しその実の塩漬け

畑のしその実を採取し、塩漬けにしました。

酷暑を乗り切って今年も実をつけたシソたち。
収穫が遅れるとせっかくの実が硬くて食べられなくなります。
風雪に耐えたの武士のように枯れながら雑草の中に突っ立っているシソ。

茎ごと切って収穫し、実をこそげ取ります。
先端から根元に向かって指でこそげると実はきれいに取れます。

実をきれいに洗い、アクを取ります。
アクの取り方は1日水に漬けるか、熱湯でゆでこぼすかです。
風味が残るというので1日水に漬けることにしました。

しその実を洗う
洗いながら実以外のものを取り除く
1日水に漬けたシソの実
水気を切り分量の塩をまぶす

時々取り換えた水に1日つけたシソを塩漬けにします。
塩をまぶして重しをかけてもいいのですが、今年は、分量の塩でもんで保存袋に入れ冷蔵する方法にしました。

袋に入れて冷蔵保存する

ごはんにかけてよし、しょうゆを加えても良し。重宝な保存食ができました。

鹿沢温泉 紅葉館

群馬県にある鹿沢温泉に行ってきました。

10月の山小舎おばさんの山小舎来訪時に、二人で行ってきたものです。
鹿沢温泉は、長野県側から湯ノ丸高原を越えるとすぐのところにあり、山小舎からは片道1時間半で着きました。

湯ノ丸高原を過ぎて鹿沢温泉に到着

鹿沢温泉は、山小舎おばさんが独身の時にたびたび訪れた思い出の場所です。
当時、鹿沢スキー場があった場所に近くに、東京YWCAが山小舎を持っており、そこへたびたび泊まったことがあったのです。

車でない場合は、高崎乗り換えの吾妻線で万座鹿沢口まで行き、鹿沢温泉行の路線バスに揺られての長い長い行程だったようです。
たどりついた山小舎には管理人がツアー客と同行して参加したそうで、自炊ながら主食や調味料完備、暖房完備の居心地の良さだったとのこと。
また、YWCA小屋利用者は、鹿沢温泉唯一の旅館、紅葉館で無料で入浴することもできたのでした。

紅葉館の日帰り入浴用の入り口

何十年かぶりで訪れた鹿沢温泉に山小屋おばさんは感激しきり。
YWCAの小屋ははなくなっているとのことですが、紅葉館の建物を見ると昔の記憶がよみがえったように喜んでいました。

紅葉館は常時日帰り入浴が可能なようでした。
入浴料500円を払います。
広めの休養スペースがあり、資料が展示されています。
また、そば処があり、手打ちそばを食べることができます。

浴室は源泉かけ流し。
打たせ湯が常に流れ落ちています。
5人も入ると一杯の浴槽には、峠越えのライダーらしき先客が一人。
山小屋おじさんも外気の寒さから逃れるように熱めの湯に浸かりました。

シャンプーがあったので、打たせ湯をシャワー代わりにして洗髪。
一杯に広がったシャンプーの泡が、木製の床をゆっくりと流れてゆきます。
これまでも古い温泉には入りましたが、紅葉館もなかなか歴史を感じる温泉です。

本館から続く紅葉館の建物

上がった後はそば処で軽く食事。
入れ違いでやってきた夫婦連れ、4人組ともどもそばを注文。
このそばが美味しくて、また秘境感のある鹿沢温泉にマッチして、いいセットになっていました。

そば処のざる蕎麦。うまかった

群馬県の端っこで東京からは地の果て感満載のの鹿沢温泉ですが、長野県からゆくと峠を越えてすぐの場所。
また来たいという山小舎おばさんの思い出の場所再訪でした。

山小屋の紅葉

10月も半ばを過ぎました。
東京の自宅に1週間ほどいて家族の養分を補給した山小屋おじさんが、山小舎に戻ってきました。

標高1400メートル以上の山小舎周辺は季節が進んでいました。

日差しが厳しく、外へ出るのも苦痛だった今年の夏も今いずこ。

10月に入っては、ミズナラから落ちるどんぐりの音のみが響いていた山小舎。

今年も例年のように木々が紅葉し始め、落ち葉が舞い始めました。

まだ紅葉は始まったばかり。
今のうちにあちこちへ出かけて眺めておこうと思います。

冬はあっという間に来るでしょう。

今年の干し芋

秋は食品加工のシーズンです。

初夏から夏にかけては果物や夏野菜をジャムやシロップ漬けにするシーズンでした。
秋になると果物の種類は減って、代わりに芋類、根菜類、豆類などが出回ってきます。
種を利用する野菜もあります。
これらを乾燥させてりして保存する季節の始まりです。

ヘチマたわしに続く、秋の加工シーズン第二弾として、干芋を作りました。

山小舎おじさんの畑では今年はサツマイモを作付けしませんでした。
最初の年の豊作以来、サツマイモは不作なのです。
植え付けの時期の乾燥や、ツルが伸び始めたときの獣害などがあり、ほとんど収穫に至らない年が続きました。
サツマイモに手をかける余力もなく、今年は作付けをあきらめていました。

秋を迎え、直売所に地元産のサツマイモが並び始めました。
大きめで丸く厚みのあるものをチョイスします。

洗った後、ストーブにかけた蒸し器に並べ時間をかけて加熱します。

蒸しあがったのを確認して、皮をむき、スライスします。
軍手を使って作業すると芋が熱くても大丈夫です。
ピラーに皮が詰まって、皮むきに手間がかかるのが欠点です。

干しはじめ直後の芋たち

スライスした芋をザルに並べて、夜はストーブのそばに、天気の良い日中はお日様のもとで乾かします。

今年の芋は、中心部が白っぽく出来上がるのが半分近くありました。
干芋本来のねっとりした出来上がりを期待した山小屋おじさんは少々がっかり。

ほぼ干しあがった芋たち。真ん中が白いものが目立つ

思えば、蒸しあがりをスライスしている時点で芋の中心部が透明感がなく、ボソボソしていたものがありました。
芋のせいなのか、蒸し時間が足りなかったのか、あるいは複合的な理由で芋の糖化がうまくいかなかったのかわかりません。

そういった芋は干した後も、白っぽくボソボソした出来上がりになりました。
もちろん食べられますが、期待した出来上がりではありません。

まだまだ秋は続きます。
再トライしたいと思います。

アンナ・カリーナの美しさ!「女と男のいる舗道」㏌上田映劇

上田映劇で「ジャン=リュック・ゴダール反逆の映画作家」(2022年)公開を記念に、ゴダールの初期作が3本上映された。
そのうち「女と男のいる舗道」に駆け付けた。

当日の劇場前ディスプレイ

本作はゴダールの長編4作目で、アンナ・カリーナのゴダール作品出演3作目にあたる。
二人は1961年の「小さな兵隊」の後にゴダールの熱烈なアタックにより結婚していた。

長編第1作の「勝手にしやがれ」をモノグラム映画社(B級専門のハリウッド映画会社)に捧げ、第3作目の「女は女である」をハリウッドミュージカルに捧げたゴダールは、4作目の「女と男のいる舗道」をB級映画に捧げている。

2作目の「小さな兵隊」はアルジェリア戦争をモチーフにした独自の政治的スタンスに基づくオリジナルな作品だったから除くとして、ほかの3作品はアメリカ映画のスタイルへの仮託を標榜した作品が続いていたとことになる。

この事実には、前提として映画批評家ゴダールの深い映画的経験と、その志向(アメリカ映画のそれもB級映画が好き)があるにせよ、映画監督としてのキャリアの浅さからくる自信のなさがうかがえる。

長編劇映画を作ることは、収益上の責任を持つということで、ヒットすることが劇映画の監督を続けられる必要条件となる。
ゴダールは、目くるめくストーリー性があるわけでもなく、集客力のあるスターが出ているわけでもない自身の作品を、既存のカテゴリーに仮託して観客に提示せざるを得なかったのだろう。
自虐的であるとも、客観的であるともいえる行為である。

劇場前の上映予定看板

「女と男のいる舗道」 1962年  ジャン=リュックゴダール監督  フランス

この作品、はるか昔に16ミリ版のフィルムで見たことがある。
暗い画面に、アンナ・カリーナがうつむいてばかり、という印象だった。
暗いのは内容ばかりではなく、映写機によって映し出される画面が物理的に見えずらいのだった。.

この度上映されたデジタル版では、映像がクリアに抜けていて、明るい場面でも、暗い場面でも、中間の場面でもその通りに再現される。
いい時代になった。

チラシより

当時22歳、若さはもちろん、本来の可憐さが残るアンナ・カリーナ。
初々しく緊張した「小さな兵隊」、天真爛漫な「女は女である」を経て、若さの中に憂いと陰影を加えた表情を見せる。
「気狂いピエロ」「メイドインUSA」などカリーナ=ゴダール時代の後期作では疲れと不機嫌さが目立つ(ゴダールとの離婚後の作品ということもあるか?)カリーナにあって、その若々しさが残る最後の作品なのかもしれない、(「離れ離れに」は未見だが)。

この作品でのゴダールのカリーナに対する視線は、「小さな兵隊」における、まるで自主映画の監督が主演に連れてきた女優に対するような憧れを隠せないようなもの、から、カリーナの内面に迫るものに変化している。

カリーナの髪形、衣装、メイクはかなり凝っており、短髪(かつら?)、アイシャドーを施したばっちりメイクは、映画が進むにつれ濃くなってゆく。
若々しいカリーナの肌は濃い化粧のノリもよく、また化粧負けしてもいない。

チラシより

愛するカリーナに、夫と別れて出奔し、家賃も払えないほど困窮し、友達に誘われて街娼となり、ヒモにいいように翻弄される女性を演じさせるゴダール。
カリーナは、カール・ドライヤーのサイレント映画「裁かるるジャンヌ」を見て涙し、カフェで自分を見ていた哲学者と会話を交わす。
金もなく、街娼の境遇にまで至った女性だが、自らの内面を見つめようと無意識にせよ模索し続ける。

ゴダールは突き放した視線で、カリーナ扮する無垢な女性の内面を捉え続ける。
同時に、ジュデイ・ガーランド(カリーナが務めるレコード店で客がそのレコードをオーダーする)、エリザベス・テーラー(カリーナの背後にポートレートが貼ってある)などゴダールのアメリカ映画趣味が垣間見られたり、「突然炎のごとく」公開の劇場に並ぶ観客の実写カットなどの楽屋落ち(仲間のフランソワ・トリュフォー作品なので)があったりもする。

カリーナは本作での自分の姿を見て、きれいに撮れていないと激怒し、ゴダールとの離婚の一因ともなったという。
客観的に見てアンナ・カリーナの若き日の代表作ともいえる本作は、彼女の表面上の美しさだけではなく、内面の葛藤もとらえた画期的な作品である。
カリーナの無理解は、映像的なものからくるのではなく、その内面に迫ろうとした作風に対するもののようだ。

講談社現代新書

講談社現代新書「ゴダールと女たち」(2011年刊 四方田犬彦著)では、本作について「ゴダールがこのフィルムで試みたことは(中略)みずからの眼差しによってアンナの身体の内側に隠されている魂の美しさを引き出し、画面に定着させてみせることだった。(攻略)」(同書 P68)と評している。

同書目次

ゴダールのその試みは十分達成され、「女と男のいる舗道」は22歳のアンナ・カリーナの姿が永遠に刻印された記念碑的作品となった。

ゴダールとカリーナのコンビは、映画史上では、スタンバークとデートリッヒ、溝口健二と田中絹代、小津安二郎と原節子、に比べることができるのかもしれない。
ヒッチコックとグレース・ケリーというコンビもあった。
いずれも手練れの業界人同士によるビジネスカップル(小津と原はプラトニックな関係。ヒッチコックは一方的な横恋慕)だが、結婚までいったゴダール組はある意味正直で素人っぽかった。

アンナ・カリーナはゴダールとの結婚期間中からそれ以降、ゴダール以外の多彩な監督作品に出演している。
「輪舞」(1964年 ロジェ・バデイム)、「修道女」(1966年 ジャック・リヴェット)、「異邦人」(1968年 ルキノ・ヴィスッコンテイ)、「悪魔のような恋人」(1969年 トニー・リチャードソン)などなど。

このそうそうたるキャリアは、カリーナ本人の才能によることもさることながら、ゴダールの眼を通して探求、表現されたその諸作品におけるアンナ・カリーナの魅力が、名匠たちにインスピレーションをもたらして実現したもの、と思えてならない。

DVD名画劇場 ハリウッドカップルズ① メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス

手許に「ハリウッド・カップルズ」(キネマ旬報社1998年刊 筈見有弘著)という本がある。
1930年代から90年代にかけて、ハリウッドで人気を博したカップル(ビジネスカップルも含む、というかそれがほとんど)について書かれており、キネマ旬報での連載をまとめたものだという。

連載にあたって古い作品や日本未公開の作品を、ビデオで見直し、またニューヨークに毎年通うなどして拾って歩いたという、映画評論家筈見有弘の著作。
内容は個人的作品評論に偏重せず、古い作品群の紹介や映画人の回顧録などの文献からの引用を多用し、記録としても貴重な著書となっている。

「ハリウッド・カップルズ」表紙

この本の最初に登場するのが、メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス。
ハリウッドの伝説上のカップルである。

同・目次

「アメリカン・スイートハート」と呼ばれた永遠の少女スター・メリーと、一代の剣劇スター・フェアバンクスは、実際に結婚していたビッグカップルだが、共演作は1929年の「じゃじゃ馬馴らし」ただ一作。
1910年代から人気を誇っていたメリー37歳の、いわば「晩年」の作品となる。

ハリウッド映画史で、初めて名前で観客を集めることができたという、スター第一号のメリー・ピックフォードとは何だったのか。
ここに、スター・メリーの本質に迫った著書がある。
「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」(1980年フィルムアート社刊 アレグザンダー・ウオーカー著)である。

「銀幕のいけにえ」表紙

前書きには、この本のねらいとして、「スクリーンに、またそのスター自身にあらわれでた女性のセクシュアリテイの本質をきわめること。」とあり、セダ・バラ、クララ・ボウ、デートリッヒ、ハーロー、モンローなど10人のスターが取り上げられている。
メリー・ピックフォードが第二章に登場する。

同・目次

1893年カナダトロントで生まれたメリーは5歳で父親を亡くし、以降母親と兄弟を養うべく旅芸人とともに舞台に立つ。
13歳の時、ブロ-ドウエイのプロデユーサーに自らを売り込み巡業団の女優となり、16歳でバイオグラフ社というD・W・グリフィス率いる映画会社に採用される。
清純な少女が好みのグリフィスの眼に敵ったという説があるが、グリフィス作品の常連にはなっていない。

メリー・ピックフォード

1910年代を迎えていた映画界は、全米で1万館を超える映画館(ニッケルオデオン)が大衆的人気を博し、製作側も資本投下を本格化して作品の質的な向上が起こった時期。
当時、俳優の名前はスクリーン上に表されていなく、「巻毛の少女」として大衆に親しまれ始めていたメリーは、はじめてメリー・ピックフォードという芸名をスクリーンに映し、大衆に知らしめた映画俳優となる。

150センチちょっとの身長と童顔。
幼い兄弟の親代わりに過ごしたリアルな幼女時代の体験に基づいた演技力。
巻毛と子供用エプロンの衣装。
これらは、当時の観客が求める少女像にぴったり適合し、小公女、あしながおじさん、不思議の国のアリスなどを題材とするメリー主演の映画はヒットし続けた。

「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」では、この時期のメリーの演技について、古い価値観に縛られ、大衆人気に迎合した少女像を演じながらも、随所に覗くセクシュアリテイについて指摘している。
それらのセクシュアリテイは、決して大衆を扇動し、新たな風俗を出現させるようなものではなく、大衆にとっては彼らの住む裏街のコミュニテイでは日常茶飯事のことだった、と。
それこそがメリーという女優の本質だったのだろう。

メリーとグリフィス(左)

実際のメリーはしっかり者で、契約更新のたびに倍増するギャラの交渉にも抜け目なく、名を成してからは、監督、製作者よりも製作現場で権限を持つ契約内容を要求した。
これはのちに、グリフィス、チャップリン、フェアバンクスとともに映画製作会社、ユナイテッドアーチスツを設立する行動につながる。

また、30歳を超えても少女役を要求される状況から脱しようと、人妻やヴァンプなどの役に挑戦するがヒットはせず、これが1933年に迎える女優人生の終焉につながった。
私生活では3度の結婚。
フェアバンクスとの結婚はお互いに2度目の結婚だった。
生活は堅実で、二人が暮らす豪邸でのパーテイは、ハリウッドスターにありがちな酒池肉林的なものではなかったという。

「じゃじゃ馬馴らし」 1929年  サム・テイラー監督  ユナイト

メリーとフェアバンクス唯一の共演作。
それまで共演作がなかったのは、それぞれが単独で十分商売になったこと、さりながらこの時代になってお互いの人気に陰りが出てきたことによるという。

「じゃじゃ馬馴らし」日本公開時のポスター

シェークスピア原作の映画化。
興行収入、批評共にパッとしない(というか惨憺たる実績と評価の)作品という。

フェアバンクスに鞭をふるうマリー

フェアバンクスの剣劇スターとしての動きはともかく、メリーは伝説の少女役を卒業し、じゃじゃ馬そのものの役を演じている。
そこにメリーの女優としての真価が見られたのかどうか。

結婚したマリーはフェアバンクスから仕返しされる

美人女優としての素地は隠しようがなく、整った美貌のメリーが、父親や妹に当たり散らし、鞭を振り回す。
そこへ財産目当てに駆け付けた頓珍漢な男、フェアバンクス。
相手の気持ちにかまわず、己をしゃべり散らかしメリーに接近。
それならばと、心許すふりをして痛撃を加えようと手ぐすね引くメリー。
まるで実際のメリーとフェアバンクスのカップル像のようにも見える。

堂々たるマリーと苦笑いのフェアバンクス

とおりが良く朗々としたセリフに、大都映画のアクションスター・ハヤブサヒデトのような、ファンタステック!なフェアバンクスのアクション。
正統派美人の気品と貫禄をたたえつつ、リアルなヒステリー演技に徹するメリー。

功成り名を遂げたスター達が、「流した」演技で撮ったフィルムのようでもあり、さりながら一代の名俳優がその実力と経験を示した熟練の「十八番」のようでもあり。

「ハリウッド・カップルズ」では、メリーとフェアバンクス夫婦について、
「(二人の屋敷は)ハリウッドの大使館のような役割を果たしていた。私生活を隠すスターが多い中にあって彼ら夫妻は、ファンあってのスターであるというポリシーを崩さなかった。そうした態度を崩さなかったことによって業界からの信望は厚くファンからも支持された。」と評した。

私生活に問題が多く、今の時代であれば(昔であっても)、性加害、幼児虐待、パワハラ、殺人などの犯罪行為で社会的制裁を受けてしかるべき人間に事欠かなかったハリウッドにあって、これは最上級の賛辞なのではないか。

ヘチマたわし完成?

畑で収穫したヘチマをたわしに加工しました。

適当な長さに筒切りして煮込み、皮を除きます。
この時点で繊維だけになるのですが、繊維には皮の緑色が色濃く残り、種もたっぷり含んでいます。
4~5日の間、水を替えつつ、脱色と種抜きをしました。

もういいかなと思った頃、繊維の水を絞って天日干ししました。
絞った繊維は日に当たって形を回復させてゆきます。

水を絞って天日乾燥させる

ざっと乾いた後は、ストーブの近くに置いて乾燥状態を継続させています。

心配した色残りも少なく自然な感じの色になりました。

乾燥状態では硬く、これで体をこすると痛くないのかな?と思われます、が水を含ませるとちょうどよくなるのかもしれません。

台所で使うにはいいでしょう。

画像を見た小学3年生の孫が興味を示したということです。

完成?したヘチマたわし

上田映劇でジャン・ルノワールの「どん底」を上映

我らがミニシアター、上田映劇がまたまたやってくれた。
ジャン・ルノワール初期の代表作「どん底」(1936年)の上映だ。

今回上映された素材は、4Kレストア版というデジタル素材。
輸入したのは川崎市アートセンター。

川崎市アートセンターは同市麻生区新百合ヶ丘にある、小劇場と上映館からなる、「しんゆり・芸術のまち」を標榜する施設。
小劇場ではミニシアター系の作品を連日上映している。

川崎市アートセンターの2023年9月のプログラム
プログラムの見開き。ロバート・アルトマンの再輸入作品の上映もある

海外のデジタル化した旧作は、近年精力的に輸入公開されている。
ベルモンド傑作選と銘打って「カトマンズの男」「リオの男」などが上映されたり、ミムジー・ファーマー主演の70年代のムード漂う「モア」「渚の果てにこの愛を」が公開されたり、マルセル・カルネ監督の歴史的フランス映画「天井桟敷の人々」が再輸入されたことは記憶に新しい。

これらの作品の日本での輸入元は、キングレコードだったり、個人会社だったりするようだが、いずれにせよ版権が存在し、またフィルムの状態では(日本では)存在しない海外の旧作品を、映画館の大画面のクリアな映像で鑑賞できることは、名画座やテレビの映画放送がほぼなくなった現在、大変貴重である。
川崎市アートセンターと上田映劇には感謝しつつ、駆け付けた。

上田映劇の劇場前案内

「どん底」 1936年  ジャン・ルノワール監督  フランス

「ジャン・ルノワール自伝」(1977年 みすず書房刊)でルノワールはいう。
「シャルル・スパークと私が作り上げたシナリオは、(原作者)ゴーリキイの芝居の原作とは大いに違っていた。われわれはこれを原作者の承認を得るために、ゴーリキイのもとに送った。」(自伝 160P)。

また、「ある役の演技に、すぐ形をつけようとする俳優は、陳腐な形にはまり込む危険を冒している。一個の芝居、一本の映画のいかなる部分たりとも、オリジナルな創造たらずんばあるべからずなのだ。」(自伝 161~162P)ともある。

原作者から映画化の同意が得られたことについては、原作者ゴーリキイが映画を芸術としては全く認めておらず、どうでもよく、送られてきた脚本も読まなかった、との話もある。
ロシア人プロデユーサーからの依頼仕事であるこの作品の製作に際し、ルノワールは熟練の脚本家、シャルル・スパークと共同で脚色して臨んだ。

原作にはない重要な役柄の「男爵」には、舞台俳優にしてフランス高等演劇学校の教授、パリ国立劇場の演出家でもあったルイ・ジューベを起用。
場末のミュージックホールからジャン・ギャバンを見出して抜擢し、ジューベと組ませた。

ジューベが演じた没落男爵。
ギャンブルで遺産を食いつぶし、自殺を決心した夜に泥棒に入ったジャン・ギャバンと意気投合する役柄。
ついにはギャバンらが住む、掃き溜めのような安宿に転がりこんでくる。

この男爵、没落する自身を「人生を振り返っても、その時々に着ていた服でしか覚えていない」と回想するほどで、没落してからが我が人生、といわんばかりの達観した人物。

ルイ・ジューベ扮する男爵(右)、安宿の女将(奥)

名優ジューベが演じる浮世離れしたこの男爵を見ていると、ルネ・クレールの「自由を我等に」で、財閥からもとの放浪者に戻った主人公の晴れ晴れとした気分を思い出す。
また、ルキノ・ビスコンテイの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で、無賃乗車した主人公の運賃を払い、しばらくは自らの露天商に同行させて去っていった、放浪詩人のようなキャラクターをも。

ギャバンとジューベと子供たち

安宿の経営者は、強欲な老人で、その妻はギャバンとの通じていたりする。
店子たちはいずれも老齢だったり、社会に不適合な人物ばかり。

この安宿の人物たちは、しかしルノワールが創造、演出すると、悲惨なばかりではなく、ユーモラスともいうべき人間味が加わる。
人間は必ずしもその一面だけの存在ではない、というルノワール流世界観の創出である。

再輸入、再公開にあたってのチラシ

カメラは彼らの芝居を丸ごととらえようと、あるいは邪魔しないように、長回し移動撮影でとらえる。
時にピントがずれるのも構わずに。

安宿のどぶに咲く一輪の花たる、ナターシャが意に添わぬ監督官に誘われてガーデンレストランでデートするシーン。
カメラは、べたべたするアベック客などの様子を捉えつつひたすら移動してゆき、ナターシャと監督官のテーブルに行きつく。
まるで舞踏会で繰り広げられる踊りの渦に迷い込むときのマックス・オフュルス(「輪舞」「たそがれの女ごころ」)の移動するカメラのように。

ルノワールは自伝でいう、「男爵は観客にとって親しみ深い存在となり、観客はギャバンと一体化して、男爵の物語を聞こうという気になるのだ。」(自伝 164P)。

ルノワールの「どん底」は、ルノワールとスパークが創造したルイ・ジューベ扮する男爵の物語でもあり、その人物により照射されるギャバンらどん底に住む人間味ある人物らの物語でもあった。

チラシ裏側

蓼科山登山

数年ぶりに蓼科山に登りました。
10月初旬の単独登山です。

数年前の初登山の時は、まだまだ足に自信がありました。
7月に登りましたが、蓼科山はツアー客やグループの中高年女性達であふれており、山頂には遠足に来た佐久穂町の小学生たちまでもいました。

当時は、9合目からの急な岩場に「降りてこられるかな?」と心配しながら登った山小屋おじさんでしたが、小学生の一団に交じり、ワイワイ言いながら降りてきたのを思い出します。

この日の蓼科山全景

数年後の現在は、前期高齢者となり、体に自信はありません。
果たして蓼科山に登れるのか?
ダメだったら帰ってこよう、と思いなおし、重い腰を上げました。

9時に登山口の7合目出発を目指し、携行食のおにぎりを握ります。
ほかに菓子パン1個と200ミリペットボトル1本の水を持参しました。
外へ出ると寒かったので、用意したヤッケのほかに、ジャージの上着を着こみました。
ジャージは登山中一度も脱ぐことはありませんでした。

出発前におにぎりを握って準備

平日の朝9時、7合目登山口に着くと最寄りの駐車場は県外ナンバーの車両で満車でした。
少し離れた駐車場に軽トラを止めます。

7合目付近の登山客はチラホラ。
夏山シーズンを過ぎた今、団体客はいませんでした。

7合目登山口前駐車場。午前9時

鳥居をくぐり、山頂の蓼科神社の参道でもあるのでしょう、歴代に渡って踏み均された登山道を歩きます。
夜の寒気が残った登山道はとても寒く、立ち止まると震えるほどなのでひたすら歩き続けます。
マツやシラカバの天然林が取り囲む登山道は光がほとんど射しません。

登山口には蓼科神社の鳥居が立つ
雷に打たれた?巨木が立つ登山道
登山道には山頂にある蓼科神社への道しるべも

やがて眼下に視界が開けてきます。
女神湖が遥か眼下に見えます。木々は紅葉し始めています。

登山道は大きめの石が転がる急な道になります。
足を取られないように坂を斜めに歩きます。
このルートの最初の難所です。
前を行くのは中高年夫婦。
山小舎おじさんとは同じペースです。
早い登山者は我々をいとも簡単に追い抜いてゆきます。

視界が開け眼下を望む。紅葉越しに女神湖が見える
高山植物が目を楽しませる
日陰には霜柱が残っていた

ゴロ場を抜けると将軍平。
山小舎が開店しています。
9合目に到着です。
ここまで約1時間かかりました。

9合目、将軍平の山小舎。土産物が並ぶテントも立っている

山小舎前のテントにはキーホルダーやTシャツなどをデイスプレイし、髪を後ろで結んだお兄さんが山小舎を切り盛りしています。
頼めば食事も出ます。
有料のトイレもあります。
今朝はマイナス2度だったとのこと。
登山客はここで休憩し、最後の岩場の登りに備えます。

最後の岩場へ向かいます。
文字通り手足を使ってよじ登らなければならない急坂に大きな岩が重なっています。
健脚でバランスのいい人はひょいひょい登ってゆきます。
岩と岩をひょいひょい伝って下ってゆく人もいました。
健脚でもあり山で鍛えられている人です。

9合目からは岩場になる

急な岩場の登り体力も消耗します。
自分のペースを意識しますが時々立ち止まらざるを得ません。

思い出してナンバ歩きをやってみました。
ナンバとは日本古来の体の使い方で、足と手を同時に出す歩き方などを言います。
本で読んだだけのニワカですが、例えば下半身の動きを足から下の筋肉にだけ任せるのではなく、骨盤や上半身とも連動させて行うことだとすると、こういった急坂の上り下りには有効だと思いました。
大きめの段を下りる時など、自然に足と手を連動させますが、ああいった動きのことだと思います。
心持、登る速度が上がったような気がして、励みになる山小舎おじさんでした。

急な岩場には鎖も
岩場から眼下を望む

山頂に至る岩場は、崩れる心配もなく大勢の登山客の足場になっています。
昔から昇りやすいよう、岩が崩れないように整備されていたことがうかがわれます。
先人たちの思いと努力に感謝です。

頂上が見えてきた

ようやくの思いで山頂に着きました。
標高2530メートルの山頂は風が強くて寒く、大きな岩がゴロゴロしています。
ここでおにぎりを食べるのは早々に諦めます。
10月の天気はあくまでも天高く、八ヶ岳の山並みや眼下の町々がクリアに見えます。

頂上に建つ山頂ヒュッテ
頂上から八ヶ岳連峰を望む

三角点まで行って記念撮影していると、次々に撮影を頼まれます。
その中の舞鶴から来たという60歳過ぎの男性と話しになりました。

頂上から下り、将軍平の山小舎前の陽だまりでおにぎりを食べながら改めて話しました。
この男性は、退職後の趣味で登山をしており、今回は木曽駒ケ岳などに行ってきたとのこと。
退職後の第二の人生についての話しになったので、三々五々、此方の現状も伝えると、男性は山小舎おじさんの単独田舎暮らしに驚き、「奥さんの理解がなければできませんねえ」といいました。
「お互いやりたいことはできるうちにやろう」とエールを交換して別れました。

頂上の岩場を三角点へと向かう
頂上の三角点に建つ標識

下りは体に負担がかかりました。
将軍平でのおにぎりの後、山小舎でコーヒーなど飲んで休養をたっぷりとったのですが、ほぼ休みなしで歩いた下りは足腰にきました。
最後は足の筋肉が言うことを聞かなくなる寸前でした。

同行者がいるなど目的や気晴らしがないと登山は楽しくないこと。
自分に合ったペースを守ることもさることながら、たっぷり休憩を取らないと体力が回復しないこと、を痛感しました。

軍手が必要だったことにも気が付きました。
登山では、態勢を崩したりして砂利や岩に手を突くことがあります。
素手で登った山小舎おじさんは、手が傷だらけになりました。

足の筋肉が悲鳴を上げた蓼科山登山でしたが、滞留していた体内の気がすっかり一巡したような爽快感を得られたことも事実です。

ヘチマでたわしを作る

畑に2本ヘチマがぶら下がりました。
今年初めて植えてみたヘチマです。

収穫しました。

ヘチマの利用方法は・・・。
実ができたツルから樹液を採ってヘチマ水にする。
実を乾かしてたわし(スポンジ)を作る、しか知りません。
たわし作りにチャレンジすることにしました。

ネットで作り方を調べました。

先ず、適当なサイズにヘチマをカットします。
たわしやスポンジになった時に使いやすいサイズです。

次いでカットしたヘチマを煮込みます。
皮つきのまま自然乾燥させても、あるいは水につけて皮が腐るまで放っておいてもできるそうです。

煮込んだヘチマを自然冷却させて皮を取ります。
よく煮込むと皮はするっと取れます。
煮込みが弱いと、包丁などでむかなければ皮は取れません。

皮の緑色が色濃く、またワタに種をたっぷり仕込んだヘチマが出現します。
このまま乾かすわけにはいかないので、水にさらします。

何日か水に漬けておくと、だんだんに色が抜けてゆきます。
水を取り替えるたびに種が出てきます。
繊維が思ったより強いのでびっくりします。
十分たわしやスポンジになりそうです。

そろそろ色も抜けて、種も出きったようです。
明日から水気を絞って天日乾燥させることにします。