札を納めます。
ついでに係の人に気になっていたことを伺いました。

「生島足島神社でも御柱祭が行われるのですね?」

こちらにも諏訪神社がありますので。参道に立つ大鳥居のさらに奥に御柱4本が切り出されています。
アカマツです。

「山宮があると聞いたのですが」

山宮は大鳥居の奥の方ですが、私は行ったことがありません。神主さんでも道を迷うほどの場所だそうです。

「2,3年前の9月ころ、神楽殿で巫女さんの舞いを見たのですが」

9月の例大祭の時ですね。
中学生くらいの子が代々引き継いでやっています。
7月にもあります。

境内にある諏訪神社

生島足島神社、大鳥居と御柱

教えてもらった御柱を見に参道をたどった。
田んぼを見下ろす高台に大鳥居が建っている。

参道に立つ大鳥居

遠くからも目立つこの大鳥居。
これまでは、山宮の鳥居なのか?と思っていた。

大鳥居からさらに登ってゆくと、道端に御柱が4本横たわっていた。

御柱が4本用意されていた

この御柱なるもの、諏訪地方の専売特許と思い込んでいたが、この生島足島神社や、上田地方の名のなき神社でも、出発を前に横たわっているのを見ることができた。
地域を問わない信州の風習なのか?信州地方の諏訪神社に特有の風習なのかはこれから確認しよう。

諏訪大社上社本宮

後日、例年通り諏訪大社にもお参りしました。

この日の上社本宮

こちらは御柱祭の本家。
テレビニュースでお馴染みの〈死人が出る〉木落坂は下社に向かう御柱の風景で、上社の御柱は八ヶ岳のふもとから茅野の街を通り、少しなだらかな木落坂を下り、川を渡って下社に着きます。

7年前の御柱が建立されている

今年は木落も、川渡もなし。
八ヶ岳ふもとの待機場から、下社前宮のあたりまでトレーラーで運ばれ、5月の3日間で、里曳き、建立が行われるとのことです。

今年のお札をいただく

立寄り湯めぐりVOL.12 片倉館千人風呂

上諏訪温泉街にある片倉館・千人風呂へ寄ってきました。

諏訪湖畔の一番賑やかな一帯。
旅館や飲食店が立ち並び、遊覧船の船着き場もあります。
JR上諏訪駅からほど近いこの一帯、思えば県内では長野、松本の繁華街に次ぐ賑やかな場所かもしれません。

この場所の一角、高層ホテル群の間に片倉館という施設が残っています。
岡谷で製紙業で財を成した片倉財閥が、従業員と地域住民の福利厚生を目的にした施設で三つの建物があります。
そのうちの一つが地元の上諏訪温泉を引いた千人風呂を備えており、現在では一般客も利用できます。

12月の冬じまいに追われるある日、雨が降って外の作業ができなくなりました。
かねてより気になっていた片倉館千人風呂へ行くことにしました。

諏訪湖畔の風景

12月の平日、天気は不順ながら、交通量の多い諏訪湖畔です。
さすがにそぞろ歩く観光客らの姿は少なく、湖畔の無料駐車場もガラガラではありましたが。

片倉館の3棟の洋風建築は、それぞれが国の重要文化財に指定されています。
隣の敷地には諏訪市立美術館が建っています。
それなりに広い駐車場もあります。

片倉館の建物から美術館方面を見る

千人風呂へ向かいます。
洋風建築の威容をたたえた正面入り口の前に立つと、左側に巨大な煙突も見えます。

玄関を開けるとすぐ靴を脱いで上がります。
古い洋風建築物をリユースした博物館のような建物内部の印象です。
受付で入場料750円を払います。

千人風呂がある建物正面

浴室へ入るとそこは少し年代ががったスーパー銭湯のような造り。
広々とした脱衣場にロッカーが並んでいます。

浴室は広いといえば広いですが、最近では大浴場付きホテルのそれと同じくらいかもしれません。
昭和の時代に団体さんを受け入れた各地の温泉ホテルの大浴場を知っている方々からすると「千人風呂」とはまた大風呂敷な、と思うかもしれない程度の広さです。

浴室内部の様子はパンフレットから

浴室の壁の装飾というか意匠は、洋風というのかローマ風呂風というのか。

思えば、昭和時代なのか、その前からなのか、温泉では浴室を西洋風にデコレートする風潮がありました。
まん丸の浴槽にミロのビーナス風の石像が建ち、石像が持つ甕からお湯が噴き出ていたり、ステンドグラス風の装飾があったり・・・。

かつて山形県最上市の瀬見温泉というところで立寄った旅館の浴室がまさにそうでした。
時代を経過したその風情は、それはそれで非日常的でもあり悪くはありませんでした。

休憩室には年代物の備品が展示されている

野麦峠を泣く泣く超えてきて、倒れるまで働いた女工さんたちが千人風呂で疲れをいやした時代ははるか彼方となりました。
その時代に思いをはせるには時がたちすぎた令和3年の冬。
片倉館の千人風呂に浸かって今年の疲れを癒します。

浴槽がそれなりに大きいので温まります。
泉質に強烈さは感じませんが。

大正時代の日本に成金というバブルを生んだ産業の一つである製糸業。
その興隆が産み落とした遺構のような温泉施設が諏訪湖畔に残っていました。

二階の休憩室では入浴客が一人憩う

諏訪の神様が気になるの 令和3年のお礼参り

今年も山小舎仕舞が間近となる12月のある日。
この1年の山小舎暮らしの無事を感謝して、諏訪の神様にお礼参りしました。

ミシャグジ神

諏訪の神様が気になるにつれて、その存在がクローズアップされてくるのがミシャグジ神。
どうやら現存する諏訪の神様の中で最も歴史が古く、また核心部分に位置する神様のようです。

長野を中心に上越、関西地方に分布するというミシャグジ神の総社が、茅野市の神長官守矢家の敷地内にあります。

久しぶりの神長官守矢家は今日も光に包まれていた

総社というにはあまりに素朴で、簡素ですが、ご神木に守られひっそりとたたずんでいます。
社から見下ろすと、今に続く神長官屋敷が孤高の気高さを漂わせながら現存しています。

古武士のような風格のミシャグジ神総社

地元の銘酒・真澄のワンカップなどが供えれらている社に、ささやかなお賽銭を供え、今年の無事を感謝しました。

ワンカップがたくさん供えられていた

諏訪大社本宮

守矢家から車で5分ほどの本宮へ向かいました。
途中に前宮がありますが、今回はカット。

本宮へ着くと取り急ぎ、拝殿への階段を上りました。

本宮は、本殿がなく、本来のご神体は守屋山へと続く山であり、そこに生える原生林と、岩だといわれています。
それらご神体は、他の神社の配置と同様に、鳥居をくぐり、拝殿への階段を上がった正面に位置しています。

ところが現在の本宮は、左90度の位置に拝殿を構え、多くの参拝客をそちらに誘導しています。
拝殿から望むのは、現在では本宮のご神体と呼ばれるタケミナカタの神です。

今回は、ひとつ本来のご神体に参拝しようと拝殿への階段を上っていると。
いまさらですが、正面にご神体の守屋山方面を遥拝できるような空間が開いているのに気が付きました。
階段を上がった参拝客は塀に区切られた導線に誘導されて右折してから、拝殿や宝物館のある境内に入るのですが、右折へと誘導する塀が一部空いているのです。

これって、参拝客が本来のご神体に向けての視線を切らさないための造作か?と思いながら境内へ。

正面に開けられている「入口」。通行はできない

今までは気が付かなかったのですが、境内には守屋山へと続く神域に向かう遥拝所があったりして、本来の諏訪の神様への敬意を忘れていませんでした。

改めて、本宮独自の配置の妙を確認しました。
そういえば松代の神社でも本殿の90度左に、八幡様やお稲荷さんが建っていましたっけ。
古くからの神様を祀る神社が、新しい神(多くはのちの権力者によってもたらされた神)を別扱いで祀ることがあるのですね。

鳥居から向かって正面に本来のご神体への遥拝所がある
遥拝所左わきに天皇が祈願する場所という建物がある
左90度に設置された拝殿からタケミナカタの神にも参拝

諏訪の神様のご神体のもうひとつは岩です。
本宮における岩は硯岩と呼ばれており、拝殿脇にあります。
近くにまで寄れないのが残念ですが。

拝殿の右側に硯石の頭だけが見える

立寄り湯めぐりVOL.11  上諏訪温泉 湯小路あたり

上諏訪(諏訪市)は諏訪湖沿岸最大の観光地であり、温泉街です。
街中にも温泉が湧いています。

これまで、下諏訪温泉郷の立寄り湯には何度か入っていた山小舎おじさんですが、なぜか上諏訪の温泉にはご縁がありませんでした。

上諏訪の、表通り(国道20号線)から1本裏手に入った街中の通りを走ると、湯小路という交差点があります。
湯小路交差点を折れると、ひなびた街並みのはずれに年代物の立寄り湯の建物があります。

平湯から湯小路交差点方面をみる

平湯という建物です。
昔からあるお湯で、武士など支配階級が入る湯が別にあった時に、庶民(平民)が入る外湯として設けられたことから平湯と名付けられたそうです。
現在の建物は大正10年に建てられました。
上諏訪の歴史を感じる湯小路の街並みと、平湯の建物のマッチング感が絶妙です。
昭和30年代を想定した映画のロケがそのままでできます。

この平湯は、会員限定の入浴施設です。
会員の資格は年会費等を支払えばだれでもなれますが、現在はご時世柄、新規会員は募集していないそうです。

平湯の建物を側面から見る

すぐ隣に、これまた会員限定の上湯という外湯もあります。
これだけ平湯に近いと、源泉が同じで浴槽だけを別にした施設のようにも見えます。

すぐ隣にある上湯の入り口

この先へ入ったところにもう一軒、外湯があります。
大和温泉といいます。

入り口は注意していないと通り過ぎてしまいます。
通りから狭い通路を入ってゆき、そのお宅の中庭が「番台」になっています。
浴室は民家の敷地内にあります。
ご時世柄一時閉鎖していたとのことですが、現在では氏名、住所を記帳すると一般人でも入れます。
300円です。

大和温泉の入り口

山小舎おじさん、よそのお庭に入ったようで、恐る恐る申し出ると、管理の方は「入浴前に石鹸で体を流してください。浴槽が循環式ではないので」とのことでした。
普段、温泉には石鹸、シャンプーを持ってゆかない山小舎おじさん、恐る恐る「石鹸持っていないのですが」というと「貸してあげます」とのこと。
泡式のボデイーシャンプーボトルをお貸しいただきました。

いつだか、家族で立寄った下諏訪の菅野温泉で、小分けのシャンプーがないか?と聞いた我が奥さんに、番台のおばさんが「私のを貸してあげる」と言ってくれたことを思い出しました。

この大和温泉。
熱めのお湯がお約束の諏訪の例にたがわず、昔の夕方前の銭湯のように、体にヒリヒリとしみいるお湯が特徴。
かすかな硫黄臭とともにあふれ出る源泉は紛れもなく温泉浴のだいご味。
きっちりと体に温泉成分をしみ込ませていただきました。

ほかにお客がいないので浴室内を撮らせていただきました

いい温泉は、入った後に気分がリフレッシュします。
心地よく疲労感を感じるというよりは、むしろ心身(特に心の方)が一皮抜けたように前向きになるのを感じるのです。

この日もささやかに心身を脱皮させた山小舎おじさんです。

大和温泉とその並び

中山道シリーズ第七弾 笠取峠の松並木

中山道六十九次中、二十六次・芦田宿と二十七次・長久保宿の間に笠取峠があります。
笠取峠には江戸時代に植樹・整備されたという松並木が残っています。

広重・木曽街道六十九次より望月宿。描かれているのは笠取峠松並木

現在の国道142号線は、ほぼ旧中山道をトレースし、高崎から軽井沢へと碓氷峠を越え、佐久平を貫通して諏訪へと峠を越えてゆく幹線道路です。
関東から諏訪、松本方面へつなぐ物流ルートとしてトラックなどの交通がひっきりなしに行きかっています。
山小舎おじさんも、別荘地の周りの人たちも、佐久、軽井沢方面への行くときによく利用する道です。

国道142号線のルート上で、佐久平から諏訪方面へと越えるときの最初の峠が笠取峠です。
峠は、現・北佐久郡立科町と小県郡長和町の境に位置しています。

この日は、長和町から立科町に向かって国道142号線を走りました。
笠取峠を越えたあたりに右手に斜めに折れる旧道があります。
そこが、旧中山道の景勝地として、安藤広重の浮世絵にも絵が画れた松並木への入り口です。

国道142号線から松並木へ折れる分岐点

斜めに折れた道に入ってゆきます。
いわゆる松並木の景色を残したところもありますが、現在では松がところどころ残っている並木跡、といった風情です。

今に残る松並木

旧道は国道142号線を越えて続いています。
国道を逆落としに突っ込んでくるトラックたちに気を付けながら渡ると、常夜灯が建つ公園のような場所になっています。
峠の茶屋があった場所だそうです。
現在では、駐車場とトイレを備えた広場として整備されています。
地元の人々により中山道の歴史が大事に保存されている様子がわかります。

峠の茶屋跡

街道を芦田宿方面(軽井沢宿方面)へと下ってゆく眼前には佐久平が広がり、遠く浅間連峰が望まれます。
今よ変わらなかったであろう昔日の景色を想像できるかのような一瞬です。

松並木より佐久平方面を望む