DVD名画劇場 ハリウッドが描く日本人の戦争「太陽の帝国」

文春新書「スクリーンの中の戦争」

坂本多加雄という著者が描いた文春新書を読んだ。
目次にある通り、日本およびアジアに関係する戦争を描いた、外国映画、日本映画について述べた内容。

著者は「新しい歴史教科書をつくる会」理事を務めた政治思想家。
本書の背景には、欧米の一方的な勝者目線の歴史観とアジア蔑視の歴史観を排し、日本は正当な歴史観に基づくふるまいをせよ、との著者の思いがある。
この新書には、その観点から見た、「トラトラトラ」(1970年 リチャード・フライシャー他監督)と「パールハーバー」(2001年 マイケル・ベイ監督)の違いなどが分かりやすく述べられている。

本書第二章は「ハリウッドが描く日本人の戦争」と題して、「太陽の帝国」について詳しく述べられている。
これを読んで、当該作品に興味を持った山小舎おじさんは、DVDを探し興味津々で見てみた。

そこには日本映画が負の歴史として描くことを避けてきた大局的観点からの日中戦争を巡る4か国(英、日、中、米)の実像が描かれていた。

植民地中国からみじめに撤退していった大英帝国と、宗主国がいなくなってますます混乱する眠れる獅子中国と、颯爽と登場して中國大陸の覇者となりながら幻と消える日本と、戦後世界の覇者として現れる物質世界の王者アメリカとが、ある時は主人公の少年の目を通して幻想的に、ある時は冷酷なほど客観的に描かれていた。

「太陽の帝国」 1987年 スチーブン・スピルバーグ監督 ワーナーブラザース

旭日旗がアップでとらえられるファーストシーン。
この作品では日の丸と太陽がことあるごとにアップでとらえられる。

大空に銀翼を連ねて飛ぶ飛行機は日の丸をつけた日本機ばかり。
主人公の少年が遊ぶ、ゴム動力の模型飛行機の翼には日の丸。
収容所生活中、彼が肌身離さず持って歩いた模型飛行機も、日の丸が付いた日本の戦闘機だった。

植民地支配の終焉におののきを隠せない少年の親たちをよそに、少年のあこがれは日本のゼロ戦であり、また、日本軍の武器の性能と規律正しさを評価する彼は、日本空軍のパイロットになることを夢見る。

開戦前夜の上海からイギリス人が脱出を図る。
脱出前日まで、大邸宅で仮装パーテイーにうつつを抜かすイギリス人たち。
映画は宗主国イギリスが植民地中国で100年間「何もしてこなかった」空虚さを描く。

脱出するイギリス人の高級車を取り囲む中国人たちの描写にも救いがない。
右往左往する群集は宗主国を失って、その遺産を略奪する以外になすべきこともないようでさえある。

整然と進軍してくる日本軍に立ちはだかって主人公は言う。
「アイ サレンダー」(降伏します)と。
主人公の少年にとって日本軍がその時代の覇者となることは憧れであり、自明の理であった。

日本の敵性国民として、英米人の収容所生活が始まる。

主人公が収容所の作業から離れ、隣り合わせの飛行場のゼロ戦に近寄る。
溶接バーナーの火花に彩られ浮かび上がる戦闘機。
憧れの機体をなでる少年。
日本軍パイロットが談笑しながら近づく。
思わず敬礼する少年。
敬礼を返すパイロットの姿がバックライトで浮かび上がる。
この場面をスピルバーグは感動的に演出する。

終戦間際。
飛行場から特攻隊が出撃する。
水杯を交わし「海ゆかば」を歌う特攻隊員。
主人公の少年はこれを見て敬礼しつつ、賛美歌を歌う。

ハリウッド映画で(外国映画で)こんなに日本軍を(日本を)、好意的に描いたことがあったろうか。

特攻機が飛び立った直後、アメリカ空軍のP51が現れ飛行場を襲う。
圧倒的戦闘能力で日本軍をせん滅する。
「空のキャデラックだ!」と熱狂する主人公。
アメリカ風のマーチが鳴り響くかのような場面の造りだ。

主人公とて盲目的な日本軍信者ではない。
強いものに憧れる少年らしい少年なのだ。

収容所生活も末期となり、徒歩で蘇州へ移動する英米人たち。
主人公と同部屋だったイギリス人夫人が死んでゆく。
背景に白っぽい鮮烈な太陽が昇ってゆく。
日本に原爆が落とされ、降伏したとのニュース音声がかぶさる。

少年は白っぽい太陽を目にして「夫人の魂が昇天してゆく」と思う。
白っぽい太陽は、日本帝国が主人公の憧れからも、世界の覇者からも永遠に没落したことの表現だった。

映画は、列強白人の収容所生活も時間をかけて描く。
主人公が付きまとう正体不明のアメリカ人は物質性と生活力の象徴。
逆境に適応できないイギリス人は死んでゆく。
大英帝国の没落だが、主人公の関心はすでにそこにはない。

アメリカ軍が降下した食料に驚喜し、アメリカ軍に向かって「アイ サレンダー」と敬礼する主人公には、すでにアメリカによる戦後世界を生きる準備が整っている。

イギリス人小説家、J・G・バラードの半自伝的小説が原作。

戦後初めてアメリカ映画として大陸中国でのロケを敢行。
5000人の中国人エキストラを動員して戦前の上海を再現。
ワンカットもゆるがせにしない金のかけ方にスピルバーグの本気を感じる。

戦前の上海の街角の「風と共に去りぬ」の大看板。
日本軍の進駐とともに撤去される蒋介石の大看板。
揚子江に浮かぶ実物大のサンパン(帆掛け船)の再現。
大作仕様のハリウッド映画そのもののがそこにある。

蘇州の収容所に立つ壊れかけの城門は、スピルバーグによる黒澤明の「羅生門」へのオマージュであろう。

「太陽の帝国」という日本そのものを表す題名。
繰り返し登場する太陽、日の丸、ゼロ戦。
あからさまにそれらを信奉する主人公の存在。
戦後の日本映画(日本そのものも)が忌避してきたそれらを、なぜにハリウッドのそれも大作映画が描くのか?

単なる少年の憧れの表現にしては念がいっている。

少年のあこがれとしての日本(軍)を、今までのハリウッド映画のようにカリカチュアせず、後年の価値観で矮小化せず、全否定もせず、正面から捕らえようとしているのではないか。

この作業を、敗戦国としての勝手な忖度から忌避し、怠けてきた日本(映画)は、日本人としての常識的な価値観でさえ、外国映画によって代弁される事態に甘んじているのではないだろうか。

(おまけ)「二世部隊」 1951年 ロバート・ピロシュ監督 MGM

手許にこの作品のDVDがあった。
日系人部隊の欧州戦線での活躍を描く内容。
広い意味で、「ハリウッドが描く日本人の戦争」に含まれるのではないかと思い、見た。

1944年、収容所から志願した日系人二世の若者が集められ訓練を受けていた。
彼らは442部隊という日系人で構成された兵団でイタリア戦線に投入されることになる。

訓練中の442部隊に赴任してきた少尉(ヴァン・ジョンソン)はあからさまに不満を漏らす。
日系人をジャップと呼び上官に警告される。
「ジャパニーズアメリカン(日系アメリカ人)と呼べ。日系人をバカにするな」と。

映画の巻頭のルーズベルトの宣言(日系人をアメリカ軍に加える。アメリカは人種によって差別しない)といい、新任士官に対する上官のセリフといい、進歩主義的なタテマエが前面に示される。

キャンプでの訓練中から、日系人俳優たちの描写は丁寧で、温かい目線だ。
ヒヨコの雌雄判別の技術で月500ドル稼いでいたという男、日系人女性の恋人の写真とラブレター、ハワイ出身の日系人たちのウクレレとフラダンス。
そこには白人の米兵に対するのと同じく、人間性を前面に押し出した演出がなされる。

製作のドーリ・シャリーという人物。
MGMを皮切りにセルズニックプロ、RKOなどを渡り歩いてきた。
「少年の町」(1938年 スペンサー・トレーシー主演)、「らせん階段」(1946年 ロバート・シオドマク監督)などを製作した。

シャリーは、1955年に「日本人の勲章」というスペンサー・トレーシー主演の映画を製作している。
日系人部隊で活躍し戦死した日系人に授与された勲章を、遺族に届けに来た元軍人が、その遺族は地元のボスにより殺されていた、ということを知って・・・という内容。
「二世部隊」でも随所に暗示される人種差別をテーマにしている。

「二世部隊」でも、ジャップと呼ぶ米兵が出て来たりするなど、人種差別を隠さず描いている。
進駐先のイタリアで、米軍の格好をした日系人が地元民にびっくりされたりもする。

戦闘シーンでは、勇敢な二世兵士の活躍場面はあるが、二世部隊の名を一躍有名にした、ドイツ軍に包囲されたテキサス大隊の救出では、補助的な役割として描写される。
白人の上級将校の立てた作戦の元、現場でとにかくがむしゃらに肉弾として戦った日系兵士、という扱いで、あまつさえ最後の突破の場面には、白人の少尉たちが一緒にいたりさえする。

戦争映画のキモの戦闘シーンでは日系人に主役はさせない、というアメリカ映画的な約束事なのか。
また、442部隊の消耗率がアメリカ軍全体の中で異様に高い事実にも触れていない。
そもそも、ノーノーボーイと呼ばれた、アメリカへの忠誠も、徴兵も拒否した日系人二世が米本土の強制収容所に、それなりに存在していたことも。

この映画、タテマエとしての民主主義に基づく、少数民族への配慮を示した点では、当時のもっとも進歩的な作品であろう。
のちの「日本人の勲章」につながる差別問題を示唆してもいる(日系兵士が手紙で弟が収容所を出て働く先でリンチに遭ったなど)。

ところが、肝心な部分で白人に主役の座を譲っていたりするのを見ても、あくまでもアメリカ人としての日系人の物語なのである。
太平洋戦線に派遣されたとしても、日本人相手に戦闘することをためらわないような。

ナショナリズムに関する部分は避けられ、ましてや日本そのものに対する興味も、リスペクトもない。
日本人の、ではなくい日系アメリカ人にとっての戦争をテーマにしたドラマなのである、しかも巧みに情報操作された。
その点では「太陽の帝国」とは根本的に異なる作品だった。

DVD名画劇場 フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース

アメリカ映画にはミュージカルという伝統分野がある。
主演の俳優が相手役の女優と、劇の合間に歌い踊る映画である。
同時にバックコーラスやダンサーたちが豪華な舞台でレビューを繰り広げる。

1940年代になって、MGM映画社が、ジュデイ・ガーランド、ジーン・ケリー、フレッド・アステアらを擁して、豪華な舞台装置と人海戦術的なバックダンサーたちの動員により、ミュージカル映画の頂点を極めることになる。

トーキー黎明期から、1950年代まで映画の主要ジャンルとして間断なく作り続けられてきたミュージカル映画。
戦前戦中は、いわゆるエスケープムービーとして、不安な世界情勢や戦争の現実から、一般大衆を逃避せしめる役割もあった。
一般大衆にしても、悲惨な現実はいやというほど味わっており、せめてスクリーンでは甘い夢を見せてくれることを望んだこともあろう。

フレッド・アステアは父がドイツ系ユダヤ人の移民だった。
若くしてダンサーとして活躍。
映画界入り後は不遇時代が続いたが、1933年にRKO社と契約し、ジンジャー・ロジャースとのコンビで売り出す。1940年からはフリーとなってMGMほかでミュージカル映画を中心に息長く活躍。
1999年全米映画協会選出のスターベスト100では男優部門第5位にランクされる歴代のスターとなった。

ジンジャー・ロジャースとのコンビは7年間続き、RKOの屋台骨を支えた。

今回、アステア&ロジャースのミュージカルを2本見ることができた。

「コンチネンタル」 1934年     マーク・サンドリッチ監督 RKO

アステア&ロジャースコンビの第2作。

ロジャースに一目ぼれしたアステアがひたすら追いかける、最初は誤解していたロジャースも最期は打ち解けて・・・というストーリーを軸に、アステアが一人で歌い、踊りるシーンで始まり、二人で踊りまくるクライマックスへと向かう。

アステアのリズム感と間。
その音感と、タメのある動きが、すでにアステアの「間」そのものになっている。
歌もうまい。

相手役のジンジャー・ロジャース。
ブロンドヘアーにバリバリのハリウッドメイクの姿は一見するとジーン・ハーロー。
でもアップで見ると親しみのあるアメリカ娘。
気が強くて、直情径行だが裏表がなく、明るいキャラクター。

こちらもリズム感抜群で、踊り慣れた感じは、ダンスに自己流のアレンジも一瞬感じさせるが、次の瞬間には、音楽との正確でスピーデイーなマッチアップに感心させられる。
アステアとのコンビネーションでは、決して相手に対抗してテクニックを発揮しようとはせず、だからといってひたすら合わせることに専念もせず。
自分なりのリズム感を持ち、華やかで明るく元気がある。

ジンジャー・ロジャース

アステアにとって、彼女以上のパートナーはいないであろう、と思わせる存在が、ジンジャー・ロジャースだと思う。

「コンチネンタル」より

作品中のナンバーではラストの大団円を彩る「コンチネンタル」が圧巻。
200名のバックダンサーを従えて二人が踊る。
元気に踊るのだが、踊りまくる、というよりは優雅に踊っていいところをかっさらう感じ。

レビューシーンはミュージカル映画の楽しみの一つ。
出てくるダンサーの一人一人が飛び切りの美人なのはハリウッドのお約束だが、バックダンサーたちの振り付けだったり、大人数の振り付けだったりが、50年代のMGMミュージカル全盛期を待つまでもなく、原形がすでにここに完成していたのは発見だった。

「トップ・ハット」 1935年 マーク・サンドリッチ監督 RKO

コンビの第4作目。
「コンチネンタル」のヒットを受け、同様の配役と同様のプロットで作られた。

乗馬ズボンスタイルで踊るジンジャー・ロジャースの姿が見られる。

踊るジンジャー・ロジャース。このポーズと表情が彼女らしい!

ドラマ部分のわき役が「コンチネンタル」と被り、それぞれのキャラもまた似通っている。
さらにドラマの演出が、無理にコメデイー仕立てにこだわっている。

MGMなどと違い、後発の撮影所でスターのいないRKOが、ブルジョワ階級のコメデイーをやっても、手際が悪くチープな感じが漂うだけなのだが。

歴史を越えて輝く、アステア&ロジャースのダンスシーンがあるのだから、ドラマ部分は思いっきり簡潔に、ミュージカル風のぶっ飛んだ演出でもいいのだ。

「トップハット」より
「トップハット」より

映画後半の舞台はベネチア風のゴンドラが浮かぶヨーロッパリゾート。
画面一杯にセットを組んでの撮影だったが、憧れのヨーロッパのおとぎの国の再現のようなピカピカのセットが、ベニヤ張り丸出しの安普請に見えてしょうがなかった。

「トップハット」を歌い踊るアステア(左)。この前傾ポーズがアステアのタメの姿勢。.

ミュージカル映画の成熟と完成は40年代以降のMGM作品を待たなければならなかったのかもしれない。

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代 アフリカンアドベンチャーの世界

MGMの得意ジャンルの一つにアフリカを舞台にした冒険活劇がある。
伝奇な舞台設定と、猛獣や原住民のエキゾチシズムを前面に出した物語で、多くは原作ものの映画化であった。

今回は記念すべきターザンものの第一作と、現代でも続編が作られ続けているキングソロモンもののMGM第一作を見ることができた。

「類猿人ターザン」 1932年 W・J・ヴァンダイク監督 MGM

この作品からターザンの物語が始まった。
MGMでの初代ターザン役はジョニー・ワイズミュラー。

アフリカにいる父を訪ねて娘のジェーンがやってくる。
活発で冒険好きのジェーンは、止めるのも聞かず、父らと一緒に象牙を求めてアフリカ内部へ旅立つ。

ワイズミュラーとのコンビでターザンものの人気を不動のものにしたジェーン役のモーリン・オサリバンが、現代娘を元気に演じる。
冒険活劇には少々無鉄砲で破天荒な若い娘が似合う。
モーリン・オサリバンは冒険アドベンチャーのヒロイン役の原点として申し分ない。

象牙を求めての冒険旅行の過程で、猛獣が現れ人間と戦う。
今は動物保護の観点からできないのだろうが、昔は人間と動物が取っ組み合って戦うシーンはアフリカものの映画によくあった。

原住民の猟奇的(よく言えば民俗学的)な描写にも驚かされる。

終盤に大人数のピグミー族が出てきて主人公らと争うシーンがあってびっくりする。
あんなにたくさんのピグミーをどうやって集めたのか、現地ロケなのか。
それとも、白人の小人を黒く塗ったり、または子供を使ったのか?

MGMは、「オズの魔法使い」でも多数の小人俳優(子供も混じっていたが)を使っていたし、なにより「フリークス」(1932年 トッド・ブラウニング監督)で奇形者を多数使った「実績」がある映画会社だから。

MGM映画「オズの魔法使い」。小人の国のシーン

何より一番センセーショナルで伝奇的なのはターザンの存在そのもの。
その登場シーンは,モンスター映画で怪物がチラリとでてくるシーンのドキドキ感もあるし、ジェーンとの邂逅から打ち解けるまでは、キングコングと美女のそれと同様に、異人種間交流のタブー感に満ち満ちていた。

「類猿人ターザン」より。ターザンとジェーン

ジェーンがターザンとジャングルに残ることを宣言して第一作は終わる。
ジェーンがターザンの妻として、お馴染みのコスチュームで登場するのは第二作「ターザンの猛襲」から。
第二作目も見たくなる出来の第一作だった。

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「キングソロモン」 1950年 コンプトン・ベネット、アンドリュー・マートン監督 MGM

ハリウッドの一ジャンルとなった秘宝アドベンチャーものの源流となった作品。
大掛かりなアフリカロケが行われ、映画の巻頭にMGMからウガンダ、ケニヤ、タンザニアなどの政府に対する賛辞がクレジットされる。

テクニカラーで撮影されたアフリカの風景、猛獣、原住民の生態が当時の観客にはセンセーショナルだったのだろう。
アカデミー撮影賞を受賞している。

行方不明になった夫を探しにイギリスからやってきた富豪の夫人(デボラ・カー)が現地のスペシャリスト(スチュアート・グレンジャー)の案内で未知の領域へ探検旅行を行うという物語。

夫人の夫はソロモン王の秘宝が眠る魔の山に消え、夫人ら一行は魔の山にたどりつき、秘宝を目にするのだが、本作はそういった伝奇的な要素よりも、道中の動物たちの描写に重きを置いている。
当時はたくさんいたサイやカバなどの生態、山火事に驚いて暴走するシマウマの群れなどは現在では貴重な映像だ。

「レイダース」や「ロマンシングストーン」のように、転がってくる岩から逃げたり、崩れ落ちる崖を走るようなハラハラシーンの連続を期待すると、これは違う。
ヒロインは落ち着いたイギリス夫人であり、無鉄砲な娘の冒険旅行ではない点も他作と異なる。
お約束通り、主人公二人は最後に結ばれはするが。

共同監督のアンドリュー・マートンはアクション・アドベンチャー場面を担当。
おそらくロケ担当かと思われる。
「ベンハー」「史上最大の作戦」の第二班監督を務めたというマートン家督は現場で頼りになる人なのかと思う。

(追加)「キングソロモン」 1937年 ロバート・スティーブンソン監督 イギリス

「キングソロモン」の初映画化は、1937年にイギリスによって行われていた。

1937年版のこの映画は、行方不明の父親を捜しにアフリカに娘がやってくることから始まる。

キャラバンを組み、砂漠を越えて、ソロモン王の秘宝が眠る魔の山のふもとの村にたどりつく。
途中からキャラバンに合流した不思議な黒人がこの村の王子だとわかり、王位をめぐる争いに巻き込まれる。
歌を歌いながらキャラバンを先導するこの黒人のキャラが奇妙である。

やがて魔の山山中の洞くつで行方不明の父親と再会し、秘宝を残しつつ崩れ落ちる洞くつから命からがら脱出し・・。

おそらくハリウッド版より原作に忠実なのではないか?
キャラバン途中の苦難、特に砂漠での乾きなどがより深刻に描写されている。

現住民の描き方なども、ロケによる当時の原住民の様子なども交えて、より興味深い。
ハリウッド版の原住民は、顔の描き方などもハリウッド流であり、アバンギャルドなその顔をアップで強調する撮り方だったが。

秘宝発見後の洞くつ脱出場面はハリウッド版よりスリリングに描かれていた。
伝奇的なおドロドロしさもあり、アクション的にもサービス満点な作品だった。

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代  女性ドラマの世界

児玉数夫著 講談社文庫 「MGMアメリカ映画黄金時代」

著者の児玉数夫は戦後直後にセントラル映画という外国映画輸入会社に入り、以降数々の映画を輸入会社の立場から見てきた人。
映画に関する多数の著作があるが、いわゆる映画評論家的な価値観から作品を論するのではなく、今では忘れられた輸入映画の数々を、当時のポスターや宣伝文句とともに紹介できる稀有な映画人だった。

1968年文庫書き下ろしの本作は、世界一の映画会社であるMGMの1920年代から60年代までの作品を選択して紹介したもの。
著者がリアルタイムで接してきた、MGMの作品、シリーズが網羅されている。

グレタ・ガルボ、クラーク・ゲーブルを売り出したMGM。
キートンや極楽コンビによる喜劇、ターザンシリーズ、海洋冒険もの、おしどり夫婦探偵の「影なき男」シリーズ、子役による「ラッシー」もの、女性もの、ミュージカルなど、その作品ジャンルは多岐にわたる。

MGM映画のカラーは、「非常に広い範囲の観客を目標におく、世界のあらゆる人々に理解と共感をもって受け入れられる映画であることを念願」に(本著作まえがきより)したものだった。
日本の映画会社であれば東宝のカラーに近いのかもしれない。
美男美女のスターを配し、社会の多数派を意識した家族向けのテーマを、製作費を潤沢にかけて、明るい画面の映画に作り上げた。

今回はMGM黄金時代の作品から、女性が主人公の3本を選んで見た。

「風と共に去りぬ」 1939年 ビクター・フレミング監督 MGM

ハリウッドのラストタイクーンの一人、デビッド・セルズニックによる製作。

原作はマーガレット・ミッチェルによるベストセラー。
南部人のミッチェルは、南北戦争を経験したその祖母のエピソードを交え、ヒロイン・スカーレットの半生を描いた。

セルズニックは映画化に当たりスカーレット役の女優を探し、イギリス人の無名女優ビビアン・リーに決まったのは撮影が開始された後だった。

ビビアン・リー

3時間を超える作品の前半は南北戦争開始前から始まる。
タラと呼ばれるジョージア州のスカーレットが育った農場一帯が舞台だ。

奴隷制度が維持され、スカーレットの父ら農場主は貴族のような生活を送っていた。
南部人にとって北部は「ヤンキー」と呼び、敵対し軽蔑する対象だった。
原作では登場人物の南部男性はKKK団に所属していた。

映画では農場主の妻(スカーレットの尊敬する母)が、素行不良の管理人に対し「あなたの子を私が取り上げた。幸いに死産だった」と告げる場面がある。
はっきり描かれないが、白人が黒人奴隷に手を付ける慣例があったことの暗示ではないかと思われる。
妻は農場主の夫に対し、管理人を翌朝一番で解雇するよう強く意見していたが。
良くも悪くも南北戦争前の南部の風景だ。

南北戦争前のタラの自然。
夕日に染まる広大な農園、月明かりに浮かぶ広大な屋敷に集まる馬車。
ロケに大掛かりなライテイングを施した撮影だったであろう、忘れがたい場面が続く。

タラの屋敷での舞踏会シーン

南部人にとって古き良き時代を描きつつも、単なる郷愁や北軍に対する大義とプライドは滅びゆくものとして描かれる。

戦争が始まると、戦費協力のバザーでは宝石の供出が求められる。
夫人は野戦病院に駆り出される。
広場を埋め尽くす戦傷者の群れ、アトランタ陥落を前に燃え落ちる弾薬倉庫。

戦乱のアトランタからタラに逃れる

主人公のスカーレットは農園のわがまま娘で、言いたいことやりたいことを我慢しない。
何をやりだすか予測がつかない。
ハリウッド映画が描いてきた主人公像、常識的で貞淑で分別があり控えめ、とは正反対。
母親代わりの黒人メイドに反発し、寄ってくる男を振り回し、自分の好きな男を例え婚約者がいても追い回し、いやなことからは逃げたがる。

見ているこちらもその行動にはらはらし、振り回される。
抜擢されたビビアン・リーが、まさに適役。

レットとスカーレット。運命のパートナー

スカーレットを男にしたようなのがレット・バトラー。
素行不良の退役軍人で、戦乱の南部をさ迷いながらスカーレットにモーションをかけ続ける。
ピンチで役に立つし、最後の最後で南軍の大義に準ずるヒロイズムを持つこの人物はクラーク・ゲーブルのイメージ通り。

スカーレットとは対極の性格で、一見ひ弱そうだがいざとなると一番責任感が強い女性にオリビア・デ・ハビラント。
最後まで不肖のスカーレットを助け、レットにも絶賛される稀有な女性。
スカーレットが思いっきり奔放で未熟だから、対極のキャラとして描かれたのだろうが、主人公たちの、性格的にも時代背景的にもブレブレで流動的なこの映画に1本の精神的支柱となる存在だった。

レットも信頼する女性にオリビア・デ・ハビラント

スカーレットの、女性にしては激しく、自律的な性格(喪服のままダンスに興じるシーンは当時の常識に反逆?)だったり、タラの屋敷に押し入った北軍の脱走兵が強盗そのものの描写だったり、冒頭の管理人が奴隷?に子を産ませた場面を含め、30年代の映画としてはアメリカのタブーに触れ、また多数派の常識に逆らうかのような場面が盛り込まれていたのが興味を引いた。
この作品が古びない一つの要因なのかもしれない。

本作のフィルムは、三原色それぞれのネガで保存されるが、それらのネガは大戦中万が一の場合に備えハリウッドから東部に移されたという。

占領下のシンガポールで本作を見た小津安二郎が大いに感心したとも伝えられる。

監督が、ジョージ・キューカーからフレミングに交代し、サム・ウッドが第二班の演出にあたるなど長期にわたる撮影を指揮したセルズニックの功績は特筆される。

「哀愁」 1940年 マービン・ルロイ監督 MGM

「風と共に去りぬ」でアカデミー主演女優賞を獲得したビビアン・リーを主演に持ってきた作品。
第一次大戦下のロンドンを舞台に、バレエダンサーと将校の悲恋を描く。

ビビアンの相手役はMGMの二枚目スター、ロバート・テーラー。
ビビアンに一目ぼれして追いかけるが、突然の出征で心ならずも別れ、その後偶然に再開し、改めて婚約するが、別れた間に戦争中の困窮に苦しんでいたビビアンが自責の念に耐え切れず・・・・。

ビビアン・リーとロバート・テーラー

薄幸の美人ダンサーと、地方の農園主の御曹司の悲恋。
少女小説のように実感のないストーリー。

主人公らを取り巻く人々も、悪意の片鱗すらなく彼らを支え応援する。
悪いのは戦争という時代背景。

映画は物語を斜に構えず正面から捕らえ、オーソドックスに悲恋を語る。
空襲の描写もおとなしい。
貧困に苦しむビビアンと親友の部屋も暗さや悲惨さはおとなしめに表され、娼婦に身をやつした彼女らの姿に独特の凄味は少ない。

中年になった男の在りし日の悲恋の追憶の映画として観れば、一抹の共感もできる。

身をやつしたビビアンに、暗さや荒みを演出すれば凄味が出たとも思う。
彼女の女優としての資質からはその凄味を十分表現できた。
が、そういう作品ではなかった。

「心の旅路」 1942年 マービン・ルロイ監督 MGM

踊り子と御曹司の恋、という設定は「哀愁」同様。
グリア・ガースンの魅力が印象に残る作品。

「MGMアメリカ映画黄金時代」より

戦争で記憶をなくした主人公(ロナルド・コールマン)が、踊り子ポーラ(ガースン)に拾われ、結婚し子供まで設けるが、交通事故で記憶が戻り、それまでの記憶を失う。
やがてポーラと再会し記憶を取り戻すまでの物語。

イギリス出身のグリア・ガースンのキャラクターがいい。
きっぷがよく包容力のある明るい女性を演じ、舞台で踊り歌う姿まで見せる。

「哀愁」のビビアン・リーのバレエダンスシーンは上半身だけの描写だったが、この作品でのガースンはバッキンガムの衛兵をモチーフにしたミニスカート姿で形のいい足を見せ、舞台中を歌い踊る。
戦争終結に酔う観客が舞台に押し寄せるとそれを相手にダンスさえする。
何とも明るくていい。

「アメリカ映画黄金時代」より

ポーラは、記憶喪失中のコールマンを終始リードし、コールマンに文筆活動をさせて結婚生活を送る。
記憶が復活し、財閥の御曹司となったコールマンのもとにいつの間にか秘書でくっついているのには驚いたが。
その強引さもガースンに免じてならOKだ。

この作品は「哀愁」と同様に取り巻く人々が模範的。
コールマンを少女時代から思慕し、結婚寸前までいった娘キテイは「あなたが一番好きな人は別にいる」と言って身を引く。(「哀愁」で最後までビビアンを助けた親友もキテイ名だった)。

ありえないくらい模範的な人々。
人間臭い感情を描くのが映画だが、MGMの大作は人々を模範的、道徳的に啓蒙するのも使命の一つなのだろうか。
それもグリア・ガースンに免じて許す!

「MGMアメリカ映画黄金時代」の「心の旅路」紹介欄には、「荒れ果てた敗戦の汚れた街に住む私たちには恍惚の二時間を与えてくれた」とある。
「戦後アメリカ映画に初めて接して映画ファンになった人の中には、この「心の旅路」を、生涯の心に残る想い出の名画としている人が多くいるときいた」とも。

DVD名画劇場 ジェームス・ギャグニー ギャングスター!

ジェームス・ギャグニーは1930年代にギャング役で売り出したスター。

DVDで、出世作「民衆の敵」と、自伝のタイトルにもなった「汚れた顔の天使」を見ることができた。
いずれもギャグニー全盛期の作品。
どちらの作品にも、ギャグニーの切れ切れの動きと愛嬌ある表情が炸裂していた。

「民衆の敵」 1931年 ウイリアム・A・ウエルマン監督  ワーナーブラザーズ

1909年のタイトルで始まる。
貧民街の二人組。
すばしこい悪ガキコンビだ。

やがて腕を見込まれ、悪の組織の下請けとして「活躍」しはじめ、暗黒街に名を売る。

悪ガキ時代のギャグニーと幼馴染

ギャグニーには移民の母親とまじめな兄がいる。
兄は非行に走る弟を容赦なく叱る、母親は嘆く。
弟は叱られ、嘆かれるたびに、より反発し悪事に走る。

金を手にし、女をとっかえひっかえ。
豪華な部屋に住み、イカす車を乗り回す。

ギャグニーの演技というかキャラクターが見どころ。
売り出し中のギャングぶりがいい。
気に入らない相手にはビールを吹きかけ、口うるさい情婦にはグレープフルーツを押し付ける。

情婦の顔にグレープフルーツを押し付ける!

小柄な体をきびきび動かし、ウインクしたり睨んだり忙しく変化する表情。
精悍でかつ愛嬌もあり、ギャグニーがスターになるべくしてなったことがよくわかる。

ウエルマン監督の演出は、余計な要素は盛り込まず、貧民街出身の非行少年がギャングスターとなり、必然的に破滅するまでをテンポよく描く。
観客や、自主規制に対するエクスキューズを気にするより、ギャグニー扮するギャングを冷徹に淡々と見つめる。

ギャング映画の見せ場は、銃撃シーン。
この作品の銃撃シーンは暗く救いがない。
ひたすらスピーデイでショッキングで乾いている。
ラストシーン、板に括り付けられたギャグニーの死体が、立ちあがるように送り届けられる衝撃。

30年代のセックスシンボルといわれたジーン・ハーローが出ている。
一種独特の存在感があり、彼女が出ているシーンは映画のトーンが変わって見える。
さすがのギャグニーもハーローの存在感にはかなわなかった。

「汚れた顔の天使」 1938年 マイケル・カーテイス監督  ワーナーブラザーズ

「民衆の敵」でギャングスターとして売り出したギャグニーは、その後、西部劇やコメデイなど多彩な役に挑戦。
ギャング役は1950年を最後に遠ざかることになる。
本作ではギャング役を演じる。

貧民街出身で、相棒とともに非行を重ねる少年時代。
ここまでは「民衆の敵」と同じだが、そのあとがかなり違う。
ギャグニーは非行少年のまま、ギャングとして悪の道を進むが、相棒は改心して何と神父となる。

ギャグニーと神父役のパット・オブライエン

ギャングと神父となった二人だが友情は変わらず。
ギャグニーは神父が非行少年の更生のために行っているバスケットボールを手伝ったりする。
神父は神父で、非行少年更生のもとを発つため、ギャングと権力の結びつきを糾弾しようとマスコミに訴える。

ギャング映画としてのキレもありながら、同時に進行する非行少年更生の話が、映画全体のテンポとテンポとムードを阻害し、中途半端な印象をぬぐえない。
世論と自主規制を大いに意識し手の作りなのだろうが、神父の単純な勧善懲悪に簡単に乗ってしまうマスコミの描写が薄っぺらい。

ただしラストはいい。

死刑を宣告されたギャグニーに神父が最後の頼みをする。
英雄的に死ぬのではなく、命乞いしてみじめに死んでほしいと。
鼻で笑うギャグニーだが、演技か真実か、泣きながらみじめに死んでゆく。

ここが映画のテーマなのだが、そこに至るまでの、神父や非行少年たちの描写がいかにも観客受け(世論受け)を狙ったようでしらけてしまう。
そうなると、ギャング場面のギャグニーのきびきびとした演技も、観客受けを狙ったマイルドなものに見えてしまうは気のせいだろうか。

DVD名画劇場 続・アメリカ時代のジャン・ルノワール

畑の作業もほぼ終わり、寒くなってくると時間ができ映画を観る時間が増えてくる山小舎おじさん。

先回ご紹介した「アメリカ時代のジャン・ルノワール」で、ルノワールの渡米第一回作品「沼地」に触れましたが、この度同作品「スワンプ・ウオーター」(1941年。DVD題名は原題どおり)と、渡米後5作目にあたる「浜辺の女」(1946年)を見る機会があったので、それえぞれ感想を書きます。

「スワンプ・ウオーター」 1941年 ジャン・ルノワール監督 20世紀FOX

欧州を逃れ渡米したルノワールは、20世紀FOXと契約した。
年2本の監督作品が条件の高給待遇だった。

その後、第一回作品を撮るまでの間に、ハリウッド及びハリウッドが彼に対して何を望んでいるかを痛感したルノワールは、こう述べている。

ハリウッドは営利主義という理由でだめなのではない、「完璧さ」に対するめくらめっぽうな執着にこそ真の危険性がある。(自伝より)。

完璧さを求めてあらゆる才能(監督、脚本、撮影、出演者・・・)が集められるが、工業製品を作る産業ならともかく、映画に於いて才能あるスタッフを集めて完璧性を求め、それでうまくいくとは限らないのだ、と。

産業としての映画製作を旨とするハリウッドが、ルノワールに求めていたのは、高品質の製品(映画)製作の現場責任者。
流れ作業のスタッフの一つのコマとしてふるまうこと、であり、ルノワールにとっての映画作りとは相いれないものだった。

20世紀FOXとの契約後、アメリカ的な題材を希望するルノワールと、フランス的な題材を期待する製作責任者ダリル・F・ザナックの交わらないベクトルは、しかしザナックが「スワンプ・ウオーター」の企画を持ってきたことで、たった一度の交わりを見た。

「スワンプ・ウオーター」がルノワールが敬愛するジョン・フォードの1935年作品「男の敵」を書いたダッドリー・ニコルズの脚本であったことも幸いした。
この出会いからニコルズとルノワールは終生の友となる。

「スワンプウオーター」演出中のルノワール。左からアン・バクスター、ダナ・アンドリュース。

さて、「スワンプ・ウオーター」。
ジョージア州に広がる沼地を舞台にしたドラマ。
ワニと豹が住む広大な沼地に逃げ込んだ冤罪の殺人犯(ウオルター・ブレナン)と、偶然彼と出会い、友となり、冤罪を晴らそうとする若者(ダナ・アンドリュース)を主軸に、それぞれの家族や沼地のほとりの町の人々が絡む。

若者の、頑固だが実は息子思いの父親にウオルター・ヒューストン。
ブレナンの娘で、雑貨屋の下働きをしていて、若者と仲良くなるのが新人アン・バクスター。

ミステリー調にも、ホームドラマ調にもなろう題材は、しかし、しっかりとルノワール調に彩られていた。

女優たちがいい。
ルノワールは、アン・バクスターに汚いドレスを着せて裸足で歩き回らせる、時として顔までを汚して。
若さを輝かせて動き回るバクスターは、ハリウッド女優というよりはルノワール映画の活発な若い女性だ。

ウオルター・ヒューストンの後妻役の女優もいい。
いかにもピューリタン風の良妻賢母なアメリカ女性を装いつつも、年が離れた夫への甘えや、義理の息子への家族としての愛情を隠さない。

ダナ・アンドリュースの恋人で、のちにケンカ別れをすることになる金髪の若い女優もいい。
いかにもミーハーでわがまま。
甘えるかツンツンするかのどちらか。
嫉妬深く鼻持ちならない女の子ながら、どこか憎めなく、かわいらしくさえルノワールは演出する。

この女の子が、アンドリュースに振られた腹いせに、ウオルター・ブレナンの居場所を町の人に漏らす。
唖然とするアンドリュースの背後で慌ててかけ逃げるその女の子の姿の「かわいらしさ」をルノワールのカメラは逃さないでとらえる。
この緊張感とかわいらしさが混然一体となる画面の演出ぶり!

シークエンスごとに話が途切れるのではなく、次のシークエンスと被るように話が続いてゆくのもルノワール流か。

ダナ・アンドリュース(左)とアン・バクスター

アンドリュースが前半で出会う、沼地に逃げたブレナンは、まるで秘密基地を得た大人が秘かな愉しみを得ているようにさえ見える。
現実から切り離された世界で世捨て人ブレナンは哲人のように生きている。
毒蛇に噛まれても死なない。
訳を聞くと「絶対に死なないと強く念じることだ」と答える。
肉体が死んでも魂は別のところに行く、とも。

現実の世界と、哲人の住む世界との橋渡し役・アンドリュースは冤罪が晴れるラストまで、最初は親父に叱られ、ついでは町の人に忌避され恋人とも別れる。
代わりに、沼地に住む珍しい動物の毛皮と、ウオルター・ブレナンという啓発を受ける先人、それにアン・バクスターという素晴らしい女性を得る。

クレジットトップのブレナンは演技派の本領発揮。
西部劇での好々爺役だけが持ちネタではない。

ジョージア州へのロケをルノワールは希望したがほとんど実現できなかった。
しかしながら、映画というもの、セットやスクリーンプロセスも重要なその要素のひとつ。
そう思って見れば、セット撮影やスクリーンプロセスによる沼地もその効果は結果として同じような気もする。
もっとも、ロケを忌避し、スタジオ撮影を無条件に押し付ける当時のハリウッドシステムは、それはそれで大いに問題はあるが。

この作品、むしろ女性の描き方に見てとれる映画監督ジャン・ルノワールの陽性の特質をたのしむべきか。

町の公民館で開かれるダンスパーテイの描写。
アン・バクスターにドレスを買ってやり、連れだってドアを開けた瞬間、画面から溢れ出るうきうきした楽しさ。
いつものルノワール演出なら、この後しつこいくらいに楽しい盛り上がりが続くであろう場面のきらめき。

ザナックは撮影途中で予算超過を理由にルノワールの解雇を決めた(のちに撤回)。
ラストシーンを、別のスタッフに撮りなおさせた。
撮影後にルノワールと20世紀FOXとの契約を解除した。

こうしてルノワールとザナックの歴史上唯一の交わりは永遠に解消した。

「浜辺の女」 1946年 ジャン・ルノワール監督  RKO

不思議な作品だった。

沿岸警備隊に勤務するバーネット中尉(ロバート・ライアン)の悪夢からドラマが始まる。
戦争中、乗り組んだ艦艇が機雷に触れて沈没する体験。
骸骨を踏みながら海底?を歩いてゆくと女神?が現れる。
女神は中尉の婚約者そっくりだ。

悪夢から目覚め、馬で海岸を散歩(パトロール?)する中尉の前に、難破船の廃材を拾う女に出会う。
ひと眼でお互いに何かを感じ取る。

2度目の出会い(中尉が女に会いに難破船に出かける)の時、女は中尉に似た者同士であること、そして「幽霊」なる言葉を繰り返す。

このペギーという女(ジョーン・ベネット)は失明した画家(チャールズ・ビックフォード)と、難破船に近い別荘に住んでいる。
画家は目の見えないふりをしている、と中尉が思い込むほどすべてを見通している。
失明の原因を作ったペギーにつけこみ、ペギーを拘束している。
ペギーはそんな画家を憎みながらも関係に甘んじている。

後半に、ペギー自身もこの海岸の小さな町で、ほかの男と何かあったことが示唆される。
中尉は仕事熱心で美人の婚約者がいながらペギーのことで頭がいっぱいになり、婚約者は離れてゆく。

ルノワールは、ジョーン・ベネット(中)が出演すると聞いて、嬉しくなったという

表面的なストーリーは、夫に不満を募らせる悪女が、婚約者のいる若者をたぶらかすというもの。
結末は、画家が妻と別れることを認め、若者は婚約者と別れ、悪女を待つ、というもの。

ただ、映画は3者の納得性のある動機を示さないし、3者のそれぞれの行動に道徳的な判断を行わない。

この町で何人目かの男をひっかけたであろうペギーは最後までその動機と目的らしきものを示さない。
典型的な悪女なら夫の財産が目的だったりもするが。

画家は、観客にとってみても盲目のフリをしているように見えるし、妻に惹かれている中尉に対する不自然に親和的な行動の説明もない。

中尉は、戦争中の体験が深層心理に影響しているだろうことが示唆されるがその後の行動に結びつかない。
また、一目でペギーに惹かれたのはいいとして、婚約者がいながらその動機と行動に説明がほぼない。
まるで不条理劇の主人公のような行動ぶりだ。

ペギーと接触後、急に離れていった中尉を婚約者は追わない。
もし婚約者が物分かりの良いタイプでなければ映画としてどう始末をつけるのだろう?(そこがテーマではないから、婚約者を物分かりよくしてあっさりフェードアウトさせたのだが)。

この作品のテーマについてルノワールは「ぽっかりと空いた孤独の穴にはやがて亡霊が住みつくことになる」(「自伝」)と述べている。
ペギーが難破船で中尉に言った「幽霊」がここに出てくる。

とすると、作品のモチーフは、中尉、ペギー、画家の孤独であり、そこに住み着いた幽霊が中尉をしてペギーに惹かれさせ、ペギーをして夫以外の男を誘惑させ、画家をしてペギーを束縛させたのか。
そこに合理的説明を付与せず、ありのままに描いたのがルノワールの「浜辺の女」か。

スターを起用したRKOの準大作であるこの映画は、プレビュー公開での評判が悪く、再編集と撮りなおしに1年以上かかった。
そのためもあり、作品は前衛的な心理劇としても中途半端で、合理的説明を旨とする商業大作としても中途半端なものとなった。

主人公の悪夢に出てくる海(水)の幻想的(悪夢的)なイメージや、登場する子どもがとにかく騒いでわんぱくだったり、中尉の送別会のパーテイシーンの賑やかさ、などルノワールならではの演出も随所にみられるものの、「孤独の悲劇というこの映画のテーマは、それまで私が映画を通して探し求めてきたところとは、まさに正反対だった」(「自伝」)ところにこの映画の悲劇(悲劇=失敗作ではないとしても)があろう。

ロバート・ライアンは謎めいたキャラで魅力を発する俳優だが、この作品の役はさらに謎めいていて、演じる彼自身が戸惑っているようにも見えた。

ジョーン・ベネットはさすがに堂に入った「悪女」ぶりだったが、この女優さんは、悪女であること以前に正調ハリウッド女優であり、素に戻った時の表情の美人ぶりにそれを強く感じた。

チャールズ・ビックフォードは並々ならぬ存在感で、この映画が求めるとおりの謎の画家を演じた。

この作品の後、RKOスタジオはルノワールとの契約を解除した。
あと1本の契約が残っていたがRKO側が違約金を払ってクビにしたのだった。

ルノワールがハリウッドから契約を解除されるのは20世紀FOXに次いで2度目だった。
「浜辺の女」はルノワールにとって最後にハリウッドで撮った映画となった。

独立プロ的にインドロケで撮った「河」を挟み、ルノワールはフランスにもどることになる。

DVD名画劇場 ジョン・フォード 俺も男だ!

ジョン・フォードといえば西部劇を中心に、戦前のサイレント時代から1960年代まで140本を超える映画を撮った名監督。
今回はその代表作といえる3作品を見た。

そこには同時代に活躍した名監督ハワード・ホークスと同様に、男の世界が描かれていた。

ホークスのタッチと異なるのは、男同士の友情がウエットに描かれていること、男を受け止める女性達が控えめで芯が強く描かれていること。
無理やり東映映画に例えれば、ホークスが乾いたタッチの実録映画だとしたら、フォードはウエットな任侠映画なのではないだろうか。

「駅馬車」 1939年 ジョン・フォード監督  ユナイト

プロデユーサーはウオルター・ウエンジャー。
ハリウッドきってのインテリプロデューサーといわれ、「暗黒街の弾痕」(1937年フリッツ・ラング監督)、「海外特派員」(1940年アルフレッド・ヒッチコック監督)などを製作した。

ウエンジャーの制作と聞けば、なるほど「駅馬車」は時代を先取りした実験的な作品に見えてくる。

映画の作りは大まかな舞台を、駅馬車内部と、宿泊地に限定。
駅馬車自体が移動しているのでスピード感も出てくる。

登場人物はほぼ駅場車の乗客に限られ、キャラクターを掘り下げやすくなる。
余計な舞台設定と人物はカットされ、観客は物語に集中できる。

実験的というのは、駅馬車が進むにせよ取って返すにせよ、乗客全員に意見を諮る、という民主的な姿勢が貫かれていること。
アメリカの支配層であるワスプ系の価値観の押し付けがない。(ユダヤ系インテリプロデユーサー・ウエンジャーの意向か?)

そして登場人物の平等で、下から目線的な描き方にもこの映画の特徴がみられる。

別の町へ流れる酒場女(クレア・トレバー)や、いかさま賭博師(ジョン・キャラダイン)、酔いどれ医者(トーマス・ミッチェル)、あげくに脱獄囚・リンゴキッド(ジョン・ウエイン)など見かけは最悪のメンバー。
ところが前途の危機に際し、またインデイアン襲撃の緊急時に際し、彼らの真価が発揮される。

すなわち、人情味にあふれ、責任感と勇気にあふれ、差別しない人たちが登場人物ということがわかる。
映画の隠れたテーマが民主主義とその前提としての人々の健全な常識と責任感をたたえることだということがわかる。

ジョン・ウエインが若く、のちにその存在イコール正義、といったものになっておらず、彼の存在が映画の邪魔をしていないところもいい。

ジョン・ウエイン

アパッチの襲撃シーンがハイライト。
全力疾走の6頭立ての駅馬車。
アパッチは疾走する馬上からライフルで射撃する。
全力疾走する馬から駅馬車を引く馬に飛び乗る。
撃たれたら前のめりに馬ごとぶっ倒れる。
リンゴキッドは外れそうな馬車馬を御するため、駅馬車の運転台から馬を伝って先頭の馬まで飛び移る。

コマ落としによるスピード感アップがあるとはいえ、「ベンハー」の戦車競走シーンに並ぶ名シーンだと思う。
撮影技術の向上があるとはいえ、今では到底実写で再現はできないだろう。

馬車から馬に飛び移るリンゴ!(ジョン・ウエインのスタントマンが演じる)

酒場女役のクレア・トレバーもいい。
リンゴキッドの直截的で武骨なプロポーズを一度は受け入れ、我に返って逡巡し、別れを告げる。
このあたりの、数度夢破れた生活感のある、内実はしっかりした女性像をこれ以上なく表現している。

クレアのクレジットの順番はトップ(ジョン・ウエインは2番目)。
当時の女優としての評価がうかがえる。

クレア・トレバー(左)

「荒野の決闘」 1946年 ジョン・フォード監督 20世紀FOX

ワイアット・アープ、ドク・ホリデイ、OK牧場の悪漢一味といった西部劇の18番がそろった名作。

悪漢一味への復讐のために町の保安官になったアープが、ドク・ホリデイと出会い、ホリデイを追って東部からやってきたクレメンタインに淡い恋をし、決闘で悪漢一味を退治し、もとの牛追いに戻ってゆくまでの物語。

アープとドクの緊張感あふれる出会い。
かつての優秀な医者から身を持ち崩し、結核に身を冒されるドクホリデイの苦渋。
ぶきっちょなアープがクレメンタインと教会のミサへ向かい踊る淡い恋、と名場面が続く。

山小舎おじさん的には、ヘンリー・フォンダのワイアット・アープの描き方が作られすぎに見えた。
ゆっくり歩き、長い脚を机や柱にもたれかけて座るのもいいが、弟の仇のクラントン一家が同じ町にいるのに緊張感がなさすぎ。
クレメンタインとの関係もプラトニックなのはいいが、フォンダが盛んにおめかしするのは見苦しい。

また、アープとドクが出合う酒場のシーン。
打ち解けて仲間になるのはいいのだが、そのきっかけがわかりずらかった。
先に拳銃抜いたドクが、お前も抜けというとアープが丸腰のベルトを見せる。
そのユーモアというか人間性で分かり合えたということか?

ワイアット・アープとクレメンタイン

女性陣はクレメンタイン(キャシー・ダウンズ)とドクの情婦のインデイアン女(リンダ・ダーネル)。
どちらも生活感なく、定型的なキャラクターに見える。
リンダ・ダーネルのエキゾチックで鉄火な魅力は見ごたえあったが。

20世紀FOXのラストタイクーン、ダリル・F・ザナックの総指揮。
例によって総ラッシュ版の後に、ザナック指示によるシーンの削除、追加、撮りなおしがあり、ラストシーンのクレメンタインへのキスも、フォードではない監督による追加撮影だという。

この作品が名場面の連続ながら、人物描写が定型的に見えたのは、「感受性のない」(ジャン・ルノワールによるザナック評)総指揮者の干渉のせいなのか。

「幌馬車」 1950年 ジョン・フォード監督  RKO

騎兵隊三部作を撮り終えたジョン・フォードが自身の原作を自身でプロデユース。
RKOでのびのびと撮った作品。

ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・ジュニアにワード・ボンドが主演。
ヒロインはジョーン・ドルー。
彼らは「黄色いリボン」にも出演しており、そのままフォード組に残留したか?
ほぼロケーション撮影。

右下の女優がジョーン・ドルー

モルモン教徒の一団60人が幌馬車隊を作り、西部の移住地を目指して進む。
馬を売りに来た若者二人を道案内に雇う。

インチキ薬売りと芸人の一団を拾い、威嚇してきたインデアンとは和解。
乾きに堪え、山を削って道を作って進む。

ケガをしたお尋ね者一味をも拾ってやるが案の定裏切られる。
力を合わせて窮地を脱し、若者二人は拳銃を投げ捨て、思う娘らとカップリングしてエンド。

のどかな牛追いの歌で幕を開け、ピリピリとしたムードは一切なく映画は進む。

若い主演二人はガンマンではなく平和主義者。
途中で拾う、インチキ医者と踊り子2人への温かい目線は「荒野の決闘」でも見られたフォード一流のもの。
丘を駆け降りてきたナバホ族に、「白人は大泥棒だが、モルモンは違う」と言わせ平和裏に解決。
夜はナバホのキャンプに招待さえされる。
これがフォードの望む理想の西部か。

ジョンソンは踊り子(ジョーン・ドルー)に武骨にプロポーズ(「駅馬車」のジョン・ウエインと全く同じ)。
素直に受けない踊り子は一度別れる。
この二人の関係も「駅馬車」と同様のフォードスタイル。

宗教的少数者、芸人などの底辺者、先住民インディアン、への偏見のなさ、暴力否定。
これらもジョン・フォードの本来のスタイルか。

ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・ジュニア、そして一団を率いるワード・ボンド。
この三人、西部の男として、リンゴキッドやワイアット・アープより、より男らしい。
彼らが主人公の「幌馬車」は映画としてより優れていると思う。

若者二人が一度は断った道案内を受けて幌馬車隊に同行を決めるシーンがよくわからなかった。
「荒野の決闘」でアープとドクが意気投合するシーン同様、フォード映画での行動の転換は、理屈ではなく、西部の男同士の阿吽の呼吸によるものということなのか。

DVD名画劇場 丸根賛太郎の2作品

丸根賛太郎という映画監督がいた。

1914年生まれ、旧制富山高校時代に映画研究会で活躍、京都大学入学後から日活京都撮影所に出入りし、そのまま助監督に。
自作のシナリオが片岡千恵蔵御大に気に入られ、1939年25歳で監督昇進。
以来、大映、東映と渡り歩き46本ほどを演出した。
丸根賛太郎は、マレーネ・デートリッヒからとった監督名とのこと。

丸根賛太郎監督

丸根監督の「狐の呉れた赤ん坊」という1945年の作品が、ワイズ出版の「日本カルト映画全集」の9巻目として取り上げられている。

内容は、本作のシナリオ採録をメインに、丸根の奥さん(元大映女優)などへのインタビュー、丸根監督が生前に雑誌などに書いたエッセイの採録など。

丸根監督のエッセイはウイットに富みかつ読みやすい。
文面からは、本人のプロレタリアートとしての信条、ルネ・クレールなど戦前のフランス映画への造詣がうかがえる。

当方、このムックを入手していたところ、中古DVDで本作が出ていたので合わせて入手。
同じく丸根監督の「天狗飛脚」(1949年)と併せてみるチャンスを得た。

「狐の呉れた赤ん坊」 1945年 丸根賛太郎監督 大映

カルト映画なのかどうかはわからなかったが、坂東妻三郎の魅力と人情味があふれる作品で、丸根監督の信条でもあるプロレタリア性も随所に見られた。

むかしむかし、東海道大井川の渡し場に人足の寅八(坂妻)がいた。
酒とばくちと喧嘩が飯より好きな暴れ者。
人足仲間には兄貴と呼ばれ、飯屋の看板娘(橘公子)には慕われてもいる。

この寅八がひょんなことから赤ん坊を拾う。
寅八は酒もばくちも喧嘩も断って、父親になったつもりで赤ん坊を育てるが、赤ん坊は去る殿様の落し胤ということがわかり、涙の分かれを迎える。
丸根監督が企画からタッチし、脚色している。

主役はご存じ坂東妻三郎
ヒロインは橘公子

何といっても阪妻。
この人が出ているだけで映画全体が阪妻調に染め上げられる。
この人のチャンバラは素晴らしく、「血煙高田馬場」(1937年 マキノ雅弘監督)では度肝を抜かれ見ほれたものだ。

今回はコミカルな演技。
貧乏人で暴れん坊だが、1本筋が通っており周りには好かれるというキャラはお約束。

作品中、大事に育てた赤ん坊を取り戻しに来た家老一行に対し、庶民の人情を訴え、啖呵を切る場面が2,3あり、プロレタリアート・丸根の主張がうかがえる。

細かなところでは、渡し場のご意見番として、寅八らが何かと頼る質屋の屋号が「質々始終苦」だったり、サイレントの字幕をうまく使ったり、丸根監督の遊びこころが見られる。
赤ん坊の病気に、寅八が宿場を疾走して医者を抱えてくる場面のスピード感もいい。

阪妻の演技と、人情噺を骨格としながらも、全体を貫くコミカルで明るい調子、またきちんと整理された、わかりやすくテンポの良い演出は丸根監督の持ち味であり、実力だと感じられた。

「天狗飛脚」 1949年 丸根賛太郎監督 大映

市川右太衛門が飛脚に扮し東海道を駆け抜ける。

右太衛門は片岡千恵蔵とともに、戦後の東映時代劇を支え、御大と呼ばれたスター。
この作品では、粗末な格好でとにかく動き、走り回る。

この作品の右太衛門は画面とストーリーに溶け込み、コミカルでスピーデイーな展開の邪魔をしない。
この点はどんな映画に出ても画面を阪妻色に染め上げる板東妻三郎とは異なり、好印象だ。

右太衛門が飛脚屋の仲間(加東大介ら)に兄貴と慕われ、飛脚屋の娘(相馬千恵子)に好ましからず思われながら、子供たちのためにオランダ製の解熱剤を求めて大阪まで走り、江戸の町を荒らす怪盗からの冤罪を晴らすために駆け回わる。
なんと大阪まで東海道を3日で走り抜ける。

怪盗の正体の下手人を捕らえ、解熱剤を適正価格で入手し、家業のためにいやいや大阪に嫁ぐ途中のヒロインを救って大団円を迎えるまで、スピーデイーでテンポよく映画は進む。

昼行燈ぽいが正義感が強い役人に志村喬。

後味がよくすっきりすること請け合いの作品。

スターを使いこなし、会社が求める商業映画としての枠は超えず、わかりやすい作品に仕上げ、自分のカラーや主張も盛り込む。
職人監督としての模範のような2作品だった。

DVD名画劇場 女優NO.8 ジュデイ・ガーランド!

1922年にボードビリアンの父とピアニストの母の間に生まれたジュデイ・ガーランド。
幼いうちから姉二人と舞台に上がり、10代になってMGMと契約して映画デビュー。
「オズの魔法使い」(1939年)でスターになる。

ガーランドをスカウトしたアーサー・フリードはMGMで自分の専権チームを任されるほどの腕利きプロデユーサーで、「MGMミュージカル」として映画史に残る名作ミュージカルを数々手掛けた人物だが、一方の素顔はセクハラとロリコンで有名だった。

MGMの子役は撮影所内の寄宿舎に入れられ、ガーランドたちは勉強もそこで習った。
子役とはいえスターの集まる寄宿舎で、子役たちは飲酒、麻薬、異性関係で乱れていたという。
ガーランドも、MGMからスリムでいることを強制され、アンフェタミン(覚せい剤)を13歳から常用していた。

少女時代のジュデイ・ガーランド

ガーランドは1969年、47歳で客演先のロンドンで睡眠薬の過剰摂取で死亡したが、それまで数度の結婚と離婚、飲酒と薬物の常用、自殺未遂、映画出演時のトラブルを繰り返した。

1950年には、それまでの度重なる遅刻、出勤拒否によりMGMを解雇された。

1954年にはワーナーブラザーズで「スタア誕生」に出演し、評価を得たが、撮影中に繰り返されたガーランドの遅刻、出勤拒否などに懲りたワーナーは「ガーランドとは二度と仕事をしない」と宣言した。

本作でアカデミー主演女優賞にノミネートされたが、ワーナーから一切の推薦を得られなかったこともあり、受賞を逃した後、ガーランドは何度目かの自殺未遂を起こした。

MGMのマネーメイキングスター、ジュデイ・ガーランド

子役でスタートしたガーランドは、歌って踊れるミュージカルスターとして一世を風靡した。
ダンス向きの小柄な体で切れ切れのダンスと、パンチの効いた歌声を数々の映画で披露。
演技面ではコメデイエンヌとしての才能も発揮した。

ガーランドの才能は1946年に生まれた実娘ライザ・ミネリにも受け継がれた。

ライザ・ミネリはのちに「母はハリウッドが嫌いだった」、「母はハリウッドに殺された」と述べたという。

1999年全米映画協会が発表した映画俳優ベスト50の女優部門で、ジュデイ・ガーランドは8位に評価された。

「オズの魔法使い」 1939年 ヴィクター・フレミング監督 MGM

ガーランド17歳の時の出世作。
映画史に残る永遠のアイコンのひとつに数えられる作品であり、その後の数々の映画、テレビに影響を与えた。

「オズの魔法使い」のジュデイ・ガーランド

映画のオープニング!
ガーランドが農場で「虹の彼方に」を歌う場面!
オズの国について画面がカラーに転換する場面!

・・・ドキドキし、ハッとして思わず引き込まれる。
DVDを見ていてもそうなのだから、映画館の大画面で見た当時の観客の陶酔感はいかほどだったろう。

ドロシーと案山子とブリキ男

ファンタジーの世界をドラマ化に際し、セットや背景やキャラクターを形作る苦労は想像するに余りあるが、当時のMGM撮影所は最大限の想像力と財力をもってこれに対処している。
現在では多分に定型的な印象をもたらす、それらセットや背景やキャラクターではあるが、例えば現代の子供向けのテレビドラマの悪役キャラの原点がそこにあったりする。

ガーランドが歌う「虹の彼方に」は永遠のポピュラーナンバーだし、オズの国でガーランドがたどってゆくイエローブリックロードは、のちにエルトン・ジョンが自身の曲のモチーフとした。

オズの国のイエローブリックロードを行くドロシーと案山子

17歳のガーランドは、主人公ドロシーを演じるには育ちすぎで、大人が少女を演じているように見える場面もあったが、体格がよく堂々とした大物の雰囲気と、足さばきの見事さに垣間見えるダンスの才能は隠しようがなく、彼女のキャリアのスタートにふさわしい作品となった。

「イースター・パレード」 1948年 チャールズ・ウオルター監督 MGM

アーサー・フリード製作による、いわゆるMGMミュージカルの名作。
一時映画を引退していたフレッド・アステアを、怪我をしたジーン・ケリーの代役とはいえ、スクリーンにカムバックさせ大ヒットとなった1作。

アステアとガーランドの舞台シーン

場末の踊子のガーランドが、パートナーに去られた売れっ子ダンサーのアステアに拾われ、努力の末に新しいパートナーとして売れっ子となる。
ガーランドはアステアに恋をし公私ともにパートナーとなる、というストーリー。

まずは巻頭、アステアの達者なソロダンスで幕を開け、途中にアステアの元パートナー役のアン・ミラーの達者なタップダンスの一幕があるこの作品も、終わってみれば、すべてをかっさらうガーランドのダンスと歌声が圧倒的。

動きはキレキレだし、愛嬌というか親しみやすさがある。
歌声のパンチが効いているのも成長。
特にアステアと組んで踊る、ルンペンに扮した舞台の場面がいい。
ボーイッシュな服装で、コメデイエンヌ的に踊るのが似合っている。
根っからの芸人であり、エンターテイナーなのだろう彼女は。

アステアと歌い踊る

ドラマ的には、ピーター・ローフォード相手に、アステアへの恋心を語るワンカットの長回しのシーン。
長いセリフをシリアスな雰囲気で語るガーランドを見てその演技力にも感心した。

映画的には、アステアがスローモーションで踊り、背景のダンサーたちがノーマルスピードで踊っているという意欲的な画面作りも見られた。

豪華なセットで踊るスター。
バックダンサー役の女優達も一人一人が大変な美人。
これがMGMミュージカルというものか!

ガーランド映画のパターンとして、貧しい生まれの娘が苦労して場末で踊ったり歌ったりしているのを、売れっ子のスターが拾い上げ、娘は頑張って売れっ子になり、拾ってくれたスターへの愛も貫く・・・というパターンがあるようだ。

「スタア誕生」 1954年 ジョージ・キューカー監督 ワーナーブラザーズ

ガーランドの映画生活の総決算のような作品。

30代にはなったが、キレキレの動きは滑らかさを増し、歌声のパンチはますます効き、演技は情感を増し、持ち前の愛嬌と庶民的な親しみは維持されている。

歌と踊りは絶品

約3時間の長尺のうち、1時間が歌と踊り、2時間がドラマ部分の印象。
ストーリーの基本は「イースター・パレード」と同様。
ガーランドが弾き語りで、自分の生い立ちからをモチーフにして歌うなど、彼女の自伝的色彩を濃くしている。

業界の内幕もの的な要素もある作品で、舞台のそで、楽屋、撮影所のスタジオ、広報部などが多く出てくる。
ガーランド扮する主人公は架空の人物ではなく、多分に彼女自身である。

彼女を拾い上げる、売れっ子スターにイギリス人俳優のジェームス・メイスン。
根っからのハリウッド俳優のギラギラがなく、また演技がうまいのでジャストな配役。
ガーランドとの共演も、これが絶妙な塩梅。

メースンとガーランドは絶妙のコンビだった

ガーランドは自らをさらけ出すような役に挑み、アカデミー賞受賞の場面まで演技して臨んだ作品だったが、受賞は逃した。
ゴールデングローブ主演女優賞の受賞があったが。

アカデミー主演女優賞受賞のシーン

キューカーの演出は、ドラマ部分は押さえたトーンで、主人公二人の細やかな心情の描写に注力。
ダンスと歌のシーンではシチュエーションを、舞台、スタジオ、バー、二人の新居、などなど多彩に工夫して演出し、ガーランドの映画カムバックを強力に支援していた。

(余談)

ガーランドの実娘ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」(1972年 ボブ・フォッシー監督)はリアルタイムで見ていて忘れられない映画の一つである。
映画のほとんどを占めるかのような、ライザの歌が圧倒的だった。

戦前のベルリンのキャバレーを舞台にした作品で、ライザの舞台衣装といい、多分に「嘆きの天使」をモチーフにしていた。

ライザは目の大きさなどは母のジュデイに似ているが、大柄でダンサーというよりは歌手の印象が強く、パンチの効いた歌声は何度も言うが圧倒的だった。
母ジュデイの思い出を歌うシーンがある?のが印象的だった。

ジュデイの作品でその歌声を聞いて、娘ライザの歌声を思い出した。

DVD名画劇場 アメリカ時代のジャン・ルノワール

「大いなる幻影」で一般的な、「ゲームの規則」で映画史的な名声を博したジャン・ルノワールは、画家オーギュストの次男として生まれ、フランスで映画監督となった。

第二次大戦前夜、ヨーロッパを脱出し渡米。
ハリウッドに招かれ、二十世紀フォックスと年2本の契約をした。

ここに、みすず書房刊の「ジャン・ルノワール自伝」と、青土社刊の「ジャン・ルノワール越境する映画」という書籍がある。
前者は自伝。
後者はルノワールの残した書簡をもとに、渡米以降の足跡をたどった内容の、日本人仏文学者による書籍である。

「自伝」目次
「越境する映画」目次

この度見ることができた、ルノワール渡米後のDVD3作品を、2つの書籍に基づいて追ってみた。

渡米第一作とハリウッドでの最初の挫折

その当時の二十世紀フォックスは撮影所長ダリル・F・ザナックが現場の全部をコントロールしていた。
ザナックはいかにもフランス風の素材をルノワールに映画化してもらうつもりで招いたが、ルノワールにはその気がなく、アメリカそのものを描きたかった。

「私個人としては、監督が作家であらねばならぬと思っている。監督だけが(中略)作品のあらゆる要素を組み合わせて、映画に形を与えることができる人物である」(「自伝」 P102)、というのがルノワールの姿勢だった。

また、「『女優ナナ』(1926年)全編を通じて、私が問題とし、最終的には自分の責任においてこれを決めなかったような、いかなる仕事、いかなる表現、いかなる小道具も存在しないのである」(豊かな才能を持つ技術人や俳優たちの助けを借りることを前提としつつも)(「自伝」 P102)、という経験もしていた。

ルノワールのこの二つの言葉は、ハリウッドで行われている映画作りとは対照的だった。

フォックスとの契約後、「100%アメリカ的な題材の映画の監督を私に任せるようザナックを説き伏せるのは大変な苦労だった」(「自伝」 P244)との過程を経て、第一作「沼地」(1941年)の撮影に入る。
題材はルノワールの希望通り、アメリカ南部地方を舞台にしたものだった。

「沼地」。アン・バクスターとルノワール

スタジオで撮影のほぼすべてを行うハリウッド方式に反してジョージア州にロケを敢行した「沼地」の撮影中、ルノワールは、ラッシュを見たザナックから、8項目からなる指導の書簡を受け取る。

曰く、背景の細かなディテイルにこだわり時間を浪費している、ドリーやレールを使ってカメラを動かしすぎている、等々。
挙句にザナックは時間と予算の超過により撮影途中でルノワールの解任を決めかける。

結局解任は撤回となったものの、ハリウッド第一作におけるこの騒動はルノワールに遺恨を残す。

「ザナックは(中略)論理性に富み、ドラマの感覚も備えています。ただ彼には感受性がないだけです。」(「越境する映画」P67)とは、ルノワールのザナックに対する、またハリウッドのメジャースタジオに対する思い。

一方でザナックは、
「ルノワールは才能は十分あるんだが、ただ我々の仲間じゃなかったのさ」(「越境する映画」P315)とのちに述べたという。

ルノワールは「沼地」完成後二十世紀フォックスから契約解除される。

「自由への闘い」 1943年 ジャン・ルノワール監督  RKO

ルノワールの渡米第二作。
全編スタジオ撮影で、ハリウッド方式に迎合しつつ、最大限にドラマの主題を追求しながら自分らしさにもこだわったルノワールの仕事ぶりがうかがえる作品。

「自由への闘い」。左からルノワール、モーリン・オハラ、ジョージ・サンダース

フランスをモデルに、ドイツに占領された町の住民を描いている。
戦中に作成され、ドイツが進撃を続けていた時代の作品ながら、恐怖心やサスペンスをそれほど強調しないのはルノワールの作風。

主人公は臆病な独身教師でマザコンのチャールズ・ロートン。
隣に住む教師仲間のモーリン・オハラに内心惚れているが告白などとんでもない。
占領軍への抵抗を呼びかけるビラが配られると見つかりはしないかとびくびくする。

オハラの兄の鉄道員が抵抗者で、オハラの婚約者の鉄道キャリア(ジョージ・サンダース)が占領軍の協力者。

ロートンの母親は息子可愛やで、隣の娘オハラに対抗心を燃やすは、息子が抵抗者の容疑で引っ張られたら、占領軍から市長と陳情に駆け回るは、で関係者をひっかきまわす。
この母親のキャラがルノワール調でいい。

ロートンが勤める小学校の男子児童の教室での暴れっぷりも、子供らしさを強調するルノワール調。

抵抗者であるオハラの兄も、屈託なく下っ端のドイツ兵と仲良くして占領軍の目をごまかす。
ここら辺も、教条的でサスペンス一辺倒のレジスタンス映画に比べ映画の厚みを感じる。

この作品はしかし、戦後直後にフランスで上映された際に不評を受け、さらに米国に脱出したルノワールが逃亡者としてのそしりを受けるに及んで、彼の帰国とフランス映画界への復帰を遠ざけたきっかけとなったという。

「南部の人」 1945年  ジャン・ルノワール監督  ユナイト

ルノワールが興味を持ったアメリカ南部地方を舞台に、綿花畑を開拓する若い農民一家を描いた作品。

ハリウッドの、メジャースタジオでスター俳優を使って大作を撮ることは非現実的となっていたルノワールが、フランス人製作者ロバート・アキムの提案を基にして実現した企画。

主演予定のジョエル・マクリーが下りて、出資者のユナイト映画も下りそうになったものの、ルノワールは低予算を逆手に取り、無名俳優を使って、ロケ隊を結成して撮影した。

手前の二人は偏屈な隣人とその甥っ子役の俳優

白人の小作農民が、メキシコ人に交じって綿花プランテーションで綿花を摘むシーンに始まる。
やがて、独立を決心した主人公一家がおんぼろトラックに家財一式を積んでボロ屋に引っ越し、雨漏りに鍋釜を当てての生活を始める。

農民の生活をリアリズムで描く日本映画が一瞬思い出される。
アメリカ共産党員で赤狩りのハリウッドテンの一人として投獄されたハーバード・ビーバーマンの「地の塩」(1954年)にムードが似ているなと思ったり、不況時代の農民を描く「怒りの葡萄」(1940年 ジョン・フォード監督)を思い出したりするシーンが続く。

若き夫である主人公は妻と協力し、春までの間、川で魚を釣り、野生動物を狩り、春になってラバを使って畑をおこし、種を借りて蒔く。
一緒に来たばあさんは常に文句を言い、幼子は壊血病にかかる。
頼みの隣人は全く非協力で妨害さえする。

ルノワールはしかし若夫婦の逆境を誰のせいにもしない。
社会情勢だの主義主張は関係ない。

どうしょうもなくなって地面に伏せ、神に祈る夫婦に神の答えはない。
偏屈な隣人にダメもとで交渉に行ってみる。
もうだめか、と思うと友人が子供に飲ませる乳牛を持ってきてくれたりもする。

自力と人間関係で問題に対処する、ルノワール流人生哲学が貫かれている。

突然始まる町の飲み屋での、主人公と友人が絡む乱闘シーンと、主人公の母親と町のドラックストアの主人の老人同士の再婚披露宴の大騒ぎ、の二つの場面はルノワール式のお祭り場面か。

結婚式の大騒ぎの夜、一帯を襲った大嵐。
ルノワールが映画でこだわる「水」がおもうさま畑や一帯を覆い流れ、主人公らが流された牛を救いに水の中でもがくシーンが描写される。

収穫寸前で全滅した綿花を前に、畑からの撤退を決心した夫の前に、あきらめずに前向きな気持ちの妻が現れる。
改めて前途に希望を持つ二人を映して映画は終わる。

撮影はテント村をカリフォルニアの綿花地帯にある村に設営して行われた。
ロシア正教会を信じる移民が開拓したその村では、村民も撮影に協力。
ラッシュ上映には村民も詰め掛け、そのあとは撮影隊も含めロシア民謡で盛り上がったという。

「映画とは、際限のない新規巻き直しのことだ。この地で私はまさにすべてをゼロからやり直し、そう悟ったのである。」(「越境する映画」 P87)

「河」 1951年 ジャン・ルノワール監督 ユナイト

英国人女流作家の自伝小説を読んだルノワールが映画化権を獲得したが、スポンサーが見つからない。
現地で育った英国人少女の自伝。
像も虎狩りもないインド(映画)はインドではない、がハリウッドでの常識だった。

一方で、ビバリーヒルズの花屋チェーンの大将がこの小説に興味を示しルノワールに合流した。
インド好きの大将は像も虎狩りも好きだったが、ルノワール作品の制作者兼スポンサーとして名乗りを上げるに際し、像や虎狩りが出てくる映画はあきらめた。

ベンガル地方に住む英国人一家の物語。
娘たちに起こる愛の目覚め、インドの異国情緒に満ちた踊りや衣装。
これらすべてが.安らかな中立性のうちに憩っているように私には思えた。(「自伝」P316要旨)
とはインドにロケハンした際のルノワールの言葉。

主な登城人物は、主人公の少女、その姉、隣家の英印混血の娘、父、母、旅行で立寄る英軍大尉の青年。
青年は二次大戦で片足を失っている。

現地人乳母や門番と仲良く暮らし、塀を乗り越えて隣家と行き来する子供たち。
年上の娘二人は白人青年の来訪に心浮き立つ。

義足となり心閉ざす青年との交流。
隣家の混血娘は学校の寄宿舎から戻り民族意識に目覚める。
それらの出来事を通して描く主人公(のちの自伝作家)の成長。

ルノワールは主人公、姉、混血少女、義足の青年などメインキャストを素人のオーデイションにより配役。
土候の別荘を英国人一家の家に見立ててロケを敢行した。

ルノワールと主要キャスト。左から主人公、その姉、隣家の混血娘

「『河』の撮影期間中、われわれは徹底的に中間色を追放した。(中略)家屋からカーテンから、家具、衣装に至るまで、われわれの点検を受けなかったものは何一つとしてない。」(「自伝」P320、321)

「『河』は私の作品の中で最も手の込んだ準備をした映画のように見えながら、その実、一番自然に近い映画なのだ。」(「自伝」P326)

ルノワールの言葉がすべてを語っている。

作家としての創造性を最大限に追求しつつ、矛盾するようだが、俳優の自然な演技を生かし、安直なドラマよりは状況の流れを尊重し、素材や背景を愛する。

映画に対するルノワールの姿勢が背景に流れている作品だった。