女優パトリシア・ニール その3 演技派時代

パトリシア・ニールは舞台女優としてその女優生涯を終えた(2010年84歳で没)。

21歳の時、ワーナーブラザースと契約してハリウッドデヴューもヒット作がなく、また当時のハリウッドが望む女優像に沿ってはパトリシアの特質を生かせず、評論家には受けても、大衆とハリウッドプロデューサー達に爆発的人気がなかった。
契約から4年後、パトリシアはワーナーとの契約を解除された。

それでもパトリシアにハリウッドでの需要はあった。
エイジェントが20世紀フォックスでの3本の出演契約を取った。

「地球の静止する日」(1951年)、「ステキなパパの作り方」(1951年 フォックスから他社への貸出出演)、「国務省の密使」(1952年)がフォックス時代の作品となる。
同時にホームグラウンドであるブロードウエイでの舞台出演も続けていた。

パトリシア・ニールの自伝「真実」によると、1951年には愛人ゲーリー・クーパーとの間で妊娠し、堕胎する結果となった。

クーパーとの恋愛は公然の事実化し「さすがに面と向かって批判されることはなかったものの、パーテイでそれとなく無視されるぐらいでは済まなくなった」(自伝「真実」より)

また、ハリウッドを襲った「赤狩り」では、クーパーもマッカーシー上院議員の聴聞会に召喚された。
クーパー主演の「真昼の決闘」(1951年)の脚本家カール・フォアマンの反米的姿勢を糾弾するために、クーパーから「友好的な」証言を得るのが聴聞会の目的だった。
自伝では、パトリシアは事前にクーパーに対し、フォアマンを擁護するように懇願したという。
クーパーはパトリシアとの約束を守り、ためにその後、ヘッダ・ホッパーら反動ゴシップ家から筆誅を加えられた。

「地球の静止する日」 1951年  ロバート・ワイズ監督  20世紀フォックス  DVD

パトリシア・ニールはこの作品について、自伝でいう「少しも気乗りがしなかったけれど、せっかくフォックス入りしたのに仕事がないというのでは格好がつかない。監督はロバート・ワイズ、これまでも私には親切な人だった。彼はこの映画に自信を持っていて、私の出演を希望したのだった。承知してよかったと、私は今思っている。」と。

「しかし白状すれば、撮影中、まじめくさった顔をしているのが難しい時もあった。くすくす笑い出しそうになるのをわたしが唇をかんでこらえていると、マイケル(・レニー:宇宙人役)も同じように我慢していて、やがて、いかにもイギリス人らしい慎み深い口調で、あなたはそういう風に演じたいというわけですか、と言ったものだった。」とも。

知り合いだったヒュー・マーロー(愛人役)や、新しく友達になったマイケル・レニー(UFOから降り立った宇宙人役)らとフレンドリーな撮影期間を楽しんでいたパトリシアの様子が生き生きと伝わってくる。

作品はロバート・ワイズ初期の意欲作。
突如ワシントンに降り立ったUFOから宇宙人とロボットが降り立ち、地球人に警告する「地球人同士の争いには不干渉だが、核をもてあそぶことには、宇宙に影響するので強く反対する」と。
地球人はこの警告に対し、「政治」は対処できず、「英知」の象徴である科学者は世界規模で集まったものの、「政治」に干渉され、結局、警告を残したまま宇宙人は去る。

映画の一場面。ロボットに円盤内部に連れ込まれる

SFに仮託した「政治」の狭量ぶりが描かれる。
群集は着陸したUFOの間近に集まり、見物し、宇宙人に親しみさえ感じる。
が、いったん軍隊との間に暴力的接触があると途端に手のひらを返し、むやみに宇宙人を恐怖の対象として排除する。
ポピュリズムと群集心理の恐怖だ。

DVDパッケージ。写真はラスト近く円盤からロボット、宇宙人とともに出てくる場面

映画のタッチは、スリラーを強調したものではなく、当時のアメリカ社会のおおらかなのんびりムードを基調にしたもので、ロバート・ワイズ監督の個性が表れている。
何よりパトリシア・ニールが、彼女のそれまでの映画出演の堅苦しさが嘘のように、生き生きと動いている。

髪の毛の色はワーナー時代後期に染めたブルネットで短髪のまま。
戦争未亡人で10歳ほどの息子を持つ活発な婦人役がよく似合う。
宇宙人の、正論で高邁な考えに同調し、世俗的な反応の愛人と訣別して行動する役柄でもある。

パトリシア・ニールにはハリウッド映画の「架空のお姫様」役より、子供の世話をしたりオフィスでテキパキと働く、行動的で現実的な女性の方がずっと似合う。

この後の「ステキなパパの作り方」(1951年 ダグラス・サーク監督)はウイキペデイアのフィルモグラフィーにも載っていない作品。
少し前にシネマヴェーラで見ることができた。

自伝には「フォックスからの他社出演で、ユニバーサルの軽いコメデイーに出演した。どうということもない映画だったが、ヴァン・ヘフリンと仕事をするのは楽しかった。私は彼が大好きだった。」とある。

「地球の静止する日」に続くコブ付き未亡人役のパトリシアは、この作品でも男の児2人の面倒を見ながらクルクルよく動きしゃべる母親役を気持ちよさそうに演じており、その芸達者ぶりは見ている方も楽しくなる。

以前に本ブログでも書いたが、一人の子供の役名が「ゲーリー」。
ハリウッド得意の楽屋落ちというか、脚本家の遊びというか、自虐ネタである。
渦中の愛人の名前を、たびたび大声で叫ばなければならない彼女の心中やいかに。
「プロ」だから平気なのか。

撮影中、セットにゲーリー・クーパーがたびたびパトリシアを訪ねてきたという。

このころ、セルズニックとジェニファー・ジョーンズ主宰の大パーテイに二人別々に招待された。
ゲーリーとパトリシアが連れ立って入ってゆくと、女達はさっと目をそらしたという。

二人はやがてすれ違い、別れることになるのだった。

「ハッド」 1963年  マーテイン・リット監督  パラマウント  DVD

ゲーリー・クーパーと別れたパトリシア・ニールは、イギリス人の児童文学者、ロアルド・ダールと結婚した。
最後まで「愛したことのない」(自伝「真実」より)人との結婚だった。

映画界とも離れたパトリシアはブロードウエイの舞台に復帰した。
「自分でも誇りに思える仕事がしたかった。家庭が欲しかった。自尊心も欲しかった。」(自伝「真実」より)。

結婚し、長女が生まれ、映画にも「群衆の中の一つの顔」(1956年 エリア・カザン監督)で本格復帰した。
「ハリウッドに見切りをつけ、ハリウッドは私に見切りをつけていると思っていた」(自伝「真実」より)矢先のこと。
ニューヨークアクターズスタジオ時代からの盟友カザンからのオファーだった。
二人目の子供(次女)がおなかにいるときの撮影だったが、「また映画の仕事ができたことは満足だった」(自伝「真実」より)。
「群衆の中の一つの顔」は彼女の代表作の一つになる。

「群衆の中の一つの顔」より。「ガッジ」とはエリア・カザンの愛称

「ハッド」もまた、アクターズスタジオ時代の仲間、マーテイン・リットからのオファーで始まった。
パトリシアには次女、長男が生まれ、不幸にも長女を風疹で.亡くし、長男もまた自動車事故で頭に重傷を負い手術を繰り返している頃だった。

「ハッド」について、パトリシアは、「マーティーと仕事ができるのがうれしかった。監督の要求には何でも応えればいいのだと思ったのは、エリア・カザンと組んで以来のことだった」と自伝で述べている。

最初のラッシュを見たリット監督がパトリシアに「君が鍋を扱っているのを見た瞬間にだね、これはいい、君は台所の勝手がわかっている女だと思ったね」と言ったという。

このエピソードを読んで、戦前生まれの日本女優の茶碗を洗うシーンを思い出した。
「須崎パラダイス赤信号」(1956年)の新珠三千代(1930年生まれ)は、流れ着いた飲み屋に住みこもうと、店の洗い場で茶碗を洗い始めるシーンでその手ばやさを見せた。
「いかなる星のもとに」(1962年)の山本富士子(1931年生まれ)は、出かける前にさっさとお茶漬けを食べた後、一連の動作のように茶碗を洗って片づけていた。
二人とも普段から茶碗洗いなど台所仕事に慣れており、また当時の日本女性には当たり前の動作であることをうかがわせる仕草だった。
パトリシア・ニールも、国は違うとはいえほぼ同年代に生まれ育った女性だった。

「ハッド」の一場面

牧場主(メルビン・ダグラス)と、不肖の次男ハッド(ポール・ニューマン)、死んだ長男の息子ロン(ブランドン・デ・ワイルド)、住み込みの家政婦アルマ(パトリシア・ニール)が暮らす西部の田舎町。
口蹄疫が広まり、牧場経営が音を立てて崩れてゆく。

親からは疎まれているハッドだが、甥っ子のロンはハッドに憧れている。
仕事ができ、女に手が早く、親に愛情を持つハッドは、要領がいいというか現代的考えの持ち主。
口蹄疫が発表される前に州外に牛を売れとか、牧場をやめて油田を掘れとか、未亡人との情事に夫が出てくるとロンのせいにして切り抜けるとか、そのたびに昔気質の親にがっかりされる。
21世紀の企業なら当然の倫理志向でもある「新自由主義」的な考えの持ち主のハッド。
一方で、父親からの愛情を求めてすねている。

住民たちの楽しみといえば、バーにたむろし、こっそり他人の女房を寝取ることを除けば、年に何回かやってくるロデオを見たり、住民参加のツイスト大会や豚を捕まえる競争に参加するくらいしかない田舎町。
開拓時代と異なるのは、鉄道が走り、モータリゼーションが普及し、テレビが映り、インデイアン(先住民と呼ばねばなるまい)がいなくなったくらい。

ハッドと正直一本やりの旧世代との断絶。
34歳独身で田舎町に暮らすハッドの、投げやりな性的放縦と年頃のロンにも忍び寄る性的な疼き。
男三人の所帯を切り回す離婚を経験した中年女のアルマが、男たちにとって全女性を代表するかのような存在であること。

やがて解体する家族。
親父は死に、ロンは出てゆき、アルマもまた。
それらを映画は淡々と描写してゆく。

「ハッド」のパトリシア・ニール

薄手のブラウスで下着をすかせながら、あるいは夜のベランダで裸足になりながら。
台所で鍋を扱い、料理をサーブし、朝寝坊のロンのシーツを剥ぎ取りながら、実年齢36歳になったパトリシア・ニールが田舎の男所帯の家政婦を演じる。

牧場の閉鎖とともに夜の長距離バスで町から去ってゆくアルマ。
過去ある女、名もなき女、ながら居場所と尊厳を求めてさ迷うが、実はプライドを秘めた女を見事に演じる。
パトリシア・ニールは、映画で人間の尊厳を表現できる人なのだ。

ポール・ニューマンの「ハスラー」(1961年)という映画があった。
ニューマンが場末のバーで一人の女に声をかける。
女を演じるのはかつてのお姫様役で、この時実齢29歳のパイパー・ローリー。
ニューマンに声をかけられたときの、無理に苦笑いを作るかのような表情。
小児まひで世をすねながら、酒がないと寝られない若くはない女を演じて、忘れられない印象を残す。
パイパーは、お姫様役からのイメチェンのためにアクターズスタジオで演技の勉強をし直して、この役に挑んだという。
彼女の演技への精進は「キャリー」(1976年)での狂信的な母親役での怪(快)演につながってゆく。

「ハッド」のパトリシア・ニールは、ブロードウエイとアクターズスタジオ仕込みの演技力ばかりではなく、実生活の重みがもたらす人間性の深さをにじませながら、アルマという役を演じた。
アルマには、単に人生に疲れ男への期待も失せた中年女の姿だけではなく、それでもなお湧き上がる性的匂いと母性の偉大さ、が立ち込めていた。
インテリでもあるパトリシアの演技は「中年女の汚れ役」とはこういう風に演じるのだよ、と具体的に示してくているかのようだった。

パトリシア・ニールはこの作品でアカデミー主演女優賞を受賞。

その後、第5子の妊娠中に脳卒中を発症。
奇蹟的に回復し、4女も無事誕生。
50歳台になって亡きクーパーの妻、娘と和解。
30年連れ添ったロアルド・ダークと離婚。
の生涯を送ることになる。

女優パトリシア・ニール その2 ワーナー時代

1926年生まれのアメリカ人女優パトリシア・ニールは、ブロードウエイで新人賞、トニー賞などを受賞し、ハリウッドからスカウトされた。

自伝「真実」によると、サミュエル・ゴールドウインやデヴィッド・O・セルズニックなどに食事に呼ばれたとあるが(セルズニックには食事の後にベッドに連れ込まれそうになった、とも)、契約したのはワーナーブラザーズ。
契約料は週給1250ドル(最高で3750ドルにアップ)、舞台出演の際はニューヨークへ戻ってよいとの内容の7年契約だった。

この7年契約は満期を迎えることなく解約となったが、1947年から51年途中までのワーナー専属時代、パトリシア・ニールは8本ほどの映画に出演している。

8本の内訳をみると、ロナルド・レーガンとの共演が2本、ゲーリー・クーパーとが2本。
ジョン・ガーフィールド、ジョン・ウエイン、リチャード・トッドとが各1本。
監督ではキング・ヴィドア(「摩天楼」)、マイケル・カーティス(「破局」)の作品に起用されている。
パトリシア・ニールがA級作品に起用されていることがわかる。

ワーナー時代には後世に残るような作品は少ない(「摩天楼」くらいか)。
というか大ヒット作品はなかったし、大衆に訴えるような作品はなかった。

世界の古典映画をデータ素材で仕入れ、新しくスーパーインポーズをいれて公開している、シネマヴェーラ渋谷の特集で、「摩天楼」と「破局」の上映があった。
DVDで見た「太平洋機動作戦」と併せて、パトリシア・ニールのワーナー時代を振り返りたい。

「摩天楼」「破局」が上映中の渋谷シネマヴェーラ

「摩天楼」 1949年 キング・ヴィドア監督  ワーナーブラザーズ   シネマヴェーラ渋谷

ハリウッドに身を投じ、ワーナーと専属契約を結んだパトリシア、2本目の作品。

自伝「真実」によると、1本目の「恋の乱戦」の時の映画撮影現場が好意的に述べられている。

スタジオのセットが夢の国のようで、共演のロナルド・レーガンは陽気でフレンドリーだったこと。
映画俳優としてのプロ意識にたけた俳優たちに感銘を受けたこと、など。

「摩天楼」ゲーリー・クーパーと

第二作目の「摩天楼」は、1940年代のアメリカのベストセラー小説の映画化で、ワーナーの大監督、キング・ヴィドアに声をかけられてヒロイン役に挑んだという。
自伝では、ヴィドア、クーパーとの顔合わせやスクリーンテストのことが、昨日のことのように生き生きと語られている。
パトリシアが生涯で唯一愛した男クーパーとの邂逅だ。

二人は撮影中に急接近した。
自伝には、毎日撮影後にクーパーの部屋に電話して翌日のスケジュールなどを確認するパトリシアとそれに喜んで答える48歳のクーパーの描写がある。
二人のスタンドインがいたものの、パトリシアとクーパーはリハーサルやセッテイングの最中も二人で身じろぎもせずにその場にとどまっていて、スタンドインに仕事をさせなかったことも。

撮影終了の打ち上げパーテイーの夜、二人は結ばれる。
長い恋愛の始まりだった。

「摩天楼」パトリシア・ニール

「摩天楼」のスクリーン上の世界よりも、自伝に語られているパトリシアとクーパーの出会いと恋愛の方が数倍もフレッシュで輝いている。

170センチを超える長身とすらっとしたスタイル、流れるような金髪のパトリシアは、ロングドレスや乗馬服に身を包みカメラ映りがいい。
バリバリのハリウッド式メイクにもなじんでいる。
「(40年代ハリウッドの)映画俳優とはこういうものだ」と自覚し、場に溶け込もうとするパトリシアの素直で積極的な姿勢がうかがえる。
低い嗄れ声のセリフ回しは今となってはわざとらしいが、パトリシアのハリウッドへの順応の一環でもある。

「摩天楼」は己の信念を曲げない建築家の主人公が、石切り場の工夫に身をやつしながらも這い上がり、認められるというストーリー。
ヒロインとの間の性的葛藤の味付けをしながら(パトリシアがクーパーを鞭打つシーンもある!)。

パトリシア・ニールは演技力もさることながら、輝くような若さに加え、セックスアピールがあり、まさにハリウッド女優の誕生!の瞬間を見るようである。
が、彼女の本質を生かした配役でないこともまた窺える。

それよりもその長身とややしゃくれた顔は、ディズニーの「101匹わんちゃん」の悪漢の女ボスを思い出してしょうがなかった。
あれは確実にパトリシア・ニールを盗んだ(カリカチュアした)アニメキャラだ。
アニメキャラとなるくらいの影響力をパトリシアは若くして持っていたのだ。

シネマヴェーラの特集チラシより

「破局」 1950年  マイケル・カーテイス監督  ワーナーブラザーズ  シネマヴェーラ渋谷

パトリシア・ニールのワーナー5本目の作品。
監督に「カサブランカ」のカーテイス、主演に舞台出身の実力者で映画でも人気のあったジョン・ガーフィールドを起用したA級作品。
原作はヘミングウエイの「持つと持たぬと」。

ヘミングウエイの原作は44年に「脱出」として映画化されているが、「脱出」はウイリム・フォークナーのオリジナル脚本とハワード・ホークスの演出による冒険活劇ともいうべき作品とのことで、この「破局」のほうが原作に忠実だという。

ガーフィールドとパトリシア・ニール

腕が確かで真面目なことから信頼を得ている船頭(ガーフィールド)が、日銭に不自由する健気な妻とかわいい子供のため、キューバとの間の密輸に手を染める。

長年の相棒は黒人の船乗りで主人公とは絶妙のコンビ。
金のためにギャングの強盗の手助けを請け負うが、相棒を殺され、自力でギャングと対決する主人公。
その戦いは、孤独で陰惨で残酷。
主人公は自力で窮地を脱する、全幅の信頼を置く相棒と己の腕1本を失って。

やむを得ないとはいえ、人の道に背いた行いを、犠牲を払いつつ自力で落とし前をつける姿が、身を切るような描写で描かれる。

まじめで妻一筋の男の苦悩をガーフィールドが演じる。
ユダヤ人でストリートキッズ上がり、演劇で出世した後もハリウッド赤狩りのターゲットとなったガーフィールドが死ぬ直前に出演した作品。
主人公に絡む身持ちの悪い女にパトリシアが扮する。
柄の悪い役もちゃんとこなす演技が見られる。

「破局」の撮影シーン。

第二次大戦は終わったが、朝鮮戦争を目前にして、国内では反共ヒステリーが吹き荒れたアメリカ。
オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人、マイケル・カーテイス監督のタッチもひたすら暗い。
救いは「持たざる者」ガーフィールド一家の健気な妻(フィリス・サックスター)への視線のやさしさ。
そして主人公の危機脱出の後、父親が殺されたことを知らぬ黒人の少年(主人公の相棒の息子)が港に一人取り残されるラストシーン。

最後まで女(パトリシア)の誘惑になびかず、家で待つ妻に操を立てる主人公もいい。
女と敵はなぎ倒してゆくのがアメリカ映画の「タフな男」というお約束の中、真に勇気ある男の姿を描いたのは、ユダヤ人カーテイスの真骨頂か。

マイケル・カーテイスにとって「破局」は「カサブランカ」に次ぐ「アメリカンヒーローもの」なのかもしれない。
「カサブランカ」のボギーがかっこよい表のヒーローだとすれば、「破局」のガーフィールドは、持たざる者の陰のヒーローとしての。
自らまいた種とはいえ、窮地に陥った時は自ら実力をもって解決に当たり、愛するものを決して裏切らず、の陰のヒーロー方が真の勇者なのかもしれない。

パトリシアの「自伝」ではこの作品について、「ガーフィールドはいつも強烈な動物の雄のエネルギーを放射していた。女には抜け目なく手が早かった。彼は私の手を取ると俺の気持ちわかるだろ、といった。彼の気持ちはよく分かったが、彼を相手にそんなつもりはなかった。私はゲーリーの女だった。」と述べている。

「わたしはゲーリーの女だった」。

決まった!

シネマヴェーラの特集チラシより

「太平洋機動作戦」 1951年  ジョージ・ワグナー監督  ワーナーブラザーズ  DVD

パトリシア・ニールのワーナー7本目の映画、この後の「草原のウインチェスター」を最後にワーナーブラザーズを離れることになる。

ジョン・ウエイン主演の第二次大戦を舞台とする潜水艦もの。
共演にワード・ボンド、ジャック・ペニックを配してのバリバリ男性路線。
パトリシアはわけあってウエインと別れたが、まだ愛し合っている看護婦を演じる。

「自伝」でパトリシアはいう。
「ジョン・ウエインは大衆には大変な人気者だったが、私にはまったく訴えてくるものがなかった。彼が相手では私の魅力も発揮できなかったと思っている」。

また、「私はこの撮影所(ワーナー)にとって金食い虫になりつつあった。映画評論家たちは思いやりがあったが、興行的に大成功を収めたことはなかった。私は新しいガルボになってはいなかった。」とも。

すでに7作目にしてパトリシアが自覚している状況が影のようにこの作品を覆っている。
髪をブラウンに染め、看護婦のコスチュームに身を包むパトリシアだが、背の高さとスタイルの良さが生かされておらず、長身を持て余した猫背の女性に見えてしまう。
ジョン・ウエインとの共演も水と油。

作品そのものも、アメリカ海軍の潜水艦乗りに敬意を表するのはわかるのだが、たとえば急速潜行中に艦長らがタバコを吸ったり、日本海軍駆逐艦の爆雷攻撃中に艦内の食堂でまったりコーヒーを飲んだり、と、どうなの?という表現が横行している。
だいたい潜水艦内の描写に緊張感がない。

ドイツや日本の潜水艦ものに比べ、悲壮感がないのは半分は事実だろうが、艦内の食堂がロードサイドのダイナーのように居住性良く描かれるのは違和感がある。
日本軍が登場するシーンの背景に中国風の音楽が流れるに至っては、がっかり。

ジョン・ウエインを見に来た観客は満足するのだろうが、史実に忠実な戦争映画も数多いハリウッドにあって、この作品は旧態依然というか、大衆におもねた作品に見える。
パトリシア・ニールを生かしきれなかった典型的な作品だと思う。

この時期、実生活でのパトリシアはクーパーとの間の子を妊娠したことに気づいていた。

女優パトリシア・ニール その1 「真実」

パトリシア・ニールというアメリカ人女優がいる。
1926年生まれ、南部のテネシー州出身。
年代的には戦中派(日本でいう昭和元年生まれ)。

地元の大学を中退して舞台女優を目指す。
1946年にブロードウエイデヴュー後、新人賞、トニー賞を受賞。
1947年にワーナーブラザーズと7年契約を結びハリウッド入りした。

ハリウッド入りしたパトリシア・ニールは第二のグレタ・ガルボとして売り出されたが、ヒット作に恵まれず、むしろ「摩天楼」(1949年)で共演したゲーリー・クーパーとの恋愛ゴシップを最大の話題としてハリウッドを去った。

パトリシア・ニールが再び映画で脚光を浴びるのは、「群衆の中の一つの顔」(57年 エリア・カザン監督)、「ティファニーで朝食を」(61年 ブレイク・エドワーズ監督)、「ハッド」(62年 マーテイン・リット監督)などに出演してからのことになる。

この度、渋谷のシネマヴェーラの特集で「摩天楼」と「破局」(50年)が上映された。
いずれもパトリシア・ニールがワーナーブラザーズと専属契約を結んだ期間中の作品である。
また、筆者の手元には今までに集めたパトリシアの出演作のDVD(「太平洋機動作戦」「地球の静止する日」そして「ハッド」)がある。

ここは「早すぎた演技派女優」パトリシア・ニールを集中して見ようではないか。
まずは買ったまま積読していた彼女の自伝「真実」を紐解いてみよう。

「パトリシア・ニール自伝 真実」 1990年 新潮社刊

仮にもハリウッド女優と呼ばれたスターがこんな赤裸々で正直で自省的な伝記を書くものなのか。
というのが読んでいる間の感想。

キャサリン・ヘプバーンの自伝「Me」も、かなりざっくばらんで、あけすけだったが、映画界入りから引退まで「勝ち組」で通した、ワスプ出身の医者の娘ケイト(キャサリンの愛称)と違い、南部出身で何の後ろ盾もないパット(パトリシアの愛称)が、決して順風満帆とはいえなかった半生を、ここまでさらけ出すには勇気がいったことだろう。

クーパーとの恋に破れ、作品のヒットもなく、契約半ばにしてワーナーを去り、その後しばらく映画界を離れていたパトリシア。
夢である結婚をし、待望の出産、舞台活動再開、映画界カムバック、子供を亡くし、妊娠中に脳溢血、奇跡の回復と離婚、クーパー亡き後の妻・娘との和解、修道院・・。
劇的な人生の変遷なくして到達しえない境地がこの自伝にはある。

自伝はまた、ブロードウエイ時代、ハリウッド時代の活躍と栄光にも触れてはいるが、パトリシアの人生の目的の一つでもあった「家族を生む」ために、愛してはいないロアルド・ダールと結婚し、5人の子供を産み育てる間の記述がボリューム、内容共に圧倒的だ。

そこには、女優を目指す目立ちたがりでわがままな、一人の南部出身の女性の叫びとともに、一般的な女性の幸せを願い自らの人生でそれを実現させようともがく「戦中派世代」の伝統的なアメリカ人女性の偽らざる姿がある。

ゲーリー・クーパーとパトリシア・ニール

脳溢血で倒れ、回復する中でゲーリー・クーパーの娘マリアと文通をし、会う。
マリアからクーパーとの間に子供ができたのは本当か?と聞かれ、本当だと答えると「すごく楽しかったでしょうね、あなたが私の新しいお母さんになっていたら」とマリアが言う。
パトリシアとクーパーの哀しい愛が成就した瞬間だった。

人生で唯一愛した男、ゲーリー・クーパーとの愛を、紆余曲折がありながらも全うできたパトリシアは、やはり選ばれた人間なのだろう。

この自伝の根底を貫いているのは、自分が自分らしくありたいとの一念。
そしてたどりついたのが、個人の執念や願望を越えたところに「神のみ心」とでもいった普遍的な愛の世界が広がっているだろうことへの素朴な信仰心とでもいうべき境地。
彼女は多くを求めず、しかし自分の信ずるところは徹底してこだわり、結果すべてを得た、のかもしれない。

なお、映画時代についての記述が少ないとはいえ、ウィキぺデアのフィルモグラフィーには載っていない映画作品(「ステキなパパの作り方」1951年 ダグラス・サーク監督)についての記述もあり、パトリシア自身の活動の記録という意味でもこの自伝は貴重である。

自伝「真実」裏表紙

「映画の友」 1951年5月号

筆者が神保町の古本屋で見つけて購入。
パトリシア・ニールが日本の映画雑誌の表紙になっているのが珍しかったので。

「映画の友」1951年5月号

51年といえばパトリシアが鳴り物入りでワーナーと専属契約を結んでいた頃。
デヴュー2作目の「摩天楼」は日本での評判が良かった。
またパトリシア自身が朝鮮戦争兵士の慰問の際に日本に立ち寄ったこともあり、売り出し中の新進女優として注目されていたことがうかがえる。

雑誌の本文中にパトリシアに関する記事はないが、読者や編集室に送られてきた(ファンレターの返信に同封された?)サイン入りブロマイドの紹介コーナーに、パトリシアのものが載っている。
表紙ともども今では貴重なものだと思う。

当時のパトリシア・ニールのサイン入りブロマイド

「マイベスト37」 淀川長治著 1991年 テレビ朝日

テレビ朝日の「日曜洋画劇場」放送25周年記念出版。
淀長さん映画人生80年の書き下ろし。
なんとその37人の中にパトリシア・ニールが含まれている。

淀川長春「マイベスト37」より

淀長さんとパトリシアの最初の出会いは、49年の日本でのインタヴュー。
第一ホテルに逗留中のパトリシアに「映画の友」編集人の淀長さんが取材に行ったもの。
「高飛車な生意気なところが爪の垢ほどもなかった」というのが、この時の淀長さんのパトリシアに対する印象だった。

あけて1951年、わが淀長さんは「映画の友」特派員としてハリウッドを訪問。
なんと淀長さんのハリウッド来訪を知ったパトリシアから、20世紀フォックスのスタジオに呼び出しがあって淀長さんはびっくり仰天。

宣伝部長に案内された淀長さんが、フォックスの食堂で待つと、現れたパトリシアは厚手のぱさぱさしたスカートにサンダル履き。
スパニッシュオムレツとミルクを注文した。

同じものを注文した淀長さんが、いつもの習慣でミルクに砂糖を入れると、「あんたケーキでも作るの!」とパトリシアが叫んだ。

タイロン・パワーと共演の「外交特使」を撮影中だったパトリシアは、三つ隣のテーブルにパワーがいるにもかかわらず「(パワーは)大根よ」といったので淀長さんが慌てて、そんなことここで言ったら首になりますよ、と言ったら。
パトリシアは声をたてて笑いながら「そうなったら舞台に戻るわ」とウインク。

淀長さんが思い切ってクーパーとのことを聞くと、パトリシアは顔を赤くして椅子からずり落ちそうな格好をしたが、「ノー」とは言わなかったと。
淀長さんさすがのナイスクエスチョン。

「群衆の中の一つの顔」より

なんと幸福な淀長さんと若き日のパトリシアの会話だろう。
淀長さん一流のだれにでも可愛がられるオープンな性格もさることながら、二人の波長が合うというのか。
二人ともこれ以上ないイノセントというべきなのか。

ざっくばらんでチャーミングなパトリシア・ニールの人となりが会話に表れていて、貴重な記録というほかはない。

ロバート・アルトマン傑作選より「雨にぬれた舗道」

長野相生座での「アルトマン傑作選」に駆け付けた。
アルトマンといえば70年代アメリカ映画のアイコンの一人。
「マッシュ」(70年)と「ロンググッドバイ」(73年)しか見ていない筆者だが、作品とともにアルトマンの名前に印象は深い。
当時は次々と新作が発表され話題になっていた監督だった。

この度の傑作選は、コピアボアフィルムの配給。
セレクトは「雨にぬれた舗道」(69年)、「イメージズ」(72年)、「ロンググッドバイ」の3本。
アルトマン初期の、今では上映機会がほとんどない作品たち。
配給のコピアボフィルムは、相生座の支配人によると「旧作の再輸入を積極的に行っている会社」とのこと。

相生座の上映案内板より

「雨の中の舗道」 1969年  ロバート・アルトマン監督 パラマウント

レアな作品を見た。
懐かしくもマイナー感漂う、70年代のアメリカ映画の匂いがした。

70年代前後、ベトナム戦争の疲弊感もあり、時代に敏感な当時の新進作家たちが、アメリカに代表される現代社会を批判的に描くようになった。
それまでのハリウッド映画では企画にも上らなかった社会の現実や人間の孤独、女性や障碍者、少数民族などの立場に立った作品が発表された。
「イージーライダー」を先頭に「泳ぐ人」、「愛はひとり」、「ジョンとメリー」、「ナタリーの朝」などが次々と発表された。
描かれたのは排除されるヒッピー、ひとかどの社会人の孤独、都会の女性の孤独、若者同士の虚無なつながり、底辺の若者の自立、だった。

ロバート・アルトマンはテレビでデビューし、「雨にぬれた舗道」は長編劇映画の3作目。
テーマは女性の心理、それも経済的にも身分的にも何不自由ない、まだ若い女性の精神的、性的な葛藤。
アルトマンは、この作品の後「マッシュ」で大ヒットを飛ばし、人気作家となる。
その後、女性心理を描いた「イメージズ」(封切り時は日本未配給)、「三人の女」(77年)という作品を撮っており、こういったテーマに重大な関心があることがわかる。

主演はサンデイ・デニス。
舞台出身の実力派だが、筆者には「愛のふれあい」(1969年。小さな恋のメロデイ」のワリス・フセイン監督作品ということで注目した)、「おかしな夫婦」(1970年。愛川欽也の吹替で忘れられない?ジャック・レモンとの共演)でリアルタイムに接しており、コメデイもできる愛らしい女優との好印象を今に至るまでもっていた。

サンデイ・デニスというこの女優さん、愛らしいコメデイエンヌというよりは、例えば「結婚式のメンバー」(52年 フレッド・ジンネマン監督)で実年齢26歳で12歳の少女を演じ、舞台演劇そのままにしゃべりまくって観客を置き去り?にしたジュリー・ハリスが、商業映画「エデンの東」(55年 エリア・カザン監督)では全観客を味方につけるヒロインに化けたように、いかようにもヒロイン像を演じ分けられる、舞台出身の実力派女優なのだった。

サンデイ・デニス

映画は、サンデイ扮する主人公が雨の日、マンションの窓から、公園のベンチで濡れそぼる若者を見掛けたときに始まる。
マンションに連れ込み世話をし始め、食べさせ、泊まらせる主人公。
身は固く、自分に言い寄る初老の医師のことは生理的に拒否している主人公は、初老の金持ち階級とのパーテイくらいしかやることがなく、心底退屈しており、モノを言わない若者相手に嬉しそうに独白状態でしゃべり続ける。

若者は低層階級の長男で、姉との待ち合わせのために公園のベンチに座っていただけだということがわかる。
自問自答のような独白が続いた後、いよいよ若者に迫ろうとする主人公だが若者には全くその気はない。
やがて残酷な幕切れを迎える。

「雨にぬれた舗道」よりサンデイと若者

ほぼサンデイ・デニスの独演(連れ込んだ若者そのものが彼女の幻影だったという解釈も成り立つ。映画はそうは描いていないが)による女性の内面の世界が描かれる。
性的な葛藤がテーマの一つだが、アルトマンは即物的な描写はしない。
映画のシチュエーションが、独身女性が名前も知らない若い男を連れ込んで、飼い続けるというとてつもなくインモラルなものにもかかわらず。

サンデイがさんざん独りよがりの挙句、若者に葛藤をぶつけた瞬間に、彼が言葉を発するシーンがある。
後半の場面の急転であるが、アルトマンは映画的な盛り上げを否定し、あっさりとした撮り方をする。
ショッキングではあるが観客の期待には応えていない。

サンデイの演技力と存在感が辛うじて画面を支えてはいるが、アルトマンの狭量な世界観が映画のふくらみを狭めていた。

70年代前後は価値観の転換期。
「女性の孤独」「性的な葛藤」を描くブームの中で企画が通り、パラマウントが配給することになった作品だが、意あって言葉足らず、公開後はほぼお蔵入りの扱いとなったのもしょうがない。

アルトマンを研究するについては貴重な作品だが、筆者にとっては見るつもりだった「イメージズ」の見る気をうせさせた作品。
同じようなテーマで、手法がより複雑奇怪に進化している作品を見るのはしんどいから。

アルトマン傑作のチラシより

DVD名画劇場 フランス映画黄金時代② ジャック・フェデーとフランソワーズ・ロゼエ(補遺)

ジャック・フェデーはトーキー以降、戦前にフランス映画を3本撮っています。
本ブログでは、そのうち「外人部隊」と「女だけの都」を紹介しましたが、残り1本「ミモザ館」を見る機会がありました。

「ミモザ館」 1934年  ジャック・フェデー監督  フランス

フェデーがハリウッドから帰って「外人部隊」を撮った後の作品。
この後に「女だけの都」を撮ってパリを離れる。
「ミモザ館」を含めた戦前のトーキー3本は、いずれも夫人のフランソワーズ・ロゼエを主演クラスで起用している。

死に瀕した息子と母(フランソワーズ・ロゼエ)

ミモザ館という安宿をニースで営む夫婦がいる。
夫は公営ギャンブル場の管理職で、ギャンブルデイーラーの養成学校の講師も務める。
夫婦には養子がいて特に母親(ロゼエ)は息子を可愛がっている。

時がたちパリに巣立った息子(ポール・ベルナール)は、詐欺師や売春婦がたむろする安宿を根城に、盗難車を転売している。
賭け事には眼がない。
母親が心配してパリにやってきて、折からギャングのボスに焼きを入れられた息子を看病する。
息子はボスの情婦(リズ・ドラマール)に手を出したのだった。

息子は母の説得でニースのミモザ館に帰り、車販売の仕事に就く、が、ボスの情婦が忘れられない。
やがて情婦もミモザ館で息子と暮らすが、庶民の暮らしで我慢できる女ではなく、母とも全く合わない。

母は息子を取り戻すため情婦の居所をボスに伝え、やってきたボスが女を連れ去る。
息子は落胆し、また会社の金を使って賭博で穴をあける。
息子は自死して母の見守る中、その生涯を終える。

母と息子の葛藤

「外人部隊」は社会人としてダメダメの男が、パリで別れた女を生涯忘れられない、という作品だった。
「ミモザ館」の息子も、ぜいたくで浮気性で華美なパリの女を忘れられず人生が破滅する。

どうやら、浮気性の女へのダメな男の片思い、というのがフェデー好みのシチュエーションのようだ。
ぜいたくで、華美で、浮世離れして、だからこそ魅力的な女性と、何度も同じ失敗を繰り返すが人間味はある男の出会いこそが、フェデー劇のパターンの一つのようだ。

フェデーの狙いは、弱い人間同士がどうしょうもない己の業に振り回される様を、ある時は同感を込めてある時は淡々と見つめること。
そこでは倫理観や宗教観に基づく価値判断はない。
フランス映画らしい「人間主義」が貫かれる。

さらにこの作品では、ロゼエ扮する母親の息子への愛という禁断のシチュエーションが加わる。
これこそ無償のといおうか禁断のといおうか、周りが何といっても突き進むタイプの愛情だ。
この作品でも破滅に瀕する息子に妄信的な愛をささげる母親をロゼエが演じる。
一方息子は息子で、出て行った女を死ぬ間際でも忘れられないのが、フェデー流人間描写の粋なのだが。

フェデーとシャルル・スパークによるダイアローグの名調子を、舞台出身の名優たちが名演技で応える。
フランス映画のまさに黄金時代の作品。

フェデーについての文献は手元にないが「天井桟敷の人々」の名女優、アルレッテイの聞き書きがある。
この中にフェデーと「ミモザ館」についてのアルレッテイの言葉がある。
「ミモザ館」での、詐欺師と売春婦が集うパリのカフェ兼安宿のシーンで、息子を待つフランソワーズ・ロゼエの隣で食事をしつつ会話を交わす夜の女の役でアルレッテイが出演しているのだ。

アルレッテイ曰く「フェデーは天性のプレイボーイなの。頼りがいがあってエレガントで、それはもう魅力いっぱいなわけ。(中略)完全主義者で厳格この上ないけれど、常にエレガンスをまとっている人。(中略)フランソワーズ・ロゼエは優しい人で、いつも役者たちの面倒を見ていたわ。」。

フランス映画黄金時代の巨匠、の歴史的位置づけには異論がなかろうが、今では忘れられてしまった感のあるジャック・フェデー作品。
ヒリヒリとした人間の描写に重みとフランス映画の歴史が感じられる。

家城巳代治と「弾丸大将」

家城巳代治は筆者が敬愛する映画監督です。

戦前に松竹に入社、渋谷実に師事し、1944年に監督デヴュー。
以降、松竹で4本を監督。
戦後は松竹の組合委員長を務め、1950年にレッド・パージの対象となり松竹を退社。
その後は、主に独立プロで「雲流るる果てに」(1953年)、「異母兄弟」(1957年)など社会派の力作を発表した。1976年死去。
妻は女優でエッセイストでもあった家城久子。

筆者は家城監督作品のうち「雲流るる果てに」、「ともしび」(1954年)、「姉妹」(1955年)、「胸より胸へ」(1955年)の4本を見ていた。
いずれも松竹レッド・パージの直後の独立プロ作品だ。

独立プロ作品とはいいながら「雲流るる果てに」の主演は鶴田浩二、「ともしび」には香川京子、「姉妹」には中原ひとみと野添ひとみ、「胸より胸へ」には有馬稲子が出ている。
いずれも邦画メジャー所属の俳優、女優だったりする。
これらの作品、「ともしび」を除けば配給が松竹、東映などメジャーによるもの。
パージされたとはいえ、家城は松竹で監督昇進した実力者であり、配給、配役の結果を見るにつけ、メジャー作品並みの扱いである。

妻の久子によるエッセイ「エンドマークはつけないで」が手元にある。
内容は家城と久子の出会いと結婚から死別までの間、久子自身の生き方(俳優学校への入学と女優活動、脚本執筆、子供が生まれた後の地域活動、家城プロの設立)を中心に、夫家城の松竹退社後の映画製作の苦労や文化人としての活動ぶりを愛情豊かにつづったもの。
家城監督については、その知識旺盛で誠実な生き方と映画撮影時の厳しさが活写されている。

家城監督と久子夫人

「雲流るる果てに」は特攻に没した学徒兵の手記をもとにした作品。
鶴田浩二が願っての主演。

作品は、特攻に臨む学徒兵の苦悩を中心に、毎日女郎屋に入り浸る仲間、脱走を誘った学徒兵が出撃した後は抜け殻のようになる女教師(若き日の山岡久乃)などの人物像を描写。

当時の教条的左翼史観からすると「好戦的映画」とも評されたと聞く。
しかしながら、鶴田がいつものヨタった演技が嘘のように熱演し、また滑走するゼロ戦を原寸大で再現しての力作。

戦時下を知る映画人の制作による淡々とした造りは、見る者の心にしみた。

「雲流るる果てに」より鶴田浩二と山岡久乃

「ともしび」は子役らを集めて地方に長期ロケした作品。
東北の戦後直後の中学生の生活ぶりが描かれる。

乳飲み子の末妹を背負い、学校に通う中学生は、妹が圧迫されないように立って授業を受ける。
囲炉裏端のランプの光を頼りにミカン箱で勉強する中学生のもとに補習に通ってくる先生(内藤武敏)を中心に陽気に笑い合う中学生たち。

作品のタッチは生活の厳しさのみを描くのではなく、子供たちの底抜けの明るさ、そこはかとないユーモアを欠かさない。

「ともしび」より香川京子

「姉妹」は忘れられない作品。
ダムの管理で山奥の社宅を転々とする一家の姉妹の物語。

妹役の中原ひとみがいい。
東映の番線番組では準主役の町娘が定番だった彼女がこの作品では芯のある娘を演じる(今井正の「純愛物語」の彼女も良かった)。

社宅の前の道は雨が降ったり雪解けの時は泥んこ。
その道を下駄で歩く姉妹。

河原で牛を飼う訳ありの夫婦(殿山泰司ら)がいる。
近所の嫌われ者の夫婦を「でも私は好きだよ」と何事もないように擁護する妹。

姉は結婚する、嫁入りはバスで。
花嫁姿の姉がバスの後部座席から手を振る。

なんということはない地方の庶民の生活が淡々と描かれる。
その貴重さ、強さ、楽しさ、美しさ。

「姉妹」より中原ひとみと野添ひとみ
姉の嫁入りの場面
「姉妹」演出中の家城監督。左から二番目は久子夫人。

家城監督の遺作は、妻の久子の脚本による「恋は緑の風の中」(1974年)。
家城プロの第一回作品で原田美枝子の映画デヴュー作でもある。

製作中に東宝の配給が決まったという。
やはり腐っても松竹の監督出身者、家城監督は何か持っている。

一人息子を育てた経験を持つ久子が脚本を書き、青春ものはと渋る家城監督を説得し、配給が決まらないままにスタートした作品だという。
筆者は未見。

「恋は緑の風の中」のノベライズ本。原田美枝子と佐藤佑介

家城監督は、1954年から7年間、東映と専属契約を結び9本の作品を作った。
「異母兄弟」という家城監督の代表作を独立プロで発表した後のことで、監督後期のフィルモグラフィーを成す作品群を東映で撮っていたのだ。

これには、時代劇で観客動員を続け、勢い余ってニュー東映なる配給ルートを作り、東映東京撮影所の現代劇で新配給ルートを埋めようという東映大川社長の思惑があった。
そこで監督として信用のある家城に話があったことがうかがえる。

東映で家城は、のちの東映のエース監督となる佐藤純也、降旗康夫を助監督に起用した「東映家城組」をなし、佐藤らとは後々まで師弟関係であった。
映画史に残ったり、賞を取るような作品は作らなかったが(「裸の太陽」のベルリン映画祭青少年向き映画賞受賞を除く)、当時の若手女優のホープ、佐久間良子や三田佳子を起用した興味深い作品群を撮っている。

今回、ラピュタ阿佐ヶ谷で「ニュープリント大作戦」と題した特集があった。
これまで数々の特集上映に際し、新しくプリントを焼いて(多くはラピュタ持ち出のことと思われる)上映した作品を集めた特集だ。
その1本に家城監督東映時代の「弾丸大将」(1960年)があったので駆け付けた。

「弾丸大将」 1960年  家城巳代治監督  東映

家城監督が東映専属になって3本目の作品。
テーマは米軍演習場で身の危険を冒して不発弾や薬きょうを回収する日本人の姿を通して、静かに反戦を訴えるもので、家城監督の信条から逸脱するものではない。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに掲示されたポスター

手法的にはますます教条的左翼主義を排した自由なものとなっている作品。
主演の南廣扮する「不発の善ちゃん」は米軍演習場で不発弾を掘り出し、信管を抜き、火薬を抜いて売るのが得意。周りには、暴発により夫を亡くした未亡人(淡島千景)や、未亡人と両思いになった挙句暴発で死ぬ男(木村功)など、周辺の部落民が跋扈する。

善ちゃんは女(春丘典子)がいるものの、未亡人に惚れて通い詰めるが、未亡人は木村功が死んでから心ここにあらずとなり、偶然近づきになった米軍人と結婚を約束する。
渡米前の準備金にと不発弾を掘る未亡人だが善ちゃんの目前で爆死する。

映画はひたすら演習場で着弾地点へ「突撃」する善ちゃんたちを活写する。
善ちゃんたちは、戦争が終わっても自ら危険を顧みず、まっしぐらに行動する日本人そのものだ。
部落の飲み屋の描き方、善ちゃんと女の描き方、善ちゃんの未亡人への迫り方も描かれるが、家城監督らしくその描写に良識は失われない。

淡島千景と南廣

川島雄三ならハチャメチャに破廉恥に、今村昌平ならねちっこくいやらしく撮るであろう、田舎の無学な衆の居酒屋におけるふるまい、男の女への迫り方、は淡々と演出される。
人間の生態描写がこの映画のテーマではないということだ。

善ちゃんはまた教条的左翼ではないので、生活のためには米軍基地反対はせず、代わりにやってきた自衛隊に対しても弾拾いを敢行する。
実践的で生活力が旺盛なのだ。
それが善ちゃんの限界でもあるのだが。
善ちゃんは戦後のわれわれ日本人の姿なのだ。

特集パンフより

あまり効果的ではなかった(というか、もったいないキャステイング)が、都会から開拓部落にやってきた場違いな美人未亡人役の淡島千景。
こういったメジャーなキャステイングも、家城監督の実力と人脈がなせる業なのだろうか。

貴重な東映専属時代の家城作品に接することができた。

「弾丸大将」演出中の家城監督

DVD名画劇場 フランス映画黄金時代② ジャック・フェデーとフランソワーズ・ロゼエ

トーキー移行で、アメリカやドイツに後れを取ったフランス映画は、1930年になってトーキー時代を迎えた。
そのころにフランス映画界は、サイレント時代にデビューを果たしていた、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエらが監督の中心におり、その一人にジャック・フェデーがいた。

フェデーはベルギーの生まれ。
サイレント時代のフランス映画界で頭角を現し、ハリウッドのMGMと契約して渡米。
何作か発表したものの評判に至らず、フランスに戻っていた。
夫人はフランス演劇界の大女優、フランソワーズ・ロゼエである。

ジャック・フェデー

1930年代のフランス映画は、歴史的名作、「巴里の屋根の下」(1930年ルネ・クレール)、「望郷」「舞踏会の手帖」(いずれも1937年ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)、「どん底」(1936年 ジャン・ルノワール)などなど、を生みだし続けていた。

フェデーはこの時期に「外人部隊」「ミモザ館」「女だけの都」を発表する。
いずれも夫人フランソワーズを主演ないし重要なわき役に配した堂々たる規模の大作である。
この3作品によりフェデーはフランス映画界に永遠の名を残した。(フェデーはこの後、製作者のアレクサンダー・コルダに招かれてイギリスへ渡り、1948年に没)。

「フランス映画の歩み」表紙

では、世に言われるフランス映画の特色とはどういったものか。
ここに1冊の研究書がある。
題して「フランス映画のあゆみ」(岡田真吉著 1964年刊)。
著者はフランス映画(とフランス語)に資するところがあり、ジャン・エプスタン、ルネ・クレール、ロベール・ブレッソンらと文通して、彼らに質問したり、自らの映画批評を仏訳して送ったり、彼らから撮影台本を譲り受けたりしたという人物。
のちにフランス映画人たちの理解を得、何度もカンヌ映画祭に招待されたという(健康問題で渡仏は実現せず)。

ここでは、本著の第一章の要旨をもってフランス映画の特質、優秀性の引用としたい。
まずフランスの深い歴史的伝統に裏打ちされた文学的精神があること。
またフランスの文化的伝統たる演劇性に深く裏打ちされていること。
演劇的伝統はフランス映画に修辞作家の独立をもたらしたこと。
演ずる俳優たちが演技者として優秀であること。等々。

そして、フォトジェニイという映画的手法を確立したこと。
フォトジェニイとは「カメラに捉えられて一つの映像となるとその精神的価値を増加させる一つの資質」(同著P13)とある。
フランス映画が事実を追うだけでなく、人物の心理の陰影や性格を描いたり、一つのシチュエーションをそれが持つ情緒を浮かび上がらせるように描くことを志向するときの一つの映画的手法であり、モンタージュという概念と並ぶ映画芸術の本質を規定する要素、だという。

「フランス映画の歩み」目次

ヌーベルバーグの時代、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」のフランソワ・トリュフォーらにより、全否定されたこの時代の作家と作品(クレールを除く。ルノワールは別格)。
しかしながらDVDで見たフェデーの作品は、作品の規模、俳優の演技力、脚本の完成度ともに一流のもので簡単に否定し去るものではなく、むしろフランス映画文化の伝統と奥深さを感じさせるに十分なものだった。

「外人部隊」 1934年  ジャック・フェデー監督  フランス

名花マリー・ベル扮する薄幸流転の場末の歌姫。
ピエール・リシャール=ウイルム扮する、無責任の挙句親族に国外追放されモロッコの外人部隊に流れ着く主人公。フランソワーズ・ロゼエ扮する場末の宿兼バーのいわくありげな女主人。
フランソワーズの宿六には「恐怖の報酬」が忘れられないシャルル・バネルが扮する。

役者がそろったところで観客はモロッコの場末で繰り広げられる「半端者」たちのグダグダの世界へ案内される。

フランソワーズ・ロゼエ(右)

主人公は悪気はないが苦労なく育った坊ちゃん。
パリで女に入れあげた挙句、親族の会社の金を使い果たして追放される。
金だけでくっついていたぜいたく好きの女フローレンス(マリー・ベル二役)は去る。
主人公は流れてモロッコの外人部隊へ。

外人部隊で友を得る主人公。
友は何くれとなく主人公の世話を焼いてくれる。
そう、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年 ルキノ・ヴィスコンテイ)で無賃乗車の主人公を救ってしばらく面倒を見た放浪の香具師のように。

友はその過去を問うた時だけは激高した。
「お互い過去は詮索しない約束ではないか!」と。

主人公は、定宿の女主人(フランソワーズ・ロゼエ)に気に入られている。
必ず当たるので、女主人はやりたがらないトランプ占いでは、「かつての女と再会し、人を殺すが巨額を得る」と出る。
その占いは、流れ者同士の寄る辺ない一夜の暇つぶしであったはずだ。

宿の女将が主人公を占う。フランソワーズ・ロゼエ18番のシーン

友と訪れたバーで、忘れられないフローレンスとそっくりのイルマ(マリー・ベルニ役)を見る。
イルマは歌っても華がなく、席に着けば素人っぽくぎこちない酒場の女である。

どこから流れてきたのか本人も覚えていないこの女を主人公は見染める。
フローレンスが自分を追いかけてきてとぼけているたのだろう、と思う。
外人部隊で苦労しようとどうしようと、お坊ちゃんはどこまでも自分本位なのである、悪気はないが・・・。

場末のキャバレーに流れてきた女。マリー・ベル二役

過去に翻弄され、汚濁にまみれて流れてきた場末女イルマに扮し、やっとのことで主人公に心を開いてゆく、女ごころのいじらしさを演じるマリー・ベルが素晴らしい。

のちの世から見れば、お涙頂戴の不自然極まりない芝居なのかもしれないが、いいものはいい。

ラスト近く、アラブの王族とオープンカーでカサブランカを行く、本物のフローレンスと邂逅した主人公は一も二もなくなびいてゆく。
フローレンスが己を愛しているというついぞ捨てきれぬ己の幻想を信じ、またマルセイユ行きの切符2枚まで買ったイルマを船上に捨てて。

まるでサイレント時代のグロリア・スワンソンのような白一色のファッションで、王族のオープンカーから降り立つフローレンスに扮するマリー・ベルも光り輝いているが、人を信じるという経験すらない場末の女が、純粋だけは取り柄の主人公に触れて人間の心を取り戻してゆくイルマを演じ分ける、別人のようなマリー・ベルが忘れられない。

主人公の「身代わり」で激戦地に出陣し、戦死して帰ってくる友。
遺品を宿の暖炉にくべながら、ロシア語新聞に芸術家として紹介される友の記事を見るやるせなさ。

戦友の遺品を燃す。ロゼエと主人公

外人部隊が楽隊を先頭に街に入ってくる、子供らが行進に付きまとう。
モロッコの酒場での、カンカン踊りのようなベリーダンスのような、煽情だけをむき出しにした女たちのふるまい。これらをドキュメンタルというか、感傷なしに描写するジャック・フェデーの視線は乾いている。

「女だけの都」 1935年  ジャック・フェデー監督  フランス

パリ郊外に組まれたという16世紀フランドル地方都市の大オープンセット。
城内はお祭りの準備で市民が天手古舞。

市長一家のおっかさん、フランソワーズ・ロゼエも大忙し。
家では末っ子を風呂に入れ、女中のおしゃべりをぴしゃりと制して指図し、恋多き愛娘の訴えには親身にアドバイスをくれる。
そこには、モロッコの果てで占いトランプを前に斜に構える憂いに満ちたロゼエの姿はない。
庶民的で男勝りの肝っ玉おっかあの役も彼女に似合う。

フランソワーズ・ロゼエは娘にとっては頼もしいおっかさん

ロゼエの達者な演技に見とれるだけで本作を見る意味は十分あるのだが、フェデーと脚本のシャルル・スパークは寓意に満ちた本筋と練られたデイテイルを駆使して観客をぐいぐい引っ張る。

時はスペインの治世、公爵一行が城壁都市にやってくる。
思わず最悪の事態が頭をよぎる。
略奪、凌辱、拷問、殲滅の幻影。

市長ら男たちは肖像画のモデルを早々にやめて、死んだふりを行うことにする。
ここで立ち上がったのがロゼエおっかさんを中心にした女性達。
日頃から男どもの優柔不断にはあきれており、野生的なスペイン軍を思うと心ときめく、とともに体を張って外敵を迎えることを決議する。

城壁都市にスペイン兵が進駐

女達がスペイン兵たちをエスコートして街に入場する。
さっそく、男らしいスペイン将校たちに取り入るおかみさんたち。
市長夫人のロゼエは公爵にべったり。
年甲斐もなくよろめきかかる。
ここではさすがに踏みとどまり、愛娘の結婚保証人を公爵に願い出るが。

公爵一行の随行者に生臭坊主と小人がいる。
坊主にはルイ・ジューベが扮して笑わせる。
フェデー堂々の宗教権威批判だ。

幻影のスペイン軍の乱暴狼藉シーンは当時としては衝撃的でリアルな描写。
スペイン兵たちと市民たちが入り乱れる飲み屋のシーンも猥雑。
ここら辺は「外人部隊」にも共通するフェデーのリアルで乾いた描写ぶり。

中世市民のおおらかさを寓話的に描き、フランソワーズ・ロゼエの演技力という力技を加えた勢いで突っ走った快作。
古さは感じない。

DVD名画劇場 ドイツ表現主義時代の幻影「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトゥ」

第一次世界大戦後からヒトラーが台頭するまでの1918年から1933年まで。
ドイツ映画はその全盛期を迎えていた。

サイレント映画からトーキーへの移行にあたるこの時代、ベルリンのウーファ撮影所を中心に、幾多の名作が生まれ、ハリウッドをしのぎ世界一の水準を示した。

手許に「写真 映画百年史」という5巻シリーズのグラフ雑誌がある。
1954年から発刊され編著者に筈見恒夫、表紙に野口久光という一流の布陣。

発刊の趣旨は映画発祥時からサイレント時代、トーキー時代を経て1950年代までに至る世界の映画史を写真でたどるというもの。

グラフ雑誌「写真映画百年史第2巻」表紙

日本映画についてが半分ほどを占めるのは致し方ないとはいえ、残りの半分をハリウッド映画と欧州映画で分け合った構成となっている。

「写真 映画百年史」は、見開き2ページに一つのテーマで写真が載っている。
日本映画に関しては「目玉の松之助専本の映画を完成」としてサイレント時代の日本映画のヒーロー、尾上松之助の作品写真を集めたページがあり、外国映画に関しては「巨匠グリフィスの功績」としてD・W・グリフィスがチャップリンやピックフォード等のちにパラマウントを設立するメンバーと談笑する写真などを掲載している。
ファン向けでもあり、本格的でもある映画グラフとなっている。

注目すべきは第一次大戦後から、ナチス台頭までの時代のドイツ映画の取り上げ方だ。
第1巻では「表現派と歴史大作 敗戦ドイツ大いに賑わう」の表題で「ドクトルマブセ」や「カリガリ博士」を紹介するページがあり、「逞しいドイツ映画」の題でフリッツ・ラングによるゲルマン神話の映像化「ニーベルンゲン物語」などを紹介している。

第2巻では「ムルナウとパプストの活躍」と題してサイレント名画「最後の人」「パンドラの箱」を紹介。
「山岳映画と科学空想映画」と銘打ってアーノルド・ファンクらをフォロー。
「ドイツ映画 現実と幻想」として表現主義の後の潮流となったドイツ映画のリアリズムとロマンチシズムの諸作品を紹介。
「ウーファ映画華やかに咲く」では20年代に花開いたドラマの数々を紹介。
ほかに、ドイツからハリウッドに移ったエルンスト・ルビッチについてのページもある。

第1巻より。「カリガリ博士」が紹介されている
第1巻より。「ニーベルンゲン」などの紹介
第2巻より。ルイズ・ブルックスの顔が見える
第2巻より。「メトロポリス」など
第2巻より
第2巻より。忘れられたウーファ作品の数々

こう見ると「写真 映画百年史」におけるドイツ映画の比重はかなり大きい。
ドイツ映画の主に1920年代の流れが、表現主義、歴史もの、音楽ものからリアリズムとロマンチシズムへと続いて行ったことがわかる。
その流れの中に「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトウ」「嘆きの天使」「制服の処女」などの作品があり、また現在では忘れられている幾多の作品やスターがいたことも。
戦前のドイツ映画が質量ともに第一線にあったことが日本でも認識されていたことも。

なお、サイレント時代のドイツ映画で起こった「表現主義」とは、第一次大戦に敗戦したドイツの退廃と虚無が生んだ芸術形式(写真映画百年史第1巻P27)とある。
当時の主流であった、自然主義、印象主義への反動として生まれた前衛運動であったようだ。

では、表現主義時代の代表作「カリガリ博士」を見てみよう。

「カリガリ博士」 1919年  ロベルト・ウイーネ監督  ドイツ

「クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの冒険」という劇場用アニメを見たことがある。
街に出現したヘンダーランドという見るからに怪しい遊園地でもっと怪しいおかまが呼び込みをする。
街では呼び込みの歌が流れる「変だ変だよヘンダーランド、嘘だと思ったらチョイとおいで・・・」。
しんちゃんたちは果たして怪しさの究極地・ヘンダーランドから脱出できるのか!?

遊園地の、非日常的な空気感とそのいかがわしさを描く映画は「カリガリ博士」がその元祖だった。

カリガリ博士と棺桶のチェザーレ

分厚い眼鏡に山高帽、ずんぐりしたマント姿。
眼鏡を上に下にずらしてぎょろ目をむく。
役人や官憲に対しては卑屈にふるまい、弱いものを誘惑して遊園地のテントへと誘う。
その名もカリガリ博士が街に現れる。

ドイツの民話「ハーメルンの笛吹き男」からのモチーフなのか?
時代を越えて世界に敷衍する人さらい神話の援用か?

プラハ出身のハンス・ヤノウッツとグラーツ出身のカール・マイヤー。
オーストリア=ハンガリー帝国出身の第一次大戦経験者、二人による共同脚本。

遊園地と精神病院、バレーダンサーのような身のこなしの夢遊病者と怪人博士。
怪しすぎる映画的組み合わせが、抽象的な書割を背景として繰り広げる悪夢のような物語。

二人の脚本家は主人公の名前を「発見」したとき会心の叫び声を上げたという。
カリガリ。
魔術師、奇術師の類に通ずるというイタリア系のネーミングだ、カリオストロ、フィーデーニのような。

この作品の背景は思いっきりデフォルメされた書割で表される。
書割の道路や壁がゆがみ、入り口は斜めっていて悪夢の世界を増長する。
遊園地を表す書割には猥雑な賑やかさに満ちている。

カリガリ博士が見世物として棺桶で飼っている夢遊病者・チェザーレもすごい。
ぴっちりとしたタイツ姿でダンサーのような身のこなしで美女を狙う。
カリガリ博士がドイツ的な土臭さ、やぼったさ、頑迷さに囚われた存在とするなら、芸術的、情緒的、美的な存在のチェザーレは、遠近法を無視したゆがんだ書割セットを背景に、ダンスのようなあるいはパントマイムのような誇張した動きでさ迷う。

チェザーレの方が悪夢度が高い。

チェザーレに扮したコンラット・ファイト
チェザーレに扮するコンラット・ファイトが幻想的な書割を背景に美女を誘拐する

「カリガリは人間の価値尊厳を蹂躙するプロイセンミリタリズムの擬人化された姿であり、チェザーレは徴兵され殺人訓練を受ける一般民衆のことである、と二人の脚本家は考えた。
そのテーマは、第一次大戦で非人間的な体験に遭わずにおれなかった二人の反戦、反国家思想から出現したもの。」(岩崎昶著 朝日選書「ヒトラーと映画」P227より)

朝日選書「ヒトラーと映画」。1933年前後のドイツ映画を語る

リアリズムによらず、むしろ極端な表現主義によって反戦、反国家を謳った名作。
現在見ても、その表現の徹底ぶりに驚かされる。
また非人間的な権力に対する恐怖という点では時代を越えたテーマを有する作品である。

「ヘンダーランド」の原点でもある。

「吸血鬼ノスフェラトゥ」 1922年 F・W・ムルナウ監督  ドイツ

カリガリ博士というガチガチにカリカチュアライズされた自らの民族性の宿痾に次いで、ドイツ人は中欧の伝承の中により不安定で超自然的な吸血鬼というキャラクターを発見した。
ドイツ民族は災難から逃れられないようである。

カリガリという災難が反理性主義のいわば象徴で、時代の変遷や理性主義により克服し得るものだとすると、吸血鬼は歴史的かつ超自然的な存在で、その災難度は高く深い。

ドイツ映画が吸血鬼を素材にするこということは、理性主義ではどうにもならない当時の現実からの逃避なのか。

カリガリはともかく、吸血鬼は21世紀になっても映画の素材として生き残っていることから、ドイツを越えたキャラクターを発見したということなのか。

ノスフェラトウの象徴的なポーズ

「吸血鬼ノスフェラトウ」のストーリーは、ハリウッドによるリメーク「魔人ドラキュラ」にほぼトレースされている。
違うのは吸血鬼の見た目と性能。
「魔人ドラキュラ」の吸血鬼は人間に対してはオールマイテーで、魅入られた人間は対処できない。
まるでエイリアンや病原菌のような吸血鬼である。

「ノスフェラトウ」の吸血鬼は人間を倒すことはできるが、たとえ吸血したあとでも完全な下僕にはできない。
また、自己を犠牲にして他を助けようとする人間の崇高な意志の前に、あえなく朝日を浴びて溶けていってしまう。

自らを犠牲とする美女のクビに気を取られた挙句、朝日に溶け行くノスフェラトウの最後

まことに人間臭いのがドイツ製吸血鬼。
その姿はハリウッド版のベラ・ルゴシ扮するドラキュラのように支配的、魔術的なものではなく、「カリガリ博士」のチェザーレのように女性的で美的なもののようだ。

ノスフェラトウには、その城の麓に生きる村人に忌諱される悲しみがある。
日陰に生きる者の哀れさとでもいおうか。
さらにいうと、ノスフェラトウの尖った禿げ頭、鷲鼻、ひょこたんひょこたんと歩く姿はどこか奇形的で、被差別感すら感じられるのだ。

ノスフェラトウがワイマール時代のドイツ人にとって、社会的恐怖・差別の象徴であることは確かだ。

追加) 「M」 1931年  フリッツ・ラング監督  ドイツ

第一次大戦後のドイツ映画界は、表現主義、歴史もの、ゲルマン神話、音楽もの、と様々なジャンルで第一級の作品を発表してきた。
この時代の第一線の監督として、ムルナウ、パプスト、エルンスト・ルビッチなどと並んでフリッツ・ラングがいる。

ベルリンにそびえるウーファ撮影所はユダヤ人がいなければ成立しない、といわれていた。
ラングもユダヤ人だった。

ラングはゲルマン神話に題材をとった「ニーゲルンゲン」をナチス宣伝相ゲッペルスに絶賛されたものの、「怪人マブセ博士」(1932年 サイレント作品「ドクトルマブセ」のセルフリメーク)を上映禁止にされ、1933年ナチス党の政権奪取の年にフランスへ亡命した。
「M」は「怪人マブセ博士」のひとつ前の作品で、ラング初のトーキー作品である。

ナチスの政権奪取前後に、ユダヤ系映画人が多数アメリカに亡命している。
が、それ以前のドイツ映画全盛時代から、ドイツ映画人のハリウッドによる引き抜きが続いていた。
ハリウッドによる映画人の引き抜きと、撮影所への資本参入がドイツ映画界の衰弱を生んだ。
とどめを刺したのがナチス党の政権奪取だった。
ドイツ映画のシンボル、ウーファ撮影所は第二次大戦のベルリン陥落とともに文字通り崩壊した。

「M」はナチス党政権奪取前夜の不安感をユダヤ人フリッツ・ラングがこれでもか、と描いた作品。
スリラー仕立てだが、ラングの狙いが、組織や群集の愚かさ、群集心理の不条理さにあったことは明白だ。

ピ-ター・ローレ、畢竟の怪演

ピーター・ローレが児童誘拐の犯人を演じる。
まだ若くぽっちゃりしている。
彼もまたハリウッドに亡命し「毒薬と老嬢」では人造人間とともに逃亡を続けるドイツ訛りの医者を自虐的に演じている。
彼のハリウッド時代のおどおどした小悪党演技の原点が「M」なのだろう。

児童誘拐殺人犯Mを追いつめる警察と犯罪組織。
なぜ犯罪組織がMを追うのか?
Mのおかげで泥棒は上がったりだ、という理由で。
その理由もばかばかしいが、警察の方も捜査の決め手を欠き捜査会議でタバコをふかすばかり。
ラングはカットバックで犯罪組織と警察会議を並行して描く。
まるで警察も泥棒も同じだ、と言わんばかりに。

Mを捕まえた犯罪組織が人民裁判よろしくMの罪状を追いつめる。
小児愛好者という病気のMは自分でも犯行を抑えることができない。
形だけの弁護人役が、Mに必要なのは治療で処罰ではないと正論を述べるが、圧倒的群衆は処罰を求めて叫ぶ。
群集心理の絶望感が画面を覆う。

この作品、警察の捜査の一環で、ベルリンの娼婦が集まるいかがわしいバーに踏み込むシーンがある。
長い尺で。
ラングが、警察の藪にらみ的な愚鈍さとともに、当時のドイツ社会の絶望的な裏側を描きたかったことを物語る。

映画を通してみて、犯罪スリラーとしての鋭さも印象に残るが、その比重は少ない。
社会に潜む「普通」の人間が小児嗜好の持ち主であり、それは本人では抑止できない「病気」であるとの観点は新しい犯人像だと思うが。

ラングによる戦前のドイツへの訣別のメッセージともいえる作品。
フランス経由でハリウッドに渡ったラングは、暗黒ものから西部劇まで様々なジャンルで活躍することとなる。

アンナ・カリーナの美しさ!「女と男のいる舗道」㏌上田映劇

上田映劇で「ジャン=リュック・ゴダール反逆の映画作家」(2022年)公開を記念に、ゴダールの初期作が3本上映された。
そのうち「女と男のいる舗道」に駆け付けた。

当日の劇場前ディスプレイ

本作はゴダールの長編4作目で、アンナ・カリーナのゴダール作品出演3作目にあたる。
二人は1961年の「小さな兵隊」の後にゴダールの熱烈なアタックにより結婚していた。

長編第1作の「勝手にしやがれ」をモノグラム映画社(B級専門のハリウッド映画会社)に捧げ、第3作目の「女は女である」をハリウッドミュージカルに捧げたゴダールは、4作目の「女と男のいる舗道」をB級映画に捧げている。

2作目の「小さな兵隊」はアルジェリア戦争をモチーフにした独自の政治的スタンスに基づくオリジナルな作品だったから除くとして、ほかの3作品はアメリカ映画のスタイルへの仮託を標榜した作品が続いていたとことになる。

この事実には、前提として映画批評家ゴダールの深い映画的経験と、その志向(アメリカ映画のそれもB級映画が好き)があるにせよ、映画監督としてのキャリアの浅さからくる自信のなさがうかがえる。

長編劇映画を作ることは、収益上の責任を持つということで、ヒットすることが劇映画の監督を続けられる必要条件となる。
ゴダールは、目くるめくストーリー性があるわけでもなく、集客力のあるスターが出ているわけでもない自身の作品を、既存のカテゴリーに仮託して観客に提示せざるを得なかったのだろう。
自虐的であるとも、客観的であるともいえる行為である。

劇場前の上映予定看板

「女と男のいる舗道」 1962年  ジャン=リュックゴダール監督  フランス

この作品、はるか昔に16ミリ版のフィルムで見たことがある。
暗い画面に、アンナ・カリーナがうつむいてばかり、という印象だった。
暗いのは内容ばかりではなく、映写機によって映し出される画面が物理的に見えずらいのだった。.

この度上映されたデジタル版では、映像がクリアに抜けていて、明るい場面でも、暗い場面でも、中間の場面でもその通りに再現される。
いい時代になった。

チラシより

当時22歳、若さはもちろん、本来の可憐さが残るアンナ・カリーナ。
初々しく緊張した「小さな兵隊」、天真爛漫な「女は女である」を経て、若さの中に憂いと陰影を加えた表情を見せる。
「気狂いピエロ」「メイドインUSA」などカリーナ=ゴダール時代の後期作では疲れと不機嫌さが目立つ(ゴダールとの離婚後の作品ということもあるか?)カリーナにあって、その若々しさが残る最後の作品なのかもしれない、(「離れ離れに」は未見だが)。

この作品でのゴダールのカリーナに対する視線は、「小さな兵隊」における、まるで自主映画の監督が主演に連れてきた女優に対するような憧れを隠せないようなもの、から、カリーナの内面に迫るものに変化している。

カリーナの髪形、衣装、メイクはかなり凝っており、短髪(かつら?)、アイシャドーを施したばっちりメイクは、映画が進むにつれ濃くなってゆく。
若々しいカリーナの肌は濃い化粧のノリもよく、また化粧負けしてもいない。

チラシより

愛するカリーナに、夫と別れて出奔し、家賃も払えないほど困窮し、友達に誘われて街娼となり、ヒモにいいように翻弄される女性を演じさせるゴダール。
カリーナは、カール・ドライヤーのサイレント映画「裁かるるジャンヌ」を見て涙し、カフェで自分を見ていた哲学者と会話を交わす。
金もなく、街娼の境遇にまで至った女性だが、自らの内面を見つめようと無意識にせよ模索し続ける。

ゴダールは突き放した視線で、カリーナ扮する無垢な女性の内面を捉え続ける。
同時に、ジュデイ・ガーランド(カリーナが務めるレコード店で客がそのレコードをオーダーする)、エリザベス・テーラー(カリーナの背後にポートレートが貼ってある)などゴダールのアメリカ映画趣味が垣間見られたり、「突然炎のごとく」公開の劇場に並ぶ観客の実写カットなどの楽屋落ち(仲間のフランソワ・トリュフォー作品なので)があったりもする。

カリーナは本作での自分の姿を見て、きれいに撮れていないと激怒し、ゴダールとの離婚の一因ともなったという。
客観的に見てアンナ・カリーナの若き日の代表作ともいえる本作は、彼女の表面上の美しさだけではなく、内面の葛藤もとらえた画期的な作品である。
カリーナの無理解は、映像的なものからくるのではなく、その内面に迫ろうとした作風に対するもののようだ。

講談社現代新書

講談社現代新書「ゴダールと女たち」(2011年刊 四方田犬彦著)では、本作について「ゴダールがこのフィルムで試みたことは(中略)みずからの眼差しによってアンナの身体の内側に隠されている魂の美しさを引き出し、画面に定着させてみせることだった。(攻略)」(同書 P68)と評している。

同書目次

ゴダールのその試みは十分達成され、「女と男のいる舗道」は22歳のアンナ・カリーナの姿が永遠に刻印された記念碑的作品となった。

ゴダールとカリーナのコンビは、映画史上では、スタンバークとデートリッヒ、溝口健二と田中絹代、小津安二郎と原節子、に比べることができるのかもしれない。
ヒッチコックとグレース・ケリーというコンビもあった。
いずれも手練れの業界人同士によるビジネスカップル(小津と原はプラトニックな関係。ヒッチコックは一方的な横恋慕)だが、結婚までいったゴダール組はある意味正直で素人っぽかった。

アンナ・カリーナはゴダールとの結婚期間中からそれ以降、ゴダール以外の多彩な監督作品に出演している。
「輪舞」(1964年 ロジェ・バデイム)、「修道女」(1966年 ジャック・リヴェット)、「異邦人」(1968年 ルキノ・ヴィスッコンテイ)、「悪魔のような恋人」(1969年 トニー・リチャードソン)などなど。

このそうそうたるキャリアは、カリーナ本人の才能によることもさることながら、ゴダールの眼を通して探求、表現されたその諸作品におけるアンナ・カリーナの魅力が、名匠たちにインスピレーションをもたらして実現したもの、と思えてならない。

DVD名画劇場 ハリウッドカップルズ① メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス

手許に「ハリウッド・カップルズ」(キネマ旬報社1998年刊 筈見有弘著)という本がある。
1930年代から90年代にかけて、ハリウッドで人気を博したカップル(ビジネスカップルも含む、というかそれがほとんど)について書かれており、キネマ旬報での連載をまとめたものだという。

連載にあたって古い作品や日本未公開の作品を、ビデオで見直し、またニューヨークに毎年通うなどして拾って歩いたという、映画評論家筈見有弘の著作。
内容は個人的作品評論に偏重せず、古い作品群の紹介や映画人の回顧録などの文献からの引用を多用し、記録としても貴重な著書となっている。

「ハリウッド・カップルズ」表紙

この本の最初に登場するのが、メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス。
ハリウッドの伝説上のカップルである。

同・目次

「アメリカン・スイートハート」と呼ばれた永遠の少女スター・メリーと、一代の剣劇スター・フェアバンクスは、実際に結婚していたビッグカップルだが、共演作は1929年の「じゃじゃ馬馴らし」ただ一作。
1910年代から人気を誇っていたメリー37歳の、いわば「晩年」の作品となる。

ハリウッド映画史で、初めて名前で観客を集めることができたという、スター第一号のメリー・ピックフォードとは何だったのか。
ここに、スター・メリーの本質に迫った著書がある。
「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」(1980年フィルムアート社刊 アレグザンダー・ウオーカー著)である。

「銀幕のいけにえ」表紙

前書きには、この本のねらいとして、「スクリーンに、またそのスター自身にあらわれでた女性のセクシュアリテイの本質をきわめること。」とあり、セダ・バラ、クララ・ボウ、デートリッヒ、ハーロー、モンローなど10人のスターが取り上げられている。
メリー・ピックフォードが第二章に登場する。

同・目次

1893年カナダトロントで生まれたメリーは5歳で父親を亡くし、以降母親と兄弟を養うべく旅芸人とともに舞台に立つ。
13歳の時、ブロ-ドウエイのプロデユーサーに自らを売り込み巡業団の女優となり、16歳でバイオグラフ社というD・W・グリフィス率いる映画会社に採用される。
清純な少女が好みのグリフィスの眼に敵ったという説があるが、グリフィス作品の常連にはなっていない。

メリー・ピックフォード

1910年代を迎えていた映画界は、全米で1万館を超える映画館(ニッケルオデオン)が大衆的人気を博し、製作側も資本投下を本格化して作品の質的な向上が起こった時期。
当時、俳優の名前はスクリーン上に表されていなく、「巻毛の少女」として大衆に親しまれ始めていたメリーは、はじめてメリー・ピックフォードという芸名をスクリーンに映し、大衆に知らしめた映画俳優となる。

150センチちょっとの身長と童顔。
幼い兄弟の親代わりに過ごしたリアルな幼女時代の体験に基づいた演技力。
巻毛と子供用エプロンの衣装。
これらは、当時の観客が求める少女像にぴったり適合し、小公女、あしながおじさん、不思議の国のアリスなどを題材とするメリー主演の映画はヒットし続けた。

「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」では、この時期のメリーの演技について、古い価値観に縛られ、大衆人気に迎合した少女像を演じながらも、随所に覗くセクシュアリテイについて指摘している。
それらのセクシュアリテイは、決して大衆を扇動し、新たな風俗を出現させるようなものではなく、大衆にとっては彼らの住む裏街のコミュニテイでは日常茶飯事のことだった、と。
それこそがメリーという女優の本質だったのだろう。

メリーとグリフィス(左)

実際のメリーはしっかり者で、契約更新のたびに倍増するギャラの交渉にも抜け目なく、名を成してからは、監督、製作者よりも製作現場で権限を持つ契約内容を要求した。
これはのちに、グリフィス、チャップリン、フェアバンクスとともに映画製作会社、ユナイテッドアーチスツを設立する行動につながる。

また、30歳を超えても少女役を要求される状況から脱しようと、人妻やヴァンプなどの役に挑戦するがヒットはせず、これが1933年に迎える女優人生の終焉につながった。
私生活では3度の結婚。
フェアバンクスとの結婚はお互いに2度目の結婚だった。
生活は堅実で、二人が暮らす豪邸でのパーテイは、ハリウッドスターにありがちな酒池肉林的なものではなかったという。

「じゃじゃ馬馴らし」 1929年  サム・テイラー監督  ユナイト

メリーとフェアバンクス唯一の共演作。
それまで共演作がなかったのは、それぞれが単独で十分商売になったこと、さりながらこの時代になってお互いの人気に陰りが出てきたことによるという。

「じゃじゃ馬馴らし」日本公開時のポスター

シェークスピア原作の映画化。
興行収入、批評共にパッとしない(というか惨憺たる実績と評価の)作品という。

フェアバンクスに鞭をふるうマリー

フェアバンクスの剣劇スターとしての動きはともかく、メリーは伝説の少女役を卒業し、じゃじゃ馬そのものの役を演じている。
そこにメリーの女優としての真価が見られたのかどうか。

結婚したマリーはフェアバンクスから仕返しされる

美人女優としての素地は隠しようがなく、整った美貌のメリーが、父親や妹に当たり散らし、鞭を振り回す。
そこへ財産目当てに駆け付けた頓珍漢な男、フェアバンクス。
相手の気持ちにかまわず、己をしゃべり散らかしメリーに接近。
それならばと、心許すふりをして痛撃を加えようと手ぐすね引くメリー。
まるで実際のメリーとフェアバンクスのカップル像のようにも見える。

堂々たるマリーと苦笑いのフェアバンクス

とおりが良く朗々としたセリフに、大都映画のアクションスター・ハヤブサヒデトのような、ファンタステック!なフェアバンクスのアクション。
正統派美人の気品と貫禄をたたえつつ、リアルなヒステリー演技に徹するメリー。

功成り名を遂げたスター達が、「流した」演技で撮ったフィルムのようでもあり、さりながら一代の名俳優がその実力と経験を示した熟練の「十八番」のようでもあり。

「ハリウッド・カップルズ」では、メリーとフェアバンクス夫婦について、
「(二人の屋敷は)ハリウッドの大使館のような役割を果たしていた。私生活を隠すスターが多い中にあって彼ら夫妻は、ファンあってのスターであるというポリシーを崩さなかった。そうした態度を崩さなかったことによって業界からの信望は厚くファンからも支持された。」と評した。

私生活に問題が多く、今の時代であれば(昔であっても)、性加害、幼児虐待、パワハラ、殺人などの犯罪行為で社会的制裁を受けてしかるべき人間に事欠かなかったハリウッドにあって、これは最上級の賛辞なのではないか。