DVD名画劇場 ジョン・フォード 俺も男だ!

ジョン・フォードといえば西部劇を中心に、戦前のサイレント時代から1960年代まで140本を超える映画を撮った名監督。
今回はその代表作といえる3作品を見た。

そこには同時代に活躍した名監督ハワード・ホークスと同様に、男の世界が描かれていた。

ホークスのタッチと異なるのは、男同士の友情がウエットに描かれていること、男を受け止める女性達が控えめで芯が強く描かれていること。
無理やり東映映画に例えれば、ホークスが乾いたタッチの実録映画だとしたら、フォードはウエットな任侠映画なのではないだろうか。

「駅馬車」 1939年 ジョン・フォード監督  ユナイト

プロデユーサーはウオルター・ウエンジャー。
ハリウッドきってのインテリプロデューサーといわれ、「暗黒街の弾痕」(1937年フリッツ・ラング監督)、「海外特派員」(1940年アルフレッド・ヒッチコック監督)などを製作した。

ウエンジャーの制作と聞けば、なるほど「駅馬車」は時代を先取りした実験的な作品に見えてくる。

映画の作りは大まかな舞台を、駅馬車内部と、宿泊地に限定。
駅馬車自体が移動しているのでスピード感も出てくる。

登場人物はほぼ駅場車の乗客に限られ、キャラクターを掘り下げやすくなる。
余計な舞台設定と人物はカットされ、観客は物語に集中できる。

実験的というのは、駅馬車が進むにせよ取って返すにせよ、乗客全員に意見を諮る、という民主的な姿勢が貫かれていること。
アメリカの支配層であるワスプ系の価値観の押し付けがない。(ユダヤ系インテリプロデユーサー・ウエンジャーの意向か?)

そして登場人物の平等で、下から目線的な描き方にもこの映画の特徴がみられる。

別の町へ流れる酒場女(クレア・トレバー)や、いかさま賭博師(ジョン・キャラダイン)、酔いどれ医者(トーマス・ミッチェル)、あげくに脱獄囚・リンゴキッド(ジョン・ウエイン)など見かけは最悪のメンバー。
ところが前途の危機に際し、またインデイアン襲撃の緊急時に際し、彼らの真価が発揮される。

すなわち、人情味にあふれ、責任感と勇気にあふれ、差別しない人たちが登場人物ということがわかる。
映画の隠れたテーマが民主主義とその前提としての人々の健全な常識と責任感をたたえることだということがわかる。

ジョン・ウエインが若く、のちにその存在イコール正義、といったものになっておらず、彼の存在が映画の邪魔をしていないところもいい。

ジョン・ウエイン

アパッチの襲撃シーンがハイライト。
全力疾走の6頭立ての駅馬車。
アパッチは疾走する馬上からライフルで射撃する。
全力疾走する馬から駅馬車を引く馬に飛び乗る。
撃たれたら前のめりに馬ごとぶっ倒れる。
リンゴキッドは外れそうな馬車馬を御するため、駅馬車の運転台から馬を伝って先頭の馬まで飛び移る。

コマ落としによるスピード感アップがあるとはいえ、「ベンハー」の戦車競走シーンに並ぶ名シーンだと思う。
撮影技術の向上があるとはいえ、今では到底実写で再現はできないだろう。

馬車から馬に飛び移るリンゴ!(ジョン・ウエインのスタントマンが演じる)

酒場女役のクレア・トレバーもいい。
リンゴキッドの直截的で武骨なプロポーズを一度は受け入れ、我に返って逡巡し、別れを告げる。
このあたりの、数度夢破れた生活感のある、内実はしっかりした女性像をこれ以上なく表現している。

クレアのクレジットの順番はトップ(ジョン・ウエインは2番目)。
当時の女優としての評価がうかがえる。

クレア・トレバー(左)

「荒野の決闘」 1946年 ジョン・フォード監督 20世紀FOX

ワイアット・アープ、ドク・ホリデイ、OK牧場の悪漢一味といった西部劇の18番がそろった名作。

悪漢一味への復讐のために町の保安官になったアープが、ドク・ホリデイと出会い、ホリデイを追って東部からやってきたクレメンタインに淡い恋をし、決闘で悪漢一味を退治し、もとの牛追いに戻ってゆくまでの物語。

アープとドクの緊張感あふれる出会い。
かつての優秀な医者から身を持ち崩し、結核に身を冒されるドクホリデイの苦渋。
ぶきっちょなアープがクレメンタインと教会のミサへ向かい踊る淡い恋、と名場面が続く。

山小舎おじさん的には、ヘンリー・フォンダのワイアット・アープの描き方が作られすぎに見えた。
ゆっくり歩き、長い脚を机や柱にもたれかけて座るのもいいが、弟の仇のクラントン一家が同じ町にいるのに緊張感がなさすぎ。
クレメンタインとの関係もプラトニックなのはいいが、フォンダが盛んにおめかしするのは見苦しい。

また、アープとドクが出合う酒場のシーン。
打ち解けて仲間になるのはいいのだが、そのきっかけがわかりずらかった。
先に拳銃抜いたドクが、お前も抜けというとアープが丸腰のベルトを見せる。
そのユーモアというか人間性で分かり合えたということか?

ワイアット・アープとクレメンタイン

女性陣はクレメンタイン(キャシー・ダウンズ)とドクの情婦のインデイアン女(リンダ・ダーネル)。
どちらも生活感なく、定型的なキャラクターに見える。
リンダ・ダーネルのエキゾチックで鉄火な魅力は見ごたえあったが。

20世紀FOXのラストタイクーン、ダリル・F・ザナックの総指揮。
例によって総ラッシュ版の後に、ザナック指示によるシーンの削除、追加、撮りなおしがあり、ラストシーンのクレメンタインへのキスも、フォードではない監督による追加撮影だという。

この作品が名場面の連続ながら、人物描写が定型的に見えたのは、「感受性のない」(ジャン・ルノワールによるザナック評)総指揮者の干渉のせいなのか。

「幌馬車」 1950年 ジョン・フォード監督  RKO

騎兵隊三部作を撮り終えたジョン・フォードが自身の原作を自身でプロデユース。
RKOでのびのびと撮った作品。

ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・ジュニアにワード・ボンドが主演。
ヒロインはジョーン・ドルー。
彼らは「黄色いリボン」にも出演しており、そのままフォード組に残留したか?
ほぼロケーション撮影。

右下の女優がジョーン・ドルー

モルモン教徒の一団60人が幌馬車隊を作り、西部の移住地を目指して進む。
馬を売りに来た若者二人を道案内に雇う。

インチキ薬売りと芸人の一団を拾い、威嚇してきたインデアンとは和解。
乾きに堪え、山を削って道を作って進む。

ケガをしたお尋ね者一味をも拾ってやるが案の定裏切られる。
力を合わせて窮地を脱し、若者二人は拳銃を投げ捨て、思う娘らとカップリングしてエンド。

のどかな牛追いの歌で幕を開け、ピリピリとしたムードは一切なく映画は進む。

若い主演二人はガンマンではなく平和主義者。
途中で拾う、インチキ医者と踊り子2人への温かい目線は「荒野の決闘」でも見られたフォード一流のもの。
丘を駆け降りてきたナバホ族に、「白人は大泥棒だが、モルモンは違う」と言わせ平和裏に解決。
夜はナバホのキャンプに招待さえされる。
これがフォードの望む理想の西部か。

ジョンソンは踊り子(ジョーン・ドルー)に武骨にプロポーズ(「駅馬車」のジョン・ウエインと全く同じ)。
素直に受けない踊り子は一度別れる。
この二人の関係も「駅馬車」と同様のフォードスタイル。

宗教的少数者、芸人などの底辺者、先住民インディアン、への偏見のなさ、暴力否定。
これらもジョン・フォードの本来のスタイルか。

ベン・ジョンソンとハリー・ケリー・ジュニア、そして一団を率いるワード・ボンド。
この三人、西部の男として、リンゴキッドやワイアット・アープより、より男らしい。
彼らが主人公の「幌馬車」は映画としてより優れていると思う。

若者二人が一度は断った道案内を受けて幌馬車隊に同行を決めるシーンがよくわからなかった。
「荒野の決闘」でアープとドクが意気投合するシーン同様、フォード映画での行動の転換は、理屈ではなく、西部の男同士の阿吽の呼吸によるものということなのか。

DVD名画劇場 丸根賛太郎の2作品

丸根賛太郎という映画監督がいた。

1914年生まれ、旧制富山高校時代に映画研究会で活躍、京都大学入学後から日活京都撮影所に出入りし、そのまま助監督に。
自作のシナリオが片岡千恵蔵御大に気に入られ、1939年25歳で監督昇進。
以来、大映、東映と渡り歩き46本ほどを演出した。
丸根賛太郎は、マレーネ・デートリッヒからとった監督名とのこと。

丸根賛太郎監督

丸根監督の「狐の呉れた赤ん坊」という1945年の作品が、ワイズ出版の「日本カルト映画全集」の9巻目として取り上げられている。

内容は、本作のシナリオ採録をメインに、丸根の奥さん(元大映女優)などへのインタビュー、丸根監督が生前に雑誌などに書いたエッセイの採録など。

丸根監督のエッセイはウイットに富みかつ読みやすい。
文面からは、本人のプロレタリアートとしての信条、ルネ・クレールなど戦前のフランス映画への造詣がうかがえる。

当方、このムックを入手していたところ、中古DVDで本作が出ていたので合わせて入手。
同じく丸根監督の「天狗飛脚」(1949年)と併せてみるチャンスを得た。

「狐の呉れた赤ん坊」 1945年 丸根賛太郎監督 大映

カルト映画なのかどうかはわからなかったが、坂東妻三郎の魅力と人情味があふれる作品で、丸根監督の信条でもあるプロレタリア性も随所に見られた。

むかしむかし、東海道大井川の渡し場に人足の寅八(坂妻)がいた。
酒とばくちと喧嘩が飯より好きな暴れ者。
人足仲間には兄貴と呼ばれ、飯屋の看板娘(橘公子)には慕われてもいる。

この寅八がひょんなことから赤ん坊を拾う。
寅八は酒もばくちも喧嘩も断って、父親になったつもりで赤ん坊を育てるが、赤ん坊は去る殿様の落し胤ということがわかり、涙の分かれを迎える。
丸根監督が企画からタッチし、脚色している。

主役はご存じ坂東妻三郎
ヒロインは橘公子

何といっても阪妻。
この人が出ているだけで映画全体が阪妻調に染め上げられる。
この人のチャンバラは素晴らしく、「血煙高田馬場」(1937年 マキノ雅弘監督)では度肝を抜かれ見ほれたものだ。

今回はコミカルな演技。
貧乏人で暴れん坊だが、1本筋が通っており周りには好かれるというキャラはお約束。

作品中、大事に育てた赤ん坊を取り戻しに来た家老一行に対し、庶民の人情を訴え、啖呵を切る場面が2,3あり、プロレタリアート・丸根の主張がうかがえる。

細かなところでは、渡し場のご意見番として、寅八らが何かと頼る質屋の屋号が「質々始終苦」だったり、サイレントの字幕をうまく使ったり、丸根監督の遊びこころが見られる。
赤ん坊の病気に、寅八が宿場を疾走して医者を抱えてくる場面のスピード感もいい。

阪妻の演技と、人情噺を骨格としながらも、全体を貫くコミカルで明るい調子、またきちんと整理された、わかりやすくテンポの良い演出は丸根監督の持ち味であり、実力だと感じられた。

「天狗飛脚」 1949年 丸根賛太郎監督 大映

市川右太衛門が飛脚に扮し東海道を駆け抜ける。

右太衛門は片岡千恵蔵とともに、戦後の東映時代劇を支え、御大と呼ばれたスター。
この作品では、粗末な格好でとにかく動き、走り回る。

この作品の右太衛門は画面とストーリーに溶け込み、コミカルでスピーデイーな展開の邪魔をしない。
この点はどんな映画に出ても画面を阪妻色に染め上げる板東妻三郎とは異なり、好印象だ。

右太衛門が飛脚屋の仲間(加東大介ら)に兄貴と慕われ、飛脚屋の娘(相馬千恵子)に好ましからず思われながら、子供たちのためにオランダ製の解熱剤を求めて大阪まで走り、江戸の町を荒らす怪盗からの冤罪を晴らすために駆け回わる。
なんと大阪まで東海道を3日で走り抜ける。

怪盗の正体の下手人を捕らえ、解熱剤を適正価格で入手し、家業のためにいやいや大阪に嫁ぐ途中のヒロインを救って大団円を迎えるまで、スピーデイーでテンポよく映画は進む。

昼行燈ぽいが正義感が強い役人に志村喬。

後味がよくすっきりすること請け合いの作品。

スターを使いこなし、会社が求める商業映画としての枠は超えず、わかりやすい作品に仕上げ、自分のカラーや主張も盛り込む。
職人監督としての模範のような2作品だった。

DVD名画劇場 女優NO.8 ジュデイ・ガーランド!

1922年にボードビリアンの父とピアニストの母の間に生まれたジュデイ・ガーランド。
幼いうちから姉二人と舞台に上がり、10代になってMGMと契約して映画デビュー。
「オズの魔法使い」(1939年)でスターになる。

ガーランドをスカウトしたアーサー・フリードはMGMで自分の専権チームを任されるほどの腕利きプロデユーサーで、「MGMミュージカル」として映画史に残る名作ミュージカルを数々手掛けた人物だが、一方の素顔はセクハラとロリコンで有名だった。

MGMの子役は撮影所内の寄宿舎に入れられ、ガーランドたちは勉強もそこで習った。
子役とはいえスターの集まる寄宿舎で、子役たちは飲酒、麻薬、異性関係で乱れていたという。
ガーランドも、MGMからスリムでいることを強制され、アンフェタミン(覚せい剤)を13歳から常用していた。

少女時代のジュデイ・ガーランド

ガーランドは1969年、47歳で客演先のロンドンで睡眠薬の過剰摂取で死亡したが、それまで数度の結婚と離婚、飲酒と薬物の常用、自殺未遂、映画出演時のトラブルを繰り返した。

1950年には、それまでの度重なる遅刻、出勤拒否によりMGMを解雇された。

1954年にはワーナーブラザーズで「スタア誕生」に出演し、評価を得たが、撮影中に繰り返されたガーランドの遅刻、出勤拒否などに懲りたワーナーは「ガーランドとは二度と仕事をしない」と宣言した。

本作でアカデミー主演女優賞にノミネートされたが、ワーナーから一切の推薦を得られなかったこともあり、受賞を逃した後、ガーランドは何度目かの自殺未遂を起こした。

MGMのマネーメイキングスター、ジュデイ・ガーランド

子役でスタートしたガーランドは、歌って踊れるミュージカルスターとして一世を風靡した。
ダンス向きの小柄な体で切れ切れのダンスと、パンチの効いた歌声を数々の映画で披露。
演技面ではコメデイエンヌとしての才能も発揮した。

ガーランドの才能は1946年に生まれた実娘ライザ・ミネリにも受け継がれた。

ライザ・ミネリはのちに「母はハリウッドが嫌いだった」、「母はハリウッドに殺された」と述べたという。

1999年全米映画協会が発表した映画俳優ベスト50の女優部門で、ジュデイ・ガーランドは8位に評価された。

「オズの魔法使い」 1939年 ヴィクター・フレミング監督 MGM

ガーランド17歳の時の出世作。
映画史に残る永遠のアイコンのひとつに数えられる作品であり、その後の数々の映画、テレビに影響を与えた。

「オズの魔法使い」のジュデイ・ガーランド

映画のオープニング!
ガーランドが農場で「虹の彼方に」を歌う場面!
オズの国について画面がカラーに転換する場面!

・・・ドキドキし、ハッとして思わず引き込まれる。
DVDを見ていてもそうなのだから、映画館の大画面で見た当時の観客の陶酔感はいかほどだったろう。

ドロシーと案山子とブリキ男

ファンタジーの世界をドラマ化に際し、セットや背景やキャラクターを形作る苦労は想像するに余りあるが、当時のMGM撮影所は最大限の想像力と財力をもってこれに対処している。
現在では多分に定型的な印象をもたらす、それらセットや背景やキャラクターではあるが、例えば現代の子供向けのテレビドラマの悪役キャラの原点がそこにあったりする。

ガーランドが歌う「虹の彼方に」は永遠のポピュラーナンバーだし、オズの国でガーランドがたどってゆくイエローブリックロードは、のちにエルトン・ジョンが自身の曲のモチーフとした。

オズの国のイエローブリックロードを行くドロシーと案山子

17歳のガーランドは、主人公ドロシーを演じるには育ちすぎで、大人が少女を演じているように見える場面もあったが、体格がよく堂々とした大物の雰囲気と、足さばきの見事さに垣間見えるダンスの才能は隠しようがなく、彼女のキャリアのスタートにふさわしい作品となった。

「イースター・パレード」 1948年 チャールズ・ウオルター監督 MGM

アーサー・フリード製作による、いわゆるMGMミュージカルの名作。
一時映画を引退していたフレッド・アステアを、怪我をしたジーン・ケリーの代役とはいえ、スクリーンにカムバックさせ大ヒットとなった1作。

アステアとガーランドの舞台シーン

場末の踊子のガーランドが、パートナーに去られた売れっ子ダンサーのアステアに拾われ、努力の末に新しいパートナーとして売れっ子となる。
ガーランドはアステアに恋をし公私ともにパートナーとなる、というストーリー。

まずは巻頭、アステアの達者なソロダンスで幕を開け、途中にアステアの元パートナー役のアン・ミラーの達者なタップダンスの一幕があるこの作品も、終わってみれば、すべてをかっさらうガーランドのダンスと歌声が圧倒的。

動きはキレキレだし、愛嬌というか親しみやすさがある。
歌声のパンチが効いているのも成長。
特にアステアと組んで踊る、ルンペンに扮した舞台の場面がいい。
ボーイッシュな服装で、コメデイエンヌ的に踊るのが似合っている。
根っからの芸人であり、エンターテイナーなのだろう彼女は。

アステアと歌い踊る

ドラマ的には、ピーター・ローフォード相手に、アステアへの恋心を語るワンカットの長回しのシーン。
長いセリフをシリアスな雰囲気で語るガーランドを見てその演技力にも感心した。

映画的には、アステアがスローモーションで踊り、背景のダンサーたちがノーマルスピードで踊っているという意欲的な画面作りも見られた。

豪華なセットで踊るスター。
バックダンサー役の女優達も一人一人が大変な美人。
これがMGMミュージカルというものか!

ガーランド映画のパターンとして、貧しい生まれの娘が苦労して場末で踊ったり歌ったりしているのを、売れっ子のスターが拾い上げ、娘は頑張って売れっ子になり、拾ってくれたスターへの愛も貫く・・・というパターンがあるようだ。

「スタア誕生」 1954年 ジョージ・キューカー監督 ワーナーブラザーズ

ガーランドの映画生活の総決算のような作品。

30代にはなったが、キレキレの動きは滑らかさを増し、歌声のパンチはますます効き、演技は情感を増し、持ち前の愛嬌と庶民的な親しみは維持されている。

歌と踊りは絶品

約3時間の長尺のうち、1時間が歌と踊り、2時間がドラマ部分の印象。
ストーリーの基本は「イースター・パレード」と同様。
ガーランドが弾き語りで、自分の生い立ちからをモチーフにして歌うなど、彼女の自伝的色彩を濃くしている。

業界の内幕もの的な要素もある作品で、舞台のそで、楽屋、撮影所のスタジオ、広報部などが多く出てくる。
ガーランド扮する主人公は架空の人物ではなく、多分に彼女自身である。

彼女を拾い上げる、売れっ子スターにイギリス人俳優のジェームス・メイスン。
根っからのハリウッド俳優のギラギラがなく、また演技がうまいのでジャストな配役。
ガーランドとの共演も、これが絶妙な塩梅。

メースンとガーランドは絶妙のコンビだった

ガーランドは自らをさらけ出すような役に挑み、アカデミー賞受賞の場面まで演技して臨んだ作品だったが、受賞は逃した。
ゴールデングローブ主演女優賞の受賞があったが。

アカデミー主演女優賞受賞のシーン

キューカーの演出は、ドラマ部分は押さえたトーンで、主人公二人の細やかな心情の描写に注力。
ダンスと歌のシーンではシチュエーションを、舞台、スタジオ、バー、二人の新居、などなど多彩に工夫して演出し、ガーランドの映画カムバックを強力に支援していた。

(余談)

ガーランドの実娘ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」(1972年 ボブ・フォッシー監督)はリアルタイムで見ていて忘れられない映画の一つである。
映画のほとんどを占めるかのような、ライザの歌が圧倒的だった。

戦前のベルリンのキャバレーを舞台にした作品で、ライザの舞台衣装といい、多分に「嘆きの天使」をモチーフにしていた。

ライザは目の大きさなどは母のジュデイに似ているが、大柄でダンサーというよりは歌手の印象が強く、パンチの効いた歌声は何度も言うが圧倒的だった。
母ジュデイの思い出を歌うシーンがある?のが印象的だった。

ジュデイの作品でその歌声を聞いて、娘ライザの歌声を思い出した。

DVD名画劇場 アメリカ時代のジャン・ルノワール

「大いなる幻影」で一般的な、「ゲームの規則」で映画史的な名声を博したジャン・ルノワールは、画家オーギュストの次男として生まれ、フランスで映画監督となった。

第二次大戦前夜、ヨーロッパを脱出し渡米。
ハリウッドに招かれ、二十世紀フォックスと年2本の契約をした。

ここに、みすず書房刊の「ジャン・ルノワール自伝」と、青土社刊の「ジャン・ルノワール越境する映画」という書籍がある。
前者は自伝。
後者はルノワールの残した書簡をもとに、渡米以降の足跡をたどった内容の、日本人仏文学者による書籍である。

「自伝」目次
「越境する映画」目次

この度見ることができた、ルノワール渡米後のDVD3作品を、2つの書籍に基づいて追ってみた。

渡米第一作とハリウッドでの最初の挫折

その当時の二十世紀フォックスは撮影所長ダリル・F・ザナックが現場の全部をコントロールしていた。
ザナックはいかにもフランス風の素材をルノワールに映画化してもらうつもりで招いたが、ルノワールにはその気がなく、アメリカそのものを描きたかった。

「私個人としては、監督が作家であらねばならぬと思っている。監督だけが(中略)作品のあらゆる要素を組み合わせて、映画に形を与えることができる人物である」(「自伝」 P102)、というのがルノワールの姿勢だった。

また、「『女優ナナ』(1926年)全編を通じて、私が問題とし、最終的には自分の責任においてこれを決めなかったような、いかなる仕事、いかなる表現、いかなる小道具も存在しないのである」(豊かな才能を持つ技術人や俳優たちの助けを借りることを前提としつつも)(「自伝」 P102)、という経験もしていた。

ルノワールのこの二つの言葉は、ハリウッドで行われている映画作りとは対照的だった。

フォックスとの契約後、「100%アメリカ的な題材の映画の監督を私に任せるようザナックを説き伏せるのは大変な苦労だった」(「自伝」 P244)との過程を経て、第一作「沼地」(1941年)の撮影に入る。
題材はルノワールの希望通り、アメリカ南部地方を舞台にしたものだった。

「沼地」。アン・バクスターとルノワール

スタジオで撮影のほぼすべてを行うハリウッド方式に反してジョージア州にロケを敢行した「沼地」の撮影中、ルノワールは、ラッシュを見たザナックから、8項目からなる指導の書簡を受け取る。

曰く、背景の細かなディテイルにこだわり時間を浪費している、ドリーやレールを使ってカメラを動かしすぎている、等々。
挙句にザナックは時間と予算の超過により撮影途中でルノワールの解任を決めかける。

結局解任は撤回となったものの、ハリウッド第一作におけるこの騒動はルノワールに遺恨を残す。

「ザナックは(中略)論理性に富み、ドラマの感覚も備えています。ただ彼には感受性がないだけです。」(「越境する映画」P67)とは、ルノワールのザナックに対する、またハリウッドのメジャースタジオに対する思い。

一方でザナックは、
「ルノワールは才能は十分あるんだが、ただ我々の仲間じゃなかったのさ」(「越境する映画」P315)とのちに述べたという。

ルノワールは「沼地」完成後二十世紀フォックスから契約解除される。

「自由への闘い」 1943年 ジャン・ルノワール監督  RKO

ルノワールの渡米第二作。
全編スタジオ撮影で、ハリウッド方式に迎合しつつ、最大限にドラマの主題を追求しながら自分らしさにもこだわったルノワールの仕事ぶりがうかがえる作品。

「自由への闘い」。左からルノワール、モーリン・オハラ、ジョージ・サンダース

フランスをモデルに、ドイツに占領された町の住民を描いている。
戦中に作成され、ドイツが進撃を続けていた時代の作品ながら、恐怖心やサスペンスをそれほど強調しないのはルノワールの作風。

主人公は臆病な独身教師でマザコンのチャールズ・ロートン。
隣に住む教師仲間のモーリン・オハラに内心惚れているが告白などとんでもない。
占領軍への抵抗を呼びかけるビラが配られると見つかりはしないかとびくびくする。

オハラの兄の鉄道員が抵抗者で、オハラの婚約者の鉄道キャリア(ジョージ・サンダース)が占領軍の協力者。

ロートンの母親は息子可愛やで、隣の娘オハラに対抗心を燃やすは、息子が抵抗者の容疑で引っ張られたら、占領軍から市長と陳情に駆け回るは、で関係者をひっかきまわす。
この母親のキャラがルノワール調でいい。

ロートンが勤める小学校の男子児童の教室での暴れっぷりも、子供らしさを強調するルノワール調。

抵抗者であるオハラの兄も、屈託なく下っ端のドイツ兵と仲良くして占領軍の目をごまかす。
ここら辺も、教条的でサスペンス一辺倒のレジスタンス映画に比べ映画の厚みを感じる。

この作品はしかし、戦後直後にフランスで上映された際に不評を受け、さらに米国に脱出したルノワールが逃亡者としてのそしりを受けるに及んで、彼の帰国とフランス映画界への復帰を遠ざけたきっかけとなったという。

「南部の人」 1945年  ジャン・ルノワール監督  ユナイト

ルノワールが興味を持ったアメリカ南部地方を舞台に、綿花畑を開拓する若い農民一家を描いた作品。

ハリウッドの、メジャースタジオでスター俳優を使って大作を撮ることは非現実的となっていたルノワールが、フランス人製作者ロバート・アキムの提案を基にして実現した企画。

主演予定のジョエル・マクリーが下りて、出資者のユナイト映画も下りそうになったものの、ルノワールは低予算を逆手に取り、無名俳優を使って、ロケ隊を結成して撮影した。

手前の二人は偏屈な隣人とその甥っ子役の俳優

白人の小作農民が、メキシコ人に交じって綿花プランテーションで綿花を摘むシーンに始まる。
やがて、独立を決心した主人公一家がおんぼろトラックに家財一式を積んでボロ屋に引っ越し、雨漏りに鍋釜を当てての生活を始める。

農民の生活をリアリズムで描く日本映画が一瞬思い出される。
アメリカ共産党員で赤狩りのハリウッドテンの一人として投獄されたハーバード・ビーバーマンの「地の塩」(1954年)にムードが似ているなと思ったり、不況時代の農民を描く「怒りの葡萄」(1940年 ジョン・フォード監督)を思い出したりするシーンが続く。

若き夫である主人公は妻と協力し、春までの間、川で魚を釣り、野生動物を狩り、春になってラバを使って畑をおこし、種を借りて蒔く。
一緒に来たばあさんは常に文句を言い、幼子は壊血病にかかる。
頼みの隣人は全く非協力で妨害さえする。

ルノワールはしかし若夫婦の逆境を誰のせいにもしない。
社会情勢だの主義主張は関係ない。

どうしょうもなくなって地面に伏せ、神に祈る夫婦に神の答えはない。
偏屈な隣人にダメもとで交渉に行ってみる。
もうだめか、と思うと友人が子供に飲ませる乳牛を持ってきてくれたりもする。

自力と人間関係で問題に対処する、ルノワール流人生哲学が貫かれている。

突然始まる町の飲み屋での、主人公と友人が絡む乱闘シーンと、主人公の母親と町のドラックストアの主人の老人同士の再婚披露宴の大騒ぎ、の二つの場面はルノワール式のお祭り場面か。

結婚式の大騒ぎの夜、一帯を襲った大嵐。
ルノワールが映画でこだわる「水」がおもうさま畑や一帯を覆い流れ、主人公らが流された牛を救いに水の中でもがくシーンが描写される。

収穫寸前で全滅した綿花を前に、畑からの撤退を決心した夫の前に、あきらめずに前向きな気持ちの妻が現れる。
改めて前途に希望を持つ二人を映して映画は終わる。

撮影はテント村をカリフォルニアの綿花地帯にある村に設営して行われた。
ロシア正教会を信じる移民が開拓したその村では、村民も撮影に協力。
ラッシュ上映には村民も詰め掛け、そのあとは撮影隊も含めロシア民謡で盛り上がったという。

「映画とは、際限のない新規巻き直しのことだ。この地で私はまさにすべてをゼロからやり直し、そう悟ったのである。」(「越境する映画」 P87)

「河」 1951年 ジャン・ルノワール監督 ユナイト

英国人女流作家の自伝小説を読んだルノワールが映画化権を獲得したが、スポンサーが見つからない。
現地で育った英国人少女の自伝。
像も虎狩りもないインド(映画)はインドではない、がハリウッドでの常識だった。

一方で、ビバリーヒルズの花屋チェーンの大将がこの小説に興味を示しルノワールに合流した。
インド好きの大将は像も虎狩りも好きだったが、ルノワール作品の制作者兼スポンサーとして名乗りを上げるに際し、像や虎狩りが出てくる映画はあきらめた。

ベンガル地方に住む英国人一家の物語。
娘たちに起こる愛の目覚め、インドの異国情緒に満ちた踊りや衣装。
これらすべてが.安らかな中立性のうちに憩っているように私には思えた。(「自伝」P316要旨)
とはインドにロケハンした際のルノワールの言葉。

主な登城人物は、主人公の少女、その姉、隣家の英印混血の娘、父、母、旅行で立寄る英軍大尉の青年。
青年は二次大戦で片足を失っている。

現地人乳母や門番と仲良く暮らし、塀を乗り越えて隣家と行き来する子供たち。
年上の娘二人は白人青年の来訪に心浮き立つ。

義足となり心閉ざす青年との交流。
隣家の混血娘は学校の寄宿舎から戻り民族意識に目覚める。
それらの出来事を通して描く主人公(のちの自伝作家)の成長。

ルノワールは主人公、姉、混血少女、義足の青年などメインキャストを素人のオーデイションにより配役。
土候の別荘を英国人一家の家に見立ててロケを敢行した。

ルノワールと主要キャスト。左から主人公、その姉、隣家の混血娘

「『河』の撮影期間中、われわれは徹底的に中間色を追放した。(中略)家屋からカーテンから、家具、衣装に至るまで、われわれの点検を受けなかったものは何一つとしてない。」(「自伝」P320、321)

「『河』は私の作品の中で最も手の込んだ準備をした映画のように見えながら、その実、一番自然に近い映画なのだ。」(「自伝」P326)

ルノワールの言葉がすべてを語っている。

作家としての創造性を最大限に追求しつつ、矛盾するようだが、俳優の自然な演技を生かし、安直なドラマよりは状況の流れを尊重し、素材や背景を愛する。

映画に対するルノワールの姿勢が背景に流れている作品だった。

DVD名画劇場 ハワード・ホークス 男の世界だ!

最近せっせとDVDで映画を集めている山小舎おじさん。
アメリカ娯楽映画の巨匠、ハワード・ホークスの代表作3本を見た。

「暗黒街の顔役」 1932年 ハワード・ホークス監督 ユナイト

これは傑作だ。
アル・カポネの若き日がモデルだという、禁酒法時代のアメリカ(シカゴ?)を舞台にしたギャング映画。

「犯罪王リコ」(1930年 マービン・ルロイ監督)、「民衆の敵」(1931年 ウイリアム・A・ウエルマン監督)とともに3大ギャングスター映画と呼ばれる。

オリジナルポスター

貧しいイタリア移民の息子(ポール・ムニ)が、町のギャングの手下として、ご禁制のビールを強引に酒場に売りつけ、ライバルギャングを武力で制圧してのし上がってゆく。

ポール・ムニ

ポール・ムニのオーバーで愛嬌のある演技が生きている。
いい女を見かけるときのウインクだったり、ボスの指示を受けた後のふざけたようなリアクションが、いちいち、いい!
何の後ろ盾も、コネもなく、特権階級でもなく、身一つでのし上がろうとするアンちゃんの生きざまを、ポール・ムニは表現する。

このポール・ムニのキャラクター。
ギャングスター映画という虚構の世界に割り切って遊ぶ、ホークス一流の演出がなせる業でもあろう。
一方で、アメリカ人・ホークスにとっての、イタリア移民という外国人、の物語としての距離感も感じられる。

作中、マスコミや警察に、「アメリカ人でもない連中が暴れて市民を危険に云々」と発言させてもおり、これは外国人・イタリア移民のはねっ返りの物語である、とのエクスキューズを行っている。

ポール・ムニが警察にしょっ引かれるときに、ムニが調子に乗って、警察官のバッジでマッチを擦り警察をコケにしたら、すかさず警察官に殴らせる。
〈イタリア人のガキ〉に対してあくまで上から目線で、毅然と臨んだ警察(体制)の姿を強調するホークスでもある。

また、マスコミ(体制)もギャング団の抗争に対し、冷静で公正な反応を示す。
新聞社のデスクは、慣れた様子でギャングの勢力争いを分析予測する。

警察とマスコミの、ギャングスターに対する、毅然としてかつ余裕ある、このスタンスは、一般大衆と権力側のゆるぎない常識性を表すものであり、ホークスはことあるごとに作中で強調する。
この、大衆と権力の常識性はラスト、主人公を追い込む警察官の群れの物言わぬ圧力の不気味さに帰結する。

左から二人目、ボス、ジョージ・ラフト、ポール・ムニ

一般大衆は、タテマエとして危険なギャングどもを非難しつつも、映画における、身一つでのし上がってゆく彼らのある意味公平な世界観に興奮する。

そのメカニズムをよく理解しているホークスは、ギャングスターそのものにはタテマエとしての距離を取りつつも、主人公ポール・ムニの個性だったり、相棒ジョージ・ラフトの仁義にあふれたふるまいだったりを粋でいなせに描く。
また、英語が書けない(移民の)手下のエピソードを時間をかけて描く。

この手下、字が書けないばかりではなく事務所の電話に対応もできない。
が、ラストで主人公が窮地に陥った時に最後まで身を挺して仁義を通した存在として、ホークスは描き切る。
男の約束だったり友情が第一という、ホークス的男の世界である。

また、登場する女性を魅力的に描くのもホークス流。

主人公の妹で兄の〈出世〉とともに遊び人となってゆく娘(アン・ドヴォーラック)や、ボスの情婦で主人公が盛んにコナをかける大人っぽい美女(カレン・モーレイ)というタイプの違う2人の女優は、ホークスが厳選した魅力あふれるキャステイング。

勢ぞろいしたポール・ムニ一家。左端が字は読めないが仁義溢れる子分

主人公の妹が2階の窓から猿回しがやってきたのを見て、それを見物している恋人のジョージ・ラフトに小銭を投げる、なんということのないワンシーン。
アメリカにも猿回しがあったことにも驚くが、身分の低い移動芸人が出入りする移民街で社会の底辺(アメリカ人一般大衆の世界の外)でしか生きるすべのない若者たちの、たまさかの憩いと恋を描いた出色のシーンだった。
一般大衆側の常識性の人、ホークスもその点はわかっている。

イタリア移民の若者たちの生きざまと、個々のキャラクターに共鳴しつつ、一般大衆側の常識にも十分配慮したホークスの傑作だった。

(余談)

この作品、途中から「仁義なき戦い」を思い出しながら見た。
勢いのあるアクションシーンや、社会から疎外された若者のハチャメチャぶりを描くという点では共通している。

ポール・ムニが菅原文太のキャラだとすれば、ジョージ・ラフトは梅宮辰夫か。
字を書けない子分は川谷拓三で決まりだろう。

彼らの命を懸けた友情は底辺に生きる者同士のつながりであり、ホークス流男の世界であると同時に、やくざ映画(というより実録映画)的である。

この作品の女優達も、「仁義なき戦い」シリーズのエモーショナルな女優たちの熱演を思い出させる。
特に主人公の妹役のアン・ドヴォーラック。
兄に対する愛憎と底辺に生きるものの宿命を、ラスト、兄貴に拳銃を向けるも撃てず、警察との銃撃戦では、生命の最後の燃焼のように銃に弾を込めていた姿がこの映画の永遠のアイコンとなった。

アン・ドヴォーラック

妹を射殺し、主人公を追いつめる警察官の群れは、サイレント時代の日本映画、伊藤大輔監督の傾向時代劇、たった一人の主人公を無数の御用提灯の群れが追い詰める絶望的な光景を一瞬思い出させた。

「三つ数えろ」 1946年 ハワード・ホークス監督 ワーナーブラザース

巻頭、依頼を受けた私立探偵フィリップ・マーロウが豪邸に呼ばれる。
依頼人の老人が車椅子で待つ温室に案内される前に階段からショートパンツ姿の若い女が、マーロウを挑発するように下りてくる。
怪しげで、即物的で、いかがわしさ満点のオープニング。

「深夜の告白」(1944年 ビリー・ワイルダー監督)の巻頭では、バスローブ姿のバーバラ・スタンウイックが物憂く階段から下りてきた。
たばこの煙と埃が漂う退廃的な「深夜の告白」の屋敷に比べ、マーロウが呼ばれた屋敷がアメリカンで明るく見えるのは、監督がワイルダーではなくホークスだからか?

ボガートとバコール

マーロウ行くところ魅力ある女性が出現し、マーロウに言い寄る。
ホークスが選んだ女優たちが何ということのない役柄でも魅力を発散する。

ショートパンツの依頼人の次女に続いては、古書店の店員(ドロシー・マローン)。
彼女はマーロウを見るや眼鏡を取って髪を下ろし、店を閉めて別室にマーロウを誘導するし、タクシードライバーの若い女は名刺を渡して「夜の方がいい」とマーロウを誘う。

当時の最新メカであり小物である、自動車や電話を駆使し、動き回るマーロウは、女にかまけるだけではなく腕利きでもある。
何より街(西海岸?)の裏も表も精通した粋な男なのだ。

バコール「震えているのね」、ボカート「怖いさ」

込み入ったストーリーは追ってゆくのも大変でよくわからなくなってくる。
登場する女は全員一見悪女風で、本当の悪女は依頼主の長女(ローレン・バコール)ただ一人。
これもマーロウに惚れて最後は味方になる。

いずれにせよ、筋に重きを置かず、社会正義や常識への偏重はさらさらなく、映画は進む。

それにしても全編喋りまくりのハンフリー・ボカード。
アメリカの探偵はいかなる場合にもウイットをもって言葉で状況に対応しなければならないし、女性に対してはアクションを取らなければならない。
孤独で都会的な、これもホークス流・男の世界ってやつなのだろうか?

ヒロイン、ローレン・バコールはラスト、やってくる黒幕を前にしたマーロウに、「震えてるの?」と聞く。
「怖いさ」と答えるマーロウに対し、泰然自若といった風で補助する。

男勝りで度胸があり、いざという時に、男の尻を叩かんばかりに助ける、ホークス映画の女性像である。

(余談)

チャンドラー原作のフィリップ・マーロウ物は数々映画化されているが、「ロンググッドバイ」(1973年 ロバート・アルトマン監督)が忘れられない。

いわゆる70年代のアルトマン風マーロウではあるが、主役のエリオット・グールドの力の抜け具合がよかった。

富豪の依頼主、悪女、悪役、と登場人物は「三つ数えろ」と変わりないが、グールド流のマーロウはあまりしゃべらず、腕利きにも見えない。
といってヒッピー的な新解釈のマーロウでもなく、もたつき、やられつつ事件に対処してゆく。

ラストシーン、事件の黒幕で富豪の妻の悪女が見つめる中、彼女を無視して通りがかりのメキシコ娘を捕まえ、くるりとダンスして去ってゆくマーロウ。
ボガードとは全く違うふるまいながら、精一杯筋を通そうとする70年代の男の粋がさりげなく表現されていた。

「赤い河」 1948年 ハワード・ホークス監督  ユナイト

1800年代の西部。
テキサスからカンサスへの牛の搬送路を開拓した男たちの物語。
ホークス流のアメリカの叙事詩。
ほとんど男のみによって語られ、女優は2人しか出てこない。

ほとんどがロケで撮影され、何百頭もの牛が移動し、時には暴走する。
俳優たちは牛を追い、野営する。
馬にを操り、川を渡り、埃をかぶり、雨に打たれ、インデイアンと銃撃戦を行う。

ホークスは引き気味のカメラで牛と西部の風景を捉える。
俳優らは多くの場合、情景の一部分だ。

古い価値観のジョン・ウエイン。
年とともに頑固さが増し、横暴にさえなる。

少年時代にウエインに拾われ、息子として育ったモンゴメリー・クリフト。
南北戦争も経験し、牧童たちの人権だったり、汽車敷設などの近代化に敏感な新しい世代。
この二人(ウエインとクリフト)を中心にした、世代論と組織論であり、世代交代を背景にした男の人情の世界。

名わき役、ウオルター・ブレナンは、ウエインの長年のパートナーだったが、ミズーリまでの1600キロの牛追いの最中に、新しいボス・クリフトに鞍替えする。

断固として自らの野望を実行し、そのためには他人の命も利益も二の次、女の気持ちは三の次。
他人の窮地などは気にしない。
男らしいが横暴なジョン・ウエインは古い時代のアメリカの価値観の象徴。
100日に及ぶ牛追いの困難(人生の困難)に対し臨機応変に対応できず、牧童たちの反感を買う。

時代の価値観に即したクリフトにボスが交代するのは必然だが、理屈はいいとして果たして二人の感情は?

巻頭でウエインが、すがる女性をあっさあり置き去りにして自分の野望のためテキサスへ向かい、残った女性は幌馬車隊とともにインデイアンの襲撃に滅ぶ。
この伏線は、14年後の牛追いの最中にクリフトが助ける幌馬車隊の女性(ジョアン・ドルー)に引き継がれて二世代越しに伏線回収されることになる。

ジョアン・ドルー扮する〈新〉ヒロインは、矢に肩を射抜かれても気丈にふるまい、気に入ったクリフトを追いかける。
クリフトが牛追いに同行はさせないというと、あとから来たウエインに掛け合って追いかけ、目的地で合流する行動力。

左からジョン・ウエイン、ハワード・ホークス監督、ジョアン・ドルー

ラストシーンで殴り合う親子に拳銃をぶっぱなし、「あんたたちお互いに好きなんだから殺し合えるわけないでしょ」と喝破する。
まさに激しい〈ホークス的女性像〉の決定版である。

母親にケンカをたしなめられた親子のように、ばつが悪そうに笑い合うウエインとクリフト。

男は女に敵わないのだ、というホークス流のテーマである。
取ってつけたような結末でもあるが。

クリフトに対し「震えてるの?」と叱咤するジョアン・ドルーは「三つ数えろ」でボカートを励ますバコールと同様。

牧童の反乱に対し、ブレナンがライフルを放り、受けたウエインがぶっぱなすスポーテイなアクションシーンは、監督のホークス自身が「リオブラボー」でセルフリメイク。

どちらもホークス映画の名場面である。

デヴュー作のモンゴメリー・クリフトはトム・クルーズそっくりの精悍さだった。

DVD名画劇場 女優NO.4 イングリッド・バーグマン

評伝「イングリッド・バーグマン時の過ゆくまま」

全米映画協会が1999年に選定したアメリカ映画俳優ベストの女優部門で4位だったのがイングリット・バーグマン。

彼女の評伝がブックオフに200円で売っていたので、買って積んでおいた。
この度バーグマン作品をDVDで見るにあたり、積んであった評伝を紐解き、DVDで見た4作品の関連部分を拾い読みしてみた。
印象深いエピソードが山積みの評伝だったので、それらをピックアップして作品評を進めてみたい。

バーグマンは、1980年に自伝「マイストーリー」を発表していたが、当然ながら本人が望まない部分には触れていない。
1986年に発表された評伝「イングリッド・バーグマン時の過ぎゆくまま」では、自伝、資料、関係者へのインタビューなどにより、本人が触れたくなかった部分も含めた客観的なバーグマン像の創出に成功しているとのこと。

バーグマンは1915年スエーデンのストックホルム生まれ。
幼い時から演ずるのが好きで、女優を目指しスエーデン王立演劇学校へ入学。
その後、国内で演劇、映画に出演した。
この間結婚して娘を授かっている。

スエーデン生まれで王立演劇学校を出、国内で映画出演というとグレタ・ガルボと同じ経歴になる。
また、渡米前に演劇、映画で活躍し、また結婚して一女を授かっているとなるとドイツ出身のマレーネ・デートリッヒと同じ経歴となる。
欧州出身のこの2大先輩女優と、バーグマンとの共通点はこう見ると多い。

バーグマンは渡米前に11本の映画に出演していた。

評伝に目を通しつつバーグマンの作品を見るとわかってくることがある。

バーグマンの作品を見るということはすなわち、バーグマン本人の得難い個性を感じることであり、渡米後に最も世話にもなり、確執もあったハリウッドプロデユーサー、デビッド・O・セルズニックについて認識を深めることである、と気づかされる。

当然ながら、夫ペッターをはじめ、作品ごとの監督、共演者とバーグマンのただならぬ関係性にも思うところ大、とならざるを得ない。

デビッド・O・セルズニック

ハリウッドで30年代から40年代にかけて、「風と共に去りぬ」をはじめとする数々の名作を手掛けたプロデューサーのセルズニック。

キエフ出身のユダヤ人で宝石商だった父がユニバーサル映画に出入りし、その実権を握るまでになったことから映画とともに育つ。

ワーナー兄弟、ウイリアム・フォックス、アドルフ・ズーカー、サミュエル・ゴールドウイン、ルイス・B・メイヤーらいわゆるハリウッド第一世代の〈タイクーン〉らの後を継ぐ第二世代のホープとして、アービング・サルバーグ、ダリル・F・ザナックとともに〈奇蹟の若者たち〉と呼ばれた。

青年時代のセルズニック

セルズニックは映画を金儲けの手段としてのみ考える人間を軽蔑したが、同時に商売でもあることを否定し去るものを認めなかったという。

「銀行マンでは映画は作れない。ショーマン独特の勘とドラマツルギーに精通していなければならない。さらに激しく飛び交う言葉と音とを見事に統一する能力を要求される。」
これは密造酒で財を成し、投資目的で短期間ハリウッドにかかわり、去ったジョセフ・ケネデイ(ケネデイ大統領の実父)が映画プロデユーサーについて述べた言葉である。

セルズニックは(サルバーグ、ザナックも)ケネデイが看破した映画製作の要諦の表と裏を、身近に経験して育ち、長じて理解し実行する能力を持った、良くも悪くも数少ない人間のうちの一人であり、ザナックを除き長くない人生をハリウッドを舞台に突っ走しっていった。

MGM入社後頭角を現したセルズニックは、タイクーン ルイス・B・メイヤーの娘と結婚。
トップと衝突しメジャースタジオを転々とした後独立した。

ヴィビアン・リーをイギリスから、ジョーン・フォンテイーンをマイナープロからスカウトしてきた、芸能プロ社長でもあるセルズニックは、スエーデンからバーグマンをスカウトし、7年契約を結んだ。

セルズニックは自らのプロデユース作品「別離」でバーグマンをハリウッドデビューさせ、その後は彼女を高額な金額で貸し出しもした。
バーグマンがスターになり、セルズニックは長期契約を望んだがバーグマンは最後まで了解しなかった。

(余談)
ミドルネームにアルファベットを入れるのは、ルイス・B・メイヤーが始めたもののようだが、本人たちがもったいぶっているだけで特に意味はないようだ。

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人、エリッヒ・フォン・シュトロハイムが貴族でもないのにフォンを名乗ったようなものであり、よく言って芸名、悪く言ってギミックであろう。
また、ユダヤ系の俳優がアングロサクソン風の芸名を名乗るのも同じと考える。

ちなみにギミックがその業界で必要不可欠なのがプロレス業界で、ユダヤ人のジャック・アドキッセンがフリッツ。フォン・エリックを名乗りナチギミックでブレークするなどぶっ飛んだ例が多い。

またその当時、アメリカの日系レスラーは悪役でしかありえず、東郷、東条などを名乗り日本軍人ギミックを行うか、あるいは田吾作スタイルで下駄をはき、ゴング前に背を向けたベビーフェイス役に塩を撒くスニークアタックで真珠湾のだまし討ギミックを行うことが多かった。
ジャイアント馬場もアントニオ猪木も坂口征二も修業時代のアメリカでは田吾作スタイルでファイトしている。

「別離」 1939年 グレゴリー・ラトフ監督 ユナイト

バーグマンがスエーデン時代に「間奏曲」として主演した題材の再映画化。
バーグマンのハリウッド第一作。

「風と共に去りぬ」を製作中のセルズニックが多忙にもかかわらず頻繁にセットに顔を出したという。

レスリー・ハワードと

バーグマンの雇い主のセルズニックは、自然に見せる以外のメークアップと、英語でのインタビューを禁止してデヴューさせた。

監督はウイリアム・ワイラーでスタートし、グレゴリー・ラトフに交代。
ラッシュを見て撮影のハリー・ストランドリンクをグレッグ・トーランド(「市民ケーン」ほか)にセルズニックが交代させた。

移動ショットが多いカメラワークはトーランドの手腕だったのかもしれない。

バーグマンは単身渡米、朝9時から18時までセットに入り、夜は時に21時までピアノ練習を行った(役柄がピアノ奏者のため)。

自ら製作のセルズニックは、「非の打ちどころがないほど。一番良心的な女優」とバーグマンをたたえた。

ピアノ奏者(バーグマン)が、既婚のバイオリン奏者(レスリー・ハワード)と恋に落ちるが、現実に目覚めて恋人のもとを発つというストーリー。
生々しい不倫の物語ではなく、初々しい若い女性の偽らざる恋と別れの物語となった作品。

当時24歳のバーグマンの若々しさ、無理のない笑顔がハリウッドのスクリーンに登場。
ドレスから除く逞しい肩幅はスエーデン女性らしいが、逞しさより人間的魅力として映るのがスターたるバーグマンが持って生まれたもの。

「風と共に去りぬ」との掛け持ちで、大酒とハルシオンの常用で映画製作に臨んでいるセルズニックが、さらに命を削ってバーグマンを売り出しにかかった作品。

バーグマンの演技上の基本路線である、初々しい笑顔と健康的な体躯、無邪気な性質が、早くも存分に発揮されている。

「誰がために鐘は鳴る」 1943年 サム・ウッド監督 パラマウント

前作の「カサブランカ」の撮影を終えたバーグマンは、宣材の撮影を夫役のポール・ヘンリードと行っていた。
そこへセルズニックから、「誰がために鐘は鳴る」のマリア役がバーグマンに決まったとの電話がかかってきた。
喜びの金切り声を上げるバーグマンは、ヘンリードには「獲物をしとめた雌虎、大変な歓喜と勝利の叫び声」のように聞こえた、と評伝にはある。

原作者のヘミングウエイもマリア役はバーグマンしかいないと公言。
有名人にも味方が多いのもバーグマン個人の魅力のなせる業。

雇い主のセルズニックは、バーグマンを約12万ドルでパラマウントに貸し出し、バーグマンには約3万ドルを支払った。

クーパーとともに

映画はシエラネバタ山脈へ10週間のロケを敢行。
野外撮影は、自然児バーグマンにとって、爆発しそうなほどの幸せだった。

ロケの最中には共演のゲーリー・クーパーと空き時間ほとんどを一緒にいるほどの仲になり、ラッシュを見たパラマウントの幹部は両者のロマンスを確信した。
スタッフはバーグマンに対し、クーパーと一緒のシーンではあまりうれしそうな表情をしないようにとアドバイスしたという。

二人の仲は次の「サラトガ本線」の間は続いたが、そのうちクーパーからの連絡もつかなくなって終了した。
クーパーはのちに「あれほど自分を愛してくれた女性はいなかった」と述懐したという。(ということはのちのパトリシア・ニールとの浮気というか同棲はそうでもなかったということなのか?)

マリア役を演じた

この期間中も、セルズニックはバーグマンとの長期契約を画策したが果たせなかった。

作品は、短髪で素顔が太陽に光り輝く乙女役のバーグマンがむしろ脇に回り、ピレネー山脈中の人民軍(政府軍側に言わせると山賊一味)の堕落したリーダーとその情婦を中心にした組織論であり、絶望の中に活路を見出さんとするパルチザンの物語。
そこにアメリカ人義勇兵のクーパーの橋爆破の任務と、政府軍に両親を殺された娘マリアが絡むもの。

ハリウッド美男美女からは程遠いがリアルなリーダー役(エイキム・タミロフ)と情婦役(ギリシャ人女優:カテイーナ・パクシヌー)の熱演も、クーパーが出てくると定番の西部劇か何かに見えかねない難点はあるものの、ロケ撮影でドラマをまとめ上げたスタッフの意欲は買いたい。
バーグマンはなるほど楽しそうに生き生きと演技していた。

夫のペッター、娘のピアは、このころではすでにアメリカで暮らしている。

「ガス燈」 1944年 ジョージ・キューカー監督 MGM

評伝にこの作品のことはほとんど出てこない。
評伝に記載するほどのロマンスもゴシップもなかったのかもしれない。

製作はアーサー・ホーンブロウ・ジュニアで配給はMGM。
セルズニックは製作にタッチしていない。

「ガス燈」シャルル・ボワイエと

バーグマンは訳ありの夫から精神的に追い詰められる新妻役。
タネは終盤まで明かされず、観客もバーグマンと一緒に不安な気持ちにさせられる。

演出はジョージ・キューカー。
MGMで、ガルボやキャサリン・ヘプバーンの信頼を得た監督であり、本作も遺漏なく丁寧な造り。
だが、サスペンスというより、夫(シャルル・ボワイエ)のモラハラ成分が強く出てしまい、純粋サスペンスのヒッチコック作品とは若干の手腕が違う印象。

バーグマンはもう一つの定番演技である、追いつめられる罪なき若妻、のキャラを申し分なく演じる。
がそれ以上どう?といわれても困る作品。

「ジャンヌ・ダーク」 1948年 ヴィクター・フレミング監督 RKO

イギリスに侵略され国土が分割した15世紀のフランス。
優柔不断な皇太子シャルルは、オルレアンの乙女・ジャンヌのおかげで劣勢のフランス王に即位できたにもかかわらず、パリ奪還をせず、あまつさえ救国の乙女ジャンヌを占領軍イギリスに売り渡してしまう。

このシャルルを演じたのがホセ・ファーラー。
単なる卑劣漢ではなく、品位も保った貴族の、骨の髄からの堕落ぶりを演じて印象に残った。

ファーラーが評伝で言う。
「女優ならだれでもジャンヌをやりたがりますよ。俳優は気高い人物と自分を同一視して、心底からその役を自家薬籠中のものにしたいと思うんです。彼らの職業生活ときたら腐敗に満ちているのに、俳優というものは実際の業績以上に理想化されるんですよ。イングリッドは自分自身の神話を信じ始めたんだと思います。とにかく変わった女性でしたから。」

「ジャンヌ・ダーク」。宗教裁判の一場面

バーグマンはかねてからジャンヌの映画化を希望していた。
ブロードウエイの舞台でジャンヌを演じてもいた。
セルズニックでさえ1940年にはバーグマン主演でジャンヌを企画している。

「イングリッドがこの作品で描きたかったのは15世紀ヨーロッパの血にまみれた道徳的にあいまいな世界で生命を燃えつきさせた歴史上の人物ではなかった。イングリッドが演じたかったのは、神話的なジャンヌ、生徒向けの安価本に書かれているジャンヌだった」(評伝作者)。

さはさりながら、バーグマンはこの作品に、企画者、出資者、監督の愛人、脚本家のお気に入りとして参加した。
セルズニックとの契約は切れ、契約延長には応じていなかった。
監督の62歳、ヴィクター・フレミングはバーグマンなしでは生きていられないほどになり、これまでの数々の監督、共演者らと妻バーグマンとの情事に疲れた夫ペッターとの結婚生活は(実質的にはとっくに)破綻にむかっていた。

バーグマンの家族。夫と娘

作品は要領よくストーリーを追っており、人海戦術によるオルレアンでの城壁攻略場面の迫力もあり、シャルル皇太子の戴冠式のセット等も見ごたえがあった。(DVDは114分だったが、オリジナルは140分とのこと)。

バーグマンが家族を捨てハリウッドを捨てて、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督のもとに走るのは、次回作「山羊座のもとで」(1949年 アルフレッド・ヒッチコック監督)を撮り終えたのちのことだった。

DVD名画劇場 監督フランク・キャプラ

フランク・キャプラは貧しいシチリア移民の家から身を起こし、ハリウッドで映画監督になった。

1920~30年代のハリウッドで育ったバッド・シュルバーグの自伝「ハリウッドメモワール」では、風紀乱れるハリウッド(プロデユーサーであるその夫も女優の家に入り浸っている)に住人である著者の母が、「あの人たちのように暮らしなさい」と息子である著者に言ったのがフランク・キャプラの一家だったという。

本ブログでも、キャプラ作品の「オペラハット」(1936年)、「我が家の楽園」(1938年)、「スミス都へ行く」(1939年)を紹介した。
どの作品も、善良で素朴な若者が、己の良心に従って身近な悪と戦うというもので、庶民の人間性と素朴な正義が、謳われていた。

キャプラ作品はDVDでも多数ラインアップされており、自然と手許に集まってきた。
代表作を含む全盛期の4作品を見た。

「或る夜の出来事」 1934年 フランク・キャプラ監督 コロムビア

キャプラの出世作。
MGMからクラーク・ゲーブルを、パラマウントからクローデット・コルベールを借り受けた弱小スタジオ・コロムビアがメジャー化していったきっかけとなった作品。

髭ははやしていたが(1931年の「残劇の砂漠」では髭がない悪役を演じていた)、まだ若くアクションもどきの素早い動きを見せるゲーブル。
勝気な金持ち娘を演じ、ツンデレぶりも可愛いコルベール。
旬のスター二人が力いっぱいの演技で繰り広げる、ロードムービーにしてロマンチックコメデイ。

映画の観客が求めるものを的確で無駄なく提供したキャプラの監督ぶりは、封切りから90年近く後のDVD視聴者(山小舎おじさん)をも陶酔させる。

ゲーブルとコルベール

当時のアメリカの風景。
長距離夜行路線を走るボンネットバスでは車内販売もしていた。
休憩時間に泊まるドライブインではハンバーガーが売られ、興が乗ると車内で生バンド演奏が繰り広げられ乗客が合唱する。

これらの光景は決してキャプラの楽天的な妄想だけではないのだろう、当時のアメリカの風俗だったのだろう。
なんと牧歌的だったことよ。
場面転換に音楽(画面にバンドが現れる)を使うのがキャプラ流演出の定番だったとしても。

ヒッチハイクのシーン

ラストシーン、結婚式の宣誓で、新郎が誓った後で、新婦のコルベールが逃げ出し、ゲーブルのもとに向かう。

最終のタイミングで、花嫁一人での決断!

花嫁キャサリン・ロスがダスティン・ホフマンに連れ去られる「卒業」(1967年 マイク・ニコルズ監督)より過激で自立した女性像ではないか!

クローデット・コルベール

キャプラ作品では孤軍奮闘する若者に、年長の理解者が現れるのも定番。
この作品ではゲーブルが所属していた新聞社のデスクがそれであり、コルベールの金持ちだが娘の気持ちに理解ある父親がそれだった。

「群衆」 1941年 フランク・キャプラ監督  ワーナーブラザーズ

キャプラが古巣コロムビアを離れての最初の作品で、「オペラハット」「スミス都へ行く」の路線をさらに突き詰めた内容となっている。

すなわち、善良で素朴な主人公(ゲーリー・クーパー)はホームレス上がりの設定とされ、対する社会悪は単に金持ちというだけでなく、マスコミを操作し、民衆を政治的権力のために利用しようとする勢力として描かれる。
このあたり、現代でも基本的には共通する「個人対権力」の構図そのままである。

まだ若いクーパーが素朴さ丸出しで、オドオドし、野球の投球フォームをするときだけ生き生きとするのに対し、権力者(キャプラ作品の常連黒幕役:エドワード・アーノルド)は、政治的野心のために他人を利用し、捨て去る冷酷なキャラとして描かれる。
私利私欲のため、というよりは何かに突き動かされるように動く権力者が不気味である。

権力者の群衆操作により、主人公が偶像から何もない一般人となる瞬間のシーンが素晴らしい。

集会に集まった群衆が、権力者のキャンペーンと扇動により、離反してゆき、主人公がマイクの前でたった一人で残される。
雨の中の群衆シーンに緊張感がみなぎる。

主人公のホームレス仲間で、最後までその姿勢を崩さないウルター・ブレナンが、キャプラ作品に共通する、「孤立する主人公の数少ない味方」のこの作品でのキャラ。

もう一人の味方で、かつてはジーン・アーサーがよくやったヒロイン役にバーバラ・スタンウイック。
芸達者なスタンウイックは、悪女役もこなすがこの作品ではその片鱗も見せずに主人公をバックアップする役を溌溂と演じて好感度アップ。

ゲーリー・クーパーは、素朴な田舎者を演じたこのころが一番良かったのではないか。

「毒薬と老嬢」 1944年 フランク・キャプラ監督  ワーナーブラザース

それまでのキャプラタッチを離れ、ひたすらブラックなスクリューボールコメデイに徹した作品。

二人の老嬢が住む都会の片隅の高級住宅地。
周りの住人だったり、巡回する馴染みの巡査だったりは、一見善意の人々だが、話が進むにつれてちょっと変わった人々に見えてくる。

普通の人々が、特殊な環境下で右往左往するコメデイではなく、主人公(ケーリー・グラント)と隣人の牧師の娘(プリシラ・レーン)以外はちょっとずれた人が、ずれた行いを行うことで生ずるブラックなコメデイ。

「フィラデルフィア物語」(1940年 ジョージ・キューカー監督)では貫禄が出かかったケーリー・グラントが、「赤ちゃん教育」(1938年 ハワード・ホークス監督)のころに戻って、しゃべりまくり、リアクションする。
役者に歳は関係ないということなのだろう。

グラントの義理の兄が整形して登場し、整形医師としてピーター・ローレが出てくる。
この二人の犯人キャラを巡るサスペンスシーンはキャプラ作品らしくなくイマイチ。
また、整形後の義兄に対し「ボリス・カーロフ(に似ている)」のセリフが頻発される。
アメリカのコメデイにつきものの楽屋落ちだが、どうもキャプラ作品には似つかわしくない。

キャプラ作品らしい正義感に満ちた結末や、ニューデール的な価値観と共通するアメリカンヒューマニズムは見られ無いところが山小舎おじさん的には不完全燃焼。

「素晴らしき哉、人生!」 1946年 フランク・キャプラ監督 リバテイプロ(RKO)

独立したキャプラが、ジョージ・ステイーブンス、ウイリアム・ワイラーとともに興した独立プロの作品で、RKO配給。
キャプラがプロデユースもしている。

これまでのキャプラ作品の集大成にして、その特質を存分に発揮し、やりたかったことをやり切った作品。

この作品は、ドナ・リード(左)の存在が忘れられない

素朴で正直な田舎者の主人公、それを見守るしっかり者のパートナー、利益のことしか頭にない悪役、主人公を助ける思わぬ支援者、とキャプラ映画の主要キャラクターがわかりやすく全員登場。
脇を彩る楽団だったり、子供もシッカリ出てくる。
起承転結がしっかりしており、転が結末間近に訪れる構造も。

主人公(ジェームス・スチュアート)は田舎町に生まれ、大学に行きたかったり旅行が趣味だったりするが、弟のために譲り、家業の住宅金融の跡を継ぐ。
幼馴染(ドナ・リード)とも相思相愛ながらスマートに求愛できない(のちに結婚)。
主人公はその行いから、町のタクシードライバーや警官、バーのマスターまでに信用と人気がある。

この主人公が町のボス(ライオネル・バリモワが珍しく悪役)の妨害、懐柔と戦いながら、町の住民のために庶民向けの住宅金融を行ってゆく。
恐慌も、妻や社員、住民の協力で乗り越える。

あるクリスマスイブの日に、住宅金融の社員が8000ドルを紛失したことから、主人公が苦境に陥り、生命保険を最後の手段に自殺まで考える。
そこに現れるのが主人公の守護天使。

天使はやけになった主人公に、彼がいない場合の町の様子を見せる。
まるでパラレルワールドのようなその世界は、町のボスに支配された殺伐とした世界。
妻は独身で眼鏡をかけた司書をしていて、迫る主人公から悲鳴を上げて逃げる。
実母は険しい顔をした下宿のおばあさんで、冷たく主人公を拒否する。

天使に頼み込み、8000ドルの責任を負ってもいいからと元の世界へ戻してもらう主人公。
そこには愛する妻と子供たち、信頼のおける友人たちがいた。
涙なくしては見れない山小舎おじさん。

キャプラ作品の理想像、理解ある家族と友人に囲まれた幸せな主人公を象徴するシーン

ヘタな理屈を考えず、自分が愛するキャラクターを全員集合させたキャプラの姿勢が好ましい。
リアルさよりも好みを優先する巨匠の作風に、小津安二郎の「秋刀魚の味」を思い出してしまった。

キャプラ作品につきものの主人公の支援者に「天使」を持ってきた。
人知の及ばぬ世界を否定せず、そういうこともある、というキャプラの姿勢であろう。

おそらくジェームス・スチュアートの、そしてドナ・リードのキャリア最良の演技のうちの一つであろう。

派手で男好きな幼馴染役を演じたグロリア・グレアム(のちのニコラス・レイ監督夫人)のデビュー作でもあった。

DVD映画劇場 女優NO.2 ベティ・デイビス

1999年に全米映画協会が選定した、アメリカ映画スターベスト100の女優部門の1位はキャサリン・ヘプバーン。
2位がベティ・デイビスだった。

山小舎おじさん的には「イブの総て」を辛うじてテレビの映画劇場で見たことがあるくらい。
そのベティ・デイビスの3作品をDVDで見た。

1作目は30年代の作品でデイビス20歳代のもの。
2本目は50年代で40歳代、3本目は60年代で60歳代直前のものだった。

ベティ・デイビス

「痴人の愛」 1934年 ジョン・クロムウエル監督  RKO

原作はサマセット・モームの「人間の絆」。
モームの自伝的小説といわれている。

主人公(レスリー・ハワード)はパリでの画家の生活に夢破れて、イギリスに帰って医学生となる若者。
足に障害がある。
このイノセントな若者が一瞬で惹きつけられるのがカフェの女給(ベティ・デイビス)だった。

「痴人の愛」のデイビス

この女給、性格が悪いことこの上ない。
育ちも悪く、下品で悪趣味。
しかも主人公の純情をもてあそび、次々と裏切る。

だれがどう見てもイノセントで精神性の高い主人公とは釣り合わないのだが、半生に渡って(女給にとっては生涯にわたって)この二人はかかわりを持ち続ける。

まるで「忘れじの面影」(1948年 ジョーン・フォンティーン主演)の男版だが、かの作品でジョーン・フォンティーンが一途に追い求める男性像のダメ男ぶりがソフトに描かれていたのに対し、「痴人の愛」でレスリー・ハワードが追い求める女性像はベティ・デイビスによってすさまじく下品で欺瞞と憎悪に満ち、悲惨に演じられる。

主人公の脚の障害を責め、繰り返し嘘をつき、男を次々に変えては捨てられ、金に困ると主人公のところにやってくる。
主人公を裏切り続けるのは、精神性の高い主人公への女給のコンプレックスの裏返しなのか、それとも高潔に見える主人公も一皮むけば、女給と同じ人間なのだということを陰に表してのことなのか。
主人公たちの二人は、一つの人間性の裏と表なのか。

ほかの女優たちが出演を拒んだというこの女給役を、ベティ・デイビスは望んで引き受けたという。

クロムウエル監督の演出は彼女のチャームポイントであり個性である、その目を強調する演出で彼女の意欲にこたえる。
熱演するベティ・デイビスから目が離せない作品。

「イブの総て」 1950年 ジョセフ・L・マンキウイッツ監督  20世紀FOX

この作品はある意味で悪意に満ちた内幕もの、だ。

ブロードウエイで、有名女優の付け人に潜り込み、ひそかに恩人を裏切って主役の座を奪う、という女優志願者の出世ストーリーの裏側の物語。
ベティ・デイビスは裏切られることになる大女優を演じる。

「イブの総て」。アン・バクスター(左)との対決

この作品のデイビスは、楽屋でコールドクリームを塗ったくった姿で登場し、付け人が愛人をたぶらかす気配を察してパーティーで大荒れ、朝のベッドではすっぴんを思わせるメイクを披露する、など大スターのメンツを捨てたかのような体当たりの演技を見せる。

実年齢40歳を過ぎ開き直った感もするデイビスだが、これは彼女の役作り、サービス精神の発露とみる。
演ずること、映画に出ることが好きで好きでたまらないのだろう。
いずれにせよ、余裕たっぷり、貫禄十分の演技だ。

付け人役にアン・バクスター。
若く初々しい。

恩人を裏切り、自分に役立つ男を次々にたぶらかし、脅迫することにも躊躇ないキャラゥター。
前半の清楚でかわいらしい立ち居振る舞いから、正体を現した後半では、忘れられない悪役に変貌する。

同じく新人女優がブロードウエイでのし上がってゆく映画に、キャサリン・ヘプバーンの「朝の勝利」があるが、かの作品が現実的であり、正攻法で、すがすがしいのに対し、「イブの総て」は作り物めいて、ドロドロし、後味が悪い。

映画人の実名(ザナック、タイロン・パワーなど)をセリフに出しているのも、実録風というか内幕ものとしてのセンセーションを表そうとしたのだろうが、出てきた実名が、立場の弱いもの、全盛期を過ぎたもの、イジメやすいもの(ザナックはこの映画のプロデユーサーだから自虐ネタなのだろうが)をチョイスしたと思わせ、後味が悪い。「サンセット大通り」で、ワイルダーが、キートンなどかつてのスターたちをわざわざ実名で登場させ、はく製のようだと評したときと同じテイストだ。

ベティ・デイビスは新人女優によって世代交代させられるベテラン女優という、いわば損な役柄を堂々と演じ、わがままで尊大、時代錯誤なキャラながら愛嬌さえ感じさせた。
これも彼女の演技力のうちなのか。

「残酷な記念日」 1967年  ロイド・ウオード・ベイカー監督  イギリス(ハマープロ)

50歳を過ぎ、かつてのような花形はもちろん、映画出演そのものがなくなっていたベティ・デイビスが、突然カムバックしたのが「何がジェーンに起こったか」(1962年 ロバート・アルドリッチ監督)。
かつてのこちらも大スター、ジョーン・クロフォードと共演し、どちらも年齢を隠さず、否、強調さえして臨んだサイコホラー劇だったという。

これで開き直ったか、否、調子が出たか、ベティ・デイビスはその後もコンスタントに映画出演を続ける。
「残酷な記念日」はイギリス・ハマープロによる1本。
50年代に、クリストファー・リーの出演により、ドラキュラをリメークしたあのハマープロである。

映画の内容は、強烈なカリスマ性と支配欲で、家族に君臨する母親をデイビスが演じ、記念日に集まった3人の息子とその妻、フィアンセなどとの確執が繰り広げられるというもの。

カラー作品。
真っ赤なドレスと赤い愛パッチで登場するデイビスにまず度肝を抜かれ、彼女のチャームポイントの目が青かったことに気づかされる。

女性下着愛好者の独身の長男、妻と実母に頭が上がらない次男、フィアンセを実母にコケにされても当初はあいまいな態度をとるチャラい三男、と情けない家族を操り、君臨するデイビス。
3人の息子を操り、嫁とフィアンセをいたぶる怪物的な母親である。

いわば誇張され、怪物化した母性をデイビスが独演しているのだが、周りの役者が弱くて盛り上がりに欠ける。
ハリウッド全盛期だったら、わき役にも芸達者をそろえ、おどろおどろしいセットもわざとらしく、この家族の異常性を劇的に際立せたことだろうが、ハマープロにはできない相談だ。

映画の主題は、家族の異常性を描くのではなく、母性と独善の分かちがたき、だったり、家族かくあるべしの偽善性だったり、なのかもしれない。

デイビスは朗々たるセリフ回し、片眼だけとはいえ大きな目の演技、大げさなジェスチャーでこの母親の怪物性を表し、さすがである。
いついつまでも演技が好き、映画が好きなのがわかる。
だからこそのスター女優第2位なのだ。

最後に、三男の若くかわいいフィアンセが将来はベティ・デイビス扮する母親の後継者になる資質を持っている、と示唆することが、この映画の一番のホラーだった。
家族は人間は歴史を繰り返すのである。

DVD名画劇場 女優NO.1キャサリン・ヘプバーン

1999年にアメリカ映画協会が選定した歴代女優ランキングで1位に選ばれたのがキャサリン・ヘプバーン。

山小舎おじさん的には、テレビ洋画劇場での「アフリカの女王」(1951年 ジョン・ヒューストン監督)。
現地の教会で黒人相手に讃美歌をオルガンをかき鳴らすオールドミス宣教師を演じた姿を思い出す。

大柄で、ぎすぎすして、言いたいことをまくしたてる、肌のカサカサした中年女性、のイメージだったが。

この度、初期の代表作3本を見せてもらった。

キャサリン・ヘプバーン

「勝利の朝」 1933年 ローウエル・シャーマン監督 RKO

ブロードウエイ出身のヘプバーンがハリウッドに呼ばれて3本目の作品。
実年齢で26歳になる年の作品だが、若々しさ、初々しさに満ちているて、見ていてこちらも楽しくなる。

ブロードウエイのスターを夢見てニューヨークにやってきた演劇志望の若い娘が、夢かなうまでのストーリー。

腕利きのプロデユーサー(アドルフ・マンジュー)と座付きの脚本家が取り仕切る事務所。
すれっからしの女優たちが出入りするその場所に、田舎出のヘプバーンが迷い込む。
裏表あるプロデユーサーにあしらわれるが、人間味のある老俳優と仲良くなり、英語(正しい発音)を教えてもらいに通いだす。

しばらくは全く芽が出ず、飲まず食わずで、ボードビルのアシスタントなどをして凌ぐ。

このヒロイン、若く田舎者ではあるが、決して「私、何もわからないから・・・」というアイドル的イノセントではない。
自分が目指すものが明確で、好きなものを自覚しまた発し、たばこを吸い、目的のためなら食事も我慢してホットパンツ姿でボードビルの舞台にも立つ、バリバリの自立型女性なのである。

たまたま潜り込んだパーテイーで、酔って、シェークスピアのセリフを朗々と演じてアピールもする。
映画の観客もここらへんでヘプバーンその人の演技の実力を認識する。

舞台の初日に主演女優のわがままで主役が降りたとき、脚本家の推薦でヘプバーンの代役が決まる。
成功裏に終わった楽屋でヘプバーンが独白する。

この成功には終わりが来ること、それまでは希望敵ったこの道を第一に進むこと、そのためには好きな人とのこともあきらめなければいけないし、恋の申し込みにも応えられないこと・・・。

田舎出の少女が事務所前で自己紹介したときから、パーテイーでの独演、そして舞台で成功後の独白と、要所での長いセリフを嬉々として、また朗々とこなすヘプバーン。

うまさだけでなく、女の魅力に偏重もせず、人間として清々した感じが出ている。
この作品でアカデミー女優賞を受賞したヘプバーンは歴史上の大女優としてのキャリアをスタートさせる。

「赤ちゃん教育」 1938年 ハワード・ホークス監督 RKO

いわゆるスクリューボールコメデイの快作で、数々あるケーリー・グラントとのコンビの1作。
ハワード・ホークスの無駄のないスピーデイーな演出に応える主演2人の達者ぶりに時間がたつのも忘れる。

冴えない博物学者で終始眼鏡をかけたグラント。
根拠なく自信たっぷりで、はつらつとした若い女性役のヘプバーン。

ヘプバーンが一目で気に入ったグラントを追いかけまくる。
追いかけ方も、勝手に人の車に乗ってぶつけまくったり、と手段を選ばない。

優柔不断で人のいいグラントは婚約者がいながら、渋々じゃじゃ馬娘の要求に沿って動くかざるを得なくなる。
敢然と袂を分かっても、また会わざるを得ないシチュエーションが発生する。

この二人が一晩の珍道中ののち、互いの愛に気づくまでのドタバタ。

まだ若い主演の二人。
走り、転び、水に飛び込み、スカートを破いて下着を出し、と動きが過激でさえある。
豹とさえ絡む。

豹?そうなのだ豹まで出るのだ、それもヘプバーンのおばさんが注文したペットとして。
この豹の名前がベイビー、映画の原題が「BRIGING UP BABY」。
(世話の焼ける無垢な男性)を表しての赤ちゃんと、(愛のキューピットたる)豹の名前をかけているのだろう。
気に入ったグラントを徹底的に追い掛け回すヘプバーンは、息子にかまける世話焼きママさんのようだ。

惜しみなく芸達者ぶりを炸裂させる若き日のヘプバーンとそれを受けきるグラント。
思い切り二人に動いてもらうべく舞台を用意し、スピーデイでまったく無駄のないホークスの演出が最高の作品。

「フィラデルフィア物語」 1940年 ジョージ・キューカー監督 MGM

客を呼べず、映画館主泣かせのスターと呼ばれていたヘプバーンが、舞台のヒット作をMGMに売り込んで実現した作品。
ヘプバーンは監督にキューカーを指名、相手役にスペンサー・トレーシーとクラーク・ゲーブルを要求したという。

狙い通りのヒット作となり、ヘプバーンはマネーメイキングスターの座を獲得した。
まるで「勝利の朝」のキャラを地で行くようなエピソードだが、女優を志し、叶えるような女性とはそういうものなのだろう。
ヘプバーンもまたしかり、だった。

相手役のグラント、スチュアートとともに

フィラデルフィアの上流階級のわがままお嬢さんが愛に目覚めるまでの物語。
相手役に貫禄が出てきたケーリー・グラントとまだ若さの残るジェームス・スチュアート。

世界一の映画会社MGMによる豪華セットと衣装。
上流社会のパーテイーで優雅なドレスに身を包み、瀟洒なプールで水着姿さえ披露するヘプバーン。
キューカーの演出は悠々迫らず、MGMタイクーンの意を汲んでいるかのよう。
これがソフィスティケイテッドコメデイというものか。
特に前半、ヘプバーンのお嬢様キャラの嫌みが強烈すぎたきらいはあったが・・・。

この作品でもヘプバーンの独演というか長い独白が見られるが、豪華なセットやわき役の達者さ(子役も含め)に紛らわせて、いろんな楽しみ方ができる作品となっている。

実年齢33歳になるヘプバーンは貫禄も出てきて、「アフリカの女王」の時とほぼ変わりなく映る。

その芸達者ぶりは、日本女優では浪速千恵子だったり、黒柳徹子だったりを連想させる。
むろん活躍した舞台も、女優としてのスケールも違いすぎるが、観客に愛され、ある時代ある場所でのアイコンとなり得たという点では共通しているのかもしれない。

第25回蓼科高原映画祭

小津安二郎が懇意にした別荘が蓼科にあったことから、ふもとの茅野で開かれて25回目。
コロナで中止の年を2年挟んで3年ぶりの開催。
小津安二郎記念 蓼科高原映画祭が今年(令和4年)は開催された。

映画祭の幟がはためく茅野駅コンコース

毎年、茅野市民館と市内唯一の映画館・新星劇場を舞台に9月に催される映画祭。
今年のポスターは「お早よう」(1959年 小津安二郎監督)をモチーフにしたもの。

上映作品は「お早よう」のほか、第60回日本映画監督協会新人賞受賞作品「洗骨」(2018年 照屋年之監督)、「老後の資金がありません!」(2021年 前田哲監督)など、市民のリクエストや長野県で撮影された作品、などからチョイスされた22作品。
弁士付きでサイレント映画の上映や短編映画コンクールもプログラムに含まれる。

第25回の映画祭ポスター

ゲストには短編映画審査長として伊藤俊也監督のほか、現役の監督、俳優が予定されている。

3年ぶりに映画祭が開催されると聞いた山小舎おじさんは、パンフレットを手に入れて参加の機会をうかがいました。
上映作品に伊藤俊也監督の「日本独立」(2020年)があったので、新星劇場での上映に駆け付けました。

映画祭当日の新星劇場

映画祭の立て看板と茅野の町

劇場前に駆け付けると、テントがひと張りと、ボランテイアが数人います。
例年のレッドカーペットや、コーヒー、樽酒、寒天デザートなどの接待はありません。

接待が中止なのは致し方なく、レッドカーペットは台風接近のために撤去したとのことです。
映画祭最終日恒例の会費制オープン参加によるゲストとの交流会も、今年は中止とのことでした。
かつては司葉子さんが舞台でトークショーをしたりしましたが、今年は小津ゆかりの女優さんのゲストもいません。

劇場前のテントとボランテイアスタッフ。背後は中央本線

富士見町から来たというご応輩のお客さんと雑談しながら開場を待ちました。
フリーパスを買って毎日来ているというそのお客さん、今までの上映では「老後の資金がありません!」が満員だったとおっしゃってました。

「日本独立」の上映開始。
平日なので入場は40から50人くらいでしょうか。
者側の挨拶があって上映となりました。

作品は伊藤監督らしい、生真面目できっちりした作りで、終戦後の日本憲法施行までの舞台裏を再現するもの。

手の込んだ空襲後の焼け野原のセット、ワンカットで表現された空襲のシーン、浅野忠信、小林薫、宮沢理恵らメインキャストのほか、当時の閣僚らを演じる柄本明、石橋蓮司、松重豊らの熱演(野間口徹が昭和天皇!)。
撮影所育ちの伊藤監督のこだわりと、終結したスタッフの意気込みが感じれられます。

映画祭パンフレットより

が、なぜ今憲法なのか?この作品の狙いは何か?という素朴な疑問がわきました。

マッカーサーを頂点とするGHQの恣意的な占領政策が憲法にまつわる混乱の原因にあるのはいいとして、GHQの悪さが映画の主題なのか?寝技で対抗した吉田茂の政治力を肯定したいのか?それともGHQ主導の矛盾だらけの憲法をいただくことになった戦後日本は戦争で死んでいった若者たちの本望ではないだろう、といいたいのか?

おそらくそれら全部の要素を盛り込んだ作品なのでしょう。

テンポよくエピソードを取り上げ、GHQにも、当時の内閣政府にも遠慮しない姿勢を貫き、史実として広まっていないエピソードも交えて戦後の一断面を描いた作品でした。
伊藤監督としては、国の最高法規がこんないい加減に、短期間で、占領軍と日本の間に意思の一致もなく決められていったのだよ、という絶望に近い問題提起をしたかったのだろうと思います。

手法的というか体質的にいうなら、テーマを、スピーデイーでドラマチックに盛り上げるのではなく、ねちねちとした日本的風土に根ざし、公平な視点で描くのが伊藤監督の体質なのだろう。

映画祭パンフレットより

伊藤デビュー3作目の「女囚さそり701号けもの部屋」(1973年)。
巻頭、地下鉄で刑事(成田三樹夫)に手錠をかけられたさそり(梶芽衣子)が、刑事の腕をぶった切って手錠につながれた刑事の腕ごと街を逃亡するシーンがあった。

観客を一気に映画の世界へ引きずり込むテンポの良いアクションシーンだが、そういった映画的興奮をもたらす手法を伊藤が取るのはあくまでイントロダクションだから。
作品の主眼は、底辺に生きる姉弟とそれと共生するしかない異界のものとしてのさそり、その〈ドロドロ〉とした怨念と警察権力の対峙だった。
アクションによるカタルシスが最後にあるものの、伊藤の興味が〈ドロドロ〉にあることは明白だった。

「さそり」第4作目の演出を主演の梶芽衣子によって拒否され、降板した伊藤が4年後に撮った「犬神の悪霊」(1977年)。
期待して映画館に駆け付けた観客の目に映ったのは、スリラーとしても、伝奇ものとしても、アクションとしてもい中途半端な、つまりは映画的興奮を求める観客の期待には応えようとしない作品だった。
「さそり」のように、敢えて異形のものを登場させ、作り物めいた映画世界へ誘うような作風はなく、監督の冷静な視点を崩さなかった。

とすればこの作品で伊藤が訴えたかったのは、村社会の因習と近代文明(村でのウラン鉱の開発)の決して融合しえない断絶とその中で翻弄される個人の悲劇なのか。

いずれにしても、アクションにも怪奇にも敢えて偏重しようとしない伊藤作品の作りは、映画的快感に乏しく、また、だからこそ、かえってテーマ本質への観客の接近を妨げてしまったのではないか、という疑念をもたらす。

「日本独立」で久しぶりに伊藤作品を見て、変わらないものを感じた山小舎おじさんでした。