おじさんの東京徒歩散歩VOL.3 秋葉原から上野を歩いてみる

春めいてきた東京。
梅も散って、桜の開花待ちのころとなっています。
三寒四温の季節。
初夏のような陽気もあれば、冬のような冷たい雨が降る日もあります。
ということで、おじさんは東京らしい場所、秋葉原から上野へ出かけてきました。

出発はお茶の水。お濠と鉄橋の風景

秋葉原近くの万世橋から見たお濠の風景。
鉄橋をJR総武線が渡り、水面をモーターボートが走っています。
こういった水と鉄道の風景は、水利に恵まれ、鉄道網が発達した、東京らしい景色だと思うのです。

肉の万世の本店?というか発祥の地です。

お宅の街秋葉原にはアンテナショップが集う

土曜日の秋葉原です。
外国人も多くにぎわっています。
メイド喫茶の呼び込みが女性客と話しています。
AKB劇場。

高架線下には全国の名物を集めた物産館があります。
おじさんは石川県の特産の「いしり」(イワシなどの魚醤。汁物の味付け、和食の隠し味に絶品の効果!)と北海道産の富良野JA中濃ソースを買いました。

また、同じく高架下には、職人のショップが並んでいます。皮製品、帆布、木製品などのショップです。
今どき珍しいちゃぶ台が売ってました。

東上野のコリアンタウン(別名キムチ横丁)

秋葉原から昭和通りを東にわたり、台東区に入ります。
台東区内を北上して上野方面へ向かいます。

たい焼き屋さんによってお土産用に4匹買います。
ひとつづつ手焼きするたい焼きで、話好きなお兄さんが焼いています。
小ぶりなタイプですがあんこがうまい。一匹110円です。

東上野に残るコリアンタウンと呼ばれる場所です。
通称キムチ横丁です。
コリアンタウンと呼ばれる場所は、川崎の産業道路沿いにもあります。
今もっとも有名なコリアンタウンは大久保界隈です。

川崎は新装開店の焼き肉屋街、といった風情で、大久保はご存知韓流にはまった日本女性の御用達、といった感じですが、ここ上野のコリアンタウン、通称キムチ横丁は、戦後に「三国人」といわれた旧朝鮮人たちが作った闇市の名残をとどめているようにも見えます。

2,3区画にわたってキムチ屋、肉屋、焼き肉屋などが店を構えています。
そのうちの一角には飲み屋の路地があります。
同じく闇市由来の場所とはいえ、おしゃれに再開発されてゆく吉祥寺のハモニカ横丁などとは違い、廃れ、さびれた匂いがします。

これが旧朝鮮人街の性、業というものなのか、それとも単に時代に取り残されているだけなのか。
いずれは再開発され、周りの同化してゆく運命なのでしょうか?

上野アメ横は国際的にお祭り騒ぎ

闇市といえば上野です。
上野駅から御徒町駅の間に広がるアメ横と呼ばれる地域は、新橋や新宿、渋谷と並ぶ巨大闇市でした。

渋谷、新宿は再開発が進み、闇市の名残は一部の飲み屋横丁を除きなくなりました。
新橋は闇市がそっくりそのまま駅前のビルに収容されました。
上野は闇市由来の路面店が残ったまま今に至っています。

周辺部の商店街以外で対面販売オンリーのアナログな景色が広がる稀有な場所です。
それは、東京における東日本からの玄関口、上野の特殊性によるものなのか、それとも背後に構える浅草を中心とした下町の情念のなせる業なのでしょうか。

楽市楽座から始まったであろう、日本の小売商売の原風景のように広がるアメ横。
おじさんが歩いた日、歩く人は中国人、韓国人が3割、その他外国人が1割ほどのイメージ。
現在のアメ横は極めて観光地化されています。
中国人向けに鯉などを売っている魚屋、朝鮮語で客引きをする店員なども見られます。

国際化もインバウンドもいいのですが、日本がこれからどうなってゆくのか、近未来を予感させるような風景ではあります。
移民政策も始まります。

調布市内の谷戸(深大寺、佐須地区)の風景

春の一日。
おじさんは自転車に乗って自宅に近い谷戸の風景をたずねました。

国分寺崖線と調布(深大寺、佐須地域)の谷戸

多摩川の河岸段丘が調布市内に2段残っている。
2段目の段丘は、国分寺崖線と呼ばれる。
国分寺駅前の殿ヶ谷戸公園内の湧き水に端を発する野川が、崖線に沿って走っている。

調布の深大寺、佐須地域には、その国分寺崖線から、野川方面に谷戸の地形が形作られている場所がある。

扇央部分は、都立農業高校の農園となっており、湧き水を利用した実習わさび田が残る。

扇端へ向かう切通しの部分は公園、キャンプ場として自然が残り、扇端に至って田畑が広がっている。住宅が迫る中、23区外とはいえ、東京では貴重な風景だ。

おじさんが結婚した30年前から10年ほど、この深大寺、佐須谷戸地域のすぐわきに住んでいた。
谷戸の風景は、30年前から基本的に変わっていない。
初夏になると当時小さかった子供と、田んぼでギンヤンマを追いかけ、用水路に浸かってザリガニ、ドジョウをすくった。

その昔、中央自動車道が、国分寺崖線を斜めに切り裂いて、谷戸の一部を崩壊させる前は、子供が泳げる池ができるほどの湧き水の水量があったらしい。

谷戸の扇端には都立農業高校の農園。
内部は武蔵野の原生林に近い風景が残る。
実習わさび田。
流れ出る湧き水。

崖線の上にも畑が残る。
農家の敷地に残る欅の巨木。

途中の切通しは、公園、キャンプ場として整備されているが普段は人気に乏しい。

ホタル園ではホタルの幼虫を移植してきて6月にホタル観賞会が開かれる。

切通しを下る道は、「引きずり坂」と呼ばれる。
村の娘を蛇が引きずって行ったという伝説が残る。

扇端は、田んぼと畑がまとまって残っている。

用水路の取り入れ口。
清流を好むホトケドジョウが生息する。

地域住民が耕している田んぼがある

谷戸の先端に近い場所にあるこの田んぼは100坪ほど。
近くの農家の所有だが、ここ20年以上、市内の任意団体が、この田んぼを舞台に米作りをしている。
その団体とは、野川で遊ぶ街づくりの会だ。

会長のo氏は現在65歳。
実はおじさんも20年前から数年間、田んぼづくりに参加していた。

農家に耕運機を借り、苗代づくりの指導を受け、近くの農家から「くろつけ」の仕方をまねした。

田植えは子供らを動員し、稲穂が垂れると案山子を作り、稲刈り後はハザをかけ、農家の納屋から年代物の脱穀機を引っ張り出し、モーターを回して脱穀した。

11月23日の勤労感謝の日には、新嘗祭として餅つきした。

おじさんは数年後、やめてしまったが、会と田んぼづくりはo氏を中心に活動を続けている。

調布市の保全計画

野川で遊ぶ街づくりの会が活動する田んぼを含むこの谷戸地域が調布市による環境保全計画の対象となっている。

扇央の部分は農業高校の農園として、切通しの部分は、ホタル園や円、キャンプ場としてすでに保全されているので、主に扇端に向けて広がる農地が保全の対象となっている。

しかも、所有者が相続などで手放すことになった農地を調布市が購入するということになり、すでに1か所、1反歩ほどを購入済みといいうのだから画期的だ。

おじさんは何年ぶりかでo氏に田んぼでばったり会うまでそういった事情を知らなかった。

ただし、購入済みの農地及び今後購入してゆく農地についての、具体的保全方法については、その方策も、保全する主体も未定とのこと。

野川で遊ぶ街づくりの会のような団体が保全主体として、文化としての田んぼの保全に一役買ってゆけるのか?
それとも、よくある農業公園のように、一見、環境保全されているようで実は魂の入っていない「かつて農地、実は空き地」になってしまうのか?

各地に行政と市民が一体となった景観保全活動があるので参考とし、調布独自の観点も維持したスタイルで景観が保全されることを望みたいものだ。

おじさんとしてはかつてご縁があったよしみで、長野の農的生活と調布の田んぼづくりがささやかにコラボでもできたらなと思うのです。

 

おじさんの東京徒歩散歩VOL.2 浅草から三ノ輪まで

東京は桜開花予報が3月20日だそうです。
小春日和の一日、おじさんは久しぶりに浅草まで遠出しました。

浅草界隈は外国人だらけでした

地下鉄浅草駅の出口です。
駅構内からすでに外国人だらけです。
中国人の家族連れが多い印象です。
白人の夫婦連れもいます。

雷門の下は外国の街角のような匂いがしました。
仲見世通りには着物を着た女性もちらほら。
よく見ると中国人の若い女性が着物を着て歩いていました。

仲見世通りの裏手です。

てんぷらの大黒屋。まだ客が並んでいません。

通称ホッピー通り。
アジア系の女性が客引きしています。

花やしきの入り口です。

六区興行街。左手が場外馬券売り場、右手がかつて浅草名画座など映画館3軒があった場所。

ひさご通り。
ここまでくると外国人、特に中国人はいなくなり人通りはがたっと減ります。

千束通りから山谷へ

浅草を北に抜けた千束通りです。
外国人も観光客もいません。
地元の人がたまに通ってゆきます。

おじさんはこの通りの団子屋で、お土産の桜餅を買い、団子1本をおやつに食べました。
団子は弾力がありうまかったです。

土手通りのてんぷらや伊勢屋です。
天丼を昼ごはんに食べました。
豪勢なてんぷらで、ごはんの盛りもよい。いつも混んでいます。

隣は桜肉(馬肉)の鍋屋さん。
土手通りの向かい側は、日本最大の遊郭・吉原がありました。

並びの肉屋には馬油が売っていました。

いろは商店街。通称、あしたのジョー商店街です。
アーケードが2017年3月に撤去されたそうですっきりしました。
店舗数も増えたような気がします。

あしたのジョーが出てきそうな、家々の間からスカイツリーが見えます。

商店街を過ぎると山谷です。
山谷は、大阪の釜ヶ崎(西成)、横浜の寿町と並ぶ日本三大ドヤ街と呼ばれていました。

おじさんは前職で野菜の配送をしていた30年前、毎週木曜日に山谷の消費者グループに野菜を配送していました。
ドヤの住人が路上で焚火をしていたり、昼間から屋台のようなところで飲んでいるのは当たり前でした。
その当時、労働者の立場で山谷の記録映画を作っていた人が、この辺りをシマとするやくざ組員に刺殺されたことがあり、現場には花が供えられていました。

当時の通称山谷交番は鉄柵に守られた要塞のようでした。
記録映画製作者を刺したやくざは、まっすぐ交番に駆け込んだそうです。
やくざも交番が労働者の味方ではなく、むしろ自分たちの味方であることをわかっていました。

今は山谷の人口が減り、また高齢化しています。
歩いていて怖さを感じることも少なくなりました。
住宅や商店とドヤが共存する町、山谷。
祖国日本の将来を身をもって表すがごとく、静かに衰退していっています。

泪橋ホールというスペースがありました。
映画を見ながら食事ができるようです。

ドヤが並んでします。

公立の労働センターです。

キリスト教が運営する支援施設もありました。

三ノ輪、南千住の商店街と歴史

山谷を抜けて三ノ輪へ向かいます。
目黄不動尊。五色不動尊の一つ。目黒が地名になり有名です。

都電荒川線の終点駅への通路。
少し前までは新聞屋がありおばあさんが座っていました。

ジョイフル三ノ輪商店街。

漬物屋。名物の店主が自分で漬けています。

総菜屋。品目が多くて安い。

床屋。カット950円。下町プライスです。

都電の駅。いつの間にかモダンな車両になっています。

南千住駅へ向かうと、小塚原回向院というお寺があります。江戸時代の刑場があった場所です。

江戸周辺の刑場は東海道の鈴ヶ森、甲州街道の大和田などがありますが、日光街道筋のここ小塚原が一番有名なのでは。

杉田玄白が、ここで刑死者を腑分けを見学し、解体新書の翻訳に着手したきっかけとした、とあります。

鼠小僧や高橋お伝の墓もあります。

驚いたのはカール・ゴッチの真新しい墓があったこと。
それも一般のエリアではなく、歴史遺産エリアに建っていました。
伝説のプロレスラー・ゴッチは最大の理解者・日本において死んで直ちに歴史遺産となったようです。

回向院の隣にある、首切り地蔵。
東日本震災の際に左腕が脱落したそうです。
我が身を犠牲に自然の怒りを多少でも鎮めてくれたのかもしれません。

三ノ輪に戻り、浄閑寺を見学しました。
吉原の遊女の投げ込み寺といわれたお寺です。
おきてを破った遊女が投げ込まれたほか、関東大震災や東京大空襲で横死した遊女を弔ったとのと。

遊女を祀る新吉原総霊塔。

東京の下町は歴史があり、その蓄積が濃い場所でした。
食べ物もおいしかったです。

おじさんの東京自転車散歩VOL.7 多摩川サイクリングロード

多摩川サイクリングロードをママチャリでサイクリング。
立川まで行きました。
朝方は冬の寒さも、途中で春の陽気に恵まれ暖かい道中でした。

多摩川原橋から府中の景色

鶴川街道のたもと、多摩川原橋から土手のサイクリングロードを走りました。

上流から見て左岸、東京側を西に向かって走ります。

平日なので散歩する人も自転車の人も少ない日でした。
かつてのサイクリングブーム?のころは、休日ともなると、競技用自転車の集団が猛スピードで走り抜け、歩行者などとの事故現場も散見されましたが、ブームが落ち着いたのか、事故の危険性?からか、最近はヘルメット姿の自転車集団はあまり見かけなくなりました。

是政橋のたもとにつきました。
河川敷のグラウンドでは草野球をやっていました。

ここはその昔、是政の渡し船があったところです。

五本松という名所を通過。
その昔、甲州街道で行倒れていた甲州商人を助けたところ、恩返しに植えられた松が育って街道の名物になったという場所です。

河川敷は野球、サッカーなどのグラウンドに利用されています。

関戸橋のふもとを通過。
京王線の鉄橋です。
対岸に聖蹟桜ヶ丘の街が見えます。

読売新聞の工場が府中中河原にありました。

キューピーマヨネーズ工場も調布仙川から府中中河原に移転していました。

日野橋です。
橋を渡れば日野市。手前に戻れば立川市です。

立川という町

立川には戦時中まで陸軍飛行場があった。
戦後、米軍に接収され、立川基地となった。

今は返還され、基地機能は横田基地に移転吸収されたが、ベトナム戦争時代まで、立川のイメージは基地の町だった。
その時代、基地の拡張に伴い反対する周辺農民との間で紛争が起き、地名にちなみ砂川闘争と呼ばれた。

おじさんが知っている頃(30年前)には、まだ滑走路があり、プロペラ機が飛んでいた。

今、跡地は広大な公園(昭和記念公園)のほか、商業施設,首都補完施設(災害時などの首都移転のため)が建っている。

近々は、駅前の再開発などにより、近未来的な発達を遂げている立川だが、おじさんより上の年代のものには、立川=基地のイメージが濃い。

駅からほど近い通り、シネマストリート。
駅周辺の喧騒が嘘のように人気が少ない。
陸軍基地時代以来の歓楽街とだった場所。
映画館があったり、昭和33年までは赤線もあった。
米軍基地時代にはGI相手のバーが軒を連ねていたと思われる。

今ではその面影を捜すのが難しい。
一般の商店が残っていたが、今ではほとんど消えてしまっている。
いずれ町ごと再開発されるのだろうか?

中心部から徒歩圏内に競輪場がある。
立川のもともとの擦れたイメージを今に残す場所の一つだ。

今は住宅地に埋もれるようにして存在するが、かつては駅から北東方面に遠望でき、「ラスト1周」の鐘の音が物悲しくあたりに響いていたのかもしれない。

通称「立川陸事」と呼ばれる、多摩ナンバー車両の登録検査事務所。
実は立川をぎりぎり外れた国立にあるが、なぜか立川陸事と呼ばれている。

久々の自転車遠乗りにおじさんのお尻が痛くなった早春の一日でした。

 

 

おじさんの食堂探訪VOL.9 中島飛行機とICUと松浦武四郎

今日は春の陽気です。
昨日は久しぶりの降雨。
今日の気温は18度の予報です。
おじさんは春風と花粉に乗って食堂探訪へと旅立ちました。

中島飛行機製作所跡地のSUBARU

三鷹のスバル工場です。
かつての中島製作所の武蔵野研究所の跡地に建ちます。
中島製作所(のちの富士重工)は日本の航空産業の草分けで、陸軍に採用された隼とその後継機・疾風、また一式陸攻などの有名軍用機を開発しました。

ゼロ戦を開発した三菱と並ぶ、国内航空機メーカーの2大看板です。
そもそも日本にはこれまで(現在も)数社しか航空機を作れるメーカーはなく、同社の格と力量がわかろうというものです。

敗戦後、日本の軍需産業(及び関連するメーカー)、研究所は解体もしくは分割されました。
中島製作所は12の会社に分割されたとのこと。
三菱重工が3分割、それも業種ごとの分割ではなく、地域ごとの会社分割で、案の定すぐに再統合したのと比べると、中島製作所の扱いは厳重といわざるを得ません。
進駐軍の同社に対する「本気度」がわかろうというものです。

三菱への対応とに明らかな差があるのは、明治維新前から三菱のバックに外資がついているのも理由の一つでしょうが、進駐軍が中島製作所の能力を恐れていたからではないでしょうか。

中島製作所の主力工場は群馬(今のスバル太田工場)にありましたが、研究所が武蔵野(現三鷹市)にありました。
そこの跡地に、富士重工時代を経て現スバルとして会社が残っています。
少し前までは工場だけが建っていましたが、今はショウルームも併設しています。

中島製作所跡地の外側を巡る

中島飛行機武蔵野研究所の敷地は戦後、ICU(国際基督教大学)となりました。
ICUの設立が1953年だそうですから、戦後8年たっています。
その間、中島製作所は、進駐軍に接収されています。
中島製作所の後継会社・富士重工の敷地は全体の1/5程に縮小されました。

正門からの一本道とロータリー、それに続く研究所本館の建物は、製作所時代のまま残され、本館はICUの本部になりました。
国分寺崖線のハケの下の地域は、進駐軍のゴルフ場となりました。

おじさんは、旧中島飛行機の敷地外側を自転車で回ってみました。
スバルの工場の外塀を過ぎると、ゴルフ場として進駐軍に使われていた場所が、都立野川公園として開放されています。

やがて、敷地は住宅地と接してきました。
敷地の北側には、中近東文化センター、ルーテル大学などがあります。
これらも中島製作所の敷地でした。

ICU構内に残る松浦武四郎の遺産

この辺り、国分寺崖線のハケの地形で、日当たりと湧き水に恵まれています。
縄文遺跡が多数見つかっています。
大学構内に博物館があり、土器などが展示されています。

この博物館の展示品の中に、蝦夷地や樺太の探検で有名な松浦武四郎が晩年建てた、一畳敷という一室のレプリカがあります。
松浦が探検を終え、晩年を日本で過ごす際に建てたという一室で、文字通り畳一畳の広さの小屋です。

独力で蝦夷地と樺太の地図を測量したという孤高の探検家が達した境地なのでしょうか。
起きて半畳寝て一畳といいますから。

その室が時代を経て中島飛行機の経営者の手に渡り、この地に移築されたとのこと。
泰山荘という建物群の一棟として保存されているそうです。
よくICUは壊して薪にせず残してくれたものです。
実物を見ようと泰山荘の中を捜しましたが、一畳敷については、関係者以外は立ち入り禁止とのことで、見ることができませんでした。残念。

ICU学食でタレカツどん

昼食はICUの学食へ。
タレカツどん。380円。
味は、国立系のCOOP食堂よりも良かった。量もたっぷり。

何よりも食堂が広いのがいい。
電通大の食堂の数倍はあろうという広さ。
若い学生たちがうれしそうに集っている。

ICUのイメージとしては英語が飛び交うアメリカンなカレッジライフだが、実際は大多数が日本人の学生で、のんびりと育ちのよさそうな雰囲気の学生が多いような感じがした。

ICU。
桜並木が続くエントランスと軍用機製作所の建物を本部とする進駐軍が作った大学。
日本の戦争時代と占領時代が見事にクロスしています。
学生たちの明るさがすべてを解決してくれそう?な気がしました。

梅がほころび始めた武蔵野の早春のことでした。
お粗末。

おじさんの徒歩散歩VOL.1 早春の西東京を歩く

今日はぽかぽか陽気でした。
おじさんは用事の帰り、陽気につられて、西東京市の旧保谷エリアを散歩しました。

フラワー通り商店街

西東京市の谷戸というエリアから泉町方面にかけて、住宅街の細い道沿いに、フラワー商店街という通りがあります。
庶民のにおいがする街の風景が大好きなおじさんは、さっそくその商店街へ行きました。車のすれ違いが困難なほどの道幅。
店の並びもまばらで、大規模店などは全くありません。
八百屋、電機屋などがぽつぽつと開いています。
街灯にフラワー通りという看板がついていなければ商店街なのか、住宅街なのか、一見してわからないほどです。

ギリギリ、商店街としての体裁が維持された風景で、おじさん、嫌いなシチュエーションではありません。

商店街の一角で和菓子と海苔巻きを商っている、明治屋という店がありました。
かつて家人がここで買ってきた、草餅がおいしかったから、おじさんはこの店へ寄りました。

餅の歯ごたえがいい草餅や桜餅、まんじゅうなどのほか、海苔巻き弁当も並んでいました。
おじさんは、草餅と桜餅を2個づつ買いました。

桜餅は、皮であんこを巻いた関東スタイルのものです。
おじさんの出身地では、半搗きの餅米であんこを包む、いわゆる道明寺が桜餅と呼ばれていました。
そのせいか、今でも関東スタイルの桜餅への違和感が消えませんが、郷にいれば、です。

商店街を過ぎたあたりに、岩船地蔵尊が2体祀られていました。
1700年ころ、このお地蔵さんを御輿に担ぎ、念仏踊りをした一団が現れる現象が起きたという。

後の、ええじゃないか現象につながる民衆のエネルギー発散の歴史の一幕なのだろうか。

庭先で実をつける夏みかん。
北国、雪国では見られない風景です。
武蔵野地方が温暖であることを象徴的に示しています。

冬に咲く椿は盛りを過ぎていました。

白梅が咲き始めていました。春間近です。

東伏見駅前の自然食糧店・美味

おじさんは谷戸から東伏見まで歩いてきた。
今日の目的の一つは、駅前の自然食店・美味を捜すこと。

おじさん、30年前は自然食関連業界で働いていた。
その時の同僚N氏に最近久しぶりに会ったのだが、会社OBの近況で、同時期に同じ会社で働いていたHさんという人が東伏見で自然食品店をやっていると聞いたのだった。

実はHさんの名を聞いても、おじさん思い出せなかった。ひょっとしたら本人を見て思い出せるかな?と、後学を兼ね、アポなし訪問をした次第だ。

店は元気に営業していた。
品揃えがよく、固定客がついていることがうかがえた。
営業37年目とのこと。Hさん本人は仕入れで不在だったが、奥さんが話を聞いて応対してくれた。
おじさんがHさんの顔を思い出せないというとアルバムまで出してくれた。同じ会社といっても、お互い別の事務所所属だったようだ。写真を見ると、永福の事務所にいた(おじさんは調布の事務所で配送の担当だった)真面目そうな人の記憶がかすかによみがえった。

おじさんのアドレスを印刷した、名刺代わりの紙を奥さんに託して辞した。
三年番茶を1本頂いた。
木で3年たった葉を焙じたもので、もともとは陰性の茶葉が陽性化しており、体を温めるとのことだった。

おじさんも自立に向け頑張ろうと思った。

おじさんの食堂探訪VOL.8 仙川にラーメン屋を訪ねる

東京の最高気温は6度だ。真冬の気温だ。
おじさんの住む調布は、都心より2,3度低いかもしれない。今日の食堂探訪は、地元調布の仙川というところにあるラーメン屋を訪ねた。

おじさんのラーメンの思い出

おじさんは北海道旭川出身だから、ラーメンには幼いころから馴染んでいる。
小学校に入る前、母親のお供で街に出た時の昼食はラーメンが多かった。

当時のラーメン屋では蜂谷という店しか思い出せない。
旭川の中心部にあり、まったく普通の食堂形式の店内は、常に客で混んでいた印象がある。

店員のおばさん(お姉さん)は「脂濃くしますか?」と聞いて来るのがお約束だった。
いつも、「普通」で頼んでいたが、もし「濃く」で頼むとしたら、スープにはどのくらいの脂の脂が浮いて出てきたのだろうか?

ラーメンは湯気も威勢よく、どんぶりの淵、ギリギリまでスープが注がれた状態で出てきた。
当時はそれが当たり前の味だったが、今思えば、鶏がらベースにかなり魚介系が効いた出汁で、中太麺の量も多く、食べ応えがあった。

そのころ旭川では、みそもとんこつもなく、ラーメンはしょうゆ味が普通だった。
おじさんは、当時の蜂谷のラーメンほどうまいラーメンを、それ以降食べたことがない。

仙川のしば田というラーメン屋へ

息子に教えてもらった仙川のラーメン屋へ行く。
あっさりした昔風の味で、行列店だとのこと。

若葉商店街というエリアの一角にあった。
平日の昼時を過ぎているのに行列があった。
7,8人なので並ぶ。
大行列だったら帰ろうと思っていた。

バス通りながら狭い道に面した店で、自転車の置き場もない。
黙々と並ぶ人達。
この孤立感は映画ファンにも共通するものがある。
同好の士ながら、話しかけられるのを恐れ、バリアを張り合っているようなところが似ているのだ。

最高気温6度の寒さには耐えうるものの、店の空調の屋外機からの冷気がまともに吹きかかる場所に列が進んだときには若干虚無的な心境になったが我慢。

やがて店内へ。
カウンターのみの8席ほど。
メニューは中華麺普通と煮干し味の二通りのようだ。
中華麺を頼む。850円。
話に聞いていた通りのあっさりしょうゆ味。
しょうゆの効いたスープの色、脂の浮き具合もいい。
あとはもうちょっと出汁の味がつよければ・・・。

最近はやりのとんこつ系の脂ぎった感じよりは数段好みの味だった。
自家製風のチャーシュウが、がっちり3枚乗っていたのもボポイント。
昔風か?と言われれば、コンセプトはそうに違いないが、という感じ。
現代のラーメンとしてこれはこれでいいのではないか。
飽きの来ないラーメンらしいラーメンだった。

おじさんの食堂探訪VOL.7 国分寺駅北口風景の激変と変らぬ店たち

国分寺まで行きました。
おじさんの自転車散歩コースの一つです。
野川公園、武蔵野公園、府中運転試験場、小金井を抜けてゆきます。

野川公園から運転試験場までの道

国際基督教大学というところがあります。
中島飛行機製作所(現富士重工)の跡地に戦後作られた大学で、ゴルフ場まである広大な敷地を有していました。
そのゴルフ場が野川公園という公園になっています。

おじさんは公園の前を自転車で走ります。
西武線が高架で横切ると、公園は武蔵野公園と名を変えます。公園が途切れると府中運転試験場があります。
都内では鮫洲と並ぶ2大運転試験場として君臨しています。おじさんも免許更新のたびに通っています。
試験場の向かいには広大な多磨霊園が広がっています。
試験場の横には閉店した食堂が残っていたりします。

小金井市内を抜けます。
カンデルというパン屋へ寄ります。
自宅の庭先に小屋を建て店にしています。
フランスで修業したという女性の職人が焼いています。
月水金のみの営業ですが、バケットは本格的です。
外がカリッとして中がもっちりしており、香ばしいパンです。

国分寺駅北口の激変

国分寺駅の北口です。
駅ビルからタワーマンションが建ちあがっています。
写真に写っているもの以外にもう一棟あります。
遅れてきた「バブルの塔」のようです。
バブル時代は30年以上前なので少々遅れすぎですが、今やっと武蔵野は国分寺の地にバブルが到達した、ということなのでしょう。

駅ビル構内にはこれでもかというくらいに食品スーパーなどの商店が立ち並んでいます。
贅を凝らした店店の前を通らないと駅の改札口にたどり着けない構造になっています。

衣食住と通勤をセットにして提供された商品を見ているようです。
少しでも時間を無駄にせず、仕事と消費に励むよう巨大資本に強制されているがごときです。

駅前は商店街がすっかり撤去され再開発中です。少し前までは旅館、果物屋、パチンコ屋などが軒を連ねていました。
この通りの左側も商店街でした。

駅前に残る食堂で昼飯

北口商店街の一角に残る食堂だるまやです。今のところ再開発の波が及んでいません。
マンションビルの一階なのでしばらく残るでしょう。

かつては昼時は満員でしたが、今日の客はほかに3組ほどでした。おじさんかつてこの食堂でカツカレーを注文し、その量と、カツの硬さに往生したことがありました。
今日はアジフライにします。
アジは大振り、ご飯も大量でした。素材と調理は相変わらず粗いながらも腹いっぱい。690円でした。
なお、揚げ物は粗かったものの、みそ汁と漬物には年季を感じました。

キッチンは高齢のおじさん一人とおばさん二人。
ホールはバイト風のお兄ちゃん一人でした。

駅周辺の変らぬ店たち

北口商店街にある古本屋です。
先代の女主人の時から国分寺に行くと顔を出しています。
先代の時はホームレス風の人も雑誌を持ち込んでくるような店で、話し好きの主人の人柄が偲ばれました。
今は若めのこれまた女主人に代わっています。
隣の団子屋が高齢の高齢で閉店したので、店を拡張するようでした。

音楽喫茶の田園です。ここの女主人は本物の高齢者で90歳近いのではないでしょうか?伝説の店です。
今日はまだ準備中。

国分寺など三多摩地区はうどんが名物。
うどん好きには有名店です。

ボクサーの輪島功一がオーナーの団子屋です。
今日は草とゴマを買いました。巻物類もおいしそうです。

北口の外れに残る建物。ホテルと食堂を兼ねています。
味の名店街といっても現在は食堂は一軒だけのようです。
ザ・昭和です。

西武国分寺線の旧改札口から延びる道はかつての国分寺駅前の雰囲気を残しています。
通りにある純喫茶です。
ちなみに西武線の改札口は新しい駅ビルに組み込まれており、この道は西武バスのターミナルへと続く道となっています。

南口に行きました。
駅ビルが巨大にそびえています。
ロータリーと放射状に走る道は国立の駅前に似ています。

中央線カルチャーと全共闘世代の終着駅・ほんやら胴です。
伝説過ぎて恐れ多く、全共闘世代より5歳ほど若い山小舎おじさんは、この店に入ったことはありません。

ほんやら胴の近くに新しい古本屋がありました。

帰りに三億円事件の現場を見る

三億円事件の現金強奪現場です。
府中刑務所の壁沿いの道路。
当時からあった歩道橋付近が現場とのこと。

向かいが小学校のグラウンドです。
事件当時は雨でしたが、晴れなら校庭から事件を目撃する目の数が多いことが予想されます。
本通りの府中街道にもすぐの地点です。

正門です。

人目の多い場所で起こった、荒っぽい事件だったことがわかります。
迷宮入りしたのは、解明できない、解明してはいけない、何か理由でもあったのでしょうか?

おじさんの食堂探訪VOL.6 神田お茶の水に昭和の東京を捜す

冬ばれの日。
気温12度と立春間近の陽気に誘われて、おじさんは久しぶりに電車で遠出。
東京は神田お茶の水界隈に、昭和の味と風景を捜してきました。

御茶ノ水駅と聖橋

JR御茶ノ水駅。
日大、明大、予備校などがひしめき合う学生の町。

聖橋から下を眺める。
立体交差する線路と外堀(神田川)。遠くに見えるアーチ形の鉄橋。
東京らしい風景です。

JR線と神田川にかかる橋は聖橋です。
名前の由来は橋を挟んで建つ二つの「聖」こと、湯島聖堂とニコライ堂の間の橋だからとの由。
江戸時代からの学問の中心地なのですね。

湯島聖堂は中国由来の儒学の日本総本山だったところ。
堂々たる中国建築が残っています。
屋根の魔除けは鳳凰と、トラでしょうか?一方、聖橋を挟んで南側にあるニコライ堂。
ハリストス正教会とのことで、同様の教会は函館にもあることを思い出しました。
ドーム型の屋根があたりを睥睨しています。

神田明神は江戸城の鬼門の守り神

江戸の総鎮守府として、江戸城の鬼門を固める神田明神。
当時の朝廷に反逆し、平定された平将門を祀り、その怨念を封じてもいる。
いわば、東京で最強のパワーを誇る神社。季節を問わず参拝客が引きも切らない。
御茶ノ水駅から聖橋を渡り、湯島聖堂を過ぎたあたり。
やがて秋葉原の空気の漂うかというあたりに鳥居が出現する。朱色の塗りも新しく、常ににメンテナンスされている社屋が、地方の古式豊かな神社に比して、ありがたみを減じてはいるものの、反面、都心で常に人が集まる場の、リアルタイムのパワーを存分に発揮している。

今日は2月とはいえ、拝殿に向かい並ぶ多くの人々の姿がった。
おじさんも、今年初めての参拝。家内安全のお札も買いました。やはりこの辺りは学問と縁の深い場所でした。

地元の中華食堂「やまだ」でチャーハンセット

昼食はおじさんお気に入りの食堂にします。
御茶ノ水駅から徒歩3分。やまだ食堂です。
土曜にもかかわらず満員。といっても席は20程です。

ラーメンを中心に中華定食が主なメニュー。
ラーメンは昔ながらの東京風。麺に歯ごたえがあります。
チャーハンは、今どきの「ご飯粒に油がコーテイングされた」パラパラしたものとは違い、お米のでんぷんの味が残る和風のもの。
今の若者が食べたら、なんだこれ?と思うかもしれない手作り感。
かつての家庭のチャーハンはこんな味でした。
量はたっぷりあります。670円。サービスは純日本人のおばちゃんによるもの。
客さばきもテンポよく。安心していただけます。

おじさん行きつけの理髪店です。高齢のおばちゃんが、たっぷり時間をかけて丁寧に刈ってくれます。ここで一回刈ってもらうと、3か月は無理も、2か月髪が持ちます。
1800円。駿河台下交差点付近にあります。

おじさんの食堂探訪VOL.5 旧甲州街道をゆき府中の市場で昼食

今日のおじさんは、自転車で調布から府中まで旧甲州街道沿いに行き、府中の卸売市場を目指しました。

旧甲州街道点描

国道20号線の旧道。
旧甲州街道は江戸五街道の一つ甲州街道のオリジナル路線を踏襲している道です。調布から自転車で府中を目指します。
まず最初に目に入るのがおそらく調布で唯一現存する火の見やぐら。しばらく行くとお寺の前庭に、近藤勇の座像もありました。

沿道でみられる家屋。
戦前の建築かもしれません。
古民家というほど古くはありません。
江戸時代からの建築は全く残っていませんが、100坪を超える広い敷地に建つ、古い民家は多く残っています。
街道沿いの民家は「リッチ」だったのでしょう。

塗り壁りの蔵です。軟石づくりの蔵もありました。

府中に入って、白糸台というところで西武鉄道是政線の踏切を渡ります。右手が武蔵境方面。左手が競艇場のある是政方面です。

府中の中心部に至るまで、江戸時代はおろか昭和の風景さえほとんど残されてはいませんでした。
「リッチな」場所は時代による変遷の具合も激しいのかもしれません。

人形店がありました、数少ない昭和の風景でした。。

武蔵八幡神社という神社。
参道を電車が横切る珍しい神社です。

府中の中心部に到着しました。高層マンションが立ち並ぶ都会です。

1000年の都、武蔵国府跡

府中のシンボル、大國魂神社横に、武蔵国府跡の資料館があります。1000年以上前、ここに武蔵野国の国府がありました。
武蔵国とは律令時代の日本の行政の一単位で、今の東京、埼玉、神奈川東部を合わせた地域。
そこの首都が現府中にあったのです。

ちなみに信濃国の国府は現在の上田でした。
国府の歴史を継いでいるのか、府中には税務署、刑務所などがあり、今でも一帯の行政の中心地でもあります。
競馬場、競艇場もありますが。

祝福された場所、大國魂神社

武蔵国一之宮にて、創建1500年を誇る大國魂神社。
京王線府中駅から徒歩5分。
府中のみならず、近隣のメルクマールとして存在している。

おじさんは調布在住なのでめったに来ないが、三多摩地方の住人として新年のあいさつに参拝。

境内に入って改めて思った。この場所は祝福されていると。

平日でも引きも切らぬ参拝客と、それを迎えてゆったりとほほ笑むかのような雰囲気。

これに比す場所は、近隣では深大寺くらいか。
改めて本殿に向かいこれまでの無事を感謝し、新年のあいさつをする。

そして大東京綜合卸売センターにて昼食

大國魂神社を超えて南下。競馬場を過ぎ、サントリービール工場の隣。
府中の卸売市場がある。
その名も大東京綜合卸売センターという。おじさん、昼食がてら食材を調達せんとやってきた。
今日の目的地です。まずは飯。
いろんな食堂がありました。
結局、立ち食い蕎麦屋で、もつ煮セットを注文。
立って食わずとも、近くの休憩所までも配膳してくれるのがうれしい。
おじさん、もつ煮と飯はともかく、うどんはこの半分の量でよかったがあっという間に平らげた。
もつ煮がうまかった。670円。

しかし、肝心の買い物は、魚屋が昼で片付け終わっていたので、魚が買えなかった。残念。
やむなく肉屋、八百屋を冷やかして歩く。
中華食品の専門店まであった。

場内は広く、調布の卸売センターとは比較にならないほどの規模。
魚を目指して再訪するか。