地元パワースポット訪問記VOL.2 豊作を感謝、松尾神社にお参りする

今年の畑もほぼ終了。
畑の地元、長久保集落の鎮守、松尾神社へお参りして豊作を感謝しました。

旧中山道・長久保宿をほぼトレースして、長久保の集落が現存する。
集落の端っこ(中山道の上手)に松尾神社がある。

現中山道である国道142号線を上ってゆくと、長久保の集落を過ぎるあたりひの左手に朱色の鳥居が見える。
案内板を見ると1800年代に本殿を建立とある。
比較的新しい神社。
地域に大事にされ今でも例大祭が行われている。

おじさんは畑作の無事を祈願し、また収穫を感謝して折々にお参りするようにしている。

今年の豊作を感謝してお礼のお参りをした。
立派な鳥居をくぐると、その名も五十鈴川に架かる橋を渡る。
伊勢神宮にある川と同名の川が流れているのだ。

境内は静まり返っている。

社が2つある。
これは上手の社へ向かう鳥居。

下の社にお参りし、もう一つ坂の上の社にも行ってみる。

来年も変わらず無事に畑ができますように。

道の駅あおきへ行きました

山小屋は東京でいえば真冬の寒さ。
干した大根も凍りそうです。
明日は年に一度の健康診断に東京へ一時帰宅します。
今日は気晴らしに遠出をしました。

青木村というところがあります。
上田から西に向かった山懐。
古の東山道に面する村です。

江戸時代の五街道が整備される前の時代の主要街道である東山道。
信濃に入ってからは、今の松本から、難所の保福寺峠を越えて、青木村へ下り、上田盆地に至っていました。
青木村には、山小屋からは1時間弱でつきます。

松本と青木村の間の保福寺峠には、日本アルプスを世界に紹介した、宣教師ウエストンの碑が建つといいます。
ウエストンは1888年から13年間日本に滞在し、布教の傍ら日本各地の山を歩いたひとです。
上高地を有名にし、日本アルプスの名付け親です。

その青木村、東山道沿道にある所以からか、国宝大宝寺三重塔など文化遺産も抱えています。
1333年に建立の三重塔です。
都から宮大工を招いて建てられ、洗練された中央の気風を持ち、別名みかえりの塔と呼ばれています。

青木村に道の駅があります。

直売所と食堂が主な施設です。

直売所では季節になると山菜やキノコがたくさん出ます。
今日は、リンゴ、柿を中心に、キノコ、野沢菜などが売られていました。

食堂ではタチアカネという種類の蕎麦が食べられます。花がピンク色に咲く蕎麦です。

結構人気の道の駅で、松茸の時期などは込み合います。
上田方面からの行き止まり、というわけではなく、松本方面から峠を越えてこられる立地のせいもあります。

おじさん、今日の昼食は、直売所で売っている弁当にしました。

海苔巻きと稲荷のセット。350円です。
手作り感一杯でうまかった。
こういった直売所の弁当はコスパ感十分です。
欲を言えば、海苔巻きのキューリを粕漬にしてほしかったけど(個人的な郷愁です)。

青木村には温泉もあります。
そのうちのひとつ、沓掛温泉の共同湯です。

長野は山国でいたるところに温泉があります。
沓掛温泉は、温泉宿が1軒、共同湯が1軒の鄙びたたたずまいです。

中山道 長久保宿

おじさんの山小屋から大門街道を下ってゆくと、最初の信号がある交差点で、中山道に合流する。

中山道は江戸時代に整備された五街道のひとつで、江戸と京都を結ぶ。67宿(69次)、530キロの道のりである。
江戸の起点は日本橋だが、実質の出発点は板橋宿。
今の埼玉、群馬を抜けて軽井沢、諏訪を経て木曽へ向かう。
信州に入ると、峠を越え、つかの間の盆地を抜けると、次の峠が現れる山道である。

東海道に比して、大井川などの大河の渡りもなく、取り締まりもゆるく、宿場の宿代も安かったので、それなりに往来が盛んだったらしい。
京都の宮中から江戸幕府に嫁ぐ際に使う街道で、皇女和宮が通った道でもあった。

現在では、長野県の松本から、埼玉、東京方面へ抜ける物流ルートとしてトラックが引きも切らない。

おじさんの畑は、中山道27番宿の、長久保にある。

佐久方面から笠取峠を越えての宿場。
最盛期には旅籠の数が50軒を超えたという。

次の宿場である和田宿から、難所の和田峠を越えて諏訪に至る。
諏訪でで甲州街道に接する。

畑の大家さんの家も長久保宿にある。
今時の町おこしとて、家々は宿場の景観保存を行っている。
屋号を表した看板を掲げた家も多い。

本陣にはかつてのお札が掲げられている。

今でも近辺の集落の中心地で、JRバスのターミナルがある。
上田方面からの路線バスと、和田方面、姫木平方面へのバスの中継地点となる。
便数はごく少ない。「ローカル路線バスの旅」の舞台にはならないだろう。

雑貨屋、食堂などはすでに閉まっており、居酒屋1軒と床屋、酒屋などが細々と続いている。
立派なJAの支店がある。

この街道を歩く中高年のハイカーも散見される。
長久保には1軒宿屋が残る。

次の和田宿には今は宿がないので、諏訪に抜ける和田峠越えのコースをとるとすると、長久保を出発点に一気に諏訪まで行くしかない。

長久保宿から諏訪までの間は、かなり長距離の難コースである。
和田峠の旧歩道は、人気もなく険しい。
旧道の麓にあったドライブインもとうに閉鎖されている。
冬は車でも十分な装備が必要な位雪に閉ざされる。
また、旧道を歩く分にはいいが、新道を歩かざるを得ないときには、脇をビュンビュン通る大型車両の通行に気を付けなければならない。

今も昔も道中に困難はつきものである。

 

晩秋の白樺湖

高原は晩秋です。
紅葉真っ盛り。落葉も真っ盛りです。

おじさんの山小屋から、大門峠を越えたところにある白樺湖。

流れをせき止めて作った人造湖です。
農業用のため池だったそうです。
かつてはふもとに住む人たちが、炭を焼くのに登ってきた場所だったそうです。

今は湖畔にリゾートホテルや遊園地があります。
リゾートブームが一段落した今、閉店した施設も目立ちます。

すそ野が古くからの別荘地で有名な蓼科山のふもとです。
蓼科山は八ヶ岳連峰の最北端の峰です。
山梨から見た八ヶ岳連峰の一番奥側のエリアになります。

地元パワースポット訪問記VOL.1 県宝仏岩へ登る

秋晴れです。明日は全国的に雨の予報。
久しぶりに仏岩へ登りました。

仏岩。
おじさんの住む山小屋から、国道152号線、通称大門街道に沿って上田方面へ5分ほどにあります。
1300年ころの鎌倉時代に建てられた仏塔が山頂の岩の上にあります。

大門街道沿いの低山です。
山頂には大きな岩がごろんと立っており、そこに仏塔が建てられています。
県宝です。

登山口には標識と由来が建っています。

しばらく里山の道を行きます。雑木林です。

登山道は、雨水で掘れておりわかりやすく、迷うことはありません。

標識もあります。

ところどころに巨石がごろんと転がっています。溶岩とのことです。

次第に登山道は山肌をまいてゆきます。
幅が狭く崖っぷちのところもあります。

鉄梯子が出てきました。

鎖場もあります。

この道をかつては仏塔を背負った修行僧が通ったのでしょうか。

山頂の岩へ登る梯子が見えます。

梯子の3連続。その上の頂に仏塔があります。

溶岩由来の巨石が山頂です。
今回も頂への登頂は断念。
岩の頂はむき出しで柵も何もありません。
おじさんは高所が苦手です。

最後の梯子にしがみついて仏塔を拝みます。
背景に蓼科山が見えます。

はるか下界の風景です。

おじさんは、仙台での現職時代に、単身赴任の気楽さから近場の低山へ結構登りました。
北泉ヶ岳、二口峠など。
都市近郊の低山とはいえ、東北の山の怖さは忘れられませんでした。
そこは、住み慣れた人界ではなく、山界ともいうべき別の世界でした。
ひとの気配がしなくて別のものの気配に満ちていました。

その点、長野の仏岩は安心そのものの人界です。
登り40分。往復60分ほどの道のりでした。
ただし、都市近郊のハイキングコースのような至れり尽くせりの配慮はありません。
幅40センチほどの道を踏み外せば、崖に堕ちますし、山頂の岩で貧血を起こせば、そのまま行方不明となります。

地方のハイキングコースは案外ワイルドで、おじさんが仙台郊外の名勝地へ行った時も、手すりなどのない、幅1メートルほどの崖の道を歩いていたら、向こうから小学生の一団が現れて、すれ違うのに怖かったことがありました。

長野のこのあたりの小学生は標高2500メートルの蓼科山に遠足で登ります。
山頂付近は急こう配の岩場が続く山です。

田舎はたくましいのです。

(追記)

仏岩を過ぎて大門街道を上田方面に下って行った道沿いに、てっぺんに石碑が乗った溶岩石がある。

登ってみると、稲荷神の字が読める碑だった。

街道のはす向かいにある、大門稲荷神社の関係するものかもしれない。
長野を歩いていると、岩の上に碑が乗っている風景に出くわす。

民間信仰の形態なのだろう。

寒さ厳しき夕べ 別荘管理事務所の慰労会に参加

定年おじさんの住む、長野の1500メートルの高原は、秋が深まっております。
朝夕の寒さは深刻です。暖房なしでは一時もおられません。

ということで、ここ別荘地の管理事務所の慰労会に参加してきました。
おじさんは事務所の職員ではないのですが、この4月から6月にかけてアルバイト職員で登録していましたので、お誘いがあったのです。

アルバイトといっても、おじさんの場合は週3日の勤務。事務んで決めたローテーションです。
職種は落ち葉集めと草刈り。
アルバイト仲間は別荘住民。
定住していたり、長期滞在中の60歳台~70歳代がメインです。
丸1日の労働は、若いころならともかく、62歳のおじさんにはしんどかったのと、7月に入ると畑が忙しくなり、朝市に参加するなどしたので、行かなくなりました。
それでも、慰労会には誘ってくれたのでした。

別荘の管理事務所は有限会社組織です。スタッフ8名。管理事務のほか、別荘地の保全業務を担っています。
売り上げ9000万円ほどの有限会社で、主な収入源は、別荘住民の管理委託料。
管理委託料は、1区画で年間4万円ほどします。

ほかに別荘地の地主である財産区(町有だったり共有の土地を管理する組織)からの収入があります。

別荘住民は、管理料のほかに、建物の固定資産税、住民税(住民票の有無を問わず)を払っています。
つまり、別荘住民の費用負担を収入源として存在する会社となります。

40年前の別荘開発時には民間業者が管理していたものが、民間業者が撤退し、紆余曲折を経て、現在の形態となったようです。
地元色の強い、半官半民に近い組織です。
別荘管理にかかわるサービスは一所懸命やってくれます。
待ちの主要産業のひとつ、別荘運営を最前線で担っています。

さて、慰労会。
会場は町内の和田地区というところにある、湯游パークという温泉施設内の食堂です。
別荘住民は各戸まで送迎付き。
参加費の個人負担は少ない。というありがたいものでした。
何せ、田舎では飲み会の際の足が重要問題ですから。

地元を知るまたとないチャンス、とおじさんの胸は躍りました。
同時にアウエー感が暗雲のように広がりました。
果たしてどんな場所に連れていかれるのやら・・・。

山小屋までは職員が迎えに来てくれ、事務所からは会場施設のマイクロバスに乗りました。
暗闇を走り、集落で職員たちを拾ってゆきます。
寒い夜に、自宅からどんどん離れた田舎道を行くときの不安感!

町内とはいえ、たっぷり30分以上走り、湯游パークへ到着。
今はやりのスーパー銭湯的な施設内のふれあい食堂へ案内されます。
三々五々、入浴客などの自家用車が駐車しています。
当然ながら、都会のスーパー銭湯のような活気はまるでありません。周りは明かりも音もない田舎です。
施設内の人気を頼りに入所します。

入ってみると、よくある昭和な景色の食堂。
椅子やカウンターの配置は何の違和感もなく、アウエー感が雲散霧消。
おじさんの得意な環境です。
現金なもので、一人ででも飲んでゆきたくなりました。

参加者はアルバイトが6名。職員が8名。社長と監査役。来賓として、近場のスキー場管理会社の社長。
この社長は元副町長ということで、皆さん地元の仲間。町の観光事業を担う、半官半民会社の幹部集合、というような塩梅でした。

といっても堅苦しさはありません。
今時、いかに田舎の有力者とはいえ、絵に描いたようなパワハラ満々なボス面の人間がいるわけではないのです。
有力者が挨拶し、乾杯の音頭を取るのは会社の宴会と同じ。極めて淡々と会は進んでゆきました。

宴会の最中でも、権力者に忖度して、注いで回るような人は現れませんでした。
都会の会社の宴会より民主度は上かもしれません。
各自、飲みたいものを注文し、気づかいや強制もなし。酒自体を飲まない人も目につきました。
醒めているのか、もともとストレスがないから発散する必要がないのか。

食べ物は、刺身のカルパッチョを前菜に、松茸土瓶蒸し、から揚げなどが出て、メインはすき焼き。
すき焼きは、最初の一杯を向かいに座った女性職員がよそってくれました。

締めがラーメンでした。
1人前のラーメンが、全員に出ました。

食事がうまいのがいい意味で予想外でした。
単調な山小屋暮らしからすると、刺身など、多彩な居酒屋メニューには味だけでなく、心も満たされるようでした。

地元による、地元のための宴会。
貴重な経験をさせてもらいました。

朝市の会打上げで田舎と都会について考えた

朝市の会の打ち上げがあった。
参加したのは8名。場所はおじさんの住む別荘地内の食堂。
食堂の主のIさんも朝市の会のメンバー。

8名の内訳は、別荘住民で自作の作物を出品するYさん夫婦。
地元の農家で観光ブルーベリー園のほか、野菜全般を作付けするMさん夫婦。
地元にUターンしてドジョウなどの養魚で地域おこし中のKさん。
別荘族20年で80歳代のため今年は出品中止したMさん。
会場の食堂マスターのIさんと、定年おじさん。

おじさんは、山小屋にあふれる材料で、大根の煮物、里芋の煮物、焼き芋、ツルムラサキのお浸しを作り、上田の地酒・亀齢の一升瓶とともに持って行った。
ところが、1品持ち寄ってきたのはおじさんだけで、つまみはフルコースで出てきて、ビールから何から飲み放題で会費1000円だった。

会は、UターンしたKさんのチェロ演奏で始まった。
東京での学生時代からの趣味とのこと。
思わぬ文化的な香りに驚く。

おじさんが持参した亀齢を見て、Kさんらが早速反応。地元の人はわかっているのだなとうれしくなる。
先日の別荘族の集まりの時は、亀齢を知っている人がいなかった。

一事が万事。別荘族と地元の人の違いを感じ続けたひと時だった。
話題は、畑のことから、地元の人たちが考えている地域おこしのことまで。

知識をひけらかす感じがぬぐえない、別荘族の話に対して、地元の人の話はあくまで実体験に基づいた豊かなもの。
Mさんの、トマトの青い実を収穫して追熟させて冬に食べる話や、ヤギの乳をご飯にかけて食べる話。
今考えているのは、清流を利用してのクレソンづくり。都会へ出荷するのではなくて、都会人を呼び込むような地域おこしをしたいとのこと。
話をするMさんの表情は嬉しそうだったり、きっぱりしていたりと話題に負けず豊かだ。

亀齢にうれしい反応をしてくれた、UターンのKさんは、千葉で定年退職後、実家に戻り4年目。
奥さんがまだ都会で働いているのは、定年おじさんと同じ境遇。
地元でドジョウ、フナ、タニシなどの養殖を始めたとのこと。
Kさんが地元にいたころは、農耕用に牛を飼い、タニシなどは常食していたとのこと。
Kさんは非常に人懐っこく、同年代の定年おじさんに話しかけてきた。

Mさん、Kさんに共通するのは、身の丈に合った仕事をしているところ。
地域の特性を生かした素材による地域おこし。

鰻や、FI作物など、経済性に染め抜かれた素材を扱うとどうしても「相手」の土俵で相撲を取ることになる。「相手」は得体のしれぬ資本の世界だ。100%いいとこどりされて終わりである。

クレソンとドジョウの養殖。華々しい資本の世界とは無縁かもしれぬが、手ごたえを実感できる事業になるだろう。

ここで、おじさんが地域の住民Mさんに質問。
移住者が地域にやってくると最初は歓迎されるがじきにいなくなることについて。
和んだ空気が凍り付く。
すかさず、別荘族20年のMさんが、それはコーディネーターがいないからだ、と断言。
おじさんは、都会人は必ずしも、「お互い様」の価値観になじまず、「私は私」の人もいるから。と更にMさんに聞く。
Mさんから返事はなく、話題は自然消滅。

おじさんとしては、田舎の価値観の否定ではなく、都会の価値観とのすり合わせ、融合が図れないか、地域の有意の人に考えを聞きたい気持ちだった。
Mさんとしては、根の深い問題であることをわかっているから安易な返答ができなかったのだろう。

とにかく、先に口が動く別荘族とは対照的である。
別荘族は話し終わると自慢のどや顔をするが、地元の人は話し終わると心底うれしそうな顔になる。
過去の栄光に固執し、未来の話ができない別荘族に対し、地元の人の前向きで明るい話題に心が満たされたひと時だった。

地元・長和町の広報と、養殖事業を紹介されたKさん。

お隣から生みたての卵をもらいました。

直売所へゴー!

田舎では何を差し置いても直売所へゴーだ!

その土地らしさを求めた時、どこへ行く?
街へ出てシャッター街を歩くか?
城下町の路地を覗くか?
人気(ひとけ)を求めて駅ビルへ闖入するか?

それもいいだろう。
だが、田舎が等身大の活気を見せる場所はどこか?
地域の社交場にして生産物の晴れ舞台はどこにある?
それは直売所なのだ!

国交省管轄の道の駅というところもある。
残念ながらそこは地元にとってよそ行きの場所。
土産品をかき集めて、標準語で接客するイメージ。

道の駅に準ずる大掛かりな直売所もある。
ここら辺では、たてしな自由農園など。
物資は豊富だが、品ぞろえ優先で、県外の野菜も多い。加工品など油断すると輸入品を買ってしまう。贈答用の桃や、ブドウなどを買うにはいいけどね。

おじさんのお気に入りは、農産物直売加工センター・あさつゆ。
上田市丸子にある。
野菜は全品地元産。季節外れの野菜はない。今だとリンゴが幅を利かせている。
トウガラシなど、はおじさんが作ったほうがモノが良かったりすることもある。が、そのほかは近隣のプロ農家が作った美品。しかも安い。
夏のキューリ、なすなどは一袋100円から200円。

ジャム用の桃、洋ナシ、リンゴはここで買う。
漬物用のキューリやナスもここ。
今日は秋映というリンゴを5個入り400円で購入。
おじさんの畑にない長ネギは3本で120円。

食事もできる。
地元のおばさんが作る手打ちうどんは、ほとんど家庭料理。つゆまで完食する。
松茸や朝鮮人参、日本はちみつなども売っているが、あくまでも地元産だ。

地元の人がひっきりなしに集まってくる。
ここはいい。

定年おじさん 別荘地の集まりに参加する

おじさんの住む別荘地は、数百の区画があり、その半分くらいに別荘が建っている。
そのうちで、定住しているのが数十軒。
夏や冬に長期滞在するおじさんのようなところが数十軒。もっといるかな?
ということは、数百の区画の別荘地でも、よく利用しているのはせいぜい100軒どまりということ。
限られた敷地内で、限られたメンバーが交流せざるを得ないというのが別荘地である。

おじさんの山小屋の近所に、Kさんという定住者がいる。ご夫婦でペンションと貸別荘を経営している。
おじさんは、窯でピザを焼いたからとご馳走になったりしていた。
先日、畑で採れたサツマイモを持ってゆくと、「今度、芋煮会をするから来ないか?」とご招待を受けた。

Kさんは70歳代。集まったメンバーも70歳代以上がメイン。男女合わせて10人ほど。
20年前からKさんらの声掛けで集まった別荘地内のメンバーで、共同で畑を借りて朝市に出品したり、本を集めて図書館を作ったり、ハイキングをしたり、とのこと。

当時、Kさんが発行したという会報を見ると、活動の多彩さもさることながら、写真入りで作られた会報の丁寧な作りが印象的だった。

メンバーには偶然ながら、おじさんの大学の先輩の人もいた。20年近い先輩で工学部応用化学出身。
畑で採れたサツマイモを蒸留して焼酎を作っていたとの話が印象的。

男手で芋煮を作った。
畑で採れた里芋、大根を持ち寄り、豚肉の出汁で大鍋で煮る。
Kさん宅の土間が大人数の炊事には使い勝手がよい。
煮えるまで、おじさん持参の上田岡崎酒造の純米亀齢を開けて男チームで歓談。

鍋ができてから、女衆の待つ母屋の食堂に入る。
母屋の作りは防寒がしっかりしていて暖かい。これがペンション仕様か。
女衆持ち寄りの、カボチャ、キューリの辛子漬け、マツタケご飯、揚げ物などをつまみに夕方まで歓談。

皆さん久しぶりの集まりとのことで、話題は20年間の思い出話が主だった。
Kさんの人柄か、興味と話題が多彩な、行動的なメンバーだった。
別荘住民は個性的な人が多い印象だが、今回のメンバーからは、「至極まっとうな人たちが、まずまずのリタイア生活を送っている」感じがした。
高齢や病気で、アルコールを制限しているメンバーが多い中、亀齢の一升瓶が開き、三三五五の散会となった。メンバーはそのまま車で帰って行ったが、別荘地内のこととはいえ、飲酒運転で大丈夫だったろうか?

稲刈り はぜ掛けの風景

長野県は稲刈りの真っ盛り。
昔ながらの、はぜ掛けの風景が見られる。

刈った稲を束ねて、天日乾燥のため、物干しざおに掛ける作業。
コンバイン普及後は、もみだけを刈り取って、機械乾燥するのが主流となっていた。
いまも大規模米作はその方法だ。

ところが長野県に来て、昔ながらのはぜ掛けによる乾燥が行われているのを見た。
自家用分だけをそうするのかと思ったら、結構大規模に行われている。
はぜ掛け乾燥を売り物にした米も売られていることも知った。

はぜ掛けって、結構大変で、稲の根っこを刈り、稲わらで束ね、よっこらしょとはぜに掛けなければならない。人出がいるし、刈ったばかりの稲束は結構重い。
稲刈りから後の作業に人出が掛けられる状況でないと、そもそもできない。根っこの刈り取りまでは機械でできるが。

定年おじさんは、かつて自宅の近くで田んぼづくりのグループに参加し、手植え、手刈り、はぜ掛けで稲作をしたことがある。
だから、はぜ掛けの大変さは、よくわかる。

できた新米にプレミアがつく現状なら、作業のし甲斐もあるだろう。
地元の人には、「今の乾燥機は性能がいいから、はぜ掛け乾燥と食味に大差がない」と話す人もいるが。
いずれにせよ、頑固というか、奇をてらわず、結果、古いものが残っている長野県らしい風景のひとつである。

はぜ掛けの風景は、上田盆地一帯のほか、諏訪湖周辺の田んぼでも見られる。ほかの地方のことは知らない。