彩ステーションの子ども食堂

近所の「彩ステーション」で子ども食堂をやるというので見てきました。

彩ステーション外観。戸を引いてホールに入る

彩ステーションは、本ブログでも何度か紹介している、調布市柴崎にある〈地域の居場所〉です。
ある医院に場所の提供を受けて、看護師とケアマネージャーの資格を持つ山小舎おじさんの奥さんが運営しています。

日頃は、地域の年寄りを集めての、ランチだったり、麻雀だったり、体操だったり、スマホ教室だったりを開催しています。
コロナ前には、映画の日や、夕方からアルコール持ち寄りの〈バル〉を開いたりもしていました。

この日は〈子ども食堂〉が行われました。
台所で朝からご飯を炊いて仕込み、今日のメニューのちらし寿司を手作りします。

この企画の運営は、近くの小学校のPTAに参加している父母たちのグループ。
彩ステーションは場所の提供と、側面協力を行っています。

昨年7月から、毎月実施して今月で9回目とのことです。
これまでのメニューはカレーや唐揚げなど。
毎回100食前後を作り、今回は110食ほどの予約があったそうです。

この日山小屋おじさんが、彩ステーションに顔を出してみると、奥さんこと〈山小舎おばさん〉が出迎えてくれました。
〈土間〉と呼ばれる、彩ステーションのホールには、パックされたちらし寿司が並び、子ども食堂企画の代表者が、予約客を待っています。
彼は本日、有休をとって運営参加したとのことです。

ホールには予約客用のちらし寿司が用意されていた

居間に上がると、3人ほどのお母さんたちがちらし寿司づくりの真っ最中でした。
ずらりと並んだ酢飯に錦糸卵やでんぶを乗せてゆきます。
皆さん、子ども食堂開催の日は、仕事を終え次第駆け付けて、参加するとのことです。

台所では続々とちらし寿司のパッキング中

ホールには、予約した親子がちらし寿司の受け取りにやってきました。
来場した子供のお母さんは、主催者とは地域同士の知り合いらしく、話が弾んでいます。

予約したちらし寿司を受け取りに来た子供たちに応対する子ども食堂代表

食費は子供100円、大人300円とのこと。
子供にはお菓子のパックとドーナツが1つずつ付きます。
ドーナツは市内のパン屋さんからの差仕入れ、お菓子は予算から購入し、山小舎おばさんが袋詰めしているとのことでした。

子どもの客に渡されるドーナツと菓子パック

子ども食堂のメンバーのおかげで、彩ステーションの風景が普段より2世代ほど若返っていることに気づき嬉しくなった山小舎おじさんでした。
近々、テイクアウトだけでなく、会食可能な子ども食堂の開催を祈って。.

映画のまち調布 シネマフェステイバル2022

筆者の地元調布は「映画のまち」を売出文句の一つとしている。

市内に映画撮影所が、日活と角川大映の2か所のこり、東映ラボラトリーなどのフィルム現像所があり、映画小道具の会社などもある。
石原プロもあった。

日活は会社更生法により、大映は破産法により法的に清算(倒産)した後の姿であり、東映ラボラトリーは主業務がフィルム現像からデジタル関係の処理へと変わり、石原プロは解散して軍団恒例の年末餅つき風景も見られなくなっている。

かような状況ではあるが、それでも市内に映画撮影所が2か所あるというのは、京都と並ぶ「映画のまち」の証左となろう。
また、撮影所との関係で、市内でロケが行われることも多く、その意味でも「映画のまち」ではあるかもしれない。

毎年、調布で映画祭的なことが行われているのは知っていたが、筆者が見に行ったのは今回が初めて。

パンフレット表紙

今年の映画祭の内容は、「映画の調布賞」の表彰と受賞作品の上映、「日本映画人気投票」選出作品の上映、をメインに、調布出身のイラストレーター宮崎裕治の作品展示、「調布地区にて発見された映画資料」展、「出張映画資料室」展、など。

「映画のまち調布賞」というのは、技術スタッフに贈られる賞で、撮影、照明、録音などの部門ごとに、選ばれたスタッフを表彰し、併せて作品を上映。

「日本映画人気投票」は2021年2月~9月の間に実施した人気投票の上位に選出された「花束みたいな恋をした」などを上映。

ほかにも、「フィルム名画上映」として「男たちの大和/YAMATO」(2005年)を上映。

会場は、映画上映は「調布市文化会館たづくり」とイオンシネマ調布の2か所。
展示企画は「たづくり」内のギャラリーにて行われた。

調布市文化会館たづくり 1階ホールはフェステイバル仕様のレイアウト

筆者が「たづくり」に行ったのはフェステイバル最終日で、映画上映はほぼ終了。
やむなく、ホールやエントランス、企画室で行われている、展示企画を見て歩いた。

宮崎裕治のイラスト展は、「キネマ旬報」などの連載でおなじみのイラストを原画で見られる貴重なもの。
展示数も多く、会場は作者の映画愛にあふれ、訪れるものの気持ちを暖かくするようだった。
また地元調布に関連するイラストが多く展示され、興味をそそった。

調布駅付近を題材にしたイラスト
調布の市営住宅に住んでいた鈴木清順監督のイラストも
映画愛にあふれる、カラフルなイラスト群が楽しい

「調布地区にて発見された映画資料」展、「出張映画資料室」展も見た。
この二つ、〈映画資料の保存、展示〉という趣旨で被っている催しだったが、展示内容はそれぞれ貴重なものばかりだった。
編集や、美術、助監督などのスタッフが、脚本のほかに使っていた記録、メモなどの展示物は初めて見ることができ、映画が各部門の専門的なスタッフによる〈総合芸術〉であることが実感できた。
その、正確、詳細な記録を見るにつけ、映画は〈総合事業〉といった方がいいのかもしれない、と思った。

企画展の入り口。中は撮影禁止
「調布地区にて発見された映画資料」展に詰めかける人

また、調布市内に2か所、映画館があった時代の記録が珍しかった。
筆者など知らない時代に、駅前の商店街の一角に映画館があった時代が記録に残されていた。

都合により参加できなかった企画に「トークイベント映画人が語る旧日活・大映村の日々」があった。
現角川大映撮影所の北隣に、大映村と称される社員の寮群があったこと。
それを記録した書籍が発刊されていることは知っていたので、関係者のトークをぜひ聞いてみたかった。

今は撮影所自体の敷地が半減し、映画撮影の本数も激減し、大映村の敷地はとっくに売却されて別のアパートが建っている。
トークでは撮影所が賑やかだった時代の話が聞けただろう。
旧住民による「旧日活・大映村の会」があるようなので、またの機会を待ちたい。

「調布銀映」があった場所

余談

映画祭といえば、筆者は映画祭開催中の西ベルリンにいたことがある。
1983年の2月くらいのことで、当時の封切り作品としては「ガンジー」が大いにフィーチャーされていた頃だった。

アジアからの放浪の末、パリで年を越した26歳の筆者がたどり着いた西ベルリンには、町中に映画祭のポスターが貼られていた。
市内の主な映画館では、映画祭出品作を上映していた。
日本からの「野獣刑事」(1982年 工藤栄一監督)を大劇場で見た。
観客の反応から、受賞はないなと思った。

当時の西ベルリンは、ツオー(ZOO)駅を中心にした、寂しげな街で、駅近くの動物園で、パンダを見た。
動物園には、誰もパンダを見る客はいなかった。

ツオー駅では、パリやワルシャワまでの切符も買えた。

寒々しいベルリンを早々に出て、ポーランドのポズナニまでの切符を買い、夜行列車に乗って、1週間ほどのポーランドの旅に出た。
カトビツェ、クラコフ、ワルシャワ、グダニスクと回ったが、ポーランドは西ベルリンより一層寒々しかった。

ママチャリ徘徊記 溝の口、新城、小杉

東京の自宅にいる冬の間は、ママチャリでほっつき歩くのが趣味です。

溝の口

この日は、狛江のあたりで多摩川を渡り、川崎側の土手を走って溝の口を目指しました。

気温10度を超える昨今は戸外活動日和です。
平日は土手を歩く人の姿もまばらですが、河原で日向ぼっこをしたり、グラウンドで野球の練習をする学生たちの姿がありました。

多摩川の左岸に二子多摩川の高層ビル群が見えてから、土手を下り、旧大山街道と呼ばれる道を走り、溝ノ口を目指します。

武蔵溝ノ口駅はJR南武線と東急田園都市線が交差する駅です。
南部線沿線の一角に、昔ながらの商店街が残っています。
溝の口駅西口商店街です。

10軒に満たない数の商店が軒を連ねています。
今はほとんどが飲み屋などの飲食店になっています。
八百屋が1軒だけ残っています。
かつては団子屋や、古本屋もありましたが、飲食店に代わっていました。

昨今は自粛中なのか、明かりが消えた商店街。右手に古本屋があった
16時になると焼鳥屋が営業開始です

この商店街から外れたところの「餃子の店 南甫園」が山小舎おじさんの行きつけです。
この日はランチのカツ丼を食べました、500円。
期待通りの町の食堂の味です。

昨今は昼のみ営業の南甫園

武蔵新城

溝の口から南武線に沿って川崎方面へママチャリを走らせます。

次の駅は武蔵新城です。
駅前にアーケード商店街があったので寄ってみました。
「あいもーるアルコ」という名前の商店街です。

昭和の時代も遠く過ぎ去り、かつては流行の最先端であったであろう、アーケード付きの商店街もその〈時〉が過ぎ、買い物客はロードサイドのスーパーマーケットやショッピングモールに移っています。

「あいもーるアルコ」は、そこそこの歩行者数はありましたが、単なる通行客や暇つぶしの老人客が多いようにも感じます。

駐輪の多さも昔ながらの風情

地方都市などに取り残されたように残っているアーケード街の、〈寂寥感〉というか〈虚脱感〉のようなものをここでも感じました。

地元の金融機関といえば川崎信用金庫

自転車が普通に通行しているので、今時珍しいな、と思っていたら、やはり「自転車は押して通行しましょう」の看板がありました。
ほとんどの人が、看板を守らないで通行しているところが〈ユル〉くていいな、と思いました。

標語の看板の脇を颯爽と自転車が通る

武蔵小杉

ここまで来たら、もう少し足を延ばして小杉まで行ってみましょう。

20年ほど前、仕事で川崎、横浜一帯を回っていた時、府中街道の小杉駅付近はよく通りました。
駅を過ぎたあたりのガード下にバラックのスラム街のような一帯が残っており、嫌でも目につきました。
闇市崩れの一杯飲み屋群だったのか、それは取り残された〈戦後の風景〉のようでした。

果たしてあの風景が残っているのか?

昔の記憶を頼りに府中街道を進み、南武線のガード下を見ると、かつてのバラック群はありませんでした。

府中街道のガード下。右手奥にバラック街があった

駐輪場や道路拡張用の更地に変わっています。
バラックではないものの、当時の風情を残す建物が1棟残ってはいましたが。

バラック街のあったあたり。駐車場になっていた
バラック街に唯一残る建物。撤去間近か

バラック群は、背後に墓地がある土地柄でした。
周辺はもともとの飲み屋街だったことがわかります。

バラックが撤去された当たり、左手に墓地が見える
周辺には小杉らしい、昭和の飲み屋が残っていた

戦後の生き証人?のような風景がまた一つ永遠に姿を消しました。
あのスラム街は〈なかったこと〉にされるのでしょうか?

片側1車線の府中街道を南武線の高架がまたぐ小杉駅周辺

府中街道沿いにごちゃごちゃと商店が軒を連ね、低めのガードがその上を走る、という昔ながらの武蔵小杉の風景の骨格は変わっていませんでした。

別の飲み屋街から高層マンションを望む

大山田ノンフェール訪問記

令和4年2月に、栃木県那珂川町にあるNPO法人大山田ノンフェールというところを1泊で訪問してきました。

東北道矢板インターから1時間以上も走った、那珂川町大山田地区の廃校になった小学校を起点に活動するノンフェール。
25年ほど前にこの地へ移住したカップルが始めた団体です。

ノンフェール機関誌

ひょんなことからこの団体を知り、機関誌を読んだりして興味を持ちました。
田舎暮らしの先輩の活動状況を参考にしたかったので訪問してみました。

矢板インターまでは自宅から2時間半ほど。
東北道を降りてからは栃木県東部の農村地帯を延々走ります。

このあたり、関東平野の北部なので、平坦な地形がどこまでも続いています。
ちょっとした町や集落をいくつも抜けた先、茨城県との境の低い山々を背景にした那珂川町の大山田地区へとたどり着きます。

10年前に廃校になったという小学校は鉄筋コンクリート製で、まだまだ現役感十分な建物でした。
ノンフェールは、ここの工作室や家庭科室などを利用して、ガラス工芸や機織り、養蜂などのワークショップを開いています。
主宰者をはじめとした、これらの技術のエキスパートは、それぞれ半径20~30キロ圏内に在住しています。

大山田地区、小学校入り口付近に立つ案内板
廃校になった小学校の全景
玄関の壁に描かれた〈檄文〉

山小舎おじさん一行はさっそく、機織りと養蜂(日本ミツバチの巣箱づくり)のワークショップに組み入れられて半日の活動を行いました。

おじさんは、エキスパートの指導の下、工作室で巣箱を作りました。
同行した奥さんは、機織り機で簡単な織物を教わっていました。

山小舎おじさんは図工室で巣箱づくり
奥さんは機織り

空き時間には、主宰者カップルからこれまでのノンフェールの活動のことや、思いについて聞きました。
 
  田舎に定住する過程ではいろいろあったが、自分たちのスタンスを崩さずに〈無理して地域に迎合しようとせ
  ず、できることはやるが、できないことはしない〉という姿勢でいると、地域の中の同じような考えの人が味方
  になってくれた、とのことでした。

この25年間は、カフェをやったり、女性のシェルター施設を運営したり、障がい者支援活動を行ってきたとのこと。地域と、ある時は戦い、ある時は議論し、ある時は妥協し生き抜いてきた、ひと世代上の主宰者たちの逞しさ、行動力、知的レベルの高さ、を感じました。

構内にはステンドグラスの作品があちこちに

現在では廃校でのカフェ経営や、各種のワークショップ運営を中心に行っているとのこと。
廃校は地域の知的ターミナルとなり、また様々な人材の交流場所になっています。

カフェ、かわせみ珈琲店の入り口もステンドグラス

宿泊は、主宰者の母屋に隣接するゲストハウスで。
食材は畑で取れた野菜が中心。
パンやヨーグルト、ジャムなどは主宰者が手作りしていてくれましたが、これの美味しいこと。
頭脳だけではなく、体も手も動く主宰者たちの〈実力〉を改めて感じました。

主宰者の母屋
庭先には自作の苗床が

また一つ学びの場が増えました。

東京の新年 保谷東伏見稲荷神社

保谷(現西東京市)の東伏見稲荷へ行ってきました。

商売の神様からお札をいただくためです。
山小舎おじさんの奥さんが介護関係の事業を始めることになり、商売繁盛のお札をもらうことになりました。

新青梅街道沿いにある東伏見稲荷。
並行して走る西武新宿線の東伏見駅から参道が伸びています。

西武戦沿いから参道が伸びる

冬晴れの境内にはほかに2,3組の参拝客がいました。

お札を無事ゲットしました。

帰りには東伏見駅に寄って、名物のたい焼きをお土産に買いました。

移動販売のたい焼きは東伏見駅の名物

東京の新年 雑司ヶ谷大鳥神社

池袋文芸座で映画を観た帰り、目白まで歩く道沿いに大鳥神社の大看板がありました。

池袋東口へつながる道路沿いの大看板

参道を歩いてゆくとお寺がたくさんあります。

一帯にはお寺が多い。敷地の間を抜ける道

鬼子母神を祀る大きなお寺もありました。

鬼子母神を祀るお寺
お寺の境内には売店が残っている

都電荒川線の沿線に目指す大鳥神社がありました。

大鳥神社の鳥居

主宰神は日本武尊。
日本武尊が死んで白鳥になったことにちなんで、全国に大鳥神社があるそうです。

拝殿では参参拝客が

境内には大きな岩もありました。
何かの依り代なのでしょうか?

碑を刻んだ巨石も祀られている

すでに1月も20日を過ぎ、境内には日常の風景が戻っているかのようでした。

東京の新年 府中大國魂神社

武蔵国総社、大國魂神社に新年のご挨拶をしました。

律令時代のクニの区分けで武蔵国といわれた東京、埼玉あたり。

府中はその中心部で、現在の県庁に当たる国府がおかれた場所です。国府の脇に大國魂神社はあります。

武蔵国の6つの古い神社のご神体が全部集まっているそうです。

提灯や屋台がひきも切らない盛況な境内

三多摩地区では断トツに有名な神社で、年末年始やお祭りの時の人では大変なものです。

堂々たる門構えを抜けると拝殿が見える

年空けて2週間経過したある休日、訪れてみるとまだまだ大変な人出です。

拝殿には多くの参拝客が並ぶ

並んで参拝を済ませ、境内をぶらぶらし、宝物殿にも寄ってみました。宝物館では毎年5月に行われる例大祭、通称くらやみ祭りの映像が流れていました。

府中界隈には武蔵国以来の歴史が残っているような気がしました。

東京の新年 阿佐ヶ谷神明宮

JR阿佐ヶ谷駅からほど近い神社です。

新年あけてから1週間以上たっていますがこの人出です。

拝殿に向かって並ぶ列・・・

早々に参拝はあきらめて境内を見ると、神楽殿?ではかるた大会をやっていました。

華やかなかるた大会。都会の神社の景色です

主宰神は天照大神ということです。

神社の由緒が書かれています

東京の新年 調布布田天神

 令和4年の新年です。

初詣に地元の布田天神へ行きました。

拝殿に向かって並ぶ参拝客の列

正月3日の昼間でしたが、参列者が境内を貫いていました。

地元の神社で家内安全のお札をゲット

蚤の市の出店もありました。

今年は皆さんにとっても良い年でありますように。

布田天神の参道は天神通り商店街

令和3年 衆議院総選挙 期日前投票

今年は10月31日に久しぶりの総選挙があります。
総選挙といえば昨今はAKB48の専売特許ですが、本来は、当たり前ですが国政選挙である衆議院議員選挙のことをいいます。

国民の権利である参政権を行使するためにも山小舎おじさんは期日前投票に行ってきました。

普段は長野の山小舎に暮らす身ですが、住民票は自宅のある調布市においている山小舎おじさん。
31日は自宅におりませんが、帰宅の折、期日前投票に初めて行ってきました。

選挙区は東京22区。
期日前投票所は調布市役所です。
事前に郵送されてきた投票券?さえ持ってゆけば期日前投票ができるので便利です。
この日は土曜日ということもあるのでしょうが、期日前投票所には20人ほどの人が集まっていました。

土曜日の調布市役所前。投票所までは看板が案内してくれる
1階の入り口を入れば投票所。三々五々有権者が訪れていた

過去の衆議院選挙では忘れられない光景がありました。
東日本震災の年(だったと思う)の総選挙。

基本、選挙権は行使していた山小舎おじさんは、いつものように投票所の小学校に向かいました。
出がけに軽く投票するつもりでした。

そこで見たのは校庭を突っ切って並ぶ選挙民の列。
「ああ、震災があったばかりだから、国の運営についても皆の関心はたかいわなあ」と思い「帰りに投票しよう」とそのまま出かけました。

夕方、帰りしなに見たのは、朝方よりは少ないものの、校庭へ延びる有権者の列でした。

こんなことはそれまでもそのあともありませんでした。

当時は国内の未曽有の災難を目の当たりにし、明日は我が身という謙虚な気持ちと、いざとなった場合に頼りのなるのは隣近所の人間だ、との「お互い様」のチームワークの気持ちが国内にあったような気がします。

その中で、国のかじ取りを担う政治家の選択は、国民にとってなおざりにはできないことでした。
選挙民の関心の高さが熱気となって投票所を取り囲んでも不思議ではありませんでした。

出口調査に駆り出された、まだ自民党に入っていなかったタレントの三原じゅん子が、テレビカメラに向かって「自民党大変です!まずいです!」と叫んでいたそうです。

後日、この選挙をマスコミは「史上最低の投票率。」と伝えました。
選挙結果は自民党の圧勝でした。

投票所の光景が目に焼き付いているおじさんはそれを聞いて「それは違う」と思いました。

「強烈な違和感」どころの話ではありません、自民党圧勝はともかく、史上最低の投票率とは何事か。
あの長い列、熱気は幻だったのか。

いくらお上から「白のものを黒」と言いくるめられ続けた歴史を持つ日本人の端くれであっても、我が身をもって体験したことを全否定されるのは決してうれしくはないものです。

調布市役所の建物にへんぽんと翻る選挙の幟

令和3年の東京22区は4人が立候補。

伊藤達也は地元の深大寺ペガサスという少年野球チーム出身で、かつては調布の少年野球大会の開会式に来賓であいさつしていました。
新進党から紆余曲折の末自民党入りしています。

山花郁夫は、社会党末期に委員長を務めた父・貞夫の2世で、実家は京王つつじヶ丘駅へのバス通り沿いにあります。

ほかに、れいわ新選組のくしぶちという女性が出ていますから、野党統一候補が成らなかった選挙区なのでしょう。

東京22区のポスター掲示板

投票し、国民の権利を行使し終わった山小舎おじさん。
気持ちも晴れ晴れと調布駅前広場を自転車で通ると、秋晴れの下、共産党とれいわ新選組が選挙活動を行っていました。

駅前では選挙活動。共産党
こちらはれいわ新選組