”若大将映画のマネージャー”江原達怡自伝「心ごころの思い出」

江原達怡という俳優がいた。
山小舎おじさんの年代には、加山雄三主演の「若大将シリーズ」で加山扮する若大将が所属する運動部のマネージャー役でお馴染みの人だ。

東宝カラーというか、都会的でスマート、お坊ちゃん的なキャラクターが似合った。

「独立愚連隊」(1959年 岡本喜八監督)や「あるサラリーマンの証言・黒い画集」(1960年 堀川弘通監督)にも出ていて、それぞれ中国大陸での日本兵や、若いOLと簡単に仲良くなる軟派な学生を演じたこともあるが、いまいち似合わないというか、「若大将のマネージャーがいろんな役で出ているんだなあ」と思ってしまうのだった。

「独立愚連隊」より

自伝のような本が出ており、ミニシアター・ラピュタ阿佐ヶ谷に置いてあったので買って読んでみた。

江原は、東京の三田の生まれで、中等部から大学まで慶応という、若大将のマネージャーを地で行く経歴の持ち主だった。
小学校時代の担任の指導の下、児童劇に出て、たまたまコンクールの全国大会に出演した。
それが松竹の目に留まり、初代水谷八重子の子供役で映画デビュー。

少年期に入ると、東宝から声がかかり岡田茉莉子主演の「思春期」(1952年 丸山誠司監督)でラブシーン。
大映の性典もので若尾文子の相手役を務めた。

その後、家から通うのに便利だという理由で東宝と専属契約を結んだ。

慶応での高校、大学時代は麻雀、ビリヤード、ダンス、スキーと遊びまわった。
若大将のマネージャーにふさわしいキャラクターはこの時期に形作られたのかもしれない。

映画界に入ってからの「忘れがたい人々」の章では、岡本喜八、恩地日出夫、黒澤明などの名監督らとともに、加山雄三、佐藤充、田中邦衛、夏木陽介ら東宝時代の盟友のエピソードがつづられる。

恩地日出夫監督の「伊豆の踊子」(1967年)では、旅芸人一座の唯一の男であり、踊り子の兄の役。
学校に行きたかったけど行けなかった人間、自分で勉強してきた人間、という役作りをした。
映画評論家の双葉十三郎に褒められ、それから東宝でのギャラが上がったという。

「伊豆の踊子」より

佐藤充との出会いは、谷口千吉監督の「不良少年」(1956年)。
セットで初めて佐藤を見たとき、本物の不良がいる、と思った。

そして加山雄三。
出会いは慶応の1年後輩の加山と大学のスキー授業で志賀高原へ行った時。
上原兼の息子ですと挨拶してきたとのこと。
当時の加山は船の設計士になることが夢だったという。

若大将シリーズでは江原は、当初、運動部の選手仲間としてキャステイングされたが、江原自身の提言によりマネージャー役が新設され、役が変更されたという。
まさに古き良き時代の、明るく楽しい東宝映画史上の名シリーズの名配役が決まった歴史的瞬間だった。

自伝の後半は、俳優をセミリタイアした後の話になる。
プロ級のドライブテクニックを駆使しての、モータードライブの世界。
好きなスキーを生かして、ウエアのデザイナーになったり。
ハリウッドで映画の買い付けをしたり。
スポーツドリンクを広めたり。
絵を描いたり。
穂高に美術館を開いたり。

都会的でスマートな活躍ぶりは、実生活でも「若大将のマネージャー」ぶりをほうふつとさせる。

映画全盛期に活躍したスマートな名わき役。
その姿をこれからも名画座のスクリーンで見るのが楽しみだ。

キャサリン・ヘップバーン自伝「Me」

全米映画協会が選ぶ歴代女優ベストテンで1位に輝いたのがキャサリン・ヘプバーン。

DVDで見た、「勝利の朝」(1933年)や「赤ちゃん教育」(1938年)がまずは面白く、主演のキャサリンが若々しく、エネルギッシュで可愛げもあり、いっぺんでファンになってしまった。

初期の傑作「赤ちゃん教育」より

古本屋巡りの際に、キャサリンの自伝が文庫本上下巻セットで売っていたので買って読んでみました。
口語体でつづられる自伝は、あけっぴろげで明るさに満ちており、何より読みやすく、たちまち読了しました。

文庫版の自伝、上下巻

生まれてから演劇に目覚めるまで

名門というほどではないが、東部の裕福な家に生まれた両親の記述からこの自伝は始まる。
教養があり開放的な家庭を築いた両親をキャサリンは生涯誇りに思う。

活発な少女だったキャサリンは、両親、特に父親の元、ますます活動的に育つ。
水泳、飛込、乗馬、のちに車のドライブなどはこの時期に身についたという。
「フィラデルフィア物語」(1940年)で、見事な水着姿で鮮やかにプールに飛び込むシーンを思い出す。

演劇に目覚めたころのキャサリン

高校時代に演じることの面白さに目覚め、カレッジ時代を通して演劇を続ける。
父親は眉をひそめたが干渉はしなかった。

駆け出し時代のキャサリンのエピソードが語られる。

ある演劇の端役をもらったときのこと。
衣装が配られる日に早めに駆け付けたが順番はびりだった。
残った似合わない衣装を持って呆然としていると、一番に並び、いい衣装を身に着けた女の子がキャサリンにこう言った。
「この衣装受け取ってくれないかしら。私、結婚するの。女優にはならない。でもあなたはなれると思う。大スターになるような気がするの。ね、受け取って」。

大スターになる星のもとに生まれてきた、キャサリンらしいエピソードではないか。
まるで映画のような話だが、どんなにドジでも、失敗しても、スターになる人はなるのだ。

映画デビュー作「愛の嗚咽」

こうして「勝利の朝」のストーリーそのままに、キャサリンの駆け出し時代が過ぎてゆく。

キャサリンはまたこの時代に生涯一度の結婚をする。
その相手とは離婚後も一生涯の友人の一人となる。

ハリウッドデビューと映画スターへの道

デビッド・O・セルズニック製作、ジョージ・キューカー監督の「愛の嗚咽」(1932年)でハリウッドデビュー。
出演に当たってはギャラと待遇をセルズニックと直接交渉しているのが、いかにもキャサリンらしい。
週給1500ドルの3週間契約だった。

「愛の嗚咽」。ジョン・バリモアとのシーン

ハリウッドといえば、業界の悪習渦巻く背徳の都、というのが山小舎おじさんの連想だが、キャサリンの自伝にもそれらしきエピソードが出てくる。

デビュー作「愛の嗚咽」の共演者がジョン・バリモアだった。
名優であり、キャサリンもリスペクトをもってバリモアを描写する。
撮影期間中バリモアの控室に呼ばれたキャサリンがドアを開けると、だらしない格好でソファに横たわっていたバリモアが毛布をはねのけた、キャサリンは部屋を飛び出した。
この事件の後もバリモアのキャサリンに対する態度は変わらなかった、云々。

こういったセクハラ?は被害者からの拒否にあうと加害者の態度が悪化するのが普通だが、そうならないところもキャサリンがスターの星のもとに生まれた証左の一つであろうか。

「若草物語」(1933年)

MGMではタイクーン、ルイス・B・メイヤーに可愛がられる。
本来は吝嗇で口うるさく高圧的でパワハラ満載なのがハリウッドのタイクーン像である。
「彼は私を自由に泳がせてくれた」(自伝上巻P367)とキャサリンは、メイヤーについて語る。

他人に言わせれば、キャサリンがタイクーンを上手く転がしているように見えるのだが、こういった大物とうまくやれるところもキャサリンの才能の一つである。

ルイス・B・メイヤーと

監督ジョージ・キューカーとの公私にわたる交友についてもページを割いている。
デビュー作、そして勝負作「フィラデルフィア物語」にはキャサリンのご指名で演出にあたった、演劇出身の名監督。
キューカーの豪邸にはキャサリンをはじめスターが集まった。
専用の部屋まで用意されていたキャサリンにとって、その豪邸はカルフォルニアでの定宿となっていたという。

盟友ジョージ・キューカーと

ハワード・ヒューズはキャサリンのハリウッド時代の愛人だった。
ヒューズがキャサリンの舞台で見染め、旅公演にまでついてきたのが始まりだという。
別れた後も交友関係は続いた。
離婚相手とも、別れた元愛人とも、その後も友人でいられるところもキャサリン。
大物である。

そして最もページ数を割いて語られるのが最愛の人、スペンサー・トレーシー。
二人が出会ったとき、スペンサーには妻子がいた。
27年間キャサリンはスペンサーと暮らし、生涯深い敬愛を抱いた。
死をみとったのもキャサリン。

人情を越えた広い心を持つのもキャサリンか。
スペンサーの未亡人、娘とはその後親交を結んだという。

パトリシア・ニールが、妻子あるゲーリー・クーパーと愛人関係となって、クーパーの死後、残された娘に会って打ち解け、友人となったというエピソードを思い出す。

生涯のパートナー、スペンサー・トレーシーと

(余談)

自伝ではほとんど触れられていないが、1947年から始まった非米活動委員会(いわゆるハリウッド赤狩り)に際し、ハリウッドに対する政治の非干渉を求めて立ち上がった映画人グループの象徴的存在がキャサリンであった。

自由と正義を愛し、自分で考え、正しいと思ったことは表明し、突き進む、まことに彼女らしいふるまいだ。

非米活動委員会に召喚された、製作者、監督、脚本家の10人が議会侮辱罪で投獄される中、キャサリンとともに立ち上がった映画人にも変化が起こる。
迫害を苦にしての自死(ジョン・ガーフィールド)、仕事を干される(マーナ・ロイ)、運動からの撤退(ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール)などなど。

結果的にキャサリンには何の影響も、お咎めもなかったのだが、その背景にはMGMの大立者、メイヤーの庇護、愛人ハワード・ヒューズの存在があった。
なにより本人がアメリカ支配層のWASP出身、があったからではないかと思うのは山小舎おじさんだけであろうか。

城戸四郎著「日本映画傳・映画製作者の記録」を読む

城戸四郎は1894年(明治27年)、東京の築地の生まれ。
一高、当代法学部を出て一度は国際信託銀行(現みずほ銀行)に就職したものの、当時の松竹社長・大谷竹次郎に乞われて松竹キネマに入社。
以降、松竹鎌田撮影所長、松竹副社長、社長、会長を歴任した。

その城戸の1956年文芸春秋社刊「日本映画傳」を読む機会があった。
創立当初から現在に至るまで、日本映画のメジャーの地位にある松竹の戦前戦後を通しての、会社経営者であり映画製作者であり、日本版タイクーン(ハリウッドでいえば、セルズニックやザナックの位置づけか)でもあった城戸の自伝である。
全盛期の日本映画の記録としても貴重なものだった。

新聞記者志望で弁護士資格を持つ城戸が、戦前の興行会社である松竹に入社した経緯は、本著では「以前からぼくの家とはちょっと知り合いの松竹の大谷社長から、松竹へきて働かぬかという話をうけた」(同著P11)と簡単に表現している。
これは、城戸の生家が築地精養軒という日本における西洋料理の草分けであり、東京の拠点を築地に置いていた松竹の大谷社長との接点があったこと、大谷社長が長男を亡くし後継者を捜していたことが契機になってのことだと思われる。

城戸四郎

松竹は関西の芝居小屋の経営を母体にした興行会社であり、当時も今も関西の芝居、映画の興行、東京での歌舞伎、芝居、映画の興行がメインの会社である(映画製作については現在も行ってはいるが、唯一の直営撮影所であった大船撮影所を手放した現在では、メインの事業ではなくなっている)。
当時の興行界は、小屋に出入りするヤクザ、巡業先の地元のヤクザ、役者、小屋主との付き合いが、今よりも重要視される特殊な業界であり、城戸のようなエリートが就職先として選ぶことはまれであった。

サイレント映画の撮影風景。当時は楽隊の演奏をバックに撮影していた

本著では城戸が行った松竹キネマを舞台にした経営者としての業績が数々つづられる。
具体的には、
撮影所内で女優を妾とし、少し人気が出れば自分の実力のためと過信する俳優たちと対峙して撮影所内のシステムと風紀を是正した。
契約したフィルム貸出料金を滞納する映画館主たちから回収を行い松竹の財政を改善した。
戦前の対抗勢力であった日活との間で興行戦争を行いスターを引き抜き合った。
新興勢力東宝との間で日比谷の興行街の利権争いでは一敗地にまみれたものの、別件でまき返した、などなど。

一方、製作責任者として、自らの理念に沿った施策も行った。
具体的には、
撮影所内にシナリオ研究所を作って人材を育成し、
撮影所をスターシステムからデイレクターシステムへと変更し、
新人育成用に中編映画を製作する、など。

また、
映画批評家と松竹作品の内容を巡って論争したり、興行に向かない作品は遠慮なくオクラ入りして才能ある監督に更なる奮起を促す、などの出来事には、映画理論家としての城戸の妥協なき理念性が現れてもいる。

城戸が映画製作においてその理念としているのは、「人間社会に起こる身近な出来事を通して、その中に人間の真実というものを直視すること」(本著P39)であり、また「いわゆる社会の常識を考え、社会的の思想なり判断、社会の大衆の分析やその判断に沿い、そうしてそれにマッチしながら、なおかつその人たちに感動を与える」(同P241)である、と述べている。

これがいわゆる蒲田調、大船調の底流ととなった理念である。
同時に松竹映画の、良くも悪くもこれが限界となって今に至るのではあるが、1956年、映画産業全盛期に書かれた本著では、それら理念の成果や反省がご本人によって述べられる時期ではなかったのが残念でもあり、一方で安心もする。

松竹蒲田調の結実。島津保次郎監督「隣の八重ちゃん」

エリートで感受性に優れ、正義感もある城戸は、映画界の悪癖、因習を改革し、また戦中戦後にあっては映画界を代表して国家や権力側と交渉し、松竹のみならず、業界全体の利益と透明性のために尽力していることが本著から窺える。
監督や俳優に対する、愛情のこもった視線も本著の随所に表れている。

これらを見ると、映画製作者(日本版タイクーン)としての城戸の特性は、大映の永田雅一などに見られる、斬った貼ったの興行主としてのそれではなく、また東宝の経営者のように不動産をやりくりしながら財政をキープするスマートなものでもなく、映画青年の感受性を持ちつつ、新聞記者を目指した客観性を維持しながら、映画製作者という極めてヤクザな職務を全う(しようと)した点にあるのではないかと思う。

(余談)

本著には、1929年(昭和3年)、ソビエトからヨーロッパ、アメリカへと9か月にわたる洋行の著述がある(本著P57~71)。

ソビエトでエイゼンシュテインやプドフキンと面談し、モンタージュ論を議論し、城戸の持論を述べたこと。
また持参の「からくり娘」を見せたが、「長い」といわれたことに触れている。

城戸がその際思ったのは、日本人が出ていること自体、彼らの想像と理解から離れ、それをして彼らに「この映画は長い」と言わしめたのだ、彼らに興味を持たせるにはすでに彼らの日本に対する常識となっている、時代劇的なものでなければだめだ、ということだった。

さらに興味深いのはハリウッドで製作者、B・P・シュルバーグに会っていること。
B・Pは大著「ハリウッドメモワール」を書いたバッド・シュルバーグの父親。
城戸は試写室に招かれ、B・Pが監督とデスカッションをしている場面を見て、ハリウッドの生存競争がいかに激しいかと感じる。
晩さん会ではノーマ・シアラー、グレタ・ガルボ、駆け出しのゲーリー・クーパーらと会食をしており、VIP待遇だったことをうかがわせる(ガルボが出てきたということは、B・Pがルイス・B・メイヤーのもとで製作をしていた頃であったのか)。

城戸が接待されたB・Pシュルバーグ、愛人シルビア・シドニーと。(メイヤーと袂を分かちパラマウントと契約していたころか)

城戸はトーキーシステムの事前調査も行っており、彼なりにあたりをつけて帰ってきており、帰朝後はさっそく日本でのトーキー映画の研究をスタートさせる。

当時はサイレント時代の末期で映画界が下り坂だったらしく、ホテルに投宿する城戸らに、ハリウッド女優のあっせんがあったそうである。
値段を聞くと一晩10ドルといわれたとのこと。
映画界の実情を表す記録として貴重な記述でもある。

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代 子役万歳!動物万歳!

アメリカ映画には、子役ものが伝統の一つだ。
動物ものも。

有名な子役といいえば、シャーリー・テンプル、マーガレット・オブライエン、デイアナ・ダービンなど。
彼女らは当時の日本でも人気者で、テンプルちゃんなどの愛称で呼ばれた。
マーガレット・オブライエンは日本に招かれ、美空ひばりと共演もした。

動物では何といっても名犬ラッシー。
山小舎おじさんなどはテレビドラマのラッシーを毎週見ていた世代。
番組で流れるミツワ石鹸のCMソングまで覚えている。

世界一の映画会社MGMでも、子役を主人公にした映画は定番のジャンルで、ミッキー・ルーニー、ジュデイ・ガーランド、エリザベス・テーラーなどがスタジオ内にある学校に通いながら映画出演していた。

今回はMGMが製作した子役と動物が主演の作品を3本見た。

「名犬ラッシー・家路」 1943年 フレッド・M・ウイルコックス監督 MGM

大人になっても「猿の惑星」などで活躍した、ロデイ・マクドウールがラッシーの飼い主の少年役。
ラッシーを買いとる侯爵の孫役で11歳のエリザベス・テーラーが出演。
実質的な主役はラッシー。

大戦下のイギリス・ヨークシャー。
厳しい生活を送る家族。
父は犬好きの侯爵にラッシーを売る。
学校の行き帰りを共にし、学校帰りにラッシーと遊ぶのを楽しみにしている少年は悲しむ。

侯爵が住むスコットランドに連れてゆかれたラッシーは、ヨークシャー目指して何百キロの旅にでる・・・。

子供向きのドラマだが、ラッシーの旅の途中のエピソードは、十分に見ごたえのあるエピソードが続く。

嵐に遭って倒れたラッシーを見つけて介抱し、元気になったラッシーを黙って旅出させる老夫婦のエピソードが心温まり、老夫婦の人生の余韻までを残す。

エリザベス・テーラーとラッシー

馬車を仕立て、芸を仕込んだテリアとともに、日本でいうところのタンカ売のような商売をして歩くおじさんとのつかの間の道連れのエピソードもいい。

放浪者であり、ボヘミアン、人生哲学者であるこのおじさんのキャラは、この時代ならではの世間離れしたもの。
行商に集まる当時の人々の描写にも、時代を感じてしみじみする。
おじさんはラッシーとの別れに際し「孤独に耐えられないなら、行商人はできない」と自分に言い聞かせる。

少年ロデイは品行方正で個性に乏しいが一生懸命な演技。
お嬢様役のエリザベスは演技らしい演技はしないが、美人女優の片鱗を示し、大人の顔が子供の体に乗っているよう。

ラッシーは水に濡れたり、足を引きずったりの演技。
子供をさえ酷使する当時の映画スタジオで、動物が「虐待」されるのは当たり前だったのだろう。
同じようなコリーが何頭も用意されて、酷使しつつの撮影だったといわれている。

「緑園の天使」 1944年 クラレンス・ブラウン監督 MGM

クレジットの順番は、ミッキー・ルーニーが単独トップ。

子役時代からMGMで活躍したルーニーは当時24歳。
青年時代になっても「アンデイ・ハーデイ」シリーズなどで人気を継続していた。
この作品では、過去の事故のトラウマから各地を放浪して歩く元競馬ジョッキーの役。

ミッキー・ルーニー主演アンデイ・ハーデイシリーズ第4作「初恋合戦」(1938)。左ジュデイ・ガーランド、右ラナ・ターナー

実質の主役である、エリザベス・テーラーは当時12歳。
イギリスを舞台にしたこの作品にふさわしい英語を話し(エリザベスはイギリス生まれ)、乗馬にも熟達していたエリザベスはこの役を熱望。
主人公役には体が小さすぎる、というハンデを、3か月で身長を7センチ半伸ばし、体重を4キロ半増やして克服したという(自伝より)。

「緑園の天使」。エリザベス・テーラーとミッキー・ルーニー

監督には、グレタ・ガルボ出演作を手堅くまとめるクラレンス・ブラウンを起用。
単なる子供向け映画にはしない、というMGMの姿勢が見て取れる。
テクニカラー作品。

1950年ころ、ハリウッドを訪問した淀長さんとクラレンス・ブラウン

とにかくエリザベス・テーラー扮するベルベットが元気。
年頃の姉(「ガス灯」でデビューしたアンジェラ・ランズベリー。のちのテレビドラマ「ジェシカおばさんの事件簿」)が、ボーイフレンドを見て胸がドキドキするのに対し、ベルベットは馬を見ると胸がドキドキする設定。

セーラー服姿(1920年代のイギリスの少女は通学服として着用)で馬に飛び乗り疾走する。
家では、型どおりに権威的な父親の言うことは聞きつつ、独特の迫力で家庭と家業を切り盛りする母親に深く傾倒している。

母役はアン・リヴィアという女優。
単なる美人女優でも良妻賢母タイプでもない。
20歳の時にドーバー海峡を泳ぎ渡って栄誉と小金を得た過去があるが、いまはイギリスの片田舎の肉屋のおかみさんに収まっている。
いざという時には自分がそうであったように、勇気をもって進む人間(ベルベット)を応援する、という真に勇気あるキャラ。

この母親と、放浪の異分子ミッキー・ルーニーの存在が互いに化学反応を起こし、ベルベットのやる気と努力と希望に点火する。
母親と放浪者は、単なる田舎の子女の人生に飛躍を与えるべく、作りこまれたキャラであった。

男子しか出場できない大障害レースに出るため髪を切って男に扮するベルベット。
ルーニーがエリザベスの髪を切るシーンは監督ブラウンが本当に切るように指示し、出来上がりの映像も本当に切っているように見える。

がエリザベスの自伝によると、監督の指示に抵抗し、断髪後のカツラを作って撮影に臨んだという。
エリザベス・テーラーの「強さ」がうかがえるエピソードだ。

髪を切るシーン

ホームドラマとして大人の鑑賞に堪える作品。
大人たちの中を12歳のエリザベス・テーラーが駆け回り、馬で疾走しまくって存在感を十分に発している。

「仔鹿物語」 1947年 クラレンス・ブラウン監督 MGM

「緑園の天使」では少女を取り巻く大人や青年の人物像を描き分けたクラレンス・ブラウンが、さらに深く、味わい深い描写で少年の周りの世界を描いた作品。
子供向けというには、暗く、現実的で、残酷でさえあるドラマになっている。

登場するキャラは、自然が好きで夢見がちな主人公の少年。
知識人として地域に頼られながら、天然で世間離れしたところもある父親。
子供を2人亡くし、1人を死産し、以来心を閉ざす母親。
足が悪く、木の上の秘密基地で暮らしながら、少年に夢の世界を伝える隣家の友達。

主人公を子役のクロード・ジャーマン・ジュニア、父親をグレゴリー・ペック、母親をジェーン・ワイマンが演じる。

中央ジェーン・ワイマン

舞台は1800年代後半、南北戦争後のフロリダの湖沼地帯。
戦争に敗れた南部の知識人が新天地を求めて開拓に移住した背景が読み取れる。

母は開拓の苦労に疲れ、夢を見る時期はとっくに過ぎている。
父は夢をあきらめず、開拓地での苦労も、たまに町へ行くことも、両方楽しみつつ、妻へのいたわりも忘れない。
生き残ったただ一人の息子の成長が生きがい。

少年は裸足で暮らす。
熊に家畜を襲われ、父とともに熊を追う。
豚を隣人に盗まれる。
大嵐で作物が全滅する。
隣家の友人が死ぬ。
マイルドな描き方で表現されるが、どれもシビアな開拓生活の現実だ。

少年は動物を飼うことを母親から禁じられているが、あるとき父親が撃った母鹿に取り残された仔鹿を持って帰り、飼うことを許される。

この仔鹿が、大事な作物を食べ、防護の柵を立ててもそれを飛び越える。
少年が兄弟のように大切にしていた存在に裏切られる。
鹿が少年を裏切るのではなく、現実が夢を裏切るのだ。
やむなく鹿を撃った傷心の少年に父親が言う「受け入れて前に進むんだ」と。

父の言葉は、少年に現実を教える言葉であろう。
一方でこういう見方もできる。
大人の価値観に合わせそれに従え、と。

それは当時の常識でもあったろうし、第二次大戦に勝ち我が世の春を謳歌するアメリカの支配層が大衆に従わせたい価値観でもあったろう。

もし、仔鹿が異民族や異教徒の暗喩だったらどうなのだろう?
少年の悲しみと納得のいかなさは、いわゆる大人の価値観への疑問とはならないか。

かつて、動物であろうと人間であろうと、自分たちの価値観にそぐわないものに対して不寛容な人間の歴史が長くあった、という自制につながるメッセージが、そこに浮かび上がっては来ないだろうか。

この映画の根底を流れる暗いトーンは、そのような人間の宿痾に対する、必ずしも楽天的とはいえない現状と未来を諦観してのものだったのかもしれない。

DVD名画劇場 ハリウッドが描く日本人の戦争「太陽の帝国」

文春新書「スクリーンの中の戦争」

坂本多加雄という著者が描いた文春新書を読んだ。
目次にある通り、日本およびアジアに関係する戦争を描いた、外国映画、日本映画について述べた内容。

著者は「新しい歴史教科書をつくる会」理事を務めた政治思想家。
本書の背景には、欧米の一方的な勝者目線の歴史観とアジア蔑視の歴史観を排し、日本は正当な歴史観に基づくふるまいをせよ、との著者の思いがある。
この新書には、その観点から見た、「トラトラトラ」(1970年 リチャード・フライシャー他監督)と「パールハーバー」(2001年 マイケル・ベイ監督)の違いなどが分かりやすく述べられている。

本書第二章は「ハリウッドが描く日本人の戦争」と題して、「太陽の帝国」について詳しく述べられている。
これを読んで、当該作品に興味を持った山小舎おじさんは、DVDを探し興味津々で見てみた。

そこには日本映画が負の歴史として描くことを避けてきた大局的観点からの日中戦争を巡る4か国(英、日、中、米)の実像が描かれていた。

植民地中国からみじめに撤退していった大英帝国と、宗主国がいなくなってますます混乱する眠れる獅子中国と、颯爽と登場して中國大陸の覇者となりながら幻と消える日本と、戦後世界の覇者として現れる物質世界の王者アメリカとが、ある時は主人公の少年の目を通して幻想的に、ある時は冷酷なほど客観的に描かれていた。

「太陽の帝国」 1987年 スチーブン・スピルバーグ監督 ワーナーブラザース

旭日旗がアップでとらえられるファーストシーン。
この作品では日の丸と太陽がことあるごとにアップでとらえられる。

大空に銀翼を連ねて飛ぶ飛行機は日の丸をつけた日本機ばかり。
主人公の少年が遊ぶ、ゴム動力の模型飛行機の翼には日の丸。
収容所生活中、彼が肌身離さず持って歩いた模型飛行機も、日の丸が付いた日本の戦闘機だった。

植民地支配の終焉におののきを隠せない少年の親たちをよそに、少年のあこがれは日本のゼロ戦であり、また、日本軍の武器の性能と規律正しさを評価する彼は、日本空軍のパイロットになることを夢見る。

開戦前夜の上海からイギリス人が脱出を図る。
脱出前日まで、大邸宅で仮装パーテイーにうつつを抜かすイギリス人たち。
映画は宗主国イギリスが植民地中国で100年間「何もしてこなかった」空虚さを描く。

脱出するイギリス人の高級車を取り囲む中国人たちの描写にも救いがない。
右往左往する群集は宗主国を失って、その遺産を略奪する以外になすべきこともないようでさえある。

整然と進軍してくる日本軍に立ちはだかって主人公は言う。
「アイ サレンダー」(降伏します)と。
主人公の少年にとって日本軍がその時代の覇者となることは憧れであり、自明の理であった。

日本の敵性国民として、英米人の収容所生活が始まる。

主人公が収容所の作業から離れ、隣り合わせの飛行場のゼロ戦に近寄る。
溶接バーナーの火花に彩られ浮かび上がる戦闘機。
憧れの機体をなでる少年。
日本軍パイロットが談笑しながら近づく。
思わず敬礼する少年。
敬礼を返すパイロットの姿がバックライトで浮かび上がる。
この場面をスピルバーグは感動的に演出する。

終戦間際。
飛行場から特攻隊が出撃する。
水杯を交わし「海ゆかば」を歌う特攻隊員。
主人公の少年はこれを見て敬礼しつつ、賛美歌を歌う。

ハリウッド映画で(外国映画で)こんなに日本軍を(日本を)、好意的に描いたことがあったろうか。

特攻機が飛び立った直後、アメリカ空軍のP51が現れ飛行場を襲う。
圧倒的戦闘能力で日本軍をせん滅する。
「空のキャデラックだ!」と熱狂する主人公。
アメリカ風のマーチが鳴り響くかのような場面の造りだ。

主人公とて盲目的な日本軍信者ではない。
強いものに憧れる少年らしい少年なのだ。

収容所生活も末期となり、徒歩で蘇州へ移動する英米人たち。
主人公と同部屋だったイギリス人夫人が死んでゆく。
背景に白っぽい鮮烈な太陽が昇ってゆく。
日本に原爆が落とされ、降伏したとのニュース音声がかぶさる。

少年は白っぽい太陽を目にして「夫人の魂が昇天してゆく」と思う。
白っぽい太陽は、日本帝国が主人公の憧れからも、世界の覇者からも永遠に没落したことの表現だった。

映画は、列強白人の収容所生活も時間をかけて描く。
主人公が付きまとう正体不明のアメリカ人は物質性と生活力の象徴。
逆境に適応できないイギリス人は死んでゆく。
大英帝国の没落だが、主人公の関心はすでにそこにはない。

アメリカ軍が降下した食料に驚喜し、アメリカ軍に向かって「アイ サレンダー」と敬礼する主人公には、すでにアメリカによる戦後世界を生きる準備が整っている。

イギリス人小説家、J・G・バラードの半自伝的小説が原作。

戦後初めてアメリカ映画として大陸中国でのロケを敢行。
5000人の中国人エキストラを動員して戦前の上海を再現。
ワンカットもゆるがせにしない金のかけ方にスピルバーグの本気を感じる。

戦前の上海の街角の「風と共に去りぬ」の大看板。
日本軍の進駐とともに撤去される蒋介石の大看板。
揚子江に浮かぶ実物大のサンパン(帆掛け船)の再現。
大作仕様のハリウッド映画そのもののがそこにある。

蘇州の収容所に立つ壊れかけの城門は、スピルバーグによる黒澤明の「羅生門」へのオマージュであろう。

「太陽の帝国」という日本そのものを表す題名。
繰り返し登場する太陽、日の丸、ゼロ戦。
あからさまにそれらを信奉する主人公の存在。
戦後の日本映画(日本そのものも)が忌避してきたそれらを、なぜにハリウッドのそれも大作映画が描くのか?

単なる少年の憧れの表現にしては念がいっている。

少年のあこがれとしての日本(軍)を、今までのハリウッド映画のようにカリカチュアせず、後年の価値観で矮小化せず、全否定もせず、正面から捕らえようとしているのではないか。

この作業を、敗戦国としての勝手な忖度から忌避し、怠けてきた日本(映画)は、日本人としての常識的な価値観でさえ、外国映画によって代弁される事態に甘んじているのではないだろうか。

(おまけ)「二世部隊」 1951年 ロバート・ピロシュ監督 MGM

手許にこの作品のDVDがあった。
日系人部隊の欧州戦線での活躍を描く内容。
広い意味で、「ハリウッドが描く日本人の戦争」に含まれるのではないかと思い、見た。

1944年、収容所から志願した日系人二世の若者が集められ訓練を受けていた。
彼らは442部隊という日系人で構成された兵団でイタリア戦線に投入されることになる。

訓練中の442部隊に赴任してきた少尉(ヴァン・ジョンソン)はあからさまに不満を漏らす。
日系人をジャップと呼び上官に警告される。
「ジャパニーズアメリカン(日系アメリカ人)と呼べ。日系人をバカにするな」と。

映画の巻頭のルーズベルトの宣言(日系人をアメリカ軍に加える。アメリカは人種によって差別しない)といい、新任士官に対する上官のセリフといい、進歩主義的なタテマエが前面に示される。

キャンプでの訓練中から、日系人俳優たちの描写は丁寧で、温かい目線だ。
ヒヨコの雌雄判別の技術で月500ドル稼いでいたという男、日系人女性の恋人の写真とラブレター、ハワイ出身の日系人たちのウクレレとフラダンス。
そこには白人の米兵に対するのと同じく、人間性を前面に押し出した演出がなされる。

製作のドーリ・シャリーという人物。
MGMを皮切りにセルズニックプロ、RKOなどを渡り歩いてきた。
「少年の町」(1938年 スペンサー・トレーシー主演)、「らせん階段」(1946年 ロバート・シオドマク監督)などを製作した。

シャリーは、1955年に「日本人の勲章」というスペンサー・トレーシー主演の映画を製作している。
日系人部隊で活躍し戦死した日系人に授与された勲章を、遺族に届けに来た元軍人が、その遺族は地元のボスにより殺されていた、ということを知って・・・という内容。
「二世部隊」でも随所に暗示される人種差別をテーマにしている。

「二世部隊」でも、ジャップと呼ぶ米兵が出て来たりするなど、人種差別を隠さず描いている。
進駐先のイタリアで、米軍の格好をした日系人が地元民にびっくりされたりもする。

戦闘シーンでは、勇敢な二世兵士の活躍場面はあるが、二世部隊の名を一躍有名にした、ドイツ軍に包囲されたテキサス大隊の救出では、補助的な役割として描写される。
白人の上級将校の立てた作戦の元、現場でとにかくがむしゃらに肉弾として戦った日系兵士、という扱いで、あまつさえ最後の突破の場面には、白人の少尉たちが一緒にいたりさえする。

戦争映画のキモの戦闘シーンでは日系人に主役はさせない、というアメリカ映画的な約束事なのか。
また、442部隊の消耗率がアメリカ軍全体の中で異様に高い事実にも触れていない。
そもそも、ノーノーボーイと呼ばれた、アメリカへの忠誠も、徴兵も拒否した日系人二世が米本土の強制収容所に、それなりに存在していたことも。

この映画、タテマエとしての民主主義に基づく、少数民族への配慮を示した点では、当時のもっとも進歩的な作品であろう。
のちの「日本人の勲章」につながる差別問題を示唆してもいる(日系兵士が手紙で弟が収容所を出て働く先でリンチに遭ったなど)。

ところが、肝心な部分で白人に主役の座を譲っていたりするのを見ても、あくまでもアメリカ人としての日系人の物語なのである。
太平洋戦線に派遣されたとしても、日本人相手に戦闘することをためらわないような。

ナショナリズムに関する部分は避けられ、ましてや日本そのものに対する興味も、リスペクトもない。
日本人の、ではなくい日系アメリカ人にとっての戦争をテーマにしたドラマなのである、しかも巧みに情報操作された。
その点では「太陽の帝国」とは根本的に異なる作品だった。

DVD名画劇場 フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース

アメリカ映画にはミュージカルという伝統分野がある。
主演の俳優が相手役の女優と、劇の合間に歌い踊る映画である。
同時にバックコーラスやダンサーたちが豪華な舞台でレビューを繰り広げる。

1940年代になって、MGM映画社が、ジュデイ・ガーランド、ジーン・ケリー、フレッド・アステアらを擁して、豪華な舞台装置と人海戦術的なバックダンサーたちの動員により、ミュージカル映画の頂点を極めることになる。

トーキー黎明期から、1950年代まで映画の主要ジャンルとして間断なく作り続けられてきたミュージカル映画。
戦前戦中は、いわゆるエスケープムービーとして、不安な世界情勢や戦争の現実から、一般大衆を逃避せしめる役割もあった。
一般大衆にしても、悲惨な現実はいやというほど味わっており、せめてスクリーンでは甘い夢を見せてくれることを望んだこともあろう。

フレッド・アステアは父がドイツ系ユダヤ人の移民だった。
若くしてダンサーとして活躍。
映画界入り後は不遇時代が続いたが、1933年にRKO社と契約し、ジンジャー・ロジャースとのコンビで売り出す。1940年からはフリーとなってMGMほかでミュージカル映画を中心に息長く活躍。
1999年全米映画協会選出のスターベスト100では男優部門第5位にランクされる歴代のスターとなった。

ジンジャー・ロジャースとのコンビは7年間続き、RKOの屋台骨を支えた。

今回、アステア&ロジャースのミュージカルを2本見ることができた。

「コンチネンタル」 1934年     マーク・サンドリッチ監督 RKO

アステア&ロジャースコンビの第2作。

ロジャースに一目ぼれしたアステアがひたすら追いかける、最初は誤解していたロジャースも最期は打ち解けて・・・というストーリーを軸に、アステアが一人で歌い、踊りるシーンで始まり、二人で踊りまくるクライマックスへと向かう。

アステアのリズム感と間。
その音感と、タメのある動きが、すでにアステアの「間」そのものになっている。
歌もうまい。

相手役のジンジャー・ロジャース。
ブロンドヘアーにバリバリのハリウッドメイクの姿は一見するとジーン・ハーロー。
でもアップで見ると親しみのあるアメリカ娘。
気が強くて、直情径行だが裏表がなく、明るいキャラクター。

こちらもリズム感抜群で、踊り慣れた感じは、ダンスに自己流のアレンジも一瞬感じさせるが、次の瞬間には、音楽との正確でスピーデイーなマッチアップに感心させられる。
アステアとのコンビネーションでは、決して相手に対抗してテクニックを発揮しようとはせず、だからといってひたすら合わせることに専念もせず。
自分なりのリズム感を持ち、華やかで明るく元気がある。

ジンジャー・ロジャース

アステアにとって、彼女以上のパートナーはいないであろう、と思わせる存在が、ジンジャー・ロジャースだと思う。

「コンチネンタル」より

作品中のナンバーではラストの大団円を彩る「コンチネンタル」が圧巻。
200名のバックダンサーを従えて二人が踊る。
元気に踊るのだが、踊りまくる、というよりは優雅に踊っていいところをかっさらう感じ。

レビューシーンはミュージカル映画の楽しみの一つ。
出てくるダンサーの一人一人が飛び切りの美人なのはハリウッドのお約束だが、バックダンサーたちの振り付けだったり、大人数の振り付けだったりが、50年代のMGMミュージカル全盛期を待つまでもなく、原形がすでにここに完成していたのは発見だった。

「トップ・ハット」 1935年 マーク・サンドリッチ監督 RKO

コンビの第4作目。
「コンチネンタル」のヒットを受け、同様の配役と同様のプロットで作られた。

乗馬ズボンスタイルで踊るジンジャー・ロジャースの姿が見られる。

踊るジンジャー・ロジャース。このポーズと表情が彼女らしい!

ドラマ部分のわき役が「コンチネンタル」と被り、それぞれのキャラもまた似通っている。
さらにドラマの演出が、無理にコメデイー仕立てにこだわっている。

MGMなどと違い、後発の撮影所でスターのいないRKOが、ブルジョワ階級のコメデイーをやっても、手際が悪くチープな感じが漂うだけなのだが。

歴史を越えて輝く、アステア&ロジャースのダンスシーンがあるのだから、ドラマ部分は思いっきり簡潔に、ミュージカル風のぶっ飛んだ演出でもいいのだ。

「トップハット」より
「トップハット」より

映画後半の舞台はベネチア風のゴンドラが浮かぶヨーロッパリゾート。
画面一杯にセットを組んでの撮影だったが、憧れのヨーロッパのおとぎの国の再現のようなピカピカのセットが、ベニヤ張り丸出しの安普請に見えてしょうがなかった。

「トップハット」を歌い踊るアステア(左)。この前傾ポーズがアステアのタメの姿勢。.

ミュージカル映画の成熟と完成は40年代以降のMGM作品を待たなければならなかったのかもしれない。

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代 アフリカンアドベンチャーの世界

MGMの得意ジャンルの一つにアフリカを舞台にした冒険活劇がある。
伝奇な舞台設定と、猛獣や原住民のエキゾチシズムを前面に出した物語で、多くは原作ものの映画化であった。

今回は記念すべきターザンものの第一作と、現代でも続編が作られ続けているキングソロモンもののMGM第一作を見ることができた。

「類猿人ターザン」 1932年 W・J・ヴァンダイク監督 MGM

この作品からターザンの物語が始まった。
MGMでの初代ターザン役はジョニー・ワイズミュラー。

アフリカにいる父を訪ねて娘のジェーンがやってくる。
活発で冒険好きのジェーンは、止めるのも聞かず、父らと一緒に象牙を求めてアフリカ内部へ旅立つ。

ワイズミュラーとのコンビでターザンものの人気を不動のものにしたジェーン役のモーリン・オサリバンが、現代娘を元気に演じる。
冒険活劇には少々無鉄砲で破天荒な若い娘が似合う。
モーリン・オサリバンは冒険アドベンチャーのヒロイン役の原点として申し分ない。

象牙を求めての冒険旅行の過程で、猛獣が現れ人間と戦う。
今は動物保護の観点からできないのだろうが、昔は人間と動物が取っ組み合って戦うシーンはアフリカものの映画によくあった。

原住民の猟奇的(よく言えば民俗学的)な描写にも驚かされる。

終盤に大人数のピグミー族が出てきて主人公らと争うシーンがあってびっくりする。
あんなにたくさんのピグミーをどうやって集めたのか、現地ロケなのか。
それとも、白人の小人を黒く塗ったり、または子供を使ったのか?

MGMは、「オズの魔法使い」でも多数の小人俳優(子供も混じっていたが)を使っていたし、なにより「フリークス」(1932年 トッド・ブラウニング監督)で奇形者を多数使った「実績」がある映画会社だから。

MGM映画「オズの魔法使い」。小人の国のシーン

何より一番センセーショナルで伝奇的なのはターザンの存在そのもの。
その登場シーンは,モンスター映画で怪物がチラリとでてくるシーンのドキドキ感もあるし、ジェーンとの邂逅から打ち解けるまでは、キングコングと美女のそれと同様に、異人種間交流のタブー感に満ち満ちていた。

「類猿人ターザン」より。ターザンとジェーン

ジェーンがターザンとジャングルに残ることを宣言して第一作は終わる。
ジェーンがターザンの妻として、お馴染みのコスチュームで登場するのは第二作「ターザンの猛襲」から。
第二作目も見たくなる出来の第一作だった。

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「キングソロモン」 1950年 コンプトン・ベネット、アンドリュー・マートン監督 MGM

ハリウッドの一ジャンルとなった秘宝アドベンチャーものの源流となった作品。
大掛かりなアフリカロケが行われ、映画の巻頭にMGMからウガンダ、ケニヤ、タンザニアなどの政府に対する賛辞がクレジットされる。

テクニカラーで撮影されたアフリカの風景、猛獣、原住民の生態が当時の観客にはセンセーショナルだったのだろう。
アカデミー撮影賞を受賞している。

行方不明になった夫を探しにイギリスからやってきた富豪の夫人(デボラ・カー)が現地のスペシャリスト(スチュアート・グレンジャー)の案内で未知の領域へ探検旅行を行うという物語。

夫人の夫はソロモン王の秘宝が眠る魔の山に消え、夫人ら一行は魔の山にたどりつき、秘宝を目にするのだが、本作はそういった伝奇的な要素よりも、道中の動物たちの描写に重きを置いている。
当時はたくさんいたサイやカバなどの生態、山火事に驚いて暴走するシマウマの群れなどは現在では貴重な映像だ。

「レイダース」や「ロマンシングストーン」のように、転がってくる岩から逃げたり、崩れ落ちる崖を走るようなハラハラシーンの連続を期待すると、これは違う。
ヒロインは落ち着いたイギリス夫人であり、無鉄砲な娘の冒険旅行ではない点も他作と異なる。
お約束通り、主人公二人は最後に結ばれはするが。

共同監督のアンドリュー・マートンはアクション・アドベンチャー場面を担当。
おそらくロケ担当かと思われる。
「ベンハー」「史上最大の作戦」の第二班監督を務めたというマートン家督は現場で頼りになる人なのかと思う。

(追加)「キングソロモン」 1937年 ロバート・スティーブンソン監督 イギリス

「キングソロモン」の初映画化は、1937年にイギリスによって行われていた。

1937年版のこの映画は、行方不明の父親を捜しにアフリカに娘がやってくることから始まる。

キャラバンを組み、砂漠を越えて、ソロモン王の秘宝が眠る魔の山のふもとの村にたどりつく。
途中からキャラバンに合流した不思議な黒人がこの村の王子だとわかり、王位をめぐる争いに巻き込まれる。
歌を歌いながらキャラバンを先導するこの黒人のキャラが奇妙である。

やがて魔の山山中の洞くつで行方不明の父親と再会し、秘宝を残しつつ崩れ落ちる洞くつから命からがら脱出し・・。

おそらくハリウッド版より原作に忠実なのではないか?
キャラバン途中の苦難、特に砂漠での乾きなどがより深刻に描写されている。

現住民の描き方なども、ロケによる当時の原住民の様子なども交えて、より興味深い。
ハリウッド版の原住民は、顔の描き方などもハリウッド流であり、アバンギャルドなその顔をアップで強調する撮り方だったが。

秘宝発見後の洞くつ脱出場面はハリウッド版よりスリリングに描かれていた。
伝奇的なおドロドロしさもあり、アクション的にもサービス満点な作品だった。

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代  女性ドラマの世界

児玉数夫著 講談社文庫 「MGMアメリカ映画黄金時代」

著者の児玉数夫は戦後直後にセントラル映画という外国映画輸入会社に入り、以降数々の映画を輸入会社の立場から見てきた人。
映画に関する多数の著作があるが、いわゆる映画評論家的な価値観から作品を論するのではなく、今では忘れられた輸入映画の数々を、当時のポスターや宣伝文句とともに紹介できる稀有な映画人だった。

1968年文庫書き下ろしの本作は、世界一の映画会社であるMGMの1920年代から60年代までの作品を選択して紹介したもの。
著者がリアルタイムで接してきた、MGMの作品、シリーズが網羅されている。

グレタ・ガルボ、クラーク・ゲーブルを売り出したMGM。
キートンや極楽コンビによる喜劇、ターザンシリーズ、海洋冒険もの、おしどり夫婦探偵の「影なき男」シリーズ、子役による「ラッシー」もの、女性もの、ミュージカルなど、その作品ジャンルは多岐にわたる。

MGM映画のカラーは、「非常に広い範囲の観客を目標におく、世界のあらゆる人々に理解と共感をもって受け入れられる映画であることを念願」に(本著作まえがきより)したものだった。
日本の映画会社であれば東宝のカラーに近いのかもしれない。
美男美女のスターを配し、社会の多数派を意識した家族向けのテーマを、製作費を潤沢にかけて、明るい画面の映画に作り上げた。

今回はMGM黄金時代の作品から、女性が主人公の3本を選んで見た。

「風と共に去りぬ」 1939年 ビクター・フレミング監督 MGM

ハリウッドのラストタイクーンの一人、デビッド・セルズニックによる製作。

原作はマーガレット・ミッチェルによるベストセラー。
南部人のミッチェルは、南北戦争を経験したその祖母のエピソードを交え、ヒロイン・スカーレットの半生を描いた。

セルズニックは映画化に当たりスカーレット役の女優を探し、イギリス人の無名女優ビビアン・リーに決まったのは撮影が開始された後だった。

ビビアン・リー

3時間を超える作品の前半は南北戦争開始前から始まる。
タラと呼ばれるジョージア州のスカーレットが育った農場一帯が舞台だ。

奴隷制度が維持され、スカーレットの父ら農場主は貴族のような生活を送っていた。
南部人にとって北部は「ヤンキー」と呼び、敵対し軽蔑する対象だった。
原作では登場人物の南部男性はKKK団に所属していた。

映画では農場主の妻(スカーレットの尊敬する母)が、素行不良の管理人に対し「あなたの子を私が取り上げた。幸いに死産だった」と告げる場面がある。
はっきり描かれないが、白人が黒人奴隷に手を付ける慣例があったことの暗示ではないかと思われる。
妻は農場主の夫に対し、管理人を翌朝一番で解雇するよう強く意見していたが。
良くも悪くも南北戦争前の南部の風景だ。

南北戦争前のタラの自然。
夕日に染まる広大な農園、月明かりに浮かぶ広大な屋敷に集まる馬車。
ロケに大掛かりなライテイングを施した撮影だったであろう、忘れがたい場面が続く。

タラの屋敷での舞踏会シーン

南部人にとって古き良き時代を描きつつも、単なる郷愁や北軍に対する大義とプライドは滅びゆくものとして描かれる。

戦争が始まると、戦費協力のバザーでは宝石の供出が求められる。
夫人は野戦病院に駆り出される。
広場を埋め尽くす戦傷者の群れ、アトランタ陥落を前に燃え落ちる弾薬倉庫。

戦乱のアトランタからタラに逃れる

主人公のスカーレットは農園のわがまま娘で、言いたいことやりたいことを我慢しない。
何をやりだすか予測がつかない。
ハリウッド映画が描いてきた主人公像、常識的で貞淑で分別があり控えめ、とは正反対。
母親代わりの黒人メイドに反発し、寄ってくる男を振り回し、自分の好きな男を例え婚約者がいても追い回し、いやなことからは逃げたがる。

見ているこちらもその行動にはらはらし、振り回される。
抜擢されたビビアン・リーが、まさに適役。

レットとスカーレット。運命のパートナー

スカーレットを男にしたようなのがレット・バトラー。
素行不良の退役軍人で、戦乱の南部をさ迷いながらスカーレットにモーションをかけ続ける。
ピンチで役に立つし、最後の最後で南軍の大義に準ずるヒロイズムを持つこの人物はクラーク・ゲーブルのイメージ通り。

スカーレットとは対極の性格で、一見ひ弱そうだがいざとなると一番責任感が強い女性にオリビア・デ・ハビラント。
最後まで不肖のスカーレットを助け、レットにも絶賛される稀有な女性。
スカーレットが思いっきり奔放で未熟だから、対極のキャラとして描かれたのだろうが、主人公たちの、性格的にも時代背景的にもブレブレで流動的なこの映画に1本の精神的支柱となる存在だった。

レットも信頼する女性にオリビア・デ・ハビラント

スカーレットの、女性にしては激しく、自律的な性格(喪服のままダンスに興じるシーンは当時の常識に反逆?)だったり、タラの屋敷に押し入った北軍の脱走兵が強盗そのものの描写だったり、冒頭の管理人が奴隷?に子を産ませた場面を含め、30年代の映画としてはアメリカのタブーに触れ、また多数派の常識に逆らうかのような場面が盛り込まれていたのが興味を引いた。
この作品が古びない一つの要因なのかもしれない。

本作のフィルムは、三原色それぞれのネガで保存されるが、それらのネガは大戦中万が一の場合に備えハリウッドから東部に移されたという。

占領下のシンガポールで本作を見た小津安二郎が大いに感心したとも伝えられる。

監督が、ジョージ・キューカーからフレミングに交代し、サム・ウッドが第二班の演出にあたるなど長期にわたる撮影を指揮したセルズニックの功績は特筆される。

「哀愁」 1940年 マービン・ルロイ監督 MGM

「風と共に去りぬ」でアカデミー主演女優賞を獲得したビビアン・リーを主演に持ってきた作品。
第一次大戦下のロンドンを舞台に、バレエダンサーと将校の悲恋を描く。

ビビアンの相手役はMGMの二枚目スター、ロバート・テーラー。
ビビアンに一目ぼれして追いかけるが、突然の出征で心ならずも別れ、その後偶然に再開し、改めて婚約するが、別れた間に戦争中の困窮に苦しんでいたビビアンが自責の念に耐え切れず・・・・。

ビビアン・リーとロバート・テーラー

薄幸の美人ダンサーと、地方の農園主の御曹司の悲恋。
少女小説のように実感のないストーリー。

主人公らを取り巻く人々も、悪意の片鱗すらなく彼らを支え応援する。
悪いのは戦争という時代背景。

映画は物語を斜に構えず正面から捕らえ、オーソドックスに悲恋を語る。
空襲の描写もおとなしい。
貧困に苦しむビビアンと親友の部屋も暗さや悲惨さはおとなしめに表され、娼婦に身をやつした彼女らの姿に独特の凄味は少ない。

中年になった男の在りし日の悲恋の追憶の映画として観れば、一抹の共感もできる。

身をやつしたビビアンに、暗さや荒みを演出すれば凄味が出たとも思う。
彼女の女優としての資質からはその凄味を十分表現できた。
が、そういう作品ではなかった。

「心の旅路」 1942年 マービン・ルロイ監督 MGM

踊り子と御曹司の恋、という設定は「哀愁」同様。
グリア・ガースンの魅力が印象に残る作品。

「MGMアメリカ映画黄金時代」より

戦争で記憶をなくした主人公(ロナルド・コールマン)が、踊り子ポーラ(ガースン)に拾われ、結婚し子供まで設けるが、交通事故で記憶が戻り、それまでの記憶を失う。
やがてポーラと再会し記憶を取り戻すまでの物語。

イギリス出身のグリア・ガースンのキャラクターがいい。
きっぷがよく包容力のある明るい女性を演じ、舞台で踊り歌う姿まで見せる。

「哀愁」のビビアン・リーのバレエダンスシーンは上半身だけの描写だったが、この作品でのガースンはバッキンガムの衛兵をモチーフにしたミニスカート姿で形のいい足を見せ、舞台中を歌い踊る。
戦争終結に酔う観客が舞台に押し寄せるとそれを相手にダンスさえする。
何とも明るくていい。

「アメリカ映画黄金時代」より

ポーラは、記憶喪失中のコールマンを終始リードし、コールマンに文筆活動をさせて結婚生活を送る。
記憶が復活し、財閥の御曹司となったコールマンのもとにいつの間にか秘書でくっついているのには驚いたが。
その強引さもガースンに免じてならOKだ。

この作品は「哀愁」と同様に取り巻く人々が模範的。
コールマンを少女時代から思慕し、結婚寸前までいった娘キテイは「あなたが一番好きな人は別にいる」と言って身を引く。(「哀愁」で最後までビビアンを助けた親友もキテイ名だった)。

ありえないくらい模範的な人々。
人間臭い感情を描くのが映画だが、MGMの大作は人々を模範的、道徳的に啓蒙するのも使命の一つなのだろうか。
それもグリア・ガースンに免じて許す!

「MGMアメリカ映画黄金時代」の「心の旅路」紹介欄には、「荒れ果てた敗戦の汚れた街に住む私たちには恍惚の二時間を与えてくれた」とある。
「戦後アメリカ映画に初めて接して映画ファンになった人の中には、この「心の旅路」を、生涯の心に残る想い出の名画としている人が多くいるときいた」とも。

DVD名画劇場 ジェームス・ギャグニー ギャングスター!

ジェームス・ギャグニーは1930年代にギャング役で売り出したスター。

DVDで、出世作「民衆の敵」と、自伝のタイトルにもなった「汚れた顔の天使」を見ることができた。
いずれもギャグニー全盛期の作品。
どちらの作品にも、ギャグニーの切れ切れの動きと愛嬌ある表情が炸裂していた。

「民衆の敵」 1931年 ウイリアム・A・ウエルマン監督  ワーナーブラザーズ

1909年のタイトルで始まる。
貧民街の二人組。
すばしこい悪ガキコンビだ。

やがて腕を見込まれ、悪の組織の下請けとして「活躍」しはじめ、暗黒街に名を売る。

悪ガキ時代のギャグニーと幼馴染

ギャグニーには移民の母親とまじめな兄がいる。
兄は非行に走る弟を容赦なく叱る、母親は嘆く。
弟は叱られ、嘆かれるたびに、より反発し悪事に走る。

金を手にし、女をとっかえひっかえ。
豪華な部屋に住み、イカす車を乗り回す。

ギャグニーの演技というかキャラクターが見どころ。
売り出し中のギャングぶりがいい。
気に入らない相手にはビールを吹きかけ、口うるさい情婦にはグレープフルーツを押し付ける。

情婦の顔にグレープフルーツを押し付ける!

小柄な体をきびきび動かし、ウインクしたり睨んだり忙しく変化する表情。
精悍でかつ愛嬌もあり、ギャグニーがスターになるべくしてなったことがよくわかる。

ウエルマン監督の演出は、余計な要素は盛り込まず、貧民街出身の非行少年がギャングスターとなり、必然的に破滅するまでをテンポよく描く。
観客や、自主規制に対するエクスキューズを気にするより、ギャグニー扮するギャングを冷徹に淡々と見つめる。

ギャング映画の見せ場は、銃撃シーン。
この作品の銃撃シーンは暗く救いがない。
ひたすらスピーデイでショッキングで乾いている。
ラストシーン、板に括り付けられたギャグニーの死体が、立ちあがるように送り届けられる衝撃。

30年代のセックスシンボルといわれたジーン・ハーローが出ている。
一種独特の存在感があり、彼女が出ているシーンは映画のトーンが変わって見える。
さすがのギャグニーもハーローの存在感にはかなわなかった。

「汚れた顔の天使」 1938年 マイケル・カーテイス監督  ワーナーブラザーズ

「民衆の敵」でギャングスターとして売り出したギャグニーは、その後、西部劇やコメデイなど多彩な役に挑戦。
ギャング役は1950年を最後に遠ざかることになる。
本作ではギャング役を演じる。

貧民街出身で、相棒とともに非行を重ねる少年時代。
ここまでは「民衆の敵」と同じだが、そのあとがかなり違う。
ギャグニーは非行少年のまま、ギャングとして悪の道を進むが、相棒は改心して何と神父となる。

ギャグニーと神父役のパット・オブライエン

ギャングと神父となった二人だが友情は変わらず。
ギャグニーは神父が非行少年の更生のために行っているバスケットボールを手伝ったりする。
神父は神父で、非行少年更生のもとを発つため、ギャングと権力の結びつきを糾弾しようとマスコミに訴える。

ギャング映画としてのキレもありながら、同時に進行する非行少年更生の話が、映画全体のテンポとテンポとムードを阻害し、中途半端な印象をぬぐえない。
世論と自主規制を大いに意識し手の作りなのだろうが、神父の単純な勧善懲悪に簡単に乗ってしまうマスコミの描写が薄っぺらい。

ただしラストはいい。

死刑を宣告されたギャグニーに神父が最後の頼みをする。
英雄的に死ぬのではなく、命乞いしてみじめに死んでほしいと。
鼻で笑うギャグニーだが、演技か真実か、泣きながらみじめに死んでゆく。

ここが映画のテーマなのだが、そこに至るまでの、神父や非行少年たちの描写がいかにも観客受け(世論受け)を狙ったようでしらけてしまう。
そうなると、ギャング場面のギャグニーのきびきびとした演技も、観客受けを狙ったマイルドなものに見えてしまうは気のせいだろうか。

DVD名画劇場 続・アメリカ時代のジャン・ルノワール

畑の作業もほぼ終わり、寒くなってくると時間ができ映画を観る時間が増えてくる山小舎おじさん。

先回ご紹介した「アメリカ時代のジャン・ルノワール」で、ルノワールの渡米第一回作品「沼地」に触れましたが、この度同作品「スワンプ・ウオーター」(1941年。DVD題名は原題どおり)と、渡米後5作目にあたる「浜辺の女」(1946年)を見る機会があったので、それえぞれ感想を書きます。

「スワンプ・ウオーター」 1941年 ジャン・ルノワール監督 20世紀FOX

欧州を逃れ渡米したルノワールは、20世紀FOXと契約した。
年2本の監督作品が条件の高給待遇だった。

その後、第一回作品を撮るまでの間に、ハリウッド及びハリウッドが彼に対して何を望んでいるかを痛感したルノワールは、こう述べている。

ハリウッドは営利主義という理由でだめなのではない、「完璧さ」に対するめくらめっぽうな執着にこそ真の危険性がある。(自伝より)。

完璧さを求めてあらゆる才能(監督、脚本、撮影、出演者・・・)が集められるが、工業製品を作る産業ならともかく、映画に於いて才能あるスタッフを集めて完璧性を求め、それでうまくいくとは限らないのだ、と。

産業としての映画製作を旨とするハリウッドが、ルノワールに求めていたのは、高品質の製品(映画)製作の現場責任者。
流れ作業のスタッフの一つのコマとしてふるまうこと、であり、ルノワールにとっての映画作りとは相いれないものだった。

20世紀FOXとの契約後、アメリカ的な題材を希望するルノワールと、フランス的な題材を期待する製作責任者ダリル・F・ザナックの交わらないベクトルは、しかしザナックが「スワンプ・ウオーター」の企画を持ってきたことで、たった一度の交わりを見た。

「スワンプ・ウオーター」がルノワールが敬愛するジョン・フォードの1935年作品「男の敵」を書いたダッドリー・ニコルズの脚本であったことも幸いした。
この出会いからニコルズとルノワールは終生の友となる。

「スワンプウオーター」演出中のルノワール。左からアン・バクスター、ダナ・アンドリュース。

さて、「スワンプ・ウオーター」。
ジョージア州に広がる沼地を舞台にしたドラマ。
ワニと豹が住む広大な沼地に逃げ込んだ冤罪の殺人犯(ウオルター・ブレナン)と、偶然彼と出会い、友となり、冤罪を晴らそうとする若者(ダナ・アンドリュース)を主軸に、それぞれの家族や沼地のほとりの町の人々が絡む。

若者の、頑固だが実は息子思いの父親にウオルター・ヒューストン。
ブレナンの娘で、雑貨屋の下働きをしていて、若者と仲良くなるのが新人アン・バクスター。

ミステリー調にも、ホームドラマ調にもなろう題材は、しかし、しっかりとルノワール調に彩られていた。

女優たちがいい。
ルノワールは、アン・バクスターに汚いドレスを着せて裸足で歩き回らせる、時として顔までを汚して。
若さを輝かせて動き回るバクスターは、ハリウッド女優というよりはルノワール映画の活発な若い女性だ。

ウオルター・ヒューストンの後妻役の女優もいい。
いかにもピューリタン風の良妻賢母なアメリカ女性を装いつつも、年が離れた夫への甘えや、義理の息子への家族としての愛情を隠さない。

ダナ・アンドリュースの恋人で、のちにケンカ別れをすることになる金髪の若い女優もいい。
いかにもミーハーでわがまま。
甘えるかツンツンするかのどちらか。
嫉妬深く鼻持ちならない女の子ながら、どこか憎めなく、かわいらしくさえルノワールは演出する。

この女の子が、アンドリュースに振られた腹いせに、ウオルター・ブレナンの居場所を町の人に漏らす。
唖然とするアンドリュースの背後で慌ててかけ逃げるその女の子の姿の「かわいらしさ」をルノワールのカメラは逃さないでとらえる。
この緊張感とかわいらしさが混然一体となる画面の演出ぶり!

シークエンスごとに話が途切れるのではなく、次のシークエンスと被るように話が続いてゆくのもルノワール流か。

ダナ・アンドリュース(左)とアン・バクスター

アンドリュースが前半で出会う、沼地に逃げたブレナンは、まるで秘密基地を得た大人が秘かな愉しみを得ているようにさえ見える。
現実から切り離された世界で世捨て人ブレナンは哲人のように生きている。
毒蛇に噛まれても死なない。
訳を聞くと「絶対に死なないと強く念じることだ」と答える。
肉体が死んでも魂は別のところに行く、とも。

現実の世界と、哲人の住む世界との橋渡し役・アンドリュースは冤罪が晴れるラストまで、最初は親父に叱られ、ついでは町の人に忌避され恋人とも別れる。
代わりに、沼地に住む珍しい動物の毛皮と、ウオルター・ブレナンという啓発を受ける先人、それにアン・バクスターという素晴らしい女性を得る。

クレジットトップのブレナンは演技派の本領発揮。
西部劇での好々爺役だけが持ちネタではない。

ジョージア州へのロケをルノワールは希望したがほとんど実現できなかった。
しかしながら、映画というもの、セットやスクリーンプロセスも重要なその要素のひとつ。
そう思って見れば、セット撮影やスクリーンプロセスによる沼地もその効果は結果として同じような気もする。
もっとも、ロケを忌避し、スタジオ撮影を無条件に押し付ける当時のハリウッドシステムは、それはそれで大いに問題はあるが。

この作品、むしろ女性の描き方に見てとれる映画監督ジャン・ルノワールの陽性の特質をたのしむべきか。

町の公民館で開かれるダンスパーテイの描写。
アン・バクスターにドレスを買ってやり、連れだってドアを開けた瞬間、画面から溢れ出るうきうきした楽しさ。
いつものルノワール演出なら、この後しつこいくらいに楽しい盛り上がりが続くであろう場面のきらめき。

ザナックは撮影途中で予算超過を理由にルノワールの解雇を決めた(のちに撤回)。
ラストシーンを、別のスタッフに撮りなおさせた。
撮影後にルノワールと20世紀FOXとの契約を解除した。

こうしてルノワールとザナックの歴史上唯一の交わりは永遠に解消した。

「浜辺の女」 1946年 ジャン・ルノワール監督  RKO

不思議な作品だった。

沿岸警備隊に勤務するバーネット中尉(ロバート・ライアン)の悪夢からドラマが始まる。
戦争中、乗り組んだ艦艇が機雷に触れて沈没する体験。
骸骨を踏みながら海底?を歩いてゆくと女神?が現れる。
女神は中尉の婚約者そっくりだ。

悪夢から目覚め、馬で海岸を散歩(パトロール?)する中尉の前に、難破船の廃材を拾う女に出会う。
ひと眼でお互いに何かを感じ取る。

2度目の出会い(中尉が女に会いに難破船に出かける)の時、女は中尉に似た者同士であること、そして「幽霊」なる言葉を繰り返す。

このペギーという女(ジョーン・ベネット)は失明した画家(チャールズ・ビックフォード)と、難破船に近い別荘に住んでいる。
画家は目の見えないふりをしている、と中尉が思い込むほどすべてを見通している。
失明の原因を作ったペギーにつけこみ、ペギーを拘束している。
ペギーはそんな画家を憎みながらも関係に甘んじている。

後半に、ペギー自身もこの海岸の小さな町で、ほかの男と何かあったことが示唆される。
中尉は仕事熱心で美人の婚約者がいながらペギーのことで頭がいっぱいになり、婚約者は離れてゆく。

ルノワールは、ジョーン・ベネット(中)が出演すると聞いて、嬉しくなったという

表面的なストーリーは、夫に不満を募らせる悪女が、婚約者のいる若者をたぶらかすというもの。
結末は、画家が妻と別れることを認め、若者は婚約者と別れ、悪女を待つ、というもの。

ただ、映画は3者の納得性のある動機を示さないし、3者のそれぞれの行動に道徳的な判断を行わない。

この町で何人目かの男をひっかけたであろうペギーは最後までその動機と目的らしきものを示さない。
典型的な悪女なら夫の財産が目的だったりもするが。

画家は、観客にとってみても盲目のフリをしているように見えるし、妻に惹かれている中尉に対する不自然に親和的な行動の説明もない。

中尉は、戦争中の体験が深層心理に影響しているだろうことが示唆されるがその後の行動に結びつかない。
また、一目でペギーに惹かれたのはいいとして、婚約者がいながらその動機と行動に説明がほぼない。
まるで不条理劇の主人公のような行動ぶりだ。

ペギーと接触後、急に離れていった中尉を婚約者は追わない。
もし婚約者が物分かりの良いタイプでなければ映画としてどう始末をつけるのだろう?(そこがテーマではないから、婚約者を物分かりよくしてあっさりフェードアウトさせたのだが)。

この作品のテーマについてルノワールは「ぽっかりと空いた孤独の穴にはやがて亡霊が住みつくことになる」(「自伝」)と述べている。
ペギーが難破船で中尉に言った「幽霊」がここに出てくる。

とすると、作品のモチーフは、中尉、ペギー、画家の孤独であり、そこに住み着いた幽霊が中尉をしてペギーに惹かれさせ、ペギーをして夫以外の男を誘惑させ、画家をしてペギーを束縛させたのか。
そこに合理的説明を付与せず、ありのままに描いたのがルノワールの「浜辺の女」か。

スターを起用したRKOの準大作であるこの映画は、プレビュー公開での評判が悪く、再編集と撮りなおしに1年以上かかった。
そのためもあり、作品は前衛的な心理劇としても中途半端で、合理的説明を旨とする商業大作としても中途半端なものとなった。

主人公の悪夢に出てくる海(水)の幻想的(悪夢的)なイメージや、登場する子どもがとにかく騒いでわんぱくだったり、中尉の送別会のパーテイシーンの賑やかさ、などルノワールならではの演出も随所にみられるものの、「孤独の悲劇というこの映画のテーマは、それまで私が映画を通して探し求めてきたところとは、まさに正反対だった」(「自伝」)ところにこの映画の悲劇(悲劇=失敗作ではないとしても)があろう。

ロバート・ライアンは謎めいたキャラで魅力を発する俳優だが、この作品の役はさらに謎めいていて、演じる彼自身が戸惑っているようにも見えた。

ジョーン・ベネットはさすがに堂に入った「悪女」ぶりだったが、この女優さんは、悪女であること以前に正調ハリウッド女優であり、素に戻った時の表情の美人ぶりにそれを強く感じた。

チャールズ・ビックフォードは並々ならぬ存在感で、この映画が求めるとおりの謎の画家を演じた。

この作品の後、RKOスタジオはルノワールとの契約を解除した。
あと1本の契約が残っていたがRKO側が違約金を払ってクビにしたのだった。

ルノワールがハリウッドから契約を解除されるのは20世紀FOXに次いで2度目だった。
「浜辺の女」はルノワールにとって最後にハリウッドで撮った映画となった。

独立プロ的にインドロケで撮った「河」を挟み、ルノワールはフランスにもどることになる。