諏訪大社と神宮寺

下諏訪町にある町立諏訪湖博物館と諏訪市の諏訪市博物館がコラボして、「諏訪信仰と仏たち」という特別展示をしているので行って見た。

下諏訪町立諏訪湖博物館の「諏訪信仰と仏たち」のちらし

まずは諏訪湖畔に建つ、下諏訪町の町立諏訪湖博物館へ。
こちらは、地元出身のアララギ派の詩人、島木赤彦の記念館と併設した建物。

博物館の展示内容は、諏訪湖の遺跡や自然、漁業方や道具の展示解説がメイン。
今回の特別展は別室に展示されていた。

博物館前景
常設展示室

特別展移管しては撮影禁止だった。
内容は諏訪信仰の解説と、神仏習合時代に諏訪大社下社秋宮に隣接していた神宮寺についての解説。
下社神宮寺には三重塔まであったという。

秋宮の向かって右奥、今の駐車場の場所から奥に神宮寺はあったとのこと。

また展示内容として、諏訪信仰と切っても切れない鹿食などの肉食の習慣についての解説があった。
それによると、諏訪の神様というのは戦いの神で、武家からの信仰が厚かったため、武家が行う狩猟を仏教などの信仰に適合させるための方便として発達した、との解説だった。

後日、諏訪市博物館へも行って見た。

諏訪市博物館の「諏訪信仰と仏たち」ちらし
博物館前庭にある足湯

こちらも別室に特別展示を行っていた。

諏訪市にある上社本宮と茅野市の前宮の間に神宮寺が立ち並んでおり、門前町が栄えていたとのこと。
今は本宮に隣接する法華寺だけが旧神宮寺として残っているそうです。

長い神仏習合時代には、諏訪大社上社にも寺院や宿坊が存在したこと、明治維新後の神仏判然令により廃仏毀釈運動が起き、寺院が壊され、仏像が廃棄されたこと。
寺院は壊される前に測量して図面が残されており、仏像は別の寺院や神社に隠されたこともわかります。

図面により再現された上社神宮寺の五重塔の模型や、神宮寺の絵図などには歴史の重みを感じます。

ロビーに展示されている上社神宮寺五重塔模型

諏訪市博物館には常設展示物としいて、廃仏毀釈を免れた如来像などもあります。
また、諏訪信仰に対するこちらの博物館の解説のトーンとして、信仰の本質を単に戦の神様としてとらえるのではなく、もっと古い土着の信仰としてとらえているような気がします。
諏訪大社の上社と下社の歴史、風土の違いなのでしょうか?

レンタサイクルで諏訪湖一周

10月の秋晴れの日、自転車を借りて諏訪湖の秋を味わった。

下諏訪町の友の会がやっている無料駐車場が、国道20号線沿い、下諏訪駅と諏訪大社下社秋宮との間にある。
そこで、レンタサイクルも行っていて、電動自転車が1時間100円で借りられる。

下諏訪町友の会駐車場で自転車を借りる

朝10時半、自転車を借りて諏訪湖一周の旅へゴー。

下諏訪駅横の踏切を越え、諏訪湖方面へ走る。

下諏訪駅前にも御柱が立っていたが、町内のいろんなお宮にも小型の御柱が立っている。
諏訪は御柱とともにある町だ。

下諏訪駅前の御御柱
下諏訪の街角の御柱

諏訪湖畔に達する。

諏訪市から下諏訪、岡谷に至る諏訪湖畔は人出も多い。
天気が良いと、ランニングしたり散歩する人の姿が見られる。

湖畔のこのあたりは、サイクリング用と歩行者・ランナー用の道路が整備され、公園や駐車場、トイレも多く、ちょっとした運動や日光浴、気分転換に適したエリアだ。

諏訪湖畔に着くと足湯があった
木製のはしけ
ススキが穂を出していた

湖畔に接して、民家や学校などが続く、賑やかなエリアでもある。

諏訪湖の周りには温泉が多い。岡谷温泉
公園には人知れずSLの姿も。岡谷市にて
湖畔には公園が多い。紅葉も

やがて諏訪湖が天竜川となって流出する、釜口という場所につく。
水門があって、名物の赤い鉄橋が見える。
水門上の橋は自転車で通行することができる。

諏訪湖と天竜川では3メートル以上の水位の差があり、漁船はパナマ運河などの水門方式で水位を調節して行き来するのだそうだ。

釜口水門
釜口付近の天竜川にかかる鉄橋

釜口を超えると、いわゆる諏訪湖の裏側。
かつての鎌倉街道の西街道の古い町並みが残るエリア。

湖畔の車道は、岡谷から茅野に抜ける幹線道路で通行量が多い。
サイクリングやランナーの専用道路も整備されているが、人数は一挙に減って人影がなくなる。

釜口を過ぎると途端に人気がなくなる

諏訪湖にはいたるところに漁船やボートの船着き場がある。
防波堤で区切られた一角に数隻の船が溜まっている。
歴史ある湖の風情が感じられる。

釣り船宿
沖合の釣り場

岡谷エリアを過ぎ諏訪市のエリアに入る。
諏訪湖の表側、旅館や土産物屋が並び、遊覧乗り場がある一帯だ。

諏訪市エリアの旅館群
諏訪市エリアの遊覧船乗り場。営業は終了していた
ヨットハーバー

ヨットハーバーもある。

湖畔を離れると高島城というお城もあり、温泉町諏訪のかつての賑わいの残り香が漂う一帯も近い。
上諏訪温泉郷のこのあたり、地元の人が通う古い立寄り湯が街中にあったりもする。

湖畔は全国からの観光客で賑わう、がどこか寂しさも漂う。
かつてのように観光地に団体客が押し寄せる時代ではないし、若い人が決まった場所に詰めかけることもない。
首都圏の観光地の人波の分厚さはない。
東京から日帰りで来れる場所ではないことも大きいのだろう。

諏訪市エリアの湖畔遊歩道
間欠泉が見られる場所がある
湯気は出ているが吹き出しはなくなった
センター3階の花火展示。諏訪湖花火大会も有名だ

全長16キロの諏訪湖一周の旅。
暑いくらいの日差しと、吹く風の冷たさがアンマッチながら、気持ちの良い秋の一日でした。

かかった費用は自転車レンタル代が、4時間半で500円、駐車料金が0円でした。

帰りには下諏訪温泉の立寄り湯の一つ、菅野温泉に入りました。
240円でした。

諏訪大社下社の御柱

令和4年の御柱の現在を見ようと諏訪大社下社へ行った。

下社秋宮の御柱

下諏訪町にある諏訪大社下社秋宮。
立派な神社である。

下社秋宮の鳥居

社内の雰囲気が素朴で気高さを感じる上社に比べて、権威と荘厳さを感じる下社。

歴史は下社の方が新しい。

祀る神様は下社と同じタケミナカタの尊、というが長い歴史に翻弄され、神仏習合→廃仏毀釈→国家神道、の歴史を経てきた古い社に表面的な解釈は通じない。
上社が祀る神様が、鹿の首を祀る肉食の文化を祀る神様だったように、下社にも独自の深い歴史があるに違いない。

鳥居をくぐったところのご神木
狛犬に守られた神楽殿
拝殿

諏訪の神様の依り代が、山、石、木。

下社におけるそれは、背後の霧ヶ峰に連なる山々、木にも不自由しない。
では石は?

境内にあったのはさざれ石。
君が代に謳われる、天皇の枕詞ともいうべきもの。

関東は茨城県にある鹿島神宮にも立派なさざれ石があった。
でも諏訪大社は違うんでないかい?
下社は諏訪本来の神様というより、縄文以降の中央集権的な神様を祀っているのだろうか?

境内のさざれ石

拝殿の四隅には御柱が立っていた。
真新しくはなく、ひと夏を経過した貫禄が漂っていた。

拝殿の周りに立つ御柱

下社春宮の御柱

春宮から中山道下諏訪宿を抜けたところにある下社春宮。

春宮の鳥居

権威を感じる堂々たる秋宮に比べ、狭く、ひっそりと素朴なたたずまい。
半面粗削りな凄味も感じる。

神楽殿

近くに万治の石仏があるのでも有名。

境内に至る急坂は、御柱祭の時に二度目の木落しが行われるという。

拝殿は四隅に御柱を携えてたたずんでいた。

御柱

御柱館よいさ

春宮からほど近く、御柱館よいさ、がある。
7年に一度の御柱祭が開かれた今年、2度目の訪問をした。

御柱館よいさの玄関

前回もそうだったが、入場後はボランテイアさんがつききりで解説してくれる。

館内は、御柱祭の映像、山出し、里引きのルートのパノラマ、里引きに使われる高島藩の長持ちなど、が主な展示内容。
何より、御柱祭の里に生まれ育ったボランテイアさんの熱い案内ぶりがいい。

館内の展示

一通り見た後、ボランテイアさんを捕まえて日頃の疑問をぶつけてみた。
「どこから来たの?」とこちらのアイデンテイテイを最低限確かめた後、地元のボランテイアさんは答えてくれた。

木落の模様

  Q、かつては女人禁制だった御柱祭が女性の木遣りもいるが?

「かつては引き綱を女性が跨ぐなどもってのほかだったが、今では木遣りや引き綱もやる。里引きの花笠踊りなども」

  Q、下社と上社では木落しなどもかなり違うが?

「上社の木落坂は土を盛ったもの。下社の木落坂は斜度35度。危険だが今は死者は出ない。」

  Q、里曳きが賑やかで、奴さんや花笠踊りなど出し物が多いが大名行列の影響か?また下社独特か?

「高島藩の大名行列を取り入れたもの。上社も同様な里曳きをしているはず。」

  Q、旧軍の進軍ラッパを里引きなどで吹いているが、明治以降に取り入れたものと思う。終戦後にGHQによく禁     止されなかった?

「あはははは。景気づけにやっている。かつて批判されたようなこともあったが。」

  Q、下社はなぜあんなに立派?

「秋宮はね。春宮はかつては寂しくて観光客も来ない時期もあった」

  Q、下諏訪町は諏訪市と仲が悪い?

「かつては岡谷も含めて合併の話があったがいつのまにか立ち消えになった」

話が尽きませんでしたが、次のお客さんが来たので館を後にしました。
ボランテイアのご婦人たち、訳も分からないおじさんのお相手いただきありがとうございました。

里引きで使われる道具類

八ヶ岳美術館と井戸尻考古館

秋の半日、原村と富士見町にある美術館と博物館を訪ねた。

八ヶ岳美術館、原村歴史資料館

まず、原村にある八ヶ岳美術館へ。
原村中心部から八ヶ岳山麓方面へ上ってゆく。
八ヶ岳連峰の赤岳登山口の美濃戸の近く、御柱が山出しされる道の近くに目指す美術館がある。

この美術館は、原村出身の彫刻家・清水多嘉示の作品収納展示のために作られた村立の美術館。
原村の歴史資料館も兼ねており、むしろそっちの部分への関心のため訪れたのだった。

八ヶ岳の麓、集落は途絶え別荘が点在する森林地帯に美術館はある。
駐車場から入り口までのアプローチが長く、地元の中学の卒業生徒が毎年作っているというブロンズ像が野外に並んでいる。

美術館へのアプローチに立つ中学生の卒業ブロンズ像

入場する。
ほかに2,3組の入場者。

係のお姉さんに写真撮影の可否を聞くと、記入用紙に住所氏名と目的を記入せよとのこと。
目的の記入ですったもんだしているうちにそのお姉さんと話が弾む。

来館目的は美術鑑賞というよりは、縄文遺跡だったり歴史物の展示だというと、「どうして?」と聞かれたので、縄文文化と諏訪の神様の関連性を知りたい、と答える。

「館長さんがいればよかったのに。館長さんは諏訪湖の御神渡りの時にお祓いをする神社の宮司さん。」とのこと。「縄文に関心があるなら、富士見の井戸尻考古館がいい」などとも。

こういった施設の学芸員らしく、縄文や諏訪の神様にも関心の深いそのお姉さん。
話が尽きないので入場する。

館内は、よくある地方の埃っぽい郷土資料館ではなく、芸術家のアトリエっぽい雰囲気。
独特の採光性の良い建物の中にブロンズ像がずらりと並んでいる。
郷土出身の作者のフランス留学時代の写真や手紙の展示が興味をそそる。

肝心の歴史資料関係では縄文土器の常設展示と、この地方の伝統である裂織という織物の特別展示が中心だった。

この施設は美術館というだけあってアトリエのようなしゃれた美術館であった。
また、裂織展のような、地方性に富んだ特別展示にも力を入れており、地方の資料館にありがちな沈滞しきった雰囲気ではなく活気があり、よく整備されている感じがした。

井戸尻考古館、富士見町歴史民俗資料館

美術館を出て、富士見町の井戸尻考古館まで行って見る。

井戸尻考古館は長野県と山梨県の県境に近く、JR信濃境駅からほど近い、井戸尻遺跡にある。

井戸尻考古館入り口

館内は主に遺跡から出土した土器、土偶、石器などが展示されている。
考古館の入り口からは山梨方面に山並みが広がり、富士山も遠望される。
絶好のロケーションであり、ここで暮らした縄文人をうらやましく思う。

考古館入り口より望む展望

物言わぬ土器や石器にはいまいちロマンを感じることができない山小舎おじさんだが、土偶も含めこれらの物量が、何千年後かに出土した遺跡というものの存在感に思いをはせることはできる。

展示物。竪穴住居復元模型

隣の胸の歴史民俗資料館へ。

予想通り、農機具のほか、江戸時代以降の生活用具が展示されている。
目を引くのが当時の農家の家屋の復元模型。
また、昔のチェーンソーや薄い板を引くことができるのこぎりなどは貴重なものだった。

館内の農家家屋復元模型
初期のチェーンソー
板を縦引きするノコギリ!

明治以降の生活用具の数々には日本人の生活レベルの高さと、当時の地方の生活水準の高さがうかがえる。
また、奥の部屋には戦国時代からの刀剣、兜などが展示されており、この地方の歴史の深さを感じることができる。

帰りにJR富士見駅周辺に寄ってみる。
駅前ロータリーには立食いそば店もあり、食堂も並んでいる。
駅から続く商店街も小規模ながら残っており、地元に根付いたいい感じである。
ゆっくりと再訪してみたい富士見駅周辺だった。

今年のスイカ村

松本の農協では毎年夏にスイカ村が開かれています。
今年も行きました。

会場は波田と呼ばれる、松本市郊外のスイカの名産地に立地する農協。
毎年7月中旬から8月上旬にかけて、数軒のスイカ農家が出店を出してスイカ村が開かれ、客が詰め掛けます。

7月下旬のある日、軽トラでスイカ村へ行きました。
土曜日ということで、県外ナンバーの車も目立つ会場。
数軒のスイカ農家がテントを張って出店しています。
人気のある店には客が列を作ります。

山小舎おじさんは毎年買っている店に並びました。
待つまでもなく買えました。
L玉2個で、3,800円。
夏の来客用です。

信州の短い夏の収穫期が始まりました。

善光寺御開帳

7年に一度の善行寺御開帳に行ってきました。

軽トラで山小舎を出発。
上田市真田地区経由、地蔵坂峠を越え、長野市松代地区を抜けて長野市街地へ入りました。

権堂商店街にほど近い駐車場に軽トラを止め、まずは昼飯。
権堂商店街のミニシアター相生座の入り口に近い、蕎麦処とがくしに行きました。

相生座に行くたびに、なんで入り口に蕎麦屋があるのだろう?映画館付属の立食い蕎麦なのだろうか?などと思っていました。
ローカルテレビで紹介されたところによると、界隈で有名な女主が経営する、蕎麦にこだわった店とのことでした。

相生座入り口にあるそば処とがくし

カウンターのみの店内には主の知人らしき年配の女性客が一人いました。

ざるそば大盛を注文しました。
手際よく出てきたのがこの1枚。

大盛にしては少なめ?に見えた分量ですが、食べ応えがありました。
そばといいツユといい洗練された味です。
県内随一の都会、その中心部で歴史を刻んだ店の味です。

食べ終えるころ、観光客らしき中年男女の4人連れが入店しました。
主は知人らしき先客に暖簾の片付けを頼んでいました。

ひとまず腹を満たした山小舎おじさんは、店を出て善光寺へ向かうことにしました。

ざるそば大盛

権堂通り商店街のアーケードは善行寺参道と直交しています。
表参道へ出ると善行寺御開帳を参拝する観光客の姿が目立ちます。

長野市内には御開帳のポスターが

7年に一度行われる善光寺御開帳は、普段は秘仏の本尊を公開し、その手を回向柱とひもでつなげています。
参拝客が回向柱に触れると、本尊のご利益を頂けるというありがたいもの。
全国から参拝客が詰め掛けます。

この日、すでに参拝客の姿は、善行寺から歩いて10分ほどの権堂通あたりまで伸びています。

参道を善光寺に向けて進みます。
仁王門のあたりではあたりの雰囲気が、のんびりしたものから、観光地のそれに変わっています。
日常から非日常への場面転換です。

仁王門
仁王門と山門の間にある門前市

門前の店先にかかると、人数はさらに増えます。
善光寺参道のこのあたりはいつ行っても混んではいますが、御開帳ともなるとさらに賑やかな感じがします。
コロナ明けも近いのでしょうか?

門前市を過ぎると山門

山門を過ぎると善行寺の境内です。
回向柱が見え、参拝客が並んでいます。

法衣に身を包んだ体格のいい御坊さんたちの姿も見えます。

山小舎おじさんも回向柱へと向かう列に並びました。
20メートルほどの列は5分ほどで回向柱へと到着しました。
自身と家族の健康を願って柱へタッチします。

本堂の前には本尊とひもで結ばれた回向柱が立つ
参拝客は回向柱に触れて祈祷

警備員のハンドマイクに追われるように柱を離れ、本堂への階段を上りました。
さらにお参りの列が続いていたのですがこれはパス。
賽銭だけを投げて、本堂からの階段を下りました。

本堂から山門方面を望む

長野といえば善行寺。
民間信仰の長い歴史を感じる場所が長野にはあるのでした。

家族へのお土産は善行寺のだるま

鹿教湯温泉文殊堂御開帳

上田市丸子地区の三才山トンネルふもとに近く、鹿教湯温泉があります。
環境庁指定の国民保養地で、歓楽的要素はない温泉地です。

立ち寄りの、文殊の湯が源泉近くにあり、300円で入浴できるため、寄ることが多い温泉です。

鹿教湯温泉、文殊の湯脇の渓谷

文殊の湯の脇を流れる渓谷には、屋根付きの五台橋という風流な木造の橋が架かっており、紅葉の季節などには温泉地特有の澄んだ空気感とともに、一服の風景画のような風情を醸し出します。

渓谷にかかる五台橋

この五台橋を渡り、崖に穿っている石段を上ると文殊堂があります。

奈良時代に行基により創設されたと伝えられ、現在のお堂は宝永6年(1709年)の竣工。
奈良時代の仏像を本尊とする霊験あらたかなお堂と伝えられます。

26年ぶりの御開帳と聞き、行ってきました。
文殊堂まで登るのは、これで2回目でしょうか。

鹿教湯温泉の無料駐車場に軽トラを止め、入浴道具を持参のうえ、文殊の湯の脇をとおって、五台橋を渡ります。
石段を上ると回向柱が目に入ります。

本堂のご本尊とひもで結ばれた回向柱に触れるだけでご本尊の霊験に触れることができるといわれます。

回向柱が立つ文殊堂
お堂の奥にご本尊が見える
回向柱に触れる
境内には石の像が並ぶ

参拝客は他に誰もいません。
温泉地特有の峻烈な空気があたりを支配しています。
この感じが霊験といわれるものの感触なのでしょうか。

お参りも早々に、一巡します。
境内のはずれには薬師堂があり、ご利益により病の癒えた人々の感謝の羅漢んが立てられています。

薬師堂
薬師堂わきの羅漢?

境内から下って、文殊の湯に入湯しました。
ぬるめの湯ですが芯から効きます。
いつ来てもいい温泉です。

文殊堂付近の石畳

北国街道 上田宿

北国街道はその昔、信州を南北につなげた街道です。
軽井沢追分で中山道と別れて北上し、上田、善行寺などを経て越後に至りました。
佐渡の金などを江戸に運ぶ重要な道筋だったとのこと。

3月下旬のある日、上田市内に残る北国街道の跡をたどりました。

ヨコの線上を歩く。タテの線は旧上田電鉄線

柳町通

上田市内で最も旧北国街道の姿を残している一角が柳町通です。
銘酒・亀齢の岡崎酒造や味噌醸造所などが残り、往時の風情を残しています。

柳町。左手に岡崎酒造

古い商家をパン屋やカフェなどに転用した店もたくさんあり、シーズンには観光客の姿も多く見られます。
「犬神家の一族」(1976年)のロケ地にもなりました。

岡崎酒造の土間に飾られる江戸時代のひな人形

紺屋町

柳町を左折すると紺屋町という通りが続きます。
城下町には、大手、鍛冶、馬場、紺屋などの町名がつきものですが、上田にも一通りあります。
紺屋町とは染め物職人が集まった一角です。

お城の北側を進みます。

柳町から上紺屋町に左折したあたり

この通り、今では生活道路として住宅街の中に落ち着いており、観光客の姿もまずありません。
往時は軒を連ねていたであろう商家の建物はポツンポツンと残るだけです。

紺屋町には造り酒屋も残る。和田龍酒造
このあたりの民家。奥に長い敷地を木の塀で囲っている

旧北国街道は、現在の常磐城という一帯で右折し、矢出川を渡って現国道18号線に合流します。

矢出川沿いの石垣と古民家

歴史の散歩道

常磐城から右折する北国街道ですが、地図に寄ればこの付近に「歴史の散歩道」なる一角があるようです。

お城の西側に位置するこのあてり、曲がりくねった細道が多く、たまに異様に広い敷地を持つ民家があったりします。

名もしれぬお堂がたたずむ
住民は隣組を組む
お城近くにあった解放会館。休館日だった

花園と上田電鉄

帰りは北国街道沿いを戻るのではなく、赤線があったという旧花園地区を通りました。

バス停には花園の名が残る

明治以降、上田市街地の外側に新地と呼ばれる赤線が作られたとのこと。
その時代には上田電鉄という私鉄が上田駅から、お城のお濠脇をとおり、赤線に近い花園駅までつなげていたとのことです。

上田電鉄はこのほかに、丸子線、別所線を持っていましたが、現在のこっているのは別所線だけです。

上田電鉄花園駅があったあたり

現在の花園あたりは完全な住宅街になっています。
名残は病院名や営業所名に残る「花園」の冠名だけ。
まっすぐな道と、入り口近くの料理屋、鰻屋に特徴を残すくらいです。

赤線入り口があった場所には食堂が残る
赤線といえば鰻屋
電柱には新地の名が残る
この場所に建つ花園病院

一味違う上田の歴史をたどったこの日の散歩でした。

山小舎の初詣

山小屋の〈お正月〉は例年、3月下旬から4月にかけて、です。
今年も3月に地元の神社に初詣をしました。

生島足島神社

信濃の国二ノ宮、日本中央を鎮守下さる古社にお参りします。

今年は7年に一度の御柱祭の年ですが、諏訪地方からは大峠を越えた塩田平にあるこの神社にも御柱祭の看板がありました。

諏訪大社の御柱祭に賛同でもしているのかと思いきや、独自の御柱祭を4月16日から3日間に行うとのことでした。

まずは本殿にお参りです。
3月下旬の肌寒い日のこととて参拝客もほとんどありませんでしたが、いつ来てもおごそかな中に親しみを感じる神社です。

家内安全のお札をもらい、去年のお札を納めます。
ついでに係の人に気になっていたことを伺いました。

「生島足島神社でも御柱祭が行われるのですね?」

こちらにも諏訪神社がありますので。参道に立つ大鳥居のさらに奥に御柱4本が切り出されています。
アカマツです。

「山宮があると聞いたのですが」

山宮は大鳥居の奥の方ですが、私は行ったことがありません。神主さんでも道を迷うほどの場所だそうです。

「2,3年前の9月ころ、神楽殿で巫女さんの舞いを見たのですが」

9月の例大祭の時ですね。
中学生くらいの子が代々引き継いでやっています。
7月にもあります。

境内にある諏訪神社

生島足島神社、大鳥居と御柱

教えてもらった御柱を見に参道をたどった。
田んぼを見下ろす高台に大鳥居が建っている。

参道に立つ大鳥居

遠くからも目立つこの大鳥居。
これまでは、山宮の鳥居なのか?と思っていた。

大鳥居からさらに登ってゆくと、道端に御柱が4本横たわっていた。

御柱が4本用意されていた

この御柱なるもの、諏訪地方の専売特許と思い込んでいたが、この生島足島神社や、上田地方の名のなき神社でも、出発を前に横たわっているのを見ることができた。
地域を問わない信州の風習なのか?信州地方の諏訪神社に特有の風習なのかはこれから確認しよう。

諏訪大社上社本宮

後日、例年通り諏訪大社にもお参りしました。

この日の上社本宮

こちらは御柱祭の本家。
テレビニュースでお馴染みの〈死人が出る〉木落坂は下社に向かう御柱の風景で、上社の御柱は八ヶ岳のふもとから茅野の街を通り、少しなだらかな木落坂を下り、川を渡って下社に着きます。

7年前の御柱が建立されている

今年は木落も、川渡もなし。
八ヶ岳ふもとの待機場から、下社前宮のあたりまでトレーラーで運ばれ、5月の3日間で、里曳き、建立が行われるとのことです。

今年のお札をいただく

立寄り湯めぐりVOL.12 片倉館千人風呂

上諏訪温泉街にある片倉館・千人風呂へ寄ってきました。

諏訪湖畔の一番賑やかな一帯。
旅館や飲食店が立ち並び、遊覧船の船着き場もあります。
JR上諏訪駅からほど近いこの一帯、思えば県内では長野、松本の繁華街に次ぐ賑やかな場所かもしれません。

この場所の一角、高層ホテル群の間に片倉館という施設が残っています。
岡谷で製紙業で財を成した片倉財閥が、従業員と地域住民の福利厚生を目的にした施設で三つの建物があります。
そのうちの一つが地元の上諏訪温泉を引いた千人風呂を備えており、現在では一般客も利用できます。

12月の冬じまいに追われるある日、雨が降って外の作業ができなくなりました。
かねてより気になっていた片倉館千人風呂へ行くことにしました。

諏訪湖畔の風景

12月の平日、天気は不順ながら、交通量の多い諏訪湖畔です。
さすがにそぞろ歩く観光客らの姿は少なく、湖畔の無料駐車場もガラガラではありましたが。

片倉館の3棟の洋風建築は、それぞれが国の重要文化財に指定されています。
隣の敷地には諏訪市立美術館が建っています。
それなりに広い駐車場もあります。

片倉館の建物から美術館方面を見る

千人風呂へ向かいます。
洋風建築の威容をたたえた正面入り口の前に立つと、左側に巨大な煙突も見えます。

玄関を開けるとすぐ靴を脱いで上がります。
古い洋風建築物をリユースした博物館のような建物内部の印象です。
受付で入場料750円を払います。

千人風呂がある建物正面

浴室へ入るとそこは少し年代ががったスーパー銭湯のような造り。
広々とした脱衣場にロッカーが並んでいます。

浴室は広いといえば広いですが、最近では大浴場付きホテルのそれと同じくらいかもしれません。
昭和の時代に団体さんを受け入れた各地の温泉ホテルの大浴場を知っている方々からすると「千人風呂」とはまた大風呂敷な、と思うかもしれない程度の広さです。

浴室内部の様子はパンフレットから

浴室の壁の装飾というか意匠は、洋風というのかローマ風呂風というのか。

思えば、昭和時代なのか、その前からなのか、温泉では浴室を西洋風にデコレートする風潮がありました。
まん丸の浴槽にミロのビーナス風の石像が建ち、石像が持つ甕からお湯が噴き出ていたり、ステンドグラス風の装飾があったり・・・。

かつて山形県最上市の瀬見温泉というところで立寄った旅館の浴室がまさにそうでした。
時代を経過したその風情は、それはそれで非日常的でもあり悪くはありませんでした。

休憩室には年代物の備品が展示されている

野麦峠を泣く泣く超えてきて、倒れるまで働いた女工さんたちが千人風呂で疲れをいやした時代ははるか彼方となりました。
その時代に思いをはせるには時がたちすぎた令和3年の冬。
片倉館の千人風呂に浸かって今年の疲れを癒します。

浴槽がそれなりに大きいので温まります。
泉質に強烈さは感じませんが。

大正時代の日本に成金というバブルを生んだ産業の一つである製糸業。
その興隆が産み落とした遺構のような温泉施設が諏訪湖畔に残っていました。

二階の休憩室では入浴客が一人憩う