ことしも丸子公園下の依田川に鯉のぼりが川を渡ってかかりました。

2列の鯉のぼりが川の上を泳いでいます。

桜が終わり、新緑の季節が始まります。

遠く、雪を頂いた浅間連峰をバックにした丸子の町を望んでいます。

60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
ことしも丸子公園下の依田川に鯉のぼりが川を渡ってかかりました。
2列の鯉のぼりが川の上を泳いでいます。
桜が終わり、新緑の季節が始まります。
遠く、雪を頂いた浅間連峰をバックにした丸子の町を望んでいます。
上田市丸子地区は、諏訪と上田を結ぶ大門街道沿いに開けた町です。
大門街道に沿っては依田川が、和田峠に端を発し千曲川への合流を目指して、流れています。
その大門街道と依田川を見下ろす小高い里山の山頂に丸子城址があります。
山頂の丸子城址からふもとに広がる一帯が丸子公園となっています。
桜が散り始めたころ、畑作業を終えた山小舎おじさんは丸子公園へと寄ってみました。
依田川沿いの丸子公園は桜の名所であり、五月の節句の時期には、数多くのこいのぼりが、川を渡って吊り下げられ、風に泳ぐ場所でもあります。
丸子城は第一次上田合戦で、真田側の武将の居城として、徳川軍を迎え撃った実戦の場でした。
第一次上田合戦は、群馬県の沼田城を討った真田(幸村の父の時代)に、徳川が沼田城の放棄を求め、真田がこれを拒否したため、徳川が真田を懲らしめに出兵しておこりました。
真田本隊が陣取る上田城を攻めた徳川でしたがどうしても落ちず、一方の真田方である丸子城へと進撃先を変更しました。
丸子城は激戦の末、徳川軍の征伐を許さず膠着状態へ。
やがて徳川軍は佐久方面へ撤退していきました。
真田軍の徳川に対する最初の勝利の戦さです。
さて、令和5年の丸子公園。
麓の公園は桜の季節。
家族連れが三々五々、子供を遊ばせています。
山小舎おじさんは山頂の城跡を目指し、山道を登り始めます。
案内板によると、500メートルで二の郭と呼ばれる場所につき、そこから350メートルで山頂の一の郭(天守)につきます。
畑作業でウオームアップしたせいか、さしたる疲労もなく坂道をたどってゆくことができました。
山道はしっかり整備されていて、足元に不安はありません。
不安は自分の脚自体だけです。
日曜なので思ったよりハイカーの姿が多く、数組とすれ違う。
幼児や足の若干不自由そうなご高配の姿もあります。
さすが山の国長野県です。
春先なので風が冷たいです。
二の郭に着くと家族がシートを広げて日向ぼっこしていました。
復元された物見台に上ると、幼い兄弟も自力で登って遊んでいきました。
物見台からはふもとの大門街道はもちろん、遠く浅間山や菅平方面までが望めます。
和田峠方面は目と鼻の先だます
ここから見れば外敵の行動は丸裸だなと思いながら、一の郭を目指します。
終点までは、隣の山の山頂まで行かなくてはなりません。
少し息が切れてきたが一の郭へ着きました。
井戸以外に何の遺跡もなく、歴史の彼方に過ぎ去った丸子城。
変わらぬものはここから眺める遥かな山々の姿だけなのだろう。
少し前のこと、3月の末に、津金寺というお寺を見てきました。
立科町にある古いお寺です。
上田市の丸子地区から山を越えて佐久方面に抜ける道沿いにあります。
その道を通るときにはいつも「立派なお寺があるなあ」と思っていました。
ある日、佐久方面から丸子へ寄って帰る道すがら、ふと思い立ち、その「立派なお寺」に寄ってみました。
津金寺は古代東山道沿いに702年の開基とし、長く信濃地方の学問の拠点だったお寺です。
戦国時代に織田信長の軍勢に焼き討ちに遭いましたが、江戸時代には漸次復興したとのことです。
駐車場に軽トラを入れ境内に降り立ちます。
境内の広さがわかります。
境内全体の案内図や建物の案内板が訪れるものを案内してくれます。
まず山門を眺めてみます。
仁王門といわれる山門で、立派な仁王様が、浅間連峰方面ににらみを利かせています。
本堂らしき建物が池と橋の向こうに見えます。
観音堂と呼ばれる建物で、折から開花目前の桜が風景を彩っていました。
観音堂横の墓所には数々の墓石が並び、歴史の古さと地域の人心のよりどころであったことを示しています。
立派なお寺ですが人気がないのが寂しかったです。
遠くには残雪をいただいた浅間山の姿が見えました。
立科町の春が間近でした。
長和町の立岩和紙の里で、新そば祭りが開かれました。
畑で菊芋堀りの作業を終え、丸子のスーパーに買い物に下りた山小舎おじさんが、いつもの通り和紙の里を通り過ぎようとしたとき、敷地内に屋台のテントを見かけました。
リンゴ詰め放題などもやっています。
新そば祭りの幟もたっています。
どこかで昼食でもと考えていた山小舎おじさん、和紙の里に立ち寄ることにしました。
新そばも気になります。
今川焼の屋台が一張り、何張りかのテントの下には新米、お茶、クルミ団子などを売る出店が2、3軒、軽トラでリンゴ詰め放題をやっているのはリンゴ農家でしょうか。
出店の間を歩いている人の数がかわいそうなほど少ないのが、地元長和町らしい憎めない田舎の風情を醸す。
やはり目玉は新そばのみか。
和紙の里の食堂へ入ると、順番待ちのお客さんの列。
今日のメニューは新そばのもりと辛味の二種類のみ。
おじさんも名前を書いて順番を待ちます。
待つ間に気になるリンゴ詰め放題へ向かいます。.
町内の山すそにブドウ園と隣接するリンゴ園があり、そこの出店とのことです。
リンゴはシナノゴールドとシナノスイートの二種類。
500円払ってビニールの袋をもらい詰め込みます。
20個近くも詰め込んだでしょうか、最後は出店者のおばさんに手伝ってもらってあふれんばかりに詰め込みました。軽トラに運ぶ間に1個落としてしまうほどでした。
リンゴを軽トラに運んで食堂に戻ると間もなく名前を呼ばれて席に着きました。
もりそばを頼みます。
運ばれてきた蕎麦。
ツユがたっぷりあって、蕎麦湯がセットされているのがいいですね。
じゃぶじゃぶツユに漬けてそばをすすり、蕎麦湯も全部飲み干します。
新そばは噛み応えがあり、新鮮な感じがしました。
高遠、青木村など各地で新そばのニュースが届きます。
あと2、3か所で新そばにトライしてみようと思いました。
山小舎のお向かいさんは、スコットランド出身の65歳。
山小舎おじさんとほぼ同年齢ということもあり、付かず離れずの付き合いは、おじさんが先代のオーナーに導かれて山小舎に遊びに来始めてから、かれこれ7、8年。
この紳士、スコットランド出身がアイデンティティ。
車にユニオンジャックをシールしていたり、ここぞという日には伝統のスカート姿になったりする。
毎朝バグパイプの練習をしていたことも。
最近は故合って独身をかこつこの紳士。
働き先を上田の中学校の英語講師から、地元和田地区の漬物工場へ変えてしばらくたつ。
時々製品のアウトレットや試作品をいただくことがある。
野沢菜漬けが主力商品の工場らしいが、社長が意欲的で色んな新製品をトライアルしている。
スモーク野沢菜、という漬物もいただいた。
野沢菜にスモークの香りをつけたもので、酒のつまみに最高だった。
今般いただいたのが、納豆に和える野沢菜。
そのアイデアに驚くまでもなく、新アイデアね、と抵抗なく試食させてもらった。
山小舎でよく食べる地元大豆を使った大粒の納豆に混ぜてみる。
野沢菜の塩味を考慮し、しょうゆを使わずに食べてみた。
少々塩味が足りなく感じた。
二度目はしょうゆを加えてみた。
野沢菜も多めに混ぜてみた。
薬味というより、野沢菜も一緒に食べる納豆ご飯になった。
これはこれでいい。
野沢菜漬けは信州のソウルフード、というかそれ以前に食卓の必需品なのだから。
薬味ということなら、からしやネギの方がアクセントがはっきりしている。
納豆に和える野沢菜、は薬味ではなく、納豆と一緒に食べる食卓のお供、なのだった。
令和4年の御柱を訪ねる旅。
今回は上社本宮へ行きました。
5月の連休に茅野市から諏訪市にかけての道を、諏訪大社上社へ里曳きで運ばれた御柱は、前宮に4本、本宮に4本立てられています。
立派な本宮の鳥居をくぐったところに一の柱が立っています。
7月の3連休、そこそこの観光客が訪れています。
御柱を確かめ、本宮を後にしました。
後の3本は見る時間がありませんでした。
令和4年の諏訪大社御柱祭は5月に終わりました。
上社、下社ともに山出しはトレーラー曳きで。
山落し、川越は行われませんでした。
大社直前の2キロほどの里曳きだけが例年通り行われました。
その里曳きも、上社は5月連休に、下社は5月下旬に無事終了。
御柱は各社に立てられています。
現在は7月。
遅ればせながら令和4年寅年の御柱を下社前宮に見に行きました。
いつもながら神社と里の融和的関係を現代に残しているかのような、諏訪大社下社前宮のたたずまい。
里の民家と神社の境内の間に、塀も生垣もありません。
神様の威光を誇示するかのような壮麗さもありません。
あるのは歴史を経て、地元に鎮座する〈なにものか〉のありがたさ。
前宮の本殿は、田んぼと民家に囲まれた山道を登って行った先にあります。
背後に守屋山に連なる山をいただいた簡素な造りです。
本殿を囲んで真新しい御柱が4本立っていました。
境内を流れる清水。
簡素をたっとびながらも、人の手が入りすぎない程度に保たれた静謐さ。
諏訪の本来の神様の姿に一番近いといわれる前宮の景色です。
境内に交流館があるので寄ってみました。
御柱祭の資料がレイアウトされています。
今年は行われなかった、木落などの映像が流れていました。
次回は制限のない御柱祭が行われますように。
諏訪大社上社御柱祭の里曳きが行われる4日前の休日。
茅野市のたてしな自由農園という大きな直売所の横の空き地で、地元自治会による御柱祭の練習が行われていました。
たまたま買い出しに自由農園を訪れていた山小舎おじさんの耳に、塩田平の生島足島神社の御柱祭里曳きで聞いたことのある進軍ラッパが聞こえてきました。
さては?と駐車場を横断してラッパが聞こえる方に歩いてゆくとやっていました、御柱祭。
上社の里曳きは5月3日と聞いていたので、別の諏訪神社のお祭りかな、と思いました。
見ると、三友会と書かれたそろいの法被を着た数十人が、片や御柱に乗り、片や木遣りを詠い、片や進軍ラッパを吹いています。
後で調べると、三友会とは茅野市の湖東地区、米沢地区等の住民による団体で、諏訪大社上社の御柱祭にも参加しているとのこと。
法被の色は黄色、青、ピンクとなっており、黄色が木遣り衆、青が御柱を曳いたり乗ったりする衆、ピンクがラッパ隊に分かれていました。
見ていると、黄色い法被を着た木遣り衆が詠い、それにこたえて御柱に乗った衆がバトンのようなものを上げ下げする、頃合いを見てラッパ隊が突撃ラッパで景気を挙げる。
これを繰り返して練習していました。
ラッパ隊が消防団の応援だった、塩田平と違って、色違いながら三友会のロゴ入り法被を着ていることから、仲間うちで組織されたものであることがわかります。
ラッパだけではなくドラムと大太鼓にシンバルまで合奏しています。
吹いているのが進軍ラッパ、突撃ラッパというのは塩田平と同じです。
なおラッパ隊には女性もいました。
女性は木遣り衆にも一人いました。
いつもならそれとなく参加している団員に聞き取りをかける山小舎おじさんですが、きっかけがつかめず断念しました。
まとまりがいいというのか、団員が集中しているというのか。
観衆がいようがいまいが、団員たちの熱量が変わらなとい地元衆の団結の強さに付け入るスキがない感じでした。
ラッパ隊は指揮者の号令一家、見事な演奏ぶりでした。
生島足島神社で7年に一度の御柱祭が行われました。
山小舎おじさんも信州に来て初めて知ったのですが、諏訪大社以外でも、諏訪神社と呼ばれるお宮では御柱が山から切り出され、里を曳かれて、お宮の境内に立てられていたのです。
上田盆地の西側に広がる塩田平の守り神である、生島足島神社境内にも諏訪神社があり、御柱祭が行われています。
この諏訪神社で、4月中旬のある日、御柱祭の里曳きがありました。
塩田平を見渡す大鳥居の先を出発して神社まで、わずかな区間ながら参道を4本の御柱を曳いてゆくのです。
当日の朝、山小舎おじさんが少し離れた長野大学の駐車場に軽トラを止め、大鳥居を目標に歩いてゆくと、3本目の御柱が出発しているところでした。
御柱ごとに担当の集落が決まっているようで、3本目と4本目には神畑(かばたけ)の幟を立てた男衆がついています。
今年は牽引するのがトラクターです。
人が引っ張るとどうしても酒が入り、三密となるのでそれを避けたようです。
また、人が引っ張ると御柱に微妙なコントロールが効くので本来の入り口から神社に入場出来るのですが、それだと幹線道路を長時間通行止めすることになるので、それを避けるため、もあるようです。
御柱は要所で止まり、木遣衆というのでしょうか、男衆が3,4人御柱にのって口上を述べます。
諏訪の神様に御柱の奉納を乞うための口上のようです。
山小舎おじさんの耳には、2人目の木遣り衆が詠う「リキ入れて~」という言葉しかわかりませんでしたが。
それより驚いたのが、木遣りの後に突発する地元消防団の進軍ラッパと突撃ラッパでした。
時代錯誤というか消防団の周辺だけが戦前にでもタイムスリップしたかのような風景なのですが、かえって潔いというか、明治以降に国家神道として無理やり再編された神社の行事の色合いが残っているようで興味深かったです。
趣旨は甲子園のコンバットマーチと同じなのでしょうが、旧陸軍の突撃ラッパを公的な場所で思い切り吹いている場所は日本中探してもそんなにはないだろうなと思う瞬間でした。
御柱には女性の一団もついて行ってました。
沿道警備のご老人に聞くと、「ここは諏訪と違って女人禁制の縛りはきつくなく、御柱に乗って記念撮影する女性もいる」とのことだが、それでも行列に参加する女性は珍しいとのこと。
木落しや川声越えはしないのですね?と聞くと「昔は男衆がわざと田んぼに落としたりしたが、今はガードレールがあるし・・・」とのこと。
昔日の里曳きの勇壮さが偲ばれました。
御柱について行って神社に向かいます。
神社の周りには群衆が集まり、マイクによるアナウンスもされて祭りが盛り上がっています。
幹線道路を横断だけしてトラクターにひかれた御柱が入ってゆきました。
令和4年は7年に一度の御柱祭の年です。
山小舎おじさんにとっては御柱祭初遭遇の年。
御柱の切り出しから、山出し、里曳きまで一連の流れを追ってみたいと思いました。
現在は山出しが終わった状態です。
実は御柱祭は、諏訪大社(上社、下社の計四宮)に特有のお祭りではなく、県内の諏訪神社で行われているのです。
諏訪地方以外の神社でも、7年前に運ばれたであろう御柱が立っていますし、今年になって新たな御柱が神社の境内などに横たえられているのを目にします。
諏訪大社上社の御柱は八ヶ岳山中で倒され、ふもとの八ヶ岳農業大学のはす向かいの地に並べられ、3月に少し下った場所で〈木造り〉されたのち目的地の下社(前宮、本宮)まで、茅野市内を曳かれてゆきます。
木造りとは上社の御柱に特有の細工で、御柱に孔をあけて引手の持ち手になる角材をはめ込めるようにすることです。
人出が沿道を里まで御柱を引っ張って歩くことを〈山出し〉といいます。
沿道の住民は曳き手を酒菓で接待します。
御柱は、川があれば人力で〈川越え〉し、坂があれば引手を乗せて〈木落し〉して下ります。
よくテレビニュースで急坂を丸太にまたがって落ちてゆくシーンが報道されて、あれが御柱祭だということになっています。
下社の御柱8本が木落しされるシーンです。
諏訪湖畔の急峻な山に作られた下社の木落坂は斜度も急で、距離もあります。
ただしあれが御柱祭のすべてではないようです。
茅野市内の中央本線にほど近い、上社の木落坂は25度ほどの斜度で、距離も短いものです。
いずれにせよ県民、特に諏訪地方の住民が御柱祭にかける熱気は、よそ者の想像を超えたものがあります。
それは地域に根付いた習慣、信仰であり、一方では地元資本のかき入れ時でもあります。
木落し、川越を終え、山出しを終えた御柱は、最終的に奉納される場所まで改めて曳かれてゆきます。このことを〈里曳き〉といいます。
里曳きは、氏子や地域の人々にとって、山出し同様に盛り上がる瞬間です。
かつては、女性が御柱に触れるのはもちろん、跨ぐなはもってのほかだったとのことです。
こうして最終的に上社にたどりついた御柱は、境内に立てられます。
また、諏訪大社に限らず、県内のあちこちの諏訪神社で御柱が立っているのを見ますが、各社でそれぞれが、切りだしたり、曳いたり、お祭りしたのちに建立したものなのでしょう。
令和4年の御柱祭は、残念ながら、木落、川越、など山出しに関するお祭りは行われませんでした。
上社の場合、トレーラーで川越の地点にまで、8本とも持ってこられました。
史上初めてのことと思います。
良い意味での史上初ではないことだけは確かなのが残念です。
氏子たちによる山出しが行われずに、丸太が8本横たわっている場所を確かめに行きました。
地元の方々なのでしょう、見学者が後を絶ちません。
住民の関心の高さがうかがえます。
この場所から上社までの〈里曳き〉は氏子連により行われることが決定したようです。
どんな熱気が見られるのか楽しみです。