おじさんの食堂探訪VOL.9 中島飛行機とICUと松浦武四郎

今日は春の陽気です。
昨日は久しぶりの降雨。
今日の気温は18度の予報です。
おじさんは春風と花粉に乗って食堂探訪へと旅立ちました。

中島飛行機製作所跡地のSUBARU

三鷹のスバル工場です。
かつての中島製作所の武蔵野研究所の跡地に建ちます。
中島製作所(のちの富士重工)は日本の航空産業の草分けで、陸軍に採用された隼とその後継機・疾風、また一式陸攻などの有名軍用機を開発しました。

ゼロ戦を開発した三菱と並ぶ、国内航空機メーカーの2大看板です。
そもそも日本にはこれまで(現在も)数社しか航空機を作れるメーカーはなく、同社の格と力量がわかろうというものです。

敗戦後、日本の軍需産業(及び関連するメーカー)、研究所は解体もしくは分割されました。
中島製作所は12の会社に分割されたとのこと。
三菱重工が3分割、それも業種ごとの分割ではなく、地域ごとの会社分割で、案の定すぐに再統合したのと比べると、中島製作所の扱いは厳重といわざるを得ません。
進駐軍の同社に対する「本気度」がわかろうというものです。

三菱への対応とに明らかな差があるのは、明治維新前から三菱のバックに外資がついているのも理由の一つでしょうが、進駐軍が中島製作所の能力を恐れていたからではないでしょうか。

中島製作所の主力工場は群馬(今のスバル太田工場)にありましたが、研究所が武蔵野(現三鷹市)にありました。
そこの跡地に、富士重工時代を経て現スバルとして会社が残っています。
少し前までは工場だけが建っていましたが、今はショウルームも併設しています。

中島製作所跡地の外側を巡る

中島飛行機武蔵野研究所の敷地は戦後、ICU(国際基督教大学)となりました。
ICUの設立が1953年だそうですから、戦後8年たっています。
その間、中島製作所は、進駐軍に接収されています。
中島製作所の後継会社・富士重工の敷地は全体の1/5程に縮小されました。

正門からの一本道とロータリー、それに続く研究所本館の建物は、製作所時代のまま残され、本館はICUの本部になりました。
国分寺崖線のハケの下の地域は、進駐軍のゴルフ場となりました。

おじさんは、旧中島飛行機の敷地外側を自転車で回ってみました。
スバルの工場の外塀を過ぎると、ゴルフ場として進駐軍に使われていた場所が、都立野川公園として開放されています。

やがて、敷地は住宅地と接してきました。
敷地の北側には、中近東文化センター、ルーテル大学などがあります。
これらも中島製作所の敷地でした。

ICU構内に残る松浦武四郎の遺産

この辺り、国分寺崖線のハケの地形で、日当たりと湧き水に恵まれています。
縄文遺跡が多数見つかっています。
大学構内に博物館があり、土器などが展示されています。

この博物館の展示品の中に、蝦夷地や樺太の探検で有名な松浦武四郎が晩年建てた、一畳敷という一室のレプリカがあります。
松浦が探検を終え、晩年を日本で過ごす際に建てたという一室で、文字通り畳一畳の広さの小屋です。

独力で蝦夷地と樺太の地図を測量したという孤高の探検家が達した境地なのでしょうか。
起きて半畳寝て一畳といいますから。

その室が時代を経て中島飛行機の経営者の手に渡り、この地に移築されたとのこと。
泰山荘という建物群の一棟として保存されているそうです。
よくICUは壊して薪にせず残してくれたものです。
実物を見ようと泰山荘の中を捜しましたが、一畳敷については、関係者以外は立ち入り禁止とのことで、見ることができませんでした。残念。

ICU学食でタレカツどん

昼食はICUの学食へ。
タレカツどん。380円。
味は、国立系のCOOP食堂よりも良かった。量もたっぷり。

何よりも食堂が広いのがいい。
電通大の食堂の数倍はあろうという広さ。
若い学生たちがうれしそうに集っている。

ICUのイメージとしては英語が飛び交うアメリカンなカレッジライフだが、実際は大多数が日本人の学生で、のんびりと育ちのよさそうな雰囲気の学生が多いような感じがした。

ICU。
桜並木が続くエントランスと軍用機製作所の建物を本部とする進駐軍が作った大学。
日本の戦争時代と占領時代が見事にクロスしています。
学生たちの明るさがすべてを解決してくれそう?な気がしました。

梅がほころび始めた武蔵野の早春のことでした。
お粗末。

おじさんの徒歩散歩VOL.1 早春の西東京を歩く

今日はぽかぽか陽気でした。
おじさんは用事の帰り、陽気につられて、西東京市の旧保谷エリアを散歩しました。

フラワー通り商店街

西東京市の谷戸というエリアから泉町方面にかけて、住宅街の細い道沿いに、フラワー商店街という通りがあります。
庶民のにおいがする街の風景が大好きなおじさんは、さっそくその商店街へ行きました。車のすれ違いが困難なほどの道幅。
店の並びもまばらで、大規模店などは全くありません。
八百屋、電機屋などがぽつぽつと開いています。
街灯にフラワー通りという看板がついていなければ商店街なのか、住宅街なのか、一見してわからないほどです。

ギリギリ、商店街としての体裁が維持された風景で、おじさん、嫌いなシチュエーションではありません。

商店街の一角で和菓子と海苔巻きを商っている、明治屋という店がありました。
かつて家人がここで買ってきた、草餅がおいしかったから、おじさんはこの店へ寄りました。

餅の歯ごたえがいい草餅や桜餅、まんじゅうなどのほか、海苔巻き弁当も並んでいました。
おじさんは、草餅と桜餅を2個づつ買いました。

桜餅は、皮であんこを巻いた関東スタイルのものです。
おじさんの出身地では、半搗きの餅米であんこを包む、いわゆる道明寺が桜餅と呼ばれていました。
そのせいか、今でも関東スタイルの桜餅への違和感が消えませんが、郷にいれば、です。

商店街を過ぎたあたりに、岩船地蔵尊が2体祀られていました。
1700年ころ、このお地蔵さんを御輿に担ぎ、念仏踊りをした一団が現れる現象が起きたという。

後の、ええじゃないか現象につながる民衆のエネルギー発散の歴史の一幕なのだろうか。

庭先で実をつける夏みかん。
北国、雪国では見られない風景です。
武蔵野地方が温暖であることを象徴的に示しています。

冬に咲く椿は盛りを過ぎていました。

白梅が咲き始めていました。春間近です。

東伏見駅前の自然食糧店・美味

おじさんは谷戸から東伏見まで歩いてきた。
今日の目的の一つは、駅前の自然食店・美味を捜すこと。

おじさん、30年前は自然食関連業界で働いていた。
その時の同僚N氏に最近久しぶりに会ったのだが、会社OBの近況で、同時期に同じ会社で働いていたHさんという人が東伏見で自然食品店をやっていると聞いたのだった。

実はHさんの名を聞いても、おじさん思い出せなかった。ひょっとしたら本人を見て思い出せるかな?と、後学を兼ね、アポなし訪問をした次第だ。

店は元気に営業していた。
品揃えがよく、固定客がついていることがうかがえた。
営業37年目とのこと。Hさん本人は仕入れで不在だったが、奥さんが話を聞いて応対してくれた。
おじさんがHさんの顔を思い出せないというとアルバムまで出してくれた。同じ会社といっても、お互い別の事務所所属だったようだ。写真を見ると、永福の事務所にいた(おじさんは調布の事務所で配送の担当だった)真面目そうな人の記憶がかすかによみがえった。

おじさんのアドレスを印刷した、名刺代わりの紙を奥さんに託して辞した。
三年番茶を1本頂いた。
木で3年たった葉を焙じたもので、もともとは陰性の茶葉が陽性化しており、体を温めるとのことだった。

おじさんも自立に向け頑張ろうと思った。

おじさんの食堂探訪VOL.8 仙川にラーメン屋を訪ねる

東京の最高気温は6度だ。真冬の気温だ。
おじさんの住む調布は、都心より2,3度低いかもしれない。今日の食堂探訪は、地元調布の仙川というところにあるラーメン屋を訪ねた。

おじさんのラーメンの思い出

おじさんは北海道旭川出身だから、ラーメンには幼いころから馴染んでいる。
小学校に入る前、母親のお供で街に出た時の昼食はラーメンが多かった。

当時のラーメン屋では蜂谷という店しか思い出せない。
旭川の中心部にあり、まったく普通の食堂形式の店内は、常に客で混んでいた印象がある。

店員のおばさん(お姉さん)は「脂濃くしますか?」と聞いて来るのがお約束だった。
いつも、「普通」で頼んでいたが、もし「濃く」で頼むとしたら、スープにはどのくらいの脂の脂が浮いて出てきたのだろうか?

ラーメンは湯気も威勢よく、どんぶりの淵、ギリギリまでスープが注がれた状態で出てきた。
当時はそれが当たり前の味だったが、今思えば、鶏がらベースにかなり魚介系が効いた出汁で、中太麺の量も多く、食べ応えがあった。

そのころ旭川では、みそもとんこつもなく、ラーメンはしょうゆ味が普通だった。
おじさんは、当時の蜂谷のラーメンほどうまいラーメンを、それ以降食べたことがない。

仙川のしば田というラーメン屋へ

息子に教えてもらった仙川のラーメン屋へ行く。
あっさりした昔風の味で、行列店だとのこと。

若葉商店街というエリアの一角にあった。
平日の昼時を過ぎているのに行列があった。
7,8人なので並ぶ。
大行列だったら帰ろうと思っていた。

バス通りながら狭い道に面した店で、自転車の置き場もない。
黙々と並ぶ人達。
この孤立感は映画ファンにも共通するものがある。
同好の士ながら、話しかけられるのを恐れ、バリアを張り合っているようなところが似ているのだ。

最高気温6度の寒さには耐えうるものの、店の空調の屋外機からの冷気がまともに吹きかかる場所に列が進んだときには若干虚無的な心境になったが我慢。

やがて店内へ。
カウンターのみの8席ほど。
メニューは中華麺普通と煮干し味の二通りのようだ。
中華麺を頼む。850円。
話に聞いていた通りのあっさりしょうゆ味。
しょうゆの効いたスープの色、脂の浮き具合もいい。
あとはもうちょっと出汁の味がつよければ・・・。

最近はやりのとんこつ系の脂ぎった感じよりは数段好みの味だった。
自家製風のチャーシュウが、がっちり3枚乗っていたのもボポイント。
昔風か?と言われれば、コンセプトはそうに違いないが、という感じ。
現代のラーメンとしてこれはこれでいいのではないか。
飽きの来ないラーメンらしいラーメンだった。

おじさんの食堂探訪VOL.7 国分寺駅北口風景の激変と変らぬ店たち

国分寺まで行きました。
おじさんの自転車散歩コースの一つです。
野川公園、武蔵野公園、府中運転試験場、小金井を抜けてゆきます。

野川公園から運転試験場までの道

国際基督教大学というところがあります。
中島飛行機製作所(現富士重工)の跡地に戦後作られた大学で、ゴルフ場まである広大な敷地を有していました。
そのゴルフ場が野川公園という公園になっています。

おじさんは公園の前を自転車で走ります。
西武線が高架で横切ると、公園は武蔵野公園と名を変えます。公園が途切れると府中運転試験場があります。
都内では鮫洲と並ぶ2大運転試験場として君臨しています。おじさんも免許更新のたびに通っています。
試験場の向かいには広大な多磨霊園が広がっています。
試験場の横には閉店した食堂が残っていたりします。

小金井市内を抜けます。
カンデルというパン屋へ寄ります。
自宅の庭先に小屋を建て店にしています。
フランスで修業したという女性の職人が焼いています。
月水金のみの営業ですが、バケットは本格的です。
外がカリッとして中がもっちりしており、香ばしいパンです。

国分寺駅北口の激変

国分寺駅の北口です。
駅ビルからタワーマンションが建ちあがっています。
写真に写っているもの以外にもう一棟あります。
遅れてきた「バブルの塔」のようです。
バブル時代は30年以上前なので少々遅れすぎですが、今やっと武蔵野は国分寺の地にバブルが到達した、ということなのでしょう。

駅ビル構内にはこれでもかというくらいに食品スーパーなどの商店が立ち並んでいます。
贅を凝らした店店の前を通らないと駅の改札口にたどり着けない構造になっています。

衣食住と通勤をセットにして提供された商品を見ているようです。
少しでも時間を無駄にせず、仕事と消費に励むよう巨大資本に強制されているがごときです。

駅前は商店街がすっかり撤去され再開発中です。少し前までは旅館、果物屋、パチンコ屋などが軒を連ねていました。
この通りの左側も商店街でした。

駅前に残る食堂で昼飯

北口商店街の一角に残る食堂だるまやです。今のところ再開発の波が及んでいません。
マンションビルの一階なのでしばらく残るでしょう。

かつては昼時は満員でしたが、今日の客はほかに3組ほどでした。おじさんかつてこの食堂でカツカレーを注文し、その量と、カツの硬さに往生したことがありました。
今日はアジフライにします。
アジは大振り、ご飯も大量でした。素材と調理は相変わらず粗いながらも腹いっぱい。690円でした。
なお、揚げ物は粗かったものの、みそ汁と漬物には年季を感じました。

キッチンは高齢のおじさん一人とおばさん二人。
ホールはバイト風のお兄ちゃん一人でした。

駅周辺の変らぬ店たち

北口商店街にある古本屋です。
先代の女主人の時から国分寺に行くと顔を出しています。
先代の時はホームレス風の人も雑誌を持ち込んでくるような店で、話し好きの主人の人柄が偲ばれました。
今は若めのこれまた女主人に代わっています。
隣の団子屋が高齢の高齢で閉店したので、店を拡張するようでした。

音楽喫茶の田園です。ここの女主人は本物の高齢者で90歳近いのではないでしょうか?伝説の店です。
今日はまだ準備中。

国分寺など三多摩地区はうどんが名物。
うどん好きには有名店です。

ボクサーの輪島功一がオーナーの団子屋です。
今日は草とゴマを買いました。巻物類もおいしそうです。

北口の外れに残る建物。ホテルと食堂を兼ねています。
味の名店街といっても現在は食堂は一軒だけのようです。
ザ・昭和です。

西武国分寺線の旧改札口から延びる道はかつての国分寺駅前の雰囲気を残しています。
通りにある純喫茶です。
ちなみに西武線の改札口は新しい駅ビルに組み込まれており、この道は西武バスのターミナルへと続く道となっています。

南口に行きました。
駅ビルが巨大にそびえています。
ロータリーと放射状に走る道は国立の駅前に似ています。

中央線カルチャーと全共闘世代の終着駅・ほんやら胴です。
伝説過ぎて恐れ多く、全共闘世代より5歳ほど若い山小舎おじさんは、この店に入ったことはありません。

ほんやら胴の近くに新しい古本屋がありました。

帰りに三億円事件の現場を見る

三億円事件の現金強奪現場です。
府中刑務所の壁沿いの道路。
当時からあった歩道橋付近が現場とのこと。

向かいが小学校のグラウンドです。
事件当時は雨でしたが、晴れなら校庭から事件を目撃する目の数が多いことが予想されます。
本通りの府中街道にもすぐの地点です。

正門です。

人目の多い場所で起こった、荒っぽい事件だったことがわかります。
迷宮入りしたのは、解明できない、解明してはいけない、何か理由でもあったのでしょうか?

おじさんの食堂探訪VOL.6 神田お茶の水に昭和の東京を捜す

冬ばれの日。
気温12度と立春間近の陽気に誘われて、おじさんは久しぶりに電車で遠出。
東京は神田お茶の水界隈に、昭和の味と風景を捜してきました。

御茶ノ水駅と聖橋

JR御茶ノ水駅。
日大、明大、予備校などがひしめき合う学生の町。

聖橋から下を眺める。
立体交差する線路と外堀(神田川)。遠くに見えるアーチ形の鉄橋。
東京らしい風景です。

JR線と神田川にかかる橋は聖橋です。
名前の由来は橋を挟んで建つ二つの「聖」こと、湯島聖堂とニコライ堂の間の橋だからとの由。
江戸時代からの学問の中心地なのですね。

湯島聖堂は中国由来の儒学の日本総本山だったところ。
堂々たる中国建築が残っています。
屋根の魔除けは鳳凰と、トラでしょうか?一方、聖橋を挟んで南側にあるニコライ堂。
ハリストス正教会とのことで、同様の教会は函館にもあることを思い出しました。
ドーム型の屋根があたりを睥睨しています。

神田明神は江戸城の鬼門の守り神

江戸の総鎮守府として、江戸城の鬼門を固める神田明神。
当時の朝廷に反逆し、平定された平将門を祀り、その怨念を封じてもいる。
いわば、東京で最強のパワーを誇る神社。季節を問わず参拝客が引きも切らない。
御茶ノ水駅から聖橋を渡り、湯島聖堂を過ぎたあたり。
やがて秋葉原の空気の漂うかというあたりに鳥居が出現する。朱色の塗りも新しく、常ににメンテナンスされている社屋が、地方の古式豊かな神社に比して、ありがたみを減じてはいるものの、反面、都心で常に人が集まる場の、リアルタイムのパワーを存分に発揮している。

今日は2月とはいえ、拝殿に向かい並ぶ多くの人々の姿がった。
おじさんも、今年初めての参拝。家内安全のお札も買いました。やはりこの辺りは学問と縁の深い場所でした。

地元の中華食堂「やまだ」でチャーハンセット

昼食はおじさんお気に入りの食堂にします。
御茶ノ水駅から徒歩3分。やまだ食堂です。
土曜にもかかわらず満員。といっても席は20程です。

ラーメンを中心に中華定食が主なメニュー。
ラーメンは昔ながらの東京風。麺に歯ごたえがあります。
チャーハンは、今どきの「ご飯粒に油がコーテイングされた」パラパラしたものとは違い、お米のでんぷんの味が残る和風のもの。
今の若者が食べたら、なんだこれ?と思うかもしれない手作り感。
かつての家庭のチャーハンはこんな味でした。
量はたっぷりあります。670円。サービスは純日本人のおばちゃんによるもの。
客さばきもテンポよく。安心していただけます。

おじさん行きつけの理髪店です。高齢のおばちゃんが、たっぷり時間をかけて丁寧に刈ってくれます。ここで一回刈ってもらうと、3か月は無理も、2か月髪が持ちます。
1800円。駿河台下交差点付近にあります。

おじさんの食堂探訪VOL.5 旧甲州街道をゆき府中の市場で昼食

今日のおじさんは、自転車で調布から府中まで旧甲州街道沿いに行き、府中の卸売市場を目指しました。

旧甲州街道点描

国道20号線の旧道。
旧甲州街道は江戸五街道の一つ甲州街道のオリジナル路線を踏襲している道です。調布から自転車で府中を目指します。
まず最初に目に入るのがおそらく調布で唯一現存する火の見やぐら。しばらく行くとお寺の前庭に、近藤勇の座像もありました。

沿道でみられる家屋。
戦前の建築かもしれません。
古民家というほど古くはありません。
江戸時代からの建築は全く残っていませんが、100坪を超える広い敷地に建つ、古い民家は多く残っています。
街道沿いの民家は「リッチ」だったのでしょう。

塗り壁りの蔵です。軟石づくりの蔵もありました。

府中に入って、白糸台というところで西武鉄道是政線の踏切を渡ります。右手が武蔵境方面。左手が競艇場のある是政方面です。

府中の中心部に至るまで、江戸時代はおろか昭和の風景さえほとんど残されてはいませんでした。
「リッチな」場所は時代による変遷の具合も激しいのかもしれません。

人形店がありました、数少ない昭和の風景でした。。

武蔵八幡神社という神社。
参道を電車が横切る珍しい神社です。

府中の中心部に到着しました。高層マンションが立ち並ぶ都会です。

1000年の都、武蔵国府跡

府中のシンボル、大國魂神社横に、武蔵国府跡の資料館があります。1000年以上前、ここに武蔵野国の国府がありました。
武蔵国とは律令時代の日本の行政の一単位で、今の東京、埼玉、神奈川東部を合わせた地域。
そこの首都が現府中にあったのです。

ちなみに信濃国の国府は現在の上田でした。
国府の歴史を継いでいるのか、府中には税務署、刑務所などがあり、今でも一帯の行政の中心地でもあります。
競馬場、競艇場もありますが。

祝福された場所、大國魂神社

武蔵国一之宮にて、創建1500年を誇る大國魂神社。
京王線府中駅から徒歩5分。
府中のみならず、近隣のメルクマールとして存在している。

おじさんは調布在住なのでめったに来ないが、三多摩地方の住人として新年のあいさつに参拝。

境内に入って改めて思った。この場所は祝福されていると。

平日でも引きも切らぬ参拝客と、それを迎えてゆったりとほほ笑むかのような雰囲気。

これに比す場所は、近隣では深大寺くらいか。
改めて本殿に向かいこれまでの無事を感謝し、新年のあいさつをする。

そして大東京綜合卸売センターにて昼食

大國魂神社を超えて南下。競馬場を過ぎ、サントリービール工場の隣。
府中の卸売市場がある。
その名も大東京綜合卸売センターという。おじさん、昼食がてら食材を調達せんとやってきた。
今日の目的地です。まずは飯。
いろんな食堂がありました。
結局、立ち食い蕎麦屋で、もつ煮セットを注文。
立って食わずとも、近くの休憩所までも配膳してくれるのがうれしい。
おじさん、もつ煮と飯はともかく、うどんはこの半分の量でよかったがあっという間に平らげた。
もつ煮がうまかった。670円。

しかし、肝心の買い物は、魚屋が昼で片付け終わっていたので、魚が買えなかった。残念。
やむなく肉屋、八百屋を冷やかして歩く。
中華食品の専門店まであった。

場内は広く、調布の卸売センターとは比較にならないほどの規模。
魚を目指して再訪するか。

おじさんの食堂探訪VOL.4  東京外語大学もまたCOOP食堂だった!

おじさんの食堂探訪です。
かつての陸軍調布飛行場があった敷地の一角に、東京外語大学があります。
いつのころからか、こちらに移転してきた東京外大です。
今日はこの大学の食堂を訪れました。

武蔵野の敷地に自由に広がるキャンパス

キャンパスは広いです。
街路樹や森、建物を空中で結ぶ回廊などが配置されており、広い敷地を自由にデザインしたキャンパスになっています。

そのキャンパスを留学生の外国人たちが三々五々学生生活を謳歌しています。理系の電通大と異なり、キャンパス外からの出入り口が多く、ほぼオープンな敷地となっていることが特徴です。

入り口などに、学校のシンボルマークをデザインしたオブジェが建っています。掲示板を見ると、世界各国のマイナーな映画を定期的に自主上映しているようでした。
さすが外大としての歴史を感じさせます。

食堂は…やっぱりCOOP経営でした!

食堂へ向かいます。
ひょっとして、ここも・・・。
やっぱりここもCOOPの経営でした。

すっかりおなじみになったメニューレイアウトが迎えてくれます。半ば予期していたことなので、あわてず騒がず、今日は麺類をチョイスします。
かき揚げそば。313円です。食堂から見た外の景色です。冬なので若干寂しい風景ですが、夏は緑があふれていそうです。

食堂内の雰囲気は、大人っぽく落ち着いていました。
外国人は多いのですが、電通大のように中国人一辺倒ではなく、各国人がまんべんなくいる感じ。食堂の窓際では一心に勉強する学生の姿も。
一部の学生のこの緊張感は電通大や学芸大にはあまりなかったような気がしました。

生協で売っているオリジナルTシャツは1640円ほどでした。
デザインが派手なので購買意欲は起きませんでした。

おじさんの自転車散歩VOL.6 調布飛行場と近藤勇

冬ばれの一日。
今日もおじさんは自転車にまたがって散歩しました。

調布飛行場は今も昔も調布のメルクマール

ユーミンこと荒井由実の楽曲に「中央フリーウエイ」という曲がある。
「高輪ゲートウエイ」より40年も昔に、「フリーウエイ」のネーミングだから、ユーミンは時代を40年進んでいたことになる。
歌詞に「調布基地を追い越し・・・」とあるが、ここで歌われる「調布基地」とは、現在の調布飛行場一帯のこと。

もともとは旧日本陸軍の飛行場だったのが始まり。
飛行場は終戦後の一時期、米軍に接収された。
ユーミンが歌うのは、米軍接収期に調布基地と呼ばれたこの一帯のこと。

今も残る「調布基地跡」の看板。

ユーミンは当時、調布基地を超えて実家のある八王子まで、彼氏に車で送ってもらっていたのだ。

ちなみに「右に見える競馬場」とは府中にある東京競馬場、「左はビール工場」とはビールを製造していた時代のサントリー工場のこと。ご存知か。
ご存知ついでに「中央フリーウエイ」とうたわれている高速道路は、フリーどころか「中央自動車道」と呼ばれるれっきとした「有料」の自動車専用道路である。蛇足。

調布飛行場を訪れる。陸軍時代の門扉が残っている。
空襲に飛来するB29迎撃のために戦闘機飛燕が展開していた基地だった。撃墜の成果は思いのほかあったらしい。

ちなみに、30年ほど前には、「調布在住です」というと、年配の人などから「軍人さんのご家庭だった?」といわれることがあった。

今の飛行場は伊豆七島へのセスナ便のターミナルであり、個人所有の小型飛行機の発着場である。

ターミナルビルに入ってみる。

二階は展望室になっている。

伊豆七島の観光ポスターや物産がディスプレイされている。旧陸軍飛行場の敷地に隣接した駐車場に、クラシックカーの廃車が残っていた。
それこそ米軍「調布基地」時代の名残であろう。
米軍が持ち込んだ挙句捨てていったのを保管しているのか。

旧陸軍飛行場の敷地の3/4程度は、飛行場以外の敷地となっている。
南端、国道20号線と接する場所には、味の素スタジアムが建っている。その付近には東京オリンピックマラソン折り返し地点の石碑がある。マラソンといっても1964年の東京オリンピックのマラソンのことだ。
「森元」こと森喜朗元総理や、「緑の狸」こと小池都知事が仕切る、東京2020はこのコースは走らないそうだ。

ちなみに都内有数の設備を誇る味の素スタジアムだが、先年開催の日韓サッカーワールドカップでは、会場とならなかった。
その理由は付近の道路を封鎖できなかったからとのこと。
確かに短時間にせよ、国道20号線を封鎖されては、近隣の住民は生活できないわな。

近藤勇の生家と墓

新選組の近藤勇は現調布の農家出身だ。
生家跡と、養子に入った近藤家が調布市野水というところにある。
そこから100メートルほど行ったところには菩提寺がある。

明治維新の際、逆賊として処刑された、三多摩出身の百姓の小せがれの一生であった。
勝てば官軍。
明治維新を機に権力は、今に至っても薩長、特に長州の側にある。

戊辰戦争以降の権力側の戦死者が靖国神社に祀られているとすれば、逆賊たちは民衆たちによって祀られる。
会津の白虎隊のように、調布の近藤勇のように。
南無阿弥陀仏。

 

おじさんの食堂探訪VOL.3 明大前で明大学食!

京王線に明大前という駅がある。
新宿からの特急が最初に止まる駅で、井の頭線への乗換駅でもある。

今回はおじさん、明大前に行き、その名の通り、国道20号線を挟んで駅と反対側に立つ明治大学泉キャンパスの学食を探訪してきました。

明治大学泉キャンパス

明治大学といえば、大多数の人はJR御茶ノ水駅から神保町方面に下る途中のお茶の水キャンパスを思い出すのではないか?
今はタワービルが建っているお茶の水キャンパスではあるが、20年ほど前は道路に向かって学生運動の名残の立看がいまだに建つ、昔の大学らしいキャンパスだった。

おじさんもそのころ、お茶の水キャンパスの地下にあった学食に入ったことがある。
メニューにスパゲテイはあるが、カウンターにフォークの用意がなく、割りばしで食べざるを得ない昔ながらの学食だった。
おじさん的には、好ましくさえ感じる、昔ながらの光景だったが、20年前とは言え、当時の東京平均では、すでに違和感ありありのシチュエーションだったかもしれない。
そこに明治のバンカラ精神を見た気もした。

今回おじさんが目指した和泉キャンパス。
所在地は杉並区永福町。
昔の地名はこの辺り、和泉といったのかもしれない。

今どきの大学風な食堂でメンチカツ定食

土曜日なので立派な門をくぐる学生の姿は少ない。
がまったくいないわけでもない。

立地が都心に近いせいか、また地面が舗装され、建物が高層のせいか、電通大や学芸大に比して近代的というか都会的な雰囲気が際立つ構内。

部外者の出入りは問題なかった。
食堂は土曜日でもやっていた。

食堂内は閑散としている。
COOP経営でないことを確認して一安心。

メンチカツ定食を頼む。

今どきの学食は、設備といい雰囲気といい、本当に快適だ。
場内には歌謡曲というか、日本語の音楽が鳴り響く。
Jポップというのか、スキー場のヒュッテか、田舎のショッピングモールのようだ。
果たして学食に音楽は必要か?
そう思うのは年寄りだからか?

味は可もなく不可もなく。
おじさんが覚えている昔の学食の味に近かくて懐かしかった。
ごはんの盛りも多かった。
定食330円とCOOP経営の学食(電通大、学芸大)より安いのも好ましかった。
部外者でも落ち着いて食べられた。

これまで行った学食内の雰囲気をおじさん流に言えば・・・

・電通大⇒中国語が幅を利かすグローバルで弱肉強食なカ           オス

・学芸大⇒普通の女子学生が青春を過ごす、田園に囲まれた昔ながらの学生時代

・・・となる。

では明大は・・・「韓流スターの髪形をまねた今どきのチャラい若者が、渋谷に出かける前に過ごす待合室」とでもなろうか。

田舎出身のおじさんの、ひねくれがすぎたか?

和泉キャンパスが寒々しかったのは、真冬の木枯らしのせいばかりではなかった。
おじさんが年取っただけなのか・・・。

 

おじさんの食堂探訪VOL.2 小金井の町と学芸大学食の巻

小金井という町があります。
JR中央線の、東小金井と国分寺に挟まれた場所です。

小金井点描

JR中央線小金井駅前です。
左に見える道路が小金井街道。
かつて駅横の踏切は開かずの踏切といわれました。
今では立体交差になり、立派な駅ビルが建っています。右後方にはタワーマンションも見えます。

駅前の原風景。古い建物はどんどんなくなり、区画整理されてゆきます。

小金井駅前の飲み屋街。中央線沿線では、吉祥寺から西ではこういった飲み屋小路の存在は珍しい。もっと西の立川、八王子には大規模な飲み屋街があるけど。江戸時代、玉川上水路沿いの土手は桜の名所だったとのこと。
今では上水路の際に、立派なケヤキが生え、車道沿いに桜が植わっている。
現在ではここら辺の桜の名所といえば、小金井公園が有名だ。

名門、小金井カントリークラブ。女性がプレーできないとか、会員になれないとか言われていた。
今はどうなのか?平日にもかかわらず品川ナンバーの高級車が何台か駐車していた。

駅前の古書・伊東書房は現在、店舗を倉庫にしている。新小金井街道沿いの古書店、はてなクラブ。
女性の店主が地域密着で頑張っている。

市内の民家の庭先には早春に咲く、蝋梅の花が寒空に咲いていた。春遠からじ。

学芸大の食堂へ

小金井にある学芸大は、師範学校を出発点とする教育学部中心の大学。地域に根ついている。ゆったりとしたキャンパス内には農園などもある。
農園には田んぼや温室もある。農学を学ぶのではなく(農学部はない)、教育学部の範囲で、自然を通してエコや共生を学ぶフィールドとして存在しているのがユニークだ。おじさんも小学校時代の学級農園で、率先して働く先生方を見て畑が好きになったことを思い出す。
先生をめざず学生が、畑で学ぶ、考える、のも有意義かと思う。学内のサークル会館からは楽器の音が聞こえていた。

学生食堂のある建物。
入ってびっくり。
見覚えのあるサンプルケース。
大学COOPの運営の食堂だった。
ということは、電通大と同じ経営母体。
つまりメニューから何から電通大と同じということだ!

少々がっかりしながら、今回は唐揚げカレーを注文。
オクラのおひたしをつけて474円。

食堂のおばちゃんの対応はやさしかった。
味は電通大と同じくCOOPの味だった。残念!席は満席に近い。
電通大と比べて食堂の面積は4倍ほど。
女子学生が多く、外人は少ない。
おじさんが覚えている昔の大学の雰囲気に近い。
のんびりして等身大の20歳前後の若者が集う場所であった。安心。

生協にはオリジナルTシャツを売っていたが、1300円と手ごろな値段だったのも好ましかった。

学芸大は散歩するにはグッドなロケーションだった。
おしむらくは学食がCOOP直営ではなかったら・・・。