長門牧場

8月上旬。
家族と娘一家が山小舎にやってきました。
5泊してゆきました。

孫たちが滞在中に必ず訪れるのが長門牧場。
地元長和町の株式会社組織の観光牧場です。

標高1400メートルの高原に、東京ドーム45個分の敷地を持っています。
観光用には牛、馬、羊、アルパカなどの餌やりや乗馬体験などができ、レストハウスや売店があります。
ソフトクリームのおいしさが地元では有名です。

牧場の名称は旧町名である長門町から来ているものと思われます。
合併して長和町になった現在も地元の有力企業の筆頭格です。

この日は青天。
容赦ない紫外線が降り注ぎます。
まさに高原の牧場日和、ソフトクリーム日和です。

ホルスタイン種の牛も手から草を食べる

ただただ芝生が広がるだけで子供たちはご機嫌です。
餌を求める動物がいればさらに興味が広がります。

サフォーク種の羊に餌(そこら辺の草をむしって)やり

山小舎からは車で20分ほど。
白樺湖の傍らを過ぎ、女神湖を越え、雨境峠を越えたあたりに長門牧場はあります。
かつては山小舎おじさんも、ここで春に畑の肥料用に牛糞をもらっていました。

旧制松本高等学校

戦前から戦後直後にかけて、日本の学校制は今と違っていた。
旧制中学を卒業すると、次の進学先は旧制高校だった。
旧制高校は現在の新制高校と違い学校の数も少なく、文字通りエリートが通うところだった。
現在の学校制下では大学の教養課程に相当した。

松本に旧制高校ができたのは、大正8年。
9番目に設立された官制高等学校で、地名スクールとしては初の設立だった。
地名スクールとは、設立地名を冠する学校のことで、一高(東京)から八高(名古屋)までのいわゆるナンバースクールの後に設立された学校であることを表していた。

松本のあがたの森公園に旧制松本高等学校の校舎が残されていると聞いて行ってみた。
松本駅からは2キロほど。
住宅地の中に公園がある。
その中に旧制高校の本館の一部と講堂が残っている。

本館の建物正面
本館内部の廊下

歴史を感じさせる建物。
正門から続くメインルートにはヒマラヤスギの巨木が、往時を記憶するかのように並んでいる。

本館と講堂の間のメインルート

この日、講堂では信州大学のオーケストラが練習していた。
また本館には公園事務所のほか、図書館などが入っている。
往時を偲ばせるものとしては、本館の中に校長室などが復元されている。

講堂ではオーケストラが練習中
本館にある復元された校長室

本館に隣接して旧制高等学校記念館という建物がある。
これが実にユニークな施設だった。

展示内容は広く旧制高校の歴史から、松本高校に関する様々な資料まで。
特に松本高校に関しての展示は実に念入りで、思誠寮という学生寮の部屋の再現から、山岳部の穂高岳登頂ルート再現のパノラマ模型、名物教授たちのプロフィールなどなど、これでもかと並んでいる。

寮の部屋が再現されていた(実物に比べるとずいぶんきれいであると思われる)

 バンカラ、学生自治、などというすでに世の中から絶滅した言葉があるが、例えば40年前の大学の一部には、片鱗が残っていたそれらの概念は、旧制高校から生まれたのだという。
学帽に下駄のスタイルはともかく、寮の暮らしぶりや自治などは、山小舎おじさんの世代にとっても懐かしさに満ちたものだ。

往時の松本市内の映画館前にたたずむ松高生
花街で遊ぶことも忘れなかった

「どくとるマンボウ青春記」という書物がある。
旧制松本高校OBの北杜夫による独特のユーモアに満ちた青春時代の自伝だ。

この作品では何といっても思誠寮に暮らしたバンカラ時代の描写が印象的で、ストームなど当時の寮生たちの生態のほか、名物教授たちの生態までが遠慮なく活写されている。

展示室にはビデオコーナーがあって、北杜夫のほかに映画監督の熊井啓などのOBの対談を視聴することができた。
旧校舎の庭で機嫌よく対談するOB達の映像の合間に、名物教授や世話になった食堂のおかみさんたちの話が挟まる。

談話するOB達の視聴資料。左から熊井啓、北杜夫

「どくとるマンボウ青春記」に数学の名物教授を描いた一節がある。

終戦後の春、2年生となった主人公が学徒動員と戦直後の混乱から解放されて学校へ向かうと、グラウンドでは荒縄を着物の帯代わりにした格好の人間が砲丸を投げたり走ったりしている。
なんで乞食があんな真似をしているのか、さすがに高等学校とは変わったところだ、と思った。云々

乞食に間違われたのが蛭川先生という名物教授で、生前の姿がビデオに登場する。
まさか「どくとるマンボウ青春記」に出てきた名物教授の実物を映像で眺められるとは!
一読者としても感無量であった。

これが伝説の蛭川先生の晩年の姿だった・・・

思誠寮の建物はすでに取り壊されて駐車場になっている。
本部と講堂以外のスペースは公園として市民の憩いの場となっている。

市民とOB達の旧制松本高校への思いは、資料館に簡潔に濃縮された形で強烈に残っていた。

寮があった場所は駐車場になっていった
公園の一角に立つ松高の記念碑
一帯はあがたの森公園として保存されている

松本スイカ村

松本周辺はスイカの産地。
松本市波田地区などが名産地として有名だ。

JA松本ハイランド和田支所では、毎年7月から8月にかけて、スイカ村が開かれる。
農協の集荷場に生産者がスイカを持ち寄り、農家ごとに運営する直売所に地元客などが並ぶ、松本地区の夏の風物詩だ。

山小舎おじさんはある年のラジオのローカル放送で、スイカ村のことを知り、その後は毎年のように通っている。

松本のスイカは美味しいらしく、娘がつわりの時に送ると、「これだけはのどを通る」と喜ばれた。

おととしだったか、山小舎に集まった家族を連れて訪れると、いつもずらりと並んでいるスイカの姿がなく、客の姿も閑散としていたっけ。
聞くと天候不順で収穫量が少ないとのことで、買えなかった。

今年はどうか?
8月に入った1日、毎年の風景に誘われるように、暑い暑い松本盆地へ向かった。

山小舎から上田エリアへ下り、鹿教湯温泉わきの三才山トンネルを通って松本エリアへ入る。
市街地を迂回して、上高地から流れる梓川に沿って南下し、目指す、JAハイランド松本和田支所へ向かう。

夏雲をバックに流れる梓川

日曜日とあって、広いJA構内は客が集まっている。
直売所のテントは数張りあるが、客が集まっているのは毎年同じテント。
期待通りの風景が展開している。

一番人気のテントに今年も並ぶ。
次から次へとスイカが売れてゆく。

L玉を2個買う。
かつては1600円ほどのL玉が今年は1900円だ。

スイカ村ならではの、集荷場にずらりと並んだスイカの列。
暑い中集まってはスイカをぶら下げて帰ってゆく人々。
今年もいつもの風景が見られて安心した。

スイカは今週山小舎にやってくる、家族と娘一家へのお土産としよう。

一番人気のテントに並ぶ
テント内ではおばさんたちが懸命の客あしらい
集荷場でも大忙し
直売所への出荷を待ち受けるスイカの列
今年もスイカ村は盛況だった
L玉を2個買ってきました

野菜の出荷は朝に

標高1400メートルに近い山小舎から、標高700メートル台にある畑まで軽トラで20分ほどかかります。
のんびり走ればもっとかかります。

夏野菜の出荷シーズン真っ盛り。
週に1、2度の出荷をします。

去年までは畑作業の都合に合わせて、夕方などに出荷していました。
本来は朝に収穫するのがいいのですが、行きかえりに時間がかかる畑なので、行った以上はほかの作業も併せて行うことが多く、作業の最後に収穫してそのまま出荷することが多かったのです。

今年の夏は山小舎周辺もカンカン照り。
標高1400メートルの山小舎周辺でも、外に出て日差しを浴びるのが苦痛なほどの日が続きました。

そんなときは、標高700メートル、灼熱の畑作業などもってのほか。
野菜たちも葉っぱがヘタるのはもちろんのこと、ナスなど実がふわふわしているような気がするのです。

そんなことで、今年からは頑張って収穫、出荷は朝のうちに行うことにしました。

朝。
刻一刻と日差しがきつくなってきます。
まずインゲンから収穫します。
この日はボール一杯採れました。

インゲンは今を盛りと成っています

次にキューリ、ナス、トマト、ズッキーニの畝へ。
大きくなりすぎたズッキーニ、キューリもとにかく収穫してしまいます。
収穫後の野菜は、直射日光に当てないように注意します。

この日の収穫。ナスを初出荷しました

収穫した野菜を段ボールに詰めてゆきます。
大きなものは新聞紙に包んで、段ボールの中での結露に注意します。
インゲンやミニトマトはビニール袋を使います。

去年までは小分けして荷造りし、また値段もこちらで決めていたのですが、今年からはなるべく小分けせず荷造りし、値段も先方任せにしています。

この日の荷造りです
納品書を同封します

畑からさらに15分ほど走ったところにある、ヤマト運輸の営業所で発送します。
最寄りのコンビニからはクール便を受け付けてくれないので、営業所へ出向かなければなりません。

ヤマト運輸丸子宅急便センター

今年も山小舎おじさんの野菜を「消費者」が待っているとのこと。
「生産者」としては大きな励みになります。

ニンジン種まき、ジャガイモ試し堀り

秋の収穫に向けてニンジンの種まきをしました。

品種にはこだわらず、地元系の安めの種を選びました。

例年8月になってから蒔いていたのですが、地域の畑をやっている人のフェイスブックを見ると、もう蒔いていたので今年から7月中に蒔くことにしました。

今年蒔いたニンジンです

ためねぎを収穫した後の畝を除草し、大まかに畝を立てます。

今までは発芽のために水をまいたり、新聞紙をかぶせたりしていたのですが、今年は「ガッテン農法」の教えを遵守。種まき後にしっかり足で鎮圧するだけの方法にしました。

炎天下の土は表面はカラカラですが、鍬で起こすとほどほどに保水されており、大丈夫ではないかと・・・。
無肥料です。

雑草をどかして畝を用意
蒔いた畝を何度も踏みしめます

ジャガイモの地表部が枯れてきました。
7月は高原でもジャガイモの収穫時期です。

試し掘りしてみました。

地表部が枯れて、雑草に埋もれたジャガイモ畑

インカの目覚めという品種の畝は地表部が枯れ切って掘り起こしを待っています。
残念ながら芋が小さいものばかりでした。
肥料が必要な品種だったのか?何かが合わなかったのか?

男爵も収穫時期です。
一株掘ってみると小ぶりながらまあまあの芋が出てきました。

今月中には収穫したいと思います。
一部は来月やってくる孫たちの収穫体験用に残しておきます。


男爵を穂と株試し掘り

黒四ダム

令和3年7月中旬。
家族が山小舎に来たので、黒部まで行ってきました。

絶景地として名高い黒部ダムを見たかったのです。

今回は黒部第四ダムを見て引き返すルートにしました。
黒部立山ルート全体は、長野県信濃大町から富山県までですが、富山まで行ってしまうと帰りが大変なのです。

山小舎から長野側の出発点、信濃大町・扇沢までは車で行きます。

高速・安曇野インターを降りて、北アルプスのふもとの田園風景の中を扇沢を目指します。
扇沢は観光道路・黒部立山アルペンルートの基地でもあり、北アルプスの登山基地でもあります。

ここまでの道路は交通量も少なかったのですが、扇沢の駐車場はほぼ満車の状態でした。
観光客のほかに登山客の姿も目立つ扇沢駅です。

扇沢駅のバス駐車場
駅の券売所。登山姿も目立った

ここから電気バスでトンネルをくぐり黒四ダムを目指します。
最近までトロリーバスが走っていたルートです。

一車線の幅のトンネルがダムまで続きます。
途中一か所、バスが交差できる幅になっています。
一度に3台ほどのバスが発車しますので座ってゆけました。

電気バスの発車を待つ乗客
黒部ダム行きのバス

15分ほどの乗車時間の間に、破砕帯現場や富山との県境を通り抜けます。
黒四ダムというと、当時最大級の土木的国家事業の現場として、まさに昭和の「プロジェクトX」の歴史的モニュメントでもあるわけですが、その中でも最大の「プロジェクト」として伝えられる、トンネルの破砕帯突破という話の舞台は、このトンネルのことなのでした。

夏とはいえ半袖では涼しすぎるくらいのトンネルを抜けると、黒部ダム駅です。
階段を上がると眼下に黒四ダムの景観が現れます。

黒部ダム駅からひたすら階段が続く
展望台からダムを見下ろす

健脚向きの階段を上がり降りして、黒四ダムの全貌を眺めます。
目を上げると、北アルプス・白馬岳や立山連峰の姿が遠望されます。

一番下の展望台へ下ってゆくと、ダムの観光放水を比較的間近に見ることができます。
標高が高いので紫外線高めの日差しが降り注ぎます。
まぶしく暑い世界です。

ダム湖を展望
この時期は観光放水が行われている
一番下の展望台からの風景
ダム工事に使われたという工具が展示されている

一角にダム建設の様子を展示する施設がありました。
トンネル、ダム建設前の黒部の様子や、建設中の記録がパネル展示されています。

壁のようにそそり立つ北アルプスの奥地になぜダムを建設しようとしたのか?はこれらパネルを見終わっても、その理由は判然としませんが、こういった無茶な、歴史的な工事が許され、行われた歴史的事実は記録され、記憶されるべきなのでしょう。

資料館の入り口
工事前の黒部の景観に驚く
工事初期の人力輸送の様子
有名な破砕帯突破の様子
映画「黒部の太陽」のパネルもあった

黒部立山アルペンルートを富山側に進むなら、ダム駅から乗り換えです。
我々は1時間ほどダムを見て、扇沢駅へ引き返します。

ひたすら暑い、梅雨明けの安曇野を走って家路につきました。

土留め工事でDIY!

気になっていたベランダ下の土留め工事をしました。

畑にもいかず、バイトにもいかず、雨も降らない一日。
梅雨の晴れ間。
稀有な作業日和です。

ベランダの軒下。
家から続く土台は傾斜が緩い部分にしかありません。
斜面がきつい部分には、ベランダを支える柱こそコンクリートの土台に乗ってはいますが、そのほかの部分は土台がなくむき出しの地面になっています。

外部と軒下の境界には、以前、鉄柵や古いアルミ戸などが埋められて土留めとしていました。
土留め外側の材木が腐ったため、それらの古い土留めを取り去りっていました。

古い土留めを取り去った状態の軒下

新しい土留めを作ることにしました。
作り方は、ネットを見たり大工さんに聞いたりして、ブロックとコンクリートを使って作ることにしました。

ブロックを二段重ねにし、水平に埋めることにします。
斜面なのでブロックは段々になります。
ブロックの土台には砂利を敷きます。
またブロックが倒れたりしないように、ブロックの穴にアンカーを通し、その穴をセメントで埋めようとおもいます。

今回、8個のブロックと、8キロのセメント、4本のアンカー、16キロの砂利を用意しました。

タコ糸を張り、それに合わせてブロックを埋める穴を掘りました。
ところが地面は大きな石が埋まっていました。
何とか石の周りを掘って石にロープをかけ、軽トラで引っ張って起こしました。
一度起こしてしまえば、斜面を転がして石をどけることができました。

何せ、斜面であり、軒下の天井が低いので作業が大変でした。

何とかブロックに合わせて4段の穴を掘り、砂利を敷き、微調整しながらブロックをセッテイングしました。

ブロック一段目をセッテイング

水平をとるのが難しいのでたびたび微調整しました。
本式でやるには水準器が必要でしょうが、そこまでは・・・。

一段目を埋めて固定する。この段階での水平が大事

セメントをこねて、2段目のブロックの接着に使いました。
砂利がいらず、水で溶くだけのセメントです。
4キロの袋で水を800ccほど入れて混ぜます。

インスタントセメントをこねる

ブロックの穴にアンカーを通して地面に打ち込みました。
石などがあってアンカーが通らないと困るので、あらかじめアンカーを打って確認しておきます。
アンカーを通したブロックの穴にもセメントを流し込みます。
8キロのセメントでは足りませんでした。
後日追加しなければなりません。

二段目のブロックを固定、アンカーをセメントで固定する

何とか土留め工事の完成です。
凸凹があり、完全な水平が取れない工事でしたが、ほぼ人生初めての土木工事としてはこれでも満足です。

何とか土砂に流入は防げるか。最終的には板で空間を塞ぐ予定

土留めの外側には、大きめの石を敷いて、階段替わりにします。
ここには屋根からの雨水が落ちる地点なので地形の保全のためにも石を敷いておかなければなりません。

まだまだ未完成だが外側にも石を配列して階段とする

出荷第二弾

子供の誕生会で帰宅した山小舎おじさん、畑に行ったのが一週間ぶりでした。

ケールを植えたトンネルでキリギリスがお出迎え
コンニャクの芽が出ました。収穫は3年後?
鹿に穂先をつまみ食いされた菊芋は完全復活です
甲州トウモロコシ。この勢いは素晴らしい!
大豆です。丈が伸びすぎています。前年の肥料分が残っていたのでしょうか?
ズッキーニは今年も元気です
かぼちゃ。親ずるを摘心した後は放っておいています


1週間ぶりに畑の恵みです。
キューリが20本、育ちすぎたズッキーニが7,8本採れました。

太くなりすぎたキューリも皮がやや硬いものの、香りが高く、実は柔らかく仕上がっています。

インゲンが採れはじめ。
明らかに大きくなりすぎたインゲンですが茹でて食べてみると思ったより柔らかく食べられました。

調布柴崎の彩ステーションに出荷しようと箱詰めしましたが、クール便の制限重量15キロをオーバーしてしまいました。

巨大な採り遅れズッキーニが一山
キューリは採り遅れても品質に自信あり!です
インゲンも初収穫


これからの出荷を待つ野菜たちです。

ミニトマトが色づき始めました
ナスは実が付き始めました
実がぶら下がっているキューリ


キャベツです。
3か月近くたっても巻いていません。

明らかに遅すぎます。
初期の段階での栄養不足なのでしょうか?

ただし、べと病などが一切出ていません。
隣の畝のレタスはべと病が発生しました。

生育は遅い(もう手遅れ?)ものの、本来の耐病性は十分に発揮されているということなのでしょうか?

定植後3か月目のキャベツ。そのココロは?

「松竹大船大島組・プロデューサー奮戦記」

先日、松竹映画の最高責任者だった、城戸四郎の伝記を読んだ。
その中で最も印象に残ったのが、松竹映画退潮期のころの描写だった。

昭和30年代前半には映画人口が減少に転じ、松竹も例外ではなかった。
伝記における、その時代の城戸ら経営者のふるまいの描写は歯切れが悪かった。
彼らから従来の「大船調」を越える発想はなく、業績の悪化におろおろし、部下が上げてくる企画には辛辣に対応する姿が見えるだけのようだった。

「松竹大船大島組」という本がある。
まさに混乱期を迎えようとしていた昭和34年に本社人事部門から、大船撮影所にプロデユーサーとして転勤し、3年後に再び本社に戻っていった、若き松竹社員の自伝である。

そこには、会社の変革期を迎え、若き人材として畑違いの現場に放り込まれつつ、もがき、奮闘した濃縮した時間があった。

本作は、松竹映画「変革」の時代を、現場の視点から、それも城戸ら経営者と対立したディレクターたちの側からでなく、城戸の部下でもありかつデイレクターを補佐する制作者の側でもあるプロデユーサーからの記録として、第一級の歴史資料でもあった。

昭和34年、社内の他部門から2名の若手社員がプロデユーサーとして大船撮影所に転勤した。
著者ら当事者たちにとっても青天の霹靂の人事異動だった。

着任早々、守衛にいぶかしがられ、庶務のおばさんにあしらわれ、現場のスタッフからは帰れコールが起きた。
撮影所は映画製作に情熱を傾ける芸術家、職人たちがとぐろを巻く特殊な世界だった。

当時、城戸四郎ら松竹の経営陣は、会社はこのままではいけないと思っていた。
松竹映画の退潮は、他の娯楽の台頭や、太陽族映画や錦ちゃんブームなど他社映画の台頭などがその直接原因だとしても、「大船調」にどっぷりつかった松竹の体質によるところが大きい、と自らも分析したようだ。
そのための「ショック療法」として若い社員を撮影所に送り込み、体質改善を図ったのだ、と著者は撮影所長から説明を受ける。

著者はまた、所長から松竹映画の問題点について質問され、答える。
曰く、若さがない、眠れる獅子、ワンパターン、時代に乗り遅れ・・・。
それは恐らくは社員全員が(城戸四郎を除き)共通認識としていたところのものであったろう。

当時30歳の著者は、撮影所内の若手のリーダー格に目をつける。
ディレクターシステムをとる松竹では監督の権力は絶大だ。
大監督には決まったプロデユーサーがすでについている。

そこで目をつけたのが当時20代の助監督だった大島渚。
助監督部発行のシナリオ集で大島の作品を読んでおり、新人俳優紹介の「明日の太陽」という大島が演出した短編を見ていた著者は、大島に面会する。

著者のプロデュース作品の一つ

ここから自伝はめまぐるしく展開する。

大島と意気投合したかに見えてどっこい、コイツは何を考えているかわからない奴だった。
著者は大島に脚本執筆を依頼した企画を2本続けて、所長から没にされてしまう。

大島(と共同執筆の野村芳太郎監督)はあえて、実現しない内容の脚本を書き、著者をプロデユーサー失格者として本社に送り返そうとしていた!のだ。
まさに大船撮影所を挙げての新人プロデユーサーいびりである。

その試練を乗り越え、大島らと和解(著者の人柄の良さを大島らが理解して和解の席に誘った)した著者は、大島のデビュー作「愛と希望の街」から、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」と、大島の松竹時代全作品を制作することになる。

「愛と希望の街」では所内試写の後、城戸四郎が自ら出席して、木下恵介ら主要監督と、作品スタッフを招集。
面前で作品評価をイエスかノーかで表明させる事態となる。
城戸を忖度した全員が「ノー」の評価を下す中、作品助監督の水川淳三だけが面前で「これだけの作品は今までの松竹にはありません」と答える。

作品の制作者でありながら、御前で「ノー」と言わざるを得なかった著者は後で水川にイエスといった理由を尋ねる。
水川は「大島を松竹の監督としてみるか、世界の大島渚としてみるかの違いだよ」と答える。

「青春残酷物語」の制作が決まり撮影が開始される。
監督の大島をはじめ、撮影の川又昂などのスタッフ、出演の桑野みゆきなどが醸し出す熱気と勢い。
試写では大島、桑野、川津祐介が正装で現れ、試写後は場内に万雷の拍手。
興行は劇場のドアが閉まらないほどのヒットとなった。

自らのパワーと明るさを、時代の観客が欲する姿に具現化して提供できる力量とカリスマ性をキラキラと(ギラギラか?)発揮する大島はこの時点で松竹の希望の星になった。

松竹待望の若きヒットメーカー大島の長編第2作の2か月後の封切りが決まった。

「太陽の墓場」はオリジナル脚本による釜ヶ崎を舞台にした人間劇だった。
主演に炎加世子という浅草の踊り子出身の女優を抜擢。
釜ヶ崎ロケの空気感、わき役陣の存在感なども効果を上げこれもヒット。
さらに2か月先に「大島次回作品」の封切りがスケジューリングされた。

力道山と丸山明宏のツーショット。これも著者の制作作品

そして問題の「日本の夜と霧」。
さしもの大島でも2が月ごとの新作公開ではネタがなくなり、シナリオ集の「深海魚群」をとりあげることにした。

決定稿ができないままの段階で本社役員会議に呼ばれた著者は、どんな作品かと聞かれ、結婚式で二人の過去がばらされる話・・・と大島に言われた通りのことを話すと役員たちは納得し、期待したという。

決定稿を読んだ著者が制作に難を示すが、大島は「これをやらないと前へ進めない。やらしてくれたらまた会社が儲かる映画を作る。予算3億円を8千万で収める」と反論。

著者にとってこの作品は、内容が理解できないうえに、興行的には全く期待できず、社員を裏切る結果になることはわかっているものだった。
所長に相談するが、大島がやりたいならということでゴーサイン。

撮影が始まったがスタッフの顔が暗く躍動感がない。
当たる作品とそうでないときにはスタッフの活気や意気込みが違ってくるのを著者は目の当たりにする。

上映中の劇場に行って著者が見たものは、20名ほどの観客が三々五々途中で出てゆく姿と、旧知の劇場支配人が「大島さんがこんな映画作ると思わなかった、君この映画わかるんだったら教えてくれよ…」という言葉だった・・・。

著者は責任を取って辞職すら考える。
大島の信念に対する責任ではない、ヒットしない映画と分かりながら何もできなかった制作者としての自責の念からであった。

「日本の夜と霧」の上映打ち切り後、並行して進んでいた、著者制作、石堂淑朗第一回監督作品「チンコロ姐ちゃん」も制作中止となった。
大島と小山明子の結婚式が松竹首脳部への糾弾集会のようになり、経営陣に大島一派をかばう人間がいなくなった。
大島渚、田村孟、石堂淑朗らは松竹を退社した。

富永一郎の人気漫画の映画化も企画していた

松竹激動の時代をまさにピンポイントで駆け抜けた著者。
人柄がうかがえるような筆致で映画の現場を描写しています。
完全に映画人になり切れていないところが逆に描写の信ぴょう性を付与しています。
素人に近い常識人としての感性がうかがえます。

それにしても稀代の映画人にしてタレントである大島渚の松竹時代全作品に制作者としてついていたとは!
直木賞作家の高橋治が松竹の助監督だった時に「東京物語」にサードか何かでついていた、ただそれだけで、後年外国での小津関連の映画祭でビッグネームとして遇された、ことに匹敵する得難い経歴です。

著者のプロフィール

昭和34年当時。
松竹退潮の時代を迎え、経営者が、「松竹自体に問題がある」と分析し手を打ったことは評価できます。
変革のターゲットを、良くも悪くも松竹映画を象徴する撮影所部門としたことも。

ただ、撮影所が若手社員一人や二人の人事交流でどうにかなるほどのヤワなものではなかったことと、肝心の経営者そのものが「大船調」を越える発想を持たなかったことが、結果につながらなかった理由なのではないか、とも思います。
正確に言うと、「大船調」にこだわる城戸に逆らう経営者が出てこなかったということなのでしょうが。

大島が「日本の夜と霧」にこだわった理由が今一つ判然としませんが、案外、ネタ切れになり、また緊張感ある現場が続いた新人監督にとって、2か月ごとのローテーションを強いる会社への一つの回答だったのかもしれません。
そこには、大島が「これをやらないと前へ進めない」というほどの強いこだわりと信念がありました。

「日本の夜と霧」は、学生運動から続く左翼活動への大島の意思表明をのみ唯一のテーマとした稀有な作品として、大島渚の代表作の一つとして残りました。
しかしながら、時代を先取りし、大衆を扇動せんばかりにその嗜好を読み取ることのできる、「有能な映画監督」としての大島はそこにはいなかったのです。

人間性と常識性に恵まれた新人プロデユーサーであった著者は、大島という稀有の存在を世に出すにあたって、その全部を理解することはできなくとも、「有能な監督」としての大島への共感力に恵まれ、邪魔もせず、言わば大島にとって願ってもない相性の存在だったのかもしれません。

中山道シリーズ第六弾 下諏訪宿

中山道下諏訪宿の面影を訪ねに下諏訪町に行ってきました。

広重画「下諏訪宿」

下諏訪宿は中山道を京に向かって、和田峠を越えたところ、現在の長野県小県郡から諏訪エリアへ郡をまたいだ場所にあります。

また下諏訪宿は甲州街道の最終地点でもあります。
現在でも国道20号線(甲州街道)は、塩尻峠を越えた地点で、国道19号線と合流し、その役目を終えています。

軽井沢で峠を越し、佐久地方を進んできた中山道が、いよいよ諏訪という信州の一つの中心地に降り立ち、木曽を抜けて中部地方へ向かわんとする起点の場所が下諏訪宿なのです。

現在の中山道下諏訪宿

また、下諏訪の町は諏訪大社の下社を中心とする町でもあります。

下社は、諏訪市、茅野市にある上社とは、覇権を争い、対立してきた歴史があります。

「国譲り」で高天原系の神様に追われた、出雲神がのがれてきて、地元の土着神(モリヤ神)と戦ったのは上社に於いてのことであり、神長・守矢家と大祝・諏方家が続いてきたのも上社周辺での話です。

つまり、肉食・狩猟系のバリバリの諏訪の神様らしいのは上社のことなのです。
では、下社とはいったい?

宿場街道資料館

旧中山道のメインルートに資料館がありました。
旅籠だった古民家を保存し、その時代の民具を展示したり、下諏訪宿の当時の歴史を展示しています。

資料館の外観。七夕篝もある
建物の上り口
はたごの看板も並んでいる

思いのほか細かい展示物に感心しました。
当時の文化、風俗の再現が細かくなされています。

皇女和宮の降嫁も幕末当時の中山道にとっては、経済的負担も含めて歴史的なイベントだったようで、資料を駆使して展示されています。

当時の備品も展示
当時のはたごの食事を再現。実際よりはかなりいい?
下諏訪温泉が番付・小結だったとは高評価!
和田峠が街道随一の難所だったことがわかる

街道点描

本陣、甲州街道との合流地点の碑、などを見てゆきました。

本陣の建物
甲州街道との合流地点
錦絵に残る温泉があったところ

下諏訪は今でも温泉の町。
温泉旅館や立寄り湯などが町内に点在します。

立寄り湯が並ぶ坂道。温泉街の風情が残る

地元出身の女流歌人・今井邦子という人の実家が保存されており、資料館になっています。

今井邦子資料館。地元出身の女流歌人の生涯

青塚古墳

旧中山道の1本裏に諏訪地方唯一といわれる前方後円墳があります。

誰が埋葬されているのかはわかりません。
埴輪などが出土したそうです。
現在は市街地に飲み込まれてひっそりと存在しています。

信州は古墳が多い場所で、中央との結びつきを推測させる前方後円墳も見られます。
大和地方のそれと異なり、まったく歴史の闇に埋もれてしまっている古墳たちです。

古墳全体が神社になっています
石棺の入り口でしょうか?
草で判然としませんが、後円の頂に立って前方を見ています