長野相生座と「カトマンズの男」

権堂通商店街

長野市の中心部、善光寺表参道と交差して一筋のアーケード街がある。
権堂通商店街といい、その昔は善行寺参りの精進落としの場として、遊女を置くような店があった場所らしい。

今では洋品、雑貨、食堂などが並ぶ商店街で、1本裏にはいると風情を感じるバー、料亭なども見える。
中心部からそれるにつれ、アーケードの覆いがなくなり、居酒屋などが並ぶ飲み屋街へと姿を変える。

ここ権堂通商店街の一角に相生座がある。

当日朝の権堂通り商店街

相生座

明治25年に芝居小屋として開設し、国内最古級の歴史を誇る相生座。

県内には、上田映劇、伊那旭座、塩尻東座、茅野新星劇場などのが歴史を誇る映画館が現存する。
映画館らしい外観はもちろん、大スクリーンを擁し天井が高く2階席がある場内、現役のフィルム映写機もあったりする。

その中で、歴史、上映作品の質量で県内トップの映画館が相生座である。
長野市は遠いのだが、山小舎おじさんも相生座の、小津4K特集やルイス・ブニュエル特集には駆け付けた。

相生座前景。3スクリーンを持つ

支配人は女性で、時には入場者にほうじ茶をふるまうなどアットホームに対応してくれ、山小舎おじさんとの雑談にもよく応じてくれる。
支配人の心配りはホールの展示や、枕の貸し出しなどにもうかがえる。
何より上映作品のセレクトに映画への愛と営業への熱意がにじみ出ている。

商店街から映画館へのアプローチに掲示されるポスター

上映作品はいわゆるミニシアター系の新作が中心だが、時には地元テレビ局製作のドキュメンタリーを上映したり、関係者の舞台挨拶もよく行われる。

何よりオールドファンにうれしいのは、過去の名作特集。
最近では、小津、ブニュエルのほか、デジタル版の「天井桟敷の人々」が特別料金で上映されたりした。
こういった点にも、県内最高レベルの映画館の自負がうかがえる。

映画館前のポスターには独特のワクワク感がある

ベルモンド傑作選「カトマンズの男」

相生座でこの秋に上映されたのがベルモンド傑作選。
ジャン=ポール・ベルモンドの主要作品をデジタルで上映するもの。
この日は名コンビ、フィリップ・ド・ブロカ監督の1965年作品「カトマンズの男」。

10時の上映時間に合わせて、7時に山小舎を出発したおじさん。
交通量の多い朝方の道をかき分け、9時半過ぎに相生座に到着しました。

入場者受付で忙しそうな支配人の暇を見て雑談。
作品の輸入元のキングレコードの英断で実現した企画だが、版権先との交渉が大変で値段も高かった。
ベルモンドはフランスでは国宝級の人物ですからね。とのこと。

日本ではヌーベルバーグの主演者の一人として映画史に残っていますが、娯楽アクションスターの位置づけだったベルモンドは単独では回顧上映は組みづらかったことでしょう。
ベルモンド88歳での逝去をきっかけにしたとはいえ、企画してくれたキングレコードと、上映してくれた相生座には感謝です。

当日10人ほど駆け付けた観客。
年代的にも中高年。
リアルタイムではベルモンドもすっかり落ち着いていたころの世代となります(山小舎おじさん的には「ラ・スクムーン」(1972年 ジョゼ・ジョバンニ監督)、「薔薇のスタビスキー」(1974年 アラン・レネ監督)がリアルタイムのベルモンド)。
リオやカトマンズを駆け回る「男」シリーズはテレビ洋画劇場で見るイメージでしたね。

で、この「カトマンズの男」。
邦題ではカトマンズとは銘打ちながらも、ほとんどが香港を舞台とするアジア冒険活劇物で、カトマンズは王宮やボダナートと思われる巨大仏舎利でロケされており、インドから到着する空港は、マチャプチャレがバックに見えるポカラ空港である。

ロビーにはアメリカ公開時のポスターも展示

が、そんなことはどうでもいいほど画面に活力と魅力を漲らせるのが若いベルモンドのアクション。
スタントマンを使わないといわれるだけあって、ほとんど全部のシーンに体を張って、香港ではクレーンに追り上げられ、竹で組んだ足場を走り回り、市場の野菜や卵に飛び込む。

上映開始を待つ場内

ヒマラヤでは、気球から吊り下げられたロープをよじ登り、山脈の崖をよじ登り、雪山を転げ落ちる。

南国ランカウイ島では、ヒロイン(ウルスラ・アンドレス当時29歳)とのつかの間のロマンスに興じ、像に乗って悪漢を撃退したりする。

とにかくサービス精神旺盛で、アクション満載。
観たままを楽しめばいい造りながら思ったよりはるかに大作。
全編に近い場面がアジアの現地ロケであるところもいい。
ド・ブロカとベルモンドの若さと明るさを感じる。

相手役のアンドレスが、世界を放浪しながら社会学をフィールドワークしているという女子大生役で、かわいらしく演出されているのも貴重。

大富豪の2世として何不自由なく暮らしているものの、いったん命の危機に瀕すると途端に生き生きと冒険に邁進するというヒーローを演じるベルモンド。
彼が当時、フランス映画界においていかに大事に育てられているか!がわかる。

育ちよく、影のない、若いヒーローの冒険。
これこそがフランス映画の希望と未来だった!
「カトマンズの男」はそういった時代の快作だった。

これは「リオの男」も観ざるを得まい。

相生座の歴史の展示
近日上映のレトロスぺクテイブは、ジャン・コクトーとジム・ジャーウイッシュ

山本富士子と「夜の河」

神保町シアターの特集「恋する映画」でこの作品が上映された。
観たかった1本だった。

1956年の大映作品。
製作:永田雅一、監督:吉村公三郎、主演:山本富士子、上原兼、撮影:宮川一夫、照明:岡本健一。
キネマ旬報ベストテン2位。

当時の映画界と大映

当時映画産業は炭鉱などと並ぶ花形産業で、映画人口の最大期を2年後に控える絶頂期だった。

同年のベストテン作品を見ても、第1位の「真昼の暗黒」(今井正監督、橋本忍脚本)をはじめ、4位「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)、5位「ビルマの竪琴」(市川崑監督)、6位「早春」(小津安二郎監督)、8位「流れる」(成瀬己喜男監督)と日本映画の歴史に残る名監督たちの作品が並ぶ。

松竹、東宝、大映、東映、日活、新東宝の6社が専属のスタッフ、俳優をもって製作を行い、独自の配給網を持つ(新東宝を除く)という2度とは来ない夢のような時代だった。

その中で大映は社長永田雅一のワンマン体制が敷かれていたが、専務として新劇の劇作家だった川口松太郎と監督の溝口健二が永田を補佐し、俳優では長谷川一夫を筆頭に、京マチ子などがいた。
京都と東京調布にそれぞれ撮影所を有していた。
業界的には松竹、東宝に次ぐ3番手のイメージ。

社長の永田の資質もあるのだろうが、政治家とのつながりやプロ野球球団保有など目立つ活動を志向していたが、松竹の歌舞伎、東宝の阪急電鉄のような基盤とする背景に乏しく、上映館数も少ないなど、経済的には脆弱だった。

また、永田は当初、新生日活によるスタッフ引き抜き防止を主目的とした、いわゆる5社協定を主導したが、長期的には人材の交流の疎外という点では映画界全体の利益に反した。

一方で、東宝争議後のゴタゴタに嫌気がさしていた黒澤明を招き「羅生門」を製作するなどもしている。
日仏合作の「二十四時間の情事」(アラン・レネ監督)を作ったり、溝口健二監督に好きなように撮らせ、「近松物語」「雨月物語」「山椒大夫」などの名作を世に送り出したのも永田雅一だった。

山本富士子と大映

第一回ミス日本の栄誉を満場一致で受賞したという山本富士子が大映に入社したのは1953年。
当時絶頂の映画界は例えば宝塚スターの再就職先としても有力な先だった(乙羽信子、淡島千景、新珠三千代、有馬稲子など)。

しばらくはいわゆるプログラムピクチャーのヒロイン役ばかりだった山本が、有力監督の文芸作品のヒロインに抜擢されてブレイクしたのが「夜の河」だといわれる。

山本富士子という人、外見の美貌と物腰の柔らかさに反して自立心と自尊心に満ちていた。

当初の大映との契約は3年後にフリーとなる条件だったというが、大映は反故にし、その後も専属契約を押し付けた。
契約更新のたびにもめたらしい。

念願の第1回他社出演は松竹の「彼岸花」(1958年)。
小津安二郎初のカラー作品の準主役に抜擢された山本は、和服姿のあでやかな所作と滑らかな関西弁で画面をさらった。

大映プログラムピクチャーとして消費され、残されていなかった山本富士子の姿が映画の歴史に鮮明に刻印された瞬間だった。
後年の映画ファンにとっては隠されていた日本映画の宝がそこに燦然と輝いているのを発見したような気持だった。

他社出演では「墨東奇譚」(1960年)、「如何なる星の下で」(1962年)がある。
どちらも実力派・豊田四郎の監督作品。
女優に対しては意地悪なほど辛辣な演出を行いかねない豊田監督をして、気高く孤高の女性像を描かしめた。

山本富士子は永田雅一と他社出演をめぐって衝突し、大映を退社。
永田は怒って映画界からの永久追放を画策した。

1983年、「細雪」の映画化に際し、監督の市川崑が長女役に山本を指名し交渉したが断られたという。
山本富士子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の「細雪」だったら・・・それはさぞあでやかだったことだろう。
完成した作品を見た山本が、出演すればよかったと思ったとのこと。
映画ファンにとっても逃した魚は大きかった。

山本富士子と「夜の河」

山本富士子が大映入社3年目。
一流スタッフを集めたカラー作品である。
共演にも東宝の上原兼をもってきている。

この作品についてはまず色彩設計の見事さがいわれる。
舞台は京都のろうけつ染めの工場。
そこの独身の跡取り娘役が山本で、大阪大学の教授の上原と恋をして別れるまでを描く。

色彩設計でいえば、赤や緑の染め物が並ぶ工場の風景が思い出される。
発色もいい。
観たのはデジタル版だが、オリジナルのカラーが再現されているのだとしたらば、カラー撮影は成功している。

カメラは宮川一夫。
溝口作品でのパンフォーカスやクレーンを使ったワンショットワンシークエンスの撮影に力を発揮するカメラマン。

「雨月物語」では、戦乱の世、我が家に戻った森雅之が妻・田中絹代の歓待を受けるが、我が家はすでに廃墟だったというシークエンスを、カメラを360度パンする間の場面、時間転換で表現。

「祇園囃子」では路地を歩く若尾文子が、20メートルほど先の通りの舞妓たちを見て、けいこに通えない身を恥じて姿を隠す場面を、歩く若尾と20メートル先の舞妓たちの双方にピントを当てる鮮やかなパンフォーカスによるワンカットで表現。

照明の岡本健一。
熊井啓が胃潰瘍で血を吐きながら撮った「忍ぶ川」(1972年)。
大映は倒産し、撮影所システムは崩壊する中で、熊井が特に照明担当としてスタッフに招いた人材として記憶に残る。

「夜の河」では、夏の夜、歩く山本と上原が雨に打たれ軒下に休むあたりから、お茶屋内のシーンでのライテイング。
徹底したバックライトで人物の表情を消し、ただならぬ心理状況を表す。
長時間にわたり、影や暗さを微妙にライテイングするには相当の経験と自信がいるはず。

されど「夜の河」では必要以上の技法的主張はなかった。
撮影はカラーの再現と主人公の心情の移ろいを写し取ることに傾注し、手際よくまとめていた。
すべての技術的効果は吉村監督の演出プランの範疇に収まっていた。

心惹かれる相手とのただ一度の逢瀬の後、「子供ができたら、あんさんに似て・・・」と主人公が漏らす。
「子供?」と我に返り逡巡する妻子ある男。
そのわずかな反応に醒め「もしできてもうちの子として育てます」と端然と述べる主人公。

あふれる情念と自立した女性の自尊心を合わせて表現した、主人公と山本富士子のキャラクターが被って見える山場のシーンであった。

「夜の河」の上原兼と山本富士子

逢瀬の場は通りかかったお茶屋。
そこのおかみは主人公と女学校以来の親友で、軒先の二人を招き入れる。
男を紹介しようとする主人公には「ワテは戸籍係であらへん」と客先のプライバシーには踏み込まない。

演じたのは阿井美千子という女優。
てきぱきとした京都弁といい、動きのいい物腰といい、これがプロの京都女性というものなのか?と感心する傑出した演技だった。

「月夜の阿呆烏」(1956年)の阿井美千子、右は堺俊二

グロリア・スワンソンと「舞姫ザザ」

ここのところ「失われた週末」「サンセット大通り」とビリー・ワイルダー監督作品づいていた山小舎おじさん、「サンセット大通り」でグロリア・スワンソンを「発見」し、大いに気になっていたところ、渋谷シネマヴェーラのサイレント映画特集で、スワンソン主演の作品をやっていたので、自宅帰還の折に観た。

シネマヴェーラのパンフレットより。ピンボケですみません

「サンセット大通り」(1950年)では、自身がモチーフともいわれる、サイレント時代の大女優を演じた当時50歳のスワンソン。
作品は監督ワイルダーの屈折した皮肉を絡めた、ある意味「ハリウッドの暴露もの」であったが、そこで自分自身をカリカチュアライズした人物を演じながらも、決して役柄に埋没せず、むしろ存在感を発揮したのがスワンソンだった。

50歳にしてかつての美貌と輝きを十分に残しつつ、軽やかな動きもこなし、華美な装飾を着こなす姿は、おそらくはワイルダーの演出意図を越えたものとなっていた。
そこにあったのは「没落した妄執の老女優」ではなく「かつての栄華の残り香をしっかり残したベテランスターの余裕と貫禄の姿」だった。
スワンソン全盛期のサイレント映画を観たいと思った。

「舞姫ザザ」は1923年の作品。
タイトルにはアドルフ・ズーカーの名前がクレジットされている。
のちのパラマウント映画の配給である。
パラマウントはスワンソンのキャリアの舞台となる。
制作はアラン・ドワン プロダクション。

パリの場末の舞台のスターだったザザ(スワンソン)が身分違いの外交官と道ならぬ恋に落ちるストーリー。
チャームポイントのあごのほくろに星のマークを付け、過剰な舞台衣装をまとったスワンソンが、鼻持ちならない売れっ子女優として、ライバルとキャットファイトし、止める男を蹴っ飛ばし、足を踏ん張り、万歳し、顎を上げてミエを切る!
23歳の颯爽としたスワンソンがスクリーンを駆け巡る!

サービス精神旺盛で、アクションシーンをいとわず、プライド高く、派手好きだが、お茶目でかわいげのあるキャラクターがすでにそこにはあった。

クジャクの羽飾りの帽子を被った場面では「サンセット大通り」でセシル・B・デミルに会いにパラマウントのスタジオを訪問するシーンを思い出した。
「舞姫ザザ」ではたくさんの羽で帽子を飾っていたが、「サンセット大通り」では帽子の羽は1本だった。
クジャクの羽の数が、スワンソンに関しては「ザザ」の時代がオリジナルで、「サンセット」はそのパロデイであることを物語る。

ストリーは波乱万丈、金のかかったセット。

サイレント映画といえばグリフィスの「国民の創生」やヴァレンチノの「血と砂」、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、くらいしか見たことはなかった。
そこにあったのは途方もなく金と人数をかけた場面だったり、スターのとびぬけた存在感だった。

「舞姫ザザ」をみて、サイレント時代すでに映画は完成され、スターの個人的な才能のみに寄らない総合的な文化となっていることを確認できた。

サイレント時代のスワンソン
宝塚風とでもいうのでしょうか、ヴァンプ風を意識した孤高のメイクのスワンソン
デミル好みというのでしょうか、サロメ風メイクのスワンソン

淀川長治さん日曜洋画劇場25周年記念として出版した「MyBest37」という本があり、スワンソンについても1章が割かれている。

1952年にアカデミー協会の招きで渡米した淀長さんが、協会長のチャールズ・ブランケットと立ち話をした際、スワンソンの話となった。
ブランケットは当時ワイルダーと組んでおり。「サンセット大通り」の製作者でもあった。

「スワンソンの生き字引」を自任する淀長さんが話を盛り上げると、ブランケットが「スワンソンと会いたいか」と聞いた。
「会えたら死んでもいい」と淀長さんが答え、その場でブランケットはスワンソンに電話した。

後日、ハリウッドの豪邸で4時間会見し、ニューヨークのホテルでも会った。
豪邸での会見で財布を忘れてきた淀長さんにスワンソンから電話がかかり、ポーターがホテルまで届けてきたそうだ。
淀長さんを生涯魅了した女優の一人がグロリア・スワンソンだった。

トーキー世代のスワンソンファンにとってはこの写真になってしまう。「サンセット大通り」より

ビリー・ワイルダーと「サンセット大通り」

山小舎おじさん、9月初旬にも自宅に帰りました。
その際、渋谷シネマヴェーラで「サンセット大通り」をやっていたので見てきました。
ここのところ気になっているビリー・ワイルダー監督の1950年作品です。

シネマヴェーラの作品紹介文

アメリカ映画は暴露ものが好きなのか?

「サンセット大通り」は名監督ワイルダーの代表作の一つ。
40年代から活躍し始めたワイルダーが評価を不動のものした記念碑的な作品でもあります。

ストーリーはサイレント時代の大女優が、時代がかった執事(往時の名監督で最初の夫でもあった、という設定)とハリウッド近郊の古い邸宅の中で暮らしているところへ、ひょんなことから売れないシナリオライターが迷い込み、大女優の妄執に翻弄された挙句、悲劇の結末を迎えるというものです。

大女優役は実際にサイレント時代のスターだったグロリア・スワンソンが扮し、執事役には実際にサイレント時代の名監督だったエリッヒ・フォン・シュトロハイムが扮しています。

左から、ウイリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

これって、いわゆる「暴露もの」ではないでしょうか。
そうじゃなかったら「あの人は今」的な「のぞき見」もの。

アメリカ映画には「市民ケーン」(1941年 オーソン・ウエルズ監督)で当時の新聞王ハーストを批判的に描き、「独裁者」(1940年 チャールズ・チャップリン監督)で当時の対立世界の覇者ヒトラーをカリカチュアライズした、という「実績」があります。

当時のハーストを扱うということは、現代でいえは、ステイーブ・ジョブスだったりビル・ゲイツといった億万長者兼実業界のカリスマの裏面を暴くようなものでしょう。
また当時、勃発中の第二次大戦の主役の一人だったヒトラーを馬鹿にすることは現在でいえば習近平やプーチンにケンカを売るようなものでしょう。

その点、ワイルダーの「サンセット大通り」はすでに名声時代が過ぎ去った主人公たちを扱っています。
本人たちが納得ずくで没落した人物を演じるのですから、名誉棄損の批判を受ける心配もありません。
ワイルダーの狡さというか意地悪さが見て取れるのは私だけでしょうか。

主人公二人のほかに、セシル・B・デミル、バスター・キートン、ヘッダ・ホッパーなどの映画人を実名で登場させ、ヴァレンチノ、グリフィスなどの実名をセリフで言わせていますが、そこでは抑えた演出をしています。

ワイルダーにとっての暴露すべき悪とは

ワイルダーの演出は、主人公二人(スワンソン、シュトロハイム)については、暴露もの的な意味で、デミル、キートンについてはあの人は今的ない意味で使っています。

スワンソンとシュトロハイムに関しては思いっきりイジワルな演出をしています。
が、ワイルダー自身にはほとんど危害が及ばないところがミソです。

後で述べますが、結果としてスワンソン、シュトロハイムに関しては悲惨さよりはアイコンとしての貫禄が画面から漂い、ワイルダーの毒というか本心は露骨に表れない、という結果になっています。

表面には現れませんが、ワイルダーがケンカを売りたかったのは、ハリウッドシステムの尊大な滑稽さで、大女優と執事はその犠牲者という位置づけだったのかもしれません。

ワイルダーにとって本当の敵とは何だったのか?
祖国からの亡命を余儀なくさせたナチスドイツか?ユダヤ人という宿痾か?尊大で欺瞞に満ちたハリウッドシステムか?
それぞれのテーマをある程度は匂わせながら決して肉薄しないのがワイルダーです、隠しきれない毒は画面のそこかしこに現れてはいますが・・・。

ワイルダーは正義派でも社会派でもありません。
良い作品ができる題材と、多少は自分の毒が満足できる演出ができればそれでいいのでしょう。
自分に危害が及ばないのなら、他人の尊厳、プライバシーを犯すことに良心の呵責はありません。

1950年制作の「サンセット大通り」まではそれでも際物的な要素のも取り入れながら作品を作っていましたが、名声を得た50年代以降は際物的な要素は少なくなってゆきます。
「サンセット大通り」は転換期に当たる作品なのではないでしょうか。

グロリア・スワンソン

なお、暴露ものというジャンルはアメリカ映画の専売特許ではありません。
日本映画には権力者を批判的に描く骨のある暴露ものの作品はあまり思い浮かびませんが、実録もの、事件の再現ものなどのジャンルがあります。

事件の再現ということでは、あの阿部定がのちに座長として巡業したとか、アナタハン事件の後で事件の女主人公が再現劇で巡業したなどの話を聞きます。
暴露ものがあらゆるメデイアにとって親和性のあるジャンルということがわかります。

「サンセット大通り」の表面上のモチーフの「年増女が若い燕に狂って破滅する」は、2時間サスペンスや、ワイドショーのネタ、ドリフのコントのネタ、などとして綿々と受け継がれてもいます。
事実この作品を見ていて、コントみたいだと思った瞬間がありました。

それを防いだのはグロリア・スワンソンの存在そのものでした。
老醜、妄執がコンセプトの大女優役に於いて、当時50歳のスワンソンが実に魅力的だったのです。
まだまだきれいで、いわゆる怪奇派としての老嬢役に収まりきらない魅力が垣間見れるのです。

自分が所属していたマック・セネットの水着ガールやチャップリンの物まねまで再現、披露します。
ワイルダー演出は老嬢の若作り、悲惨さを狙ったのかもしれませんが、さすが往年のスター。
演技がしっかりしており、ポーズも決まるので単なるカリカチュアにとどまらないスワンソンの演技に、山小舎おじさん、魅入ってしまいました。

ストーリーの間に挟まる、若い燕・ホールデンと若い女性の逢引のシーンの方が70年前のアメリカ映画の古臭さを隠しきれないのに対し、スワンソンが出てくるシーンは時間が超越されているようでした。
本物は、類似品がのちにテレビのコントになって消費される時代が来ても古典として残るのだなあと思いました。

スワンソンの演技は、暴露ものという映画の設定を突き破り、自身のキャリアの尊厳を逆説的に主張しているかのようでした。
その点が作品に深みと救いをもたらしてもいます。

それがワイルダーが最初から意図したものだったかどうかはわかりません。

まだまだ魅力十分なグロリア・スワンソン

ビリー・ワイルダーと「失われた週末」

アメリカで活躍した映画監督にビリー・ワイルダーがいる。
1906年旧オーストリア=ハンガリー帝国生まれのユダヤ人で、戦前にアメリカに亡命。
脚本家、監督としてハリウッドで活躍し、2002年没。

「ハリウッド帝国の興亡」にみるワイルダー

手元にある「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」には当時のワイルダーについての記述があるが、それは以下の通りとても印象的なものであり、ワイルダーの人となりと遍歴が浮かび上がる。

黄金の40年代ハリウッドを考察した著作

(共同脚本家として一時代を築いた)チャールズ・ブラケットは、ワイルダーの本質の多くを嫌っていた。
つまり人間嫌い、死を連想させるような不気味な感覚、冷酷さ、根っからの粗暴さ、などを。(同書ページ567)

サンタバーバラでの「失われた週末」の試写会は笑い声に迎えられた。
大声の笑いとくすくす笑い、嫌悪感を抱かせる映画だというアンケート用紙の回答に迎えられた。(ページ565)

1945年の秋、「失われた週末」は公開された。
批評は素晴らしかった。
そしてワイルダーは、監督として初めてのアカデミー賞を受賞、脚本の共同執筆者としてもオスカーを授かった。(ページ565)

「サンセット大通り」(50年)を自伝的作品とみるには幾通りかの解釈がある。
ワイルダーはかつてベルリンのホテルで雇われダンサー兼エスコートをしていたので、ジゴロの困惑といったようなものは身に染みていた。(ページ567)

ワイルダーは「サンセット大通り」の冒頭シーンに、死体保管所で死体同士がここに来ることになったいきさつを語り合う、という、おぞましくも不気味なシーンを撮影した。
ロングアイランドでの試写会でも「サンセット大通り」は嫌われた。笑われたばかりではなくブーイングされ、シーシー野次られ、嘲られた。
ワイルダーは、死体同士の会話という設定から、主人公(売れない脚本家:ジゴロ)の死体単体によるモノローグへと冒頭シーンを撮りなおした。(ページ569)

1950年の夏に公開された「サンセット大通り」は批評家から受けて当然の絶賛を受け、興行成績も上々だった。(ページ571)

テレビ洋画劇場でのワイルダー

テレビの洋画劇場で40年代、50年代、60年代の洋画がせっせと放送されていた時代。
山小舎おじさんは中学生から高校生だった。

テレビで「お熱いのがお好き」(59年)や「アパートの鍵貸します」(60年)を見た。
大学生になっての上京時、大塚名画座という今は亡き映画館(大塚駅近くの八百屋の二階にあった)で「あなただけ今晩は」(62年)を見たこともあった。

いずれもワイルダーの代表作だ。
展開の速さ、オチ、ペーソス、伏線、演技、どれをとっても良くできた作品で、引き込まれるように見た。

3作品とも主演はジャック・レモンで、すっかりファンになった。
テレビ放映では吹替の愛川欣也の名調子に、レモンの演技と愛川の吹替が一心同体に見えた。

日本におけるワイルダーの評価も、上手にコメデイを作る巨匠というようなことで落ち着いていたような気がする。「麗しのサブリナ」(54年)、「七年目の浮気」(55年)、「昼下がりの情事」(57年)などもワイルダー作品である。
ヘップバーン、モンローなど旬の有名どころを使い、だれもが満足するストーリー展開と、たっぷり予算を使った舞台装置。
たっぷりの予算を十分回収しうる興行成績。
押しも押されぬハリウッドの巨匠である。
しかも批評家受けがいい。
それだけの才能を持った作家がワイルダーだった。

ワイルダーと「失われた週末」

この夏、渋谷シネマヴェーラで「恐ろしい映画」特集をやっていた。
お盆の帰宅の際、その中の1本「失われた週末」を見る機会があった。

脚本はワイルダーとチャールズ・ブラケットの共同。
主演はレイ・ミランドとジェーン・ワイマン。
1945年のパラマウント作品である。

ワイルダーの出世作にして代表作の1本。
それまで大根役者といわれてた主演のミランドがアカデミー男優賞を受賞して演技派開眼、というオマケまでついた非の打ちどころのない会心作、といわれている。

シネマヴェーラの怖い映画特集に出かける

「ハリウッド帝国の興亡」による影響か、「失われた週末」にはワイルダーの持つ、影の部分、おぞましさを好む陰湿さが濃厚に反映しているのではないか?と思った。
だからこそぜひ見たかった。

内容はアル中に苦しむ作家が恋人の無償の支援を受けて更生に向かうまでの姿。
ワイルダーらしく冒頭のシーンからエンディングに至るまで、人物配置、伏線などに怠りはない。

取ってつけたようなハピーエンドも、それまでの無償の愛を貫く恋人の人物描写が伏線として生きており、何よりスピーデイーに展開する結末のシークエンスが観客を納得させる。

アルコールを求めて街をさ迷う場面

しかしながら決して脇のエピソードとは言えない二つのシークエンスの緊張感はハピーエンドを旨とする当時のアメリカ映画とは思えないものがあった。

一つ目は酒代を求め、質草のタイプライターを抱えて、安息日のニューヨークを質屋を求めてさまよう主人公の描写。
二つ目は酒屋で強盗を働いた挙句、放り込まれるアル中専用の病院内の描写。

アル中病院の奇妙な看護師にあしらわれる主人公

先のシークエンスではドキュメンタルな手法を駆使し、ロケーションによる臨場感を強調し、後者では表現主義的とでもいおうか、デフォルメされた収容病院内の恐怖を強調している。
これら予定調和を無視した緊張感あふれる画面作りは、単にアル中患者の不安定な心理描写ということにとどまらず、カフカの小説の主人公のように不条理にもてあそばれる恐怖を連想させる、劇中でも特異な雰囲気に満ち満ちたシークエンスになっている。

アメリカに亡命を余儀なくされたユダヤ人であるワイルダーが経験したであろう、戦前のドイツ時代からそれ以降の「不条理への恐怖」が色濃くも反映してはいないだろうか。

おまけにというか、さりげなくユダヤ教への絶望、キリスト教へのあきらめも表現されている。
主人公が質屋巡りをする日がユダヤ教の安息日で、ユダヤ人が経営する質屋が全部閉まっており、彼ら(ユダヤ教)からは見放されたという設定と、主人公が前途に絶望し、十字を切るポーズで自殺を暗示する描写である。
一方で主人公を憐れみ、5ドルを恵んでくれた、バーを根城にする娼婦のアパートの目印がインデアンの塑像であることは何の暗示だろうか。

おぞましさ、不条理の描写というと、ルイス・ブニュエルという映画監督を思い出す。
女性の足、靴、ストッキングへのフェチを隠そうともせず、またキリスト教会の権威への明快なオチョクリなど、この御仁の作品はトンデモナイ描写の連続だが、スペイン人でメキシコで映画のキャリアを積んだブニュエルが、どこかすっとぼけた、憎めない、乾いたカラーを持っていたのに比して、オーストリア=ハンガリー帝国出身のワイルダーの描写はひたすら深刻で、暗く、イジワルで痛々しく映る。
その点については、長年の共同脚本家を務めた、ブラケットのワイルダー評は的を得ている。

後年、ワイルダー作品からはこのような直截的な恐怖心の描写は見られなくなったものと思われる。
が、よく見れば「お熱いのがお好き」はギャングから逃れ、女装して楽団に潜り込む追い込まれた二人組の話だし、「アパートの鍵貸します」は、がんじがらめの会社組織で理不尽な上司の要求に逆らえない、出口のない部下たちの話であった。

いずれも巧妙に隠されてはいるが、不条理に苦しむ人物が主人公ではあるのだ。

ワイルダーは生涯、理不尽で不条理な恐怖を己のテーマとして描き続けたのではあるまいか。
その主題を、笑なり、ペーソスなどに落とし込み、起承転末の効いた作劇にまとめあげることができるのがワイルダーの才能であり、ワイルダーのワイルダーたるゆえんであると思う。

ワイルダーのダークの部分が色濃く反映されている作品と思われる、「深夜の告白」(44年)と「サンセット大通り」はぜひとも見たいものだ。
できれば「情婦」(58年)なども。

シネマヴェーラ「恐ろしい映画特集」のパンフレットより

「松竹大船大島組・プロデューサー奮戦記」

先日、松竹映画の最高責任者だった、城戸四郎の伝記を読んだ。
その中で最も印象に残ったのが、松竹映画退潮期のころの描写だった。

昭和30年代前半には映画人口が減少に転じ、松竹も例外ではなかった。
伝記における、その時代の城戸ら経営者のふるまいの描写は歯切れが悪かった。
彼らから従来の「大船調」を越える発想はなく、業績の悪化におろおろし、部下が上げてくる企画には辛辣に対応する姿が見えるだけのようだった。

「松竹大船大島組」という本がある。
まさに混乱期を迎えようとしていた昭和34年に本社人事部門から、大船撮影所にプロデユーサーとして転勤し、3年後に再び本社に戻っていった、若き松竹社員の自伝である。

そこには、会社の変革期を迎え、若き人材として畑違いの現場に放り込まれつつ、もがき、奮闘した濃縮した時間があった。

本作は、松竹映画「変革」の時代を、現場の視点から、それも城戸ら経営者と対立したディレクターたちの側からでなく、城戸の部下でもありかつデイレクターを補佐する制作者の側でもあるプロデユーサーからの記録として、第一級の歴史資料でもあった。

昭和34年、社内の他部門から2名の若手社員がプロデユーサーとして大船撮影所に転勤した。
著者ら当事者たちにとっても青天の霹靂の人事異動だった。

着任早々、守衛にいぶかしがられ、庶務のおばさんにあしらわれ、現場のスタッフからは帰れコールが起きた。
撮影所は映画製作に情熱を傾ける芸術家、職人たちがとぐろを巻く特殊な世界だった。

当時、城戸四郎ら松竹の経営陣は、会社はこのままではいけないと思っていた。
松竹映画の退潮は、他の娯楽の台頭や、太陽族映画や錦ちゃんブームなど他社映画の台頭などがその直接原因だとしても、「大船調」にどっぷりつかった松竹の体質によるところが大きい、と自らも分析したようだ。
そのための「ショック療法」として若い社員を撮影所に送り込み、体質改善を図ったのだ、と著者は撮影所長から説明を受ける。

著者はまた、所長から松竹映画の問題点について質問され、答える。
曰く、若さがない、眠れる獅子、ワンパターン、時代に乗り遅れ・・・。
それは恐らくは社員全員が(城戸四郎を除き)共通認識としていたところのものであったろう。

当時30歳の著者は、撮影所内の若手のリーダー格に目をつける。
ディレクターシステムをとる松竹では監督の権力は絶大だ。
大監督には決まったプロデユーサーがすでについている。

そこで目をつけたのが当時20代の助監督だった大島渚。
助監督部発行のシナリオ集で大島の作品を読んでおり、新人俳優紹介の「明日の太陽」という大島が演出した短編を見ていた著者は、大島に面会する。

著者のプロデュース作品の一つ

ここから自伝はめまぐるしく展開する。

大島と意気投合したかに見えてどっこい、コイツは何を考えているかわからない奴だった。
著者は大島に脚本執筆を依頼した企画を2本続けて、所長から没にされてしまう。

大島(と共同執筆の野村芳太郎監督)はあえて、実現しない内容の脚本を書き、著者をプロデユーサー失格者として本社に送り返そうとしていた!のだ。
まさに大船撮影所を挙げての新人プロデユーサーいびりである。

その試練を乗り越え、大島らと和解(著者の人柄の良さを大島らが理解して和解の席に誘った)した著者は、大島のデビュー作「愛と希望の街」から、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」と、大島の松竹時代全作品を制作することになる。

「愛と希望の街」では所内試写の後、城戸四郎が自ら出席して、木下恵介ら主要監督と、作品スタッフを招集。
面前で作品評価をイエスかノーかで表明させる事態となる。
城戸を忖度した全員が「ノー」の評価を下す中、作品助監督の水川淳三だけが面前で「これだけの作品は今までの松竹にはありません」と答える。

作品の制作者でありながら、御前で「ノー」と言わざるを得なかった著者は後で水川にイエスといった理由を尋ねる。
水川は「大島を松竹の監督としてみるか、世界の大島渚としてみるかの違いだよ」と答える。

「青春残酷物語」の制作が決まり撮影が開始される。
監督の大島をはじめ、撮影の川又昂などのスタッフ、出演の桑野みゆきなどが醸し出す熱気と勢い。
試写では大島、桑野、川津祐介が正装で現れ、試写後は場内に万雷の拍手。
興行は劇場のドアが閉まらないほどのヒットとなった。

自らのパワーと明るさを、時代の観客が欲する姿に具現化して提供できる力量とカリスマ性をキラキラと(ギラギラか?)発揮する大島はこの時点で松竹の希望の星になった。

松竹待望の若きヒットメーカー大島の長編第2作の2か月後の封切りが決まった。

「太陽の墓場」はオリジナル脚本による釜ヶ崎を舞台にした人間劇だった。
主演に炎加世子という浅草の踊り子出身の女優を抜擢。
釜ヶ崎ロケの空気感、わき役陣の存在感なども効果を上げこれもヒット。
さらに2か月先に「大島次回作品」の封切りがスケジューリングされた。

力道山と丸山明宏のツーショット。これも著者の制作作品

そして問題の「日本の夜と霧」。
さしもの大島でも2が月ごとの新作公開ではネタがなくなり、シナリオ集の「深海魚群」をとりあげることにした。

決定稿ができないままの段階で本社役員会議に呼ばれた著者は、どんな作品かと聞かれ、結婚式で二人の過去がばらされる話・・・と大島に言われた通りのことを話すと役員たちは納得し、期待したという。

決定稿を読んだ著者が制作に難を示すが、大島は「これをやらないと前へ進めない。やらしてくれたらまた会社が儲かる映画を作る。予算3億円を8千万で収める」と反論。

著者にとってこの作品は、内容が理解できないうえに、興行的には全く期待できず、社員を裏切る結果になることはわかっているものだった。
所長に相談するが、大島がやりたいならということでゴーサイン。

撮影が始まったがスタッフの顔が暗く躍動感がない。
当たる作品とそうでないときにはスタッフの活気や意気込みが違ってくるのを著者は目の当たりにする。

上映中の劇場に行って著者が見たものは、20名ほどの観客が三々五々途中で出てゆく姿と、旧知の劇場支配人が「大島さんがこんな映画作ると思わなかった、君この映画わかるんだったら教えてくれよ…」という言葉だった・・・。

著者は責任を取って辞職すら考える。
大島の信念に対する責任ではない、ヒットしない映画と分かりながら何もできなかった制作者としての自責の念からであった。

「日本の夜と霧」の上映打ち切り後、並行して進んでいた、著者制作、石堂淑朗第一回監督作品「チンコロ姐ちゃん」も制作中止となった。
大島と小山明子の結婚式が松竹首脳部への糾弾集会のようになり、経営陣に大島一派をかばう人間がいなくなった。
大島渚、田村孟、石堂淑朗らは松竹を退社した。

富永一郎の人気漫画の映画化も企画していた

松竹激動の時代をまさにピンポイントで駆け抜けた著者。
人柄がうかがえるような筆致で映画の現場を描写しています。
完全に映画人になり切れていないところが逆に描写の信ぴょう性を付与しています。
素人に近い常識人としての感性がうかがえます。

それにしても稀代の映画人にしてタレントである大島渚の松竹時代全作品に制作者としてついていたとは!
直木賞作家の高橋治が松竹の助監督だった時に「東京物語」にサードか何かでついていた、ただそれだけで、後年外国での小津関連の映画祭でビッグネームとして遇された、ことに匹敵する得難い経歴です。

著者のプロフィール

昭和34年当時。
松竹退潮の時代を迎え、経営者が、「松竹自体に問題がある」と分析し手を打ったことは評価できます。
変革のターゲットを、良くも悪くも松竹映画を象徴する撮影所部門としたことも。

ただ、撮影所が若手社員一人や二人の人事交流でどうにかなるほどのヤワなものではなかったことと、肝心の経営者そのものが「大船調」を越える発想を持たなかったことが、結果につながらなかった理由なのではないか、とも思います。
正確に言うと、「大船調」にこだわる城戸に逆らう経営者が出てこなかったということなのでしょうが。

大島が「日本の夜と霧」にこだわった理由が今一つ判然としませんが、案外、ネタ切れになり、また緊張感ある現場が続いた新人監督にとって、2か月ごとのローテーションを強いる会社への一つの回答だったのかもしれません。
そこには、大島が「これをやらないと前へ進めない」というほどの強いこだわりと信念がありました。

「日本の夜と霧」は、学生運動から続く左翼活動への大島の意思表明をのみ唯一のテーマとした稀有な作品として、大島渚の代表作の一つとして残りました。
しかしながら、時代を先取りし、大衆を扇動せんばかりにその嗜好を読み取ることのできる、「有能な映画監督」としての大島はそこにはいなかったのです。

人間性と常識性に恵まれた新人プロデユーサーであった著者は、大島という稀有の存在を世に出すにあたって、その全部を理解することはできなくとも、「有能な監督」としての大島への共感力に恵まれ、邪魔もせず、言わば大島にとって願ってもない相性の存在だったのかもしれません。

「日本映画を創った男・城戸四郎伝」

映画好きの山小舎おじさん。
その中でも最近興味あるジャンルは、映画興行史です。

城戸四郎の伝記を読む機会がありました。
大正11年、松竹に入社以降、松竹映画一筋に生き、昭和52年に死ぬまで同社の映画部門のトップに居続けた人物の伝記です。

著者は小林久三。
昭和9年生まれで、昭和36年に松竹に助監督として入社、その後脚本部を経て制作者になっている人で、有名になったのはミステリー小説で賞をもらってから。
本作「城戸四郎伝」はキネマ旬報に連載したものをまとめたものだそうです。

日本の映画産業は、松竹の白井信太郎、東宝の小林一三を中心に興きてきた。
京都太秦撮影所に至るマキノ一家という系統もある。
マキノに出入りするヤクザ一家のつかいっぱしり端を発し、大映社長に上り詰めた永田雅一がいる。
日活の堀久作もいる。
これらは、あるものは必然的に、あるものは偶然に映画というダイナミズムもしくは金の生る木に吸い寄せられた人物で、それぞれの会社・組織のオーナーもしくはそれに近い存在だった。

いずれの方々も、例えばサラリーマンなど務まりようもない個性の持ち主であり、一般常識とはかけ離れた行動力と発想力で周囲を巻き込んでゆく強烈な存在だったことが容易に想像できる個性の持ち主たちだった。

本の目次

城戸四郎はどんな存在か?
松竹映画の企画決定権を生涯にわたって持ち続けたという意味において、本来の意味でのプロデユーサーとしては、社内で唯一の人物だった。
その意味では、大映社長の永田雅一や、初期東映のマキノ光男の印象と重なる。

永田は、自分が社長時代の大映作品では、その巻頭で堂々と「製作 永田雅一」をクレジットさせ、自社製品にマーキングしていたが、その作品群の中からベネチア映画祭グランプリの「羅生門」が生まれた。

マキノは戦後間もない新生東映の東京撮影所長として、「右も左もあるかい!ワイらは大日本映画党や」と、東宝をレッドパージされていた今井正を東映に招き、「ひめゆりの塔」を製作、大ヒットを飛ばした。

その点、エリートの城戸は、泥臭さはなく、万事スマートである。
常識的、良識的なというよりは安全パイを外さない城戸のイメージはそのまま松竹のそれと重なる。

仕事のやり方も、例えば「女優を妾にする」(新東宝社長:大倉貢)のではなく、頭を使って撮影所の仕組みを変えてゆく方法に寄っていたようだ。

当初は俳優の力が強く、彼らのわがままに左右され、予算を浪費していた撮影所を、最初は脚本部門の育成に注力することにより、次には演出部門に力を持たせることにより、改善していったのが城戸だった。

これはディレクターシステムと呼ばれるもので、松竹の伝統となった。
ただしいずれのシステムであってもトップには城戸が君臨していることを前提としたものだったのだが。

松竹映画ただ一人のプロデューサー・城戸のポリシーは、一言でいえばヒューマニズムだった。
それは松竹映画にあって大船調と呼ばれた。

著者・小林は、松竹映画の一大功労者として評価ゆるぎない巨人を、大船撮影所の大部屋俳優だったり、後輩の制作者だったりの目を通して描く。
そこには、力のないもの、運のないもの、自分の好みに合わないもの、自分に逆らうものには冷徹で残酷でさえある城戸の姿が現れる。

昭和30年代後半。
松竹も例にもれず、否、他社に率先して、斜陽の道を転がり落ちる映画産業の時代。
城戸もトップとして対応を希求していたものの、企画は空回りする。

若手監督抜擢のいわゆるヌーベルバーグ、武智鉄二の「白日夢」「紅閨夢」「黒い雪」と、城戸らしくない企画が続いた。
しかしながら、ヒットした武智映画の「エロ」についてはスルーするが、ヌーベルバーグの「政治性」にははっきりと拒絶を示す城戸がいた。
大島渚の「日本の夜と霧」の上映打ち切りの決定者は城戸四郎だった、というのが著者の見立てである。

「日本の夜と霧」打ち切りの真相を著した部分

森崎東という監督がいた。
「喜劇・女は度胸」でデビュー。
「男はつらいよ」の脚本にも参加し、「フーテンの寅」では監督。
山田洋次作品とは一味違う、陰影、泥臭さを持つ作品で、松竹離脱後も作品を発表し続けた。

個性的な作風のこの監督を自由契約にした(松竹をクビにした)のも城戸だった。
城戸は当時の制作本部長に対し、自分の目の前で森崎への解雇の電話連絡を行うように命じたという。

森崎東解雇を著した部分

映画プロデユーサーとしての冷徹さはともかく、また小津、木下らをフィーチャーしていた黄金時代はよいとして、60年代に入ってから、時代性や新しい才能についていけなくなったあたりが城戸の映画人としての限界だったのだろう。

さて、城戸自身、脚本執筆や、企業としての撮影所経営には興味があっても、映画というダイナミズムには果たして興味があったのか?
あったとしても、そのダイナミズムに太刀打ちできない自分にどう折り合いをつければいいのか、最後まで分からなかったのではなかろうか?という疑問がわく。

1974年に封切られた、松竹映画の金字塔「砂の器」の企画に最後までゴーサインを出さ(せ)なかったのも城戸なのだった。

映画というものの成り立ちの難しさ、不思議さをその興行史の側面からも感じる山小舎おじさんでした。

成澤昌茂監督追悼上映in上田映劇

今年亡くなった、成澤昌茂という映画監督が上田出身とのことで、地元上田映劇で追悼上映があった。
上映されたのは、「裸体」(1962年 松竹)、「四畳半物語・娼婦しの」(1966年 東映)、「花札渡世』(1967年 東映)の3本。
全作フィルム上映で、パンフレットにいわく「最初で最後の特集上映!お見逃しなく!」。
山小舎おじさんは早速出かけました。

今回の特集上映のチラシ

成澤監督は県下の名門・旧制上田中学の出身。
16歳で松竹京都に入社し、溝口健二監督に師事しながら日大芸術学部を卒業。
恩師に倣って松竹から大映に移るなどした。

監督作品は全部で5作品。
脚本家として活躍し、溝口作品の「噂の女」(1954年)「赤線地帯」(1956年)のほか、「宮本武蔵」(1961年 内田吐夢監督)「関の弥太っぺ」(1963年 山下耕作監督)など全盛期の日本映画の力作・名作の脚本を執筆。
一方で「ひも」(1965年 関川秀雄監督)に始まる東映の「夜の青春シリーズ」や後の「夜の歌謡シリーズ」などで数々の脚本を担当した。

今回の特集で見たのは、「裸体」と「四畳半物語・娼婦しの」の2本。

上田映劇の側面を撮る。昔の映画館の建物は奥行きも深い

まず「裸体」。
1962年の松竹作品。

1962年は、ヌーベルバーグといわれた若手監督(大島渚!)の登用と、彼らの手による気鋭の諸作品が現れては消えていった一瞬の嵐の直後。
映画観客動員数の凋落傾向に歯止めがかからず、といって現状打開策の若手監督登用もその気負いととんがり具合が、映画事業という産業・商業とマッチングすることもないことがわかり、さらに松竹(と映画産業)が暗中模索していた時期と思われる。

なぜ、すでに松竹を退社し、溝口健二の下で脚本家として名作を連発し始めていた成澤に監督デビューの話が来たのか?

特集上映チラシの裏側

ネット検索ではそのあたりの事情は出てこないが、想像するに、ヌーベルバーグで「失敗」した松竹ではあったが、観客動員的には打開策が急務な状況には変わりがなく、撮影所育ちで急進思想を持たず、女性を主人公にした風俗ものが得意そうな若手に撮らせてみた、というところなのではないだろうか?

この作品に対する松竹の期待は、一線級のキャステイング、カラー作品、などのお膳立てに表れている。
その土俵上で成澤監督は持てる力を精いっぱい発揮しているのが感じられる。

漁村の景色を色濃く残す当時の船橋で銭湯を営む実家から銀座の税務事務所に通う主人公(嵯峨美智子)が体一つで浮世を漂う姿を追うストーリー。 
設定は19歳という主人公を当時27歳の嵯峨が演じるが、見えなくもない。
それくらい嵯峨美智子がまだまだ全盛期の輝きを持っていたし、時代背景も活気があり、日本映画も元気があった。

なんの思想も背景も野心もない一介の女性が、その欲求のままに振る舞う姿に、旧来のしがらみにとらわれたまわりの人物たちが振り回されてゆく。
天然で無垢な女性を演じる嵯峨は、吹っ切れたように画面ではじける。
この後の作品では、「救いのないほど悪意に満ちた」女性像の描写も辞さない、成澤監督も、本作ではひたすら主人公嵯峨美智子の明るさと輝きと無軌道さを追っかけている。

ちょい役の松尾和子が、職場で退社前に机の下でストッキングをはき替えるシーンで登場したり、金を前にするところりと態度を変える浪花千恵子と嵯峨の銭湯での入浴シーンがえらく長かったり、実家で内職する浦部粂子が夏とはいえ背中が裸のかっぽう着姿だったり、と成澤監督の女性表現がデビュー作からさく裂する。
そのこだわりたっぷりの「炸裂」こそが、当時のまだ余力のあった日本映画の現場によって生み出された豊かさだったりする。

「裸体」の嵯峨美智子(左)と千秋実(右)

60年代の、「旧来のしがらみに反発する心情」の空気感では、ヌーベルバーグと軌を一にする時代性に彩られた作品。
主人公が純粋無垢な存在として描かれる点でも共通性がある。
純粋無垢な主人公の「蹉跌」を、時代や世の中のせいにせず、突き放して描いている点に成澤監督の立脚点を感じる。

長くなりそうですが、「四畳半物語・娼婦しの」もいきましょう。

1962年の監督デビュー作から4年。
東映から声がかかったのですね。
成澤監督はこの作品から4本続けて東映で撮っています。

本作はモノクロ。
キャステイングは、当時、東映から佐久間良子に次ぐ看板女優としての待遇を受けていた三田佳子。
脇に木暮美千代、野川由美子。
男優陣に、田村高広、露口茂。

舞台となるもぐりの娼家の建物、中庭、玄関前の路地、表のドブ、のセットは入念に作られています。
また、全篇で30数カットという長回し撮影では、クレーンを使った移動撮影のほか、パンフォーカスがかった縦の構図もみられます。
ここらへんは、師匠・溝口の影響というか、マネでしょうが、三田佳子が京都市民映画祭で主演女優賞を受賞した事実をみるまでもなく、撮影所の力を結集した力作であることがわかります。

娼家という底辺に生きる女性を描いています。
この作品あたりから成澤監督の女性の描き方に容赦がなくなり、おかみさんの木暮美千代は救いのない強欲で冷血なやりて婆に描かれています。

三島ゆり子扮する「奥さん」が男を買いに、娼家を利用して通ってくる描写もあります。
こんなことが実際にあったのでしょうかね?

浦部粂子扮する老女が、夫が腹上死したあとの娼家へ乗り込んできて、腹上死の相手だった野川由美子と取っ組み合いをするシーンは、成澤監督の女性描写の容赦のなさが徹底して、「やりすぎ寸前」の思いで見ました。

これらの救いのない女性描写は、次作の「花札渡世」で、主人公に絡む小林千登勢が、裏表があり策略を尽くす、まさに救いのない悪人に描かれていたのを思い出させます。
成澤監督なりの女性(人間)本来の姿の希求なのでしょう。

現実の救いのなさにあって、唯一の救いを象徴する存在として、三田佳子扮する主人公が描かれています。
当時25歳の三田は、その演技力も含めて期待に応えています。
スター女優として「もともと持っているもの」が感じられます。

三田がお客の待つ座敷に入る時の一連の所作や、なじみの客とリラックスした時の、体育すわりのような崩れた座り方など、成澤監督の細かな演出が冴えます。

また、特筆したいのが露口茂。
さらっとカリカチュアライズして流すような、男優陣に対する成澤演出にあって、時に狡猾、時に情けないヒモを露口は、大芝居的ながら演技力十分に演じていて、後のニヒルなだけの印象が一変しました。

今回の特集上映、「裸体」の時はほかに2人、「四畳半物語」の時は3人の入場でした。
「上田の観客には受けなかった。むしろ遠方からの来館者があった」、とは館側の弁。

これに懲りず、上田映劇には頑張ってほしいものです。
気鋭の企画でした。
なお、上映プリントの状態は良かったの.ですが、セリフの再生音がやや不明瞭に聞こえたのは、プリントのよるサウンドトラックの再生力の限界のせいか、劇場のスピーカーの感度のせいか、山小舎おじさんの耳の老化のせいか?
どちらだったのでしょう?

上映が終わった時間は18時半過ぎ。
向かいの焼き鳥屋からは明かりと煙が漏れ始め、名にし負う上田の夜が始まる映画館前。
かつての「飲み屋の街」上田の余燼がわずかに漂います。
山小舎おじさんには珍しいライトアップされた上田映劇を眺めながら帰途に就きました。

夕闇迫りライトアップされた劇場正面風景

雨の上田映劇で 「時をかける少女」

明日の天気予報は雨。
上田映劇の上映情報を見たら「時をかける少女」をやっている。
当日、朝8時に山小舎を出て上田に駆けつけた。

上田に残る「興行街」には上田映劇だけが残る。隣のストリップ小屋は廃業。否これも映画のセットの名残りか?

うえだ子供シネマクラブの第9回の企画とのこと。
シネマクラブは、映画館を利用して子供の居場所を作ろう、という趣旨のもと、NPO法人が月2回、上田映劇を舞台に行っている由。

上田映劇って、そもそもがNPO法人だし、映画に限らず演劇の舞台でもあるし、ロビーには地域の有志が、情報誌、手芸品、Tシャツ、古本を並べているし、すでに地域の居場所ではあるんだけどね。

「時をかける少女」。
1983年作品。
監督:大林信彦。
主演:原田知世。

今回はフィルム上映。
もぎりにいた支配人に「映写技師はどうするの?」と聞くと「私がやります」とのこと。
日大芸術学部大学院出身で地元にUターンしたという若い支配人には、年に何回かの入場ではあるにせよ、そのたびに映画について話しかけたくなる山小舎おじさんです。

半年ぶりの上田映劇。
ロビーの雰囲気は変わらないが、あらたな情報誌が展示してあるなど、地元有志の参加の度合いが増えているような気がする。
入場者の感想ノート(感想文にはスタッフからの返事が赤字で追記されていた)が見当たらくなったのは残念だったが。
これもコロナか。

館内の設備にも変化があった。
水漏れするので補修カンパを募っていたこともあった天井には扇風機が回り、舞台の袖には大掛かりな装飾が・・・。
支配人に聞くと、扇風機はもともとあったが、舞台袖の装飾は映画のロケの大道具とのこと。
ロケのセットを壊さないのも上田映劇流だ。

館内の舞台袖の装飾は映画のロケセットだという

さて、映画上映が始まった。
観客は朝イチと天候のせいもあるのか、ほかに一人のみ。

見終わって、感動している山小舎おじさんがいた。

原田知世がいい。
少女が戸惑い、成長するけなげな姿がいい。
彼女の不安、愛情の芽生えなどがドラマチックに表現されている。

あるいは、現実の少女の実像を追う映画であれば、作り手の先入観を裏切る瞬間の表現も避けては通れないだろうが、この作品は大林監督(そして角川春樹制作者の)主観が優先された作品だ。
描かれているのは少女像を通しての作り手の幻想だ。

同時に、デジャブ(既視感)を表現した映画でもあった。
ストーリー上、未来人と絡むタイムトラベルの話ということになっているが、そこに至るまでの数日間の表現は、まさにデジャブに戸惑う少女の描写に終始している。

主人公の不安な心理を表す、影や夜を多用したシーンが続く。
うまくカットをつなげ、主人公同様、観客もタイムトラベル(スリップ?)というデジャブを味わわされる。
主人公の不安感はデジャブによるものであり、同時に思春期独特の感情によるものでもあることに気づかされる。

デジャブの混乱と、大人へと向かう成長の感情がクロスするクライマックスのシーンでは、ここまでほぼ封印してきた、大林監督の映像テクニックがさく裂する。

駒落し、脱色、着色、書込み、逆光、移動、を駆使したカットは、大林初期の16ミリ作品「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1967年)以来の十八番であり、大林作品必須の映像テクニックだ。

他にも大林監督がこだわったカットに、原田知世が素足に下駄をはく姿があった。
「日本全体のデジャブ」ともいえる尾道の裏町風景を背景に、制服姿や昭和の私服姿で現れる少女の描写は、大林監督の念願でもあったろう。

原田知世は、アップに耐え、アップになると魅力が現れる。
このひとの20代の代表作を見てみたいと思った。

「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」は、自主映画の名作といわれ、山小舎おじさんは大学生時代に見る機会があった。
あの日、上映が終わった瞬間に観客が一人、ホールの舞台に駆け上がり何かしゃべろうとした。
期待にざわめく会場。
結局、舞台に駆け上がった彼はうまく言葉が出ずにいて、やがて引っ込んでいった。
それは、観客の映画的興奮を代弁しようとしたかのような、夢の中のような、それこそデジャブのような光景だった。

大林作品というと、「いつか見たドラキュラ」の目くるめく映像テクニックとともに、舞台に駆け上がった青年の姿を思い出す山小舎おじさんです。

光文社新書「松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち」を読む

「映画」には様々な切り口がある。
作品からの切り口、撮影技術や演出などに焦点を当てた切り口、脚本からの切り口。

一方、映画作品は公開して完結するものである。
映画作品の公開は、それによって作品評価の機会となるだけではなく、高額な制作費用の回収の意味を持つ。
映画作品と興行とは切っても切れない関係を持っている。

「松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち」という新書を見かけたので買ってみた。
映画にとって切っても切れない興行の世界を理解したいと思った。

この本は、現在でも映画興行の世界に君臨する2社の創業者の生い立ちから、主に戦前までの推移を追った労作だった。
その時代は映画製作と興行が隆盛を迎える前のことで、興行は歌舞伎などの芝居を出し物とする時代だった。
両社が、歌舞伎、新劇、歌劇、レビュー、映画などを出し物に、興行界を、あるいは制覇し、あるいは形作ってゆく姿を、ひたすら客観的に、細かく追った本で、2,3行読み飛ばすと流れがわからなくなるほどの情報量に満ち満ちた内容だった。

松竹の歴史

松竹の歴史は、白井松次郎と大谷竹次郎という双子が明治10年に誕生したのをきっかけとしている。
父親は、祇園の芝居小屋の売店を経営していた。

父親がある芝居小屋のオーナーになったことから、双子が芝居小屋の経営に参画し、やがて京都新京極、大阪道頓堀の劇場を次々に買収していった。

前金制度で、銀行融資を受けられなかった時代の芝居興行にあって、松竹(この時代にはマツタケと呼ばれていた)の経営戦略は一つの芝居町の劇場を独占し、歌舞伎、新劇、レビュー、喜劇などの出し物をそろえ、どれかが不入りでも、別の人気の劇場がカバーするというものだった。

松竹は単に数多くの劇場を経営するだけでなく、劇場経営に関する悪習を改革していった。
木戸にたむろするごろつきの排除、幕間の時間厳守、役者のセリフ忘れの厳禁など、現在では当たり前だが、当時は慣行だった悪習を経営者として断っていった。

一方で、関西の歌舞伎界の名優、中村鴈次郎と出会い、松次郎が終生のマネージャーとして盟友関係を結んだことが後々にわたって松竹を助けた。

明治42年にはその鴈次郎が歌舞伎座に客出演することによって東京進出を果たし、後の歌舞伎座買収に至る道筋をつける。
この時代には東西の歌舞伎役者のほとんどを支配下としており、浅草に劇場を得て、東西の歌舞伎界を支配するに至る。

大正9年映画部門に進出する。
43館の映画館をチェーン化し、配給、興行事業からのスタート。

大正13年には京都下賀茂に撮影所を作り映画製作を開始。
林長二郎(のちの長谷川一夫)が専属の人気スターとなる。

映画部門の責任者として松次郎の娘婿、城戸四郎(のちの松竹映画社長)が入社する。

松次郎が歌劇へ乗り出し、昭和3年には楽劇部が設立、水の江瀧子が断髪男装で人気を得る。

昭和12年、松竹株式会社が設立し、東西の演劇部門と映画部門を併合がなった。
ここからショウチクと呼ばれることになる。

戦時統合により映画会社が3社体制となった際にも単独で生き残り、戦後を迎えることになる。

松次郎は昭和26年に、竹次郎は45年に死亡。

東宝の歴史

創始者の小林一三は、明治6年、山梨県韮崎の裕福な商家の長男として生まれ、慶応大学を経て三井銀行へ入行する。
学生時代から新聞小説を執筆するなどの一方、芸者に入れあげ、見合い結婚の相手とは離婚し、当該芸者と再婚するなど、素行不良といわれ、青年時代を過ごす。

後の阪急電鉄につながる鉄道会社に転職。
沿線の宅地開発、ターミナル駅直結の百貨店、宝塚における劇場、遊園地の経営など、鉄道会社による需要創出のビジネスモデルを発案していった。

大正2年には、温泉施設が売り物だった宝塚に、施設の余興としての唱歌隊(のちの宝塚歌劇団)を結成。
小林自ら脚本を書くなどして、終生これに入れ込むこととなる。

小林の興行に関するポリシーは「容易に安価に大衆に芝居を提供する。芝居は芸術であると同時に事業でもある」というもの。
夕方からの興行、料金の低廉などを行い、そのためにも大人数収容の大劇場建設を目指した。
マーケットリサーチの結果、日比谷に劇場街を作り上げていった。

松竹が既存の劇場を買収する方式で拡大していったのに対して、劇場街の創出と建設を行った。
阪急は鉄道事業を中核とし、不動産、興行、デパートなどの事業を展開する唯一の企業体となった。

昭和5年に、宝塚に映画会社を設立。
昭和7年、株式会社東京宝塚劇場を設立、東宝がスタートした。

映画部門は配給事業からスタートし、PCLなどの制作会社を併合してのちに制作を開始した。
松竹から人気スター林長二郎を引き抜き、長谷川一夫として売り出した。

実は職業野球の分野にも読売より早くに目を付けたのが小林で、宝塚運動協会というリーグを作ったが後に解散したこともあった。

戦時統合時代も松竹と並び単体で生き残り、戦後を迎えた。

両社の共通性、そして「興行」とは・・・

ここに1冊の新書がある。
「悪所の民族誌 色町・芝居町のトポロジー」(文春新書)。

大阪・釜ヶ崎に隣接する場所で育ち、新世界で遊んだという著者が説くのは、「悪所と呼ばれる地域の三つの特徴は、その場所が、色里であり、芝居町であり、また被差別民の集落が隣接していたこと」。

この意味では松竹の松次郎と竹次郎はまさに「悪所」に生まれ育ち、「悪所」に寄って立った存在であった。
二人が被差別民かどうかは知らないが、芝居小屋の売店を生業とする家に生まれ、生涯を劇場の経営と役者との付き合いにささげた事実は、松竹と「悪所」の生まれながらの強い関係性を表す。

一方で裕福な商家生まれで学歴もある小林一三は、しかし若くして文芸に耽溺し、芸者に入れあげて素行不良といわれて若き日を過ごす。
その後の半生を、少女歌劇と劇場経営にささげた小林は、生まれながらではないにせよ、宿命的に「悪所」に入れあげた人生を送ったことになる。

「悪所の民族誌」によれば、近世の三大悪所は、大阪・道頓堀、京都・四条河原、東京・浅草という。
これはそのまま松竹が入れあげてきた地域と合致する。

また、歌舞伎は、遊女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎と発展したが、もともとは遊女が行ったもので、色里と芝居町は表裏一体とも記す。

小林一三が芸者に入れあげ、少女歌劇にこだわった精神と、日本の在野の芸能史の精神は根底で共通してはいないだろうか?

「悪所」をキーワードに、興行の世界で生き残ってきた松竹と東宝の共通性が際立つ。

現在、松竹は映画撮影所を手放しているが、歌舞伎人気と劇場経営により会社を維持している。
東宝は、映画撮影所は維持しつつ、阪急資本をバックに、宝塚歌劇団の人気などにより経営は盤石に見える。
消えていった映画会社に比べて、両社のしたたかで強靭な経営戦略がうかがえる。
これも「悪所」がもたらした生命力のためであるのだろうか。