暑かった令和5年の夏。
9月下旬になりました。

大気の入れ替えで山小舎周辺の空気が秋の空気に替わりました。
朝晩はストーブをガッチリ焚いています。
昼間は日差しが強い日でも、午後2時を過ぎると冷たい空気が吹き始めます。
雨が降ると肌寒くなります。

木々の葉も成果のころと比べると勢いがなくなりました。
紅葉の季節がすぐそこです。

屋外の活動がしやすいころとなりました。
今のうちに仕事を進めておかないと、屋外活動が寒かったり、冷たかったりの時期があっという間にやってきます。
60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
暑かった令和5年の夏。
9月下旬になりました。
大気の入れ替えで山小舎周辺の空気が秋の空気に替わりました。
朝晩はストーブをガッチリ焚いています。
昼間は日差しが強い日でも、午後2時を過ぎると冷たい空気が吹き始めます。
雨が降ると肌寒くなります。
木々の葉も成果のころと比べると勢いがなくなりました。
紅葉の季節がすぐそこです。
屋外の活動がしやすいころとなりました。
今のうちに仕事を進めておかないと、屋外活動が寒かったり、冷たかったりの時期があっという間にやってきます。
さて路線バスと列車の乗り継ぎで大月まで来ました。
乗り継ぎ地点に来るとまず調べるのが、乗り継ぎのバスと列車の時刻。
まずバスの時間を調べます。
大月駅前にある観光案内所。
相模湖や藤野に比べてもこじんまりとしたスペース。
対応した女性はホスピタリテイに溢れており、下りのバスの時刻を問う山小舎おじさんに間髪を置かず「笹子までしかありませんけど」との回答。
時刻は13時30分、駅前の2番乗り場から富士急バスとのこと。
ありがとうございます。
ついでに駅から国道20号線に出てすぐの食堂について聞く。
「〇〇さんですか、やってます」とにっこり。
思えば首都圏から富士山観光の中継地点とて、近年では外国人観光客の姿が途切れない大月駅。
外国人への対応でも安心感のあるだろう観光案内所のお姉さん。
この日も到着したバスから降り立つ、アジア系の一家の姿を見掛ける大月駅前でした。
30分ほどの時間の間に目指す食堂へ。
20号線を走っていると目立つ店です。
入ってみると客はなく、大将が接客も担当の店。
おすすめというラーメンセットを注文。
バスの発車まで15分の間にかっ込みます。
ラーメンのスープはいつまでも飲みたくなる手作りの味。
チャーハンの出来もそつがありません。
バスの時刻まであと5分を残して店を出、駅前まで大急ぎ。
目指すバスのに乗車しました。
バスは新田行き。
念のために乗車するおばさんに聞くと、笹子を通るとのこと。
乗客数人を乗せて発車します。
大月観光所のお姉さん、食堂のおじさんありがとう!
バスは中学校と病院に寄った後は20号線をまっすぐ西へ。
自分が運転しているときには気がつかなかった沿道の風景が目に入る。
高速道路より、列車の方がより地域に密着しているが、路線バスが公共交通では断トツに地域密着しているのだと実感。
バスの路線は目的地までの最短ルートではなく、集落や公共機関など地域の住人に必要な場所を縫ってゆく。
旅行者がまずはいることのない国道から外れた集落など、路線バスに乗らなければ訪れることもないだろう。
やがて酒蔵や力餅などがある笹子の集落を過ぎ笹子駅前バス停に到着、下車。
バスはこの先、国道20号から旧道にそれ笹子峠下の最後の集落に向かうのでした。
無人駅の笹子駅で列車の時刻を確認。
長野行き14時50分の連絡までは40から50分の時間がある。
酒蔵方面にぶらぶら歩いてゆく。
笹一酒造という笹子の造り酒屋。
20号線を通るたびに、また中央本線を列車で行くたびに、その巨大な白塀が目に入る存在。
広い駐車場を持った蔵元ショップも気になっていた。
ショップに入ってみると右手にカフェ、左手にショップ。
広すぎる空間にそれでも客が2,3組。
時間つぶしにショップをうろついていると、仕事熱心な店員のお姉さんが近づいてきた。
試飲を進められ、ワインと日本酒を2,3杯。
2023年物のワインの新酒が出ていると聞き、また酒蔵限定の日本酒が気になっていたので計2本を買ってしまう。
試飲の感想をいちいちお姉さんに伝えると「私よりコメントがうまい」というので「その分歳食ってるから」と応えておく。
無人の笹子駅に戻り、長野行列車の乗る。
茅野駅着は16時57分。
降車ホームは下校の高校生であふれていた。
北海道への墓参旅行を終え、さらに1週間ほど自宅に滞在した山小舎おじさん。
9月下旬にもなり、そろそろ山小屋へ戻ることにしました。
先日国道20号線を使って軽トラで自宅に戻った際に目撃した沿線のバス停や、すれ違った路線バスの存在が気になっていました。
高尾山系の大垂水峠をバスが運行していること、山梨県では山梨中央交通や富士急などの路線バスが走っている姿を目撃していたのです。
山小舎おじさんの旅心にめらめらと火がともった瞬間でした。
試しにネットで調べてみると、高尾山口から相模湖まで確かに路線バスの便がありました。
神奈川中央交通の運行で1日2便です。
八王子駅が出発点でした。
9時57分八王子駅北口発、相模湖駅行きのバスを待ちます。
北口ターミナルの5番乗り場。
乗客はほかに一人。
SUICAが使えます。
相模湖駅からは行き当たりばったりの路線バスの旅の開始です。
八王子市内を国道20号線で西に向かうこのバス。
市内でかなりのシルバーハイカーを拾ってゆきました。
全員70歳前後、男性、単独です。
一人だけ女性がいました。
京王電車の高尾山口駅では、駅前のロータリーに入ってゆきます。
ここで数人のシルバーハイカーが下車しました。
ここからバスは高尾山、小仏峠に連なる山系の峠の一つ、大垂水峠に向かいます。
中央本線と中央道は、それぞれ小仏トンネルに入る峠越です。
国道20号線は大垂水峠越のルートになっています。
大垂水バス停で残っていたハイカー全員が下車しました。
ここから大垂水峠、高尾山へと向かうハイキングルートがあるようです。
バス停もあるし、高尾山で下れば電車もある便利なハイキングコースのようです。
今度歩いてみましょう。
バスは国道を下り、相模湖の町へ入ります。
ここから藤野までは神奈川県です。
左手に相模湖の姿が見えてきます。
やがてバスは国道を右折して中央本線相模湖駅に着きます。
終着です。
運賃は800円ほどでした。
相模湖駅前のロータリーにある観光案内所に飛び込みます。
この先の路線バスを訪ねます。
藤野までは便があるとのこと、11時50分発とあと30分ほどの連絡です。
ほかに地域の観光情報なども仕入れます。
相模湖と甲州街道小原宿が2大観光場所のようです。
バスを待つ間、駅前を散策。
駅前には土産物屋が1軒健在。
食堂も2,3軒あるようです。
ほかには洋品店、酒屋、薬局などが点在。
国道20号線沿いには商店街らしき風景はありませんでした。
さて11時50分発の藤野駅行きに乗ります。
藤野は相模湖の次の中央本線の駅。
あっという間の到着です。
ここまでが神奈川県で神奈中バスの範囲はここまで、というのはわかりますが、もうちょっと遠くまで行ってほしかったのが偽らざる気持ちでした。
コンパクトできれいな藤野駅で列車の時刻を確認します。
バスがない場所は列車で行くしかありません。
歩いて次のバス停まで行くのはテレビ番組に任せます。
藤野駅にも観光案内所はありました。
地元の産品や手作りの情報が満載のコーナーで女性が一人でやっていました。
おやきなども売っており、そろそろおなかがすき始めた山小舎おじさんですがここは我慢。
大月行きの列車に乗り込みました。
2日目
根室の朝を迎えた家族一行。
まずは花咲港へ向かいました。
目的は花咲ガニラーメンとチャーハン。
これを朝食代わりにし、花咲ガニのお土産も、ともくろんでのもの。
ロシア語の道路標識が国境の町感を強烈に感じさせる花咲港の片隅に目指す店はありました。
ここで名物のラーメンとチャーハンを分け合って食べ、花咲ガニを自宅に送付。
ロシア後の看板を眺めつつ港内をひとめぐり。
次いで、市内の魚信という魚屋でサンマを、甘太郎という今川焼やで甘味を、マルシェという地元御用達のスーパーで、ホッケ、いくらなどを買い込み、順次自宅に送りつけました。
これらの情報は家族が事前に調べたもの、根室といえば海産物、しかもサンマの時期とあって買い物にも気合が入ります。
根室に別れを告げ次の目的地、野付半島を目指します。
根室半島を釧路方面に戻りつつ、風連湖を回って北上、根釧台地の東端を走ります。
海辺の湿地帯とシマエビ漁で有名な尾岱沼を通ります。
立派な漁港がありました、今は秋サケ漁が盛とのことでした。
やがて野付半島の付け根に到着。
かつては日本の秘境といわれた野付半島。
砂嘴で形作られた半島の先端には、海水の中に枯れたトドマツが立ち尽くすという最果て感そのものの風景・トドワラで有名です。
半島には自動車道路が先端まで通り、観光客も集まるのですが、トドワラまでの間は徒歩かトラクターバスで行かなければなりません。
トラクターバスの出発地点には立派なビジターセンターがたち、売店、食堂もありました。
日が強烈に差し込むトラクターバスの揺られてトドワラへ。
木道を少し歩くと立画れたトドマツが数本立ち尽くす風景がありました。
秘境感もありますが、海に向かって数本の木が立っている風景は北海道らしい開放感に満ちたものでした。
野付半島から内陸を目指し本日の宿、養老牛温泉へ。
中標津町にある温泉で、だいいちという宿です。
17年ほど前にも家族で訪れ、そのサービスの良さ、食事の良さに大いに満足したことのある旅館です。
この日の夕食はメインがヤマベの塩焼き。
キンキのから揚げあんかけや花咲ガニの釜めしもつきました。
翌日の朝食バイキングのメニューにも満足。
温泉ともどもそのホスピタリテイに大いに癒されました。
3日目
シマフクロウの宿養老牛温泉だいいちで朝を迎えた一行。
3日目は中標津空港から千歳まで空路で移動、札幌で一泊して墓参し、帰宅の行程です。
2時のフライトまで時間があるので、隣の弟子屈町内の摩周湖に寄ることにします。
根釧台地にはまっすぐな道路が伸び、牧草畑と牧場が点在します。
小一時間走り摩周湖へ。
新しくなった第一展望台から晴れた湖を望みます。
そこそこ混んではいますが、混雑には至らないのが道内の特に道東の観光地のいいところ。
人の気配より自然の気配が圧倒的です。
中標津からはプロペラ機で移動。
2泊3日の道東旅行を終えました。
故郷の墓参りを兼ねて北海道東部へ行ってきました。
結婚以降37年、ほぼ毎年家族で帰省している北海道。
両親の没後は墓参りも兼ねて、家族ともどもの帰省は毎年の恒例行事になっています。
今年は道東を経由した3泊4日の旅となりました。
1日目
朝7時40分の飛行機で羽田から釧路空港へ向かいます。
この日の行程は、厚岸、浜中町へ寄って根室へ。
納沙布岬を見てから根室で1泊です。
釧路から根室までは100キロほどもあります。
車での移動は走りがいがありました。
道路状況はよく平均速度60から70キロでの移動でした。
釧路、根室間にはカキで有名な厚岸や、霧多布などの見どころがあります。
厚岸の道の駅によって昼食を摂りました。
この道の駅、レストランが充実しており観光客が詰め掛けます。
カキ尽くしのランチをいただきました。
晴れた太平洋ビューが広がるレストランは快適そのもの、カキもグッド。
メニューは完成度は高く、道の駅に一般的な「地元のお母ちゃんの手づくり」風なものではなく、プロの手が入った完成度の高いものでした。
厚岸という道東の歴史とともに歩んだ街並みも魅力的で、次回は厚岸の町の探訪もしてみたい、と思わせるものでした。
厚岸を過ぎ、浜中町に入ります。
途中、国道わきに1軒ポツンとあるチーズ攻防へ寄ったり、茶内という根室本線の駅を持つ地区の生協でソフトクリームを食べたりしながら道東を満喫します。
この日は日差しが暑いくらいで半袖で十分。
夏のような気候でした。
国道左手に海が見えてきます。
海ではなく根室半島の付け根に広がる風連湖という汽水湖です。
水平線の彼方に広がる海とも湖ともとれる風景に一挙に最果て感が広がります。
根室にやってきました。
このまま根室半島の北側を走り納沙布岬を目指します。
納沙布は日本最東端の地です。
北方領土を望む地でもあります。
ちらほらと観光客が訪れていたこの日の納沙布。
国後島の山影がうっすら見えます。
その手前には納沙布から4キロ弱にある歯舞諸島の小島の真っ平らな島影も。
国境の町という日本では貴重な場所に建ち、高揚感を隠せない家族たち。
近くにある北方館という施設に入り、北方領土の歴史的位置づけを勉強。
2階の無料の望遠鏡で歯舞諸島や国後島を望みます。
一番近い島にあるロシア側の教会や建物なども見えました。
帰りは半島の南側を通って根室へ。
途中、納沙布行きの路線バスとすれ違ったり、野生のキタキツネを見掛けたり。
肌寒さが広がる最果て納沙布の風景に浸りました。
この日は根室市内のホテルで宿泊。
夕食は地元でも人気の回転ずし、根室花丸へ。
珍しい地元のネタに舌鼓です。
軽トラに夏の物資を積んで自宅へ帰った山小舎おじさん。
やがて賑やかな自宅に別れを告げ山小舎へと戻ります。
戻りのルートは、奥多摩湖経由など考えましたが、天候不順で日程が一日延びたこともあり、行きと同じく甲州街道ルートにしました。
土曜日、天候は小雨、朝9時ころ中央道調布インターへ。
都内の混雑を高速道路で抜け出し、相模湖出口あたりで下道へ下りるつもりでした、が。
840円ほど払って調布から高速に乗った山小舎おじさんの目前には、合流地点から延々と伸びる渋滞の車列でした。
渋滞を楽しむほどの心の余裕はなく、かといって急ぐ旅でもなし。
次の府中で下道に下りて、甲州街道に入った山小舎おじさんでしたがそこも渋滞!
首都圏の土日の殺人的渋滞に恐れ入りました!
結局3時間ほどかかって高尾に到着、渋滞もなく高尾山の峠を越え、相模湖、大月と走ります。
途中、昼飯ポイントを探しましたが、大月駅前の30分無料の駐車場も満車で、首都圏の週末の生存競争の激しさにぶち当たる結果に。
笹子トンネルを抜けたところにある道の駅甲斐大和まで食事はお預けとなりました。
道の駅で一息つき、次に釈迦堂の縄文博物館に寄ってみました。
中央道の釈迦堂パーキングから見える博物館で日頃から寄ってみたいと思っていたのでした。
一帯が縄文遺跡という場所に建つ博物館。
展示内容はひたすら縄文時代の発掘物。
その収蔵点数の多さに驚かされます。
ここ、甲府盆地から八ヶ岳山麓の一帯が縄文時代の日本の中心地であったことがわかります。
中世になっても、甲斐の国の中心地はこのあたりでありました。
夕方に近くなり、暑さの残る甲府盆地に戻り、甲州街道を直走ります。
笛吹市から甲府市に至るあたりの甲州街道は、チェーン店の食堂、量販店、自動車販売店などが立ち並ぶ全国共通の無国籍な風景が展開します。
甲州街道は首都圏から信州に抜けるルートとして、県内県外のあらゆる車両を集めて甲府盆地に脈動します。
韮崎からは登坂となり、猥雑な都会の商業圏を脱し、ローカルな雰囲気へと一挙に空気が還元されます。
茅野市内で買い物を済ませて山小舎へと帰還したのは夜の帳が下り切った頃でした。
令和5年の9月初旬。
軽トラで自宅と山小屋を往復しました。
目的は、夏の農産物を思いっきり持ち帰ることです。
信州の夏は桃、トウモロコシ、セロリ、ビーツなどの農産物が一挙にあふれる時期です。
9月を過ぎるとこれらの農産物が一斉に姿を消します。
夏の農産物が全盛のうちにたっぷり自宅へ届けたかったのです。
送ったり、担いで持ち帰るのには限度があるものですから。
また、自宅までの間には山梨県があります。
夏の山梨は桃の名産地として有名です。
ブドウも出始めています。
これらもピックアップしようと思いました。
出発前に軽トラに用具を積み込みます。
保冷ボックスと保冷剤、段ボール箱もたっぷりと。
生鮮品は保冷ボックスに、果実や葉物野菜などは段ボールに入て運ぶつもりです。
山小屋から白樺湖畔を通って茅野に下り、まずは買い出しのスタートです。
茅野のたてしな自由農園で、セロリ、レタス、トウモロコシ、ビーツなどを。
Aコープ茅野店では牛肉、鶏肉のほかシイタケ、パンなどを仕入れます。
自分の昼食用の弁当も買っておきます。
燃料を満タンにして旅のスタートです。
長野県を過ぎ山梨県に入り、サントリー白州工場の入り口を過ぎ、道の駅白州が見えてきます。
寄ることにします。
入り口近くに湧き出している湧水をペットボトルに汲み、名物の山塩ポテトチップスなどを買い込みます。
暑いので山塩ソフトを食べてブレークタイムです。
ここからは甲府盆地の桃の選果場を目指してノンストップの旅です。
甲府市を過ぎたあたりの選果場に着きました。
残念ながら、この日はセリが休みで選果場も休業でした。
また桃のシーズンは終わりで入荷はほぼないとのこと。
この日にやっているのは観光向けの里の駅という甲州街道沿いの直売所くらいではないか?とのことでそこへ向かいます。
甲州街道が笹子トンネルに向かって登り始める笛吹市一宮町にある里の駅に着きます。
たくさんの観光客で賑わっていました。
桃があったのでひと個購入。
ついでにアウトレット品の葡萄の三種詰め合わせも。
何とか山梨の夏の果物も手に入ったので一安心。
昼食の弁当を食べる場所を探します。
この先、甲州街道沿いに大きな鳥居が目立つ神社があります。
日陰を探して神社に潜り込み、ベンチで弁当を広げました。
参拝客も少ない真夏の昼下がりの神社。
甲斐の国一之宮の浅間神社です。
他県ナンバーがひっきりなしの表通り(国道20号線=甲州街道)から1本入った神社界隈はひっそりとした地元の雰囲気に包まれていました。
座って休む場所も多く用意されている神社境内でゆっくりお弁当を食べ、お参りします。
この神社、本殿が鳥居から向かって左に90度の角度で鎮座しています。
諏訪大社上社本宮と同じ構造です。
浅間神社の祭神はコノハナサクヤヒメノミコト、日本書紀の神様です。
ということは、諏訪大社とタケミナカタノミコトのように、もともとの地元の神様を祀る神社に、日本書紀の時代の神様(のちの時代の支配神=コノハナサクヤヒメノミコト)を付け足しで祀ったのでしょうか?
そうなると、浅間神社とコノハナサクヤヒメノミコトの関係は、諏訪大社とタケミナカタノミコトの関係のように、いわば「後付け」の関係となりますが如何に?
初めて参拝した神社で途方に暮れる山小舎おじさんでした。
浅間神社が鎮座するこのあたりは、甲斐の国の国分寺、国分尼寺があった場所。
また、縄文時代の遺跡が発掘された釈迦堂遺跡の近くでもある、由緒ある場所なのでした。
暑い暑い日差しは軽トラの運転席にも、積み荷を満載した荷台にも降り注ぎます。
先を急ぎましょう。
前編はここまで。
ヒッチコックはハリウッド時代に世界的に花開いた大監督ですが、出身はイギリスのロンドン。
映画監督としてデビューしたのもイギリスにおいてです。
今回ご紹介するのは、イギリス時代に監督した3本。
それぞれの作品が、のちにサスペンスの巨匠といわれるヒッチコックならではの味わいを持ったものですが、同時にイギリスの風土性、文化性に彩られたものであり、これ以上はないイギリス映画らしいイギリス映画でもあるのでした。
ヒッチコックは1899年ロンドンのカソリック教徒の家に生まれ、幼少期をキリスト教系寄宿舎学校で過ごす。
理工科専門学校を経て、電信会社に就職し、海底電線の専門家として過ごす。
働きながらロンドン大学で美術を学び、演劇と映画に興味を持つ。
当時イギリスに進出していたパラマウント系のプロダクションンにタイトルデザイン(サイレント映画のセリフのデザイン)を応募し、採用され、映画界入り。
以降、シナリオ作家、助監督をしながら美術、編集にもタッチ。1925年「快楽の園」で監督デビューした。
参考文献はキネマ旬報社「世界の映画作家12 アルフレッド・ヒッチコック」とフイルム・ライブラリー助成協議会発行「イギリス映画の回顧上映1964」です。
「恐喝」 1929年 アルフレッド・ヒッチコック監督 イギリス
ヒッチコックがタイトルデザイン作家として就職した、パラマウント系のフェイマス・プレイヤーズ・プロは、撮影所をイギリスのプロデユーサー達に貸すことにし、アメリカ向けの映画製作から撤退した。
ヒッチコックに監督デビューさせたのは、この撮影所を根城にゲインズボロウ映画というプロダクションを興した製作者のマイケル・バルコンという人。
のちにハリウッドのセルズニックと組んで「第三の男」を製作した国際派のアレクザンダー・コルダとは異なり、弱小の映画製作会社を興しては、国内向けの映画を製作してきた人とのこと。
ヒッチコックはバルコンの製作により、ゲインズボロウ映画で5本監督する。
そのあとにブリテイッシュ・インターナショナル・ピクチュアズというこれまたイギリス国内向けの制作会社で10本ほど撮るが、「恐喝」はその時代の作品。
つまり、当時のイギリス映画はアレクザンダー・コルダがハリウッドなどと組んで製作する一部の映画をのぞき、バルコンなどの製作者が興した弱小プロによる国内向けの作品がほとんどで、ヒッチコックもそういった環境で映画を撮っていたということである。
のちの世界的監督のキャロル・リードやデビッド・リーンも初期には、国内向けの映画を撮っていたのである。
ヒッチコックの「恐喝」は、日本での「イギリス映画の回顧上映1964」という催しで上映されている。
探偵小説の本場であるイギリスで作られた戦前の純イギリス映画の1本として、またその当時のヒッチコックの代表作として選ばれたようである。
刑事の婚約者を持つ雑貨屋の娘が、一晩ほかの男につぃて行ったことから誤って男を殺してしまう。
真相を知るごろつきが恐喝する。
娘をかばう刑事。
状況は二転三転。
娘は警察に自首しようとするが、その時・・・。
ロンドンの下町の湿った薄暗さ。
密室で行われる不慮の殺人。
再三画面に出てくるニュー・スコットランド・ヤードの金看板とパイプをくわえた(威厳のある)上官。
金髪でコケテイッシュなヒロインとそれをかばうハンサムなヒーロー。
灰色決着ながらハピーエンドの安心感。
ブラックなユーモア。
イギリス的な、ロンドン的な風土性、精神性に彩られた作品。
イギリス的なものへの信頼に裏打ちされたヒッチコックタッチ。
ヒッチコック本人は、主人公カップルがデートに向かう地下鉄のシートで子供にいたずらされる乗客で登場。
「三十九夜」 1935年 アルフレッド・ヒッチコック監督 イギリス
ヒッチコックのハリウッド時代の名作で、ケイリー・グラントとエバ・マリー・セイントが共演した「北北西に進路を取れ」を連想させる内容。
殺人犯に疑われ追われる主人公。
追うのは正体不明の国際スパイ団。
警察は味方だが最後まで助けにならぬ。
偶然にも逃避行に同行する美女。
スリル。
思いもよらぬ皮肉な状況の変化。
まさにハリウッド時代の全盛期に豪華絢爛にスクリーンを彩った、ヒッチコック映画の原点がここにある。
市民社会に溶け込んだ某国スパイの恐怖。
それと知って近づく主人公のサスペンス。
列車での逃走劇では高所から下を見るヒッチコックお馴染みのカットも。
迷い込んだスコットランドの農家で、かくまってくれる農婦の機転で危機一髪の脱出。
スパイの親玉との対決で一度は撃たれて倒れる主人公。
万事休すか。
魅力たっぷりの美女に通報され、警察と思いきや、偽装したスパイ団に拉致される主人公。
美女も一緒だ。
手錠でつながれたままの脱出。
ホテルで一夜を明かす際のドタバタ。
ヒッチコック流ジェットコースタームービー。
この作品が純国内向けのイギリス映画だったとは!
水準が高い。
美女役のマデリーン・キャロルは、エバ・マリー・セイントとはタイプが違うが、ハリウッド映画のおきゃんでコケテイッシュな女優のよう。
冤罪で逃げ回る主人公ロバート・ドーナットはケーリー・グラントほど洗練されてはいないがイギリス的。
ヒッチコックがどこに出ていたかはわからないほど画面に引き込まれた。
「サボタージュ」 1936年 アルフレッド・ヒッチコック監督 イギリス
ひょんな弾みから殺人を犯すが、「三十九夜」同様に偶然に救われて罪には問われない(であろう)ヒロインをハリウッド女優のシルビア・シドニーが演じる。
シルビアはロシア・東欧系のユダヤ人で、ニューヨークで舞台に立っていたところをパラマウントの重席、B・P・シュルバーグにスカウトされてハリウッド入りした女優。
シュルバーグの愛人となり、「アメリカの悲劇」(のちに「陽の当たる場所」としてリメーク。シルビアはシェリー・ウインタースがやった役)、「激怒」などで売り出し中だった。
翌1937年には「暗黒街の弾痕」にも出演してキャリアの頂点を迎える頃。
このシルビアがなぜ突然イギリス映画に出たのかはわからない。
イギリス側の要請か、ハリウッド側の思惑があったのか。
ということで、どうしてもこのシルビア中心に映画を見てしまう。
意に添わぬ?40代の男と結婚し、男が経営する映画館のモギリなどをしているのがシルビアの役。
親がいないのか弟が同居している。
隣の八百屋にはシルビアに好意を寄せる売り子が働いている。
実はシルビアの夫は某国のスパイ。
八百屋の売り子はスコットランドヤードの探偵。
探偵はスパイのテロ行為を防ごうとするが、スパイ側の爆弾がシルビアの弟を巻き込んでバスで爆発してしまう。
映画館と八百屋を中心にロンドンの市中を舞台にしたドラマ。
場末の映画館のわびしいモギリ風景。
スクリーンの裏というか、裾が事務所であり、住居である。
映画館の埃ささが漂うかのような画面づくり。
シルビアが八百屋の売り子に親近感を抱き、やさしく微笑むだけに一層、情景のわびしさが際立つ。
スコットランドヤードには例によって007のボスのような威厳正しい上司がいる。
これが頼りがいがありそうで、そうでもなさそうで。
当時のパトカーが駆け付け、刑事たちがぞろぞろと降り立つシーンはどこかゆったりしており、緊迫感よりユーモアが感じられる。
これもイギリス流か。
「三十九夜」と違い、スピード感はなく暗さが目立つ。
スパイのキャラが、洒落た紳士ではなく、まるでロシア人を模したかのようにゴツイからか、それともシルビア・シドニーの演技がコケテイッシュというよりは悲劇的(逆境に暮らす薄幸な美人風)であるからか。
赤シソが出回っています。
かつて一度作ったことがある、ゆかりふりかけを作ることにしました。
ゆかりとは塩漬けした赤シソを干して砕いたふりかけで、特有の風味がごはんに合って食欲をそそります。
作り方は梅干を漬けるときに使う赤しそを取り出して干すのですが、今年は梅干は漬けていません。
ネットで調べて生の赤しそを使うやりかたを調べました。
赤しそは直売所で買ってきました。
一袋100円のものを3袋です。
葉の部分を軸から外します。
葉の重さをはかると150グラムありました。
葉をよく洗います。
次いで分量の半分の塩で葉を揉みます。
たちまち葉はしぼんでアクが出てきます。
しばらく揉んで葉が手で固められるようになったら固く絞ってアクを切ります。
固まった葉に残りの塩を入れて再び揉みます。
最初はなかなかほぐれませんが、しばらく揉んでいると水気とアクが出てきます。
これを再び固く絞ってアク出しと塩揉みの完了です。
ここに分量の酢を加えます。
梅酢があればいいのですがなければ普通の酢でいいようです。
貯蔵してある梅干の液に市販の酢を合わせて加えました。
固く絞った赤しそに馴染みずらいのですが、よく揉みこんで酢を全体にいきわたらせます。
この後は天日干しです。
細かくほぐしてザルに載せお日様の下へ。
一日乾かします。
9月の日差しでは一日でパリッとは乾かず、柔らかさが残ります。
金属のざるにあけ、鍋をかませて薪ストーブの上へ。
パリッと乾かし砕いて保存袋に入れ冷蔵庫で保存します。
このふりかけが好きな孫も大喜びです。
薪づくりの準備をしました。
8月になって、薪のために集まった丸太をチェーンソーで切り始めました。
玉切りの作業です。
そして9月に入ったこの日、切った玉を薪割り場に運ぶ作業をしました。
積み上げられた丸太と、切り落した玉が混在する丸太置き場。
残った丸太の玉切りにも支障をきたすので、玉を整理する必要があります。
玉を集めて、軽トラに載せ、薪割り作業場所に運ぶことにします。
まずは丸太置き場に散乱している玉を、道路ふちに向けて放り投げます。
道路ふちに集まった玉を軽トラの荷台に放り投げます。
重い玉は担いで軽トラの荷台に並べるように積みます。
この作業を軽トラ3台分行いました。
汗が流れ落ちます。
足元が不安定な場所での作業なので気を付けておこないます。
数年前より衰えている自分自身を痛感します。
軽トラを薪割り作業場に着けて荷台の玉を下ろします。
まず、大きくて重い玉を手前に並べるように置き、その向こう側に小さめの玉を放り投げてゆきます。
細かな枝や、腐った木材は焼却炉付近に積み上げておき、後で燃やします。
丸太置き場が少し整理できました。
残りの丸太も切りやすくなりました。
後日、チェーンソーで計1時間ほど玉切りし、切った玉を何か所かにまとめてから、薪割り機で割ることにします。また、薪割り作業場所に集めた玉は、時間のある時に斧で手割りしてゆこうと思います。