ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 月形龍之介、大友柳太朗の巻

月形龍之介

明治35年生まれの月形は、宮城県生まれの北海道育ち。
戦前に日活映画からスタートし、マキノ映画などを経て、自前のプロダクションを作ったり、フリーとして活動するなりして戦前を過ごす。

ポートレート

時代劇スターとして活躍し、坂東妻三郎、大河内傅次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。
他のスターが歌舞伎のケレンや踊りをベースにした立ち回りを行う中で、月形の立ち回りは剣道から作り出したといわれる。

戦後は1949年に東横映画に入社。
以降東映時代劇の重鎮として千恵蔵、右太衛門の両御大に次ぐポジションで、1954年からの「水戸黄門」シリーズ全14作で主役を務めた。
わき役としても、時代劇や任侠映画など多数に出演し、場面を締める。

ワイズ出版より発刊の「月形龍之介」

山小舎おじさん的には1963年の「人生劇場 飛車角」(沢島忠監督)の吉良常役が印象的。
枯れすすきのような古侠客の風情で、坊ちゃんこと青成瓢吉(梅宮辰夫)の面倒を何くれとなくみる役を演じ、「昔は強かったんだろうなあ」という凄味を感じさせた。
この時月形龍之介61歳、まだ最後に一仕事できそうな気配も残していた。

ラピュタの「新春初蔵出し 東映時代劇まつり」では、月形主演の「水戸黄門」シリーズ第12作「天下の副将軍」が上映された。

「水戸黄門「シリーズのムック?

「水戸黄門 天下の副将軍」  1959年 松田定次監督  東映

監督の松田定次は、春日太一著「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」によれば、時代劇全盛時代の東映で、「天皇」あるいは「お召列車」と呼ばれていた。
そのココロは、盆と正月用のオールスター大作を任され、キャステイングからスケジュール、スタジオの使用順に至るまで最優先の待遇を受けた監督だったから。

撮影は監督のお気に入りで、隅々まで明るく照らすライテイングにより、スターを明るく映す、明朗快活な画面作りの川崎新太郎カメラマン、編集は宮本信太郎という鉄壁の布陣。

キャストは黄門に月形龍之介、助さん角さんに東千代之介と里見浩太朗、番頭に大河内傅次郎。
黄門一行に絡む隠密に大川橋蔵、大井宿の飯盛り女なれど実は家老の落とし胤に丘さとみ。
黄門の実子で高松に送り込まれていた若き藩主に中村錦之助、藩主の御そばの女中に美空ひばり。
両御大をこそいないが文字通りのオールスターキャスト。
東映の若大将・錦ちゃんにはひばりを配するサービスで、月形黄門を盛り上げる。

ポスター

この日のラピュタ阿佐ヶ谷は、平日の13時からの「水戸黄門」が何と満席。
オール70代以上で、ラピュタには珍しく女性客も数人(全員70代)。
予備椅子も出される熱気の中、上映開始。
館内の雰囲気は、65年前の地方の東映直営館もかくや。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーより

テレビの黄門様しか知らない世代には、月形黄門の眼光の鋭さ、顔つき、声の重々しさに恐れ入る。
片や、千代之介、里見の助さん角さんの若きやんちゃぶりにも驚く。

何せ、江戸の湯屋(湯女が、湯殿から座敷まで付きっ切りでサービスする)で湯女相手にお銚子を傾けるという登場シーンから、黄門様との道中では寝床を抜け出し、飯盛り女を上げての大騒ぎ、挙句飲み代を飯盛り女に立て替えさせ(そのために女に結婚を約束するという恋愛詐欺まで行う)る助さん角さん。

目的地の高松では情報収集のために辻でリズムに乗った大道芸の踊りまで披露。
テレビでの品行方正ぶりはどこへやら、威勢のいい江戸の若者とはこうだったのだ、と言わんばかりの、酒と女への親和性あふれるやんちゃぶりとイキの良さ。
いざという時の喧嘩の強さはテレビ通りだ。

流れの包丁人にしてその正体は公儀隠密、に扮する橋蔵は、持ち前の二枚目半。
ご乱心姿の若殿姿で登場する若大将・錦ちゃんも、乱心姿の流れるような動きがいい。
見守るひばりが、いつものべらんめえ姿ではなく、育ちのいいお嬢様を演じて若く、かわいらしい。
飯盛り女変じて、黄門一行の道中仲間となる丘さとみは、千代之介を一途に愛する田舎娘を自由自在に。
番頭、大河内のコミカルな演技が珍しい。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーにて

大団円に至るチャンバラシーン。
テレビなら葵の御紋に悪漢がひれ伏すが、映画では最後まで抵抗する悪漢(いつもの山形勲)と、黄門一行の一進一退の攻防が、大人数の殺陣で繰り広げられる。
最後は黄門自らの一刀で悪漢を成敗するが、眼光鋭い月形黄門ならば説得力十分。

エンドマークとともに、平均70歳代の場内からは拍手が起こりました。
映画館で拍手を聞くのは何十年ぶりでしょうか。

撮影中のスナップ。月形龍之介と丘さとみ

大友柳太朗

大友柳太朗は、明治45年生まれ、新国劇から戦前の新興キネマ入りし時代劇で活躍。
戦後しばらくは地方巡業などで糊口をしのいでいたが、1950年ころから時代劇映画の復活とともに、活躍の場を映画に戻す。

1950年代の東映時代劇で「怪傑・黒頭巾」シリーズ、「丹下左膳」シリーズ、「右門捕物帳」シリーズなどに主演し、人気を博す。
誰もが認める殺陣の鮮やかさに加えて、乗馬技術に秀でており、豪快に笑う姿が印象的で、一時は千恵蔵、右太衛門の両御大や錦之助、橋蔵、千代之介の三羽烏を凌ぐほどの稼ぎ頭といわれた。

黒頭巾姿の大友柳太朗

一方、活舌の悪さには本人も悩んでいたといわれ、その骨太な体格・風貌と田舎訛りの抜けないイントネーションは、のちに見る者をして「大時代的な芝居をする、田舎の豪放磊落なおじさんのよう」だと思わせた(山小舎おじさんの印象です。為念)。

走る!丹下左膳に扮して

ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春東映時代劇まつり」では、50年代から60年代にかけて5本製作された、大友主演の「丹下左膳」シリーズから2本が上映され、最終作となる「乾雲坤竜の巻」を見ることができた。

「友の会」編の自伝がワイズ出版から出ている

「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」  1962年  加藤泰監督  東映

「丹下左膳」は片目片腕のニヒルな怪剣士。
浪人として長屋に住み、常に妙齢の美人がそばにいて、厄介な事件があると表ざたになる前に実力で解決し、その過程でやむを得ずお上に逆らったりすると、無数の御用提灯が孤軍奮闘する当人を取り囲む、というのがお決まり。
戦前は大河内傅次郎の当たり役だった。
大河内の左手一本の殺陣は、腰の座り、膝の落とし方、動きの速さが見事で、口を使って鞘を抜く動作がかっこよかった。

戦後は、日活で水島道太郎の主演、マキノ雅弘の監督で3本作られた。
東映での大友柳太朗の主演シリーズは、松田定次の監督により4本、加藤泰監督により1本(本作)が作られた。(以降単発作品はあり)。

封切り時のポスター

東映でのシリーズ中、本作だけが白黒の低予算だった。
加藤泰監督による「作家性に強い」作風が一般受けしないという会社の判断は当たることになる。

巻頭から暗めの照明、ローアングル、全景を説明的に捉えないカメラでの殺陣で始まり、見る者を加藤泰ワールドに引き込む。

両目、両手が健在だった相馬藩下級武士の左膳が、藩主の個人的密命を受けて、町の道場から家宝の刀大小を強奪しに乱入したシーンだ。
右目を斬られながら、身を欺くあばら長屋に、長太刀乾雲だけを抱えて、命からがら転がり込む左膳。
長屋の隣にはスリで世を渡る東千代之介と、普段は旗本崩れの情婦をしながら千代之介と訳ありのコンビを組む年増の久保菜穂子がいた。

封切り時のプレスシート

何せガチガチの封建武士として主君の命令は絶対。
出世の野望は使命を果たすことによってのみ叶えられる。
こういった武士時代の左膳を、地面をはいずり回るように演ずる大友柳太朗。

道楽で刀を集めたがり、そのためには下級武士の命や心などなんとも思わない貧相な相馬藩主には、いつもは庶民役の花澤徳衛。
花澤は道場から乾雲を強奪したことが事件化されようとなると、南町奉行の大岡越前(近衛十四郎)に対し「左膳なるものは知らないし、乾雲などは持ってもいない」とシラを切る。
正義の味方でもなんでもなく、タヌキ官僚である越前守は、心得たとばかり得意技の「なかったことにする」対応で、事件を左膳一人に負わせ、藩主には恩を売って済まそうとする。

左膳を介抱し、牢獄から救い出し、深手を負った右腕を切り落とし、回復まで養生させる長屋の訳ありコンビが、日陰者の貧乏暮らしながら逞しい。
二枚目半の達者ぶりを見せる千代之介の飄々とした人間らしさと、新東宝倒産後に他社で活路を見出した久保菜穂子の女っぷりがいい。
彼女は左膳に惚れるし、左膳の心が町道場の娘(桜町弘子)にあることを妬いたりする。
左膳の持つ、己を捨てた一途さと危険な香りに女は惹かれるらしいが、そこのポイントも映画は押さえている。

物語は下級武士・左膳の主君への反逆という、おそらく現実の世界で到底あり得なかった、カタルシスを迎えて大団円を迎える。
左膳と町道場の娘の、敵同士の禁断の恋は、結局左膳の方から撤退するのだが、それでも割り切れぬ人間同士の情の不可思議さは、剣を切り結んだ二人の触れるか触れないかのキスシーンによって描かれる。

脚本は石堂淑朗。
大島渚の一期下の松竹助監督時代に、大島の「太陽の墓場」(1960年)、「日本の夜と霧」(1960年)を執筆。
「日本の夜と霧」の上映打ち切りに抗議して、大島とともに松竹を退社した。
その後に東映で大島が撮った「天草四郎時貞」(1962年)の脚本を書いたのも石堂で、「丹下左膳」は「天草四郎」と同年の製作。

さすが気鋭の石堂脚本、丹下左膳誕生までの秘話をオリジナルの解釈で描き、武士階級の腐敗と封建性批判、庶民の逞しさを俯瞰・強調し、さらには左膳を巡る女性らの割り切れぬ性にまで筆をすすめた見ごたえのある構成・・・と思いきや。

実は本作のストーリー、1956年に日活でマキノ雅弘が撮った「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の三部作とほぼ同じ内容でした。
同作品の棚田五郎(誰かの変名?)なる人の脚本を下敷きにしておりました。

映画評論家川本三郎の「時代劇ここにあり」という本の「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の項を読んでいたところ、そのストーリーが本作、大友柳太朗版「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」とほぼ同じだったのです。
やはり当時30歳前後の石堂淑朗にここまでの仕事は無理だったか。

川本三郎著「時代劇ここにあり」表紙
「時代劇ここにあり」よりマキノ版「丹下左膳」ポスター
マキノ「丹下左膳」の一場面。東映版のオリジナル

ただし細部には石堂カラーが出ていたようです。
相馬藩主の俗物性や卑近さ、江戸の司法をつかさどる官僚(大岡越前)の事なかれ主義、権力側の都合で使い捨てられる下級武士の怨念、江戸の庶民階級のしたたかさなど物語の細部については、現代語を俳優にしゃべらせながら強調されていました。

加藤泰の演出には彼流のスタイルが存分に発揮されていました。
東映時代劇の伝統である、隅々まで明るいライテイングや、主人公を中心にしたわかりやすい殺陣などを完全に無視し、ひたすら暗い中で蠢き、痛さの伝わる殺陣に拘っていました。

左膳の潜む長屋のセットの障子の破れ具合など「リアルな」貧困も、これでもかと表現されていました。
が、貧乏人程表面を繕い己の悲惨さを隠したがるもの、映画表現とはいえ「貧困」を強調するのに度が過ぎては、「リアル」を通り越して、「不自然」にもなりかねないのでは?と感じたのも事実。
「リアルな」表現とは何かを考えさせられました。

また加藤泰の演出には、久保菜穂子への傾倒ぶりがありました。
東映お仕着せの桜町弘子への型通りすぎる演出や、筑波久子の顔見世だけの描写に比べ、久保菜穂子に対するこだわりは、単に左膳に惚れた訳あり年増の粋を越えているように見えました。
これが加藤泰の「粘り」というものなのでしょうか。

この作品における女性性、庶民の逞しさ、裏の世界というものを表し、また彼女を通して左膳の男性性を描くために、彼女は必要なキャストだったのでしょう。
女ざかりの久保菜穂子は加藤泰の演出に十分に応えた演技でした。

ヒットせず、シリーズ打ち切りが決まった本作ですが、ストーリー、画面共に見ごたえがあり、60年代の新機軸を予感させるような作品ではあります。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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