おじさんの東京自転車散歩VOL.7 多摩川サイクリングロード

多摩川サイクリングロードをママチャリでサイクリング。
立川まで行きました。
朝方は冬の寒さも、途中で春の陽気に恵まれ暖かい道中でした。

多摩川原橋から府中の景色

鶴川街道のたもと、多摩川原橋から土手のサイクリングロードを走りました。

上流から見て左岸、東京側を西に向かって走ります。

平日なので散歩する人も自転車の人も少ない日でした。
かつてのサイクリングブーム?のころは、休日ともなると、競技用自転車の集団が猛スピードで走り抜け、歩行者などとの事故現場も散見されましたが、ブームが落ち着いたのか、事故の危険性?からか、最近はヘルメット姿の自転車集団はあまり見かけなくなりました。

是政橋のたもとにつきました。
河川敷のグラウンドでは草野球をやっていました。

ここはその昔、是政の渡し船があったところです。

五本松という名所を通過。
その昔、甲州街道で行倒れていた甲州商人を助けたところ、恩返しに植えられた松が育って街道の名物になったという場所です。

河川敷は野球、サッカーなどのグラウンドに利用されています。

関戸橋のふもとを通過。
京王線の鉄橋です。
対岸に聖蹟桜ヶ丘の街が見えます。

読売新聞の工場が府中中河原にありました。

キューピーマヨネーズ工場も調布仙川から府中中河原に移転していました。

日野橋です。
橋を渡れば日野市。手前に戻れば立川市です。

立川という町

立川には戦時中まで陸軍飛行場があった。
戦後、米軍に接収され、立川基地となった。

今は返還され、基地機能は横田基地に移転吸収されたが、ベトナム戦争時代まで、立川のイメージは基地の町だった。
その時代、基地の拡張に伴い反対する周辺農民との間で紛争が起き、地名にちなみ砂川闘争と呼ばれた。

おじさんが知っている頃(30年前)には、まだ滑走路があり、プロペラ機が飛んでいた。

今、跡地は広大な公園(昭和記念公園)のほか、商業施設,首都補完施設(災害時などの首都移転のため)が建っている。

近々は、駅前の再開発などにより、近未来的な発達を遂げている立川だが、おじさんより上の年代のものには、立川=基地のイメージが濃い。

駅からほど近い通り、シネマストリート。
駅周辺の喧騒が嘘のように人気が少ない。
陸軍基地時代以来の歓楽街とだった場所。
映画館があったり、昭和33年までは赤線もあった。
米軍基地時代にはGI相手のバーが軒を連ねていたと思われる。

今ではその面影を捜すのが難しい。
一般の商店が残っていたが、今ではほとんど消えてしまっている。
いずれ町ごと再開発されるのだろうか?

中心部から徒歩圏内に競輪場がある。
立川のもともとの擦れたイメージを今に残す場所の一つだ。

今は住宅地に埋もれるようにして存在するが、かつては駅から北東方面に遠望でき、「ラスト1周」の鐘の音が物悲しくあたりに響いていたのかもしれない。

通称「立川陸事」と呼ばれる、多摩ナンバー車両の登録検査事務所。
実は立川をぎりぎり外れた国立にあるが、なぜか立川陸事と呼ばれている。

久々の自転車遠乗りにおじさんのお尻が痛くなった早春の一日でした。

 

 

おじさんの食堂探訪VOL.9 中島飛行機とICUと松浦武四郎

今日は春の陽気です。
昨日は久しぶりの降雨。
今日の気温は18度の予報です。
おじさんは春風と花粉に乗って食堂探訪へと旅立ちました。

中島飛行機製作所跡地のSUBARU

三鷹のスバル工場です。
かつての中島製作所の武蔵野研究所の跡地に建ちます。
中島製作所(のちの富士重工)は日本の航空産業の草分けで、陸軍に採用された隼とその後継機・疾風、また一式陸攻などの有名軍用機を開発しました。

ゼロ戦を開発した三菱と並ぶ、国内航空機メーカーの2大看板です。
そもそも日本にはこれまで(現在も)数社しか航空機を作れるメーカーはなく、同社の格と力量がわかろうというものです。

敗戦後、日本の軍需産業(及び関連するメーカー)、研究所は解体もしくは分割されました。
中島製作所は12の会社に分割されたとのこと。
三菱重工が3分割、それも業種ごとの分割ではなく、地域ごとの会社分割で、案の定すぐに再統合したのと比べると、中島製作所の扱いは厳重といわざるを得ません。
進駐軍の同社に対する「本気度」がわかろうというものです。

三菱への対応とに明らかな差があるのは、明治維新前から三菱のバックに外資がついているのも理由の一つでしょうが、進駐軍が中島製作所の能力を恐れていたからではないでしょうか。

中島製作所の主力工場は群馬(今のスバル太田工場)にありましたが、研究所が武蔵野(現三鷹市)にありました。
そこの跡地に、富士重工時代を経て現スバルとして会社が残っています。
少し前までは工場だけが建っていましたが、今はショウルームも併設しています。

中島製作所跡地の外側を巡る

中島飛行機武蔵野研究所の敷地は戦後、ICU(国際基督教大学)となりました。
ICUの設立が1953年だそうですから、戦後8年たっています。
その間、中島製作所は、進駐軍に接収されています。
中島製作所の後継会社・富士重工の敷地は全体の1/5程に縮小されました。

正門からの一本道とロータリー、それに続く研究所本館の建物は、製作所時代のまま残され、本館はICUの本部になりました。
国分寺崖線のハケの下の地域は、進駐軍のゴルフ場となりました。

おじさんは、旧中島飛行機の敷地外側を自転車で回ってみました。
スバルの工場の外塀を過ぎると、ゴルフ場として進駐軍に使われていた場所が、都立野川公園として開放されています。

やがて、敷地は住宅地と接してきました。
敷地の北側には、中近東文化センター、ルーテル大学などがあります。
これらも中島製作所の敷地でした。

ICU構内に残る松浦武四郎の遺産

この辺り、国分寺崖線のハケの地形で、日当たりと湧き水に恵まれています。
縄文遺跡が多数見つかっています。
大学構内に博物館があり、土器などが展示されています。

この博物館の展示品の中に、蝦夷地や樺太の探検で有名な松浦武四郎が晩年建てた、一畳敷という一室のレプリカがあります。
松浦が探検を終え、晩年を日本で過ごす際に建てたという一室で、文字通り畳一畳の広さの小屋です。

独力で蝦夷地と樺太の地図を測量したという孤高の探検家が達した境地なのでしょうか。
起きて半畳寝て一畳といいますから。

その室が時代を経て中島飛行機の経営者の手に渡り、この地に移築されたとのこと。
泰山荘という建物群の一棟として保存されているそうです。
よくICUは壊して薪にせず残してくれたものです。
実物を見ようと泰山荘の中を捜しましたが、一畳敷については、関係者以外は立ち入り禁止とのことで、見ることができませんでした。残念。

ICU学食でタレカツどん

昼食はICUの学食へ。
タレカツどん。380円。
味は、国立系のCOOP食堂よりも良かった。量もたっぷり。

何よりも食堂が広いのがいい。
電通大の食堂の数倍はあろうという広さ。
若い学生たちがうれしそうに集っている。

ICUのイメージとしては英語が飛び交うアメリカンなカレッジライフだが、実際は大多数が日本人の学生で、のんびりと育ちのよさそうな雰囲気の学生が多いような感じがした。

ICU。
桜並木が続くエントランスと軍用機製作所の建物を本部とする進駐軍が作った大学。
日本の戦争時代と占領時代が見事にクロスしています。
学生たちの明るさがすべてを解決してくれそう?な気がしました。

梅がほころび始めた武蔵野の早春のことでした。
お粗末。

おじさんの徒歩散歩VOL.1 早春の西東京を歩く

今日はぽかぽか陽気でした。
おじさんは用事の帰り、陽気につられて、西東京市の旧保谷エリアを散歩しました。

フラワー通り商店街

西東京市の谷戸というエリアから泉町方面にかけて、住宅街の細い道沿いに、フラワー商店街という通りがあります。
庶民のにおいがする街の風景が大好きなおじさんは、さっそくその商店街へ行きました。車のすれ違いが困難なほどの道幅。
店の並びもまばらで、大規模店などは全くありません。
八百屋、電機屋などがぽつぽつと開いています。
街灯にフラワー通りという看板がついていなければ商店街なのか、住宅街なのか、一見してわからないほどです。

ギリギリ、商店街としての体裁が維持された風景で、おじさん、嫌いなシチュエーションではありません。

商店街の一角で和菓子と海苔巻きを商っている、明治屋という店がありました。
かつて家人がここで買ってきた、草餅がおいしかったから、おじさんはこの店へ寄りました。

餅の歯ごたえがいい草餅や桜餅、まんじゅうなどのほか、海苔巻き弁当も並んでいました。
おじさんは、草餅と桜餅を2個づつ買いました。

桜餅は、皮であんこを巻いた関東スタイルのものです。
おじさんの出身地では、半搗きの餅米であんこを包む、いわゆる道明寺が桜餅と呼ばれていました。
そのせいか、今でも関東スタイルの桜餅への違和感が消えませんが、郷にいれば、です。

商店街を過ぎたあたりに、岩船地蔵尊が2体祀られていました。
1700年ころ、このお地蔵さんを御輿に担ぎ、念仏踊りをした一団が現れる現象が起きたという。

後の、ええじゃないか現象につながる民衆のエネルギー発散の歴史の一幕なのだろうか。

庭先で実をつける夏みかん。
北国、雪国では見られない風景です。
武蔵野地方が温暖であることを象徴的に示しています。

冬に咲く椿は盛りを過ぎていました。

白梅が咲き始めていました。春間近です。

東伏見駅前の自然食糧店・美味

おじさんは谷戸から東伏見まで歩いてきた。
今日の目的の一つは、駅前の自然食店・美味を捜すこと。

おじさん、30年前は自然食関連業界で働いていた。
その時の同僚N氏に最近久しぶりに会ったのだが、会社OBの近況で、同時期に同じ会社で働いていたHさんという人が東伏見で自然食品店をやっていると聞いたのだった。

実はHさんの名を聞いても、おじさん思い出せなかった。ひょっとしたら本人を見て思い出せるかな?と、後学を兼ね、アポなし訪問をした次第だ。

店は元気に営業していた。
品揃えがよく、固定客がついていることがうかがえた。
営業37年目とのこと。Hさん本人は仕入れで不在だったが、奥さんが話を聞いて応対してくれた。
おじさんがHさんの顔を思い出せないというとアルバムまで出してくれた。同じ会社といっても、お互い別の事務所所属だったようだ。写真を見ると、永福の事務所にいた(おじさんは調布の事務所で配送の担当だった)真面目そうな人の記憶がかすかによみがえった。

おじさんのアドレスを印刷した、名刺代わりの紙を奥さんに託して辞した。
三年番茶を1本頂いた。
木で3年たった葉を焙じたもので、もともとは陰性の茶葉が陽性化しており、体を温めるとのことだった。

おじさんも自立に向け頑張ろうと思った。

おじさんの食堂探訪VOL.8 仙川にラーメン屋を訪ねる

東京の最高気温は6度だ。真冬の気温だ。
おじさんの住む調布は、都心より2,3度低いかもしれない。今日の食堂探訪は、地元調布の仙川というところにあるラーメン屋を訪ねた。

おじさんのラーメンの思い出

おじさんは北海道旭川出身だから、ラーメンには幼いころから馴染んでいる。
小学校に入る前、母親のお供で街に出た時の昼食はラーメンが多かった。

当時のラーメン屋では蜂谷という店しか思い出せない。
旭川の中心部にあり、まったく普通の食堂形式の店内は、常に客で混んでいた印象がある。

店員のおばさん(お姉さん)は「脂濃くしますか?」と聞いて来るのがお約束だった。
いつも、「普通」で頼んでいたが、もし「濃く」で頼むとしたら、スープにはどのくらいの脂の脂が浮いて出てきたのだろうか?

ラーメンは湯気も威勢よく、どんぶりの淵、ギリギリまでスープが注がれた状態で出てきた。
当時はそれが当たり前の味だったが、今思えば、鶏がらベースにかなり魚介系が効いた出汁で、中太麺の量も多く、食べ応えがあった。

そのころ旭川では、みそもとんこつもなく、ラーメンはしょうゆ味が普通だった。
おじさんは、当時の蜂谷のラーメンほどうまいラーメンを、それ以降食べたことがない。

仙川のしば田というラーメン屋へ

息子に教えてもらった仙川のラーメン屋へ行く。
あっさりした昔風の味で、行列店だとのこと。

若葉商店街というエリアの一角にあった。
平日の昼時を過ぎているのに行列があった。
7,8人なので並ぶ。
大行列だったら帰ろうと思っていた。

バス通りながら狭い道に面した店で、自転車の置き場もない。
黙々と並ぶ人達。
この孤立感は映画ファンにも共通するものがある。
同好の士ながら、話しかけられるのを恐れ、バリアを張り合っているようなところが似ているのだ。

最高気温6度の寒さには耐えうるものの、店の空調の屋外機からの冷気がまともに吹きかかる場所に列が進んだときには若干虚無的な心境になったが我慢。

やがて店内へ。
カウンターのみの8席ほど。
メニューは中華麺普通と煮干し味の二通りのようだ。
中華麺を頼む。850円。
話に聞いていた通りのあっさりしょうゆ味。
しょうゆの効いたスープの色、脂の浮き具合もいい。
あとはもうちょっと出汁の味がつよければ・・・。

最近はやりのとんこつ系の脂ぎった感じよりは数段好みの味だった。
自家製風のチャーシュウが、がっちり3枚乗っていたのもボポイント。
昔風か?と言われれば、コンセプトはそうに違いないが、という感じ。
現代のラーメンとしてこれはこれでいいのではないか。
飽きの来ないラーメンらしいラーメンだった。

「映画論叢」という雑誌

おじさんも知らなかったが「映画論叢」という雑誌がある。書店に置いてあるのは、神保町の東京堂でしか見たことがない。
国書刊行会の出版で、毎月ではないが年に数回発刊しているようだ。
映画好きのおじさんは、書店で見かけると手に取るが、内容はかなり専門的で、とっつきずらい。

おじさんと映画雑誌

おじさんにとっての映画雑誌は、「スクリーン」と「ロードショウ」が記憶のはじめ。
両雑誌とも、洋画のスターグラビアがメインの大判雑誌で、淀川長治、小森和子といったタレント評論家が来日した映画スターにインタビューした記事がメインの印象。
日本で公開する洋画の全作品を写真紹介するという記録性も持っていたが、読者層は若い女の子であり、おじさんの若い時代には買うのが恥ずかしかった。

その当時の日本映画については「近代映画」という雑誌があり、日本映画のスターグラビア誌の役割を担っていたようだが、覗いたことがない。

おじさんが高校くらいになって、映画に興味を持ち始め、覗いた雑誌が「キネマ旬報」だった。
日本で一番古い歴史を持つ映画雑誌である。
おじさんが高校生の頃の「キネマ旬報」は、そもそも当時住んでいた函館の書店にはおいていなかった!
古本屋でバックナンバーを手に入れるか、書店に注文しなければ現物が手に入らなかった。

高校の途中で移り住んだ札幌の書店にはおいてあり、その後、大学に入ってしばらくするまで毎月購読した。

「スクリーン」が作品紹介する際に、題名の前に持ってくるのが主演スターの名前だとしたら、「キネマ旬報」では、監督の名前を持ってきていた。
そういうところが生意気な青少年映画ファンの心を刺激したものだった。

当時の「キネマ旬報」では、竹中労の「日本映画縦断」という連載があった。
伊藤大輔監督など、当時存命の日本映画の生き証人への聞き取りだった。
田舎のにわか映画ファンには全く予備知識もない世界ではあったが、嵐寛十郎の会などは面白く、また作者竹中の情熱に感じ、熟読したものだった。

また、「キネマ旬報」の巻末に掲載される上映情報の中で、当時の池袋文芸坐や、京一会館など名画座のバリバリのプログラムに心ざわめかせたものだった。
「バリバリのプログラム」とは、溝口、小津、黒沢などの名作群だけでなく、例えば、「日活アクションの世界」と銘打つ系統的なオールナイトプログラムや、鈴木清順、岡本喜八など当時再評価が盛んだったプログラムピクチャーの番組のことです。

ちなみに当時の封切り作品というと、おじさんが高2の時が、「ダーテイハリー」「時計じかけのオレンジ」「フレンチコネクション」。
映画にはまる導入としてこれ以上なしの作品群でした。

また、大学に入る前後、邦画に関心が行く生意気な時期には、「仁義なき戦いシリーズ」、「赤い鳥逃げた?」「赤ちょうちん」などの藤田敏八もの、寅さんの全盛期とこれまたグッドタイミングでした。

この間の映画事情の変遷

「キネマ旬報」に刺激された田舎の映画少年だったおじさんも今や初老。

この40年の間に、映画界はアジア映画ブームがあり、CGが起こり、デジタルが一般化した。
一方で、旧作の保存や発掘、系統的な上映と研究なども盛んになってきた。

おじさんが若い時、名画座での上映では、フィルムの雨降りや、画面欠落は当たり前だったが、昨今の名画座では多少の雑音、欠損はあるものの、ぼろぼろのフィルムの上映はまずはない。

映画の旧作については、不特定多数相手の商品という位置づけから、特定の趣味者に対する骨とう品的な位置づけに変わっているような気がする。
例えば、古いフィルムで最大限の利益を得る、商売一辺倒の考えから、採算が合う範囲でニュープリントを起こす、文化財提供的な考えへ、映画館のみならず配給会社も変化しているのではないか。

旧作の上映プログラムについても、溝口、小津、黒沢といった国際的にも評価が定まった古典作品をメインとしたものから、より深く、趣味的に、かつピンポイントに対象を広げている。
例えば、最近再評価の高い監督では、古い順に清水宏、中川信夫、石井輝男、鈴木英夫などがおり、特集上映などが組まれているほか、ちょっと前までは映画ファンに忌避されがちだったエログロ路線の新東宝という今はなくなった制作会社の作品などもちょっとしたブームになっている。

こういった点では、映画にまつわる環境が、映画先進国である欧米のいい部分に似てきたようであり、おじさんはうれしい。

「映画論叢」という雑誌

すでに発刊50号になろうとする「映画論叢」。
第一号からが調布図書館にそろっているので出向いた際にはめくっている。
この点ではさすが映画の町調布の図書館である。

ついつい熟読してしまい、1時間で一号分読めるかどうか。発刊の趣旨によると、映画産業の「よいしょ」からの脱却を宣言している。
その志やよし。

記事の分野は、映画の歴史の保存や関係者の証言、忘れられた関係者の記録、フィルムや機材に関する提言など、幅は広い。

これまでの主な連載は、「新東宝大蔵時代研究」として、小森白監督、俳優星輝美などへのインタビュー。
「東宝プログラムピクチャーの世界」と銘打って、若林映子、久保昭などへのインタビュー。
監督インタビューシリーズとして、井田操、井上和男、鈴木英夫、斎藤正夫、小谷承靖など。
俳優三上信一郎の「チンピラ役者の万華鏡」。
戦前の映画会社の記録「まぼろしの極東キネマ」「大都映画研究」など。
「こんな役者がいた」シリーズ。
俳優へのインタビューとして、原知佐子、左幸子、緑魔子、高宮敬三、小泉博など。

こうして書いていても頭が痛くなるくらいだが、共通しているのは、映画を巡るすべての事象の記録を志向していること、特に商業ベースのジャーナリズムが扱ってこなかった人材、分野への言及、記録への志向である。

ページをめくるっていると、顔は知ってるが名前の知らなかった俳優の出演作や、マイナーのまま消えていった映画監督のプログラムピクチャーへの興味がわいてきて時間が経つのを忘れる。
すでに単行本を出している三上信一郎の洒脱な文体と露悪趣味にニンマリするとともに、宮口精二が個人で発行していたという「俳優館」という冊子の存在に感じ入る。

そしてこの雑誌の極め付きは、細部へのこだわりにある。
すなわち、フィルムとデジタルの話、スクリーンの上映サイズの話、にこだわりにこだわる。
これまで戦争映画に登場してきた戦闘機の実機に関するコラムもある。

無関心な人にはどうでもいい話だが、映画にとって、フィルム、機材、上映サイズの話はきちんと記録しておかなければならない。
これからデジタル移管でどさくさが起こりかねない。

映画本を論ずるコラムもあり、今を時めく意識高い系映画ファンの教祖・蓮見重彦なんかは、信者ともどもケチョンケチョンの扱いなのも痛快だ。
痛快だが、今の映画状況、蓮見の評価で人がどっと集まるのも事実である。

映画ファンに限らず、消費者は、大衆は、情報を待っており、情報に従って行動する。
この先、「映画論叢」が「再発見」した監督や俳優が、おじさんのような旧作映画ファンの流行となるかもしれない。

「映画論叢」。
マニアの世界でありがちな、「自分だけは見ている」という「知ったかぶり」を根拠としたマウントの取り合いにはならぬよう。
今後も楽しみにしています。

 

おじさんの食堂探訪VOL.7 国分寺駅北口風景の激変と変らぬ店たち

国分寺まで行きました。
おじさんの自転車散歩コースの一つです。
野川公園、武蔵野公園、府中運転試験場、小金井を抜けてゆきます。

野川公園から運転試験場までの道

国際基督教大学というところがあります。
中島飛行機製作所(現富士重工)の跡地に戦後作られた大学で、ゴルフ場まである広大な敷地を有していました。
そのゴルフ場が野川公園という公園になっています。

おじさんは公園の前を自転車で走ります。
西武線が高架で横切ると、公園は武蔵野公園と名を変えます。公園が途切れると府中運転試験場があります。
都内では鮫洲と並ぶ2大運転試験場として君臨しています。おじさんも免許更新のたびに通っています。
試験場の向かいには広大な多磨霊園が広がっています。
試験場の横には閉店した食堂が残っていたりします。

小金井市内を抜けます。
カンデルというパン屋へ寄ります。
自宅の庭先に小屋を建て店にしています。
フランスで修業したという女性の職人が焼いています。
月水金のみの営業ですが、バケットは本格的です。
外がカリッとして中がもっちりしており、香ばしいパンです。

国分寺駅北口の激変

国分寺駅の北口です。
駅ビルからタワーマンションが建ちあがっています。
写真に写っているもの以外にもう一棟あります。
遅れてきた「バブルの塔」のようです。
バブル時代は30年以上前なので少々遅れすぎですが、今やっと武蔵野は国分寺の地にバブルが到達した、ということなのでしょう。

駅ビル構内にはこれでもかというくらいに食品スーパーなどの商店が立ち並んでいます。
贅を凝らした店店の前を通らないと駅の改札口にたどり着けない構造になっています。

衣食住と通勤をセットにして提供された商品を見ているようです。
少しでも時間を無駄にせず、仕事と消費に励むよう巨大資本に強制されているがごときです。

駅前は商店街がすっかり撤去され再開発中です。少し前までは旅館、果物屋、パチンコ屋などが軒を連ねていました。
この通りの左側も商店街でした。

駅前に残る食堂で昼飯

北口商店街の一角に残る食堂だるまやです。今のところ再開発の波が及んでいません。
マンションビルの一階なのでしばらく残るでしょう。

かつては昼時は満員でしたが、今日の客はほかに3組ほどでした。おじさんかつてこの食堂でカツカレーを注文し、その量と、カツの硬さに往生したことがありました。
今日はアジフライにします。
アジは大振り、ご飯も大量でした。素材と調理は相変わらず粗いながらも腹いっぱい。690円でした。
なお、揚げ物は粗かったものの、みそ汁と漬物には年季を感じました。

キッチンは高齢のおじさん一人とおばさん二人。
ホールはバイト風のお兄ちゃん一人でした。

駅周辺の変らぬ店たち

北口商店街にある古本屋です。
先代の女主人の時から国分寺に行くと顔を出しています。
先代の時はホームレス風の人も雑誌を持ち込んでくるような店で、話し好きの主人の人柄が偲ばれました。
今は若めのこれまた女主人に代わっています。
隣の団子屋が高齢の高齢で閉店したので、店を拡張するようでした。

音楽喫茶の田園です。ここの女主人は本物の高齢者で90歳近いのではないでしょうか?伝説の店です。
今日はまだ準備中。

国分寺など三多摩地区はうどんが名物。
うどん好きには有名店です。

ボクサーの輪島功一がオーナーの団子屋です。
今日は草とゴマを買いました。巻物類もおいしそうです。

北口の外れに残る建物。ホテルと食堂を兼ねています。
味の名店街といっても現在は食堂は一軒だけのようです。
ザ・昭和です。

西武国分寺線の旧改札口から延びる道はかつての国分寺駅前の雰囲気を残しています。
通りにある純喫茶です。
ちなみに西武線の改札口は新しい駅ビルに組み込まれており、この道は西武バスのターミナルへと続く道となっています。

南口に行きました。
駅ビルが巨大にそびえています。
ロータリーと放射状に走る道は国立の駅前に似ています。

中央線カルチャーと全共闘世代の終着駅・ほんやら胴です。
伝説過ぎて恐れ多く、全共闘世代より5歳ほど若い山小舎おじさんは、この店に入ったことはありません。

ほんやら胴の近くに新しい古本屋がありました。

帰りに三億円事件の現場を見る

三億円事件の現金強奪現場です。
府中刑務所の壁沿いの道路。
当時からあった歩道橋付近が現場とのこと。

向かいが小学校のグラウンドです。
事件当時は雨でしたが、晴れなら校庭から事件を目撃する目の数が多いことが予想されます。
本通りの府中街道にもすぐの地点です。

正門です。

人目の多い場所で起こった、荒っぽい事件だったことがわかります。
迷宮入りしたのは、解明できない、解明してはいけない、何か理由でもあったのでしょうか?

おじさんの食堂探訪VOL.6 神田お茶の水に昭和の東京を捜す

冬ばれの日。
気温12度と立春間近の陽気に誘われて、おじさんは久しぶりに電車で遠出。
東京は神田お茶の水界隈に、昭和の味と風景を捜してきました。

御茶ノ水駅と聖橋

JR御茶ノ水駅。
日大、明大、予備校などがひしめき合う学生の町。

聖橋から下を眺める。
立体交差する線路と外堀(神田川)。遠くに見えるアーチ形の鉄橋。
東京らしい風景です。

JR線と神田川にかかる橋は聖橋です。
名前の由来は橋を挟んで建つ二つの「聖」こと、湯島聖堂とニコライ堂の間の橋だからとの由。
江戸時代からの学問の中心地なのですね。

湯島聖堂は中国由来の儒学の日本総本山だったところ。
堂々たる中国建築が残っています。
屋根の魔除けは鳳凰と、トラでしょうか?一方、聖橋を挟んで南側にあるニコライ堂。
ハリストス正教会とのことで、同様の教会は函館にもあることを思い出しました。
ドーム型の屋根があたりを睥睨しています。

神田明神は江戸城の鬼門の守り神

江戸の総鎮守府として、江戸城の鬼門を固める神田明神。
当時の朝廷に反逆し、平定された平将門を祀り、その怨念を封じてもいる。
いわば、東京で最強のパワーを誇る神社。季節を問わず参拝客が引きも切らない。
御茶ノ水駅から聖橋を渡り、湯島聖堂を過ぎたあたり。
やがて秋葉原の空気の漂うかというあたりに鳥居が出現する。朱色の塗りも新しく、常ににメンテナンスされている社屋が、地方の古式豊かな神社に比して、ありがたみを減じてはいるものの、反面、都心で常に人が集まる場の、リアルタイムのパワーを存分に発揮している。

今日は2月とはいえ、拝殿に向かい並ぶ多くの人々の姿がった。
おじさんも、今年初めての参拝。家内安全のお札も買いました。やはりこの辺りは学問と縁の深い場所でした。

地元の中華食堂「やまだ」でチャーハンセット

昼食はおじさんお気に入りの食堂にします。
御茶ノ水駅から徒歩3分。やまだ食堂です。
土曜にもかかわらず満員。といっても席は20程です。

ラーメンを中心に中華定食が主なメニュー。
ラーメンは昔ながらの東京風。麺に歯ごたえがあります。
チャーハンは、今どきの「ご飯粒に油がコーテイングされた」パラパラしたものとは違い、お米のでんぷんの味が残る和風のもの。
今の若者が食べたら、なんだこれ?と思うかもしれない手作り感。
かつての家庭のチャーハンはこんな味でした。
量はたっぷりあります。670円。サービスは純日本人のおばちゃんによるもの。
客さばきもテンポよく。安心していただけます。

おじさん行きつけの理髪店です。高齢のおばちゃんが、たっぷり時間をかけて丁寧に刈ってくれます。ここで一回刈ってもらうと、3か月は無理も、2か月髪が持ちます。
1800円。駿河台下交差点付近にあります。

東京ローカル路線バスの旅VOL.3 調布から八王子を目指す

大寒も過ぎ立春はいまだしのころ、夕方から雪の予報の東京地方。
1月最終日です。朝から思いっきり凍えています。
東京ローカル路線バスの旅、新宿がだめなら八王子があるさの巻です。果たして結末は。

調布~西武線多磨間(京王バス)

朝の調布駅前。
バスは北口と南口に分かれて発車しています。
案内板を見ると、北口からはJRの三鷹、武蔵境方面へ、南口からは小田急線方面への路線が多いようです。
最長距離では、小田急線の柿生までの路線がありました。

八王子方面へは・・・、西武是政線の多磨駅までが西へ最長の路線のようです。
多磨からはコミュニテイバスが府中駅まで行くのを知っていたおじさん、まずは多磨駅へ向かいました。

多磨~府中へ(ちゅうバス)

多磨駅前の風景です。
西武線の改札口とは地下通路でつながっています。
多磨墓地が近いので石屋さんが駅前にありました。1時間に2本のコミュニテイバスがやってきました。
料金は100円均一です。
途中、白糸台団地などによって乗客を拾ってゆきます。
ミニバスは満員になって府中駅に到着しました。

府中~国立へ(小田急バス)

駅の立体通路下に広がる府中駅のバスターミナルは巨大です。
いつ来ても案内板と、乗車場所が一致しません。
国立駅行きが八王子方面の最長区間と分かりましたが、案の定、乗り場を間違え、目的のバスには発車寸前で飛び乗る始末でした。国立は三多摩地区随一の文教地区といわれています。
一橋大学を筆頭に、三多摩地区で偏差値一番の都立国立高校などがあります。
駅から放射状に広がる道路。
駅名の由来は、国分寺と立川の間にあるから、とのことも含めて、計画的な街づくりの意図を感じることができます。

おじさんの国立に対する印象は、住宅地でも路駐をすると直ちに通報されるという経験を持ち出すまでもなく、住民の意識の高さです。
山口百恵さんも住んでますしね。住宅もリッチな感じがしました。

国立~立川(立川バス)

国立では駅前のバス案内図を見るまでもなく、立川行きの便が停車しているのが目に入りました。乗ります。

立川という町は、陸軍飛行場が米軍に接収されてからの基地の街のイメージでしょうか。
基地、歓楽街、ギャンブル(競輪場)という必要悪の3点セットを有する、三多摩地区では珍しい町です。
ちなみに隣の国立には3点セットのいずれもが存在しません。

今は、米軍が撤退し、駅近くから広がる広大な基地跡には、首都機能のバックアップを行う建物が林立しています。
また、駅前はかつての擦れた場末の街のイメージも一新した巨大駅ビルが建ち立体通路が結んでいます。
モノレールまでが走るさまは文字通りの近未来図です。

立川~日野(京王バス)

立川にも巨大なバスターミナルが展開しています。
西武バス、立川バスなどが運行するそれらの路線は、主に北方向へむかい、東村山、東大和、拝島など西武線方面との連絡となっています。迷子になりかかったおじさんは、立川バスの案内所で聞きました。
八王子までの路線はない、京王バスの停留所から日野方面があるかもしれない、とのこと。
おばさんの言うとおりに、ありました、日野行きが。
待ち時間は15分。

コンビニでおにぎりセットなどを買い車中で昼飯です。

車窓越しに近未来・立川駅前の光景が流れてゆきます。

日野~八王子(京王バス)

日野駅に着きました。
同じJRの駅でも立川が必要以上にギラギラしているのに対し、悪夢から覚めたように落ち着いた本来の姿を見せている日野駅前。

地元出身の新選組、土方歳三で町おこしです。あった、ありました八王子行きが。
これで無事、目的達成です。バスは堂々と国道20号線を驀進。
日野自動車やコニカミノルタなどの工場に寄りながら八王子駅に到着しました。
東京ローカル路線バスの旅の企画3回目にして初の成功です。万歳。

八王子点描

八王子は三多摩地区のどん詰まり。
甲州街道小仏の関のふもとの町です。
都心より2,3度気温が低いのが特徴。

町の雰囲気はのんびりしています。
おじさんには落ち着きます。かつては繊維で栄えた町、花街の名残があります。
芸者さんもでもいるとのことです。

おじさんのような庶民が飲むところはこういった店。

おじさんが八王子に来たら必ず寄るのは、餅と団子の伊勢屋本店です。
古本の佐藤書店も元気です。

500円でカツどんがっつり食える食堂。子供お断りの張り紙はなくなってました。

おじさん用の廉価な衣料はここで調達。冬ものシャツが2000円以下で買える店です。

帰りは京王線特急で調布に帰りました。