令和元年10月初旬の長和町の田んぼの風景です。
ここら辺、上田盆地から諏訪方面へ抜けるどん詰まり。
峠に向かう両側の山々が収斂してゆく地形。
貴重な平地は、やや高度が高い場所は古来からの街道として、そして川沿いの場所は田んぼに使われてきました。
街道筋に集落が形成され、田んぼへ続く傾斜地に畑を作っています。
あとは見渡す限り山また山の風景です。
長野の山里にも令和初の実りの時期が来ました。
今年の県内の米の作柄は平年並みとのことです。

60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
令和元年10月初旬の長和町の田んぼの風景です。
ここら辺、上田盆地から諏訪方面へ抜けるどん詰まり。
峠に向かう両側の山々が収斂してゆく地形。
貴重な平地は、やや高度が高い場所は古来からの街道として、そして川沿いの場所は田んぼに使われてきました。
街道筋に集落が形成され、田んぼへ続く傾斜地に畑を作っています。
あとは見渡す限り山また山の風景です。
長野の山里にも令和初の実りの時期が来ました。
今年の県内の米の作柄は平年並みとのことです。

山小屋おじさんの8月は、自分の十二指腸と向き合っている間に終わろうとしています。
先日、久しぶりに朝市に出店しました。
雨の日の朝市、来客は1組
7月最終週から始まった朝市。
8月に入って、野菜の品目も出そろい、別荘住民が増えるにつれ、来客数と売上げが増えてゆきました。
例年のピークはお盆の時期。
数組から10組程度だった来客数が2,30組以上となり、ものが売り切れとなることもあります。
今年はお盆の時期を自宅で過ごした山小屋おじさんは、8月も最終週となって、3週間ぶりに出店しました。
出品は、トウモロコシ、枝豆、キャベツ、長ネギ、夕顔、ズッキーニ、ミニトマト、ピーマンなど。
当日はあいにくの小雨模様でした。

出てきたのはおじさんの店だけ。
来客も1組だけでした。
お客さんは、野菜料理に詳しく、夕顔も大好きだという奥さんと、ニコニコ顔の旦那さんのカップルでした。
トウモロコシ3本と、枝豆、ミニトマトを買ってくれました。
夕顔とズッキーニは巨大すぎて滞在中に食べきれないと言ってました。

肌寒い雨の中、傘をさして出てきてくれたお客さんにはただただ感謝。
人気のない山の中で、別の登山パーテイーに出会った時のようなうれしさを感じました。
売上げ500円。
予定より1時間早く9時に店をたたみました。

高原の夏も終わろうとしていました。
今年の朝市はお盆とともに終わった?
あとで朝市の取りまとめ役の人に電話して最近の様子を聞きました。
「お盆の後はほとんど客が来ない。5回くらい私1人で出店したが、来客数が1,2人だった。出すものもないし今日は休んだ。」とのことでした。

8月最終週で今年の朝市も終わります。
山小屋のお隣さんから声がかかった。
注文制作のピザ窯を持ち、土足で作業できる炊事小屋を持つ、田舎暮らしの「プロ」のお隣さん。
別荘地に定住20年以上のベテランで、おじさんの山小屋観点でいえば、前オーナー時代からの付き合い。
ご主人は、田舎暮らしの実践のほか、地域との交流を実現せんと、都市住民の農業体験ツアーや別荘住民による援農隊結成などをコーディネートしてきた人だ。
時々、ピザやパンを焼いたといって誘ってくれる。
こちらからは野菜や東京土産などを持ってゆく。
今回は久しぶりにピザのお誘いがあった。
小雨降る中、伺う。
晴天ならピザ窯近くの野外テーブルで食べるが、雨なので炊事小屋へ案内される。
この炊事小屋、流しとガス、薪ストーブで思い切り炊事ができるので、おじさんもお気に入りの場所だ。
炭火焼台が設置されたテーブルに座る。
焼台は素焼きの焼き物とのことだ。
今日のピザは、野沢菜を使ったものが1枚、ツナが1枚。
ふわっと焼けていておいしい。
前回より上手に焼けているような気がする。
日本酒が出てきた。
地元丸子(上田市丸子)の地酒・喜久盛。
おじさんを酒のみと知っての歓待がうれしい。
長野の地酒はうまいのはもちろん、「安心して」飲めるのがいい。
この「安心感」というやつ、ありそうでいて、なかなかないものだ。
酒、味噌、醤油の醸造所は県内各所に数知れず現存し、安心した味覚を地元に供給している。
この1点にも長野県の底力を感じる。
時ならぬ、隣組交流。
ピザに舌鼓を打ち、昼酒に酔いしれる。
つまみの真打は、ご主人、別荘住民、地域住民のこの20年ほどの交流の歴史だ。
気が付いたら4時過ぎ。地酒が底を打ったのを合図にお開き。
いい気持ちになったおじさん、山小屋で飲み直し。
翌日は体が重かったことでした。
信州の山里の田んぼにも代掻きの水が入りました。
田植えの準備のシーズンとなりました。
山小屋から畑までの間の田んぼの様子です
おじさんの畑の隣の田んぼです。
段々畑になっています。
田んぼの水も温まっています。
畑のある集落の田んぼです。
集落の社、松尾神社の鳥居が見えます。
長和町の中心部に下った場所の田んぼです。
残雪に彩られた蓼科山の頂が遠望されます。
用水路には水が勢いよく流れています。
長和町大門地区の田んぼです。
大門地区は山に囲まれた標高の高い地区です。
4月20日の丸子公園の桜です。

丸子公園は、上田市丸子地区の丸子城跡にあります。
上田城での真田軍と徳川軍の攻防戦の際に、真田側の前線基地として戦いを繰り広げたこともある丸子城ですが、今では全く跡形もありません。
戦国時代の城とはいえ、天守閣などは持たぬ、いわゆる豪族の館(たて)のようなものだったのでしょうか。
丸子公園のわきには依田川が流れています。
大門峠や和田峠からの支流を集めて、自らは千曲川に注ぐ河川です。
依田川には無数のこいのぼりが川を渡ってかかっていました。

圧倒的な風景に目が釘付けになります。
付近の住民が車で集まってきます。
山里の儚いともいえる桜の風景とは違う、町の花見の風景に近い光景です。
五月晴れというにはまだ早い4月ですが、文字通り春爛漫の風景です。
丸子公園近くには、安良居神社があります。
上丸子地区の氏神だそうです。
威厳あるたたずまいの神社です。
境内には2,3本の桜が満開で、鮮烈なアクセントを放っていました。
狛犬越しの桜です。
遥か上田盆地越しに残雪の浅間山が遠望できます。
信州上田地方の最西端、丸子地区の春の1日です。
今年の畑もほぼ終了。
畑の地元、長久保集落の鎮守、松尾神社へお参りして豊作を感謝しました。
旧中山道・長久保宿をほぼトレースして、長久保の集落が現存する。
集落の端っこ(中山道の上手)に松尾神社がある。
現中山道である国道142号線を上ってゆくと、長久保の集落を過ぎるあたりひの左手に朱色の鳥居が見える。
案内板を見ると1800年代に本殿を建立とある。
比較的新しい神社。
地域に大事にされ今でも例大祭が行われている。
おじさんは畑作の無事を祈願し、また収穫を感謝して折々にお参りするようにしている。
今年の豊作を感謝してお礼のお参りをした。
立派な鳥居をくぐると、その名も五十鈴川に架かる橋を渡る。
伊勢神宮にある川と同名の川が流れているのだ。
境内は静まり返っている。
社が2つある。
これは上手の社へ向かう鳥居。
下の社にお参りし、もう一つ坂の上の社にも行ってみる。
来年も変わらず無事に畑ができますように。
山小屋は東京でいえば真冬の寒さ。
干した大根も凍りそうです。
明日は年に一度の健康診断に東京へ一時帰宅します。
今日は気晴らしに遠出をしました。
青木村というところがあります。
上田から西に向かった山懐。
古の東山道に面する村です。

江戸時代の五街道が整備される前の時代の主要街道である東山道。
信濃に入ってからは、今の松本から、難所の保福寺峠を越えて、青木村へ下り、上田盆地に至っていました。
青木村には、山小屋からは1時間弱でつきます。
松本と青木村の間の保福寺峠には、日本アルプスを世界に紹介した、宣教師ウエストンの碑が建つといいます。
ウエストンは1888年から13年間日本に滞在し、布教の傍ら日本各地の山を歩いたひとです。
上高地を有名にし、日本アルプスの名付け親です。

その青木村、東山道沿道にある所以からか、国宝大宝寺三重塔など文化遺産も抱えています。
1333年に建立の三重塔です。
都から宮大工を招いて建てられ、洗練された中央の気風を持ち、別名みかえりの塔と呼ばれています。
青木村に道の駅があります。
直売所と食堂が主な施設です。
直売所では季節になると山菜やキノコがたくさん出ます。
今日は、リンゴ、柿を中心に、キノコ、野沢菜などが売られていました。
食堂ではタチアカネという種類の蕎麦が食べられます。花がピンク色に咲く蕎麦です。

結構人気の道の駅で、松茸の時期などは込み合います。
上田方面からの行き止まり、というわけではなく、松本方面から峠を越えてこられる立地のせいもあります。
おじさん、今日の昼食は、直売所で売っている弁当にしました。
海苔巻きと稲荷のセット。350円です。
手作り感一杯でうまかった。
こういった直売所の弁当はコスパ感十分です。
欲を言えば、海苔巻きのキューリを粕漬にしてほしかったけど(個人的な郷愁です)。
青木村には温泉もあります。
そのうちのひとつ、沓掛温泉の共同湯です。
長野は山国でいたるところに温泉があります。
沓掛温泉は、温泉宿が1軒、共同湯が1軒の鄙びたたたずまいです。
おじさんの山小屋から大門街道を下ってゆくと、最初の信号がある交差点で、中山道に合流する。
中山道は江戸時代に整備された五街道のひとつで、江戸と京都を結ぶ。67宿(69次)、530キロの道のりである。
江戸の起点は日本橋だが、実質の出発点は板橋宿。
今の埼玉、群馬を抜けて軽井沢、諏訪を経て木曽へ向かう。
信州に入ると、峠を越え、つかの間の盆地を抜けると、次の峠が現れる山道である。
東海道に比して、大井川などの大河の渡りもなく、取り締まりもゆるく、宿場の宿代も安かったので、それなりに往来が盛んだったらしい。
京都の宮中から江戸幕府に嫁ぐ際に使う街道で、皇女和宮が通った道でもあった。
現在では、長野県の松本から、埼玉、東京方面へ抜ける物流ルートとしてトラックが引きも切らない。
おじさんの畑は、中山道27番宿の、長久保にある。

佐久方面から笠取峠を越えての宿場。
最盛期には旅籠の数が50軒を超えたという。
次の宿場である和田宿から、難所の和田峠を越えて諏訪に至る。
諏訪でで甲州街道に接する。

畑の大家さんの家も長久保宿にある。
今時の町おこしとて、家々は宿場の景観保存を行っている。
屋号を表した看板を掲げた家も多い。
本陣にはかつてのお札が掲げられている。
今でも近辺の集落の中心地で、JRバスのターミナルがある。
上田方面からの路線バスと、和田方面、姫木平方面へのバスの中継地点となる。
便数はごく少ない。「ローカル路線バスの旅」の舞台にはならないだろう。
雑貨屋、食堂などはすでに閉まっており、居酒屋1軒と床屋、酒屋などが細々と続いている。
立派なJAの支店がある。
この街道を歩く中高年のハイカーも散見される。
長久保には1軒宿屋が残る。
次の和田宿には今は宿がないので、諏訪に抜ける和田峠越えのコースをとるとすると、長久保を出発点に一気に諏訪まで行くしかない。
長久保宿から諏訪までの間は、かなり長距離の難コースである。
和田峠の旧歩道は、人気もなく険しい。
旧道の麓にあったドライブインもとうに閉鎖されている。
冬は車でも十分な装備が必要な位雪に閉ざされる。
また、旧道を歩く分にはいいが、新道を歩かざるを得ないときには、脇をビュンビュン通る大型車両の通行に気を付けなければならない。
今も昔も道中に困難はつきものである。
高原は晩秋です。
紅葉真っ盛り。落葉も真っ盛りです。
おじさんの山小屋から、大門峠を越えたところにある白樺湖。
流れをせき止めて作った人造湖です。
農業用のため池だったそうです。
かつてはふもとに住む人たちが、炭を焼くのに登ってきた場所だったそうです。

今は湖畔にリゾートホテルや遊園地があります。
リゾートブームが一段落した今、閉店した施設も目立ちます。

すそ野が古くからの別荘地で有名な蓼科山のふもとです。
蓼科山は八ヶ岳連峰の最北端の峰です。
山梨から見た八ヶ岳連峰の一番奥側のエリアになります。

秋晴れです。明日は全国的に雨の予報。
久しぶりに仏岩へ登りました。
仏岩。
おじさんの住む山小屋から、国道152号線、通称大門街道に沿って上田方面へ5分ほどにあります。
1300年ころの鎌倉時代に建てられた仏塔が山頂の岩の上にあります。
大門街道沿いの低山です。
山頂には大きな岩がごろんと立っており、そこに仏塔が建てられています。
県宝です。
登山口には標識と由来が建っています。
しばらく里山の道を行きます。雑木林です。
登山道は、雨水で掘れておりわかりやすく、迷うことはありません。
標識もあります。
ところどころに巨石がごろんと転がっています。溶岩とのことです。
次第に登山道は山肌をまいてゆきます。
幅が狭く崖っぷちのところもあります。
鉄梯子が出てきました。
鎖場もあります。
この道をかつては仏塔を背負った修行僧が通ったのでしょうか。
山頂の岩へ登る梯子が見えます。
梯子の3連続。その上の頂に仏塔があります。
溶岩由来の巨石が山頂です。
今回も頂への登頂は断念。
岩の頂はむき出しで柵も何もありません。
おじさんは高所が苦手です。
最後の梯子にしがみついて仏塔を拝みます。
背景に蓼科山が見えます。
はるか下界の風景です。
おじさんは、仙台での現職時代に、単身赴任の気楽さから近場の低山へ結構登りました。
北泉ヶ岳、二口峠など。
都市近郊の低山とはいえ、東北の山の怖さは忘れられませんでした。
そこは、住み慣れた人界ではなく、山界ともいうべき別の世界でした。
ひとの気配がしなくて別のものの気配に満ちていました。
その点、長野の仏岩は安心そのものの人界です。
登り40分。往復60分ほどの道のりでした。
ただし、都市近郊のハイキングコースのような至れり尽くせりの配慮はありません。
幅40センチほどの道を踏み外せば、崖に堕ちますし、山頂の岩で貧血を起こせば、そのまま行方不明となります。
地方のハイキングコースは案外ワイルドで、おじさんが仙台郊外の名勝地へ行った時も、手すりなどのない、幅1メートルほどの崖の道を歩いていたら、向こうから小学生の一団が現れて、すれ違うのに怖かったことがありました。
長野のこのあたりの小学生は標高2500メートルの蓼科山に遠足で登ります。
山頂付近は急こう配の岩場が続く山です。
田舎はたくましいのです。
(追記)
仏岩を過ぎて大門街道を上田方面に下って行った道沿いに、てっぺんに石碑が乗った溶岩石がある。
登ってみると、稲荷神の字が読める碑だった。
街道のはす向かいにある、大門稲荷神社の関係するものかもしれない。
長野を歩いていると、岩の上に碑が乗っている風景に出くわす。
民間信仰の形態なのだろう。