実りの秋

令和5年も実りの季節を迎えました。

暑かった夏。
暑すぎて外出する気にもならなかった8月、9月ですがその間にも季節は進んでいました。
田んぼはいつの間にか黄金色に波打っていました。

刈り取った稲をハザに干す風景があちこちで見られるのも信州ならでは。

直売所やスーパーには早くも新米が出ています。
あちこちの畑では夏野菜の終わりの時期を迎え、秋物の大根が育っています。
山小舎おじさんは夏の暑さにやられて、今年は秋野菜の作付けはできませんでした。

手前にコスモス、後ろにハザの風景

信州はいよいよ実りの時期の最終章を迎えます。
お米が採れてリンゴの収穫期を迎えるといよいよ実りの季節の終わりです。

スキー場跡地の草苅

山小舎がある姫木別荘地の中央の斜面にはスキー場の跡地があります。
既にリフトやロッジなどは撤去され、斜面のみが残されたスキー場跡地です。
初夏にはわらびの採取地となりますが、それ以外は、景観的にも実利的にも何の貢献もなくたたずんでいます。

姫木管理事務所では毎年秋に、スキー場跡地の草刈りを行います。
1年ほおっておいたスキー場斜面はススキやその他の雑草に覆われています。
その丈は1メートルほどにもなるでしょうか。
数年ほおっておくと灌木が生え始める草原です。

毎年春から夏にかけて、別荘地の道路側溝の落ちが除去や、初夏からの草刈り作業に出ている山小舎おじさん。
おじさんにとって作業バイトは、貴重な住民間のコミュニケーションの場であり、体力増強の機会であり、現金収入の手段でもあるのです。

とはいっても毎年8月を過ぎると、バイトへの意欲と体力も失せていた山小舎おじさん。
毎年9月過ぎに行われる、スキー場の草苅は今年が初めての参加でした。

下から見上げるとススキが原は昨日までの作業で刈られた跡が段になっています。

斜面の草刈り作業は、下半身の安定と草刈り機の動作の連動が必要な高度なものであることに思いがいたります。

草刈りの時期を迎えた姫木スキー場跡地

標高と水平に谷側に向けて刈り落してゆくのですが、慣れるまでは大変です。
平地で行う草刈り以上に、足腰に負担がかかります。
おまけに9月とは思えない日差しが降り注ぎます。

40分に一度、15分の休憩がある、老人には優しい労働形態なのですが、この日ばかりは休憩が待ち遠しいこと。

休憩時間は草刈り機とヘルメットを置いて一息

それでも休憩時間に見上げる空の高さは信州の田舎ならでは。

バイト仲間との情報交換も貴重。

前半はひたすら苦しく重かった体も、夕方にはひと汗かいて軽くなったような気がしました。

9月とは思えない青空と積乱雲

丸子城址に登る

上田市丸子地区は、諏訪と上田を結ぶ大門街道沿いに開けた町です。
大門街道に沿っては依田川が、和田峠に端を発し千曲川への合流を目指して、流れています。
その大門街道と依田川を見下ろす小高い里山の山頂に丸子城址があります。

丸子公園にかかる案内板

山頂の丸子城址からふもとに広がる一帯が丸子公園となっています。

桜が散り始めたころ、畑作業を終えた山小舎おじさんは丸子公園へと寄ってみました。
依田川沿いの丸子公園は桜の名所であり、五月の節句の時期には、数多くのこいのぼりが、川を渡って吊り下げられ、風に泳ぐ場所でもあります。

丸子城は第一次上田合戦で、真田側の武将の居城として、徳川軍を迎え撃った実戦の場でした。
第一次上田合戦は、群馬県の沼田城を討った真田(幸村の父の時代)に、徳川が沼田城の放棄を求め、真田がこれを拒否したため、徳川が真田を懲らしめに出兵しておこりました。

真田本隊が陣取る上田城を攻めた徳川でしたがどうしても落ちず、一方の真田方である丸子城へと進撃先を変更しました。
丸子城は激戦の末、徳川軍の征伐を許さず膠着状態へ。
やがて徳川軍は佐久方面へ撤退していきました。
真田軍の徳川に対する最初の勝利の戦さです。

公園内の遊び場

さて、令和5年の丸子公園。
麓の公園は桜の季節。
家族連れが三々五々、子供を遊ばせています。

山小舎おじさんは山頂の城跡を目指し、山道を登り始めます。
案内板によると、500メートルで二の郭と呼ばれる場所につき、そこから350メートルで山頂の一の郭(天守)につきます。

丸子城址案内板

畑作業でウオームアップしたせいか、さしたる疲労もなく坂道をたどってゆくことができました。
山道はしっかり整備されていて、足元に不安はありません。
不安は自分の脚自体だけです。
日曜なので思ったよりハイカーの姿が多く、数組とすれ違う。
幼児や足の若干不自由そうなご高配の姿もあります。
さすが山の国長野県です。
春先なので風が冷たいです。

丸子城へ向かう山道

二の郭に着くと家族がシートを広げて日向ぼっこしていました。
復元された物見台に上ると、幼い兄弟も自力で登って遊んでいきました。

物見台からはふもとの大門街道はもちろん、遠く浅間山や菅平方面までが望めます。
和田峠方面は目と鼻の先だます

二の郭
二の郭から望む浅間連峰方面
上田市街から菅平方面

ここから見れば外敵の行動は丸裸だなと思いながら、一の郭を目指します。
終点までは、隣の山の山頂まで行かなくてはなりません。

一の郭へ向かう尾根道
あの山の頂上が一の郭

少し息が切れてきたが一の郭へ着きました。

井戸以外に何の遺跡もなく、歴史の彼方に過ぎ去った丸子城。
変わらぬものはここから眺める遥かな山々の姿だけなのだろう。

一の郭後の達東屋から八ヶ岳方面を望む
大門街道、依田川を見下ろす

立科町 津金寺

少し前のこと、3月の末に、津金寺というお寺を見てきました。
立科町にある古いお寺です。

上田市の丸子地区から山を越えて佐久方面に抜ける道沿いにあります。
その道を通るときにはいつも「立派なお寺があるなあ」と思っていました。

ある日、佐久方面から丸子へ寄って帰る道すがら、ふと思い立ち、その「立派なお寺」に寄ってみました。

津金寺は古代東山道沿いに702年の開基とし、長く信濃地方の学問の拠点だったお寺です。
戦国時代に織田信長の軍勢に焼き討ちに遭いましたが、江戸時代には漸次復興したとのことです。

駐車場に軽トラを入れ境内に降り立ちます。
境内の広さがわかります。
境内全体の案内図や建物の案内板が訪れるものを案内してくれます。

まず山門を眺めてみます。

仁王門(山門)を横から見る
仁王門正面

仁王門といわれる山門で、立派な仁王様が、浅間連峰方面ににらみを利かせています。

古いが力強い仁王像

本堂らしき建物が池と橋の向こうに見えます。
観音堂と呼ばれる建物で、折から開花目前の桜が風景を彩っていました。

山門をくぐると観音橋の向こうに観音堂が
観音堂

観音堂横の墓所には数々の墓石が並び、歴史の古さと地域の人心のよりどころであったことを示しています。

観音堂横の墓石の群れ

立派なお寺ですが人気がないのが寂しかったです。

遠くには残雪をいただいた浅間山の姿が見えました。
立科町の春が間近でした。

浅間山がのぞく

立岩和紙の里新そば祭り

長和町の立岩和紙の里で、新そば祭りが開かれました。

畑で菊芋堀りの作業を終え、丸子のスーパーに買い物に下りた山小舎おじさんが、いつもの通り和紙の里を通り過ぎようとしたとき、敷地内に屋台のテントを見かけました。
リンゴ詰め放題などもやっています。
新そば祭りの幟もたっています。

どこかで昼食でもと考えていた山小舎おじさん、和紙の里に立ち寄ることにしました。
新そばも気になります。

今川焼の屋台が一張り、何張りかのテントの下には新米、お茶、クルミ団子などを売る出店が2、3軒、軽トラでリンゴ詰め放題をやっているのはリンゴ農家でしょうか。
出店の間を歩いている人の数がかわいそうなほど少ないのが、地元長和町らしい憎めない田舎の風情を醸す。
やはり目玉は新そばのみか。

和紙の里の食堂へ入ると、順番待ちのお客さんの列。
今日のメニューは新そばのもりと辛味の二種類のみ。
おじさんも名前を書いて順番を待ちます。
待つ間に気になるリンゴ詰め放題へ向かいます。.

町内の山すそにブドウ園と隣接するリンゴ園があり、そこの出店とのことです。
リンゴはシナノゴールドとシナノスイートの二種類。
500円払ってビニールの袋をもらい詰め込みます。
20個近くも詰め込んだでしょうか、最後は出店者のおばさんに手伝ってもらってあふれんばかりに詰め込みました。軽トラに運ぶ間に1個落としてしまうほどでした。

リンゴを軽トラに運んで食堂に戻ると間もなく名前を呼ばれて席に着きました。
もりそばを頼みます。

運ばれてきた蕎麦。
ツユがたっぷりあって、蕎麦湯がセットされているのがいいですね。
じゃぶじゃぶツユに漬けてそばをすすり、蕎麦湯も全部飲み干します。

新そばは噛み応えがあり、新鮮な感じがしました。

高遠、青木村など各地で新そばのニュースが届きます。
あと2、3か所で新そばにトライしてみようと思いました。

納豆に和える野沢菜

山小舎のお向かいさんは、スコットランド出身の65歳。
山小舎おじさんとほぼ同年齢ということもあり、付かず離れずの付き合いは、おじさんが先代のオーナーに導かれて山小舎に遊びに来始めてから、かれこれ7、8年。

この紳士、スコットランド出身がアイデンティティ。
車にユニオンジャックをシールしていたり、ここぞという日には伝統のスカート姿になったりする。
毎朝バグパイプの練習をしていたことも。

最近は故合って独身をかこつこの紳士。
働き先を上田の中学校の英語講師から、地元和田地区の漬物工場へ変えてしばらくたつ。

時々製品のアウトレットや試作品をいただくことがある。
野沢菜漬けが主力商品の工場らしいが、社長が意欲的で色んな新製品をトライアルしている。
スモーク野沢菜、という漬物もいただいた。
野沢菜にスモークの香りをつけたもので、酒のつまみに最高だった。

今般いただいたのが、納豆に和える野沢菜。
そのアイデアに驚くまでもなく、新アイデアね、と抵抗なく試食させてもらった。

今般いただいた新製品がこれだ!

山小舎でよく食べる地元大豆を使った大粒の納豆に混ぜてみる。

山小舎御用達の納豆がこれだ!

野沢菜の塩味を考慮し、しょうゆを使わずに食べてみた。
少々塩味が足りなく感じた。

まずは、しょうゆなしで混ぜてみる!

二度目はしょうゆを加えてみた。
野沢菜も多めに混ぜてみた。

納豆ご飯にしていざ試食!

薬味というより、野沢菜も一緒に食べる納豆ご飯になった。
これはこれでいい。

野沢菜漬けは信州のソウルフード、というかそれ以前に食卓の必需品なのだから。

薬味ということなら、からしやネギの方がアクセントがはっきりしている。
納豆に和える野沢菜、は薬味ではなく、納豆と一緒に食べる食卓のお供、なのだった。

諏訪大社上社本宮の御柱

令和4年の御柱を訪ねる旅。
今回は上社本宮へ行きました。

5月の連休に茅野市から諏訪市にかけての道を、諏訪大社上社へ里曳きで運ばれた御柱は、前宮に4本、本宮に4本立てられています。

立派な本宮の鳥居をくぐったところに一の柱が立っています。
7月の3連休、そこそこの観光客が訪れています。

御柱を確かめ、本宮を後にしました。
後の3本は見る時間がありませんでした。

諏訪大社上社前宮の御柱

令和4年の諏訪大社御柱祭は5月に終わりました。
上社、下社ともに山出しはトレーラー曳きで。
山落し、川越は行われませんでした。
大社直前の2キロほどの里曳きだけが例年通り行われました。

その里曳きも、上社は5月連休に、下社は5月下旬に無事終了。
御柱は各社に立てられています。

現在は7月。
遅ればせながら令和4年寅年の御柱を下社前宮に見に行きました。

県道に面した鳥居が迎える前宮の入り口

いつもながら神社と里の融和的関係を現代に残しているかのような、諏訪大社下社前宮のたたずまい。
里の民家と神社の境内の間に、塀も生垣もありません。
神様の威光を誇示するかのような壮麗さもありません。
あるのは歴史を経て、地元に鎮座する〈なにものか〉のありがたさ。

登ってゆくと二つ目の鳥居と狛犬が出迎えてくれる

前宮の本殿は、田んぼと民家に囲まれた山道を登って行った先にあります。
背後に守屋山に連なる山をいただいた簡素な造りです。
本殿を囲んで真新しい御柱が4本立っていました。

木々に囲まれた本殿を囲んで4本の御柱が立っている
本殿
本殿の左前方に立つ、一の御柱

境内を流れる清水。
簡素をたっとびながらも、人の手が入りすぎない程度に保たれた静謐さ。
諏訪の本来の神様の姿に一番近いといわれる前宮の景色です。

境内に交流館があるので寄ってみました。
御柱祭の資料がレイアウトされています。
今年は行われなかった、木落などの映像が流れていました。

次回は制限のない御柱祭が行われますように。

交流館では例年の御柱債の映像が流れていた。茅野市内の木落坂で行われる木落の様子
下社本宮で立てられる御柱

令和4年・寅年 諏訪大社上社御柱祭 茅野三友会練習

諏訪大社上社御柱祭の里曳きが行われる4日前の休日。
茅野市のたてしな自由農園という大きな直売所の横の空き地で、地元自治会による御柱祭の練習が行われていました。

たまたま買い出しに自由農園を訪れていた山小舎おじさんの耳に、塩田平の生島足島神社の御柱祭里曳きで聞いたことのある進軍ラッパが聞こえてきました。
さては?と駐車場を横断してラッパが聞こえる方に歩いてゆくとやっていました、御柱祭。

上社の里曳きは5月3日と聞いていたので、別の諏訪神社のお祭りかな、と思いました。
見ると、三友会と書かれたそろいの法被を着た数十人が、片や御柱に乗り、片や木遣りを詠い、片や進軍ラッパを吹いています。

さあラッパ隊のトランペットが炸裂する

後で調べると、三友会とは茅野市の湖東地区、米沢地区等の住民による団体で、諏訪大社上社の御柱祭にも参加しているとのこと。

法被の色は黄色、青、ピンクとなっており、黄色が木遣り衆、青が御柱を曳いたり乗ったりする衆、ピンクがラッパ隊に分かれていました。

見ていると、黄色い法被を着た木遣り衆が詠い、それにこたえて御柱に乗った衆がバトンのようなものを上げ下げする、頃合いを見てラッパ隊が突撃ラッパで景気を挙げる。
これを繰り返して練習していました。

木遣りに呼応する団員

ラッパ隊が消防団の応援だった、塩田平と違って、色違いながら三友会のロゴ入り法被を着ていることから、仲間うちで組織されたものであることがわかります。
ラッパだけではなくドラムと大太鼓にシンバルまで合奏しています。
吹いているのが進軍ラッパ、突撃ラッパというのは塩田平と同じです。
なおラッパ隊には女性もいました。
女性は木遣り衆にも一人いました。

木遣り衆。手前が女性

いつもならそれとなく参加している団員に聞き取りをかける山小舎おじさんですが、きっかけがつかめず断念しました。
まとまりがいいというのか、団員が集中しているというのか。
観衆がいようがいまいが、団員たちの熱量が変わらなとい地元衆の団結の強さに付け入るスキがない感じでした。
ラッパ隊は指揮者の号令一家、見事な演奏ぶりでした。

御柱祭にはラッパ隊が欠かせない?