外壁塗装で DIY!

畑の繁忙期も過ぎ、別荘地管理事務所のバイトもしばらく休んで、ひたすら命の洗濯にいそしんでいる山小舎おじさん。
夏の疲れをいやしつつ、山小舎周りを散見すると、そこにはDIY関係の懸案事項が山積しています。

この日は外壁塗装に取り掛かることにしました。
山小舎の外壁は築後20年ほどは手入れされていません。
特に雨のかかる場所は防腐の意味からも塗装による手入れが急務でした。

ベランダの雨ざらしの個所は、コールタール系の塗料を重ね塗りしました。
その後、外壁に取り掛かろうと、まず台所側の外壁を塗ることにしました。

そこは秋になると薪を軒下に積む場所にもなるので、その前に塗ってしまおうと薪をどけておきました。
そしてたわしで壁をこすって汚れを落としました。
煤のような、泥のような汚れが取れ、木の肌が現れました。
良く乾燥させた後に塗装しようと思っているうちに夏が過ぎ、秋になっていました。

なお、壁の上部などたわしが届かない場所は、高圧洗浄しようと、自宅からケルヒャーを持ってこさせました。
しかしながらケルヒャー、水圧でホースが外れやすく、さらにジェット噴射のノズルが用意できていなかったため、山小舎の実用的には使用却下となりました。

洗浄した部分と残った部分がくっきりと対比をなす外壁。左にどけてあるのは薪積に使うラック。

夏が過ぎ、秋風が吹きわたっています。
天気の良い日を狙っていよいよ塗装です。
使用する塗料は、ケミソールというコールタール性の塗料。
ベランダと同様に、雨にさらされる場所の塗装にはこれを使おうと思います。

脚立を用意します。
脚立を使っての塗装も一苦労です。
上った先で、塗料缶と刷毛を使いながらの作業が思ったより大変なのです。
脚立の脚をしっかり安定させることも安全上重要です。

ケミソールはサラサラの塗料なので、乾いた壁板にどんどんしみてゆきます。
被膜を作って防水するタイプの塗料ではなく、材質にしみ込んで防水、防腐するというタイプの塗料です。
一度塗っただけで色がつくような塗料ではありません。

ケミソートを一斗缶から手持ちの缶へ移し入れ、刷毛を用意する

何とか洗浄した部分のほとんどを塗装できました。
まだまだ染み込み具合が足りないので、毎年、重ね塗りしていこうと思います。

次回は残った部分の洗浄と塗装です。

半分塗り終わった外壁。塗り残した部分を見ると当初明るい色で塗装されていたことがわかる
翌日重ね塗りしました。まだ乾いていないので色が濃く乗っていますが、この後しみ込みます。

山小舎に小さな秋

山小舎に秋到来です。

お盆を過ぎれば秋風が吹く標高1400メートル暮らし。
9月中旬ともなれば、吹く風の涼しさ(肌寒さ)はもちろん、木々の緑は勢いを失い、トンボが飛び、花々は種を結ぶ準備に入ります。

庭に蒔いたキセワタは成長の花が咲きました。鹿の食害除けのためネットをかけています
庭のルピナスは種をつけています

山小舎暮らしも、夏までの忙しさに一段落、時間に追われることもなくなります。
冬の準備に入りつつ、家の外や中の手入れを行う時期となります。

暑さはなくなり、しかし水が冷たくなる頃まではもうしばらく、のこの時期が家の外回りの作業には最適です。
外壁塗装や、土留め工事、護岸工事を再開しなければなりません。

台所側の外壁をたわしでこすって汚れを落とし、塗装の準備をします
丸太を薪割りして、去年の薪と積み替えます

また、秋の乾いた風は、家そのものや備品の保全に向いています。
窓を開けて室内に風を通すとともに、備品の乾燥、虫干しを行います。

今日は食事テーブルの椅子の乗っけているクッションのカバーを外して洗濯、中のクッションを干しました。

椅子のクッションカバーを洗濯しました
晴れた日は二階の窓を開け風を通します

青春18きっぷ 緊急事態下・飯田線の旅

世の中は緊急事態下です。
一方、わが青春18きっぷの有効期限は9月10日までです。
有効期限切れ当日、満を持して飯田線の旅を決行しました。

茅野から伊那新町まで 飯田線不通区間を突破

07:33茅野発の普通列車で岡谷まで行きます。
茅野にこんなに高校生がいたんだ!というほどの人がホームを埋め尽くします。

地元の高校生たちの距離感は微妙です。
混んだ車内とはいえ、リュックは背中にしょったままで、SUICAをカバンにぶら下げたままの姿の彼らは、だからこそ他人との距離感には敏感であるようです。
決して都会の満員電車のように互いに密着しません。
それがヒトとしての本来の感覚のなせるものか、混雑になれない地方人の臆病がなせる業なのかはわかりません。あっ、ソーシャルデイスタンスだったのか!?そうか。

朝7時半前の茅野駅ホーム。この後乗客が集まりだす

中央西線に乗り換えのために岡谷で下車。
岡谷は中央東線と西線の分岐点。
人の流れの主流は東線で、岡谷から塩尻へ最短距離で向かいます。
特急あずさもこちらを通ります。

一方、中央西線は辰野で飯田線と結んでから塩尻へ向かいます。
中央西線の辰野・塩尻間は峠越えの路線ですが、昨今の大雨で線路が土砂に覆われ、一時不通になっていました。
同時に辰野町内の飯田線が、天竜川にかかる鉄橋が雨で痛み、辰野駅と伊那新町駅の間が、現在も不通になっています。

岡谷駅ホーム。川岸駅は西線でみどり湖駅は東線方面。
朝の岡谷駅には高校生たちが大勢降り立つ

中央西線は初めて乗りましたが、天竜川沿いの絶景があったり、純農村風景が見られたり味のある路線でした。
本来のダイヤでは岡谷発がそのまま飯田線に乗り入れることが多いのですが、しばらくは飯田線方面は辰野で代行バスに乗り換えて伊那新町まで行かなければなりません。

18きっぷの遊興客が代行バスに乗り込んでいいものか?とも思いましたが、ラッシュ時間も過ぎたバスの乗客は少なく、JR職員の手慣れた誘導に身をゆだねてバスに乗車。
2駅間、約10分で代行バスは伊那新町駅近くの停留所に到着しました。

中央西線・辰野駅から代行バスに乗る

ここでもJR職員のきびきびとした仕切りで問題なく乗り換えができます。
伊那新町駅は田んぼとそば畑の風景の中にありました。
無人駅です。
残暑の日差しが照り付けています。

ホームで乗務する列車を待つ車掌さんに聞くと、不通箇所の鉄橋はくの字に曲がっており年単位の復旧時間が必要ではないか?とのこと。
伊那新町からの飯田線はダイヤ通りに運行している、とのことです。

毎年のように復旧まで年単位の時間がかかる災害に見舞われる国内の状況には不安を感じざるを得ませんでした。

飯田線・伊那新町駅ホームで飯田行列車を待つ

飯田線 中央アルプスに抱かれた風景を行く

初めて乗る飯田線は、辰野と愛知県豊橋の間を結ぶ単線です。
伊那谷を天竜川に沿って南下します。
長野県内でいうと伊那、駒ケ根、飯田、天竜峡などの主要駅を結んでいます。

今回乗車したのは伊那新町から飯田まで。
2時間15分ほどかかりました。

平地の直線路ではスピードを出すものの、天竜川の段丘上の地形を進むときには時速が40キロ出ていなのでは?と思うほどゆっくり進みます。
駅の数も多く、町や集落を拾いながら、蛇行して走ってゆきます。

飯田線というと、伊那市街地を通る線路を思い出します。
飲み屋などの建物のすぐ脇を通る線路を見て、街と線路の関係が路面電車のようだ、と思っていました。
飯田線の低速は、街との距離感の近さと関係があるのでしょうか?

飯田線・駒ケ根駅ホーム。彼方に中央アルプスが望める
飯田線社内のつり広告は、愛知県のレジャー施設のもの。沿線は名古屋の商圏。車内は天然のソーシャルデイスタンス。

駒ヶ根を過ぎたあたりから車窓の右手に中央アルプスが顔をのぞかせます。
里山、といってもそこそこの高峰ですが、の背後に見え隠れする中央アルプスの峰の姿は、人里の山とは一線を画す別世界の光景のようです。

車窓から中央アルプスの頂が見える(右端の雲の背後)
車窓左手には天竜川沿いに広がる田んぼと集落の風景

飯田の街を歩く

飯田駅に着きました。
飯田は人口数でいえば長野、松本、上田に次ぐ第四の都市です。
駅前から街を歩いて中心街の規模が上田より大きいと思いました。

飯田駅に着きました
飯田駅前の風景

着いたら、駅前の観光案内所へ行き、市内のマップをもらって、レンタサイクルを借りるつもりでした。
ところが観光案内所は閉鎖、レンタサイクルは貸出中止でした。
緊急事態下(長野県は宣言しておりません。人口比のコロナ感染率でも下から数えて数番目という低さです)での旅行がそもそも非常識だったのでしょうか。

観光案内所には臨時休業の張り紙が・・・

自転車がないので、隣村にある椋鳩十記念館へ行くのはあきらめました。
椋鳩十は飯田の隣の喬木村出身の作家で、サンカを題材にした小説を読んだことで興味があり、飯田に行ったときは寄ってみようと思っていたのです。

次に飯田城址に博物館と柳田国男記念館があるので歩いて行ってみましたが、臨時休館中でした。
非常事態だったのですね飯田。
というか県内が。

柳田国男と飯田(伊那・南信州地方)の関係は、柳田が民俗学のフィールドの一つとして紹介したことにあるようで、世田谷にあった柳田の書斎を飯田に移築したとのことでした。

博物館、記念館にも臨時休館の張り紙です
喫茶店の入り口にも・・・

緊急事態レベル5下でも人間、腹は減ります。
飯田は焼き肉の街として有名ですが、暑いので軽くラーメンでも、と地元の人気店へ行ってみました。

ネット情報通り昼時には人が並ぶ上海楼という店には実際に人が並んでいました。
並んで待って入り、中華そば並盛を注文。
どんぶりにナミナミ盛られたラーメンは、東京の今どきのこじゃれた風のラーメン屋の麺の3倍ほどの量があったでしょうか、満腹になりました。
地方の人気食堂の条件の一つが「量」であることを再認識しました。

昼食時人が並ぶ上海楼

飯田信用金庫の建物がそびえたつ中心街。
商店が多数入居する真新しい雑居ビルが並んだあたりは、最近の中心街の再開発の様子がうかがえます。
一方で古めのアーケード街も残っています。
映画館も2館残っていました。

銀座アーケード街
古くからあるといわれるトキワ劇場
映画館・千劇もあったが人気はない。
焼き肉の街・飯田を天下にアピールする堂々たる看板!
駅近くの焼き肉屋が並ぶ小路

飯田といえば人形劇フェスタという催しが毎年行われ、世界からパフォーマーが集まる場所としても有名です。

中心街にリンゴ並木といわれる並木通りがあり、リンゴの実が成っているのも素敵です。
自然環境のすばらしさを感じます。

お土産には地元の和菓子店でどら焼きときんつばを購入。
また、無人販売していたなしを2個買いました。

飯田人形フェスタの毎年のワッペンが並ぶ街角
中心街のリンゴ並木にはリンゴが実っていた

帰りの飯田線で大失態

3時間ほどの滞在で飯田を後にし、駒ケ根行きの飯田線に乗りました。

爆睡の後、乗っていた列車が駒ヶ根から引き続き伊那新町行き(本来は辰野行き)になるというので停車時間の間、改札口を出て駒ケ根駅前を歩きました。
中央アルプスの玄関口・駒ケ根の街の雰囲気を感じたかったのです。

戻ろうとすると列車が発車してゆきました。
私物のリュックを乗せたまま!

車内アナウンスで聞いたつもりの時間より早いのに!と思いましたが、確認すると時刻どおりでした。
思い込みによる失敗です。

自戒の念にさいなまれながらも、駅員に相談し、JRの遺失物センターへ電話で届け出。
次の列車で伊那新町に向かいました。

リュックには、時刻表、地図のほかお土産の和菓子やナシが入っています!
財布と携帯は身に着けていたのが幸いでしたが・・・。
軽トラや家の鍵もズボンのポケットに入っています。

約30分後の列車に乗り伊那新町に到着しました。
先行の列車がホームに停車し折り返しの出発を待っています。

その列車の車掌さんにリュックがなかったか聞こう、と最後列を歩いていると、わがリュックを持った車掌さんが降車客にそれを掲げながらホームの出口で待っているではありませんか。

リュックにお薬手帳が入っており、名前を確認したとのこと。
山小舎おじさんが名乗っただけで、持ち主確認できたとてリュックを渡してくれました。
持ち主が現れなかったら飯田駅で保管することになったそうです。

機転の利く、良心的な車掌さんに感謝しました。
辰野や岡谷など大きい駅に着く列車だったら、複雑な乗客の流れや車両の回送があったりして、手渡ししようにも困難だったでしょう。
伊那新町で折り返しだったので良かった、と車掌さんも言ってました。

飯田線が不通で代行バスにまで割り込んで地元に「迷惑」をかけ、目的地の飯田では緊急事態の連発で「締め出され」ても、最後に幸運があった!と思いました。
自分のボケが引き起こした、本来なくてもいいトラブルが原因とはいえ、急転直下の解決を幸運と感じ、最後にいい思いで帰途に就いた山小舎おじさんでした。

勝手な「思い込み」には気を付けなければなりません!

甲州トウモロコシ

トウモロコシの在来種を作りたくて、ネットで甲州トウモロコシの種を購入、育ててみた。

この品種、山梨の在来種とのこと。
昔の農家の縁側には、軒下にトウモロコシが吊り下げられていた。

干して保存し、粉にして使ったようだ。
もちろん来年の種にもなる。

近年、食用で出回っているトウモロコシはハニーバンタムなど軟らかい品種ばかりだが、F1種なので自家採種はできない。

トウモロコシの在来種を作ってみたくて、地元の人にも聞いてみたがはかばかしい返事はなかった。
当然、軒先にトウモロコシをぶら下げる風景も近隣ではとんと見かけない。

昔は実の硬いトウモロコシが出回っていて、風味のある味覚を味わうことができた。
山小舎おじさんは北海道育ちなので、地元では「ドン」といったが、ポン菓子というのか、コメなどを原料にした煎り菓子の実演が子供のころの楽しみだった。
利用客はコメを持ち込んで「ドン」を依頼するのだが、時々トウモロコシの実を持ち込む人もいた。
当然ながら在来種の実を乾燥させたものであったろう。

甲州トウモロコシは育てやすいことこの上なかった。
発芽率がものすごくよく、苗がよく育った。
定植後もどんどん伸び、背丈が2メートルを超えた。

ぐんぐん伸びる夏の日の甲州トウモロコシ

収穫後、ゆでて食べてみるが、とても食べられるものではなかった。
硬すぎるのだ。

奥さんはゆでた実をミキサーで砕いてコーンスープにして食べていた。
とてもおいしかったそうだ。

今回収穫した数本。
皮をはいでみると実がピカピカ光っている。
乾かして保存することにした。

乾いた後は粉にして食べようか。
鶏でもいたら餌にしたのに。

今回収穫した数本
軒先につるしました
実りの秋の風景に見えるでしょうか

ビリー・ワイルダーと「サンセット大通り」

山小舎おじさん、9月初旬にも自宅に帰りました。
その際、渋谷シネマヴェーラで「サンセット大通り」をやっていたので見てきました。
ここのところ気になっているビリー・ワイルダー監督の1950年作品です。

シネマヴェーラの作品紹介文

アメリカ映画は暴露ものが好きなのか?

「サンセット大通り」は名監督ワイルダーの代表作の一つ。
40年代から活躍し始めたワイルダーが評価を不動のものした記念碑的な作品でもあります。

ストーリーはサイレント時代の大女優が、時代がかった執事(往時の名監督で最初の夫でもあった、という設定)とハリウッド近郊の古い邸宅の中で暮らしているところへ、ひょんなことから売れないシナリオライターが迷い込み、大女優の妄執に翻弄された挙句、悲劇の結末を迎えるというものです。

大女優役は実際にサイレント時代のスターだったグロリア・スワンソンが扮し、執事役には実際にサイレント時代の名監督だったエリッヒ・フォン・シュトロハイムが扮しています。

左から、ウイリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

これって、いわゆる「暴露もの」ではないでしょうか。
そうじゃなかったら「あの人は今」的な「のぞき見」もの。

アメリカ映画には「市民ケーン」(1941年 オーソン・ウエルズ監督)で当時の新聞王ハーストを批判的に描き、「独裁者」(1940年 チャールズ・チャップリン監督)で当時の対立世界の覇者ヒトラーをカリカチュアライズした、という「実績」があります。

当時のハーストを扱うということは、現代でいえは、ステイーブ・ジョブスだったりビル・ゲイツといった億万長者兼実業界のカリスマの裏面を暴くようなものでしょう。
また当時、勃発中の第二次大戦の主役の一人だったヒトラーを馬鹿にすることは現在でいえば習近平やプーチンにケンカを売るようなものでしょう。

その点、ワイルダーの「サンセット大通り」はすでに名声時代が過ぎ去った主人公たちを扱っています。
本人たちが納得ずくで没落した人物を演じるのですから、名誉棄損の批判を受ける心配もありません。
ワイルダーの狡さというか意地悪さが見て取れるのは私だけでしょうか。

主人公二人のほかに、セシル・B・デミル、バスター・キートン、ヘッダ・ホッパーなどの映画人を実名で登場させ、ヴァレンチノ、グリフィスなどの実名をセリフで言わせていますが、そこでは抑えた演出をしています。

ワイルダーにとっての暴露すべき悪とは

ワイルダーの演出は、主人公二人(スワンソン、シュトロハイム)については、暴露もの的な意味で、デミル、キートンについてはあの人は今的ない意味で使っています。

スワンソンとシュトロハイムに関しては思いっきりイジワルな演出をしています。
が、ワイルダー自身にはほとんど危害が及ばないところがミソです。

後で述べますが、結果としてスワンソン、シュトロハイムに関しては悲惨さよりはアイコンとしての貫禄が画面から漂い、ワイルダーの毒というか本心は露骨に表れない、という結果になっています。

表面には現れませんが、ワイルダーがケンカを売りたかったのは、ハリウッドシステムの尊大な滑稽さで、大女優と執事はその犠牲者という位置づけだったのかもしれません。

ワイルダーにとって本当の敵とは何だったのか?
祖国からの亡命を余儀なくさせたナチスドイツか?ユダヤ人という宿痾か?尊大で欺瞞に満ちたハリウッドシステムか?
それぞれのテーマをある程度は匂わせながら決して肉薄しないのがワイルダーです、隠しきれない毒は画面のそこかしこに現れてはいますが・・・。

ワイルダーは正義派でも社会派でもありません。
良い作品ができる題材と、多少は自分の毒が満足できる演出ができればそれでいいのでしょう。
自分に危害が及ばないのなら、他人の尊厳、プライバシーを犯すことに良心の呵責はありません。

1950年制作の「サンセット大通り」まではそれでも際物的な要素のも取り入れながら作品を作っていましたが、名声を得た50年代以降は際物的な要素は少なくなってゆきます。
「サンセット大通り」は転換期に当たる作品なのではないでしょうか。

グロリア・スワンソン

なお、暴露ものというジャンルはアメリカ映画の専売特許ではありません。
日本映画には権力者を批判的に描く骨のある暴露ものの作品はあまり思い浮かびませんが、実録もの、事件の再現ものなどのジャンルがあります。

事件の再現ということでは、あの阿部定がのちに座長として巡業したとか、アナタハン事件の後で事件の女主人公が再現劇で巡業したなどの話を聞きます。
暴露ものがあらゆるメデイアにとって親和性のあるジャンルということがわかります。

「サンセット大通り」の表面上のモチーフの「年増女が若い燕に狂って破滅する」は、2時間サスペンスや、ワイドショーのネタ、ドリフのコントのネタ、などとして綿々と受け継がれてもいます。
事実この作品を見ていて、コントみたいだと思った瞬間がありました。

それを防いだのはグロリア・スワンソンの存在そのものでした。
老醜、妄執がコンセプトの大女優役に於いて、当時50歳のスワンソンが実に魅力的だったのです。
まだまだきれいで、いわゆる怪奇派としての老嬢役に収まりきらない魅力が垣間見れるのです。

自分が所属していたマック・セネットの水着ガールやチャップリンの物まねまで再現、披露します。
ワイルダー演出は老嬢の若作り、悲惨さを狙ったのかもしれませんが、さすが往年のスター。
演技がしっかりしており、ポーズも決まるので単なるカリカチュアにとどまらないスワンソンの演技に、山小舎おじさん、魅入ってしまいました。

ストーリーの間に挟まる、若い燕・ホールデンと若い女性の逢引のシーンの方が70年前のアメリカ映画の古臭さを隠しきれないのに対し、スワンソンが出てくるシーンは時間が超越されているようでした。
本物は、類似品がのちにテレビのコントになって消費される時代が来ても古典として残るのだなあと思いました。

スワンソンの演技は、暴露ものという映画の設定を突き破り、自身のキャリアの尊厳を逆説的に主張しているかのようでした。
その点が作品に深みと救いをもたらしてもいます。

それがワイルダーが最初から意図したものだったかどうかはわかりません。

まだまだ魅力十分なグロリア・スワンソン

青春18きっぷ  飯山線の旅

今年の夏の青春18きっぷ、2回目を使っての旅です。
茅野→松本→長野→飯山のルートで往復の小旅行です。

07:33~08:23 茅野→松本 中央線

朝の茅野駅から出発です。
2学期が始まった高校生たちでホームがいっぱいです。
たくさんの高校生たちが乗車しましたが、彼らはなぜか座ろうとしないのでベンチシートの座席はところどころ空いています。

座って松本まで行けました。
高校生たちは上諏訪、岡谷と順繰りに下車してゆきます。
岡谷を過ぎると時間的にも車内は勤め人、学生風の乗客ばかりとなりました。
早くも予報通りの夏の日差しが照り付けます。

朝の茅野駅ホーム。この後人が増え続けホームは満員状態に

08:40~09:58 松本→長野 篠ノ井線

松本からは篠ノ井線普通列車のみすず号で長野を目指します。
普通列車ながら愛称付きの列車です。

しばらくは犀川に沿って低地を北上します。
安曇野市の明科という駅でかなり人が下りました。
篠ノ井線は松本と安曇野を結ぶ路線でもあるのです。

運転手は女性です。
運転見習い中の男性を指導しながら運転しています。

松本駅で普通列車みすず号の出発を待つ。左は特急あずさ
この日の運転は女性が。見習いさんを乗せている

明科を過ぎるといよいよ長野方面に向け線路は山越えに入ります。
しばらくは山間の田園風景の中を進みます。

聖高原を過ぎ、姨捨にかかるあたりが峠です。
姨捨の駅をスイッチバックで越えた列車は、善光寺平に広がる長野市を眼下に見ながら山を巻くように下ってゆきます。

峠に向かわんとして小休止の篠ノ井線。冠着駅で
姨捨から眼下に善光寺平を望む

県内最大の都市長野に到着。
飯山線の発車までの間、改札を出て近代的な駅ビルの中を散策します。
いつもながら長野駅の駅ビルの県内土産の取り揃えはぴかイチです。
地酒、ワインや発酵食品など県内の名産品を見ると欲しくなります。
帰りに寄ることにします。

近代的な長野駅で途中下車

10:29~11:14  長野→飯山  飯山線

2両編成の飯山線、越後川口行きの列車に乗ります。
長野から信越線の新潟県・越後川口までを結ぶ路線が飯山線です。
初めての乗車です。
今日は新潟県境の町でもある飯山で下車することにします。

長野駅での再入場時に間違って今日2度目のスタンプが押されてしまった!
ホームでは越後川口行きの2両編成が待つ
車内風景。さあこれからが旅の始まりだ!

飯山は古くから越後と結ぶ物資の流通ルート上に位置し、信州の北の玄関口と呼ばれていました。
現在ではウインタースポーツで有名な野沢温泉村、木島平村、斑尾高原などの玄関口としても有名です。

途中から千曲川に沿って飯山線は進みます。
長野を出ると県内には大都市もなく、乗客数は少ない車内ですが、沿線の集落は家々の数も多く、なんとなく昔からの富の集積を感じさせます。

千曲川に沿って飯山線は進む
旺盛な夏草の茂りが車窓を打ち叩かんばかりの一瞬!

飯山をさ迷う

飯山駅に到着しました。
北陸新幹線が止まるようになって新築されたのでしょう、立派な駅舎です。
さっそく観光案内所で市内のマップを入手します。
ついでレンタサイクルを調達します。

新幹線開通で威容を誇る飯山駅

駅ビル内のレンタサイクルショップ。
自転車に限らず広くアウトドア関連のグッズが展開するショップになっています。

ここのお姉さんが親しみやすい人で、市内の見どころから雑談に至るまで、おじさんのお話相手をしていただきました。
初めての土地でのざっくばらんな人との出会いに不安も解け、親しみがいや増す山小舎おじさんです。

お姉さんありがとう!
(レンタサイクルの返却時に、地元で人気のパテスリーヒラノで買った洋菓子2つを、貴重な情報のお礼にお渡ししました。)

駅ビル内のアウトドアショップで自転車をレンタル
マップを片手にお姉さんから情報収集

昼飯はレンタサイクルショップのお姉さんも御用達のイナリ食堂へ。
限定のかつ丼を頼んでみました・・・。

結論を言うと後悔するほどの大盛でした。
道理で体育会系の若者がどんどん入ってくるわけだ・・・。
それでも飯を完食、食べきれなかったカツ3切れをテイクアウトしてもらって這う這うの体で店から出ました。

(レンタサイクルショップのお姉さんに「食べきれなかった…」と報告すると「やっぱり…」と言ってました。)

地元で有名なイナリ食堂へ
見よこのボリューム

カンカン照りの陽気に苦しい腹。
自転車でマップを頼りに、ふるさと館、雁木通り、飯山城址、商店街と市内を回ります。
合間に神社仏閣にもチョイスして寄ってみます。

ふるさと館の近くに神社があったので寄ってみました。
稲荷神社です。

片山稲荷神社
階段を上ってお参りした

雪国独特の雁木という昔のアーケードが残る商店街がありました。
レンタサイクルショップのおねえさんの情報で知った雁木通りです。
情報は地元で仕入れるに限ります。

通りの両側に仏壇屋が並んでいます。
通りの山側にはお寺がずらりと並んでいます。
まるで仏壇屋がお寺の出店として並んでいるような塩梅です。
案外そういうことだったりして。

雁木通りのはずれからはジャンプ台が見えます、さすが雪国です。

雁木通の標識
雪国ならではの雁木が続く
雁木通りの山手にはお寺が続く。大聖寺のお地蔵さん

飯山城址公園にもゆきました。
上杉謙信が信州侵攻の出城として築いたという飯山城。
千曲川と街道を見下ろす地勢上の要衝にありました。

天守付近に立つ城跡の標識
城址公園内の風景

商店街は地方都市の例にもれず閑散としています。
その中にガイドブックに載るような店がポツンぽつんと営業しています。
目抜き通りの土地は廃業したものの旧オーナーたちの支配が続き、それ以外の場所で若い事業者たちが商売を始めている・・・ということなのでしょうか。

洋菓子、ウナギ、笹寿司など元気そうな店が点在してはいました。
本屋も残っていました。
飲み屋は点在していましたが、いわゆる飲み屋街らしきものは見当たりませんでした。

市内本町付近の商店街
駅近くの公園に置かれたC56蒸気機関車が雑草に覆われていた。かつては飯山線で活躍していたことであろう

かつては越後とのルート上の町として数多くの料亭が軒を連ねたといわれる飯山。
その時代を知る名残は、たくさんのお寺と雁木通の仏壇屋だけになっているようです。

現在の飯山は、新幹線の開通と、アウトドアレジャーで巻き返しを図っていますが、頼みは野沢温泉村に定着し、斑尾高原などに進出しつつあるという(レンタサイクルショップのお姉さん情報)外国人、ということになるのでしょうか。

自転車の返却時、情報のお礼に洋菓子を渡すと、お姉さんはとても喜んでくれました。
アンケートに答えると「信州IIYAMA」のネーム入りペンをくれました。

15:58分の長野行列車で飯山を離れ、長野駅でお土産を仕入れて帰りました。

お土産。甘酒(飯田)、日本酒(佐久)、みそ(岡谷)、ラーメン(長野)

ビリー・ワイルダーと「失われた週末」

アメリカで活躍した映画監督にビリー・ワイルダーがいる。
1906年旧オーストリア=ハンガリー帝国生まれのユダヤ人で、戦前にアメリカに亡命。
脚本家、監督としてハリウッドで活躍し、2002年没。

「ハリウッド帝国の興亡」にみるワイルダー

手元にある「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」には当時のワイルダーについての記述があるが、それは以下の通りとても印象的なものであり、ワイルダーの人となりと遍歴が浮かび上がる。

黄金の40年代ハリウッドを考察した著作

(共同脚本家として一時代を築いた)チャールズ・ブラケットは、ワイルダーの本質の多くを嫌っていた。
つまり人間嫌い、死を連想させるような不気味な感覚、冷酷さ、根っからの粗暴さ、などを。(同書ページ567)

サンタバーバラでの「失われた週末」の試写会は笑い声に迎えられた。
大声の笑いとくすくす笑い、嫌悪感を抱かせる映画だというアンケート用紙の回答に迎えられた。(ページ565)

1945年の秋、「失われた週末」は公開された。
批評は素晴らしかった。
そしてワイルダーは、監督として初めてのアカデミー賞を受賞、脚本の共同執筆者としてもオスカーを授かった。(ページ565)

「サンセット大通り」(50年)を自伝的作品とみるには幾通りかの解釈がある。
ワイルダーはかつてベルリンのホテルで雇われダンサー兼エスコートをしていたので、ジゴロの困惑といったようなものは身に染みていた。(ページ567)

ワイルダーは「サンセット大通り」の冒頭シーンに、死体保管所で死体同士がここに来ることになったいきさつを語り合う、という、おぞましくも不気味なシーンを撮影した。
ロングアイランドでの試写会でも「サンセット大通り」は嫌われた。笑われたばかりではなくブーイングされ、シーシー野次られ、嘲られた。
ワイルダーは、死体同士の会話という設定から、主人公(売れない脚本家:ジゴロ)の死体単体によるモノローグへと冒頭シーンを撮りなおした。(ページ569)

1950年の夏に公開された「サンセット大通り」は批評家から受けて当然の絶賛を受け、興行成績も上々だった。(ページ571)

テレビ洋画劇場でのワイルダー

テレビの洋画劇場で40年代、50年代、60年代の洋画がせっせと放送されていた時代。
山小舎おじさんは中学生から高校生だった。

テレビで「お熱いのがお好き」(59年)や「アパートの鍵貸します」(60年)を見た。
大学生になっての上京時、大塚名画座という今は亡き映画館(大塚駅近くの八百屋の二階にあった)で「あなただけ今晩は」(62年)を見たこともあった。

いずれもワイルダーの代表作だ。
展開の速さ、オチ、ペーソス、伏線、演技、どれをとっても良くできた作品で、引き込まれるように見た。

3作品とも主演はジャック・レモンで、すっかりファンになった。
テレビ放映では吹替の愛川欣也の名調子に、レモンの演技と愛川の吹替が一心同体に見えた。

日本におけるワイルダーの評価も、上手にコメデイを作る巨匠というようなことで落ち着いていたような気がする。「麗しのサブリナ」(54年)、「七年目の浮気」(55年)、「昼下がりの情事」(57年)などもワイルダー作品である。
ヘップバーン、モンローなど旬の有名どころを使い、だれもが満足するストーリー展開と、たっぷり予算を使った舞台装置。
たっぷりの予算を十分回収しうる興行成績。
押しも押されぬハリウッドの巨匠である。
しかも批評家受けがいい。
それだけの才能を持った作家がワイルダーだった。

ワイルダーと「失われた週末」

この夏、渋谷シネマヴェーラで「恐ろしい映画」特集をやっていた。
お盆の帰宅の際、その中の1本「失われた週末」を見る機会があった。

脚本はワイルダーとチャールズ・ブラケットの共同。
主演はレイ・ミランドとジェーン・ワイマン。
1945年のパラマウント作品である。

ワイルダーの出世作にして代表作の1本。
それまで大根役者といわれてた主演のミランドがアカデミー男優賞を受賞して演技派開眼、というオマケまでついた非の打ちどころのない会心作、といわれている。

シネマヴェーラの怖い映画特集に出かける

「ハリウッド帝国の興亡」による影響か、「失われた週末」にはワイルダーの持つ、影の部分、おぞましさを好む陰湿さが濃厚に反映しているのではないか?と思った。
だからこそぜひ見たかった。

内容はアル中に苦しむ作家が恋人の無償の支援を受けて更生に向かうまでの姿。
ワイルダーらしく冒頭のシーンからエンディングに至るまで、人物配置、伏線などに怠りはない。

取ってつけたようなハピーエンドも、それまでの無償の愛を貫く恋人の人物描写が伏線として生きており、何よりスピーデイーに展開する結末のシークエンスが観客を納得させる。

アルコールを求めて街をさ迷う場面

しかしながら決して脇のエピソードとは言えない二つのシークエンスの緊張感はハピーエンドを旨とする当時のアメリカ映画とは思えないものがあった。

一つ目は酒代を求め、質草のタイプライターを抱えて、安息日のニューヨークを質屋を求めてさまよう主人公の描写。
二つ目は酒屋で強盗を働いた挙句、放り込まれるアル中専用の病院内の描写。

アル中病院の奇妙な看護師にあしらわれる主人公

先のシークエンスではドキュメンタルな手法を駆使し、ロケーションによる臨場感を強調し、後者では表現主義的とでもいおうか、デフォルメされた収容病院内の恐怖を強調している。
これら予定調和を無視した緊張感あふれる画面作りは、単にアル中患者の不安定な心理描写ということにとどまらず、カフカの小説の主人公のように不条理にもてあそばれる恐怖を連想させる、劇中でも特異な雰囲気に満ち満ちたシークエンスになっている。

アメリカに亡命を余儀なくされたユダヤ人であるワイルダーが経験したであろう、戦前のドイツ時代からそれ以降の「不条理への恐怖」が色濃くも反映してはいないだろうか。

おまけにというか、さりげなくユダヤ教への絶望、キリスト教へのあきらめも表現されている。
主人公が質屋巡りをする日がユダヤ教の安息日で、ユダヤ人が経営する質屋が全部閉まっており、彼ら(ユダヤ教)からは見放されたという設定と、主人公が前途に絶望し、十字を切るポーズで自殺を暗示する描写である。
一方で主人公を憐れみ、5ドルを恵んでくれた、バーを根城にする娼婦のアパートの目印がインデアンの塑像であることは何の暗示だろうか。

おぞましさ、不条理の描写というと、ルイス・ブニュエルという映画監督を思い出す。
女性の足、靴、ストッキングへのフェチを隠そうともせず、またキリスト教会の権威への明快なオチョクリなど、この御仁の作品はトンデモナイ描写の連続だが、スペイン人でメキシコで映画のキャリアを積んだブニュエルが、どこかすっとぼけた、憎めない、乾いたカラーを持っていたのに比して、オーストリア=ハンガリー帝国出身のワイルダーの描写はひたすら深刻で、暗く、イジワルで痛々しく映る。
その点については、長年の共同脚本家を務めた、ブラケットのワイルダー評は的を得ている。

後年、ワイルダー作品からはこのような直截的な恐怖心の描写は見られなくなったものと思われる。
が、よく見れば「お熱いのがお好き」はギャングから逃れ、女装して楽団に潜り込む追い込まれた二人組の話だし、「アパートの鍵貸します」は、がんじがらめの会社組織で理不尽な上司の要求に逆らえない、出口のない部下たちの話であった。

いずれも巧妙に隠されてはいるが、不条理に苦しむ人物が主人公ではあるのだ。

ワイルダーは生涯、理不尽で不条理な恐怖を己のテーマとして描き続けたのではあるまいか。
その主題を、笑なり、ペーソスなどに落とし込み、起承転末の効いた作劇にまとめあげることができるのがワイルダーの才能であり、ワイルダーのワイルダーたるゆえんであると思う。

ワイルダーのダークの部分が色濃く反映されている作品と思われる、「深夜の告白」(44年)と「サンセット大通り」はぜひとも見たいものだ。
できれば「情婦」(58年)なども。

シネマヴェーラ「恐ろしい映画特集」のパンフレットより

除草!除草!除草!

助走、ではありません。
夏は除草の季節でもあります。

2週間放置した畑は、その間の十分な雨のせいもあり、思い切り草草が夏を謳歌しています。

場所により、ヒメジオン系、クローバー系、イネ科雑草系、ツル雑草系、と自主的に勢力範囲を分け合い、合間にアカザなど独立系の雑草が天に向かって突き上げています。

雑草に負けず生育する作物(菊芋、落花生、大豆、小豆、ハックルベリー、夏野菜たち)もあれば、雑草に埋没しきった作物(サツマイモ、キャベツ、ルバーブ、ハーブ類)もあります。
いずれにせよ、景観上も放っておけません。

路面の3分の2も例年通り刈る(今年2回目)
法面に沿うように刈り込む

まずは草刈り機(刈払い機)で、畔から法面から畝間から路面までを刈りまくります。
丸刃の切れが悪いので、新しいものに変えます。切れ味が断然よくなります。
刃はどうしても石やコンクリートに当たりますし、使っているうちに欠けて切れ味が悪くなります。

畝間の除草には管理機を使って土ごと掘り返してもいいのですが、管理機を運ぶ手間がかかるのと、管理機の重さによって土が固まるのを防ぎたいことから、管理機は使わないことにします。

刃がかけた丸刃(先端の左上部がかけている)
新しい刃に付け替える

株間など微妙な場所は手で雑草を抜きます。

フェンスに囲まれた圃場は、ガッテン農法による土の改良の影響?なのか、例年より雑草の生育が激しいような気がします。
フェンスに絡まるツタだけではなく、法面ににょきにょきと屹立するイタドリに似た植物がそれぞれ壁のようになり、日当たりだけでなく圃場の空気の流通をも阻害しています。
これらも草刈り機、鎌、ハサミなどで撤去しなければなりません。

フェンスにはツタが絡まる
フェンスと反対側の法面にはイタドリ?が生い茂る

畑らしい景観の復活まで除草を続けます。

草刈りをしていて巨大な夕顔を発見するが・・・
かぼちゃを収穫。右の細長いのは甘龍という品種

トマト豊作!

トマトが豊作です。
家族や出荷先の彩ステーションのお年寄りの方々に喜ばれています。
東京にはこのトマトのファンもいるとのことです。

約2週間の放置ののちの畑のトマトです。
収穫時期を逃したトマトが一山採れました。

2週間ぶりのトマトの畝
この日の収穫。自宅へ発送用に
出荷はできないものの加工には使えるトマトが一山

このトマトは傷んだところを除き、煮て冷凍しました。
水煮缶とは比べ物にならないほどおいしいトマトソースになります。
このトマトソースを使ったミートソースは、うちの曾おばあさんも、孫たちも大好物で、のどを鳴らして食べてくれます。

完熟トマトを煮る

翌々日も一山収穫がありました。

翌々日も一山収穫

トマトの豊作、ガッテン農法の教科書通りに畝づくりをした成果でしょうか。
苗は1本100円程度の自根の苗です。
無肥料で、えひめAIの希釈液を1,2度根元に散布しました。

反省点としては最盛期の管理をもう少し丁寧に行うことと、支柱をもっと密に立てておくべきだったことでしょうか。

ピーマンも採れました
収穫機を逃し種をたっぷり含んだキューリも
セロリ初収穫です
小豆が鞘をつけています

裏の小川が流れている

令和3年の夏は西日本で豪雨があり、水害が発生しました。
その前には熱海で盛り土の決壊による土石流災害が発生しました。

長野県では令和元年秋の台風19号による水害の記憶が新しいところです。
当時の被害の復旧は現在でも行われており、上田電鉄別所線の千曲川鉄橋の復旧は今年の春までかかりました。

山小舎おじさんの畑付近の川の護岸の復旧工事はただいま現在行われているところです。

本日、山小舎の裏では、小川が音を立ててが流れていました。

8月上旬の長めの「休暇」を家族と共に過ごし、山小舎へ戻ってみると、標高1400メートル近い場所のお盆過ぎという季節とて、初秋のころのを思わせる空気感は致し方ないとしても、この間の長雨による小川の水流の音には、自然相手に暮らす山小舎の厳しさを痛感させられました。

音を立てて流れる裏の小川

この小川、台風など大雨があった後にしか流れが起きません。
普段は枯れています。
山が大水を処理しきれなかったときにだけ排水を行う安全弁のような存在と思われます。
また、上流のほうに属するため、水流が発生しても周りに害をもたらすほどの水量には至っていません。

ただしそれもこれも、今まではそうだったというだけのこと。
「体験したことのない」災害が定期的に発生するようになった日本のこと、今後もそうだとの保証はありません。

小川の岸には様々な漂流物が。近年にない流れの激しさを物語る

幸い今回の水流にしても、護岸設備を崩すほどの害はありませんでした。
組んだ丸太は崩れていません。
ただ、丸太の隙間や土台を埋めるために配置しておいた石やブロックが崩れていました。
流れは護岸丸太のすそを洗っていたのです。

護岸の丸太は崩れていないが、固めておいたブロックなどが散乱している

今後、どんな流れが発生しないとも限りません。
その際、丸太で守られている護岸を崩し、ひいては山小舎の土台に影響しないとの保証はどこにもありません。
引き続き護岸工事の継続の必要性を痛感する今日この頃です。