「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」を読む(上)

三鷹駅北口の水中書店という古本屋で800円で購入した本を読んでいます。
599ページの大冊で、本体定価3,689円1994年初版の文芸春秋社刊の翻訳本「ハリウッド帝国の興亡」です。

小中学生時代に、リバイバル上映で「80日間世界一周」や「エデンの東」「シェーン」などを映画館で観て映画に心惹かれ、長じては生意気に監督別に作品を追っかけたりしてきた山小屋おじさんの映画人生ですが、齢を越えてようやく映画を「線」で観ようと思い立ちました。

個別の作品に感動したり、好きなスターや監督作品を追いかけるのが、「点」で観るということならば、映画の歴史の流れにのっとった形で作品を選択・鑑賞するのが「線」で観るということだと、遅まきながら気づいたのです。

名画座・渋谷シネマヴェーラではずいぶん前から「映画史上の名作特集」というのをやっていて、サイレント時代の「イントレランス」(1916年)から50年代の作品までデジタル上映しています。
当初は、翻訳なしの素材をやっていましたが、今では自前で翻訳しているようで、歴史上の名作を系統的に(フィルムノワール特集、ミュージカル特集、サイレント時代特集など)上映しています。

最初はこれらの古い名作群のラインナップに心が動かなかったのですが、フィルムノワール特集などで1,2本観てみるとそこには実に味わい深いものがありました。
「夜の人々」(1948年)、「ハイシエラ」(1941年)といった作品は、映画の原点ともいうべき要素が詰まっており、見ごたえがありました。

思い返してみると、おじさんが小学生後半から高校生にかけてテレビの古い洋画放送を観たときも、様々な作品に感動したものでした。
当時は淀川長治さん解説の日曜洋画画劇場のほか、金曜、土曜の夜、日曜の昼間、平日の昼間などに洋画放送があり、そこで数々の映画に接したものでした。

テレビで数々の作品にアトランダムに接したことは財産になりました。
「我が谷は緑なりき」(1941年)、「私は死にたくない」(1958年)、「アパートの鍵貸します」(1960年)、「終身犯」(1962年)などをの作品を思い出します。

ということで、山小屋おじさん、映画鑑賞人生50年の膨大な時間をブラウン管とスクリーンにかけてたどり着いたのが、1940、50年代のアメリカ映画(特にフィルムノワールと呼ばれる分野)と大蔵貢時代の新東宝映画、という魅力的な?「2大分野」です。
映画の歴史という「線」の中で浮かび上がってきた二つの「黄金の時間帯」です。

特に40年代のフィルムノワールがアメリカの映画界で生まれた歴史上の必然や、日本では知られていなかった作品群を知りたいなと思い、関連する本なども探してみたのです。40,50年代のアメリカ映画を「線」上で観るための参考書が欲しかったのです。

そんな時に見つかったのが「ハリウッド帝国の興亡」でした。

著者のオットー・フリードリックという人は1929年生まれ。40年代の映画はボストンでの学生時代に週2、3回観ており、イングリッド・バーグマンの大ファンで、ロナルド・レーガンが死を演じる場面には涙を禁じ得ない、との自己紹介。

本著作では40年代を各年ごとに章で区切り、著者が選んだエピソードを、辛辣な批評を加えるかたちでピックアップしています。
関係者にインタビューなどはせず、文献を漁ってまとめる手法で、矛盾するエピソードも並立に示して、全盛期のハリウッドの歴史、つまりは映画そのものの歴史についてつづっています。

前半の1945年までを読みましたが、そこでつづられているエピソードは、例えば・・・。

ハリウッドの撮影所で絶対的な帝王として君臨するプロデユーサー達。
MGMのルイス・B・メイヤー、ワーナーのジャック・ワーナー、パラマウントのアドルフ・ズーカー、20世紀フォックスのダリル・F・ザナックなど。

⇒ロシヤや東欧出身で、屑屋や職人から身を起こしたそうした初代「帝王」たちの無知ぶりと暴君ぶり。
ジャック・ワーナーは靴職人時代からの癖で、撮影所内を歩いていても釘が落ちていると拾ってくわえていた、など。

⇒コロンビアの「帝王」ハリー・コーンのオフィスにはイタリアファシスト党の党首・ムソリーニの肖像画かかっていたり、MGMの「帝王」メイヤーのオフィスは、レザー張りの壁、4台の電話、暖炉、グランドピアノがすべて白で統一されていたそうです。

とにかく「帝王」たちは、『独りよがりで、無学、貪欲、冷酷で人をだます』人たちだった、とあります。
著者の「帝王」たちに対する姿勢には妥協も忖度もありません。
経営者たちの実像を描くことは、夢の工場と言われたハリウッドの産業としての映画のある意味での背景というか実像に迫ることでもあります。

戦前にドイツから亡命してハリウッドにたどり着いた映画人たち。
フリッツ・ラング、ビリー・ワイルダー、ロバート・シオドマークなど。

⇒フリッツ・ラングのハリウッドにおける成功。
「激怒」(1936年)がヒットして以降、ドイツ人でもアクション映画が撮れると認められたこと。
ビリー・ワイルダーのハリウッドにおけるあくなき成り上がり。

亡命してきた文化人たちのこと。
トーマス・マン(文学)、アーノルド・シェーンベルグ(音楽)、ベルナルド・ブレヒト(演劇)達とその顛末。

⇒なぜかハリウッド周辺にたどり着いた彼ら文化人亡命者。
その多くは祖国での栄光に比して、最後までみじめな境遇にあったこと。

ハリウッドのスタッフ組合と、ロシア移民のチンピラだった、ウイリー・ビオツという組合ゴロの顛末。

⇒チンピラ上りが組合のボスを買収し、ストをチラつかせるなどして会社側をゆすり、のし上がっていった末の悲惨な終焉。

戦争時におけるハリウッド人たちのふるまい。

⇒戦時債券を買った人にキスでお礼するヘデイ・ラマールとラナ・ターナーと、軍隊慰問に特化してゆくボブ・ホープのことなど。

10万ドルの予算で年1本を自由に制作できる破格の条件でRKOというハリウッドの弱小スタジオに乗り込んだ23歳のオーソン・ウエルズが、ジョージ・シェーファーというプロデユーサーの後ろ盾を得て、「市民ケーン」を製作公開するまでの手練手管。

⇒モデルとなった新聞王・ハーストに批判的だとバッシングの中、ウエルズは「テスト」と称してカメラを回し撮影を敢行。
作品完成後は、敵対陣営からの高額でのネガの買取り申込みをシェーファーが謝絶。
作品公開直後にRKOが買収され、制作者:シェーファー、監督:ウエルズともに、RKOを追放されるまでのわずかの間に、「市民ケーン」という映画史上のベストワン作品(ウエルズが思うままに作った最初で最後の映画)が生まれたことの奇跡。

俳優、スタッフを7年間縛り続けるハリウッド独特の契約システムと数々の犠牲者たちとその反撃。

⇒奴隷的契約に風穴を開けた、ワーナーに対するオリビア・デ・ハビランドの抵抗。

・ハリウッドの「帝王」たちが、末端の映画館までを経済的に支配した「ブロックブッキング」は1939年に独禁法違反となっていたが、「帝王」たちは無視していた。
そこに1944年司法省の告発が入って「帝国」の独占にひびが入り始める。

・のちの「ハリウッドの赤狩り」の萌芽ともいえる、映画人のいわゆるブラックリストが、撮影所の「帝王」たちによって作り始められた。

著者お気に入りの監督のエピソード。
オットー・プレミンジャー、チャールズ・チャップリン、ジョン・ヒューストン、プレストン・スタージェス達。

⇒これらの監督たちがハリウッドで仕事するに至るまでの様々な経緯と、そのもてる才能のこと。
そして彼らを高額報酬で「囲った」挙句、その才能を換骨奪胎せんとする、撮影所の「帝王」たちとの闘いと往々にしての敗退。

著者お気に入りのスターのエピソード。
リタ・ヘイワース、エロール・フリン、バーグマン、レーガンなどについての様々なこと。

⇒スペイン人の父を持ち、黒々とした巻毛の少女が、直毛の赤毛に直して芸名をリタ・ヘイワースとし、「カバーガール」(1943年)で女神になるまで、など。

以上、基本的に著者の好みに寄った選別でつづられるエピソードではありますが、リアルタイムに歴史に接してきた記述には臨場感があります。
といっても著者はハリウッドに暮らしていた、いわゆる関係者ではないので皮肉と辛らつを込めた距離感もあります。

ハリウッドのスキャンダルと言えば、写真をメインに、チャップリンやエロール・フリンなどのスキャンダルを集めた「ハリウッドバビロン」という本もありました。

本作もスキャンダルを扱ってはいますが、歴史、政治、芸術性の流れを見失うことなく、独特のユーモアある筆致が魅力的です。

本の後半が楽しみです。

「石井輝男キングオブカルトの猛襲」VOL.3 最終兵器「直撃地獄拳・大逆転」

というわけで、ラピュタ阿佐ヶ谷の石井輝男監督特集も最終週。
今回は伝説のハチャメチャ空手映画「直撃地獄拳・大逆転」(1974年東映)を観に行ってきました。

実は前日に、この作品を観ようとラピュタを訪れた山小屋おじさん。
4番目で入場できる券を買い、昼食へと外へ出た。
13時開映と思い込み、ラピュタへ戻ったのが12時45分頃。
そこでは、平日の初回とはいえ誰もいないロビーで、スタッフのお兄さんが一人、次回特集の看板用ポスターを繋ぎ合わせていました。

13時上映と思い込んでいたおじさんは、開映10分前に「10分前だけど?」とお兄さんに声をかけましたが、帰ってきた言葉は「12:30から始まってます」。
おじさんは焦ったが、すでに上映開始を30分近くも過ぎており、入場は不可。

結局は入場料を払い戻してくれましたが、ラピュタのスタッフには大変なご迷惑。
さぞ、思い込みの激しいクレーマー爺め、と思ったことでしょう。お手数かけました。

これが老化というものか・・・。
自分のせいとはわかりつつも、おじさん自身にもショックな出来事。

折からロビーへやってきた、人生の先輩と思しき70がらみの御仁と雑談して心を落ち着ける。
先輩はバスの無料パスを駆使して、都内の劇場をめぐるのがご趣味とのこと。
三山ひろしなどの演歌歌手が座長を務める講演や、会員パスを使っての映画鑑賞がターゲットで、この日も池袋の文芸座に高峰秀子特集を観に行ったものの番組が変わっており、池袋から中野行きのバスに乗って阿佐ヶ谷まで来たとのこと。

インターネットは使わないので、もっぱらビラを集めて鑑賞のスケジューリングをしているとのことで、山小屋おじさんにも演歌講演や文芸座のビラをくれました。

この先輩との雑談で、この度の「ショック」もどうにか和らいだ山小屋おじさん。
出直しの阿佐ヶ谷駅へと向かう元気が出たものでした。

殻に閉じこもりがちな映画ファンとの雑談は、旧知の間柄でもなくてはほとんどありえないもの。
対話に応じてくれた先輩には感謝のみ。
気を付けてお過ごしください。

さて翌日懲りずにラピュタへ。
今度こそ12:30分の上映開始に間に合うようにロビーへ。

「直撃地獄拳・大逆転」。
シリーズ第1作目の好評を受けて石井監督が受けざるを得なかった作品とのこと。
内容のハチャメチャ具合がすべてを物語っています。

たとえ監督さんの希望の企画ではなくても、プロならばメッセージ性を付与するなりして仕上げるところ、本作にはそういったものがほとんど見られません。
当時空手アクションでバリバリだった、千葉真一のアクションはたっぷりフューチャーしているものの、後の時間はおふざけと楽屋落ちに終始しています。

その楽屋落ちに付き合うのが、丹波哲郎、嵐寛十郎といった、石井組の重鎮たちなのですから、監督の不思議な魅力こそおそるべしです。
ラピュタの石井監督特集の最終兵器として、満を持しての上映です。

主演の千葉真一は、「仁義なき戦い・広島死闘篇」(1973年)で仁義もくそもない凶暴なやくざを演じ、鮮烈に芸域を広げていたものの、本作ではそれまでのヒーロー路線に戻っている。
というか、千葉ちゃんには折からの空手映画ブームをけん引する一連のシリーズ(「殺人拳」「ボデイガード牙」)という、いわば「本業」があるということでしょう。
アクションの切れはすさまじいものがあります。

ヒロインは東映入社2年目の中島ゆたか。
貴重な22歳の時の出演です。
1970年代、映画の時代は退潮をを迎え、この女優さんの代表作ともいうべき作品を残しえなかったのは残念です。

中島ゆたかと同クラスでクレジットされているのが、悦っちゃんこと志穂美悦子。
思えば「帰ってきた女必殺拳」(1975年)で彼女のアクションをスクリーンで初めて見たときは、その激しさ、華麗さ、りりしさが鮮烈に目に焼き付いたものでした。

本作ではラストで華麗なアクションを披露します。
久しぶりに彼女のアクションをスクリーンで観て目が覚める思いでした。
気合の入った掛け声がいいですね。

余談ですが後に長渕剛と結婚した悦っちゃん。
長渕が体を鍛えるようになった原因は、夫婦げんかの度にぼこぼこにされる長渕が、悦っちゃんに対抗しようとしたからだ、という話さえあります。

ということで、石井輝男監督特集が終わりました。
新東宝から東映に移り、活劇に独特なテンポを持ち込み、「地帯シリーズ」などに結実。
題材に、戦後闇市から、三国人との争い、麻薬や人身売買、香港マカオといったアングラなテーマを選び、その遊び心と好奇心はのちの、東映異常性愛路線につながります。

この間、「網走番外地」などのヒット作も連発。
松竹、日活にも招かれて腕を披露しています。

新東宝時代からの吉田輝夫、三原葉子、嵐寛十郎、丹波哲郎をはじめ、東映時代の小池朝雄から近年の岡田奈々まで、お気に入りの役者というか石井組の常連がいるもの特色。

日本映画の歴史の1ページを彩る個性的な映画監督です。

ラピュタ阿佐ヶ谷、モーニングショウの女優特集は、「江利チエミ」でした。

フィルムノワールの世界

フィルムノワールという映画のジャンルがあります。
直訳すると暗黒映画ということになります。

イメージ的には、1940年代のモノクロスタンダードサイズのアメリカ映画で、犯罪的だったり退廃的だったりする登場人物が、必然的にもしくは自業自得として犯罪行為を行い、これまた必然的に破滅へと向かう物語です。

当時流行した探偵・犯罪小説家だった、レイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメット、ジェームス・M・ケインなどの原作物の映画化が多く見られます。

派手にマシンガンを撃ち合うギャングものというよりは、ひっそりと裏街道に潜む市井の人物が、仲間の犯罪集団や悪女の誘惑にあらがえず、自滅してゆくという宿命的なドラマが特徴です。

年末年始にわたり、渋谷シネマヴェーラという名画座で、「フィルム・ノワールⅢ」という特集があり、何本か観ることができました。

「殺人者」1946年 ロバート・シオドマーク監督

スターになる前のバート・ランカスターとエヴァ・ガードナーの主演作です。

監督はドイツからの亡命者・シオドマーク。
代表作は、ドロシー・マクガイアが盲目の少女を演じるスリラー「らせん階段」(1945年)でしょうか。

夜や闇の撮影が上手いイメージの映画です。

ガードナー扮する悪女に振り回されるこれまた悪人のランカスターが自滅してゆく物語。
悪女はもちろん、悪人ながら主人公のランカスターにもほとんど感情移入を許さない乾いたタッチの作品です。

この作品のエヴァ・ガードナーのスチールを見てから、気になっていた映画でした。
後の大女優は、若々しいものの、すでに貫禄が感じられました。

「ガラスの鍵」1942年 原作:ダシール・ハメット

元祖「奥様は魔女」(1942年)のヴェロニカ・レイクを観たかったのです。
レイクはコメデイーを含め、様々な役柄に扮しており、また共演のアラン・ラッドとコンビで売り出されていたようです。

本作はノワール調は控えめで、レイクも完全な悪女ではありません。
むしろスピーデイーな身のこなしのラッドの颯爽ぶりを見る作品なのかもしれません。
レイクは様々なファッションに身を包んで登場します。

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」1946年 原作:ジェームス・M・ケイン

完璧な美女だが下品さを隠し切れない悪女、ラナ・ターナー。
悪女と会った瞬間に自分と同類であることを知り、宿命的に破滅してゆく半端者、ジョン・ガーフィールド。

場末のドライブインを舞台に救いのないノワールな世界が繰り広げられる。

3度目の映画化だが特に悪女役は、ラナ・ターナーを置いて他にありえないと思わせる適役。
原作の退廃性、犯罪性、をすべて彼女が体現している。

撮影がどうこうより、ストーリーがどうこうより、ラナ・ターナーの存在そのものがノワールな記念碑的な作品だと思います。

「ハイ・シエラ」1941年 ラオール・ウォルシュ監督

ノワールとかなんとかの枠を超えた傑作だと思います。

登場人物が全員、犯罪者であったり日陰者だったりするところは「ノワール」です。

必ずしも退廃的ではない日陰者たちの性格描写にも力がはいっており、様々な伏線を巡らせながら、ラストの破滅に向かってテンポよくドラマが進みます。

最終的には犯罪者でありながら人間性に優れた主人公と、日陰者でありながら主人公の人間性に惹かれるヒロインの、破滅への道行きにドラマが収斂。

「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」など、いわゆる『ボーイ&キーチもの』と呼ばれる一連の作品の基調をなす、イノセントな犯罪カップルの破滅への逃避行がこの作品のハイライトです。

ハイウエイをぶっ飛ばしてのパトカーとのカーチェイスのほか、長距離バスでの逃避行シーン。
これに簡易結婚式場での結婚シーンが加われば、「夜の人々」「拳銃魔」とシチュエーションが重なります。

ヒロインのキャラクターの健気さ(不幸な環境、しっかり者、家事もこなす)は「夜の人々」のヒロイン像と重なります。
そう、前3作と異なり、観客の感情移入を許す主人公像がこの作品にはありました。

主人公役はこれが出世作となった、ハンフリー・ボガート。ヒロイン役はのちの「エデンの東」(1955年)でジェームス・デイーンの実母の女郎屋の女主をやった、アイダ・ルピノです。

平凡社新書「ハリウッド100年史講義」を読む

上記の新書を読みました。
副題に「夢の工場から夢の王国へ」とあります。

映画産業の通史という映画史研究家の本はほとんど読んだことがなかったので貴重な経験でした。

この本を読むと、映画というものがいかに工業的な発展とともに進化してきたか、また見世物という人間の根源に訴えかける「即物的な」装置なのかがわかります。

また、映画の工業性、即物性に着目し、徹底してそれに倣い発展して来たハリウッドが昔も今も映画というジャンルの発信源であることも。

映画という光学的な装置による表現手段は、1895年にフランスで生まれました。

その後の発展は、いわれるようなエジソン一人による発明に基づくものではなかったようです。

様々な手によって工学的にも発展していった映画は、興行的な出し物として圧倒的な人気を博し、全米にニッケルオデオンと言われる庶民向けの急ごしらえの上映劇場が展開するに至ります。

この時代のニッケルオデオンの興行主たちが、のちのハリウッドメジャーの立役者たちになってゆくのです。

映画製作の現場では、後に「ハリウッドの父」と呼ばれたD・W・グリフィスが、制作現場での分業化をすすめ、監督、脚本、撮影、照明などの役割分担を明確にしました。

グリフィスは、サイレント時代のハリウッド畢竟の大作「イントレランス」(1916年)を撮ったことで映画史に永久にその名を残します。

必ずしもグリフィス一人の創造ではないものの、ロングショット、クローズアップなどの撮影技法、ロケーションなど今に至る映画技法が確立されたのもこの時期でした。

第一次大戦後の1920年代、娯楽産業として急成長した映画産業に銀行などからの投資が集中しその資本規模と観客動員数を伸ばしてゆきます。

この間、フォックス、MGMなどの映画製作会社は、興行収益の最大化を図るため、映画館の買収などをおこないます。映画産業が、制作から、配給、上映までを統合したものとなり、映画に関する収益がすべて映画会社に収斂するようになってゆきます。

制作現場では、スターと呼ばれる出演者のほかに、政治的な背景を持った監督(ドイツなどからの亡命者)などが才能を発揮し、全権を把握するプロデューサーが大立者としての幅を利かせます。

喜劇のほか、メロドラマ、犯罪もの、ミュージカルなどのジャンルが生まれ、また現在の作品でも見られる様々な映画技法が生まれます。

この間、一貫してハリウッドが忘れなかったのが、「見世物としての映画」という精神です。

通俗的な題材の重要性から、トーキー、カラー、ワイドスクリーン、CGにいたる技術的発展の背景にまでその精神は一貫しています。
だからこそハリウッドは映画産業の中心でいられたのです。

1960年代の大作主義とその反省から、現在のハリウッドは関連業種とのタイアップ。
つまり事前の大量宣伝、関連商品、ソフトの販売、テレビ放送などなどにより、興行的なリスクは狭小化され、映画産業は巨大な収益事業となっています。
映画そのものの興行収益は、関連事業収益の1から2割程度でさえあるのです。

いつしか辣腕プロデユーサーが幅を利かせた時代は終わり、映画会社が配給、上映までを統合経営していた時代も終わり、作品ごとに関連会社と連携してビジネスを行う、という方向に変わっています。

かつては場末の粗末な劇場で来訪者を待っていた映画産業が、現在では劇場に来ようと来まいと、人々がブームに引きずり込まれ、自動的になにがしかの金銭を吸い上げれんばかりの一大装置になってしまった、というのは言い過ぎでしょうか。

制作本数だけではハリウッドを越えるインドのような国もあります。
が、見世物性と不即不離であり、かつ資本や商業性との親和性に富んだ映画というものと、アメリカという国は宿命ともいうべき共通性に満ち満ちており、映画はすなわちハリウッドだとつくづく思わざるを得ません。

「ハリウッド100年史講義」はそのことを理路整然と通史的に教えてくれました。

「石井輝男キングオブカルトの猛襲」VOL.2 「女王蜂と大学の竜」他を観る

名画座・ラピュタ阿佐ヶ谷で年をまたいで催されている石井輝男監督特集。

先回報告の「戦場のなでしこ」の後、「女体渦巻島」(1960年・新東宝)、「神火101・殺しの用心棒」(1966年・松竹)、「女王蜂と大学の竜」(1960年・新東宝)、「緋ぢりめん博徒」(1972年・東映)と映画館に駆けつけてきました。

石井輝男という映画監督、専属だった新東宝倒産のあとは、東映をベースに松竹、日活と招かれて作品を作っており、単なるカルト系のマニアックな映画監督ではなく、職人としての腕が映画会社全般に買われていることがわかります。

かといって、娯楽的ストーリーをそつなくまとめるだけの監督では全くありません。
それは作品の主題やちりばめられたエピソードを観れば一目瞭然です。

例えば「女体渦巻島」の舞台は対馬で、そこで行われている麻薬と人身売買が背景となっています。

麻薬はともかく、戦後に対馬で日本人が人身売買されていたのかどうかはわかりません。

とはいえ、古くは戦国時代から戦前まで続く、日本人奴隷とからゆきさんの歴史を見ると、占領時代から朝鮮戦争へと続くどさくさの時代の玄界灘の離島にあっては無きにしも非ずと思わせる題材です。

同じく1960年の新東宝作品「女王蜂と大学の竜」ではその背景が戦後闇市時代で、やくざと三国人の抗争が主なエピソードとなっています。

これまた、現在では微妙な題材と言わざるを得ません。

中国訛りのある悪役というのは、藤村有弘から小沢昭一に至るまでカリカチュアライズされた正体不明の悪役像でしたが、今でも可能な描写かどうか?

また、東映では「仁義なき戦い」(1972年・深作欣二監督)、「実録・私設銀座警察」(1973年・佐藤純弥監督)などで闇市における三国人と、日本人やくざもしくは特攻崩れの若者との暴力沙汰が描写されていましたが、今では無理でしょう。

「女王蜂と大学の竜」ではトラックに乗って押し寄せる三国人と、機関銃を備えて迎え撃つ(不発でした)やくざという場面が正面から描かれています。
戦後の渋谷では同様の抗争事件があったのが歴史上の事実です。

この作品では、三国人との抗争が、負の歴史として苦渋に満ちた描写ではなく、無国籍なアクション映画のように軽快明瞭に描写されています。

もうこういう映像は制作されないのじゃないでしょうか。
現在ではタブーへの挑戦になってしまいます。

闇市のセットの念の入りようといい、「女王蜂と大学の竜」には戦後直後の日本の風景の再現という意味で、文化遺産的な価値、をさえ感じてしまう山小屋おじさんです。

また、本作には三原葉子の着流し女やくざに「緋牡丹博徒」の原点があったり、嵐寛十郎が立ち回りでバラセンに巻かれるサディステックなシーンがあったりなど、随所に石井輝男監督の非凡なセンスと独特の好みが見られます。

全体を通して、流動的な時代背景を舞台に、伝統を引きずるやくざの親分(嵐寛十郎)と、自由自在に躍動する若い主人公(吉田輝夫、三原葉子)が三国人相手に大暴れするという映画です。
エピソードも盛りだくさんで、新東宝作品らしい場末感に満ち満ちています。
久しぶりに「明るい・前向きな」映画を観た、とおじさんは思いました。

ちなみにラピュタ阿佐ヶ谷における新東宝作品は、フィルムセンターからの貸し出しによるそうです。
渋谷のシネマヴェーラは、新東宝作品の管理会社から直接貸し出してもらえるそうですが、内情はわかりません。

「神火101・殺しの用心棒」は、ヌーベルバーグを経て混迷期に入った、60年代の松竹に呼ばれて石井監督が作った作品の一つで、香港が舞台です。
若き日の竹脇無我が後年とは違った軽々しさを発揮して、監督のタッチとマッチしています。
現在ではほとんど上映機会のない作品で、貴重な上映でした。

この作品でも背景に、中国の海上民である、虱民と彼らが暮らすサンパンの群れを描写するところに石井監督らしさがありました。
今は一掃されているであろう、虱民の風景だけでも貴重な映画なのかもしれません。

藤純子の後継者に予定していた中村英子という女優売り出しのための「緋ぢりめん博徒」は、中村英子の非力もあり全く様にならない作品となっていました。
出てきた若い女優がことごとく様になっておりませんでしたが、その中では盲目の仕込み杖使いに扮した、藤浩子という女優の暗闇での立ち回りのシーンが雰囲気が出ていました。

中村英子は「仁義なき戦い」で梅宮辰男扮する悪魔のキューピー・大西の情婦役をやり、短い登場時間でしたが印象深かったです。
この人は、のちに山口組三代目の田岡組長の子息と結婚。
一子を設けた後自殺しています。

「仁義なき戦いシリーズ」は、既成の女優を別人のように輝かせる舞台でした。
中村英子のほかに、梶芽衣子、池玲子などが印象印に残っています。
これに「仁義の墓場」の多岐川裕美、「人切り与太」の渚まゆみを加えると、深作欣二監督の女優の活かし方には刮目せざるを得ません。

いずれの作品も女優さんを無理にフーチャーするのではなく、無茶苦茶する男どものあくまでも脇として使い、理不尽な状況の中で耐える女の魅力を引き出していることに気づきます。
耐えるだけではなく、控えめながらも状況に抵抗する彼女たちの哀れにも凛とした姿が忘れられません。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーでは往年の映画スターのプロマイドが売られています。女優さんの写真はよく売れるそうです。

ロビー奥には書籍コーナーもあります。

石井輝男キングオブカルトの猛襲VOL.1 「戦場のなでしこ」を観る

阿佐ヶ谷駅からほど近く、ラピュタ阿佐ヶ谷という複合文化施設があります。
定員48名の映画館と演劇ホールとレストランを備えた建物です。

令和元年12月。映画館ラピュタ阿佐ヶ谷で「石井輝男キングオブカルトの猛襲」なる特集上映が行われています。
1924年に生まれ、2005年に没した映画監督石井輝男の90本と言われる監督作品中38作品を1か月にわたってフィルム上映する催しです。

石井監督は新東宝から経歴をスタートして、東映に移り、呼ばれれば松竹、日活と活躍の場を広げました。
この間、新東宝では会社のカラーに沿った「セクシー地帯」などの地帯(ライン)シリーズ、東映ではギャングものや「網走番外地」のほかに、異常性愛路線といわれる東映版エログロ路線を手掛けてきました。

石井監督の徹底した娯楽路線の追求ぶりが、近年、一部の映画ファンをしてキングオブカルトと呼ばしめることになったのです。

石井監督の代表作に「江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間」(1969年東映)という映画がありますが、この作品、倫理コード的に近年までDVD化できなかったという事実を見ても、石井監督の持ち味がわかるというものです。

そういう資質の監督が映画全盛時代とはいえ、各映画会社にわたって延々と商業映画を作り続けられたというのは考えてみればすごいことです。

ラピュタ阿佐ヶ谷「石井輝男キングオブカルトの猛襲」。
近年のブームもあり、このフレーズを見て俄然盛り上がる映画ファンも少数ながら世の中にはいるのです。

その一人、山小屋おじさんもラピュタ阿佐ヶ谷に向かいました。
当日のプログラムは「戦場のなでしこ」。
1959年の新東宝作品です。

新東宝という映画会社、元はと言えば1948年の東宝争議の際の第二組合結成に端を発した制作会社ですが、映画興行主だった大蔵貢を社長に迎えてから徹底した娯楽路線を踏襲。

「明治天皇と日露大戦争」で嵐寛十郎に明治天皇を演じさせる(それまでは歴代天皇を正面から描く劇映画はなかった)など、「見世物」に徹する映画作りをカラーとしました。
題材は、エログロ、犯罪、裏社会、怪談などのほか、2・26事件、戦艦陸奥の爆沈、シベリア抑留などの戦争秘話に及びました。

当時は低級な娯楽映画として見られてきたでしょうが、今となっては、これらの映像は貴重な文化的遺産です。
映画化しようにも倫理的、文化的、技術的に困難な題材ばかりなのですから。

「戦場のなでしこ」は大陸における従軍看護婦の悲劇を題材にしたもの。
脚本は「月光仮面」の原作者・川内康範。
いかに新東宝とはいえ、娯楽一辺倒の作風にはできず、終戦後にソ連進駐軍の慰安婦にされることを拒否して自決する従軍看護婦の悲劇を詠嘆調に描いています。

石井監督の演出はスピーデイーで手堅い。
自分の好みを毛ほども出さないこのような作品も、「キングオブカルト」のキャリアには必要なのでしょう。
脚本の川内康範が怖くて「脱線」どころではなかったのか?

出演は宇津井健のほか、若き日の三ツ矢歌子、大空真弓、原久子など。
皆さん、若くてけなげに力演してます。

ソ連兵役も含めて大人数の役者が出ています。
大人数を配しての撮影では、セットやロケ現場など背景の設営が必要になります。
また、大勢の動きの統制など撮影隊の組織力、監督の演出力が問われます。
この時代の日本映画には撮影隊の組織力が十分に感じられます。
結果として画面が豊かになっています。
日本映画の財産ともいえる作品群です、この時代の商業映画は。

ちなみに従軍看護婦を題材にした劇映画というと、おじさんが知っている限りでは、1966年の「赤い天使」があります。
増村保造監督と若尾文子のコンビの力作ですが、テーマが単純な反戦ではなく極限時の人間性に及んでいるので、ちょっと色合いが違います。

このほかでは、「ひめゆりの塔」(1953年東映)など沖縄戦の従軍看護婦(女学生の学徒動員)を描いたものがありますが、学徒動員生の悲劇にスポットを当てた作りになっています。

最後に、「戦場のなでしこ」を観ていても思いましたが、日本人女優に黒の従軍看護婦姿は特別に似合っています。
「日本人は男優は兵隊役、女優は女郎役が誰がやってもうまい」といわれますが、女優の従軍看護婦姿(移動時の黒の制服)も様になっていることを付け加えたいと思います。

 

 

第22回蓼科高原映画祭

20年以上連続して茅野市内で行われている映画祭があります。
蓼科高原映画祭です。
今年で22回目。
これが今年のパンフです。

名匠小津安二郎が茅野市郊外の蓼科高原の別荘で新作の構想を練っていた時期が10年くらいあって、その別荘(持ち主は行動脚本の野田高梧)そのご縁を記念しての映画祭とのこと。
毎年、茅野市内の市民会館と映画館(不定期上映の新星劇場)を会場に9月下旬の約1週間開かれます。
小津の代表作品のほかに、日本映画の新作も上映され、小津ゆかりの豪華ゲストが目を引きます。

山小屋おじさんが初「参加」したのが、おととしの第20回。新星劇場で「小早川家の秋」を観て(デジタル上映だったと思います)、上映後に司葉子さんのトークを聞きました。
司さんはまだまだお元気で、小津監督の思い出話よりも、「秋日和」で共演された原節子さんのことをもっぱら話していたのが印象的でした。

原節子さんがなくなって間もないこともあったのでしょう。撮影休みに二人きりで鎌倉の海水浴場に泳ぎに行った時の原さんのスタイルの良さのことや、原さんが引退後に撮影所の壁越しにサンドイッチの差し入れをもらったことなどを嬉しそうに話していました。

上映会場の一つ、新星劇場は、茅野駅近くの中央本線線路わきにある古い映画館で、今は定期上映はしていません。
場内は昔ながらの天井の高い造りでいかにも昔(といっても3~40年前)の映画館の雰囲気を残しています。
フィルム上映もできるようです。

映画祭期間中は、映画館の入口へのアプローチにテーブルを出し、地元の人がコーヒー、寒天菓子、樽酒(小津監督お気に入りの茅野の自酒・ダイヤ菊)をふるまってくれるのが、うれしいおもてなしです。

第21回の昨年もここ新星劇場で小津監督のサイレント映画「学生ロマンス若き日」を観ましたが満員でした。

というわけで2019年の第22回の映画祭。
おじさんは、季節遅れの墓参りに帰省する予定で参加できませんでした。

東京への高速バスの停留所へ向かう軽トラの車窓から映画祭開催中の新星劇場が見えました。

今年の上映作品は「彼岸花」など。
ゲストは山本富士子さんです。

山本富士子が全盛期に出演した「彼岸花」。
出演者の絢爛さ、監督初のカラー作品、中流階級を舞台にした鷹揚さ、ぜいたくなセットなど映画監督小津安二郎のある意味「頂点」の作品だと思います。

山本さんのトークも聞きたかったのですが残念。
今年は映画祭「不参加」にて墓参りに帰省しました。

上田映劇で「新聞記者」を観る

今年話題の映画「新聞記者」を見た。
レトロな劇場・上田映劇の9月第一週初回上映のプログラム。

ここは山小屋おじさんが上田に行ったときに必ず寄るところ。
戦前に芝居小屋としてスタートし、その後映画館に。
いったん廃業となった後、NPO法人が運営して再スタートした歴史上の場所である。

久しぶりの上田映劇、入場者は30人も!

平日の初回10直上映ながら30人近い観客数。
山小屋おじさん3回目の上田映劇でこんな大人数は初めて見た。

入場券を買う際に、シニア料金の1,100円の入場券が支配人の一番手前に置かれていたのを見た。
場内はほとんどシニア。
支配人も1,100円の入場券ばかりを切ったということか。

誰が「新聞記者」を作ったのか?

さて「新聞記者」。
時の日本の権力者、もっと言えば官邸の反民主主義を正面切って批判した珍しい作品。
原作は東京新聞の望月記者の同名書。
菅官房長官の記者会見で、手を挙げたのに発言を許されなかったというエピソードを持つ記者が原作者だ。

実例のエピソードから、官邸の横暴な権力行使ぶりを描写してゆくが、この作品のテーマは、権力というものの性質そのもの。
つまり、権力はその行使に際して真の目的を国民から隠すこと、また権力の遂行に際しては非合法も辞さないということだ。

権力を揶揄する、もしくは抽象化・一般化して広く勧善懲悪のドラマとすることはテレビなどでも行われている。
が、近時のスキャンダルをエピソードとしてストレートに問題提起した作品は今どき珍しい。
終戦直後の独立プロの作品のようだ。

だれが、どういう目的で作った作品なのだろう?
映画製作の背景はいかに?
見ている最中そのことばかりを考えていました。

現在のアンチと現在のヒーロー

かつてのやくざ映画などを見るまでもなく、「旧来の悪役」はわかりやすかった。
同義に反し、乱暴で、ずるいやつが悪役だった。

今の時代、牧歌的な悪役などいなくなり、「最新の悪役」として官邸が選ばれたということか。

かつてのヒーローは悪に耐え、堪忍袋の緒が切れて立ち向かい、やっつけた。
今の時代、ヒーローの存在が許されなくなっている。

一方の主人公の松坂桃李が官邸の悪を暴く情報リークし、予想される官邸側の反証・印象操作に対しては、実名発表を同意した時、一瞬だけヒーロー誕生!と思った、が。
「最新の悪役」は簡単にヒーローの登場を許すほど純朴ではないのだった。

主人公の女性新聞記者役は韓国人女優が務める。
危惧したキャステイングだったが、過剰な演技を排することができてかえって良かったと思う。

開始からスピーデイな展開で手際よくエピソードをつないでゆく、まじめでストレートな作品。
いい作品が持つ映画的緊張感に満ちている。

顔を知っている出演者が、松坂のほかには本田翼と西田尚美、高橋和也くらい。
日本若手俳優もこういった作品に出て、役者としてのキャリアを築いてほしいもの。

劇中エピソードが実例ばかりなのが、映画としての厚みを欠いたことは指摘しなければなりませんが。

NPO運営を応援し100円寄付

終映後、もぎりにいた支配人と話す。
丸眼鏡をかけたおとなしそうな青年で今どきは古本屋の経営者にでもいそうなタイプ。

おじさんは「新聞記者」のメインタイトルがわからなかったので尋ねると、開始に主人公の女性記者の登場場面がそうだったとのこと。
ちゃんと上映作品を見ていたことにも感心。

入場者が多いので雑談はそこまでにして寄付金箱に寄付をして退場しました。

次回の入場者数も含めて館内がにぎわっているのがうれしい、NPO法人経営の上田映劇でした。

「ヌーベルバーグ」の時代

ヌーベルバーグという言葉を聞いたことがあるだろうか?
フランス語で「新しい波」の意味。
1960年前後のフランス映画のムーブメントを表す言葉として有名だが、そもそもは映画のみならず、当時の新人小説家フランソワーズ・サガンなどと、映画を含む各分野の新人を特集したフランスの雑誌のコピーから派生した言葉だった。

今回、シネマヴェーラ渋谷で「ジャパニーズヌーベルバーグ」として、1960年代の「日本映画の新しい波」の特集上映があった。
何本か見に行ったが、改めて当時の作品群と時代背景に興味をひかれた。

本家ヌーベルバーグのこと

1960年前後のフランス映画の新しい波は、「カイエ・デュ・シネマ」という映画雑誌の若き批評家連中が、実際に映画を撮り始めたことによって起きた。
クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなどである。
作品では「いとこ同志」「大人は判ってくれない」「勝手にしやがれ」など。

本家ヌーベルバーグの発生である。
これらの作品はヒットし、作り手たちはこの後も映画監督として制作を続けてゆく。

1960年。
ベトナム戦争がはじまり、フランスが初めての核実験を行う。
5月革命といわれたフランスの文化運動を8年後に控えた時期でもあった。

トリュフォーやゴダールたちは、批評家時代「カイエ・デュ・シネマ」紙上で、アメリカB級ギャング映画や、ジャン・ルノワールを熱心に論じていた。

彼らは、撮影現場では、若い俳優を使った即興演出により、作者の身近な世界を描出する作風を示した。
それは、時代のニーズにマッチしたことから、フランス国内のみならず世界中の映画界の一大ムーブメントとなった。

ゴダールがその後、各分野の文化人にもてはやされる現象も起き、「ヌーベルバーグ」という言葉も「カイエ・デュ・シネマ」の名前も、独り歩きを始め、文化・現象としてファッション化し一部では権威化されるに至った。

1960年前後の日本映画界

産業としての日本映画は1958年に映画人口(観客動員数)11億人の最高を記録、以後減少している(1970年以降は1.5億人前後)。
興行収入は、単純比で、1958年の500億円から、2010年の2000億円に増大。
集客の減少を単価のアップでカバーし、映画産業そのものはしぶとく存続している格好だ。

1958年当時の映画制作会社は、大手6社(東宝、松竹、大映、日活、東映、新東宝)の時代で、各社は直営の撮影所(松竹、大映、東映は東京と京都の2か所)を持ち、各都市に直営もしくはフランチャイズの上映館を持っていた。
各社は制作部門の専属として、俳優、監督と契約し、また製作スタッフ(助監督、撮影、照明、大道具などの現場のスタッフ)を、社員として抱えていた。
1955年ころに、石炭産業と並ぶ花形産業としての映画は、いまだ絶頂期にあった。

その当時、1本の映画には、総勢数十人からのスタッフがついていた。
助監督だけでも1本に4人付くのが普通で、松竹大船撮影所だけで在籍する社員の助監督が数十人いたといわれる。
各撮影所では、月4本から8本の製作本数を抱え、多忙を極めた。
将来のための人材育成をと、1950年代中盤から60年にかけて、松竹だけでも毎年、助監督を公募していた時代である。

ちなみに現在は、東宝、松竹、東映の大手映画会社が自社作品を作るのは、年に何本あるかないか、である。
撮影所スタッフの数は激減し、そのスタッフも大手映画会社の社員ではないことが多い。

その背景には、娯楽の多様化などによる映画人口の減少=映画会社の売上の減少がある。売上が減った会社が生き残るためには、新商品の開発により売上を伸ばすか、あるいは経費を節減しなければならない。
そこで、映画会社は制作部門をリストラし、費用を節減したのだった。

こうして、撮影所が閉鎖され、(松竹、大映は京都の撮影所を閉鎖)、製作スタッフをリストラし、新規採用をストップした。
映画会社の撮影部門は、スタジオ(スタッフを含む)のレンタルや、不動産業、観光業で稼がざるを得なくなった。

もっとも、映画会社として最低限度の上映作品は必要なので、まず、制作部門そのものを別会社化し、映画製作にかかる経済的リスクを会社の決算の外とした。
次に、既存のプロダクション、独立監督などに作品を発注したり、あるいは、プロダクションが製作した作品を買付けた。

なお、大手映画会社から制作を請け負う側も、スタッフ数を、大手映画会社の撮影所時代の数十人から、10人以下にまでに減らし、また、デジタル化やCG化などの技術を取り入れて直接制作費を減らすなど、映画製作にかかる経済的なリスクを軽減しようとしているのが現状だ。

その点、配給事業というものは、契約した額で作品を制作サイドから購入し、興行後は、興行収入から映画上映にかかる諸経費(プリント作成費、宣伝費等)を差し引き、黒字が出れば制作サイドに分配すればいいので、作品が極端に不入りではない限り、経済的リスクは少なく、またヒットした場合の実入りは青天井となる。

こうしてみると産業としての映画製作は、1955年から1960年までのつかの間の全盛期の後、今に至るまで下落し続けているのがわかる。
この衰退は、映画会社本体に及び、1961年の新東宝の倒産、1970年代の大映倒産、1980年代の日活倒産が起こる。
制作、配給も含めた旧来の映画産業が、会社の数で行っても半減したのが半減したのである。

ヌーベルバーグがフランスで発生した、1960年は日本の映画産業の絶頂期の終末期に当たり、衰退の影におびえ始めた頃だったのである。
その時代はまた、戦後15年を経た、世相の転換期でもあった。

日本ヌーベルバーグ前史、松竹大船撮影所の場合

数年前に亡くなったが、大島渚という映画監督がいた。
1954年に京都大学から松竹大船撮影所に入社。
同じころ、吉田喜重、山田洋次(いずれも東大卒)が入社している。

大島は、晩年は海外のプロデューサーと組み、世界と商売をしたカリスマ性を持つ人材だったが、松竹の社員時代に4本の映画を残した。
「愛と希望の街」(59年)から「日本の夜と霧」(60年)に至る、アグレッシブで時代批評性に満ちた作品群。
特に、「青春残酷物語」「太陽の墓場」(いずれも60年)の2本はヒットし、折からのフランス映画の新しい波現象を受けて、マスコミ的にも「ヌーベルバーグ」と呼ばれた。

1959年当時27歳の大島が、チーフ助監督の経験もないのに監督に昇進できたのは、シナリオの執筆力もあったにせよ松竹首脳やマスコミに対するアピールを含む政治力に優れていた理由のほかに、映画界を取り巻く外的理由があった。
すなわち、1958年をピークとする映画人口の減少は、事業会社としての映画会社を直撃し、特に小市民的なホームドラマを路線としていた松竹において、新しい作風、路線、新しい作り手を模索せざるを得なかった。
それが時代の流れだった。

実際、この流れに沿って松竹で監督昇進した当時30歳前後の助監督には、大島のほか吉田喜重、田村孟、高橋治、斎藤正夫、森川栄太朗、篠田正浩などがいた。
全員、1955年前後に猛烈な倍率をかいくぐって入社した有名大卒者であったし、入社後はシナリオ執筆などで実力と意欲をアピールした連中だった。

この一群は、旗手・大島の2本のヒット作の影響もあり、会社の抜擢によって次々に作品を発表したが、大島が1960年に制作した「日本の夜と霧」が、上映4日間で打ち切られ、かつ大島がその件について松竹を批判し、挙句、同調者を引き連れて松竹を退社したことによって急激に退潮した。

「日本の夜と霧」は安保闘争現場を舞台とし、新左翼の視点から旧左翼を批判した学生演劇のような作品で、ヒットしなかったのは当然。
今では、若き大島の熱気が商業映画撮影所の中で実現した記念碑的な意味を持つ作品と評価が定まっているが、当時の(そして今も)映画会社松竹としては扱いに困る作品だったろう。
権力側をはじめ、右翼、旧左翼など各方面からいちゃもんをつけられる可能性が高い作品を、ヒットしないことを理由に打ち切ったのが実情だった。
大島にとっては確信犯的に自分の主張のみを前面に押し出したのだった。

結果として大島のみならず、ヌーベルバーグの旗のもとに売り出された少壮監督の全員が松竹を去ることになる。
大島、吉田、篠田はのちに独立プロを起こして映画省察を続け、田村は大島が起こした創造社の一員に、高橋は小説家に、斎藤と森川はテレビに移っていった。
彼ら全員が、大島のように自己プロデュース力にたけたアジテーターであるというわけではもちろんなかった。

総括、日本ヌーベルバーグの時代とは?

発生

(時代の要請)
映画人口の減少の中、映画会社の旧路線では集客がじり貧で、新しい路線を求めた。
新しい路線とは、時代を背景とした生々しく、刺激的で、若々しい感性に満ちたものでなくてはならなかった。
世の中は、安保闘争、ベトナム戦争に揺れ動いていた。

(人材の登用)
・1955年前後に一般募集で入社した優秀な人材が助監督経験を経て30歳前後となっていた。
彼らは監督昇進を目指し、シナリオ発表などで意欲と実力をアピールしていた。
何より、現代社会の問題性に肉薄し、また若者風俗や気分を取り入れた画面作りに意欲的だった。

・この現象は松竹のみならず、東宝、大映、日活でも同時代的に発生し、岡本喜八、須川栄三、恩地日出夫、増村保造、中平康、今村昌平らがデヴューした。

総括

・日本ヌーベルバーグとフランスヌーベルバーグは、時期と気分を同じくする(いわゆる同時代性を持つ)が、別の土壌(かたや映画撮影所、かたや映画批評)から発生。

・映画の技法的な面(カメラの移動、長回し、ロケ、同時録音の多用、若手俳優の抜擢)などは、日本のみならず、世界がフランスの影響を受けて、継承している。

・日本ヌーベルバーグの場合、映画撮影所が、有能な若手人材を抱え、育て、発表させることにより実現した。
彼らの残した稚拙であるが若く熱気ある作品を見るにつけ、意欲的な作り手と映画会社の歴史上の幸運な邂逅を再確認するという喜びを感じざるを得ない。

大島の全4作品、田村孟の「悪人志願」(60年)、恩地日出夫の「若い狼」(61年)、山際栄三の「狂熱の果て」(61年)。
映画会社が映画製作の現場を含有していた時代の奇跡のような一瞬の輝きだった。
この輝きは1960年だったから可能で、これ以前もしくは以降の日本映画界では実現不可能だった。

日本におけるヌーベルバーグの時代は1958年に始まり、1961年に終わった。

 

「映画論叢」という雑誌

おじさんも知らなかったが「映画論叢」という雑誌がある。書店に置いてあるのは、神保町の東京堂でしか見たことがない。
国書刊行会の出版で、毎月ではないが年に数回発刊しているようだ。
映画好きのおじさんは、書店で見かけると手に取るが、内容はかなり専門的で、とっつきずらい。

おじさんと映画雑誌

おじさんにとっての映画雑誌は、「スクリーン」と「ロードショウ」が記憶のはじめ。
両雑誌とも、洋画のスターグラビアがメインの大判雑誌で、淀川長治、小森和子といったタレント評論家が来日した映画スターにインタビューした記事がメインの印象。
日本で公開する洋画の全作品を写真紹介するという記録性も持っていたが、読者層は若い女の子であり、おじさんの若い時代には買うのが恥ずかしかった。

その当時の日本映画については「近代映画」という雑誌があり、日本映画のスターグラビア誌の役割を担っていたようだが、覗いたことがない。

おじさんが高校くらいになって、映画に興味を持ち始め、覗いた雑誌が「キネマ旬報」だった。
日本で一番古い歴史を持つ映画雑誌である。
おじさんが高校生の頃の「キネマ旬報」は、そもそも当時住んでいた函館の書店にはおいていなかった!
古本屋でバックナンバーを手に入れるか、書店に注文しなければ現物が手に入らなかった。

高校の途中で移り住んだ札幌の書店にはおいてあり、その後、大学に入ってしばらくするまで毎月購読した。

「スクリーン」が作品紹介する際に、題名の前に持ってくるのが主演スターの名前だとしたら、「キネマ旬報」では、監督の名前を持ってきていた。
そういうところが生意気な青少年映画ファンの心を刺激したものだった。

当時の「キネマ旬報」では、竹中労の「日本映画縦断」という連載があった。
伊藤大輔監督など、当時存命の日本映画の生き証人への聞き取りだった。
田舎のにわか映画ファンには全く予備知識もない世界ではあったが、嵐寛十郎の会などは面白く、また作者竹中の情熱に感じ、熟読したものだった。

また、「キネマ旬報」の巻末に掲載される上映情報の中で、当時の池袋文芸坐や、京一会館など名画座のバリバリのプログラムに心ざわめかせたものだった。
「バリバリのプログラム」とは、溝口、小津、黒沢などの名作群だけでなく、例えば、「日活アクションの世界」と銘打つ系統的なオールナイトプログラムや、鈴木清順、岡本喜八など当時再評価が盛んだったプログラムピクチャーの番組のことです。

ちなみに当時の封切り作品というと、おじさんが高2の時が、「ダーテイハリー」「時計じかけのオレンジ」「フレンチコネクション」。
映画にはまる導入としてこれ以上なしの作品群でした。

また、大学に入る前後、邦画に関心が行く生意気な時期には、「仁義なき戦いシリーズ」、「赤い鳥逃げた?」「赤ちょうちん」などの藤田敏八もの、寅さんの全盛期とこれまたグッドタイミングでした。

この間の映画事情の変遷

「キネマ旬報」に刺激された田舎の映画少年だったおじさんも今や初老。

この40年の間に、映画界はアジア映画ブームがあり、CGが起こり、デジタルが一般化した。
一方で、旧作の保存や発掘、系統的な上映と研究なども盛んになってきた。

おじさんが若い時、名画座での上映では、フィルムの雨降りや、画面欠落は当たり前だったが、昨今の名画座では多少の雑音、欠損はあるものの、ぼろぼろのフィルムの上映はまずはない。

映画の旧作については、不特定多数相手の商品という位置づけから、特定の趣味者に対する骨とう品的な位置づけに変わっているような気がする。
例えば、古いフィルムで最大限の利益を得る、商売一辺倒の考えから、採算が合う範囲でニュープリントを起こす、文化財提供的な考えへ、映画館のみならず配給会社も変化しているのではないか。

旧作の上映プログラムについても、溝口、小津、黒沢といった国際的にも評価が定まった古典作品をメインとしたものから、より深く、趣味的に、かつピンポイントに対象を広げている。
例えば、最近再評価の高い監督では、古い順に清水宏、中川信夫、石井輝男、鈴木英夫などがおり、特集上映などが組まれているほか、ちょっと前までは映画ファンに忌避されがちだったエログロ路線の新東宝という今はなくなった制作会社の作品などもちょっとしたブームになっている。

こういった点では、映画にまつわる環境が、映画先進国である欧米のいい部分に似てきたようであり、おじさんはうれしい。

「映画論叢」という雑誌

すでに発刊50号になろうとする「映画論叢」。
第一号からが調布図書館にそろっているので出向いた際にはめくっている。
この点ではさすが映画の町調布の図書館である。

ついつい熟読してしまい、1時間で一号分読めるかどうか。発刊の趣旨によると、映画産業の「よいしょ」からの脱却を宣言している。
その志やよし。

記事の分野は、映画の歴史の保存や関係者の証言、忘れられた関係者の記録、フィルムや機材に関する提言など、幅は広い。

これまでの主な連載は、「新東宝大蔵時代研究」として、小森白監督、俳優星輝美などへのインタビュー。
「東宝プログラムピクチャーの世界」と銘打って、若林映子、久保昭などへのインタビュー。
監督インタビューシリーズとして、井田操、井上和男、鈴木英夫、斎藤正夫、小谷承靖など。
俳優三上信一郎の「チンピラ役者の万華鏡」。
戦前の映画会社の記録「まぼろしの極東キネマ」「大都映画研究」など。
「こんな役者がいた」シリーズ。
俳優へのインタビューとして、原知佐子、左幸子、緑魔子、高宮敬三、小泉博など。

こうして書いていても頭が痛くなるくらいだが、共通しているのは、映画を巡るすべての事象の記録を志向していること、特に商業ベースのジャーナリズムが扱ってこなかった人材、分野への言及、記録への志向である。

ページをめくるっていると、顔は知ってるが名前の知らなかった俳優の出演作や、マイナーのまま消えていった映画監督のプログラムピクチャーへの興味がわいてきて時間が経つのを忘れる。
すでに単行本を出している三上信一郎の洒脱な文体と露悪趣味にニンマリするとともに、宮口精二が個人で発行していたという「俳優館」という冊子の存在に感じ入る。

そしてこの雑誌の極め付きは、細部へのこだわりにある。
すなわち、フィルムとデジタルの話、スクリーンの上映サイズの話、にこだわりにこだわる。
これまで戦争映画に登場してきた戦闘機の実機に関するコラムもある。

無関心な人にはどうでもいい話だが、映画にとって、フィルム、機材、上映サイズの話はきちんと記録しておかなければならない。
これからデジタル移管でどさくさが起こりかねない。

映画本を論ずるコラムもあり、今を時めく意識高い系映画ファンの教祖・蓮見重彦なんかは、信者ともどもケチョンケチョンの扱いなのも痛快だ。
痛快だが、今の映画状況、蓮見の評価で人がどっと集まるのも事実である。

映画ファンに限らず、消費者は、大衆は、情報を待っており、情報に従って行動する。
この先、「映画論叢」が「再発見」した監督や俳優が、おじさんのような旧作映画ファンの流行となるかもしれない。

「映画論叢」。
マニアの世界でありがちな、「自分だけは見ている」という「知ったかぶり」を根拠としたマウントの取り合いにはならぬよう。
今後も楽しみにしています。