おじさんも知らなかったが「映画論叢」という雑誌がある。書店に置いてあるのは、神保町の東京堂でしか見たことがない。
国書刊行会の出版で、毎月ではないが年に数回発刊しているようだ。
映画好きのおじさんは、書店で見かけると手に取るが、内容はかなり専門的で、とっつきずらい。
おじさんと映画雑誌
おじさんにとっての映画雑誌は、「スクリーン」と「ロードショウ」が記憶のはじめ。
両雑誌とも、洋画のスターグラビアがメインの大判雑誌で、淀川長治、小森和子といったタレント評論家が来日した映画スターにインタビューした記事がメインの印象。
日本で公開する洋画の全作品を写真紹介するという記録性も持っていたが、読者層は若い女の子であり、おじさんの若い時代には買うのが恥ずかしかった。
その当時の日本映画については「近代映画」という雑誌があり、日本映画のスターグラビア誌の役割を担っていたようだが、覗いたことがない。
おじさんが高校くらいになって、映画に興味を持ち始め、覗いた雑誌が「キネマ旬報」だった。
日本で一番古い歴史を持つ映画雑誌である。
おじさんが高校生の頃の「キネマ旬報」は、そもそも当時住んでいた函館の書店にはおいていなかった!
古本屋でバックナンバーを手に入れるか、書店に注文しなければ現物が手に入らなかった。
高校の途中で移り住んだ札幌の書店にはおいてあり、その後、大学に入ってしばらくするまで毎月購読した。
「スクリーン」が作品紹介する際に、題名の前に持ってくるのが主演スターの名前だとしたら、「キネマ旬報」では、監督の名前を持ってきていた。
そういうところが生意気な青少年映画ファンの心を刺激したものだった。
当時の「キネマ旬報」では、竹中労の「日本映画縦断」という連載があった。
伊藤大輔監督など、当時存命の日本映画の生き証人への聞き取りだった。
田舎のにわか映画ファンには全く予備知識もない世界ではあったが、嵐寛十郎の会などは面白く、また作者竹中の情熱に感じ、熟読したものだった。
また、「キネマ旬報」の巻末に掲載される上映情報の中で、当時の池袋文芸坐や、京一会館など名画座のバリバリのプログラムに心ざわめかせたものだった。
「バリバリのプログラム」とは、溝口、小津、黒沢などの名作群だけでなく、例えば、「日活アクションの世界」と銘打つ系統的なオールナイトプログラムや、鈴木清順、岡本喜八など当時再評価が盛んだったプログラムピクチャーの番組のことです。
ちなみに当時の封切り作品というと、おじさんが高2の時が、「ダーテイハリー」「時計じかけのオレンジ」「フレンチコネクション」。
映画にはまる導入としてこれ以上なしの作品群でした。
また、大学に入る前後、邦画に関心が行く生意気な時期には、「仁義なき戦いシリーズ」、「赤い鳥逃げた?」「赤ちょうちん」などの藤田敏八もの、寅さんの全盛期とこれまたグッドタイミングでした。
この間の映画事情の変遷
「キネマ旬報」に刺激された田舎の映画少年だったおじさんも今や初老。
この40年の間に、映画界はアジア映画ブームがあり、CGが起こり、デジタルが一般化した。
一方で、旧作の保存や発掘、系統的な上映と研究なども盛んになってきた。
おじさんが若い時、名画座での上映では、フィルムの雨降りや、画面欠落は当たり前だったが、昨今の名画座では多少の雑音、欠損はあるものの、ぼろぼろのフィルムの上映はまずはない。
映画の旧作については、不特定多数相手の商品という位置づけから、特定の趣味者に対する骨とう品的な位置づけに変わっているような気がする。
例えば、古いフィルムで最大限の利益を得る、商売一辺倒の考えから、採算が合う範囲でニュープリントを起こす、文化財提供的な考えへ、映画館のみならず配給会社も変化しているのではないか。
旧作の上映プログラムについても、溝口、小津、黒沢といった国際的にも評価が定まった古典作品をメインとしたものから、より深く、趣味的に、かつピンポイントに対象を広げている。
例えば、最近再評価の高い監督では、古い順に清水宏、中川信夫、石井輝男、鈴木英夫などがおり、特集上映などが組まれているほか、ちょっと前までは映画ファンに忌避されがちだったエログロ路線の新東宝という今はなくなった制作会社の作品などもちょっとしたブームになっている。
こういった点では、映画にまつわる環境が、映画先進国である欧米のいい部分に似てきたようであり、おじさんはうれしい。
「映画論叢」という雑誌
すでに発刊50号になろうとする「映画論叢」。
第一号からが調布図書館にそろっているので出向いた際にはめくっている。
この点ではさすが映画の町調布の図書館である。
ついつい熟読してしまい、1時間で一号分読めるかどうか。発刊の趣旨によると、映画産業の「よいしょ」からの脱却を宣言している。
その志やよし。
記事の分野は、映画の歴史の保存や関係者の証言、忘れられた関係者の記録、フィルムや機材に関する提言など、幅は広い。
これまでの主な連載は、「新東宝大蔵時代研究」として、小森白監督、俳優星輝美などへのインタビュー。
「東宝プログラムピクチャーの世界」と銘打って、若林映子、久保昭などへのインタビュー。
監督インタビューシリーズとして、井田操、井上和男、鈴木英夫、斎藤正夫、小谷承靖など。
俳優三上信一郎の「チンピラ役者の万華鏡」。
戦前の映画会社の記録「まぼろしの極東キネマ」「大都映画研究」など。
「こんな役者がいた」シリーズ。
俳優へのインタビューとして、原知佐子、左幸子、緑魔子、高宮敬三、小泉博など。
こうして書いていても頭が痛くなるくらいだが、共通しているのは、映画を巡るすべての事象の記録を志向していること、特に商業ベースのジャーナリズムが扱ってこなかった人材、分野への言及、記録への志向である。
ページをめくるっていると、顔は知ってるが名前の知らなかった俳優の出演作や、マイナーのまま消えていった映画監督のプログラムピクチャーへの興味がわいてきて時間が経つのを忘れる。
すでに単行本を出している三上信一郎の洒脱な文体と露悪趣味にニンマリするとともに、宮口精二が個人で発行していたという「俳優館」という冊子の存在に感じ入る。
そしてこの雑誌の極め付きは、細部へのこだわりにある。
すなわち、フィルムとデジタルの話、スクリーンの上映サイズの話、にこだわりにこだわる。
これまで戦争映画に登場してきた戦闘機の実機に関するコラムもある。
無関心な人にはどうでもいい話だが、映画にとって、フィルム、機材、上映サイズの話はきちんと記録しておかなければならない。
これからデジタル移管でどさくさが起こりかねない。
映画本を論ずるコラムもあり、今を時めく意識高い系映画ファンの教祖・蓮見重彦なんかは、信者ともどもケチョンケチョンの扱いなのも痛快だ。
痛快だが、今の映画状況、蓮見の評価で人がどっと集まるのも事実である。
映画ファンに限らず、消費者は、大衆は、情報を待っており、情報に従って行動する。
この先、「映画論叢」が「再発見」した監督や俳優が、おじさんのような旧作映画ファンの流行となるかもしれない。
「映画論叢」。
マニアの世界でありがちな、「自分だけは見ている」という「知ったかぶり」を根拠としたマウントの取り合いにはならぬよう。
今後も楽しみにしています。