階段作りで DIY!

ゴールデンウイークに来小舎した娘一家。
4泊の間、山小舎のベランダにいた娘のムコさんが、腐り落ちそうな階段を見て「これを直したい」といいました。

雨ざらしで経年した現状の階段

その階段は前オーナー時代からのもので、現在は雨ざらしの場所に置かれているもの。
3センチの厚さの重い木材で作られており、注文したらそれなりの値段がかかりそうなものではありますが、いかんせん屋外で使う木材製品としての耐用年数はとっくに経過しています。
この間の、防腐塗装などの手入れも、少なくとも山小舎おじさんの時代になってからはありません。

理系で、DIYにも関心のありそうなムコさんからすると看過できない事態でしょう。
山小舎おじさんとしても緊急の作業として認識はしており、木材の寸法を計って、ホームセンターで材料の見当はつけてありました。
が、いかんせんDIYに心得のない山小舎おじさんにとって、作業をスタートするまでの心理的な壁が高く、手つかずになっているのでした。

ムコさんの言葉は渡りに船です。
「よし、それじゃ今日、材料を買いに行こう」と即日の作業開始を提案。
外出のついでにホームセンターで、材木と電動ドリル、ねじくぎを購入したのでした。

山小舎に戻って作業開始。
小学校2年の孫娘も父親を手伝うと宣言、防腐塗装などを手伝いました。

大体のサイズはホームセンターでカットしたので、踏み板をはめ込む凹みの寸法を横板に「墨だし」する作業から始めます。

やる気満々のムコさんに、電動丸鋸、電気を引くドラム、定規などの道具を出してやってから、山小舎おじさんは別の用事で外出しました。
ここは父と娘でじっくりと共同作業を楽しんでもらおうと思ったからです。

隅だしから作業をスタートする親子
踏み板の防腐塗装は孫娘やりました

帰ってくると、ムコさんが一生懸命、横板に深さ10ミリの凹みを刻もうと苦戦していました。
のこぎりを使って刻もうとしていますが思うようにいってないようです。

山小舎おじさんは丸鋸を使って刻もうとしましたが、刃が深く入ってしまいます。
時間が来て今回の作業はここで終了となりました。
「自分で全部やるから残しておいてください」とムコさんのやる気は止まりません。

娘一家が帰った後、別荘住民仲間に聞いてみました。
別荘地にはDIYで、孫の勉強机を作るような人もいたりします。
その人に凹みの刻み方や、階段作り全般のことを聞いてみました。

その人から、丸鋸で刃の深さを10ミリに調節して切れ目を入れノミで掻き出すこと。
丸鋸は垂木などを置きそれに沿って進めるようにするとまっすぐ切れる。
防腐塗料を重ね塗りすること。
階段の端を地面に直接つけないでブロックなどをかませること。
などを教わりました。

丸鋸の刃の深さを調整
深さ10ミリで墨に沿って刻みを入れる
くりぬく場所に刻みを何本か入れる
ノミで刻んだ部分を掻き出す
凹みができた。ノミできれいに削る..
踏み板をはめ込んでみる

丸鋸の刃の深さが調節できることすら知らなかった山小舎おじさんたちでした。

帰ってきてその通りにやってみるとまあまあの凹みができました。
片方の横板に4つの凹みをたちまち作ることができ、娘のもとにLINEで送りました。
残りはよろしく、と娘経由ムコさんに頼みました。

完成は6月以降になりそうです。

夏野菜定植前の畑

5月初旬の畑の様子です。

夏野菜(トマト、キューリ、ナスなど)は早くて連休後に苗を買って定植します。
それまで畑では、夏野菜用の畝の準備のほか、豆類、トウモロコシ、かぼちゃなどの芽出しと定植などの作業をします。

夏野菜用の畝にマルチをかけます

インゲン、枝豆、かぼちゃ、トウモロコシの芽出しをしました。
ポットに種をまき、発芽させます。

晴れた日にはポットを日光に当て、夜間は室内に置いて保温します。

今年は全体的に発芽率がいいような気がします。
温度管理と育苗土に発酵腐葉土を使ったためと思われます。

ポット蒔きしたインゲンが発芽
かぼちゃの芽です

畑では4月に植えた種芋が発芽し始めました。
ジャガイモや菊芋たちです。

特に菊芋は、今年植えたもののほかに、去年掘り残した芋が、里芋の畝や畝間から盛んに芽を出しています。
旺盛な生命力です。

ジャガイモの発芽
kききkきくきくいきくいmきくいも菊芋菊芋

苗で冬を越した玉ねぎも、6月の収穫に向けて元気で成長中です。

玉ねぎが元気です
珍しくアスパラが出ていました
キジのつがいが歩いていました

孫一家と松本城へ

令和4年の大型連休は10連休とのこと。
家族と孫一家が山小舎にやってきた。

共稼ぎの娘が日頃の疲れを癒すためか「温泉かパワースポットに行きたい」というので、到着翌日の行程として、松本城を見てハルピンラーメンでも食べ、鹿教湯温泉に入るコースを提案しました。

山小舎から一度丸子に下って、三才山トンネルをくぐると松本市。
そこからお城まで15分ほどの行程です。
市街地に入るとお城までの道が若干混んでいたが、駐車場には何とか入れました。
そこには全国各地のナンバーの車両が集結していました。

連日の長時間ドライブで車にはすっかり飽きていた孫たちも、雪を頂く北アルプスをバックにした松本城を見てリフレッシュ・・・するわけもなく、仕方なくついてきた風でしたが、お濠の鯉たちにまず興味を持ち、程よい人出の中を歩くうちに気分転換できた様子。

大人たちは東京とは全く違うすがすがしい空気と、堂々としたお城の景観に一瞬でリフレッシュ。
「いいね、いいね」を連発しながらお濠に沿って正門まで歩き、城内見学120分待ちの標識を眺めつつUターンして戻りました。

お濠越しに天守閣を見る
遠くに雪を頂いた北アルプスを望む

ハルピンラーメン松本店では孫の食欲も爆発。
すっかりご機嫌となりました。

帰りの鹿教湯温泉文殊の湯は、お湯の温度も低めでちょうど良く、大風呂にも慣れた孫たちに好評だった模様。
大人たちは源泉の癒し効果を我が身で実感して感激。
身が軽くなったような温泉の効果で夕食のビールも進んだことでした。

孫一家は山小舎に4連泊。
長門牧場で羊のエサやり。
ジィジの畑へお弁当を持って行って大豆の種まき体験。
山小舎周辺でのお絵かきなどで遊びました。

大人たちは夜の恒例の炭火焼きのほか、ジィジがストーブで煮込んで用意した、煮込みやスペアリブ、息子(孫にとっての叔父さん)が炭で焼いて作ったローストビーフなどを肴に連日、ビール、ワイン、地酒をグイグイ。
折から山小舎おじさん・おばさん夫婦の誕生会も兼ねて、連日の大宴会と相成りました。

山小舎の前で遊具で遊ぶ
傷んだバルコニーの階段を見て修理を始める父と娘

大変充実した山小舎の大型連休でした。

令和4年・寅年 諏訪大社上社御柱祭 茅野三友会練習

諏訪大社上社御柱祭の里曳きが行われる4日前の休日。
茅野市のたてしな自由農園という大きな直売所の横の空き地で、地元自治会による御柱祭の練習が行われていました。

たまたま買い出しに自由農園を訪れていた山小舎おじさんの耳に、塩田平の生島足島神社の御柱祭里曳きで聞いたことのある進軍ラッパが聞こえてきました。
さては?と駐車場を横断してラッパが聞こえる方に歩いてゆくとやっていました、御柱祭。

上社の里曳きは5月3日と聞いていたので、別の諏訪神社のお祭りかな、と思いました。
見ると、三友会と書かれたそろいの法被を着た数十人が、片や御柱に乗り、片や木遣りを詠い、片や進軍ラッパを吹いています。

さあラッパ隊のトランペットが炸裂する

後で調べると、三友会とは茅野市の湖東地区、米沢地区等の住民による団体で、諏訪大社上社の御柱祭にも参加しているとのこと。

法被の色は黄色、青、ピンクとなっており、黄色が木遣り衆、青が御柱を曳いたり乗ったりする衆、ピンクがラッパ隊に分かれていました。

見ていると、黄色い法被を着た木遣り衆が詠い、それにこたえて御柱に乗った衆がバトンのようなものを上げ下げする、頃合いを見てラッパ隊が突撃ラッパで景気を挙げる。
これを繰り返して練習していました。

木遣りに呼応する団員

ラッパ隊が消防団の応援だった、塩田平と違って、色違いながら三友会のロゴ入り法被を着ていることから、仲間うちで組織されたものであることがわかります。
ラッパだけではなくドラムと大太鼓にシンバルまで合奏しています。
吹いているのが進軍ラッパ、突撃ラッパというのは塩田平と同じです。
なおラッパ隊には女性もいました。
女性は木遣り衆にも一人いました。

木遣り衆。手前が女性

いつもならそれとなく参加している団員に聞き取りをかける山小舎おじさんですが、きっかけがつかめず断念しました。
まとまりがいいというのか、団員が集中しているというのか。
観衆がいようがいまいが、団員たちの熱量が変わらなとい地元衆の団結の強さに付け入るスキがない感じでした。
ラッパ隊は指揮者の号令一家、見事な演奏ぶりでした。

御柱祭にはラッパ隊が欠かせない?

法面のカラマツ割り

山小舎の敷地の法面に去年からのカラマツの丸太が転がっています。
正確には丸太を玉切りした「玉」がたくさんあります。

年を越えて残った「玉」たち

本来なら昨年中に薪に割って積んでおきたかった「玉」です。

時間を見つけて割ってゆきます。

法面での薪割りは大変です。
ただでさえ力を集中してやっと割ることができるものを、斜面で行うのです。
人間が普段行う作業は、水平の場所で行いますが、その有難さ、効率の良さがよく理解できます。

特に大口径のカラマツにおいては大変さを痛感します。

斧だけではとても無理なので、くさびを使います。
特に大口径で丈が長いものには、チェーンソーで縦に切れ目を入れてから、くさびを二つ使って割ります。

チャーンソーで入れた切れ目にくさびを立てます
ハンマーでくさびを打ち込みます

カラマツは繊維が絡まっているので、くさびを使ってもパカンとは割れません。
くさびを打ち込んだ後、斧を使って繊維を断ち切ります。

くさびだけでは割り切れませんので斧を使って両断します
「玉」が二つに割れました

四つ割りにした所で積み込みます。

カラマツはしばらくは野ざらしにして油分を雨で洗い流すとよいということを聞いたので、露天で積み込みます。

さらにくさびで両断します
4分割出来ました
野積みします。翌年大きなものはさらに割って使います

一回に4~5玉を割ればヘトヘトです。
全部終わるまで何日かかることでしょう。

ヒモトレ実践

「現代農業」という雑誌を畑づくりの参考に時々購入していますが、その連載に「ヒモトレ」がありました。

日本には古来からたすき掛けやハチマキなどの風習がある

ヒモトレとは農作業などを行う際に、体に紐を巻くことで作業負荷を軽減させようという方法です。
いや正確にいうと、体の使い方を正しく、偏りなく行うことで作業効率を上げようというもののようです。
体全体を使うことで、特定の部位に負担がかかることがなく、また腰が入った姿勢となったりして、結果として作業がはかどるようなのです。

山小舎おじさんは100円ショップの6ミリのひもを使用

山小舎おじさんも畑で年々寄る年波に我が身を嘆きつつありますし、別荘地管理会社でのバイトが体に負担となってきました。
体力というか、心肺能力というか、筋力が落ちているのはもちろんですが、疲れてくると右ひざや腰などにダルさや痛みが集中してきます。
1日おきとはいえ、実働7時間、つなぎの作業服を着て、側溝の落ち葉集めや草刈りなどの作業は心の準備と休養がないと行えません。

膝やモモのひもは作業中に下がってくるのが難点

今年から見様見真似でヒモトレを試してみました。
腰をリカバリーしようと腰に巻き、右ひざの負担を軽減しようと左右の膝に、足首もつかれるので左右の足首、上体を正しく保持しようとたすき掛けもしてみました。

キモチは体全体を正しく使って特定の部位への負担を軽減させよう!です。

姉さん被り。ヒモトレが日本の文化から学んでいるのがわかる

やってみたところ、体がスムーズに動くような気がしました。
通常なら腰の負担を気にしながら行うような作業にも自然と入ってゆけるような気がしました。
動いている間は古傷の右膝以外は気にしないでいられました。
たすき掛けすると上体がシャンとするような気も。

だからといって疲れないかというとそんなことはありませんでした。
体はいつも通りくたびれます。
良く動いたせいかむしろ例年よりグッタリかもしれません。

が右ひざや、腰、右足首に疲れが集中しませんでした。
両膝、足首を共に使えたことで負担が公平になったためのような気がします。

「現代農業」より

今後はバイト、畑作業、薪割りなどの時に引き続きヒモトレを行うつもりです。

キヌサヤ芽出しと定植

キヌサヤをポット蒔きしました。
2週間ほどで芽を出しました。

芽出しはガッテン農法の教科書通りに行いました。
仕込んでおいた発酵腐葉土に畑の土を混ぜて育苗土にするやり方です。

今回は市販の育苗土が余っていたので、畑の土の代わりに市販の育苗土を混ぜて使いました。

手順に従って、種をシッカリ鎮圧し、水をタップり与えます。

発芽までの水やりはこの一回だけです。
水を与えたら新聞紙とビニールでくるみ、晴れた日は陽に当て、夜は室内に持ち込んで発芽を待ちます。

ガッテン農法教科書のポット蒔き育苗の解説

去年はこの芽出しがあまりうまくゆかず、甲州トウモロコシとインゲンはよかったのですが、枝豆などは発芽率が低かったのです。
手順はガッテン農法通りに行ったものの、発酵腐葉土の仕込みが間に合わず、全量市販の育苗土を使ったためでしょうか?

この度のキヌサヤは芽出しまではうまくゆきました。

発芽後は日光に当て、ポットを水に浸して給水します。

定植直前には酢を希釈したものに浸すのがガッテン流ですが、山小舎流ではえひめAIの希釈液に浸してから定植しています。

発芽した苗。発芽率はほぼ100%
ネットを組んで定植

令和4年・寅年 生島足島神社御柱祭里曳き

生島足島神社で7年に一度の御柱祭が行われました。

大鳥居をくぐらんとする御柱

山小舎おじさんも信州に来て初めて知ったのですが、諏訪大社以外でも、諏訪神社と呼ばれるお宮では御柱が山から切り出され、里を曳かれて、お宮の境内に立てられていたのです。

上田盆地の西側に広がる塩田平の守り神である、生島足島神社境内にも諏訪神社があり、御柱祭が行われています。

この諏訪神社で、4月中旬のある日、御柱祭の里曳きがありました。

塩田平を見渡す大鳥居の先を出発して神社まで、わずかな区間ながら参道を4本の御柱を曳いてゆくのです。

当日の朝、山小舎おじさんが少し離れた長野大学の駐車場に軽トラを止め、大鳥居を目標に歩いてゆくと、3本目の御柱が出発しているところでした。

トラクターに曳かれて里曳きに出発する御柱

御柱ごとに担当の集落が決まっているようで、3本目と4本目には神畑(かばたけ)の幟を立てた男衆がついています。
今年は牽引するのがトラクターです。

人が引っ張るとどうしても酒が入り、三密となるのでそれを避けたようです。
また、人が引っ張ると御柱に微妙なコントロールが効くので本来の入り口から神社に入場出来るのですが、それだと幹線道路を長時間通行止めすることになるので、それを避けるため、もあるようです。

御柱は要所で止まり、木遣衆というのでしょうか、男衆が3,4人御柱にのって口上を述べます。
諏訪の神様に御柱の奉納を乞うための口上のようです。
山小舎おじさんの耳には、2人目の木遣り衆が詠う「リキ入れて~」という言葉しかわかりませんでしたが。

「リキ入れて」木遣りを詠う

それより驚いたのが、木遣りの後に突発する地元消防団の進軍ラッパと突撃ラッパでした。
時代錯誤というか消防団の周辺だけが戦前にでもタイムスリップしたかのような風景なのですが、かえって潔いというか、明治以降に国家神道として無理やり再編された神社の行事の色合いが残っているようで興味深かったです。
趣旨は甲子園のコンバットマーチと同じなのでしょうが、旧陸軍の突撃ラッパを公的な場所で思い切り吹いている場所は日本中探してもそんなにはないだろうなと思う瞬間でした。

地元消防団のラッパ隊

御柱には女性の一団もついて行ってました。
沿道警備のご老人に聞くと、「ここは諏訪と違って女人禁制の縛りはきつくなく、御柱に乗って記念撮影する女性もいる」とのことだが、それでも行列に参加する女性は珍しいとのこと。

木落しや川声越えはしないのですね?と聞くと「昔は男衆がわざと田んぼに落としたりしたが、今はガードレールがあるし・・・」とのこと。
昔日の里曳きの勇壮さが偲ばれました。

女衆も後から続く
御柱にぶつけられても大丈夫なように急ごしらえの木枠で守られたお地蔵様

御柱について行って神社に向かいます。
神社の周りには群衆が集まり、マイクによるアナウンスもされて祭りが盛り上がっています。
幹線道路を横断だけしてトラクターにひかれた御柱が入ってゆきました。

神社の鳥居前で最後の木遣り

恩地日出夫「砧撮影所とぼくの青春」

映画監督の恩地日出夫が2022年の1月に亡くなった。
山小舎おじさんは恩地監督の作品を追っかけるようにして観ていた。
監督の著作である「砧撮影所とぼくの青春」を引っ張り出して再読してみた。

著作表紙。「黒い画集・あるサラリマンの証言」現場にて。助監督時代

「砧撮影所とぼくの青春」

恩地監督は1955年に東宝に入社、砧にある撮影所に助監督として配属された。
助監督としての初仕事は「獣人雪男」(1955年 本多猪四郎監督 デビュー間もない根岸明美が脚線美を強調した衣装で登場する伝記ホラー)。
以降、主に堀川弘道監督の組に付き、先輩助監督の岡本喜八の指導を受ける。

本著は、東宝入社時から1984年までの30年間の、映像作家としての自身の変遷の記録であり、映画とは何か、映画会社東宝とは何か、の思索の書でもある。

戦争中に疎開を体験し、帰京してから東京大空襲を体験、終戦後になって世間の価値観の180度転換を体験した恩地は、「頼れるのは自分自身だけ」との原体験を持つ。

大学2年の時の「血のメーデー」で法政大学の学生が警官の水平射撃で殺されたのを見てデモに飛び込む。
学生時代は日本共産党の指導方針下で学生新聞の編集に没頭するが、共産党の方針転換に絶望する。
東宝入社後も助監督の協会活動を通して60年安保のデモに参加していた。

1959年、27歳の若さで監督昇進。
「若い狼」を撮る。以降、1964年の「女体」まで4本の作品がフィルモグラフィー前期。

「若い狼」は北関東の炭鉱の町からあてもなく都会に流れ着いた少年院上がりの若者とその幼馴染の少女の物語。
街頭ロケを多用し、若い主演(夏木陽介と星由里子)が都会の現実にぶつかる姿が初々しくも痛々しい佳作。

「女体」は「肉体の門」を原案に、戦後の混乱期にパンパンとして生き抜いた女が、戦後の平穏期の中で偶然にかつての仲間と再会し、命を燃焼させる物語。
団令子が、やけくそのように戦後混乱期を駆け抜けた若い日と、戦後の平穏な日々を抜け殻のような表情で演じるその対比に、恩地監督の狙いが反映されていた。

「若い狼」。左から夏木陽介、星由里子、恩地監督
「女体」。団令子(中央)

「女体」の撮影で牛を密殺するシーンを実際に演出したこともあって干された恩地が、「再起」したのは、アイドル候補内藤洋子を売り出すための企画「あこがれ」(1966年)から。

以降「伊豆の踊子」(1966年)、「めぐり逢い」(1967年)と東宝青春映画の旗手としてヒット作を連発するが、東宝の会社合理化により、「恋の夏」(1972年)を最後に東宝を離れる。

東京の山の手育ち、慶応ボーイでハンサムな恩地は、東宝入社の同期に石原慎太郎がいたことが象徴するように、新進の文化人の知り合いも多く、干された時期にテレビの司会者に抜擢されるなどした。
が、本人としてはテレビなどでの派手な活躍がその本意ではなかった。

70年代以降は「傷だらけの天使」など、テレビドラマを中心に活躍。
タイトルバック(ショーケンがアイマスクを取って目を覚まし、牛乳瓶のキャップを口で空け、トマトにかぶりつく)を演出したのも恩地である。

本著で恩地はそのアイデンティティーたる東宝という会社と、愛する砧撮影所について詳細に語っている。

戦前のPCLから戦後の東宝争議に至る会社の歴史の再検証から、恩地自身が撮影所で経験した細かなことまでの記述の中で、読み手に印象的なことは、著者が、森岩男という東宝役員の存在を東宝映画のキーマンとして挙げていること。
森は戦前から脚本家、批評家として活躍し、東宝役員に就任後は「プロデユーサーシステム」を東宝に導入した人物である。

プロデユーサーシステムは松竹のでデイレクターシステムと対比されるが、いずれにしても現場中心の発想という点では共通するシステムである。
映画の発想は現場が行う、ということである。
現場と対比する概念として本社があり、東宝にとっては親会社の阪急資本も本社の概念に含まれる。

恩地は、現場に育てられ、現場を愛する映画人として、森のアメリカ的なスマートな現場主義を評価するとともに、70年代以降の会社合理化により、映画企画などが現場から本社に吸い上げられたことを、映画産業そのものの衰退の一因とする。

活気のあった時代の撮影所育ちである恩地は、自身が独立後に組むことになったフリーのスタッフを「町場のもの」と呼ぶなど、撮影所育ちのプライドを持つ。
「町場」であっても熱意のあるスタッフと共同する柔軟性は持ちついつも、東宝撮影所という映画界のエリート育ちのプライドとともに歩んだ映画人生だった。

本書は、記憶の赴くままの随想ではなく、東宝の歴史を検証し、関係者の証言を取り入れつつ、自身の愛する撮影所システムの中の自分史であり、日本の映画史を紐解くうえで貴重な記録の一つとなっている。

「東宝青春映画のきらめき」

山小舎おじさんの手元にあるこの本。
2012年のキネマ旬報社刊。

1966年の「としごろ」から1973年の「20歳の原点」までの東宝青春映画をテーマにした編集で、数々の作品のスチル写真を中心に、内藤洋子、酒井和歌子のほか、恩地日出夫監督、出目昌伸監督へのインタビューで構成されている。
紹介される作品には恩地監督の「としごろ」「伊豆の踊子」「めぐり逢い」も含まれている。

「としごろ」(1966年 内藤洋子、田村亮主演)

干されていた恩地が木下恵介の脚本でカムバックのチャンスを得た。
恩地は松竹の重鎮・木下を訪ねた。

仰向けに寝ながら、傍らに正座で控える助監督に口述筆記させていた木下は、他社の新進監督が当該脚本に関して述べる意見を黙って聞いた。
やがて「その方向で直していいと思う。この子上手だから貸してあげる」といって木下組の助監督・山田太一を脚本改定に参加させた。

なるほど、東宝の、特にこれまでの恩地作品との共通性というより、「木下恵介アワー」的な色合いの濃い作品に仕上がっていた。
孤児院で育った者同士(内藤洋子、田村亮)の純愛と、彼らを取り巻くすべて善意の人々。

予定調和に満ち満ちたかのようなこの作品の中で、ヒロインだけが流れに逆らっていたのが印象的だった。
内藤洋子は、周りの善意の中で時に抗い、時に不器用に自己主張する不安定さを持つ少女を演じた。

内藤洋子の不安定さの中に、恩地監督の主張があったのか。
ひょっとしたらこの作品、かくれた東宝版「非行少女」(1963年 浦山桐郎監督 和泉雅子主演 日活)であって、内藤洋子躍進のきっかけになった存在なのかもしれない。

「伊豆の踊子」(1966年 内藤洋子、黒沢年男主演)

「としごろ」のヒットによって恩地にも会社企画のオファーがやってくるようになった。

主演は黒沢年男と内藤洋子。
旅芸人一座の座頭に「若大将シリーズ」の江口マネージャーこと江原達治、おかみに乙羽信子。

主人公の衣装を原作通り紺絣に袴姿にしたり、内藤洋子への演出にアイドルに対する忖度性が一切ないこと、などに恩地のこだわりが濃厚に映る作品。

劇中の踊り子(内藤洋子)に、すがすがしい笑顔などはなく、呼ばれた座敷で笑顔もなく黙々と踊るカットが続く。
一高生に「下田へ着いたら、活動(映画)に連れて行ってくださいましね」と繰り返し懇願する。

「物乞い、旅芸人村に入るべからず」の看板が村境に立てられていた時代の旅芸人の物語でもある「伊豆の踊子」。
恩地は原作にない、零落した売春婦のキャラクターを団令子に演じさせもする。

青春純愛物語を装った、ある意味、非常民階級(被差別階級)の内部のドラマでもある本作を、恩地は原作に忠実に再現したのかもしれない。

一高生と踊り子は当然ながら「下田で活動へ行く」という約束も果たせないまま永遠に分かれることになる。

「めぐりあい」(1967年 酒井和歌子、黒沢年男主演)

東宝青春映画の金字塔として今なおファンの多い作品。

川崎を舞台に、失業中の父親、受験の弟と団地に住み、自動車工場へ通う主人公(黒沢年男)と、母子家庭に育ち金物屋で働くヒロイン(酒井和歌子)の出会いとその後の話。

庶民的なヒロインと、一家の大黒柱ながら実は逆境に弱い主人公が出合い、親しくなり、励まされ、別れ、再会する。

勤めを休んで海へ行った時のヒロインの白い水着。
友達の修理工場からダンプカーを借りてのデートで、いさかいをおこし、荷台に座り込むヒロインにダンプをかけて脅かし、抱きついた時の雨の中のキスシーン。

バックもコネもなく、正真正銘自分だけの存在の若者が、健気に社会と格闘し、お互いにぶつかり合い、見つめ合う時のすがすがしさ。

金物屋を喧嘩してやめ、母親もなくしたヒロインが遊園地で働く場面がラストシーン。
一度は分かれた主人公が遊園地に向かい、黙ってヒロインの仕事を助ける。
微笑み合う二人。

ご都合主義のエンデイングとしてではなく、心から若い二人の前途にエールを送りたくなったのは私だけか。

酒井和歌子初期の代表作にして、恩地監督の代表作だと思う。

余談1

何年か前、ラピュタ阿佐ヶ谷で「若い狼」を見たとき、主演の星由里子さんがおつきの人と来ていた。
彼女らは最後列の端っこに座った。
私は偶然、そのひとつ前の列に座った。

と、前方から一人の女性が出てきて、星さんに礼をした。
「恩地の家内でございます」と挨拶したその女性は、暗がりでよくは見えなかったが、当時で40代ほどに見えた。
ジャンパーにジーパンのような服装の、落ち着いた声の女性だった。

星さんは自分の登場シーンに「ハアツ」と声を上げていた。
「若い狼」は当時16歳の星由里子が初めてのキスシーンに臨んだ作品だった。

余談2

「あこがれ」と「めぐりあい」は何年か前の渋谷シネマヴェーラでの特集で見た。
これらの作品のプリント状態が良くなかった。

「あこがれ」は全編、セピア調のモノクロ作品ではないかと思うくらいカラーが腿色していた。
「めぐりあい」は主人公とヒロインが海へいったときのカットがとびとびに切れており、酒井和歌子の水着のカットはほとんど残っていなかった。

フイルム作品のニュープリント代も1作で40万円ほどがかかる今節。
聞くところによると、東映は自社作品を割とニュープリントしてくれるらしい、映画館側で費用を出し配給会社にニュープリントしてもらうケースもある。

とはいえ、自社の代表作の貸し出しを、細切れ、腿色のプリントで行うとは、さすが東宝である。
のちにテレビで「めぐり逢い」を見たが、当然ながら完全なプリントを使っていた。
東宝が映画館よりテレビのほうを大事にしていることがわかって一層残念だった。

令和4年・寅年 諏訪大社上社御柱祭 山出し

令和4年は7年に一度の御柱祭の年です。
山小舎おじさんにとっては御柱祭初遭遇の年。
御柱の切り出しから、山出し、里曳きまで一連の流れを追ってみたいと思いました。
現在は山出しが終わった状態です。

実は御柱祭は、諏訪大社(上社、下社の計四宮)に特有のお祭りではなく、県内の諏訪神社で行われているのです。
諏訪地方以外の神社でも、7年前に運ばれたであろう御柱が立っていますし、今年になって新たな御柱が神社の境内などに横たえられているのを目にします。

諏訪大社上社の御柱は八ヶ岳山中で倒され、ふもとの八ヶ岳農業大学のはす向かいの地に並べられ、3月に少し下った場所で〈木造り〉されたのち目的地の下社(前宮、本宮)まで、茅野市内を曳かれてゆきます。

木造りとは上社の御柱に特有の細工で、御柱に孔をあけて引手の持ち手になる角材をはめ込めるようにすることです。

3月、八ヶ岳農業実践大学付近の山出し出発地点に運ばれた上社御柱
ここから山出しがスタートする。今年はトレーラーで移動

人出が沿道を里まで御柱を引っ張って歩くことを〈山出し〉といいます。
沿道の住民は曳き手を酒菓で接待します。

御柱は、川があれば人力で〈川越え〉し、坂があれば引手を乗せて〈木落し〉して下ります。

よくテレビニュースで急坂を丸太にまたがって落ちてゆくシーンが報道されて、あれが御柱祭だということになっています。
下社の御柱8本が木落しされるシーンです。

諏訪湖畔の急峻な山に作られた下社の木落坂は斜度も急で、距離もあります。
ただしあれが御柱祭のすべてではないようです。
茅野市内の中央本線にほど近い、上社の木落坂は25度ほどの斜度で、距離も短いものです。

茅野市内の上社木落坂
木落坂に立っていた看板
上社御柱の川越地点
川越地点の看板

いずれにせよ県民、特に諏訪地方の住民が御柱祭にかける熱気は、よそ者の想像を超えたものがあります。
それは地域に根付いた習慣、信仰であり、一方では地元資本のかき入れ時でもあります。

茅野市内のAコープ店内のデスプレイ
ドリンクも御柱モード全開だった

木落し、川越を終え、山出しを終えた御柱は、最終的に奉納される場所まで改めて曳かれてゆきます。このことを〈里曳き〉といいます。
里曳きは、氏子や地域の人々にとって、山出し同様に盛り上がる瞬間です。
かつては、女性が御柱に触れるのはもちろん、跨ぐなはもってのほかだったとのことです。

こうして最終的に上社にたどりついた御柱は、境内に立てられます。

また、諏訪大社に限らず、県内のあちこちの諏訪神社で御柱が立っているのを見ますが、各社でそれぞれが、切りだしたり、曳いたり、お祭りしたのちに建立したものなのでしょう。

令和4年の御柱祭は、残念ながら、木落、川越、など山出しに関するお祭りは行われませんでした。
上社の場合、トレーラーで川越の地点にまで、8本とも持ってこられました。
史上初めてのことと思います。
良い意味での史上初ではないことだけは確かなのが残念です。

氏子たちによる山出しが行われずに、丸太が8本横たわっている場所を確かめに行きました。

トレーラーでの山出しを終え、里曳きを待待つ御柱
木造りの跡も生々しい

地元の方々なのでしょう、見学者が後を絶ちません。
住民の関心の高さがうかがえます。

この場所から上社までの〈里曳き〉は氏子連により行われることが決定したようです。
どんな熱気が見られるのか楽しみです。

里曳き出発を待って準備万端