「日本映画を創った男・城戸四郎伝」

映画好きの山小舎おじさん。
その中でも最近興味あるジャンルは、映画興行史です。

城戸四郎の伝記を読む機会がありました。
大正11年、松竹に入社以降、松竹映画一筋に生き、昭和52年に死ぬまで同社の映画部門のトップに居続けた人物の伝記です。

著者は小林久三。
昭和9年生まれで、昭和36年に松竹に助監督として入社、その後脚本部を経て制作者になっている人で、有名になったのはミステリー小説で賞をもらってから。
本作「城戸四郎伝」はキネマ旬報に連載したものをまとめたものだそうです。

日本の映画産業は、松竹の白井信太郎、東宝の小林一三を中心に興きてきた。
京都太秦撮影所に至るマキノ一家という系統もある。
マキノに出入りするヤクザ一家のつかいっぱしり端を発し、大映社長に上り詰めた永田雅一がいる。
日活の堀久作もいる。
これらは、あるものは必然的に、あるものは偶然に映画というダイナミズムもしくは金の生る木に吸い寄せられた人物で、それぞれの会社・組織のオーナーもしくはそれに近い存在だった。

いずれの方々も、例えばサラリーマンなど務まりようもない個性の持ち主であり、一般常識とはかけ離れた行動力と発想力で周囲を巻き込んでゆく強烈な存在だったことが容易に想像できる個性の持ち主たちだった。

本の目次

城戸四郎はどんな存在か?
松竹映画の企画決定権を生涯にわたって持ち続けたという意味において、本来の意味でのプロデユーサーとしては、社内で唯一の人物だった。
その意味では、大映社長の永田雅一や、初期東映のマキノ光男の印象と重なる。

永田は、自分が社長時代の大映作品では、その巻頭で堂々と「製作 永田雅一」をクレジットさせ、自社製品にマーキングしていたが、その作品群の中からベネチア映画祭グランプリの「羅生門」が生まれた。

マキノは戦後間もない新生東映の東京撮影所長として、「右も左もあるかい!ワイらは大日本映画党や」と、東宝をレッドパージされていた今井正を東映に招き、「ひめゆりの塔」を製作、大ヒットを飛ばした。

その点、エリートの城戸は、泥臭さはなく、万事スマートである。
常識的、良識的なというよりは安全パイを外さない城戸のイメージはそのまま松竹のそれと重なる。

仕事のやり方も、例えば「女優を妾にする」(新東宝社長:大倉貢)のではなく、頭を使って撮影所の仕組みを変えてゆく方法に寄っていたようだ。

当初は俳優の力が強く、彼らのわがままに左右され、予算を浪費していた撮影所を、最初は脚本部門の育成に注力することにより、次には演出部門に力を持たせることにより、改善していったのが城戸だった。

これはディレクターシステムと呼ばれるもので、松竹の伝統となった。
ただしいずれのシステムであってもトップには城戸が君臨していることを前提としたものだったのだが。

松竹映画ただ一人のプロデューサー・城戸のポリシーは、一言でいえばヒューマニズムだった。
それは松竹映画にあって大船調と呼ばれた。

著者・小林は、松竹映画の一大功労者として評価ゆるぎない巨人を、大船撮影所の大部屋俳優だったり、後輩の制作者だったりの目を通して描く。
そこには、力のないもの、運のないもの、自分の好みに合わないもの、自分に逆らうものには冷徹で残酷でさえある城戸の姿が現れる。

昭和30年代後半。
松竹も例にもれず、否、他社に率先して、斜陽の道を転がり落ちる映画産業の時代。
城戸もトップとして対応を希求していたものの、企画は空回りする。

若手監督抜擢のいわゆるヌーベルバーグ、武智鉄二の「白日夢」「紅閨夢」「黒い雪」と、城戸らしくない企画が続いた。
しかしながら、ヒットした武智映画の「エロ」についてはスルーするが、ヌーベルバーグの「政治性」にははっきりと拒絶を示す城戸がいた。
大島渚の「日本の夜と霧」の上映打ち切りの決定者は城戸四郎だった、というのが著者の見立てである。

「日本の夜と霧」打ち切りの真相を著した部分

森崎東という監督がいた。
「喜劇・女は度胸」でデビュー。
「男はつらいよ」の脚本にも参加し、「フーテンの寅」では監督。
山田洋次作品とは一味違う、陰影、泥臭さを持つ作品で、松竹離脱後も作品を発表し続けた。

個性的な作風のこの監督を自由契約にした(松竹をクビにした)のも城戸だった。
城戸は当時の制作本部長に対し、自分の目の前で森崎への解雇の電話連絡を行うように命じたという。

森崎東解雇を著した部分

映画プロデユーサーとしての冷徹さはともかく、また小津、木下らをフィーチャーしていた黄金時代はよいとして、60年代に入ってから、時代性や新しい才能についていけなくなったあたりが城戸の映画人としての限界だったのだろう。

さて、城戸自身、脚本執筆や、企業としての撮影所経営には興味があっても、映画というダイナミズムには果たして興味があったのか?
あったとしても、そのダイナミズムに太刀打ちできない自分にどう折り合いをつければいいのか、最後まで分からなかったのではなかろうか?という疑問がわく。

1974年に封切られた、松竹映画の金字塔「砂の器」の企画に最後までゴーサインを出さ(せ)なかったのも城戸なのだった。

映画というものの成り立ちの難しさ、不思議さをその興行史の側面からも感じる山小舎おじさんでした。

成澤昌茂監督追悼上映in上田映劇

今年亡くなった、成澤昌茂という映画監督が上田出身とのことで、地元上田映劇で追悼上映があった。
上映されたのは、「裸体」(1962年 松竹)、「四畳半物語・娼婦しの」(1966年 東映)、「花札渡世』(1967年 東映)の3本。
全作フィルム上映で、パンフレットにいわく「最初で最後の特集上映!お見逃しなく!」。
山小舎おじさんは早速出かけました。

今回の特集上映のチラシ

成澤監督は県下の名門・旧制上田中学の出身。
16歳で松竹京都に入社し、溝口健二監督に師事しながら日大芸術学部を卒業。
恩師に倣って松竹から大映に移るなどした。

監督作品は全部で5作品。
脚本家として活躍し、溝口作品の「噂の女」(1954年)「赤線地帯」(1956年)のほか、「宮本武蔵」(1961年 内田吐夢監督)「関の弥太っぺ」(1963年 山下耕作監督)など全盛期の日本映画の力作・名作の脚本を執筆。
一方で「ひも」(1965年 関川秀雄監督)に始まる東映の「夜の青春シリーズ」や後の「夜の歌謡シリーズ」などで数々の脚本を担当した。

今回の特集で見たのは、「裸体」と「四畳半物語・娼婦しの」の2本。

上田映劇の側面を撮る。昔の映画館の建物は奥行きも深い

まず「裸体」。
1962年の松竹作品。

1962年は、ヌーベルバーグといわれた若手監督(大島渚!)の登用と、彼らの手による気鋭の諸作品が現れては消えていった一瞬の嵐の直後。
映画観客動員数の凋落傾向に歯止めがかからず、といって現状打開策の若手監督登用もその気負いととんがり具合が、映画事業という産業・商業とマッチングすることもないことがわかり、さらに松竹(と映画産業)が暗中模索していた時期と思われる。

なぜ、すでに松竹を退社し、溝口健二の下で脚本家として名作を連発し始めていた成澤に監督デビューの話が来たのか?

特集上映チラシの裏側

ネット検索ではそのあたりの事情は出てこないが、想像するに、ヌーベルバーグで「失敗」した松竹ではあったが、観客動員的には打開策が急務な状況には変わりがなく、撮影所育ちで急進思想を持たず、女性を主人公にした風俗ものが得意そうな若手に撮らせてみた、というところなのではないだろうか?

この作品に対する松竹の期待は、一線級のキャステイング、カラー作品、などのお膳立てに表れている。
その土俵上で成澤監督は持てる力を精いっぱい発揮しているのが感じられる。

漁村の景色を色濃く残す当時の船橋で銭湯を営む実家から銀座の税務事務所に通う主人公(嵯峨美智子)が体一つで浮世を漂う姿を追うストーリー。 
設定は19歳という主人公を当時27歳の嵯峨が演じるが、見えなくもない。
それくらい嵯峨美智子がまだまだ全盛期の輝きを持っていたし、時代背景も活気があり、日本映画も元気があった。

なんの思想も背景も野心もない一介の女性が、その欲求のままに振る舞う姿に、旧来のしがらみにとらわれたまわりの人物たちが振り回されてゆく。
天然で無垢な女性を演じる嵯峨は、吹っ切れたように画面ではじける。
この後の作品では、「救いのないほど悪意に満ちた」女性像の描写も辞さない、成澤監督も、本作ではひたすら主人公嵯峨美智子の明るさと輝きと無軌道さを追っかけている。

ちょい役の松尾和子が、職場で退社前に机の下でストッキングをはき替えるシーンで登場したり、金を前にするところりと態度を変える浪花千恵子と嵯峨の銭湯での入浴シーンがえらく長かったり、実家で内職する浦部粂子が夏とはいえ背中が裸のかっぽう着姿だったり、と成澤監督の女性表現がデビュー作からさく裂する。
そのこだわりたっぷりの「炸裂」こそが、当時のまだ余力のあった日本映画の現場によって生み出された豊かさだったりする。

「裸体」の嵯峨美智子(左)と千秋実(右)

60年代の、「旧来のしがらみに反発する心情」の空気感では、ヌーベルバーグと軌を一にする時代性に彩られた作品。
主人公が純粋無垢な存在として描かれる点でも共通性がある。
純粋無垢な主人公の「蹉跌」を、時代や世の中のせいにせず、突き放して描いている点に成澤監督の立脚点を感じる。

長くなりそうですが、「四畳半物語・娼婦しの」もいきましょう。

1962年の監督デビュー作から4年。
東映から声がかかったのですね。
成澤監督はこの作品から4本続けて東映で撮っています。

本作はモノクロ。
キャステイングは、当時、東映から佐久間良子に次ぐ看板女優としての待遇を受けていた三田佳子。
脇に木暮美千代、野川由美子。
男優陣に、田村高広、露口茂。

舞台となるもぐりの娼家の建物、中庭、玄関前の路地、表のドブ、のセットは入念に作られています。
また、全篇で30数カットという長回し撮影では、クレーンを使った移動撮影のほか、パンフォーカスがかった縦の構図もみられます。
ここらへんは、師匠・溝口の影響というか、マネでしょうが、三田佳子が京都市民映画祭で主演女優賞を受賞した事実をみるまでもなく、撮影所の力を結集した力作であることがわかります。

娼家という底辺に生きる女性を描いています。
この作品あたりから成澤監督の女性の描き方に容赦がなくなり、おかみさんの木暮美千代は救いのない強欲で冷血なやりて婆に描かれています。

三島ゆり子扮する「奥さん」が男を買いに、娼家を利用して通ってくる描写もあります。
こんなことが実際にあったのでしょうかね?

浦部粂子扮する老女が、夫が腹上死したあとの娼家へ乗り込んできて、腹上死の相手だった野川由美子と取っ組み合いをするシーンは、成澤監督の女性描写の容赦のなさが徹底して、「やりすぎ寸前」の思いで見ました。

これらの救いのない女性描写は、次作の「花札渡世」で、主人公に絡む小林千登勢が、裏表があり策略を尽くす、まさに救いのない悪人に描かれていたのを思い出させます。
成澤監督なりの女性(人間)本来の姿の希求なのでしょう。

現実の救いのなさにあって、唯一の救いを象徴する存在として、三田佳子扮する主人公が描かれています。
当時25歳の三田は、その演技力も含めて期待に応えています。
スター女優として「もともと持っているもの」が感じられます。

三田がお客の待つ座敷に入る時の一連の所作や、なじみの客とリラックスした時の、体育すわりのような崩れた座り方など、成澤監督の細かな演出が冴えます。

また、特筆したいのが露口茂。
さらっとカリカチュアライズして流すような、男優陣に対する成澤演出にあって、時に狡猾、時に情けないヒモを露口は、大芝居的ながら演技力十分に演じていて、後のニヒルなだけの印象が一変しました。

今回の特集上映、「裸体」の時はほかに2人、「四畳半物語」の時は3人の入場でした。
「上田の観客には受けなかった。むしろ遠方からの来館者があった」、とは館側の弁。

これに懲りず、上田映劇には頑張ってほしいものです。
気鋭の企画でした。
なお、上映プリントの状態は良かったの.ですが、セリフの再生音がやや不明瞭に聞こえたのは、プリントのよるサウンドトラックの再生力の限界のせいか、劇場のスピーカーの感度のせいか、山小舎おじさんの耳の老化のせいか?
どちらだったのでしょう?

上映が終わった時間は18時半過ぎ。
向かいの焼き鳥屋からは明かりと煙が漏れ始め、名にし負う上田の夜が始まる映画館前。
かつての「飲み屋の街」上田の余燼がわずかに漂います。
山小舎おじさんには珍しいライトアップされた上田映劇を眺めながら帰途に就きました。

夕闇迫りライトアップされた劇場正面風景

雨の上田映劇で 「時をかける少女」

明日の天気予報は雨。
上田映劇の上映情報を見たら「時をかける少女」をやっている。
当日、朝8時に山小舎を出て上田に駆けつけた。

上田に残る「興行街」には上田映劇だけが残る。隣のストリップ小屋は廃業。否これも映画のセットの名残りか?

うえだ子供シネマクラブの第9回の企画とのこと。
シネマクラブは、映画館を利用して子供の居場所を作ろう、という趣旨のもと、NPO法人が月2回、上田映劇を舞台に行っている由。

上田映劇って、そもそもがNPO法人だし、映画に限らず演劇の舞台でもあるし、ロビーには地域の有志が、情報誌、手芸品、Tシャツ、古本を並べているし、すでに地域の居場所ではあるんだけどね。

「時をかける少女」。
1983年作品。
監督:大林信彦。
主演:原田知世。

今回はフィルム上映。
もぎりにいた支配人に「映写技師はどうするの?」と聞くと「私がやります」とのこと。
日大芸術学部大学院出身で地元にUターンしたという若い支配人には、年に何回かの入場ではあるにせよ、そのたびに映画について話しかけたくなる山小舎おじさんです。

半年ぶりの上田映劇。
ロビーの雰囲気は変わらないが、あらたな情報誌が展示してあるなど、地元有志の参加の度合いが増えているような気がする。
入場者の感想ノート(感想文にはスタッフからの返事が赤字で追記されていた)が見当たらくなったのは残念だったが。
これもコロナか。

館内の設備にも変化があった。
水漏れするので補修カンパを募っていたこともあった天井には扇風機が回り、舞台の袖には大掛かりな装飾が・・・。
支配人に聞くと、扇風機はもともとあったが、舞台袖の装飾は映画のロケの大道具とのこと。
ロケのセットを壊さないのも上田映劇流だ。

館内の舞台袖の装飾は映画のロケセットだという

さて、映画上映が始まった。
観客は朝イチと天候のせいもあるのか、ほかに一人のみ。

見終わって、感動している山小舎おじさんがいた。

原田知世がいい。
少女が戸惑い、成長するけなげな姿がいい。
彼女の不安、愛情の芽生えなどがドラマチックに表現されている。

あるいは、現実の少女の実像を追う映画であれば、作り手の先入観を裏切る瞬間の表現も避けては通れないだろうが、この作品は大林監督(そして角川春樹制作者の)主観が優先された作品だ。
描かれているのは少女像を通しての作り手の幻想だ。

同時に、デジャブ(既視感)を表現した映画でもあった。
ストーリー上、未来人と絡むタイムトラベルの話ということになっているが、そこに至るまでの数日間の表現は、まさにデジャブに戸惑う少女の描写に終始している。

主人公の不安な心理を表す、影や夜を多用したシーンが続く。
うまくカットをつなげ、主人公同様、観客もタイムトラベル(スリップ?)というデジャブを味わわされる。
主人公の不安感はデジャブによるものであり、同時に思春期独特の感情によるものでもあることに気づかされる。

デジャブの混乱と、大人へと向かう成長の感情がクロスするクライマックスのシーンでは、ここまでほぼ封印してきた、大林監督の映像テクニックがさく裂する。

駒落し、脱色、着色、書込み、逆光、移動、を駆使したカットは、大林初期の16ミリ作品「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1967年)以来の十八番であり、大林作品必須の映像テクニックだ。

他にも大林監督がこだわったカットに、原田知世が素足に下駄をはく姿があった。
「日本全体のデジャブ」ともいえる尾道の裏町風景を背景に、制服姿や昭和の私服姿で現れる少女の描写は、大林監督の念願でもあったろう。

原田知世は、アップに耐え、アップになると魅力が現れる。
このひとの20代の代表作を見てみたいと思った。

「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」は、自主映画の名作といわれ、山小舎おじさんは大学生時代に見る機会があった。
あの日、上映が終わった瞬間に観客が一人、ホールの舞台に駆け上がり何かしゃべろうとした。
期待にざわめく会場。
結局、舞台に駆け上がった彼はうまく言葉が出ずにいて、やがて引っ込んでいった。
それは、観客の映画的興奮を代弁しようとしたかのような、夢の中のような、それこそデジャブのような光景だった。

大林作品というと、「いつか見たドラキュラ」の目くるめく映像テクニックとともに、舞台に駆け上がった青年の姿を思い出す山小舎おじさんです。

光文社新書「松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち」を読む

「映画」には様々な切り口がある。
作品からの切り口、撮影技術や演出などに焦点を当てた切り口、脚本からの切り口。

一方、映画作品は公開して完結するものである。
映画作品の公開は、それによって作品評価の機会となるだけではなく、高額な制作費用の回収の意味を持つ。
映画作品と興行とは切っても切れない関係を持っている。

「松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち」という新書を見かけたので買ってみた。
映画にとって切っても切れない興行の世界を理解したいと思った。

この本は、現在でも映画興行の世界に君臨する2社の創業者の生い立ちから、主に戦前までの推移を追った労作だった。
その時代は映画製作と興行が隆盛を迎える前のことで、興行は歌舞伎などの芝居を出し物とする時代だった。
両社が、歌舞伎、新劇、歌劇、レビュー、映画などを出し物に、興行界を、あるいは制覇し、あるいは形作ってゆく姿を、ひたすら客観的に、細かく追った本で、2,3行読み飛ばすと流れがわからなくなるほどの情報量に満ち満ちた内容だった。

松竹の歴史

松竹の歴史は、白井松次郎と大谷竹次郎という双子が明治10年に誕生したのをきっかけとしている。
父親は、祇園の芝居小屋の売店を経営していた。

父親がある芝居小屋のオーナーになったことから、双子が芝居小屋の経営に参画し、やがて京都新京極、大阪道頓堀の劇場を次々に買収していった。

前金制度で、銀行融資を受けられなかった時代の芝居興行にあって、松竹(この時代にはマツタケと呼ばれていた)の経営戦略は一つの芝居町の劇場を独占し、歌舞伎、新劇、レビュー、喜劇などの出し物をそろえ、どれかが不入りでも、別の人気の劇場がカバーするというものだった。

松竹は単に数多くの劇場を経営するだけでなく、劇場経営に関する悪習を改革していった。
木戸にたむろするごろつきの排除、幕間の時間厳守、役者のセリフ忘れの厳禁など、現在では当たり前だが、当時は慣行だった悪習を経営者として断っていった。

一方で、関西の歌舞伎界の名優、中村鴈次郎と出会い、松次郎が終生のマネージャーとして盟友関係を結んだことが後々にわたって松竹を助けた。

明治42年にはその鴈次郎が歌舞伎座に客出演することによって東京進出を果たし、後の歌舞伎座買収に至る道筋をつける。
この時代には東西の歌舞伎役者のほとんどを支配下としており、浅草に劇場を得て、東西の歌舞伎界を支配するに至る。

大正9年映画部門に進出する。
43館の映画館をチェーン化し、配給、興行事業からのスタート。

大正13年には京都下賀茂に撮影所を作り映画製作を開始。
林長二郎(のちの長谷川一夫)が専属の人気スターとなる。

映画部門の責任者として松次郎の娘婿、城戸四郎(のちの松竹映画社長)が入社する。

松次郎が歌劇へ乗り出し、昭和3年には楽劇部が設立、水の江瀧子が断髪男装で人気を得る。

昭和12年、松竹株式会社が設立し、東西の演劇部門と映画部門を併合がなった。
ここからショウチクと呼ばれることになる。

戦時統合により映画会社が3社体制となった際にも単独で生き残り、戦後を迎えることになる。

松次郎は昭和26年に、竹次郎は45年に死亡。

東宝の歴史

創始者の小林一三は、明治6年、山梨県韮崎の裕福な商家の長男として生まれ、慶応大学を経て三井銀行へ入行する。
学生時代から新聞小説を執筆するなどの一方、芸者に入れあげ、見合い結婚の相手とは離婚し、当該芸者と再婚するなど、素行不良といわれ、青年時代を過ごす。

後の阪急電鉄につながる鉄道会社に転職。
沿線の宅地開発、ターミナル駅直結の百貨店、宝塚における劇場、遊園地の経営など、鉄道会社による需要創出のビジネスモデルを発案していった。

大正2年には、温泉施設が売り物だった宝塚に、施設の余興としての唱歌隊(のちの宝塚歌劇団)を結成。
小林自ら脚本を書くなどして、終生これに入れ込むこととなる。

小林の興行に関するポリシーは「容易に安価に大衆に芝居を提供する。芝居は芸術であると同時に事業でもある」というもの。
夕方からの興行、料金の低廉などを行い、そのためにも大人数収容の大劇場建設を目指した。
マーケットリサーチの結果、日比谷に劇場街を作り上げていった。

松竹が既存の劇場を買収する方式で拡大していったのに対して、劇場街の創出と建設を行った。
阪急は鉄道事業を中核とし、不動産、興行、デパートなどの事業を展開する唯一の企業体となった。

昭和5年に、宝塚に映画会社を設立。
昭和7年、株式会社東京宝塚劇場を設立、東宝がスタートした。

映画部門は配給事業からスタートし、PCLなどの制作会社を併合してのちに制作を開始した。
松竹から人気スター林長二郎を引き抜き、長谷川一夫として売り出した。

実は職業野球の分野にも読売より早くに目を付けたのが小林で、宝塚運動協会というリーグを作ったが後に解散したこともあった。

戦時統合時代も松竹と並び単体で生き残り、戦後を迎えた。

両社の共通性、そして「興行」とは・・・

ここに1冊の新書がある。
「悪所の民族誌 色町・芝居町のトポロジー」(文春新書)。

大阪・釜ヶ崎に隣接する場所で育ち、新世界で遊んだという著者が説くのは、「悪所と呼ばれる地域の三つの特徴は、その場所が、色里であり、芝居町であり、また被差別民の集落が隣接していたこと」。

この意味では松竹の松次郎と竹次郎はまさに「悪所」に生まれ育ち、「悪所」に寄って立った存在であった。
二人が被差別民かどうかは知らないが、芝居小屋の売店を生業とする家に生まれ、生涯を劇場の経営と役者との付き合いにささげた事実は、松竹と「悪所」の生まれながらの強い関係性を表す。

一方で裕福な商家生まれで学歴もある小林一三は、しかし若くして文芸に耽溺し、芸者に入れあげて素行不良といわれて若き日を過ごす。
その後の半生を、少女歌劇と劇場経営にささげた小林は、生まれながらではないにせよ、宿命的に「悪所」に入れあげた人生を送ったことになる。

「悪所の民族誌」によれば、近世の三大悪所は、大阪・道頓堀、京都・四条河原、東京・浅草という。
これはそのまま松竹が入れあげてきた地域と合致する。

また、歌舞伎は、遊女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎と発展したが、もともとは遊女が行ったもので、色里と芝居町は表裏一体とも記す。

小林一三が芸者に入れあげ、少女歌劇にこだわった精神と、日本の在野の芸能史の精神は根底で共通してはいないだろうか?

「悪所」をキーワードに、興行の世界で生き残ってきた松竹と東宝の共通性が際立つ。

現在、松竹は映画撮影所を手放しているが、歌舞伎人気と劇場経営により会社を維持している。
東宝は、映画撮影所は維持しつつ、阪急資本をバックに、宝塚歌劇団の人気などにより経営は盤石に見える。
消えていった映画会社に比べて、両社のしたたかで強靭な経営戦略がうかがえる。
これも「悪所」がもたらした生命力のためであるのだろうか。

映画「小島の春」と女優・夏川静江

ラピュタ阿佐ヶ谷という名画座で、「豊田四郎と文学の心」という、特集上映が行われている。
都合のつく日に行ってみた。

阿佐ヶ谷には自転車で行くことが多い。
運動にもなるし、交通費もかからない。

阿佐ヶ谷は、適度に庶民的で居心地のいい街だ。
今はやりの巨大な駅ビルや、タウンモール的なショッピングセンター、タワーマンションがない。
戦後というか昭和が残っている街だ。

JR阿佐ヶ谷駅南口の風景

駅北口周辺には小さな飲食店が軒を連ねる。
戦後のどさくさで、細切れの居住権、商権が発生した名残りなのだろうか。
再開発の波にも飲み込まれず、かといって寂れてもいない。

阿佐ヶ谷駅北口に広がる飲み屋街

駅から徒歩2~3分、ラピュタ阿佐ヶ谷のホール。
特集上映に合わせて豊田監督作品のポスターが並ぶ。
映画関係の書籍やブロマイドが置いてあるのもうれしい。
窓際にはテーブル席もあり、持って行った弁当を広げられるのもいい。

ラピュタ阿佐ヶ谷の看板
上映予定の豊田作品のポスターが並ぶ
映画関係本を売っている

係のお兄さんから時節柄のこまごまとした注意(携帯の設定、飲食の禁止、私語の禁止、脱帽、録音撮影の禁止、マスクの着用・・・)を喚起されたのち、いよいよ「小島の春」の上映だ。

フィルムセンター所蔵作品のタイトル。
配給は東宝。
制作は東京発生映画製作所。
後に東宝に吸収されることになる制作会社とのこと。

監督、豊田四郎、当時34歳。
脚本、八木保二郎。
主演は夏川静江31歳、脇に菅井一郎、杉村春子など。

原作はハンセン病患者救済につくした小川正子という女医の手記。

特集上映のパンフレットより

瀬戸内に浮かぶ帆掛け船、という今ではCGでしか再現できないであろう「日本の原風景」のロケーションで始まるこの作品。

ポンポン船、渡し場の造り、漁村風景、宿の部屋の造り、など戦前の日本の景色が見られる。

主演の夏川静江は、無声映画時代に子役から娘役として第一線で活躍してきた女優。
戦後、母親役などで控えめながらしっかりとした演技を残したが、31歳の時の「小島の春」でも、そのイメージを彷彿とさせ、まさに適役。
媚びなく、凛とした、シンの強い人物像を再現している。
演技もうまく、娘役として漫然とやってきた感じではない。
女優は歳を取ると崩れたり、化けたり、怖くなったりすることが多いなか、戦後になっても、シンを残したまま怖くならずに歳を重ねた女優さんだった。

「男ありて」(1955年 丸山誠治監督)より。左:志村喬

脇役に、菅井一郎と杉村春子を配している。
壮年時代の菅井、若さの残る杉村をスクリーンで観ることができるのもこの年代の作品ならではだが、若くてもさすがは両俳優、家族から離されて療養所へ向かうハンセン病患者の苦悩を演じきっている。

豊田四郎監督は、代表作が「夫婦善哉」(1955年)と「雪国」(1957年)で、ほかにも「猫と庄造と二人のをんな」(1956年)、「駅前旅館」(1958年)、「墨東奇譚」(1960年)など、名作が多い。
映画の造りもがっちりしているし、有名俳優を使う。

どの作品も観て損はない監督だが、今にして思うと、名優たちの演技が過剰な作品が多いような気もする。
森繁など、豊田作品で好きなように暴れているように見えて、いいところは監督がすべて持って行った、ように思ってしまうのはヒネクレた見かたか。
もっとも映画監督とはそんなものか。

ラピュタ阿佐ヶ谷のパンフレットより。豊田四朗監督(中央)

戦後の作品では、重厚で役者の演技をとことん引き出す豊田監督の作風にあって、戦前の「小島の春」には、緊張感はあるものの、さらさら流れるような演技と、社会的良心に満ち満ちたストーリーのみがある。
これも主演の夏川静江の個性がなせる業なのだろうか。

まじめな女の先生(教師)が被災後の現地を巡るというシチュエーションでは「原爆の子」(1952年 新藤兼人監督)という作品がある。
また、瀬戸内海を舞台にした女教師の物語には「二十四の瞳」(1954年 木下恵介監督)があった。

前者の乙羽信子、後者の高峰秀子のどちらも若くてきれいだったが、一番先生らしいのが「小島の春」の夏川静江だった。

1999年文芸春秋社刊の「キネマの美女」という大型本に、夏川静江のインタビューがが7ページにわたって掲載されている。
それを読むと、「小島の春」への出演は、結婚を機に一旦引退した後の特別出演だったとある。
自身が選ぶ代表作に「小島の春」が入っていることも。

「キネマの美女」より、インタビュー記事

山小舎おじさんが印象に残る夏川静江の出演作は、まず前述の「二十四の瞳」(1954年 木下恵介監督)、ついで「蟻の街のマリア」(1958年 五所平之助監督)。

前者では大石先生こと高峰秀子の母親役。
娘の学校での愚痴を聞いてやり、先生を訪ねてきた子供たちに大わらわでうどんをふるまってやり、娘の亭主に赤紙が来てはしゃぐ息子(孫)を叱る娘(亭主の妻)を制して「お義母さん一本つけてください」と場を取りなす義理の息子にこたえて支度し始める、お母さん(おばあさん)役。

亭主の戦死広報には「お父さん死んだよ」と息子に告げるだけだった高峰秀子も、母親の夏川静江が静かに死んでいったときには「お母さん、お母さん」と取り乱していた。

「蟻の街のマリア」では、バタ屋部落にボランテイアで住み込むキリスト者の娘を心配し、リヤカーを引く娘に遭遇した際には、走って追いかけるも途中で走れなくなり、同行の若い女中に後を頼んで息をつく姿が印象に残っている。

「キネマの美女」より

「小島の春」で島のハンセン病患者やその家族を診て回り、宿に落ち着くシーンがあった。
畳の部屋には火鉢のほか何もない。
火鉢と宿のおかみと、手に持つお茶だけが相手のすえっぱなしのワンショットワンシークエンス。

夏川静江の動きにに見入った。
無駄なく、隙もなく、媚もなく、見苦しくもない立ち居振い。

見入ってしまった理由が、夏川静江の演技力のせいなのか、当時の堅気の日本女性が身にまとっていた歴史、文化のたまものなのか。
どちらのせいでもあるのだろうと思った。

「小島の春」はそういう映画だった。

「日活 昭和青春期」を読む

山小舎おじさんが好きな古本屋の映画コーナー。
600円で売っていた同書を買ってみました。

題名からは、よくある映画人の撮影所一代記で、スター達との交流を記したものかと思いきや、これまでの類書にはない内容で、引き込まれて読みました。

1954年に美術スタッフとして日活に入社した著者が、その後、組合員として、後に取締役としてかかわった、日活株式会社の記録です。
それも、株式会社としての日活の経済状況、経営状況の変遷の記録です。

映画会社の経営の流れを追った文献、記録はありそうでありません。
業界紙「キネマ旬報」では、瞬間瞬間の映画会社の業績は掲載されるものの、その分析、評価などには至らない印象があります。

「日活昭和青春期」は、組合員として経営者としてかかわった当事者が、当時の資料をもとに、当時の著者の思い、経営陣の思い、債権者側の思惑、社会情勢、他社(大映など)の状況を踏まえた数十年間の記録になっています。

そのむき出しの事実関係の流れは、著者と読者をして「映画産業とは何か?その宿痾とは?」という永遠の大命題を提起せしめます。

ではまず、本書の構成に沿って株式会社日活の変遷を追ってみましょう。

戦後の興隆期

戦時中の統制時代を興行会社として乗り切った日活は、戦後、GHQと社長堀久作のコネにより、アメリカ映画の独占配給により財を成した。
この間、全国の主要都市の一等地に、直営館を建設してゆく。

やがて1958年に映画入場者数ピークとなる時代を迎えて、興行会社日活は映画制作への進出を模索するが、新東宝との合併案がとん挫する中で、自前の映画制作に舵を切る。
堀社長にとってはあくまで「儲かる事業」としての映画制作・配給に興味があった。

1954年に調布の布田に、最新式の撮影所を作り上げ、製作を開始。

映画制作事業が軌道に乗ったのは、1956年の太陽族映画のヒットから。
続いて裕次郎映画と渡り鳥シリーズがヒットし、1962年には日活の経営状況がその頂点を迎えた。
収益は堀社長が目指す「総合レジャー産業・日活」実現のため、ホテル、ゴルフ場、スポーツセンターなどの買収、建設に投資された。

衰退期と対策

本業の映画部門の収益に陰りを見え始めえたのは早くも1963年のことだった。
翌64年度決算からは、株式会社日活としての営業利益、経常利益は、ともに赤字となり、以降その傾向が続く。

堀社長の対応は、丸の内日活など資産価値のある直営館の売却による赤字補填策。
ちなみに1964年の配給収益そのものは54億円と、東映に次ぐ業界2位だったにもかかわらず、資産売却による損失の補填を急ぐ。

1960年代から70年代にかけて、日活の損益は赤字続きとなるが、会社の対応は、直営館、ホテルなどの資産売却による補填が主なものとなる。
これらは同時に収入の逓減という効果を生むことになる。

1962年には撮影所に契約者労組が結成される。

希望退職が募られ、撮影所合理化を巡って、会社と組合の攻防が始まる。

1969年には映画制作会社の本丸ともいえる、調布の撮影所が堀社長により売却される。
売却先は当時の電電公社の関連会社で、社員寮の用地目的。
売却額は時価の半値の約16億円。

この間、映画制作は継続しており、撮影所の明け渡しには至らず、買主と会社、組合の三者協議が続けられる。

1970年には同じく経営悪化していた大映と、配給・興行部門を統一して経費節減を狙う、ダイニチ映配を設立。
大映作品と日活作品を共同で配給・公開し始めるが、ダイニチ映配自体の収益がやっとトントンで、肝心の大映、日活に回るまでの収益はなかったため、翌年には事業撤退した。

1971年には堀久作社長が退陣。
跡を継いだ息子の雅彦も74年に退陣し、堀一族の支配体制が終焉。
その後を根本組合委員長が継いで新社長に就任。
以降、組合の幹部がそのまま会社の経営者となることが多くなる。

1971年、撮影所人員の活用方策として、低予算の映画制作を模索。
ロマンポルノと呼ばれる低予算映画の制作を開始する。

1977年期の決算では、営業収益1億5千万の赤字、経常収益11億の赤字、累損に至っては90億円を突破した。

会社倒産と再生

1977年、裁判上の和解により、32億円で調布の撮影所を買戻す。
買戻し代金の捻出は、撮影所敷地の半分を不動産会社に売却することによった。

1978年、増資とその後の減資で発生する減資差益によって累損を解消した。
累損解消により株価が上昇。
後に提携する紳士服会社など新たな出資者が現れ、表面上の業績が上向いた。

ホテル、ゴルフ場などのレジャー産業、ケーブルテレビ、ビデオレンタルなど事業の多角化を推進。

1988年、ロマンポルノ制作から撤退。
映画部門は一般映画と大作路線を模索するも損益の改善なく推移。

90年代になりバブル崩壊とともに資金繰りが困難となる。

1993年会社更生法を申請して株式会社日活が倒産。

会社更生法とは、破産など清算型とは異なる再生型の倒産で、倒産会社は事業を継続しつつ一方で債務の返済を棚上げするという、強力な「社会立法」的な色合いを持つ法律といわれる。

会社更生法が裁判所によって認可されるには、申請する企業が、強力な公共性を帯びているか、または、当該企業の廃止によって相当な社会的損失が予測されることが要件となる。

まさに「映画撮影所とは、映画制作という特殊技能を有する専門スタッフを長い年月をかけて涵養しなければ成り立たないものであり、一旦清算後には、一朝一夕に再現できるものではない」ことが、裁判所にも認められた事例となった。

それが会社倒産時のことだったのは残念だが。

閑話休題

いやあ、映画産業の興隆と衰退という大河ドラマを見ているようでした。
大河ドラマというより、生々しい記録映画かな。

そこには、著者も整理しきれていない歴史の深層が内在しています。
書けなかったことも多々あったと思います。

産業としての映画の衰退は現実です。
外野からかつての経営者達に茶々を入れることは差し控えます。

山小舎おじさんが小学生時代を過ごした、北海道旭川市にも日活の映画館がありました。
小屋の正面に裕次郎、旭など数人の顔写真(絵)の看板が掲げられていたのを思い出します。

いつの間にか映画上映がほぼデータ化されたように、技術革新と消費者のし好の変化により、状況はガラッと変わるものです。

今から70年も前、映画撮影所という1000人規模の事業を展開していた時代の物語として歴史的な記録となるべき本です。
今後に残しておきたいものです。

その際、未来の読者と、この本を結びつけるものがあるとしたら、撮影所が生んだ数々の映画作品がそれでしょう。

あっ、その時には「映画」などという名称はすたれているのでしょうね。
「ソフト」、といわなければだめですね。

1978年の「キネマ旬報」

ある日、古本屋の店先にあった古い「キネマ旬報」を手に取った。
100円だった。
当時の映画事情が懐しかったので買っておいた。

表紙は「ダイナマイトどんどん」より。菅原文太は岡本タッチのやくざを演じた

表紙は当時封切りの「ダイナマイトどんどん」。
岡本喜八監督の晩年の快作である。

折込の目次の裏が広告になっている。
名作洋画の題名が並んでいる。(その中には1971年公開の「ジョニーは戦場へ行った」などの最近作も含まれる)
それはレンタル用の16ミリフィルムの広告だった。

折込の目次には多彩な記事が並ぶ
目次の裏は16ミリレンタルフィルムの宣伝広告

いつの間にか時代は変わってしまっているが、この当時、ハード素材としてのビデオも一般には普及しておらず、DVDは開発されていなかった。
映画はデータを変換するデジタル処理によってではなく、フィルムを映写機にかけて、光学的に見るものだった。

映画館では35ミリフィルムをかけていたが、職場のレクレーションや、学生の上映会の素材として、16ミリ版の映画フィルムは需要があったのである。
16ミリ用映写機を扱う技術講習会のようなものも当時あった。

また、当時の16ミリフィルムの流通は、テレビ上映用に16ミリにダビングしていたことと関係があるのかもしれない。

さて、「キネマ旬報」という雑誌。
日本最古の映画雑誌で、日本で上映される邦画・洋画の全情報、業界の動向、作品批評、映画史研究の連載、などで編集されている。
同誌が毎年発表するその年の映画ベストテンは、国内で最も権威あるものとされ、新聞記事にもなる。
ファン雑誌を卒業した、ちょっとヒネた高校生や大学生の映画マニアが手に取る雑誌で、山小舎おじさんが高校生になるころ住んでいた函館の本屋には、1971年のその当時、置いていなかったりもした。

1978年10月号の編集長は黒井和男。

前任(正確には2代前)の白井和夫編集長時代には、無頼のルポライター竹中労が「日本映画縦断」と称して、伊藤太輔監督など先人へのインタビューを中心にした膨大な連載を始めていた。
その前には「映画紅衛兵運動」と題する、映画館などでの上映状況改善を目的とした読者による問題提起の連続掲載もあった。
映画人の間での論争もよく紙面を飾っており、いわば「尖った」ことを厭わない紙面づくりだった。

白井編集長の更迭?により、「日本映画縦断」などの連載は途中打ち切りとなり、「キネマ旬報」は穏便な路線にかじを切っていた。

1978年の「キネマ旬報」。
改めて、上映作品や業界の動向などの情報を広く網羅していることに気づく。
興行成績や、各地のトピックなどをフォローし、文化映画やTVアニメ、映画館やテレビなどの上映情報も欠かしてはいない。
業界誌であり、記録、資料としての役割も備えた媒体であることを再認識できる。

メインの映画評論に関しては、飯島正「ヌーベルバーグの映画体系」、渡辺武信「日活アクションの華麗な世界」など、後に単行本化された連載陣を有し、
品田雄吉、飯田心美、金坂健二、斎藤正治、今野雄二などが作品批評を執筆。
当時の代表的な映画評論家たちで、またキネマ旬報映画ベストテン選出メンバーたちの名前が並ぶ。

連載「ヌーベルバーグの映画体系」。映画史の王道
これはちょっとマニアな映画史か「日活アクションの華麗な世界」

読者の映画評というコーナーがあった。
20歳前後の若い読者が気鋭の文章をつづっている。
若さと観念が隙間なくぎっしり組み合わされたかのような文章に、時代が強く感じられる。
当時の文化的知性の先鋭に憧れ、模倣し、食らいつくかのような気負った若さが、同時代の山小舎おじさんには懐かしい。

読者のフルネーム、年齢、住所が掲載されている点には、トンデモないと感じるより、失われた「いい時代」を思ってしまうのは、おじさんが古い人間のせいか。

「読者の映画評」は力作が並ぶ

当時の映画評論家の文章、読者の投稿文、を見るにつけ、この時代の「キネマ旬報」がいかに文字を信じ、文字で表現しようとしていたかが伝わってくる。

文字が表現の王道だった時代。
選ばれた人に許された文字表現を世に問う世界。
活字による自己表現を許されたエリートたちの誇りと矜持。

活字が詰まった、批評欄を見るにつけ、時代の変遷を感じざるを得ない。

1978年の「キネマ旬報」はまた、小林信彦、赤瀬川原平、小林亜星らによる連載によって商業化、一般化も図っている。
イラスト付きなのは、来るべき「文字表現絶対時代の崩壊」を先取りしているからなのか。

漫画家・赤瀬川原平の連載「妄想映画館」

また、別の観点から時代の隔絶を感じさせるのが「番組予定表」。
この時代の映画文化の学びの場であった、各地の名画座の上映情報を掲載したページである。

番組表の名画座のページ。おじさんには映画文化の墓標に見える・・・

東京だけでも、文芸座、並木座、昭和館、佳作座、大塚名画座、上板東映、パール座、などの名前が見られる。
繁華街と主要駅周辺に、2本立て3本立ての映画館があった時代。
名画座と呼ばれたそれらの映画館は、復活した文芸座を除き現在全滅。(上記番組表の中では、文芸座と早稲田松竹が残存している)

山小舎おじさんの若き日も、上京の折には、情報誌「ぴあ」を片手に名画座巡りをしました。

池袋文芸座の満員でたばこの煙が漂う館内。
上映されていたルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」(1971年)は、巻頭から場面が飛び飛び、画面は雨降り、カラーは退色、の三重苦のプリントでしたが、この作品が観られることだけで満足でした。

銀座並木座で観た「雪国」(1957年 豊田四郎監督)。
狭くフラットな館内は、後方席からの鑑賞には不向きな造りで、画面の三分の一程が前の人の頭で見えませんでした。

文芸座「日の当たらない名画祭」の広告。今ではテレビにもかからない名作が並ぶ
オールナイトの番組表。「東宝映画史研究」、今では実現しないであろう番組

「西の京一会館、東の文芸座」と当時うたわれた、名画座の聖地、京都市左京区の京一会館へも行ったことがありました。

京福電車、一乗寺駅を下りた商店街のはずれ。
寂れた建付けと便所臭ただよう館内。
その日は、当時であっても上映機会は稀だった、マキノ雅弘監督の東宝版「次郎長三国志」(1952年~)が4本立てくらいでかかっておりました。
興行価値はともかく、日本娯楽映画の原点ともいえる作品を敢然と上映する姿勢に、さすがは名画座西の雄、と感じたものでした。

京一会館では「酔いどれ天使」をやっている

さて、この号の訃報情報に、中平康監督、大蔵貢社長の名前がありました。

日活の一時代の立役者でもあった中平監督についてはそのチーフ助監督を務めた西村昭五郎監督が巻頭の「フロントページ」欄に追悼の小文を載せています。

一方、新東宝社長としてエログロ路線を導き、今でも新東宝カルトムービーの「発起人」として賛否両論ある大蔵貢については、巻末の「映画界の動き・短信」欄に10行ほどの経歴記載があるだけでした。

新東宝、カルトムービー、ピンク映画など、ニッチな世界に日が当たるのは、その後10年、20年と待たなければならないようでした。

「狂った果実」「紅の翼」で日活を支えた中平監督への追悼文
カルト王・大蔵貢の死に関しては(この号では)これだけの扱い

1983年のシネマテーク

ここに1983年の1月第2週?のシネマテークフランセーズのプログラムがある。
プログラムといってもA4サイズほどの色紙で、上映日時と上映作品の題名、国籍、作製年、監督、出演者程度の情報しか載っていない。

「シネマテーク」という言葉、は現在の日本ではほぼ一般名詞化しているが、もともとは、パリにあるある映画の収集・保存機関の名称。
パリ市内のシャイヨー宮の地下、とポンピドー文化センターの上層階、にそれぞれ上映施設を持ち、様々なプログラムを組んで毎日3本程度を上映する。

1983年当時26歳の山小舎おじさんは、偶然にもパリにたどり着き、根っからの映画好きに火がついて、市内の映画館やシネマテークで観まくったのでした。

山田宏一という映画評論家が、パリに着くとまずは「パリスコープ」を買って上映情報を収集する・・・という話を覚えていた。
実際に「パリスコープ」という情報誌は街角のキオスクで売られており、それを買った。

「パリスコープ」の上映情報は、映画の題名が原語表記されており、わかりやすかった。
当時、もぐりで(正式な労働許可証を持たずに)バイトをしていおじさんは、休みの日に映画館を駆け回り、毎回3~4本を観た。

常時、ハワード・ホークスやヒッチコック、ジョン・ヒューストン、ルイス・ブニュエルなど世界的監督の作品が、街角の名画座で、単品や特集で上映されているパリは、映画ファンにとっては夢のような環境だった。

さらに感心したのが、上映されるフィルムが、傷や欠損のないプリントばかりだったこと。
場末の名画座ではボロボロのプリントがかけられ、外国映画の場合、契約期限が来ると観られなくなる日本とはなんと異なることか、と思ったものだった。

名画座では、「三つ数えろ」(1946年 ハワード・ホークス監督)、「脱出」(1944年 同)、「キーラーゴ」(1948年 ジョン・ヒューストン監督)などを夢中になって追いかけた。

ブニュエル特集でメキシコ時代の諸作品に接した。

テレビでは観ていたヒッチコックの「サイコ」(1960年)、「鳥」(1963年)に改めて感心した。

「アスファルトジャングル」(1950年 ヒューストン監督)、「ハスラー」(1961年 ロバート・ロッセン監督)では明るいだけではないアメリカを知ることができた。

70年代の傑作「ハロルドとモード」(1971年 ハル・アシュビー監督)、「ロンググッドバイ」(1973年 ロバート・アルトマン監督)を観たのも収穫だった。

パリの住所は〇〇通りの何番地、という表示なので、付近の地下鉄駅から街角の住宅案内図をたどってゆけば、目指す映画館にたどり着けた。

フランスでは原語で上映されるので、アメリカ映画はまだしも(といっても英語をよく理解していたわけではないが)、フランスやイタリアなどの映画はちんぷんかんぷん。
アメリカ映画でもセリフで展開するスクリューボールコメディのようなものは理解不能。
細かな内容はあきらめ、映像と雰囲気を追っていた。

封切館は、案内のおばさんにチップを渡さなければならず、敷居が高かった。
それでも、フランシス・コッポラ監督の新作「ワンフロムザハート」やジャック・ドミー監督、ドミニク・サンダ主演の新作「都会の一部屋」は、封切館で観た。

名画座で古今の名作を追いかけつつ、シネマテークにも通った。
シャイヨー宮、ポンピドーセンターともに、会場は毎回ほぼ満員、の印象だった。

どちらも大スクリーンを持つ大人数収容の映画館だった。
建物や調度に古さを感じるシャイヨー宮地下のシネマテーク館内に入ると、「ここの最前列でフランソワ・トリュフォーが観ていたのか」と感慨も新ただった。

シネマテークでは「美女と野獣」(1946年 ジャン・コクトー監督)、「メイドインUSA」(1966年 ジャン₌リュック・ゴダール監督)、「ミュリエル」(1963年 アラン・レネ監督)、などを観た。

ミケランジェロ・アントニオーニ監督の7年ぶりの新作(「ある女の存在証明」)の試写会?がシネマテークで行われる、と聞いて駆け付けたところ、時間前にシャイヨー宮の外まで人があふれていたこともあった。

名作のみならず、バングラデシュやフィリピン映画の特集などもやっていた。
アジアなど第三世界の映画ブームが来る前のことだ。

シネマテーク、手元のプログラムに戻ってみる。
表面?がシャイヨー宮会場の上映予定、裏面?がポンピドーセンター、となっている。

「日本映画における家族」という特集で、「あにとそのいもうと」(1939年 島津保次郎監督)、「一人息子」(1936年 小津安二郎監督)、「西陣の姉妹」(1952年 吉村公三郎監督)、「異母兄弟」(1957年 家城巳代治監督)、などが上映されている。
日本国内でもそうそう行われない、魅力的なラインナップだ。

1982年に亡くなったイブ・シャンピ監督の特集もあり、岸恵子が出た日仏合作の「忘れえぬ慕情」(1957年)が上映されている。

ほかにもフレッド・ジンネマン、ヘンリー・キング、衣笠貞之助などの監督作品が特集上映されており、その古今東西に及ぶ守備範囲に驚くばかりである。

その技術的な発生はもとよりとしても、文化的な成熟度においても、こと映画に関してはフランスに一日の長あり、と思わざるを得ない。
26歳当時の山小舎おじさんはパリで映画の渦に溺れておりました。

茅野の新星劇場へ行った

茅野駅近く、中央線の線路際に新星劇場という映画館がある。

近くを通るたびに気になる存在だ。
毎年9月に開催される「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」には、映画祭の会場になり、入り口の駐車場にレッドカーペットが敷かれ、地元のスタッフによるふるまい酒、コーヒー、ポップコーンなどの出店が並ぶ。
映画祭は県外からの来訪者も多く、上映作品には沢山の観客が訪れる。

昨年の映画祭パンフレット

令和2年は映画祭が中止になった。
山小舎おじさんは過去の映画祭で、この劇場で司葉子のトークショーを聞いた。

シネコンやらミニシアターとは異なる、天井が高い造りと大画面。
かつては全国に存在した、旧スタイルの映画館の造りを今に残す、という誠に懐かしい空間でもある。

この新星劇場、興行を常打ちしていない。
劇場経営者の女性に聞くと、今では出張上映や貸館を主にしているとのこと。
出張上映用のデジタル上映機器を持っているのは県内でここだけとのことだった。

星空の映画祭。映写は当劇場の出張によるとのこと

ということで、今年も一度くらいは新星劇場に入りたい、と思っていた。

ある日、通りかかると映画のポスターがデイスプレイされていた。
軽トラを駐車場に入れ、窓口へ寄ってみると、いつもは人気のない入口に経営者の女性がいた。
戸を開けて聞いてみるとちょうど午後の回の上映開始直後とのこと。

よしっとばかりにシニア料金1,100円を払って飛び込んだ。
とうとう3度目の新星劇場入場ができた!
しかも映画祭で、ではなくて一般上映で!

新星劇場の場内。懐かしい映画館の雰囲気が残る

場内にはほかに2人の観客がいた。
上映中の作品は「夜明けを信じて」。
新作である。
幸福の科学の製作作品であるが、日活配給の一般作品の扱いとのこと。

映画の内容は、教祖・大川隆法の自伝で、ひたすら同人へのよいしょに終始した、信者向けのものだった。
しかしなんとなく憎めない雰囲気があったのは、主演の新人俳優の個性のせいだったのか?

宗教がらみのスポンサード映画というと、創価学会の「人間革命」(1973年)が真っ先に思い出される。
監督、主演ともに通常映画でも大作仕様のものだったが、何よりも脚本に橋本忍という、日本映画の脚本家の重鎮を起用しており、同作品は宗教枠を超えて、例えば、橋本忍からみの回顧上映においてもフューチャーされる程のクオリテイーを有していた(ようだ)ことが印象的な作品だった。

このように、1970年代の新興宗教映画が、大向う受けを狙ったもので、たとえていえば、田舎の成金百姓が自宅をお城のように作りたがるようなコンセプトだったとすれば、眼前に展開する2020年の新興宗教映画は、現代の一般社会・一般人の価値観・ムードを理解し、それに迎合したもの、として映った。

今どきの新興宗教は上から目線ではだめだ、こけおどしでは人は騙せない、との理解に立ったうえでの戦略なのであろうか。

そうはいえどもやっぱりスポンサード映画。
主人公はともかく、また一般の芸能人崩れの千眼美子(旧名・清水富美加)などはともかく、脇役で出ている、映画テレビで初めて見る方々は、俳優、女優としてはプロなのだろうが、その全員に漂う不自然さ、マイナー感、は、作品そのものに対するそれ、よりもより多くの違和感を生じせしめていた。

戦略の不徹底か、隠しようにも隠し切れない本質の一端なのか。

上映後、もぎり役の女性から改めてお話を伺った。
定期上映より、出張上映に力を入れざるを得ない要因として、人気作の上映条件がきつい、とのことだった。
例えば人気アニメの「鬼滅の刃」は1日8回の上映が条件だったりするのでやりたくてもやれないとのこと。

シネコン上映が前提条件だったりする現在の興行の難しさを感じた。
これからも存続してほしい新星劇場だが、ご高齢に近い現在の経営者に後継者が現れるかどうかがカギだろうと思われる。

塩尻の東座で「ひまわり」を観た

塩尻に東座という昔ながらの映画館があります。
シネコンではなく、フィルム上映も可能な、座席数168の映画館です。
1号館、2号館があり、それぞれ一般映画とピンク映画を上映してます。

「大蔵映画」の看板を掲げる映画館は他に現存しているだろうか

たまたま塩尻を訪れたときにこの映画館を見つけ、是非一度映画を見に来たいと思っていました。
調べてみると「ひまわり」(1970年、イタリア・ソ連合作)がリバイバル上映中とわかり、改めて駆けつけました。

一般映画の上映作品はいわゆるミニシアター系が多そう

「ひまわり」は、日本公開当時の1970年時点で10代以上の映画ファンなら、誰でも知っているであろう名作です。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニという、イタリアでは人間国宝級の二人の共演。
監督はヴィットリオ・デ・シーカ。
戦後直後に、イタリア社会の現実をドキュメンタルに描写した「ネオレアリスモ」と呼ばれた一連の作品群の代表作である、「靴みがき」(1946年)、「自転車泥棒」(1948年)を監督した人です。

デジタル上映でよみがえった名作を見て感じたことを表してみたいと思います。

館内は傾斜があり、とても見やすい。この回の入場者は6人ほど

その1、イタリア軍のロシア戦線の従軍

「ひまわり」は愛し合った男女の戦争による離別を骨格とした物語です。
イタリアの男は戦争当時、徴兵されることが当然でした。

主人公もそれは覚悟で、徴兵の猶予期間(12日の新婚期間、入営が猶予される)狙いで結婚し、あまつさえ狂言で精神病院へ入院までするのだが、狂言がばれて送られた先がロシア戦線だった。

第二次世界大戦で、イタリア軍も北アフリカでドイツ軍の補助に参加したのは知っていたが、ロシア戦線に従軍したのは知らなかった。

調べてみると計23万人ものイタリア軍がドイツ軍に呼応してロシア戦線に従軍したとのこと。

当初はルーマニア、ハンガリーもドイツ軍として従軍したロシア戦線。
スターリンの圧政に苦しむ当時のウクライナでは、ドイツ軍が「解放軍」として迎えられたとのエピソードが示す通り、複雑かつ混とんとした情勢の中、ソ連軍の反抗と冬将軍の到来に撤退を余儀なくされた時、イタリア軍は15万人になっていたという。

「11人以下の人数の戦い(サッカーのこと)だと強い」「マンマが見ているときだけ強い」などと揶揄されるイタリア男性。

イタリア軍についても、「エチオピアを植民地とすべく攻め込んだイタリア軍が、騎馬と槍で武装したエチオピア軍に何度も跳ね返された挙句、毒ガスを使ってやっと勝った」とか、「北アフリカ戦線で、水不足とSOSを発したイタリア軍部隊に、救援のドイツ軍部隊が駆けつけてみると、盛大にスパゲテイを茹でていた」など、うそか誠か、でも「いかにも」と思わせるエピソードに事欠かない。

ところが、第二次大戦のロシア戦線でのイタリア軍は奮戦したらしい。
ドン川周辺の占領地域の防御戦で再三ソ連軍の反抗を跳ね返し、ソ連軍に「白い悪魔」と呼ばれたスキー部隊もいた、とのこと。

本作での、ロシア戦線での戦闘描写、厳寒の雪原を敗走する場面、戦後になって妻がソ連に夫を探しに行ったときに目の当たりにする、丘一面の無数の白樺の墓標、は決して大袈裟な描写ではなかったのだ。

映画「ひまわり」の歴史的背景描写と史実は決して乖離してはいなかった。

上映予定表。予約割引、メンズデイなどの有益情報も記載されている

その2、イタリア映画の豊かな伝統

「ひまわり」は、イタリアの大プロデユーサー、カルロ・ポンテイの製作作品で、ソビエトロケやトップ女優・リュドミラ・サベリーエワの出演など、ソ連との合作によって実現した大作という側面が強い。
一方で、イタリア映画の細かな伝統を随所に感じさせる作品でもある。

【イタリア映画の伝統その1】

主人公二人が新婚時代を過ごす町の広場で三々五々過ごす人々の自然な描写。
駅で出征兵士を送る母親年代の女性達の味のある顔また顔。

イタリア映画のエキストラの存在感。
セリフもないエキストラ達は、アップになっても得も言われぬ存在感を醸し出す。

演技がうまいのか、もともと人々の個性が強いのか。
多分両方なのだろう。

画面を引いて、駅の建物一杯に人々が行きかう群衆シーンになっても画面のリアリテイは失われない。

【イタリア映画の伝統その2】

カメラを固定させ、アップもパンも多用しなかったネオレアリスモの時代の後、イタリア映画に於ける撮影はその技量を高めていったように思う。
質感あふれる引きの構図があるかと思えば、独創的な移動ロングショットがあったりする。

マストロヤンニとサベリーエワの夫婦が都市のアパートへ引っ越すときのトラックを、前面から回り込み助手席のサベリーエワ親子をアップでとらえるまでのワンショットの移動撮影。
カメラマンのよほどのやる気と技術と準備がなければできない撮影だ。

イタリア映画でのエキストラの活かし方と、熟練の撮影は、ベルナルド・ベルトルッチ監督にも引き継がれている。
同監督の「暗殺の森」(1970年)、「1900年」(1976年)では、迫真に迫るエキストラシーンと、見事な撮影を観ることができる。

ロビーに置いてあるマップ。塩尻の食堂、カフェなどの情報満載

その3、主題は戦争の悲劇にとどまらず

さて、本作の主題。
ここにもイタリア映画の伝統が強烈に顔を出す。

「ひまわり」という映画のこれまでの印象はというと、山小舎おじさんは「戦争が引き裂いた夫婦の別れ。二人とも運命を受容。悪いのは戦争だ」、というもの。
だからこそのキレイな悲劇の物語。

実はそれにとどまらないのがイタリア映画のしつこいところ。
戦争などで引き裂かれても、イタリア女性はそんなことではあきらめない。
死力を尽くして愛する夫を探し当てる。

女性は、戦争などでは夫への愛を「あきらめ」ないが、反面、夫が別な女性と愛し合っている事実を確認すると、「あきらめ」る。
後に、ソ連からやってきた元夫とイタリアで再会した時も、戦争のせいにする夫を許しはしない。

肉食的というか、頭ではなく体で生きるというか。
イタリア女性の面目躍如。
きれいごとで済まさないところがスゴイ。
それを扱うイタリア映画もスゴイ。

とはいえ、別れた時間は容赦がない。
それぞれに家庭と子供があり、元に戻ることは現実的にはできない、という「落としどころ」に落ち着く。

「ひまわり」撮影時、ソフィア・ローレン34歳、マストロヤンニ46歳。
名コンビとはいえ、新婚時代からを演じるにはギリギリの実年齢。
無理がある?とも思ったが、合作の大作としては必要なキャステイングだったのだろう。

結果としてはリバイバル上映にも十分耐えうる二人の存在感には何も言えない。ソフィアは、若い時と、夫を探すとき、夫を見切ってから、と3つの時代を演じる。
それぞれが素晴らしいが、特に夫をソ連に探しに行ってから見切るまでの時代の演技が素晴らしい。

ソ連で「戦争と平和」のヒロインを演じたこともある、モスフィルムの名花にして、当時のソ連を代表する美人女優のリュドミラ・サベリーエワ。
本役にはもったいないくらいの美貌だが、彼女とてただの悲劇のヒロインではない。

随所に現れる、サベリーエワの人間臭いセリフと動作。
さすがイタリア映画の演出である。
ただの悲劇のヒロインなど一人も出てこない。

随所に現れるマストロヤンニの母親。
息子の行方不明を嘆き、初めて嫁であるソフィアのところへやってきたとき、コーヒーを勧める嫁に、それを断るところ・・・。

人間の描写にいちいち真実をつかないと気が済まない?のがイタリア映画。
これが「人間復興」というものなのか?ルネッサンスの伝統なのか?

一筋縄では行かない大作の「ひまわり」でした。