東京闇市紀行VOL2 下北沢駅前の激変

山小舎おじさんの東京闇市紀行第二弾です。

下北沢駅前の闇市は今

下北沢という駅があります。
小田急線と京王井の頭線が乗り入れている駅です。

少し前まで、この駅構内は迷路のように曲がりくねっており、線路際には典型的な闇市の風景が残っていました。

(かつて駅の入り口だった場所)

吉祥寺のハモニカ横丁をこじんまりとした、闇市には靴屋や八百屋が残っていたのを覚えています。
その後、闇市のオーナーたちは代替わりし、八百屋の代わりにカフェや飲み屋が増えていました。

今、すっかり闇市は撤去されています。


跡地は今のところ共有スペースとなり、のんびりとたばこを吸っている人の憩いの場所となっています。

小田急線は複々線化し、線路と駅は地下二階建てとなりました。

名物開かずの踏切はなくなりました。

線路跡は工事中ですがバス路線となるとのこと。

駅もすっかり近代化し、小田急線と京王線では入り口が別々になっていました。

闇市がまた一つ姿を消しました。

下北沢という町

若者に人気の街だそうでいつも人通りが絶えません。
道が狭い商店街に人があふれ、人波を縫うように仕事の車も通ってゆきます。

街は若者向けの古着屋、ファストフード店が並び、おじさんが覚えていた広島風のお好み焼き屋は今はありませんでした。

演劇の盛んな街だそうで、劇場や劇団があります。

地元に根付いた商店街ではなくて、一見さんが冷やかしで流す街という感じです。
浮ついた雰囲気は30年前から変わっていません。
「大学祭の模擬店」が常設で並んでいる感じの街です。

闇市跡もなくなり、ますます根無し草のように浮遊する町、下北沢。

目指すは「正体不明のアジア的混沌・東京味付け風」な街でしょうか。
それは「現代の闇市」ともいうべき、あさましさと軽薄さに彩られた東京の近未来図なのでしょうか。

おじさんの失敗 ブログの写真が消える

「山小舎おじさんの東京長野暮らし」のブログも100回を超えました。
読んでいただきありがとうございます。

さて、先日、過去のブログに一部訂正する必要があったので開いたところ、写真が消えている記事があることに気づきました。
写真が消えた記事は2018年12月1日付から2019年2月18日付の間のものです。

原因は、ブログ機能中の写真ホルダーのデータを、当該日付間において消したためだと思います。
写真データの一部を消したのは、新しく記事を作り写真データをブログ機能(ワードプレス)に移管する際、反応が遅かったので、てっきりデータ過剰だと素人判断の上、とりあえず、2018年12月以降の写真データを分を消したのです。
ブログ機能のレスポンスを早めるためでした。

ところがブログの写真データは、ホルダーのデータと紐づいていたため、元データが消去されたブログ掲載の写真が消えてしまったのでした。
全く素人判断は恐ろしいものです。

これから暇を見て写真の復活作業を行います。
パソコンのデスクトップに保存されている当該写真データをブログに移し、ブログの文間に写真を張ってゆきます。
できるだけ元通りに復元するつもりですが、記憶違いなどにより、若干の不手際があるかもしれません。

写真あってのブログですのでこのままにはできないと思います。
東京にいる間に作業完了を目指しています。

今後ともよろしくお願いいたします。

おじさんの東京徒歩散歩VOL.3 秋葉原から上野を歩いてみる

春めいてきた東京。
梅も散って、桜の開花待ちのころとなっています。
三寒四温の季節。
初夏のような陽気もあれば、冬のような冷たい雨が降る日もあります。
ということで、おじさんは東京らしい場所、秋葉原から上野へ出かけてきました。

出発はお茶の水。お濠と鉄橋の風景

秋葉原近くの万世橋から見たお濠の風景。
鉄橋をJR総武線が渡り、水面をモーターボートが走っています。
こういった水と鉄道の風景は、水利に恵まれ、鉄道網が発達した、東京らしい景色だと思うのです。

肉の万世の本店?というか発祥の地です。

お宅の街秋葉原にはアンテナショップが集う

土曜日の秋葉原です。
外国人も多くにぎわっています。
メイド喫茶の呼び込みが女性客と話しています。
AKB劇場。

高架線下には全国の名物を集めた物産館があります。
おじさんは石川県の特産の「いしり」(イワシなどの魚醤。汁物の味付け、和食の隠し味に絶品の効果!)と北海道産の富良野JA中濃ソースを買いました。

また、同じく高架下には、職人のショップが並んでいます。皮製品、帆布、木製品などのショップです。
今どき珍しいちゃぶ台が売ってました。

東上野のコリアンタウン(別名キムチ横丁)

秋葉原から昭和通りを東にわたり、台東区に入ります。
台東区内を北上して上野方面へ向かいます。

たい焼き屋さんによってお土産用に4匹買います。
ひとつづつ手焼きするたい焼きで、話好きなお兄さんが焼いています。
小ぶりなタイプですがあんこがうまい。一匹110円です。

東上野に残るコリアンタウンと呼ばれる場所です。
通称キムチ横丁です。
コリアンタウンと呼ばれる場所は、川崎の産業道路沿いにもあります。
今もっとも有名なコリアンタウンは大久保界隈です。

川崎は新装開店の焼き肉屋街、といった風情で、大久保はご存知韓流にはまった日本女性の御用達、といった感じですが、ここ上野のコリアンタウン、通称キムチ横丁は、戦後に「三国人」といわれた旧朝鮮人たちが作った闇市の名残をとどめているようにも見えます。

2,3区画にわたってキムチ屋、肉屋、焼き肉屋などが店を構えています。
そのうちの一角には飲み屋の路地があります。
同じく闇市由来の場所とはいえ、おしゃれに再開発されてゆく吉祥寺のハモニカ横丁などとは違い、廃れ、さびれた匂いがします。

これが旧朝鮮人街の性、業というものなのか、それとも単に時代に取り残されているだけなのか。
いずれは再開発され、周りの同化してゆく運命なのでしょうか?

上野アメ横は国際的にお祭り騒ぎ

闇市といえば上野です。
上野駅から御徒町駅の間に広がるアメ横と呼ばれる地域は、新橋や新宿、渋谷と並ぶ巨大闇市でした。

渋谷、新宿は再開発が進み、闇市の名残は一部の飲み屋横丁を除きなくなりました。
新橋は闇市がそっくりそのまま駅前のビルに収容されました。
上野は闇市由来の路面店が残ったまま今に至っています。

周辺部の商店街以外で対面販売オンリーのアナログな景色が広がる稀有な場所です。
それは、東京における東日本からの玄関口、上野の特殊性によるものなのか、それとも背後に構える浅草を中心とした下町の情念のなせる業なのでしょうか。

楽市楽座から始まったであろう、日本の小売商売の原風景のように広がるアメ横。
おじさんが歩いた日、歩く人は中国人、韓国人が3割、その他外国人が1割ほどのイメージ。
現在のアメ横は極めて観光地化されています。
中国人向けに鯉などを売っている魚屋、朝鮮語で客引きをする店員なども見られます。

国際化もインバウンドもいいのですが、日本がこれからどうなってゆくのか、近未来を予感させるような風景ではあります。
移民政策も始まります。

調布市内の谷戸(深大寺、佐須地区)の風景

春の一日。
おじさんは自転車に乗って自宅に近い谷戸の風景をたずねました。

国分寺崖線と調布(深大寺、佐須地域)の谷戸

多摩川の河岸段丘が調布市内に2段残っている。
2段目の段丘は、国分寺崖線と呼ばれる。
国分寺駅前の殿ヶ谷戸公園内の湧き水に端を発する野川が、崖線に沿って走っている。

調布の深大寺、佐須地域には、その国分寺崖線から、野川方面に谷戸の地形が形作られている場所がある。

扇央部分は、都立農業高校の農園となっており、湧き水を利用した実習わさび田が残る。

扇端へ向かう切通しの部分は公園、キャンプ場として自然が残り、扇端に至って田畑が広がっている。住宅が迫る中、23区外とはいえ、東京では貴重な風景だ。

おじさんが結婚した30年前から10年ほど、この深大寺、佐須谷戸地域のすぐわきに住んでいた。
谷戸の風景は、30年前から基本的に変わっていない。
初夏になると当時小さかった子供と、田んぼでギンヤンマを追いかけ、用水路に浸かってザリガニ、ドジョウをすくった。

その昔、中央自動車道が、国分寺崖線を斜めに切り裂いて、谷戸の一部を崩壊させる前は、子供が泳げる池ができるほどの湧き水の水量があったらしい。

谷戸の扇端には都立農業高校の農園。
内部は武蔵野の原生林に近い風景が残る。
実習わさび田。
流れ出る湧き水。

崖線の上にも畑が残る。
農家の敷地に残る欅の巨木。

途中の切通しは、公園、キャンプ場として整備されているが普段は人気に乏しい。

ホタル園ではホタルの幼虫を移植してきて6月にホタル観賞会が開かれる。

切通しを下る道は、「引きずり坂」と呼ばれる。
村の娘を蛇が引きずって行ったという伝説が残る。

扇端は、田んぼと畑がまとまって残っている。

用水路の取り入れ口。
清流を好むホトケドジョウが生息する。

地域住民が耕している田んぼがある

谷戸の先端に近い場所にあるこの田んぼは100坪ほど。
近くの農家の所有だが、ここ20年以上、市内の任意団体が、この田んぼを舞台に米作りをしている。
その団体とは、野川で遊ぶ街づくりの会だ。

会長のo氏は現在65歳。
実はおじさんも20年前から数年間、田んぼづくりに参加していた。

農家に耕運機を借り、苗代づくりの指導を受け、近くの農家から「くろつけ」の仕方をまねした。

田植えは子供らを動員し、稲穂が垂れると案山子を作り、稲刈り後はハザをかけ、農家の納屋から年代物の脱穀機を引っ張り出し、モーターを回して脱穀した。

11月23日の勤労感謝の日には、新嘗祭として餅つきした。

おじさんは数年後、やめてしまったが、会と田んぼづくりはo氏を中心に活動を続けている。

調布市の保全計画

野川で遊ぶ街づくりの会が活動する田んぼを含むこの谷戸地域が調布市による環境保全計画の対象となっている。

扇央の部分は農業高校の農園として、切通しの部分は、ホタル園や円、キャンプ場としてすでに保全されているので、主に扇端に向けて広がる農地が保全の対象となっている。

しかも、所有者が相続などで手放すことになった農地を調布市が購入するということになり、すでに1か所、1反歩ほどを購入済みといいうのだから画期的だ。

おじさんは何年ぶりかでo氏に田んぼでばったり会うまでそういった事情を知らなかった。

ただし、購入済みの農地及び今後購入してゆく農地についての、具体的保全方法については、その方策も、保全する主体も未定とのこと。

野川で遊ぶ街づくりの会のような団体が保全主体として、文化としての田んぼの保全に一役買ってゆけるのか?
それとも、よくある農業公園のように、一見、環境保全されているようで実は魂の入っていない「かつて農地、実は空き地」になってしまうのか?

各地に行政と市民が一体となった景観保全活動があるので参考とし、調布独自の観点も維持したスタイルで景観が保全されることを望みたいものだ。

おじさんとしてはかつてご縁があったよしみで、長野の農的生活と調布の田んぼづくりがささやかにコラボでもできたらなと思うのです。

 

「ヌーベルバーグ」の時代

ヌーベルバーグという言葉を聞いたことがあるだろうか?
フランス語で「新しい波」の意味。
1960年前後のフランス映画のムーブメントを表す言葉として有名だが、そもそもは映画のみならず、当時の新人小説家フランソワーズ・サガンなどと、映画を含む各分野の新人を特集したフランスの雑誌のコピーから派生した言葉だった。

今回、シネマヴェーラ渋谷で「ジャパニーズヌーベルバーグ」として、1960年代の「日本映画の新しい波」の特集上映があった。
何本か見に行ったが、改めて当時の作品群と時代背景に興味をひかれた。

本家ヌーベルバーグのこと

1960年前後のフランス映画の新しい波は、「カイエ・デュ・シネマ」という映画雑誌の若き批評家連中が、実際に映画を撮り始めたことによって起きた。
クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなどである。
作品では「いとこ同志」「大人は判ってくれない」「勝手にしやがれ」など。

本家ヌーベルバーグの発生である。
これらの作品はヒットし、作り手たちはこの後も映画監督として制作を続けてゆく。

1960年。
ベトナム戦争がはじまり、フランスが初めての核実験を行う。
5月革命といわれたフランスの文化運動を8年後に控えた時期でもあった。

トリュフォーやゴダールたちは、批評家時代「カイエ・デュ・シネマ」紙上で、アメリカB級ギャング映画や、ジャン・ルノワールを熱心に論じていた。

彼らは、撮影現場では、若い俳優を使った即興演出により、作者の身近な世界を描出する作風を示した。
それは、時代のニーズにマッチしたことから、フランス国内のみならず世界中の映画界の一大ムーブメントとなった。

ゴダールがその後、各分野の文化人にもてはやされる現象も起き、「ヌーベルバーグ」という言葉も「カイエ・デュ・シネマ」の名前も、独り歩きを始め、文化・現象としてファッション化し一部では権威化されるに至った。

1960年前後の日本映画界

産業としての日本映画は1958年に映画人口(観客動員数)11億人の最高を記録、以後減少している(1970年以降は1.5億人前後)。
興行収入は、単純比で、1958年の500億円から、2010年の2000億円に増大。
集客の減少を単価のアップでカバーし、映画産業そのものはしぶとく存続している格好だ。

1958年当時の映画制作会社は、大手6社(東宝、松竹、大映、日活、東映、新東宝)の時代で、各社は直営の撮影所(松竹、大映、東映は東京と京都の2か所)を持ち、各都市に直営もしくはフランチャイズの上映館を持っていた。
各社は制作部門の専属として、俳優、監督と契約し、また製作スタッフ(助監督、撮影、照明、大道具などの現場のスタッフ)を、社員として抱えていた。
1955年ころに、石炭産業と並ぶ花形産業としての映画は、いまだ絶頂期にあった。

その当時、1本の映画には、総勢数十人からのスタッフがついていた。
助監督だけでも1本に4人付くのが普通で、松竹大船撮影所だけで在籍する社員の助監督が数十人いたといわれる。
各撮影所では、月4本から8本の製作本数を抱え、多忙を極めた。
将来のための人材育成をと、1950年代中盤から60年にかけて、松竹だけでも毎年、助監督を公募していた時代である。

ちなみに現在は、東宝、松竹、東映の大手映画会社が自社作品を作るのは、年に何本あるかないか、である。
撮影所スタッフの数は激減し、そのスタッフも大手映画会社の社員ではないことが多い。

その背景には、娯楽の多様化などによる映画人口の減少=映画会社の売上の減少がある。売上が減った会社が生き残るためには、新商品の開発により売上を伸ばすか、あるいは経費を節減しなければならない。
そこで、映画会社は制作部門をリストラし、費用を節減したのだった。

こうして、撮影所が閉鎖され、(松竹、大映は京都の撮影所を閉鎖)、製作スタッフをリストラし、新規採用をストップした。
映画会社の撮影部門は、スタジオ(スタッフを含む)のレンタルや、不動産業、観光業で稼がざるを得なくなった。

もっとも、映画会社として最低限度の上映作品は必要なので、まず、制作部門そのものを別会社化し、映画製作にかかる経済的リスクを会社の決算の外とした。
次に、既存のプロダクション、独立監督などに作品を発注したり、あるいは、プロダクションが製作した作品を買付けた。

なお、大手映画会社から制作を請け負う側も、スタッフ数を、大手映画会社の撮影所時代の数十人から、10人以下にまでに減らし、また、デジタル化やCG化などの技術を取り入れて直接制作費を減らすなど、映画製作にかかる経済的なリスクを軽減しようとしているのが現状だ。

その点、配給事業というものは、契約した額で作品を制作サイドから購入し、興行後は、興行収入から映画上映にかかる諸経費(プリント作成費、宣伝費等)を差し引き、黒字が出れば制作サイドに分配すればいいので、作品が極端に不入りではない限り、経済的リスクは少なく、またヒットした場合の実入りは青天井となる。

こうしてみると産業としての映画製作は、1955年から1960年までのつかの間の全盛期の後、今に至るまで下落し続けているのがわかる。
この衰退は、映画会社本体に及び、1961年の新東宝の倒産、1970年代の大映倒産、1980年代の日活倒産が起こる。
制作、配給も含めた旧来の映画産業が、会社の数で行っても半減したのが半減したのである。

ヌーベルバーグがフランスで発生した、1960年は日本の映画産業の絶頂期の終末期に当たり、衰退の影におびえ始めた頃だったのである。
その時代はまた、戦後15年を経た、世相の転換期でもあった。

日本ヌーベルバーグ前史、松竹大船撮影所の場合

数年前に亡くなったが、大島渚という映画監督がいた。
1954年に京都大学から松竹大船撮影所に入社。
同じころ、吉田喜重、山田洋次(いずれも東大卒)が入社している。

大島は、晩年は海外のプロデューサーと組み、世界と商売をしたカリスマ性を持つ人材だったが、松竹の社員時代に4本の映画を残した。
「愛と希望の街」(59年)から「日本の夜と霧」(60年)に至る、アグレッシブで時代批評性に満ちた作品群。
特に、「青春残酷物語」「太陽の墓場」(いずれも60年)の2本はヒットし、折からのフランス映画の新しい波現象を受けて、マスコミ的にも「ヌーベルバーグ」と呼ばれた。

1959年当時27歳の大島が、チーフ助監督の経験もないのに監督に昇進できたのは、シナリオの執筆力もあったにせよ松竹首脳やマスコミに対するアピールを含む政治力に優れていた理由のほかに、映画界を取り巻く外的理由があった。
すなわち、1958年をピークとする映画人口の減少は、事業会社としての映画会社を直撃し、特に小市民的なホームドラマを路線としていた松竹において、新しい作風、路線、新しい作り手を模索せざるを得なかった。
それが時代の流れだった。

実際、この流れに沿って松竹で監督昇進した当時30歳前後の助監督には、大島のほか吉田喜重、田村孟、高橋治、斎藤正夫、森川栄太朗、篠田正浩などがいた。
全員、1955年前後に猛烈な倍率をかいくぐって入社した有名大卒者であったし、入社後はシナリオ執筆などで実力と意欲をアピールした連中だった。

この一群は、旗手・大島の2本のヒット作の影響もあり、会社の抜擢によって次々に作品を発表したが、大島が1960年に制作した「日本の夜と霧」が、上映4日間で打ち切られ、かつ大島がその件について松竹を批判し、挙句、同調者を引き連れて松竹を退社したことによって急激に退潮した。

「日本の夜と霧」は安保闘争現場を舞台とし、新左翼の視点から旧左翼を批判した学生演劇のような作品で、ヒットしなかったのは当然。
今では、若き大島の熱気が商業映画撮影所の中で実現した記念碑的な意味を持つ作品と評価が定まっているが、当時の(そして今も)映画会社松竹としては扱いに困る作品だったろう。
権力側をはじめ、右翼、旧左翼など各方面からいちゃもんをつけられる可能性が高い作品を、ヒットしないことを理由に打ち切ったのが実情だった。
大島にとっては確信犯的に自分の主張のみを前面に押し出したのだった。

結果として大島のみならず、ヌーベルバーグの旗のもとに売り出された少壮監督の全員が松竹を去ることになる。
大島、吉田、篠田はのちに独立プロを起こして映画省察を続け、田村は大島が起こした創造社の一員に、高橋は小説家に、斎藤と森川はテレビに移っていった。
彼ら全員が、大島のように自己プロデュース力にたけたアジテーターであるというわけではもちろんなかった。

総括、日本ヌーベルバーグの時代とは?

発生

(時代の要請)
映画人口の減少の中、映画会社の旧路線では集客がじり貧で、新しい路線を求めた。
新しい路線とは、時代を背景とした生々しく、刺激的で、若々しい感性に満ちたものでなくてはならなかった。
世の中は、安保闘争、ベトナム戦争に揺れ動いていた。

(人材の登用)
・1955年前後に一般募集で入社した優秀な人材が助監督経験を経て30歳前後となっていた。
彼らは監督昇進を目指し、シナリオ発表などで意欲と実力をアピールしていた。
何より、現代社会の問題性に肉薄し、また若者風俗や気分を取り入れた画面作りに意欲的だった。

・この現象は松竹のみならず、東宝、大映、日活でも同時代的に発生し、岡本喜八、須川栄三、恩地日出夫、増村保造、中平康、今村昌平らがデヴューした。

総括

・日本ヌーベルバーグとフランスヌーベルバーグは、時期と気分を同じくする(いわゆる同時代性を持つ)が、別の土壌(かたや映画撮影所、かたや映画批評)から発生。

・映画の技法的な面(カメラの移動、長回し、ロケ、同時録音の多用、若手俳優の抜擢)などは、日本のみならず、世界がフランスの影響を受けて、継承している。

・日本ヌーベルバーグの場合、映画撮影所が、有能な若手人材を抱え、育て、発表させることにより実現した。
彼らの残した稚拙であるが若く熱気ある作品を見るにつけ、意欲的な作り手と映画会社の歴史上の幸運な邂逅を再確認するという喜びを感じざるを得ない。

大島の全4作品、田村孟の「悪人志願」(60年)、恩地日出夫の「若い狼」(61年)、山際栄三の「狂熱の果て」(61年)。
映画会社が映画製作の現場を含有していた時代の奇跡のような一瞬の輝きだった。
この輝きは1960年だったから可能で、これ以前もしくは以降の日本映画界では実現不可能だった。

日本におけるヌーベルバーグの時代は1958年に始まり、1961年に終わった。

 

おじさんの東京徒歩散歩VOL.2 浅草から三ノ輪まで

東京は桜開花予報が3月20日だそうです。
小春日和の一日、おじさんは久しぶりに浅草まで遠出しました。

浅草界隈は外国人だらけでした

地下鉄浅草駅の出口です。
駅構内からすでに外国人だらけです。
中国人の家族連れが多い印象です。
白人の夫婦連れもいます。

雷門の下は外国の街角のような匂いがしました。
仲見世通りには着物を着た女性もちらほら。
よく見ると中国人の若い女性が着物を着て歩いていました。

仲見世通りの裏手です。

てんぷらの大黒屋。まだ客が並んでいません。

通称ホッピー通り。
アジア系の女性が客引きしています。

花やしきの入り口です。

六区興行街。左手が場外馬券売り場、右手がかつて浅草名画座など映画館3軒があった場所。

ひさご通り。
ここまでくると外国人、特に中国人はいなくなり人通りはがたっと減ります。

千束通りから山谷へ

浅草を北に抜けた千束通りです。
外国人も観光客もいません。
地元の人がたまに通ってゆきます。

おじさんはこの通りの団子屋で、お土産の桜餅を買い、団子1本をおやつに食べました。
団子は弾力がありうまかったです。

土手通りのてんぷらや伊勢屋です。
天丼を昼ごはんに食べました。
豪勢なてんぷらで、ごはんの盛りもよい。いつも混んでいます。

隣は桜肉(馬肉)の鍋屋さん。
土手通りの向かい側は、日本最大の遊郭・吉原がありました。

並びの肉屋には馬油が売っていました。

いろは商店街。通称、あしたのジョー商店街です。
アーケードが2017年3月に撤去されたそうですっきりしました。
店舗数も増えたような気がします。

あしたのジョーが出てきそうな、家々の間からスカイツリーが見えます。

商店街を過ぎると山谷です。
山谷は、大阪の釜ヶ崎(西成)、横浜の寿町と並ぶ日本三大ドヤ街と呼ばれていました。

おじさんは前職で野菜の配送をしていた30年前、毎週木曜日に山谷の消費者グループに野菜を配送していました。
ドヤの住人が路上で焚火をしていたり、昼間から屋台のようなところで飲んでいるのは当たり前でした。
その当時、労働者の立場で山谷の記録映画を作っていた人が、この辺りをシマとするやくざ組員に刺殺されたことがあり、現場には花が供えられていました。

当時の通称山谷交番は鉄柵に守られた要塞のようでした。
記録映画製作者を刺したやくざは、まっすぐ交番に駆け込んだそうです。
やくざも交番が労働者の味方ではなく、むしろ自分たちの味方であることをわかっていました。

今は山谷の人口が減り、また高齢化しています。
歩いていて怖さを感じることも少なくなりました。
住宅や商店とドヤが共存する町、山谷。
祖国日本の将来を身をもって表すがごとく、静かに衰退していっています。

泪橋ホールというスペースがありました。
映画を見ながら食事ができるようです。

ドヤが並んでします。

公立の労働センターです。

キリスト教が運営する支援施設もありました。

三ノ輪、南千住の商店街と歴史

山谷を抜けて三ノ輪へ向かいます。
目黄不動尊。五色不動尊の一つ。目黒が地名になり有名です。

都電荒川線の終点駅への通路。
少し前までは新聞屋がありおばあさんが座っていました。

ジョイフル三ノ輪商店街。

漬物屋。名物の店主が自分で漬けています。

総菜屋。品目が多くて安い。

床屋。カット950円。下町プライスです。

都電の駅。いつの間にかモダンな車両になっています。

南千住駅へ向かうと、小塚原回向院というお寺があります。江戸時代の刑場があった場所です。

江戸周辺の刑場は東海道の鈴ヶ森、甲州街道の大和田などがありますが、日光街道筋のここ小塚原が一番有名なのでは。

杉田玄白が、ここで刑死者を腑分けを見学し、解体新書の翻訳に着手したきっかけとした、とあります。

鼠小僧や高橋お伝の墓もあります。

驚いたのはカール・ゴッチの真新しい墓があったこと。
それも一般のエリアではなく、歴史遺産エリアに建っていました。
伝説のプロレスラー・ゴッチは最大の理解者・日本において死んで直ちに歴史遺産となったようです。

回向院の隣にある、首切り地蔵。
東日本震災の際に左腕が脱落したそうです。
我が身を犠牲に自然の怒りを多少でも鎮めてくれたのかもしれません。

三ノ輪に戻り、浄閑寺を見学しました。
吉原の遊女の投げ込み寺といわれたお寺です。
おきてを破った遊女が投げ込まれたほか、関東大震災や東京大空襲で横死した遊女を弔ったとのと。

遊女を祀る新吉原総霊塔。

東京の下町は歴史があり、その蓄積が濃い場所でした。
食べ物もおいしかったです。

おじさんの東京自転車散歩VOL.7 多摩川サイクリングロード

多摩川サイクリングロードをママチャリでサイクリング。
立川まで行きました。
朝方は冬の寒さも、途中で春の陽気に恵まれ暖かい道中でした。

多摩川原橋から府中の景色

鶴川街道のたもと、多摩川原橋から土手のサイクリングロードを走りました。

上流から見て左岸、東京側を西に向かって走ります。

平日なので散歩する人も自転車の人も少ない日でした。
かつてのサイクリングブーム?のころは、休日ともなると、競技用自転車の集団が猛スピードで走り抜け、歩行者などとの事故現場も散見されましたが、ブームが落ち着いたのか、事故の危険性?からか、最近はヘルメット姿の自転車集団はあまり見かけなくなりました。

是政橋のたもとにつきました。
河川敷のグラウンドでは草野球をやっていました。

ここはその昔、是政の渡し船があったところです。

五本松という名所を通過。
その昔、甲州街道で行倒れていた甲州商人を助けたところ、恩返しに植えられた松が育って街道の名物になったという場所です。

河川敷は野球、サッカーなどのグラウンドに利用されています。

関戸橋のふもとを通過。
京王線の鉄橋です。
対岸に聖蹟桜ヶ丘の街が見えます。

読売新聞の工場が府中中河原にありました。

キューピーマヨネーズ工場も調布仙川から府中中河原に移転していました。

日野橋です。
橋を渡れば日野市。手前に戻れば立川市です。

立川という町

立川には戦時中まで陸軍飛行場があった。
戦後、米軍に接収され、立川基地となった。

今は返還され、基地機能は横田基地に移転吸収されたが、ベトナム戦争時代まで、立川のイメージは基地の町だった。
その時代、基地の拡張に伴い反対する周辺農民との間で紛争が起き、地名にちなみ砂川闘争と呼ばれた。

おじさんが知っている頃(30年前)には、まだ滑走路があり、プロペラ機が飛んでいた。

今、跡地は広大な公園(昭和記念公園)のほか、商業施設,首都補完施設(災害時などの首都移転のため)が建っている。

近々は、駅前の再開発などにより、近未来的な発達を遂げている立川だが、おじさんより上の年代のものには、立川=基地のイメージが濃い。

駅からほど近い通り、シネマストリート。
駅周辺の喧騒が嘘のように人気が少ない。
陸軍基地時代以来の歓楽街とだった場所。
映画館があったり、昭和33年までは赤線もあった。
米軍基地時代にはGI相手のバーが軒を連ねていたと思われる。

今ではその面影を捜すのが難しい。
一般の商店が残っていたが、今ではほとんど消えてしまっている。
いずれ町ごと再開発されるのだろうか?

中心部から徒歩圏内に競輪場がある。
立川のもともとの擦れたイメージを今に残す場所の一つだ。

今は住宅地に埋もれるようにして存在するが、かつては駅から北東方面に遠望でき、「ラスト1周」の鐘の音が物悲しくあたりに響いていたのかもしれない。

通称「立川陸事」と呼ばれる、多摩ナンバー車両の登録検査事務所。
実は立川をぎりぎり外れた国立にあるが、なぜか立川陸事と呼ばれている。

久々の自転車遠乗りにおじさんのお尻が痛くなった早春の一日でした。

 

 

おじさんの食堂探訪VOL.9 中島飛行機とICUと松浦武四郎

今日は春の陽気です。
昨日は久しぶりの降雨。
今日の気温は18度の予報です。
おじさんは春風と花粉に乗って食堂探訪へと旅立ちました。

中島飛行機製作所跡地のSUBARU

三鷹のスバル工場です。
かつての中島製作所の武蔵野研究所の跡地に建ちます。
中島製作所(のちの富士重工)は日本の航空産業の草分けで、陸軍に採用された隼とその後継機・疾風、また一式陸攻などの有名軍用機を開発しました。

ゼロ戦を開発した三菱と並ぶ、国内航空機メーカーの2大看板です。
そもそも日本にはこれまで(現在も)数社しか航空機を作れるメーカーはなく、同社の格と力量がわかろうというものです。

敗戦後、日本の軍需産業(及び関連するメーカー)、研究所は解体もしくは分割されました。
中島製作所は12の会社に分割されたとのこと。
三菱重工が3分割、それも業種ごとの分割ではなく、地域ごとの会社分割で、案の定すぐに再統合したのと比べると、中島製作所の扱いは厳重といわざるを得ません。
進駐軍の同社に対する「本気度」がわかろうというものです。

三菱への対応とに明らかな差があるのは、明治維新前から三菱のバックに外資がついているのも理由の一つでしょうが、進駐軍が中島製作所の能力を恐れていたからではないでしょうか。

中島製作所の主力工場は群馬(今のスバル太田工場)にありましたが、研究所が武蔵野(現三鷹市)にありました。
そこの跡地に、富士重工時代を経て現スバルとして会社が残っています。
少し前までは工場だけが建っていましたが、今はショウルームも併設しています。

中島製作所跡地の外側を巡る

中島飛行機武蔵野研究所の敷地は戦後、ICU(国際基督教大学)となりました。
ICUの設立が1953年だそうですから、戦後8年たっています。
その間、中島製作所は、進駐軍に接収されています。
中島製作所の後継会社・富士重工の敷地は全体の1/5程に縮小されました。

正門からの一本道とロータリー、それに続く研究所本館の建物は、製作所時代のまま残され、本館はICUの本部になりました。
国分寺崖線のハケの下の地域は、進駐軍のゴルフ場となりました。

おじさんは、旧中島飛行機の敷地外側を自転車で回ってみました。
スバルの工場の外塀を過ぎると、ゴルフ場として進駐軍に使われていた場所が、都立野川公園として開放されています。

やがて、敷地は住宅地と接してきました。
敷地の北側には、中近東文化センター、ルーテル大学などがあります。
これらも中島製作所の敷地でした。

ICU構内に残る松浦武四郎の遺産

この辺り、国分寺崖線のハケの地形で、日当たりと湧き水に恵まれています。
縄文遺跡が多数見つかっています。
大学構内に博物館があり、土器などが展示されています。

この博物館の展示品の中に、蝦夷地や樺太の探検で有名な松浦武四郎が晩年建てた、一畳敷という一室のレプリカがあります。
松浦が探検を終え、晩年を日本で過ごす際に建てたという一室で、文字通り畳一畳の広さの小屋です。

独力で蝦夷地と樺太の地図を測量したという孤高の探検家が達した境地なのでしょうか。
起きて半畳寝て一畳といいますから。

その室が時代を経て中島飛行機の経営者の手に渡り、この地に移築されたとのこと。
泰山荘という建物群の一棟として保存されているそうです。
よくICUは壊して薪にせず残してくれたものです。
実物を見ようと泰山荘の中を捜しましたが、一畳敷については、関係者以外は立ち入り禁止とのことで、見ることができませんでした。残念。

ICU学食でタレカツどん

昼食はICUの学食へ。
タレカツどん。380円。
味は、国立系のCOOP食堂よりも良かった。量もたっぷり。

何よりも食堂が広いのがいい。
電通大の食堂の数倍はあろうという広さ。
若い学生たちがうれしそうに集っている。

ICUのイメージとしては英語が飛び交うアメリカンなカレッジライフだが、実際は大多数が日本人の学生で、のんびりと育ちのよさそうな雰囲気の学生が多いような感じがした。

ICU。
桜並木が続くエントランスと軍用機製作所の建物を本部とする進駐軍が作った大学。
日本の戦争時代と占領時代が見事にクロスしています。
学生たちの明るさがすべてを解決してくれそう?な気がしました。

梅がほころび始めた武蔵野の早春のことでした。
お粗末。

おじさんの徒歩散歩VOL.1 早春の西東京を歩く

今日はぽかぽか陽気でした。
おじさんは用事の帰り、陽気につられて、西東京市の旧保谷エリアを散歩しました。

フラワー通り商店街

西東京市の谷戸というエリアから泉町方面にかけて、住宅街の細い道沿いに、フラワー商店街という通りがあります。
庶民のにおいがする街の風景が大好きなおじさんは、さっそくその商店街へ行きました。車のすれ違いが困難なほどの道幅。
店の並びもまばらで、大規模店などは全くありません。
八百屋、電機屋などがぽつぽつと開いています。
街灯にフラワー通りという看板がついていなければ商店街なのか、住宅街なのか、一見してわからないほどです。

ギリギリ、商店街としての体裁が維持された風景で、おじさん、嫌いなシチュエーションではありません。

商店街の一角で和菓子と海苔巻きを商っている、明治屋という店がありました。
かつて家人がここで買ってきた、草餅がおいしかったから、おじさんはこの店へ寄りました。

餅の歯ごたえがいい草餅や桜餅、まんじゅうなどのほか、海苔巻き弁当も並んでいました。
おじさんは、草餅と桜餅を2個づつ買いました。

桜餅は、皮であんこを巻いた関東スタイルのものです。
おじさんの出身地では、半搗きの餅米であんこを包む、いわゆる道明寺が桜餅と呼ばれていました。
そのせいか、今でも関東スタイルの桜餅への違和感が消えませんが、郷にいれば、です。

商店街を過ぎたあたりに、岩船地蔵尊が2体祀られていました。
1700年ころ、このお地蔵さんを御輿に担ぎ、念仏踊りをした一団が現れる現象が起きたという。

後の、ええじゃないか現象につながる民衆のエネルギー発散の歴史の一幕なのだろうか。

庭先で実をつける夏みかん。
北国、雪国では見られない風景です。
武蔵野地方が温暖であることを象徴的に示しています。

冬に咲く椿は盛りを過ぎていました。

白梅が咲き始めていました。春間近です。

東伏見駅前の自然食糧店・美味

おじさんは谷戸から東伏見まで歩いてきた。
今日の目的の一つは、駅前の自然食店・美味を捜すこと。

おじさん、30年前は自然食関連業界で働いていた。
その時の同僚N氏に最近久しぶりに会ったのだが、会社OBの近況で、同時期に同じ会社で働いていたHさんという人が東伏見で自然食品店をやっていると聞いたのだった。

実はHさんの名を聞いても、おじさん思い出せなかった。ひょっとしたら本人を見て思い出せるかな?と、後学を兼ね、アポなし訪問をした次第だ。

店は元気に営業していた。
品揃えがよく、固定客がついていることがうかがえた。
営業37年目とのこと。Hさん本人は仕入れで不在だったが、奥さんが話を聞いて応対してくれた。
おじさんがHさんの顔を思い出せないというとアルバムまで出してくれた。同じ会社といっても、お互い別の事務所所属だったようだ。写真を見ると、永福の事務所にいた(おじさんは調布の事務所で配送の担当だった)真面目そうな人の記憶がかすかによみがえった。

おじさんのアドレスを印刷した、名刺代わりの紙を奥さんに託して辞した。
三年番茶を1本頂いた。
木で3年たった葉を焙じたもので、もともとは陰性の茶葉が陽性化しており、体を温めるとのことだった。

おじさんも自立に向け頑張ろうと思った。

おじさんの食堂探訪VOL.8 仙川にラーメン屋を訪ねる

東京の最高気温は6度だ。真冬の気温だ。
おじさんの住む調布は、都心より2,3度低いかもしれない。今日の食堂探訪は、地元調布の仙川というところにあるラーメン屋を訪ねた。

おじさんのラーメンの思い出

おじさんは北海道旭川出身だから、ラーメンには幼いころから馴染んでいる。
小学校に入る前、母親のお供で街に出た時の昼食はラーメンが多かった。

当時のラーメン屋では蜂谷という店しか思い出せない。
旭川の中心部にあり、まったく普通の食堂形式の店内は、常に客で混んでいた印象がある。

店員のおばさん(お姉さん)は「脂濃くしますか?」と聞いて来るのがお約束だった。
いつも、「普通」で頼んでいたが、もし「濃く」で頼むとしたら、スープにはどのくらいの脂の脂が浮いて出てきたのだろうか?

ラーメンは湯気も威勢よく、どんぶりの淵、ギリギリまでスープが注がれた状態で出てきた。
当時はそれが当たり前の味だったが、今思えば、鶏がらベースにかなり魚介系が効いた出汁で、中太麺の量も多く、食べ応えがあった。

そのころ旭川では、みそもとんこつもなく、ラーメンはしょうゆ味が普通だった。
おじさんは、当時の蜂谷のラーメンほどうまいラーメンを、それ以降食べたことがない。

仙川のしば田というラーメン屋へ

息子に教えてもらった仙川のラーメン屋へ行く。
あっさりした昔風の味で、行列店だとのこと。

若葉商店街というエリアの一角にあった。
平日の昼時を過ぎているのに行列があった。
7,8人なので並ぶ。
大行列だったら帰ろうと思っていた。

バス通りながら狭い道に面した店で、自転車の置き場もない。
黙々と並ぶ人達。
この孤立感は映画ファンにも共通するものがある。
同好の士ながら、話しかけられるのを恐れ、バリアを張り合っているようなところが似ているのだ。

最高気温6度の寒さには耐えうるものの、店の空調の屋外機からの冷気がまともに吹きかかる場所に列が進んだときには若干虚無的な心境になったが我慢。

やがて店内へ。
カウンターのみの8席ほど。
メニューは中華麺普通と煮干し味の二通りのようだ。
中華麺を頼む。850円。
話に聞いていた通りのあっさりしょうゆ味。
しょうゆの効いたスープの色、脂の浮き具合もいい。
あとはもうちょっと出汁の味がつよければ・・・。

最近はやりのとんこつ系の脂ぎった感じよりは数段好みの味だった。
自家製風のチャーシュウが、がっちり3枚乗っていたのもボポイント。
昔風か?と言われれば、コンセプトはそうに違いないが、という感じ。
現代のラーメンとしてこれはこれでいいのではないか。
飽きの来ないラーメンらしいラーメンだった。