おじさんの食堂探訪VOL.7 国分寺駅北口風景の激変と変らぬ店たち

国分寺まで行きました。
おじさんの自転車散歩コースの一つです。
野川公園、武蔵野公園、府中運転試験場、小金井を抜けてゆきます。

野川公園から運転試験場までの道

国際基督教大学というところがあります。
中島飛行機製作所(現富士重工)の跡地に戦後作られた大学で、ゴルフ場まである広大な敷地を有していました。
そのゴルフ場が野川公園という公園になっています。

おじさんは公園の前を自転車で走ります。
西武線が高架で横切ると、公園は武蔵野公園と名を変えます。公園が途切れると府中運転試験場があります。
都内では鮫洲と並ぶ2大運転試験場として君臨しています。おじさんも免許更新のたびに通っています。
試験場の向かいには広大な多磨霊園が広がっています。
試験場の横には閉店した食堂が残っていたりします。

小金井市内を抜けます。
カンデルというパン屋へ寄ります。
自宅の庭先に小屋を建て店にしています。
フランスで修業したという女性の職人が焼いています。
月水金のみの営業ですが、バケットは本格的です。
外がカリッとして中がもっちりしており、香ばしいパンです。

国分寺駅北口の激変

国分寺駅の北口です。
駅ビルからタワーマンションが建ちあがっています。
写真に写っているもの以外にもう一棟あります。
遅れてきた「バブルの塔」のようです。
バブル時代は30年以上前なので少々遅れすぎですが、今やっと武蔵野は国分寺の地にバブルが到達した、ということなのでしょう。

駅ビル構内にはこれでもかというくらいに食品スーパーなどの商店が立ち並んでいます。
贅を凝らした店店の前を通らないと駅の改札口にたどり着けない構造になっています。

衣食住と通勤をセットにして提供された商品を見ているようです。
少しでも時間を無駄にせず、仕事と消費に励むよう巨大資本に強制されているがごときです。

駅前は商店街がすっかり撤去され再開発中です。少し前までは旅館、果物屋、パチンコ屋などが軒を連ねていました。
この通りの左側も商店街でした。

駅前に残る食堂で昼飯

北口商店街の一角に残る食堂だるまやです。今のところ再開発の波が及んでいません。
マンションビルの一階なのでしばらく残るでしょう。

かつては昼時は満員でしたが、今日の客はほかに3組ほどでした。おじさんかつてこの食堂でカツカレーを注文し、その量と、カツの硬さに往生したことがありました。
今日はアジフライにします。
アジは大振り、ご飯も大量でした。素材と調理は相変わらず粗いながらも腹いっぱい。690円でした。
なお、揚げ物は粗かったものの、みそ汁と漬物には年季を感じました。

キッチンは高齢のおじさん一人とおばさん二人。
ホールはバイト風のお兄ちゃん一人でした。

駅周辺の変らぬ店たち

北口商店街にある古本屋です。
先代の女主人の時から国分寺に行くと顔を出しています。
先代の時はホームレス風の人も雑誌を持ち込んでくるような店で、話し好きの主人の人柄が偲ばれました。
今は若めのこれまた女主人に代わっています。
隣の団子屋が高齢の高齢で閉店したので、店を拡張するようでした。

音楽喫茶の田園です。ここの女主人は本物の高齢者で90歳近いのではないでしょうか?伝説の店です。
今日はまだ準備中。

国分寺など三多摩地区はうどんが名物。
うどん好きには有名店です。

ボクサーの輪島功一がオーナーの団子屋です。
今日は草とゴマを買いました。巻物類もおいしそうです。

北口の外れに残る建物。ホテルと食堂を兼ねています。
味の名店街といっても現在は食堂は一軒だけのようです。
ザ・昭和です。

西武国分寺線の旧改札口から延びる道はかつての国分寺駅前の雰囲気を残しています。
通りにある純喫茶です。
ちなみに西武線の改札口は新しい駅ビルに組み込まれており、この道は西武バスのターミナルへと続く道となっています。

南口に行きました。
駅ビルが巨大にそびえています。
ロータリーと放射状に走る道は国立の駅前に似ています。

中央線カルチャーと全共闘世代の終着駅・ほんやら胴です。
伝説過ぎて恐れ多く、全共闘世代より5歳ほど若い山小舎おじさんは、この店に入ったことはありません。

ほんやら胴の近くに新しい古本屋がありました。

帰りに三億円事件の現場を見る

三億円事件の現金強奪現場です。
府中刑務所の壁沿いの道路。
当時からあった歩道橋付近が現場とのこと。

向かいが小学校のグラウンドです。
事件当時は雨でしたが、晴れなら校庭から事件を目撃する目の数が多いことが予想されます。
本通りの府中街道にもすぐの地点です。

正門です。

人目の多い場所で起こった、荒っぽい事件だったことがわかります。
迷宮入りしたのは、解明できない、解明してはいけない、何か理由でもあったのでしょうか?

おじさんの食堂探訪VOL.6 神田お茶の水に昭和の東京を捜す

冬ばれの日。
気温12度と立春間近の陽気に誘われて、おじさんは久しぶりに電車で遠出。
東京は神田お茶の水界隈に、昭和の味と風景を捜してきました。

御茶ノ水駅と聖橋

JR御茶ノ水駅。
日大、明大、予備校などがひしめき合う学生の町。

聖橋から下を眺める。
立体交差する線路と外堀(神田川)。遠くに見えるアーチ形の鉄橋。
東京らしい風景です。

JR線と神田川にかかる橋は聖橋です。
名前の由来は橋を挟んで建つ二つの「聖」こと、湯島聖堂とニコライ堂の間の橋だからとの由。
江戸時代からの学問の中心地なのですね。

湯島聖堂は中国由来の儒学の日本総本山だったところ。
堂々たる中国建築が残っています。
屋根の魔除けは鳳凰と、トラでしょうか?一方、聖橋を挟んで南側にあるニコライ堂。
ハリストス正教会とのことで、同様の教会は函館にもあることを思い出しました。
ドーム型の屋根があたりを睥睨しています。

神田明神は江戸城の鬼門の守り神

江戸の総鎮守府として、江戸城の鬼門を固める神田明神。
当時の朝廷に反逆し、平定された平将門を祀り、その怨念を封じてもいる。
いわば、東京で最強のパワーを誇る神社。季節を問わず参拝客が引きも切らない。
御茶ノ水駅から聖橋を渡り、湯島聖堂を過ぎたあたり。
やがて秋葉原の空気の漂うかというあたりに鳥居が出現する。朱色の塗りも新しく、常ににメンテナンスされている社屋が、地方の古式豊かな神社に比して、ありがたみを減じてはいるものの、反面、都心で常に人が集まる場の、リアルタイムのパワーを存分に発揮している。

今日は2月とはいえ、拝殿に向かい並ぶ多くの人々の姿がった。
おじさんも、今年初めての参拝。家内安全のお札も買いました。やはりこの辺りは学問と縁の深い場所でした。

地元の中華食堂「やまだ」でチャーハンセット

昼食はおじさんお気に入りの食堂にします。
御茶ノ水駅から徒歩3分。やまだ食堂です。
土曜にもかかわらず満員。といっても席は20程です。

ラーメンを中心に中華定食が主なメニュー。
ラーメンは昔ながらの東京風。麺に歯ごたえがあります。
チャーハンは、今どきの「ご飯粒に油がコーテイングされた」パラパラしたものとは違い、お米のでんぷんの味が残る和風のもの。
今の若者が食べたら、なんだこれ?と思うかもしれない手作り感。
かつての家庭のチャーハンはこんな味でした。
量はたっぷりあります。670円。サービスは純日本人のおばちゃんによるもの。
客さばきもテンポよく。安心していただけます。

おじさん行きつけの理髪店です。高齢のおばちゃんが、たっぷり時間をかけて丁寧に刈ってくれます。ここで一回刈ってもらうと、3か月は無理も、2か月髪が持ちます。
1800円。駿河台下交差点付近にあります。

おじさんの食堂探訪VOL.5 旧甲州街道をゆき府中の市場で昼食

今日のおじさんは、自転車で調布から府中まで旧甲州街道沿いに行き、府中の卸売市場を目指しました。

旧甲州街道点描

国道20号線の旧道。
旧甲州街道は江戸五街道の一つ甲州街道のオリジナル路線を踏襲している道です。調布から自転車で府中を目指します。
まず最初に目に入るのがおそらく調布で唯一現存する火の見やぐら。しばらく行くとお寺の前庭に、近藤勇の座像もありました。

沿道でみられる家屋。
戦前の建築かもしれません。
古民家というほど古くはありません。
江戸時代からの建築は全く残っていませんが、100坪を超える広い敷地に建つ、古い民家は多く残っています。
街道沿いの民家は「リッチ」だったのでしょう。

塗り壁りの蔵です。軟石づくりの蔵もありました。

府中に入って、白糸台というところで西武鉄道是政線の踏切を渡ります。右手が武蔵境方面。左手が競艇場のある是政方面です。

府中の中心部に至るまで、江戸時代はおろか昭和の風景さえほとんど残されてはいませんでした。
「リッチな」場所は時代による変遷の具合も激しいのかもしれません。

人形店がありました、数少ない昭和の風景でした。。

武蔵八幡神社という神社。
参道を電車が横切る珍しい神社です。

府中の中心部に到着しました。高層マンションが立ち並ぶ都会です。

1000年の都、武蔵国府跡

府中のシンボル、大國魂神社横に、武蔵国府跡の資料館があります。1000年以上前、ここに武蔵野国の国府がありました。
武蔵国とは律令時代の日本の行政の一単位で、今の東京、埼玉、神奈川東部を合わせた地域。
そこの首都が現府中にあったのです。

ちなみに信濃国の国府は現在の上田でした。
国府の歴史を継いでいるのか、府中には税務署、刑務所などがあり、今でも一帯の行政の中心地でもあります。
競馬場、競艇場もありますが。

祝福された場所、大國魂神社

武蔵国一之宮にて、創建1500年を誇る大國魂神社。
京王線府中駅から徒歩5分。
府中のみならず、近隣のメルクマールとして存在している。

おじさんは調布在住なのでめったに来ないが、三多摩地方の住人として新年のあいさつに参拝。

境内に入って改めて思った。この場所は祝福されていると。

平日でも引きも切らぬ参拝客と、それを迎えてゆったりとほほ笑むかのような雰囲気。

これに比す場所は、近隣では深大寺くらいか。
改めて本殿に向かいこれまでの無事を感謝し、新年のあいさつをする。

そして大東京綜合卸売センターにて昼食

大國魂神社を超えて南下。競馬場を過ぎ、サントリービール工場の隣。
府中の卸売市場がある。
その名も大東京綜合卸売センターという。おじさん、昼食がてら食材を調達せんとやってきた。
今日の目的地です。まずは飯。
いろんな食堂がありました。
結局、立ち食い蕎麦屋で、もつ煮セットを注文。
立って食わずとも、近くの休憩所までも配膳してくれるのがうれしい。
おじさん、もつ煮と飯はともかく、うどんはこの半分の量でよかったがあっという間に平らげた。
もつ煮がうまかった。670円。

しかし、肝心の買い物は、魚屋が昼で片付け終わっていたので、魚が買えなかった。残念。
やむなく肉屋、八百屋を冷やかして歩く。
中華食品の専門店まであった。

場内は広く、調布の卸売センターとは比較にならないほどの規模。
魚を目指して再訪するか。

おじさんの食堂探訪VOL.4  東京外語大学もまたCOOP食堂だった!

おじさんの食堂探訪です。
かつての陸軍調布飛行場があった敷地の一角に、東京外語大学があります。
いつのころからか、こちらに移転してきた東京外大です。
今日はこの大学の食堂を訪れました。

武蔵野の敷地に自由に広がるキャンパス

キャンパスは広いです。
街路樹や森、建物を空中で結ぶ回廊などが配置されており、広い敷地を自由にデザインしたキャンパスになっています。

そのキャンパスを留学生の外国人たちが三々五々学生生活を謳歌しています。理系の電通大と異なり、キャンパス外からの出入り口が多く、ほぼオープンな敷地となっていることが特徴です。

入り口などに、学校のシンボルマークをデザインしたオブジェが建っています。掲示板を見ると、世界各国のマイナーな映画を定期的に自主上映しているようでした。
さすが外大としての歴史を感じさせます。

食堂は…やっぱりCOOP経営でした!

食堂へ向かいます。
ひょっとして、ここも・・・。
やっぱりここもCOOPの経営でした。

すっかりおなじみになったメニューレイアウトが迎えてくれます。半ば予期していたことなので、あわてず騒がず、今日は麺類をチョイスします。
かき揚げそば。313円です。食堂から見た外の景色です。冬なので若干寂しい風景ですが、夏は緑があふれていそうです。

食堂内の雰囲気は、大人っぽく落ち着いていました。
外国人は多いのですが、電通大のように中国人一辺倒ではなく、各国人がまんべんなくいる感じ。食堂の窓際では一心に勉強する学生の姿も。
一部の学生のこの緊張感は電通大や学芸大にはあまりなかったような気がしました。

生協で売っているオリジナルTシャツは1640円ほどでした。
デザインが派手なので購買意欲は起きませんでした。

おじさんの自転車散歩VOL.6 調布飛行場と近藤勇

冬ばれの一日。
今日もおじさんは自転車にまたがって散歩しました。

調布飛行場は今も昔も調布のメルクマール

ユーミンこと荒井由実の楽曲に「中央フリーウエイ」という曲がある。
「高輪ゲートウエイ」より40年も昔に、「フリーウエイ」のネーミングだから、ユーミンは時代を40年進んでいたことになる。
歌詞に「調布基地を追い越し・・・」とあるが、ここで歌われる「調布基地」とは、現在の調布飛行場一帯のこと。

もともとは旧日本陸軍の飛行場だったのが始まり。
飛行場は終戦後の一時期、米軍に接収された。
ユーミンが歌うのは、米軍接収期に調布基地と呼ばれたこの一帯のこと。

今も残る「調布基地跡」の看板。

ユーミンは当時、調布基地を超えて実家のある八王子まで、彼氏に車で送ってもらっていたのだ。

ちなみに「右に見える競馬場」とは府中にある東京競馬場、「左はビール工場」とはビールを製造していた時代のサントリー工場のこと。ご存知か。
ご存知ついでに「中央フリーウエイ」とうたわれている高速道路は、フリーどころか「中央自動車道」と呼ばれるれっきとした「有料」の自動車専用道路である。蛇足。

調布飛行場を訪れる。陸軍時代の門扉が残っている。
空襲に飛来するB29迎撃のために戦闘機飛燕が展開していた基地だった。撃墜の成果は思いのほかあったらしい。

ちなみに、30年ほど前には、「調布在住です」というと、年配の人などから「軍人さんのご家庭だった?」といわれることがあった。

今の飛行場は伊豆七島へのセスナ便のターミナルであり、個人所有の小型飛行機の発着場である。

ターミナルビルに入ってみる。

二階は展望室になっている。

伊豆七島の観光ポスターや物産がディスプレイされている。旧陸軍飛行場の敷地に隣接した駐車場に、クラシックカーの廃車が残っていた。
それこそ米軍「調布基地」時代の名残であろう。
米軍が持ち込んだ挙句捨てていったのを保管しているのか。

旧陸軍飛行場の敷地の3/4程度は、飛行場以外の敷地となっている。
南端、国道20号線と接する場所には、味の素スタジアムが建っている。その付近には東京オリンピックマラソン折り返し地点の石碑がある。マラソンといっても1964年の東京オリンピックのマラソンのことだ。
「森元」こと森喜朗元総理や、「緑の狸」こと小池都知事が仕切る、東京2020はこのコースは走らないそうだ。

ちなみに都内有数の設備を誇る味の素スタジアムだが、先年開催の日韓サッカーワールドカップでは、会場とならなかった。
その理由は付近の道路を封鎖できなかったからとのこと。
確かに短時間にせよ、国道20号線を封鎖されては、近隣の住民は生活できないわな。

近藤勇の生家と墓

新選組の近藤勇は現調布の農家出身だ。
生家跡と、養子に入った近藤家が調布市野水というところにある。
そこから100メートルほど行ったところには菩提寺がある。

明治維新の際、逆賊として処刑された、三多摩出身の百姓の小せがれの一生であった。
勝てば官軍。
明治維新を機に権力は、今に至っても薩長、特に長州の側にある。

戊辰戦争以降の権力側の戦死者が靖国神社に祀られているとすれば、逆賊たちは民衆たちによって祀られる。
会津の白虎隊のように、調布の近藤勇のように。
南無阿弥陀仏。

 

おじさんの食堂探訪VOL.3 明大前で明大学食!

京王線に明大前という駅がある。
新宿からの特急が最初に止まる駅で、井の頭線への乗換駅でもある。

今回はおじさん、明大前に行き、その名の通り、国道20号線を挟んで駅と反対側に立つ明治大学泉キャンパスの学食を探訪してきました。

明治大学泉キャンパス

明治大学といえば、大多数の人はJR御茶ノ水駅から神保町方面に下る途中のお茶の水キャンパスを思い出すのではないか?
今はタワービルが建っているお茶の水キャンパスではあるが、20年ほど前は道路に向かって学生運動の名残の立看がいまだに建つ、昔の大学らしいキャンパスだった。

おじさんもそのころ、お茶の水キャンパスの地下にあった学食に入ったことがある。
メニューにスパゲテイはあるが、カウンターにフォークの用意がなく、割りばしで食べざるを得ない昔ながらの学食だった。
おじさん的には、好ましくさえ感じる、昔ながらの光景だったが、20年前とは言え、当時の東京平均では、すでに違和感ありありのシチュエーションだったかもしれない。
そこに明治のバンカラ精神を見た気もした。

今回おじさんが目指した和泉キャンパス。
所在地は杉並区永福町。
昔の地名はこの辺り、和泉といったのかもしれない。

今どきの大学風な食堂でメンチカツ定食

土曜日なので立派な門をくぐる学生の姿は少ない。
がまったくいないわけでもない。

立地が都心に近いせいか、また地面が舗装され、建物が高層のせいか、電通大や学芸大に比して近代的というか都会的な雰囲気が際立つ構内。

部外者の出入りは問題なかった。
食堂は土曜日でもやっていた。

食堂内は閑散としている。
COOP経営でないことを確認して一安心。

メンチカツ定食を頼む。

今どきの学食は、設備といい雰囲気といい、本当に快適だ。
場内には歌謡曲というか、日本語の音楽が鳴り響く。
Jポップというのか、スキー場のヒュッテか、田舎のショッピングモールのようだ。
果たして学食に音楽は必要か?
そう思うのは年寄りだからか?

味は可もなく不可もなく。
おじさんが覚えている昔の学食の味に近かくて懐かしかった。
ごはんの盛りも多かった。
定食330円とCOOP経営の学食(電通大、学芸大)より安いのも好ましかった。
部外者でも落ち着いて食べられた。

これまで行った学食内の雰囲気をおじさん流に言えば・・・

・電通大⇒中国語が幅を利かすグローバルで弱肉強食なカ           オス

・学芸大⇒普通の女子学生が青春を過ごす、田園に囲まれた昔ながらの学生時代

・・・となる。

では明大は・・・「韓流スターの髪形をまねた今どきのチャラい若者が、渋谷に出かける前に過ごす待合室」とでもなろうか。

田舎出身のおじさんの、ひねくれがすぎたか?

和泉キャンパスが寒々しかったのは、真冬の木枯らしのせいばかりではなかった。
おじさんが年取っただけなのか・・・。

 

おじさんの食堂探訪VOL.2 小金井の町と学芸大学食の巻

小金井という町があります。
JR中央線の、東小金井と国分寺に挟まれた場所です。

小金井点描

JR中央線小金井駅前です。
左に見える道路が小金井街道。
かつて駅横の踏切は開かずの踏切といわれました。
今では立体交差になり、立派な駅ビルが建っています。右後方にはタワーマンションも見えます。

駅前の原風景。古い建物はどんどんなくなり、区画整理されてゆきます。

小金井駅前の飲み屋街。中央線沿線では、吉祥寺から西ではこういった飲み屋小路の存在は珍しい。もっと西の立川、八王子には大規模な飲み屋街があるけど。江戸時代、玉川上水路沿いの土手は桜の名所だったとのこと。
今では上水路の際に、立派なケヤキが生え、車道沿いに桜が植わっている。
現在ではここら辺の桜の名所といえば、小金井公園が有名だ。

名門、小金井カントリークラブ。女性がプレーできないとか、会員になれないとか言われていた。
今はどうなのか?平日にもかかわらず品川ナンバーの高級車が何台か駐車していた。

駅前の古書・伊東書房は現在、店舗を倉庫にしている。新小金井街道沿いの古書店、はてなクラブ。
女性の店主が地域密着で頑張っている。

市内の民家の庭先には早春に咲く、蝋梅の花が寒空に咲いていた。春遠からじ。

学芸大の食堂へ

小金井にある学芸大は、師範学校を出発点とする教育学部中心の大学。地域に根ついている。ゆったりとしたキャンパス内には農園などもある。
農園には田んぼや温室もある。農学を学ぶのではなく(農学部はない)、教育学部の範囲で、自然を通してエコや共生を学ぶフィールドとして存在しているのがユニークだ。おじさんも小学校時代の学級農園で、率先して働く先生方を見て畑が好きになったことを思い出す。
先生をめざず学生が、畑で学ぶ、考える、のも有意義かと思う。学内のサークル会館からは楽器の音が聞こえていた。

学生食堂のある建物。
入ってびっくり。
見覚えのあるサンプルケース。
大学COOPの運営の食堂だった。
ということは、電通大と同じ経営母体。
つまりメニューから何から電通大と同じということだ!

少々がっかりしながら、今回は唐揚げカレーを注文。
オクラのおひたしをつけて474円。

食堂のおばちゃんの対応はやさしかった。
味は電通大と同じくCOOPの味だった。残念!席は満席に近い。
電通大と比べて食堂の面積は4倍ほど。
女子学生が多く、外人は少ない。
おじさんが覚えている昔の大学の雰囲気に近い。
のんびりして等身大の20歳前後の若者が集う場所であった。安心。

生協にはオリジナルTシャツを売っていたが、1300円と手ごろな値段だったのも好ましかった。

学芸大は散歩するにはグッドなロケーションだった。
おしむらくは学食がCOOP直営ではなかったら・・・。

おじさんの食堂探訪VOL.1 電気通信大学学食の巻

おじさんの行動範囲に大学は結構ある。
電通大のほかに、学芸大、ICU、農工大などなど。
昼食にコスパを求めるおじさん、今回は電通大の学食に行ってきた。

電通大といえば思い出すこと

京王線調布駅から徒歩5分。
国道20号線に面して、国立電気通信大学がある。
今は「国立大学」とは言わず、「国立大学法人」というんだっけ?
国の直営ではなくなり予算も削減されるということらしい。

ところで、30年近く前、おじさんが調布に住み始めたころ、当時、近所にスリランカ人の夫婦がいた。
ご主人は地元では文部大臣の息子で、美人の奥さんは弁護士だと聞いた。
地元での結婚式のビデオを見せてもらったが、民族衣装を着て、日本車に乗る盛大な式の模様が映っていた。

ご主人は英語はもちろんペラペラ、日本語の覚えもよく、料理が上手で、子供の扱いもうまかった。
おじさんは、今に至っても、このご主人の手料理よりうまいエスニックを食べたことがない。
知識も豊富でエリートそのものの人だった。

日本では2DKの賃貸住宅に住んでおり、おじさん一家はよく招かれて手料理をごちそうになった。
うちにも招いた。
なぜ故国を出たのか?と聞いたら、そのまま住んで大臣にでもなれば暗殺されるから、と答えていたのが忘れられない。

ご両親も一度来日した。
文部大臣だったという父親は、朝になると庭先に出て体操し、おじさんたちが通りかかると手招きしてお茶をごちそうしてくれた。

一家は今はカナダに移住し、いまでも年に一回くらいおじさんの家に電話がかかってくる。
日本語をまだ覚えている。
この人の日本での留学先が電通大だった。

学食でランチを食べる

昼頃キャンパスを訪れ、学食を探訪した。
学食は生協の2階にあった。


入り口には、注文から生産までの手順が絵で説明してある。

メニューは写真で表示している。

混雑時には一般客より学生を優先するとの張り紙に怖気ずくが、勇気を出して列に並ぶ。
おじさんはお勧めの表示があるチキン南蛮をセレクトし、注文するが時間がかかるとのことで、あんかけカツどんに注文変更。
お浸し、みそ汁もチョイスした。注文対応のおばさん、レジのおばさんも一般客にやさしく接してくれて安心した。
椅子は満席に近く混んでいる。
中国語が聞こえ、国際色豊かなキャンパス事情がうかがえる。

肝心の味は決してうまくはなかった。
悪く言えば病院の食事のようにメリハリのない味だった。
あんかけカツどんというメニューのせいかもしれないが。
一般客の姿はほとんどなく、日常での利用には向かない場所だった。

おじさんの自転車散歩VOL.5 東伏見は老人天国だった

冬ばれです。
おじさんは自転車に乗って、東伏見へと向かいました。
そこは年寄りにやさしい町でした。

武蔵野市の謎の商店街・グリーンパーク

調布の自宅を出て北上。三鷹市を抜けます。
武蔵野市というところを通ります。
人気の吉祥寺を抱えることで有名な市です。
裕福な住民を抱えて財政が豊かな街とのことです。

ここにおじさんが知らなかった商店街がありました。
グリーンパークというアーチがかかっています。
場所は武蔵野市役所の裏手。
付近に団地があります。
京王ストア、サミットというスーパーが2軒、これでもかと小売店を圧倒するようにならんで建っています。

スーパーと道路を挟んで商店街が残っています。
面白いのはその商店街の裏側もまた商店の立ち並ぶ小路になっていることです。

表側の商店街。
こういった小売店もあります。

商店街の裏の小路です。

千川上水路という水路が復元されていました。
なんでも玉川上水などと並ぶ、江戸時代からの上水路とのこと。
そういえば千川通りという道がここいら辺から、都心に向けて走っています。

下野谷遺跡という縄文遺跡があった

武蔵野市を抜けて北上すると西東京市です。
西東京市の東伏見駅の南側に、下野谷遺跡という縄文時代の集落跡があります。
公園になっています。

縄文というと東北のイメージですが、江戸時代以前は武蔵野も坂東の地、最果てだったもの。
西日本では痕跡すらないであろう縄文時代の名残が残っていました。
現在はただの原っぱ、住宅地を買い取りまとまったスペースとなった時には本格的に発掘、復元されるのでしょうか。

東伏見稲荷は昭和4年に本家から分祀

駅名地名の由来、東伏見稲荷神社はここら辺のランドマーク。
幹線道路である新青梅街道からもよく見えます。

駅のすぐわきに最初の鳥居があり、参道が始まる。

西武線と並行して参道が進み、次の鳥居をくぐり、神社に至る。初詣の賑わいもとうに過ぎ、ゆったりした境内。
昭和4年に京都の伏見稲荷から分祀したとのこと。


よく手入れされた社がまぶしい。

東伏見駅界隈の風景

西部新宿線の東伏見駅前。
アイスホッケーの会場で有名な、アリーナがあります。かつては西武鉄道などのホームりますだったはずです。そのころには王子製紙や国土開発などをといったチームとリーグ戦をやっていたことでしょう。
西武が外資に買われてから、ホッケーのチームの運営はやめたはずです。
いまでは、日本だけではアイスホッケーのリーグを組めなくなり、韓国のチームなどとアジアリーグとしてリーグ戦を行っているようです。

駅前で有名なたい焼き屋さん。
相当古いハイエースに機材を積んで昔ながらの方法でたい焼きを焼いています。あんこも手製とのこと。
主の青年は、かつては京王線つつじヶ丘駅前のスーパーで出張販売などもやっていたと話していました。
話している間にも2人ほどお客が来ており、人気のほどがうかがえました。帰りには駅前のマックで休みました。
14時まではコーヒーが0円とのことで、コーヒーだけ頼んだら本当に無料で休めました。
東伏見は老人にやさしい町でした。

おじさんの自転車散歩VOL.4 練馬区大泉と東映撮影所

今日はおじさん通院の日。
高血圧の薬をもらいに西東京市の病院へ。
いつもはバスを乗り換えてゆくのだが、今日は自転車で行きました。

西東京市は九保谷市と旧田無市が合併した町。
おじさんは自宅から北上。三鷹を超え、武蔵野を抜けてゆきました。
帰りに練馬区大泉によって東映撮影所を見てきました。

東映撮影所は大泉の東映通り沿いにありました

夢の工場といわれた映画撮影所。
ハリウッドほどとは言わぬまでも、それなりの華やかさを期待して訪れたいものですが、斬新ににデコレーションされた外見を持つ東宝以外は見事に期待を外されます。
東映の撮影所も外見は工場か倉庫のようです。

ここは練馬区大泉。
東映映画の主力であった、時代劇ややくざ映画の多くは、太秦撮影所こと東映京都撮影所で作られました。
ここ東京撮影所では現代劇が多く作られました。
古くは警視庁シリーズに始まり、不良番長シリーズ、女囚さそりシリーズなどが作られました。
テレビの戦隊ヒーローものなどもここで撮影されたのです。

おじさんが訪れた際の大映や日活の撮影所の入り口同様、東映の撮影所入り口は、何の緊張感もなく活気も感じられませんでした。まあそんなもんでしょうけど。

撮影所敷地に建つショッピングセンターで昼食

撮影所の敷地を一部削り、ショッピングセンターが建っています。
昼食を兼ねて見学しました。シネコン方式の映画館や食べ物屋さんを有する棟がひとつ。
東映通りを挟んで、もう1棟。
こちらには西友ストアやユニクロ、書店、食堂などが入っています。

入ってびっくり。
平日の2時過ぎとはいえ、がらんとした店内。西友ストア独特の場末感を伴った人気のなさはここが都内とは思えないほど。
レストラン街は2店舗分が閉店して空きスペースとなっており、奥のゲーム機コーナーの退廃感と相まってとてつもない寂寥感を醸し出しています。
建物全体の作りも若干時代遅れな感じで、今どきは田舎にも、もっとしゃれたモールがあると思うのは、山小舎おじさんだけでしょうか?

映画撮影所の衰退に時代を感じていましたが、足元の商業施設にも陰りが及んでいるとは思いませんでした。

これは日本全体の衰退を意味するのか、それとも大泉と西武資本に限定したローカルな現象なのか?
やはり東映はやくざで退廃的な場末感を呼び込んでしまうのでしょうか?
疑問をかみしめながら京風ラーメンセットを食べました。
税込み755円。

品目を増やし体裁を整え、値段を相応に上げながら内実に乏しい、アベノミクスの味?がしました。