ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 市川右太衛門の巻

2025年の新春、ラピュタ阿佐ヶ谷の上映はじめは東映時代劇だ。
思えば映画ファンを自任し、東映やくざ映画も含めた邦画ファンのつもりの山小舎おじさんは、東映時代劇をほとんど見ていなかった。

時代が違ったとはいえ、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太郎から中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵ら、日本映画の黄金時代に観客動員数のトップを走り抜けた東映時代劇のスターたちを、リアルタイムではもちろん、再上映でもほとんど見ていない。

とくに華麗な立ち回りが音に聞こえた市川右太衛門の十八番シリーズ「旗本退屈男」は1本も見たことがない。
これはいかん、と2025年の1月、ラピュタ阿佐ヶ谷に駆け付けた。

「新春初蔵出し東映時代劇まつり」の特集パンフレット

市川右太衛門

大映の時代劇スターだった右太衛門は、戦後、GHQの差し金により時代劇が撮れなくなっていら立っていた。1946年に槍を武器に殺陣を舞う「槍おどり五十三次」に出演。
刀を抜いて身構える敵方に対し、槍で暴れ回った。槍に対してはGHQは何も言わなかったが刀で思いっきり暴れ回りたかった。

「旗本退屈男」の市川右太衛門

1949年、東横映画のマキノ光男の誘いで大映から移籍する。
条件は先に移籍した片岡千恵蔵と同じ重役待遇だった。

東横映画に移った右太衛門は、1938年を最後にシリーズが中断していた「旗本退屈男」の復活を願った。
「旗本退屈男」中断の理由は1940年に制定された奢侈禁止令のためだった。
それくらい退屈男の衣装は豪華絢爛、派手であった。
また右太衛門は退屈男の豪華な衣装がいかにファンの夢を醸し出すかを知っていた。

東横映画での退屈男復活に際し、右太衛門は京都高島屋の婦人呉服売り場で着物の柄を探し、同行の美人画家に「思いっきり派手にデザインするように」頼んだ。
作品1本につき13枚もの高級和服に身を包んだ。

劇中で着る着物を選ぶ右太衛門

歌舞伎の経験がある右太衛門は、派手な衣装を着こなし、史実を無視して長く作った刀を使った。
原作には詳しく記述のない退屈男の剣法、諸刃流青眼くずしをカメラ映えするように自己流にアレンジして撮影に臨んだ。

GHQが殺陣シーンに「人を殺すことを美化している」と文句をつけた。
右太衛門は「とんでもない。剣の舞いなんです」と説明し検閲を通した。

「旗本退屈男 謎の十文字」  1959年  佐々木康監督  東映

歌舞伎で鍛えた足さばきと華麗な太刀さばき。
見得を切る時のセリフと笑い声。
1作品に数着の豪華絢爛な着物。
すでに貫禄のついた大きな顔の額に描かれた天下御免の向こう傷。
ご存じ、旗本退屈男こと早乙女主水之介が天に代わって不義を撃つ痛快シリーズの、戦前から数えて第25作目の本作。

ロケは国宝クラスの三十三間堂を借り切り、太秦の撮影所に戻れば新品の青畳を敷いた大掛かりな日本家屋のセットが用意されている。
北大路の御大・右太衛門が中年の体つきながらまったく無駄のない足さばきで、太刀を青眼に構えれば、太秦で鍛えた斬られ役の精鋭たちが得たとばかりに御大の周りで斬られ、飛ぶ、跳ねる。

名に聞こえた右太衛門の衣装は、劇中、夜の追跡の場面でも、歌舞伎揚げせんべいの袋か緞帳かのようにキンキらと暗闇に映え、『なんでこんな場面で一番派手な衣装を』と思わせるが、それを着こなす右太衛門は誰にも文句を言わせない。

かつて「潮騒」(1954年 谷口千吉監督 東宝)で、可憐な娘役としてデヴューした青山京子は5年を経てすっかり色っぽい年増となり、退屈男を江戸から京まで追いかける訳あり女としてキャステイング。
道化役にはマチャアキの実父の堺駿二が満を持しての登場で、これまたすこぶる達者。
怪人・益田キートンも京都撮影所の御大を前にしてはひたすら恐縮の体。
退屈男が助ける島津家のお姫様に丘さとみで、襟元をしっかりガードした超箱入り娘仕様。
さらに当時10代と思われる歌右衛門の実子・北大路欣也が帝の皇太子役で、親父右太衛門をフォローする。

マツケンサンバも裸足で逃げ出す右太衛門の、天下無双のワンパターンがお約束の派手派手な世界。
国会周辺が第一次安保闘争で危急の時を迎えていたこの時代。
圧倒的大衆は「旗本退屈男」を見に映画館の門をくぐり、ひと時の慰めを得ていたことになる。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

右太衛門らの時代がかった文語体のセリフに拘り、ストーリー展開の説明がおろそかな脚本。
コマかなカット割りを省略するかのようにズームとパンを多用する撮影。
いずれも御大に専属の手練れのスタッフによる仕事。
ワンパターンからの逸脱は許されない。
なぜならこのままで客は入るのだから。

祇園で退屈男が過ごす宴席には、本職と思われる数人の芸者衆に豪華なセットで舞わせる贅沢。
女優の所作、堅気と年増をきっちり分ける着物の襟脚。
ここら辺は全盛期の東映時代劇ならではの楽しみ。

退屈男の勤皇的な立場、江戸志向は、体制的な大衆に迎合することを作品作りのモットーとした東映らしかった。

「旗本退屈男 謎の幽霊島」  1960年  佐々木康監督  東映

「退屈のお殿様」と周りに慕われる、公儀旗本・早乙女主水之介は長崎を舞台に島津藩らが策謀を繰り広げていると察知して、一人街道を西進する。
後を追う女スリ(木暮実千代)と手下(堺駿二)には、やがて退屈男に惹かれてゆく。

天下に不義を正すためならすぐさま行動する。
身分はバリバリ体制派で権力者の旗本のお殿様。
その人格は明朗活発で、モテモテながら高潔にして公明正大。
ついでにファッションは派手派手の着流しにキレキレの剣術使い。

津々浦々の一般大衆が待ち受けるヒーロー像に市川右太衛門ほどぴったりな役者はいない。
旗本退屈男と右太衛門が一体化しているというか、むしろ右太衛門が自分のカラーに退屈男像を引き込んで完成に至った主人公像である。

作品中、退屈男が長崎の宿に逗留すれば、玄人筋っぽい女将(花柳小菊)が「先にお風呂にしますか?それとも?」としなだれかかってくる。
「まず風呂じゃ」とかわしつつ、次の場面で上物の浴衣でくつろぐ退屈男。
隣ではかまってくれない玄人美女が焼いている。
泰然と美女のやきもちを受け流す退屈男こと右太衛門の姿には全く無理がなく、嫌みもない。
昭和の庶民のお父さんたちの「あこがれの姿」がここにある。

最初のチャンバラの場面の着流しが、プロレスのガウンのようで、柄といい質感といい、重ったるかったが、殺陣の剣さばき、足運び、崩れない姿勢、見得を切る角度は、まさに円熟の境地というか芸術的。
斬られ役のタイミングの合わせ方も完璧で、なるほど観客は満足するは。

映画の趣向は、長崎の異国情緒を松竹大坂のダンシングチームによる舞台と悪役・山形勲の唐人服などで表現。
長崎町内の石畳を重厚なセットで再現し、そこで退屈男と悪役を戦わせる。
石畳の再現は、当時の撮影所の美術と照明の腕の確かさを画面で確認できるもの。

ラピュタの特集パンフより。写真は宣材用のもの

悪役は例によって山形勲。
ここまで配役がパターン化されると、右太衛門が(加山雄三の)若大将で、山形が(田中邦衛の)青大将に見えてくる。
そのマンネリズムを楽しむのも一興。

ヒロインの丘さとみはエキゾチックな唐人服で登場。
悪役側の一員だが、退屈男に味方する実は日本娘という役柄だった。

シリーズレギュラーの丘さとみは唐人娘?役で登場


「旗本退屈男 謎の幽霊島」  1960年 松田定次監督  東映

栄光の退屈男シリーズ第27作。
全30作で終了するシリーズの終盤を飾る1作。
残り3作品、1963年にさしもの退屈男シリーズも終了する。

アイデアも趣向も出尽くしたであろう退屈男シリーズの、残った見どころは、右太衛門の流れるような殺陣と衣装、そして決まり文句のセリフ回し。
観客を喜ばせ、安心させたであろうそれらの見どころは、不動の定番であったがゆえに年月を経て飽きられる結果となった。
右太衛門もすっかり中年となり、貫禄はついたが、諸国を颯爽と歩き回り、年増の美女たちに熱を上げさせるには少々無理が出てきた。
演じて居る本人は気持ちいいであろうが、見ている方は少々つらくなってきた、ということだ。

本作は、東映時代劇のエース監督・松田定次と撮影・川崎新太郎の黄金コンビに新鋭脚本家・結束信二を組ませた布陣による一作。
主人公中心の画面構図、隅々まで明るいライテイング、場面の中心人物にズームするわかりやすい撮影技法、で映し出された、右太衛門中心の殺陣と金のかかったその衣装が、相変わらず徹底される。

右太衛門の殺陣は、敵の第一撃を首を傾けて避け、足の運びも無駄なく、腰が据わった中で自分自身も必要最小限に移動つつ繰り広げられる。
刀さばきは流れるように美しい。

リアルでないといわれればそれまでだが、名人の太刀さばきを見ているようだ。
大体、現代人のわれわれは実際の斬りあいを見たことも聞いたこともない。
股旅やくざの長脇差の振り回し合いや、血が噴き出す斬りあいが実際にあったかどうかもわからない中で、刀をめちゃくちゃに振り回してリ、血が噴き出す描写がリアルな斬りあいだったという確証はない。

一方、右太衛門の殺陣に、緊迫感、悲壮感があったかというとそれは少ない、痛みも感じられない。
あるのは爽快感と華やかさだ。
緊迫感や痛みの表現をして「リアル」というのであれば、右太衛門の殺陣はリアルではない。

確実なのは、退屈男の殺陣は、スターシステムの牙城であった東映の中で右太衛門が目指してきたスタイルであり、スター右太衛門を生かそうと、監督以下スタッフが全力でサポートしてきた結果である、ということ。
そしてそれらが観客に飽きられてきたということである。

本作の筋立ては、単純な悪を退屈男が成敗するだけではなく、一義的には将軍綱吉を呪い殺そうとする邪教の忍者たちをまず退屈男が成敗する、が邪教の忍者たちとて、将軍の座を狙う真の反逆者である尾張大納言の手ごまに過ぎなかった、さて退屈男は真の敵をどう裁くか?という二段構えになっている。

差別され、使い捨てられてゆく忍者たちへの哀れさを描くのが、新鋭脚本家の結束信二の狙いの一つであるが、そのため、ストーリーが複雑になり、暗くもなっている。
単純な悪に対峙してこそ輝く、退屈男の派手な姿が、権力に差別された忍者たちに対すると、存在が浮き、輝きを欠いてしまう。
おとぎの国の退屈のお殿様に、社会の悲惨な現実は似合わない。

60年代に入り、右太衛門、千恵蔵をはじめ50年代の時代劇スターの人気が陰り、東映のみならず全国的な(全世界的な)観客動員数の激減を招いた映画界にあって、新機軸を模索した1作だが、かえって混乱を印象付けたものとなった。

ちなみにシリーズのお楽しみ、大勢の踊子による舞踏シーン。
たいていは悪役の宴会シーンなどでの一幕として描写されるが、今回のそれは大納言による将軍歓迎会での琴の合奏と雅楽のような踊りだった。
退屈男には「謎の十文字」の、お座敷での祇園の芸者総揚げのような日本舞踊のあでやかさが似合っていた。

ラピュタの特集パンフより

退屈男の脇にいて絶妙な色気を醸し出す花柳小菊は、今回は女スリの役で色を添える。
ジイ役は進藤栄太郎、若侍に期待の新人・里見浩太朗、その恋人に東映三人娘の大川恵子。
娘の父に、戦前からの左翼系演劇人・薄田研二、邪教を奉ずる忍者にいつもなら真の悪役の山形勲、真の黒幕尾張大納言には山村総。
レギュラーの丘さとみも出ている。

右太衛門と花柳小菊。「旗本退屈男・謎の蛇姫屋敷』(57年佐々木康監督)より

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」で読む東映時代劇

2025年新春、折からラピュタ阿佐ヶ谷で「新春初蔵出し・東映時代劇まつり」なる特集上映が始まった。

東映が時代劇映画で一時代を築いた1950年代終盤から60年代にかけての諸作品がラインアップされている。
市川右太衛門、片岡千恵蔵の両御大をはじめ、大友柳太朗、東千代之介、大川橋蔵、そして中村錦之助。

彼らの主演になる、「旗本退屈男」、「丹下左膳」などのシリーズものからチョイスされた上映作品。
これまで上映機会が多かった、千恵蔵の「いれずみ判官」や錦之助の「一心太助」、橋蔵の「新吾十番勝負」などはなく、レアもの中心のラインナップのようだ。

千恵蔵、右太衛門らを主役に据えての時代劇が大衆に受け、1954年には興行収入のトップに躍り出る東映は、60年代に入り旧来の時代劇が飽きられ、やがて任侠映画主流の製作方針へと舵を切ることになる。

戦後一時時代を築いた東映時代劇。
一般的映画本を読むと、黒沢明の「用心棒」、小林正樹の「切腹」などの名作時代劇についてのうんちくは語られていることが多いものの、東映の両御大や当時の若手剣劇スターについて映画評論家が語っている文献が少ない!
各ファンクラブ編の錦之助や大川橋蔵、丘さとみの写真アルバムが発刊されているのは目につくが。
千恵蔵や右太衛門による「正調時代劇」の評価、検証はどうなった?

うんちく派の映画本に刺激を受けてきた地方の映画少年だった山小舎おじさんにとっては、鑑賞の動機もなく、また機会も少ない東映時代劇は、日本映画史上の抜け落ちた分野だった。
それはひょっとしたら忘れられた宝の山なのかもしれない

今回のラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映を機会を前に、まずは手元の映画本2冊をひもとき、東映の歴史と、時代劇スターの変遷について学んでみる。

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」

「三国志」の著者は大下英治。
週刊誌の記者として、電通、三越事件などに取材したルポで売出す。
題材は政治から芸能まで幅広い。

「映画三国志」(1990年 徳間書店刊)は東映の歴史を小説化し、スポーツニッポン紙に連載したものの単行本。
人物の劇的なエピソードを中心にまとめている。
登場する人物は、映画人に限定せず、親会社の東急電鉄の五島慶太の豪快な振る舞いなどにも大いに及び、一般読者の興味を惹く。

記述内容は参考文献からの孫引きが多いようにも感じるが、読者を飽きさせない劇的な表現に富んでいる。
入門書として最適で、第三者的な視点からの東映史としても貴重な文献だと思う。
東映発足時の戦後直後から、実録映画が登場する70年代までをフォローしている。

「映画三国志」表紙
同、、奥付き

「あかんやつら」は、映画史研究家の春日太一による一連の著作の1冊。
春日は、1977年生まれの若手だが、少年時代から時代劇ファンで大学卒業時には東映の入社試験を受け、研究者となった今でも映画・テレビ・時代劇関連以外の執筆依頼は受けないというファン気質が徹底した人物。
新書で「天才勝新太郎」や「時代劇は死なず!」などを執筆している。

映画評論家の大御所にありがちな、高踏的、芸術志向的、権威主義的な雰囲気とは一線を画した、著者特有の視点から、東映の、特に京都撮影所のエピソードを活写した本著は、記述に当たっての関係者からの聞き取りも多く含まれ、単なる参考文献の孫引きにとどまらない。
東映への親近感とファン気質に満ちた1冊となっている。
50年代の時代劇全盛時代から80年代の五社英雄らによる時代までをフォローしている。

東映の歴史(任侠映画全盛まで)

「映画三国志」と「あかんやつら」をもとに、戦後直後から1960年代までの東映史をひも解く。

東映の前身東横映画は1938年に、東急電鉄の子会社の映画配給会社としてスタートした。
戦後の1946年に映画製作に乗り出すにあたり、マキノ映画や満州映画協会出身の根岸寛一やマキノ光男らの製作陣、スタッフには松田定夫、稲垣浩らを招集し、配給は大映にゆだねる形でスタート。
1947年には第一作「こころ月の如く」を製作した。

1948年には大映との提携を解消、独自の配給を行うようになったが、都市部の繁華街の劇場は東宝、松竹にほぼ抑えられており、地方の劇場との作品別、映画館別の契約に活路を見出すしかなく、業績は低迷を極めた。
同年、マキノ映画時代にマキノ省三(光男の実父)のもとでスターとなり、戦後は大映などに出演していた、片岡千恵蔵と市川右太衛門が重役待遇で移籍してきて観客動員の起爆剤となる。

東映の御大、片岡千恵蔵
御大2、市川右太衛門

まだまだ製作費の工面にも事欠く中、1951年親会社東急の五島慶太は、東横映画、大泉スタジオ、東映配給の3社を合併し、製作から配給までを1社で行うことを決定し、新生東映の社長に東急本社の経理担当重役だった大川博を送り込む。
新会社設立にあたって銀行は五島慶太の個人保証を融資の条件とし、五島はこれを了承した。
大川の仕事は、積み重なった支払手形の期日延長を、手形交換所にお願いすることから始まった。
現場では、マキノ映画、満州映画協会からの現場スタッフらが、徹夜と給料遅配、製作費枯渇をいとわず、番組の穴を1回も空けることなく撮影をつづけ、作品を送り出していた。

1954年、千恵蔵、右太衛門の時代劇本編に子供向けの娯楽版と称する中編を加えた2本立て番組が爆発的ヒットとなり、中村錦之助、東千代之介ら若手スターが主に地方の劇場で人気を博す。
東映は累積負債10億を一気に返済、興行収入で5社のトップとなるまでの業績回復を遂げる。

東映の錦兄ぃこと中村錦之助

1957年、アメリカを視察して帰国した岡田茂の提案により、京都撮影所を拡充し、新たなステージを建てる。
こうして日本初のシネマスコープ「鳳城の花嫁」を製作。

1958年は国内の映画入場者11億人、映画館数7000館という日本映画史上もっとも景気が良かった歳となった。
1960年の東映の国内シェアは1/3ほどにもなり、独走態勢を固める。
スター主義の東映では、千恵蔵、右太衛門の両御大のほか、大友柳太朗、月形龍之介がそれぞれの十八番シリーズで、また錦之助、千代之介のほか大川橋蔵が若手時代劇スターとして人気を博した。

1960年には調子に乗った大川社長が第二東映なる配給網をぶち上げ、製作本数を倍増させたが、収益倍増にはつながらず、かえって映画館主側の不評、製作現場の疲弊を招き、足掛け8か月ほどで解消となった。

1963年、さしもの隆盛を誇った東映時代劇も飽きられ、明らかな興行収入の減少をみた。
東映は余剰人員の配置転換、両御大と旧来のスタッフとの契約解消、若手スタッフを登用しリアルな殺陣による「集団時代劇」に活路を求めたが、観客動員の決定打にならず。
やくざ者の生態を描いた「人生劇場・飛車角」のヒットにより時代劇からやくざ映画へとシフトしてゆくことになる。

1964年、親会社の東急が東映を切り離す。
五島慶太を引き継いだ息子の昇が、何かとうるさい東映の大川社長を切りたかったからだとされる。
これを受け、大川社長は京都撮影所の社員数を1/3の500名体制とする合理化を決め、岡田茂に実施を命ずる。
岡田はテレビ部などを作って配置転換により撮影所の合理化を実現する。

次いでこの時代の個性極まる東映のキーマンたちを点描する。

マキノ光男の映画人生

戦前に日本映画の父と呼ばれたマキノ省三の実子で、兄はマキノ雅弘。
戦前にマキノ映画でプロデユーサーとしての経験を積み、マキノ映画の解散とともに海を渡り満州映画協会に参画するが、理事長の軍人官僚・甘粕正彦と、典型的カツドウ屋のマキノでは、まったくそりがあわず、ぶらぶらする。

帰国して東横映画の製作立ち上げに尽力したマキノは、満映時代の仲間を引き込んで映画製作することにも注力した。

「困っている奴はどんどん使ってやれ」と各社をレッドパージされた人材を東映に引き入れ、監督の関川秀雄、俳優の佐野浅夫、信欣二などをどしどし使った。
戦前の無頼な映画界で修業し、大陸にわたって軍人官僚や現地人と渡り合ってきたマキノにとって、同じ日本人同士、映画製作という目的を一にすれば後は何とでもなる、の心境だったのだろう。

「満男」と名乗っていた頃のマキノ光男

1950年、撮影所の進行主任だった26歳の岡田茂(のちの東映社長)の企画、関川秀雄の監督で「きけわだつみの声」を製作。
戦没学生の遺稿集「はるかなる山河へ」の原作の購入から、内容に干渉する東大全学連との折衝などに、脚本の八木保太郎とともに最前線であたった岡田を駆り立てたのは「こういった映画を残しておかにや.、戦友が浮かばれんじゃないか」の心境だった。
岡田も学徒動員で出兵し、空襲を受けた生き残りだった。

1952年、占領軍からの干渉により大映で制作中止となった「ひめゆりの塔」を監督の今井正ごと引き受けたマキノは、今井に対し「周りからごいちゃごちゃいわれても全部はねたる。俺の目的はいい映画を撮ることなんや。右も左もないのや。大日本映画党や!」と言い切った。

女学生役には当時の若手女優陣がキャステイングされた。
今井は撮影前、彼女らに、自分が扮する登場人物の履歴を作文にして提出することをを求めた。
渡辺美佐子、楠侑子ら若手女優陣は口に氷を含んで息の白さを隠しながらずぶ濡れで演技をつづけた。
彼女らは後々、今井を囲んで集ったという。

1600万の予算は4000万円にオーバーし、公開予定は遅れに遅れて正月第二週にずれ込んだ。
マキノは呼び付けられた大川社長宅で社長の前でわんわん泣いて大芝居を打ち、製作続行の了承を取りつけた。
1億8000万円の興行収益を上げたこの作品は東映起死回生のヒットとなった。

「ひめゆりの塔」
「ひめゆりの塔」

1955年、満映に渡った後、長く中国に抑留されていたマキノの盟友・内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」を製作。
槍持ちの下郎に扮した千恵蔵が主君の仇とばかり、槍を振り回し、泥にのたうっての7分間の立ち回りが圧倒的で、3週間続映のヒット作となった。

「血槍富士」の7分間の立ち回り

1956年、マキノは再び今井正と組んで「米」を製作。
農村の四季を取り入れた脚本は、戦前に「土」を書いた八木保太郎を想定した。
マキノと八木はこの時絶交状態だったが、心配する今井に対し「冗談やない。いいシャシンをつくるのに、喧嘩もへったくれもあらへんで」と答え、八木に脚本を依頼した。

例によって遅れに遅れて完成した今井正監督の「米」は、その年のキネマ旬報ベストワンをはじめ各賞を総ナメ。
東映現代劇の起爆剤となり、その後の「爆音と大地」(1957年 関川秀夫監督)、「どたんば」(1957年 内田吐夢監督)、「純愛物語」(1957年 今井正監督)など、東映に現代劇の秀作が生まれるきっかけとなった。

「米」を演出中の今井監督

満映帰りの映画人の面倒を見、レッドパージ組の受入れるなどはマキノ光男の懐の深さを物語るが、根本は「映画は当たってナンボ」の精神が徹底していた。
「客のことを忘れたらアカンで。暇があったら小屋(映画館)に行って客の顔を見てこい。」「松竹、東宝は山の手志向や。それなら東映は浅草の客を目標にする!」と、ジャリ掬い、薄っぺらな紙芝居と一部の文化人に蔑まれていた大衆娯楽主義を徹底した。

1957年、脳しゅようと診断されたが、手術をはじめ一切の治療を拒絶。
薬も見舞いに来た錦之助が渡した時だけ飲んだ。
同年9月の東映本社での企画連絡会議には白装束の羽織はかま姿で現れ今までの礼を述べた。
まことに古きカツドウ屋そのもののマキノ光男の生涯だった。

東映時代劇を支えた現場の「天皇」たち

マキノ光男が破天荒な映画人生を送っているとき、京都撮影所には「天皇」と呼ばれる、アンタッチャブルな3人がいた。
監督の松田定次、脚本の比佐芳武、編集の宮本信太郎だった。
3人は、東横映画の製作開始に際し、マキノ光男が京都から連れてきた腹心のメンバーであり、マキノの大衆娯楽主義を作品として具現化するときの要となった腕利きたちだった。

松田定次はマキノ光男とは異母兄弟で、父の省三が愛人に産ませた子であった。
監督としての松田は「どうすれば大衆が喜ぶか」を第一に考え、時代劇の約束事として「ヒーローはストイックであり、無敵で不死身でなければならない」に徹した。
信頼するカメラマン、川崎新太郎を専ら起用し、被写体(ヒーロー)を中心に据えるオーソドックスな構図を徹底させた。
松田組は京都撮影所で「お召列車」と呼ばれ、最優先でスターやスタジオを確保でき、正月やお盆用の作品を任された。
日本初のシネマスコープ作品を任されたのも松田だった。

松田定次監督(右は片岡千恵蔵)

脚本家の比佐芳武は、スピード感を脚本に求めた。
伏線設定や状況説明の書き込み、また時代劇特有の儀礼や作法などの描写をやめ、テンポよくストーリーを追った。主人公の登場シーンでは、何の前触れもなく窮地にあるヒロインを救いに現れたりさせるなど、説明のための書き込みをやめ、観客が求めるヒーローの都合のよさに徹した。
「ヤマ場からヤマ場へ」マキノ省三以来の京都映画の鉄則を守ったのが、比佐だった。

「東映時代劇の独特のテンポは宮本信太郎の鋏によって生み出される」と評されたのが、編集の宮本だった。
編集作業の一切を、監督でさえ立ち会わせずに自分一人で行い、目まぐるしいスピードで展開する東映時代劇の作風を作り出した。
その手法は、説明的だったり凡長なシーンは容赦なく切り捨てたり、長回しのアクションシーンを細かく切りつなげてスピード感を作り出すものだった。
年間100本近い時代劇をほぼ自分一人で編集したという。

3人の「天皇」の存在、その影響力と圧倒的技量は、東映時代劇のまさに心臓部となった。
そのパワーは東映躍進の原動力となったが、反面、新たな価値観や創造性の出現を妨げてもいた。
松竹のデレクターシステムによる監督の権限尊重や、ジャン・ルノワールやのちのヌーベルバーグ派による「作家主義」とは正反対の製作方針が東映の考え方だった。

中公文庫「されど魔窟の映画館・浅草最後の映写」荒島晃宏著

珍しく新刊書店で手に取ってそのまま購入した中公文庫です。
最近は文庫本も高くて、買うのはもっぱら古本屋ですが、この本は面白そうでした。

本書表紙

かつて浅草六区と呼ばれた場所にあった邦画3本立てとピンク映画。
その映画館の最後の日々で映写技師を務めた著者の著書です。

著者は、自由が丘武蔵野館という名画座の映写技師でしたが、同館の閉館とともに無職となり、ハローワークでの職探しと失業保険の給付ののちに、浅草六区に4つの劇場を有する中映株式会社という興行会社に就職することになりました。

著者紹介

もともとは映画専門学校を卒業し、アニメの脚本家として1本立ちしていましたが、投資の失敗の借金返済のため、定期収入のある職を探していたのでした。

「文化的教養と興味を持つ若者が、生活力はないものの、何とか興味の対象との妥協をしつつ、実社会の片隅で生きる場所を見つけてゆく」的な展開に惹かれて頁を繰ってゆきます。

浅草六区の映画館配置図

浅草の3本立て映画館での映写技師の仕事の様子がつづられます。

『その時代、映写機の進歩もあり、1作品通しての上映ができるようになっていた。
それまでは約20分の1巻のフィルムの映写が終わると、間髪を入れず隣の映写機にセットしていた2巻目のフィルムを映写しなければならず、映写が終わった巻の巻き取りもあった。
またフィルム切れやピンボケ、フレーム調整などのため技師は上映中は映写室にいなければならなかった。
が、浅草では1作品のフィルムを全巻つないで1台の映写機にセットすると技師は映写室を離れ、映画館の入り口に立って自動販売機への補充や、モギリ、館内のクレーム対応などに従事するのだった。』(同著より)

当時の35ミリ映写機の雄姿

『2週間後に仕事ぶりを認められた著者は、邦画3本立ての浅草名画座から、ピンク映画専門館の浅草新劇への配置転換の辞令を受ける。
新劇開館は海外にも名の知れたハッテン場でもあった。
当然それなりの方々が入場してきて、いろいろなことを行う。
発見次第、注意したり清掃したりするのが新劇場スタッフの主な役目でもあった。
ハッテン場の映画館は興行収入もよく、中映株式会社の屋台骨を支えてもいた。』(同著より)

職員仲間のフィルムのつなぎ風景のイラスト

山小舎おじさんも50代くらいの会社員時代に浅草名画座へ通ったことがあります。
競馬の場外馬券売り場の向いにあった邦画3本立ての劇場で、最初は入りずらく、入ってもまたギャンブル場のような無愛想な虚無感が漂っており、三々五々席を埋めていた来場者は、場外馬券の帰りのようなおじさんばかりで、時々叫び声などが響いてもいました。

浅草名画座正面

慣れてくると、館内の音声も織り込み済みで画面に集中できるようになり、「江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間」(1969年 石井輝男監督 東映)、「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督 東映)、「激動の昭和史・沖縄決戦」(1971年 岡本喜八監督 東宝)など、ここならではの作品を見ることができました。

また、併映作品には東映任侠ものや実録ものが多く、「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年 深作欣二監督 東映)の後半を見て、忘れていた本作での鉄砲玉、小倉一郎のエピソードに触れることもできたりしました。
広島にあった原爆スラムで後遺症に苦しむクズ屋の母親と、寝たきりの妹を抱える小倉一郎がやくざの鉄砲玉として利用され自滅してゆく過程を、気弱な若者像の苦悩として描いており、原爆スラムのあばら家の中で、叩いてもブラウン管のザーザーが直らないテレビの描写など、差別された貧困の表現が印象的でした。

なお、各作品とも上映プリントがきれいで鑑賞時に何の苦痛も感じなかったのも印象的でした。

浅草名画座のチラシ

実は山小舎おじさん、浅草名画座のホームページで支配人とメールのやり取りも行いました。
詳しくは忘れましたが、此方の問いかけに「最近の上映プリントの状態は良いことが多い、特に東映は新しいプリントを自主的に焼いてくれる」とか「プリントを借りたくてもできない作品がある。時期によっては松竹が寅さんものの旧作を貸出停止にしたり、貸出料を上げたりする」などと支配人が返事をくれたことを覚えています。
この支配人は、本書の著者の荒島さんではありませんが、気さくで好意的な人でした。

浅草新劇場の上映案内

さて、本書に戻りましょう。
劇場のホームページを立ち上げたり、作品解説を載せたチラシを作ったり、また地域の無料ペーパーにコラムを書いたり、と著者は劇場とかかわってゆきます。

2012年、中映株式会社が映画興行から撤退し、全4館が閉鎖されます。
著者は最後の上映に立ち会います。

それに合わせて短編劇映画の製作を行い、デジタル機材(一部8ミリフィルムを使用)で撮影します。
主役2人のほか、ネットなどで募集したエキストラを使っての最終上映会の様子が著書のクライマックスとなっています。

著者制作作品のエキストラが最終上映に集まる

35ミリフィルム映写の実際の記録でもあり、絶滅した浅草での映画興行の実態の最後の記録でもある本書です。
著者の荒島さんは、現在はシネマヴェーラ渋谷で映写技師をしているそうです。

裏表紙

DVD名画名画劇場 「悪女」リタ・ヘイワース

前回の当ブログ「ダンシング」リタ・ヘイワースで、彼女の唯一無二のダンスの才能を再確認したあとは、1940年代後半の彼女の役どころとなった「悪女」ぶりを見てみよう。

リタの代表作となった「ギルダ」、当時の夫オーソン・ウエルズの監督・主演になる「上海から来た女」である。

「ギルダ」  1946年  チャールズ・ヴィドア監督  コロムビア

『私の知り合った男たちはだれでも(中略)ギルダに恋をするの、そして私に醒めるのよ』(1994年文芸春秋社刊「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」P377)。

1940年代のセックスシンボルであり、長い茶髪の巻き髪と妖艶なダンスで観客を魅了したリタ・ヘイワースは、ハリウッドのアイコンとして生きたのみならず、実生活でも数度の結婚と離婚をし、数知れない恋愛に身を投じた。
結婚相手にはイスラム教のプリンスにして世紀のプレイボーイといわれた、アリ・カーンもいたが数年を経ずして離婚となるのが常だった。

1946年のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で投下された核爆弾は、リタ・ヘイワースの写真で飾られ、『ギルダ』と名付けられていた。

イタリアの戦後庶民の生活を描いた「自転車泥棒」で、やっと職を得た主人公が、街中で貼ったポスターは、敗戦国イタリアの現実とは似ても似つかない、リタ・ヘイワースによく似た女性の艶姿だった。

その絶頂期に撮られ、今でもリタ・ヘイワースの代表作といわれるのが「ギルダ」。
その題名は、リタの代名詞のようにもなっている。

「ギルダ」より

物語は戦時中のアルゼンチンに流れてきた、いかさま賭博師のファレル(グレン・フォード)が路上のサイコロ賭博で素人をだます場面から始まる。
暗闇にまぎれた、港近くの場末で繰り広げられるすさんだシーンはフィルムノワールそのものの滑り出しだ。

やがて、ファレルは非合法だが堂々と営業しているカジノ(もちろんイカサマあり)のオーナーに雇われ、やがて支配人となる。
ある日、旅行に出かけたオーナーが連れて帰ったのがギルダ(リタ・ヘイワース)と呼ばれる、長い茶髪の女だった。

ギルダはファレルの過去の恋人だった。
オーナーは二人の関係を怪しむが、ファレルは支配人の職務に徹する。
一方、ギルダはファレルを誘惑しようとしたり、ほかの男と遊んだり、勝手気ままにふるまう。

オーナーの実像は、戦前のドイツ企業から委託された戦略物資・タングステンの利権を、戦後になって不法に横取りしたカルテルの主宰者であり、ドイツ人(ナチスの末裔?)に脅迫される身。
やがて飛行機事故を装って姿を消す。
オーナーに代わってカルテルの実権を握るファレルだが・・・。

この映画、ストーリーはいろいろと枝葉を広げるが、その骨子は、ファレルとギルダの関係を描くことにある。
お互いを十分意識しながらも、面と向かえば、「憎しみしか感じない」と互いをなじる両者。
本心なのか、突っ張っているのか。

ファレルはオーナーの手前、ギルダに本心を打ち明けたり、手を出したりしない。
ファレルが品行方正な男であるはずもないのに、この関係性が最後まで続く。

ギルダは、他の男と遊びまわったり、早朝にファレルの寝床があるカジノでギターを弾き語りするなどして「悪女」ぶりを発揮する。
ギルダとファレルの結末やいかに?

この作品でのリタは、低い声、作り笑い、けだるさ、たばこ、に象徴される、男を誘う擦れた色気に満ちた姿で登場する。
「晴れて今宵は」「カバーガール」で見られた陽気さ、清純さ、親しみやすさ、からの演技的脱却だ。
まるでギャングの情婦のようなキンキラのコートを着て、髪をかき上げる仕草も板についている。

そして何よりこの映画のハイライトは、終盤のリタのソロのダンスシーンだ。
男たちの庇護を逃れて異郷のクラブで踊るギルダ。
最初のナンバーは深いスリットスカートをたくし上げながら、陽気にキレキレな動きで踊る。
一気に映画が締まる、輝く。

リタ・ヘイワース畢竟のダンスシーン

そして、追いかけてきたファレルの見ている前で、黒いドレスと手袋で腰をくねらせるギルダ。
ここがこの映画の山場で最大の見どころ。

手袋をゆっくり外して、観客に投げる、ネックレスも。
『ジッパーを下げるのは苦手なの』と男どもを誘う。
興奮する男ども(と映画を見ている観客たち)。
リタ・ヘイワースの女優生活のハイライトともいえる名場面。

この後に、ファレルの手下に舞台から引きずり降ろされ、ファレルに右手でビンタを食らい顔をカメラに向かってのけぞらせるまでが一連のシークエンス。

かたくなだったファレルの挑発に成功し、感情むき出しで手を出させることができた、「悪女」リタ・ヘイワースの一生の名刺代わりの、写真映えする名シーンだ。

グレン・フォード(右)

最後にファレルに一途な恋心を吐露し、二人でアメリカでの再出発を予定するのは、当時の検閲を意識した、ハピーエンデイング。
このためにギルダの悪女ぶりが不徹底となった。
イカサマ賭博師のはずだったファレルが、女だけには身持ちがいいというあり得ない設定も、同様に検閲を意識したからか。

ギルダについては甘いエンデイングが、マニアックな「悪女」から、わかりやすい「悪女」として一般化することに寄与し、リタ・ヘイワースが、時代の女性性の象徴となることに一役買い、人気をあおったのだろう。

「上海から来た女」  1946年  オースン・ウエルズ監督  コロムビア

リタ・ヘイワースが、オーソン・ウエルズと結婚していた時に作られた作品がこれ。
天才児にしてハリウッドの問題児、オーソン・ウエルズがやっと実現させた、4本目の長編劇映画である。

「オーソン・ウエルズ偽自伝」(バーバラ・リーミング著 1991年文芸春秋社刊)という、ウエルズの評伝がある。

「偽自伝」表紙

「上海から来た女」を見るにあたって、本書を紐解き、リタとオーソンに関する部分のみ拾い読みしようと手に取った。

だが、あまりに面白いので、二人が出会った1942年から、1948年の両者の離婚まで細大漏らさず読み進めてしまった。
その間、オーソンは、2本目の作品「偉大なアンバースン家の人々」が本人の意向にかかわらず、(契約によって)撮影所により再編集され激高したり、南米で長期ロケしながら未完成に終わった次作「すべて真実」の撮影済みフィルムの権利関係でゴタゴタしたり。
やがてコロムビアのタイクーン、ハリー・コーンの援助により「上海から来た女」を製作することになるのだった。

「店自伝」奥付き

「偽自伝」が面白いのは、内容(破天荒なウエルズの行状と、彼を恐れ、対立し、押し込めようとする撮影所などの外部勢力)が面白いうえに、著者(と訳者)の簡潔で的を得た構成(と筆致)が、またいい。

「偽自伝」から、1942年から48年までの、オーソンとリタに関する記述を書き出してみる。

オーソンがリタにアプローチした1942年当時、リタはヴィクター・マチュアと熱い中だった。
『リタを電話口に出すまで5週間かかった』、『でも、いったん電話に答えてくれたら、もうその夜から外で会ってくれた』(「偽自伝」P276)とオーソンは述べる。
オースン・ウエルズは雑誌で見たリタ・ヘイワースに一目ぼれし、周囲には結婚すると漏らすほどだったという。

[『(リタは)異常なほどの傷つきやすさと、飾り気のまったくない性格を備えていて、その点にオーソンは我を忘れて引き込まれていった』(同書P276)

オーソンとリタが付き合い始めたころ、オーソンはデイズニーと提携した「星の王子さま」、イギリスのアレクサンダー・コルダ製作による「戦争と平和」の企画があったが、どちらも実現はしなかった。
オーソンの生涯に、累々と発生した、未完成のままだったり、実現しなかった企画のひとつだった。

RKOは、オーソンと契約していた3本の映画(「市民ケーン」「偉大なアンバーソン家の人々」ともう1本)の3本目は、たとえキャンセル料を払ってでもオーソンには撮らせたくなかった。

1943年9月、リタ主演の「カバーガール」撮影中、二人は結婚届を提出した。
立会人はオーソンの盟友、ジョセフ・コットン夫妻他だった。

1944年3月、リタは妊娠した。

リタは、オーソンの話に懸命に耳を傾け、また政治志向のオーソンを支えようとした。
オーソンはこのようなリタを愛した。
が、一方で、映画、演劇、ラジオ、新聞コラム、大学映画学科での講演などで多忙なオーソンは、しばし自宅を離れ、仕事の合間には、女性との関係が、独身時代同様に途切れなかった。

オーソンが信頼していた秘書のシフラ・ハランが、回想する。
『(私は)リタに対しては、オーソンの浮気を悟らせないよう精一杯の努力をした。』
『リタは可愛くて、美しくて、チャーミングで、気持ちが優しかった。一緒にベッドに入らないことには相手の愛情が信じられないという女の一人だったの』(「偽自伝」P309)。

1944年12月長女レベッカ誕生。

ルーズベルトの選挙応援で長期不在だったオーソンは、この時期ジュデイ・ガーランドとも浮名を流した。

1945年9月、インターナショナルピクチュアズという映画会社がオーソンに「ストレンジャー」の監督をオファー。オーソン3作目の監督作品となった。
ハリウッドでの信頼回復(予算とスケジュールの厳守、わかりやすい内容)を第一目標に臨んだオーソンは、当時、自身の浮気のためリタによって自宅から追い出されていたが、かえってスタジオのスイートルームに泊まり込み、仕事の合間に女性を連れ込んだ。
リタは「ギルダ」の撮影に入っていた。

また、この時期に上演されたオーソン演出の舞台劇「80日間世界一周」は、観客には好評だったものの批評が芳しくなく、収支的には大損害だった。
赤字補填のため、オーソンはコロムビアのタイクーン、ハリー・コーンから25000ドルを借りた。

ハリー・コーンは、東欧系ユダヤ人移民の家庭に生まれ、成功してからは机にムッソリーニのサイン入り肖像画を置き、マフィアの友人がいる、典型的な旧世代のタイクーンだった。
「偽自伝」には、『スターを夢見る新進女優の口にペーパーナイフを突っ込んで歯並びを調べると、唾液で濡れたそのペーパーナイフで今度はスカートをめくりあげ太腿を検分するという男だった』(同書P277)とハリー・コーンの実像が活写されている。
『(コーンの)リタに対する所有欲はすさまじかった』(おなじくP277)とも。

1946年、オーソンは、25000ドルを用立ててくれたコーンとの約束により、「上海から来た女」を製作した。

以上、長々と、「オーソン・ウエルズ偽自伝」から引用してしまった。
ここまで「偽自伝」を読んでから「上海から来た女」を鑑賞した。

DVDカバー

「上海から来た女」は、前作「ストレンジャー」の、わかりやすい結末と納得のゆく人物像による物語ではなく、明らかに「市民ケーン」的な作品だった。
というのは、何よりオーソン自身の個性と好みが優先された映画だからである。

オーソン・ウエルズは豊かな個性と知性、知識に彩られている人物だ。
豊富な文学的知識に彩られた『哲学的』ともいえるナレーションを自身の声で行うことができる。
また、映画に於いて、特徴的、実験的な画面構成を創出でき、またそのための撮影技法を撮影監督とともに作り出せる。

「市民ケーン」の場合では、さらにこけおどしの権威主義に対するオチョクリを堂々と繰り広げてみせた。
まさに自他ともに認める、アメリカ芸能界の風雲児にして反逆児だった。
本人は、芸能人としての自らの評価だけには満足せず、一時期本気で政界(民主党系)に進出しようと考えてもいたようだったが。

オーソン・ウエルズとリタ・ヘイワース

更に「上海から来た女」では、ブレヒトに影響された、『異化効果』が取り入れられている。
これはオーソンがかつて企画して実現しなかった、ブレヒト作の舞台「ガリレオ」への思いからだといわれている。

『オーソンは、(中略)俳優が役柄から自分を切り離し、同時にそれによって観客に感情移入を起こさせないというブレヒトの演劇理論の中心原理を極めて巧妙に応用した映画を作ったのだ』(「偽自伝」P349)

全編、野心満々の若きオーソン・ウェルズのナレーションに彩られたこの作品は、『異化効果』実現のために、納得のゆくストーリーテリングの代わりに、突発的なシチュエーションと、唐突で非説明的な象徴的なセリフをちりばめた。
そのために、映像はショッキングなものであり、悪夢的な状況をなぞってはいたものの、観客に納得のゆく説明は行われなかった。
『オーソンが心配していた通り、コーンには(この)映画が理解できなかった』(「偽自伝」P349)。

オーソンは、主演を演じる当時の妻リタ・ヘイワースの豊かな茶髪を金髪ショートヘアにさせ、全盛を誇ったプロポーションは、アカプルコの海で日光浴する短い場面での水着姿とヨット上でのショートパンツ姿のカットに留めた。
アカプルコの夜景をバックに、白いドレスのすそを翻して逢引きに向かうリタの夢幻のようなカットはあったが。

アカプルコで水着姿のリタ

そしてこの作品のハイライトは、これまで多く語られているように、ラストに近く、チャイナタウンの京劇のシーンから、遊園地のマジックミラーに主要人物が集まる場面である。

数々の映画で引用されることになった、多面の鏡に映る多面の人物の描写。
特に敵役の弁護士(リタ演じるエルザの夫)が10面以上もの鏡に映る姿で突然登場するシーンの斬新さ!
この人物の怪物性、異常さをこの上もなく映像的に表現した場面で、見ていて思わず声が出た。

鏡の間の場面

発砲により、鏡が割れ、人物が虚空から現実に戻るシーンも象徴的。
画面左に横たわったリタ演じる悪女の死にざまを見る突き放したカメラ。
どれも鮮烈だった。

鏡に映るリタ

この鏡の間のシーンは、オーソンがこの作品で表現したかった『異化効果』のための技法であろうが、一方で「市民ケーン」のかなめの場面(幼いケーンが母のもとから連れ子なる場面や、功成り名を遂げたケーンが妻に見放される場面など)で使われた、当時の実験的なパンフォーカス撮影のように、作品の中核をなす技法である。

「市民ケーン」のパンフォーカス、「上海から来た女」の鏡の間は、オーソン・ウエルズが映画史に残した永遠の記憶であり、爪痕である。

本作におけるリタ・ヘイワースは、『スタイルの良さ』という最終兵器を懐に秘めた、『演技する女優』という存在によくトライしていた。

彼女が演劇出身者的な『演技派女優』となることは終生なかった。
リタ53歳の時のフランス映画「渚の果てにこの愛を」での、出奔した息子をスペインのドライブインで待つ母親役を見ても、その誠実で女性的、人間的なありのままの姿以上の演技はなしえていない。

ということは、「上海から来た女」が彼女の最高作だったのではないかと思われる。

DVD裏面

DVD名画劇場 「ダンシング」リタ・ヘイワース

1940年代のハリウッドの名花リタ・ヘイワースは、1928年ニューヨークに生まれた。
1930年代に映画デヴューし、1940年代には、コロムビア映画から売り出し、踊りがうまく、スタイルのいい美人女優として、ミュージカル映画などで一世を風靡した。
のちには、妖艶な悪女役としても勇名をはせた。

リタ・ヘイワースが映画史に残る女優だったことは、1999年にアメリカン・フィルム・インスティテュートが選出した「映画スターベスト100」の女優部門で19位に選出されていることからもうかがえる。
ついでに淀川長治著「マイベスト37 私をときめかせた女優たち」(1991年 テレビ朝日刊)でも、わが淀長さんの女優ベスト37の一人として取り上げられている。

リタがいかにしてスターとなったかは、40年代のハリウッドを網羅した、オットー・フリードリック著の「ハリウッド帝国の興亡」(1994年 文芸春秋社刊)に詳しい。
同著P209からP219までを要旨抜粋してみる。

父親はマドリッドからアメリカに来たダンサーで、その先祖は15世紀にカソリックに回収したスペイン系ユダヤ人だった。
母親はジーグフェルドフォリーズの踊子で、リタの本名はマルガリータ・カルメン・ドロレス・カンシノといった。

リタは9年間の初等教育を受けただけで、13歳から父親とともにクラブで踊った。
13歳では酒を売る店では踊れなかったため、父とともにメキシコに流れた。
やがてサンジエゴ郊外のクラブに戻り、そこで20世紀フォックスの製作部門の副社長ウインフィールド・シーハンに見いだされ、名前をリタに変え、週給200ドルで契約した。
数本の映画に端役で出たあと、フォックスに乗り込んできたダリル・ザナックに解雇された。

面倒を見ようとする中年男に不自由しないリタのもとに、40歳のエドワード・ジャドソンが現れ、二人は結婚した。リタは18歳だった。
ジャンソンはリタを売り出すべく、コロムビアと週給250ドルで契約し、芸名をリタ・カンシノからリタ・ヘイワースに変えた。
黒の縮れ毛を赤茶に染め、生え際を脱毛し、ラテンの美女からアングロアメリカンに変身した。
ジャンソンはまた週給75ドルで広報エージェントを雇い、リタの売り出しに務めた。

ジャンソンは、500ドルのドレスでリタを着飾り、高級クラブ・トロカデロに連れてゆき、大作「コンドル」を打ち合わせていた、コロムビアのタイクーンのハリー・コーンとハワード・ホークス監督のテーブルの近くに座らせた。
リタは役を得た。
次に、アン・シェリダンが蹴った「いちごブロンド」の役を、監督ラオール・ウオルシュの推薦で獲得し、ジェームス・ギャグニーと共演した。

完璧なアングロアメリカンとなったリタは「血と砂」(1941年)で、『ラテン系を演ずるアングロ女優』の立場を得るまでになった。
コロムビアのタイクーン、ハリー・コーンはスターとなったリタにのぼせ上ったが、リタはヴィクター・マチュアと火遊びし、オーソン・ウエルズとの結婚を突如発表した。
リタをここまで世話してくれたジャンソンとの結婚はとっくに解消状態だった。


コロムビア映画のタイクーン、ハリー・コーン

「晴れて今宵は」 1942年  ウイリアム・A・サイター監督 コロムビア

コロムビアでスターとなったリタ・ヘイワースが、フレッド・アステアを迎えてのミュージカル。
アステアは30年代にRKOでジンジャー・ロジャースとのコンビで連作したミュージカルで大ヒットを連発し、国民的スターとなっていた。
40年代に入り、映画を離れ旅行と競馬、ゴルフに明け暮れたいたが、突然リタ・ヘイワースとの共演話のオファーが来た。
折から太平洋戦争真っただ中の1942年、アメリカ国民は現実から一時的にせよ逃避できる明るい単純な映画を必要としていた。

アステアはコロムビアで「踊る結婚式」(1941年)と「晴れて今宵は」の2作をリタ・ヘイワースと共演した。
さらに「スイングホテル」(マーク・サンドリッチ監督)でビング・クロスビーと共演。
それぞれ大ヒットとなり40年代のアステアの地位を固めた。

アステアはまた、ほかのスター達(ジェームス・ギャグニー、ジュデイ・ガーランド、ミッキー・ルーニー、グリア・ガーソン、ベテイ・ハットンら)同様に、国内外を問わず、第二次大戦下の米軍兵士の慰問を積極的に行った。

「踊る結婚式」アスエアとのコンビ第一作

「晴れて今宵は」の前作「踊る結婚式」で初めてリタ・ヘイワーと会ったアステアは、リタが『フレッド・アステアと踊ることを恐れている』ことを見抜き、冗談を言ったりちょっとした悪戯をしてリタの緊張を解いた。

アステアはリタがカンがよく、これまで一緒に踊った人の中では一番呑み込みが早いことに気が付いた.。
『しかも、彼女はリハーサルの時よりも、本番の方がずっとよかった』(ボブ・トーマス著「アステア・ザ・ダンサー」:1989年新潮社刊 P211)。

「晴れて今宵は」より

では「晴れて今宵は」を観賞しよう。
舞台はブエノスアイレス。
ニューヨークを出て旅の途中のアステアが競馬場で馬券をスッた場面からのスタート。
有名なダンサーのアステアが仕事にあぶれ、ブエノスアイレスまで流れてきた、という設定。

現地の有力者で、スコットランドからの移民という設定のアドルフ・マンジューの事務所に売り込みにゆくアステア。
マンジューには4人娘がおり、長女が結婚し、三女四女が結婚前提のボーイフレンドがいるのに、次女のリタ・ヘイワースに一向にその気がなく、男っ気がないので、親父のみならず、妹たちまでがやきもきする。

ワンマン親父のマンジューが、仕事のワンマンぶりのみならず、次女の恋愛と結婚話に自ら口を突っ込み、それにアステアが巻き込まれてバタバタするというハートウオーミングなコメデイ。

アステアが単独で歌い踊り、またリタと組んで踊る。
アステアといえばまずはRKO時代のジンジャー・ロジャースとのコンビ。
ジンジャーの流れるようなリズム感、パートナーを立てるような動きも素晴らしいが、リタの踊りはまた違った。

プライベートでのリタ・ヘイワースは、コロムビア映画のスターとして売り出す過程で、黒毛を赤く染め、ラテン系の血を隠したのだが、画面で踊るリタからは隠しようもないラテンの血が沸き立っている。
そのリズム感、陽気さ、喜びは、持って生まれた美貌と妖艶さと相まって、見る者を陶酔の境地へと誘う。
何よりリタ自身が喜んで踊っているのがわかる。

コロムビア映画の後押しにより豪華な衣装、主役としてのおぜん立て、文句のない相手役に恵まれたリタだが、演技者としての未熟は隠しようがない。
ところが踊り出すと別人のように光り輝く。

『リタは全く演技ができなかった。その顔は化粧で凍り付いた面のようだった、セリフは不自然で血が通っていなかった。(中略)それでも、他の総てを補う要素がまだひとつあった。踊ると、リタ・ヘイワースは変身するのだ。』(「ハリウッド帝国の興亡」P216)。

「カバーガール」 1943年 チャールズ・ヴィドア監督  コロムビア

スターとなったリタ・ヘイワースが、「晴れて今宵は」のフレッド・アステアに続き、ミュージカル界の大物ジーン・ケリーを迎えての1作。

大物の配役はリタの相手役のジーン・ケリーだけとし、その代わり豪華というかカラフルというか派手なセットと、女優たちの衣装、何より主役リタの魅力を最大限にフィーチャーした作りとなっている。

リタの、形がよく、何よりダンサーとして鍛えられ、欠点のない脚を前面に出してのダンスシーンで始まる冒頭。
カバーガールのオーデイションを受けるときのリタのファッションもカラフルで凝っている。

ジーン・ケリー(ともう一人の仲間)と街角に繰り出してのダンスシーンは、待ってましたの元気さ、ぴったりの呼吸、で見る者を夢の世界へ誘う。
リタの踊りは、目立ちたがりのジーン・ケリーのがむしゃらな動きにも負けていない。
ケリーに対抗するのではなく、自分の世界に見る者の目を向けさせる輝きを放つ。

ジーン・ケリーは、ソロで自分の分身とシンクロしたり、組んだりしてダンスを行う見せ場がある。
こういった映画的アイデアに富んだダンスシーンは、MGMミュージカルの名シーンを思い出させる。
こちらの方が先行しているのかもしれない?

映画のストーリーは、ブルックリン(ニューヨークの下町)の小さなシアターで、明日を夢見るダンサーのリタが、第二次大戦下の北アフリカで負傷した過去を持つジーン・ケリーと相思相愛。
ひょんなことから、リタが、雑誌のカバーガールで有名となり、ブロードウエイへの切符をつかむ。
そこから二人の仲がぎくしゃくするが、いざ、リタがブロードウエイの大プロデウーサーから求婚され我に返ると、ジーン・ケリーが忘れられないことに気づき、その胸に戻ってくる、というもの。

下町のシアターの描き方が面白い。
そこでの売り物は元気な踊り子たちの脚と陽気な観客。
ストリップ小屋の楽屋のような天井裏の楽屋では若い踊り子たちが右往左往している。
厨房で、料理人とウエイターが天手古舞で客の注文をさばいている(料理付きの場末のシアターというものがあるんだ?)。

下町。舞台裏。若者の夢。スターダムと転落。
まるでジュデイ・ガーランドの「スタア誕生」のようでもある。
主演女優の実半生をモチーフに、バックステージを含めて描くやり方は、多くの映画で見られるが、MGMの「イースターパレード」のようにコロムビア映画でも作られていたんだ!?

カバーガールとして名が売れ、ブロードウエイにスカウトされ、名のあるプロデユーサーに求婚され、映画のセットのような豪邸に住むのが踊り子のスター誕生物語だとしたら、下町の大衆シアターで嬉しそうに踊り、相思相愛の支配人と毎週金曜のレストランで牡蠣を注文し、夢を追い続けるのが現実。
リタ・ヘイワースには、『現実』の物語が似合っている。

車の中で、ブロードウエイのプロデユーサーに求婚され、とっさに困ったような無表情を見せるリタ.。
それが彼女の演技下手のせいばかりではなく、思わず自らの出自、人格が現れたように見えたのは、気のせいだろうか。

『「カバーガール」は大ヒットした。(中略)1943年に、近所の映画館の静まり返った観客席でこの映画を観た人間は、いやも応もなくリタ・ヘイワースに恋をしてしまったものだ。これほど美しく、これほどロマンテイックで、これほど妖しい魅力を湛えた女がいようはずはなかった。』(「ハリウッド帝国の興亡」P215)

観客を恋人にする、リタ・ヘイワースは紛れもなく1940年代の女神だった。.

「地上に降りた女神」  1947年  アレクサンダー・ホール監督   コロムビア

リタ・ヘイワースが29歳になる年の作品。
きらびやかなカラー映像のミュージカル作品で正統派のヒロインを演じている。

「地上に降りた女神」より

リタは前年に、代表作となる「ギルダ」に出演して、悪女役を演じている。
そういった意味では役柄の幅を広げ始めたころの1作。
本作の後、同年1947年には、当時の夫、オーソン・ウエルズが監督した「上海から来た女」に出演し、正真正銘の悪女役を演じてもいる。

「晴れて今宵は」「カバーガール」のころの、ぴちぴちとした若さは落ち着いている。
同時におどおどとしたこわばりは薄れ、余裕あるたたずまいを見せ始めている。
いざ踊りが始まると、はつらつと躍動し、キレがよく、実に嬉しそうに踊っている。
振り付けに忠実な正確な踊りもできる。
脚の線、形は相変わらずきれいでセクシー。
この作品には、我々の期待通りに色気があり、かつ少々芸の幅を広げたリタ・ヘイワースがいる。

ただ、どうだろう、フレッド・アステアがいた「晴れて今宵は」や、ジーン・ケリーがいた「カバーガール」と比べて、ミュージカルシーンの単純さ、底の浅さは否めない。
ここはご両人の芸の深さ、存在感を称えるべきか。
ご両人のいないコロムビアスタジオ製のミュージカルは、セットの空間が狭く感じられ、ダンサーの衣装に手はかかっているが、プラスアルファの想像を刺激しない。

アステアやケリーなど、芸達者な共演者が不在の「地上に降りた女神」で、主演のリタは、より一層頑張らなければならない中で、前述した演技の余裕と相変わらずのダンスのキレで、ほぼほぼ見る者の期待には応えている。
スターとしてハリウッド映画の主役を張れる女優さんが持っているものには、やはりただならぬものがある。

芝居の面でいうと、情感をたたえるような場面でのリタの表情はいい。
初公演の場フィラデルフィアに向かう列車の中でのラブシーンはロマンテイックだった。

天上の女神が地上で自らを主役にした下品な(人間的な)舞台が行われることを知り、人間に化身して主役になって舞台を成功させるとともに、相手役兼演出者(ラリー・パークス)と恋に落ちる、という浮世離れしたストーリーの映画だが、そういった現実離れした設定でのラブシーンでは、リタの情感たっぷりな表情が生きるし、ダンスも際立つ。

リタ・ヘイワースという女優さん。
ダンスがダントツで、喜びを体で表現する才能に満ちている。
20代後半になって、情感たっぷりの演技もできるようにもなった。

さて、その後のキャリアはどう花開いたのか?
彼女の代表作といわれ、世界中の男を虜にしたのは、悪女役に目覚めた「ギルダ」(1946年)であった。
次回はそのあたりの作品を見てみよう。

 

DVD名画劇場 傍役女優の華麗な世界 ステラ・スティーブンス

映画は主役だけではない。
バイプレーヤーに魅力的な役者がいるかどうかで作品の評価が決まることもある。

デヴュー当時のステラ・ステイーブンス

バイプレーヤーといっても、このシリーズで取り上げる女優は完全な傍役ばかりではなく、主人公の相手役だったり敵役の重要なポジションを担ったりする。
むしろそのケースの方が多いかもしれない。
アメリカ映画のタイトル上であれば、主演に続く『CO STARRING』のトップくらいにクレジットされる立場の女優さんだろうか。

例えば「陽のあたる場所(1951年)」のシェリー・ウインタースだったり、「ハイ・シエラ」(1940年)のアイダ・ルピノ、「復讐は俺に任せろ」(1953年)のグロリア・グレアムなどを想定している。

また、かつてトップクレジットで紹介されるスターだった、ドナ・リード(「地上より永遠に」1953年)やパトリシア・ニール(「ティファニーで朝食を」1961年)やパイパー・ローリー(「ハスラー」1961年)なども加えたいがどうだろう?

これら女優たちと忘れられないその演技をDVDで見てみよう。
トップバッターはステラ・ステイーブンスだ。

ステラ・ステイーブンス

「ガール!ガール!ガール!」  1962年  ノーマン・タウログ監督  パラマウント

エルヴィス・プレスリー11本目の映画。
「ブルー・ハワイ」のヒットを受けて再びのハワイロケ。

ステラ・ステイーブンスはプレスリーを争う2人のガールズのうちの一人、ナイトクラブの歌手でプレスリーとは過去の腐れ縁があるらしい女性、を演じる。

1938年生まれのステラは実年齢が24歳になるころ。
映画デヴュー作の「ひとこと言って」(1960年)でゴールデングローブ新人賞を受賞している。
一方で、16歳で結婚、出産、離婚の経歴をの持ち主でもあった。
24歳にして倦怠感に満ちた色っぽいプロ女性の役柄がオファーされたのもうなずける。

プレスリーを巡るもう一人の女性には新人のローレル・グッドウイン。
可愛く整った顔立ちの若手女優で、独立心旺盛な現代女性の役柄。

ハワイで漁師兼釣り船の船頭をやっているプレスリーは、自慢だった父が死に、遺産の漁船は人手に渡っているという逆境の中、船に住み込みながら腕のいい海の男として地域に根付いている。
メキシコ移民?で銀婚式を迎えたボスを敬愛し、中国人の青年を助手にして彼の実家とも交流がある。

プレスリーの役どころは、映画観客の多数を占める庶民階級の若者と同じように社会の逆境の中でもがく存在ではあるものの、付き合う人種の幅の広さだったり、金持ち(メキシコ移民のボスに代わって乗り込んできた吝嗇な白人実業家)に対するわかりやすい反発だったり、当時の白人マジョリティとは明確に異なる特色を持つ。
これらの設定が、映画のヒーロー像の正義感からくるものなのか、それとももっと深い意味があるのかはわからないが。

一方、それとは別に女性にもてまくるのはプレスリー映画のお約束。
釣り船の中年夫婦客の夫人にモーションをかけられるシーンから始まって、クラブでたまたま知り合った正体不明のお嬢様(ローレル・グッドウイン)とたちまちくっつき、腐れ縁の歌手(ステラ・ステイーブンス)とは互いの気持ちがありながらも意地を張りあう。

東宝の若大将シリーズをちょっと大人向けにしたような設定。
ちょっと気になる女の子に誘われた若大将が本命の彼女にすねられるのが若大将シリーズのお約束。
プレスリー映画はもうちょっと人間本能に肯定的で、ドロドロしておりながら、反面、根強いアメリカの社会的価値観(旧式な道徳感)から抜けきれない感があるが。

もう一つ、乗り込んできた白人ボスは、プレスリーの金持ちのライバルにでありながら恋人にちょっかいを出すなど、まるっきり青大将(田中邦衛)同様だったことを記しておきたい。

プレスリーが実家代わりに恋人を連れて訪れる中国人一家の描写の尺が長く、主人公の目を通してマイナー人種の中国人一家に対する信頼と親しみが描かれる。

その中国人宅で繰り広げられるエンデイングの大団円の演出がまたすごい。
幼い二人の中国娘が狂言回しよろしく踊り歌う中、キモノ姿の東洋人が中国風の音楽で踊り、そこへタヒチアンダンスの踊り手が登場、最後は水着姿のアメリカンガールがツイストとアメリカンミュージックで場の雰囲気を塗り替えた後、全員がツイストで盛り上がってエンディングを迎えるのだ。

人種と文化の相違を越えた融合を謳ったエンデイング(だからハワイを舞台にした)なのか、はたまたレビュー映画の『味変』としてハワイの東洋趣味、ポリネシアンテイストをハリウッド流にごった煮しただけなのか。

プレスリー扮する主人公が中国人一家に向ける親しみに象徴される異文化へのリスペクトが根底にあるのか、それともハリウッド流アメリカ中心の世界観の揺るがなさを再確認しただけなのか、それともそれらが並立した世界をハワイを舞台に描いたものなのか、判然としないまま映画は終わるのであった。

ステラ・ステイーブンスは主にナイトクラブで歌う場面に登場。
物分かりよくプレスリーと別れ、若い恋人たちを祝福する大人の女性を演じていた。

「底抜け大学教授」  1963年  ジェリー・ルイス監督  パラマウント

名物コメデイアンの主演映画には「極楽」(アボット、コステロ)、「凸凹」(ローレル、ハーデイ)、「腰抜け」(ボブ・ホープ)などのシリーズがある。
「底抜け」はジェリー・ルイスの主演シリーズだ。

「底抜け大学教授」は、中学か高校時代に日曜昼間のテレビ洋画劇場で流れていた。
ステラ・ステイーブンスの美貌が今でも記憶に残る。

ジェリー・ルイスは化学の大学教授。
実験が失敗し、学生たちがススだらけで脱出した後の教室で、地面にめり込んだドアの下にうずまった姿で登場する。
しゃべり方、口の動き、よろけたような歩きにもボードビリアンとしての年季が入っている。

ダサく、ひ弱な体を鍛えようと、ジムに入門する。
トレーナーに片手で押され、トランポリンに倒れメガネが吹っ飛ぶが、跳ね返りながらメガネを空中でキャッチしかけ直すギャグは運動神経十分。
口だけでなく体を張っている。

ステラ・ステイーブンスは役名もステラという金髪、ぴちぴちな女子大生。
ほかの女優陣ともども、カラーを意識した原色の衣装に身を包み、それが似合っている。
ルイス扮する大学教授の妄想シーンでは、スリットの入ったドレス、テニスウエア、水着などのコスプレ早変わりを見せ、若い盛りの美しさをフィルムに留める。

冴えないが知性があり誠実な男と、オスに匂いを発散させる危険な男を「ジキル博士とハイド氏」よろしく、ジェリー・ルイスが演じ分ける。
もともとが「底抜け」の大学教授に好意らしきものを抱いていたステラは、「底抜け」教授の変身した姿によろめくが、かえって「底抜け」教授の魅力に気づく。

自ら開発したクスリを飲んで、性的魅力を発散するオスに変身し、ギャラリーを虜にする色男は時間が過ぎるとクスリの効果が切れ、「底抜け」教授の口調に戻り、慌てて姿を消す。
変身を巡るドタバタは「ジキル博士とハイド氏」のパロディでもあり、また変身の経験を「底抜け」教授なりに反省して本来の自分の大切さに気付くエンデイングはジュリー・ルイス流の温かさか。

ステラ・ステイーブンスは、教室では金髪をくリボンで結んだロリータスタイルで、また夜の学生会館でのパーテイでは、たばこをふかしながら体育系学生を従える姉御肌ぶりを見せる。
ロリータスタイルより、目の前の男性を見抜き、品定めするしっかりした女性役の方が彼女には似合う。

人間は自分らしく生きた方がいい、自分らしさこそが魅力、人間の才能は(異性としての魅力よりも)知性にある、というセリフを「底抜け」教授とステラに語らせて映画は終わる。
弱いが才能を持ち、人間らしい男の子と、彼を理解し慕う女の子の物語。
そのテーマに「ジキル博士とハイド氏」の構図を取り入れコメデイとして仕上げた作品。

一見ミーハーでありながら知性を才能とみなす賢さを持ち、出しゃばりすぎず、いったん決めたパートナーを最後まで支えそうな女性をステラ・ステイーブンスが演じた。

ステラのキャラクターは、ジュリー・ルイスの理想像でもあるのだろう。
ジェリー・ルイスはステラ・ステイーブンスの本当の魅力を見抜いてステラ役にキャステイングしたのではないか。

「砂漠の流れ者」  1970年  サム・ペキンパー監督  ワーナーブラザース

(ストーリー)

文字どおり砂漠を流れている中年男がいる。
偶然会った二人組に命の次に大事な水を奪われた。
砂漠をさ迷い4日目に偶然泉を発見して命を拾う。
男の名はケーブル・ホーク。
自分の名前のスペルも知らない。
金には細かく、臆病。
素朴な信仰心と愛国心だけは身についている。

主演のジェイソン・ロバースと

町が嫌いで泉のほとりに住み着き、二人組への復讐心だけは忘れないホークのもとへ、牧師と名乗る若いのがやってきた。
牧師は泉に住み着き、ホークの家づくりをいやいやながら手伝ったりする。
この牧師はとんでもないスケベで、町へでては嘆いている若妻に近づき、手を出したりする。

この牧師が口を出したことから、ホークは泉の湧く、街道筋のこの土地を登記しようと町へ出る。
駅馬車の運営会社はホークをあしらうが、銀行家がホークを気に入り100ドルをその場で渡す。

100ドルを握ったホークは先日見掛けて気になっていた娼婦のヒルデイを買う。
風呂に入れてくれたヒルデイのもてなしにすっかりいい気持になるホークだが、泉に置いてきた牧師が気になり、金も払わず立ち去る。
ヒルデイは「金を払え」と怒ってドアをけ破り、水鉢や洗面器を投げつける。

その後、改めて町に出たホークは、新しい洗面器をプレゼントしてヒルデイと仲直りする。

「砂漠の流れ者」のステラ・ステイーブンス

駅馬車の休憩所としてすっかり繁盛している泉にヒルデイがやって来る。
風紀を重んじる町の女性たちに追い出されたという。
ヒルデイの夢はサンフランシスコに出て金持ちと結婚すること。
ほんの一晩、ホークのもとによるつもりがそのまま3週間いることになる。

ホークとヒルデイの天国の日々

まるでパラダイスのような砂漠の二人だけの生活。
二人の夢のような生活の背景にカントリー風の素朴な「バタフライモーニング」が流れる。
そこへ牧師が逃げ込んでくる。
手を出した若妻の亭主に追われているのだ。

3人の晩餐。
牧師から食事代を取ろうとするホークに、「私とはただじゃない」と諭すヒルデイ。
ホークはすかさず「俺からもな」と答える。
ハッとするヒルデイは「明日出てゆく」とポツリ。
ヒルデイは涙ながらにこれまでのホークのやさしさに感謝し、男二人に『今日は外で寝て』という。

一人になったホーク。
ある日駅馬車から例の二人組が降り立つ。
泉の繁盛ぶりをそれとなくアピールし、復讐のために誘い込むホーク。
後日やってきた二人はホークの罠に落ち、復讐される。
結局、一人は死に、残った一人はホークに命じられて駅馬車の休憩所の管理をすることになる。
折から自動車が現れる時代となり、駅馬車と休憩所は時代遅れとなってゆくのだった。

休憩所を任せて去ろうとするホークのもとに、着飾ったヒルデイが運転手付きの自動車でやって来る。
ホークは扱いなれない自動車にひかれて死んでゆく。

(感想ほか)

ホークを演じるジェイソン・ロバースはともかく、この作品のステラ・ステイーブンスの魅力を見てみよう。

ホークを客として迎えるキャバレー二階の商売部屋。
ホークにコルセットのひもをほどいてと迫り、ベッドに横たわってストッキングの脚を振り上げる。
キュートな笑顔と媚態。
二人の時間が商売による限定的なものではなく、たっぷりと時間を使った恋人同士のもののよう。
こんな娼婦だったら全世界の男たちは何を差し置いてもそのもとへはせ参じるだろう、と思わせるステラ・ステイーブンスの演技。

町を追われて砂漠のホークのもとへやってきた後のヒルデイは、まずは身支度してさっさと寝室にホークを迎えた翌日には、エプロンに金髪をリボンで束ねてパンをこねるなど、良妻賢母ぶりを見せ、温かく迎えたホークに報いる。

「底抜け大学教授」の時から7年。
30歳を超えたステラ・ステイーブンスは、さすがにぴちぴちではないものの、無駄肉がない体にまだまだキュートな笑顔を見せ、実は繊細な女心を体いっぱいで表現する。
彼女の実人生の積み重ねもあるのだろう、女ごころの表現にはリアリテイもある。

キャバレーの二階の商売部屋でホークを迎える場面では、全男性の理想の女性像を演じるが、ヒルデイがサム・ペキンパーの理想の女性像として演出されていることがわかる。

別れを決めた夜、外に寝ているホークの手を引き小屋へと連れ戻す、白いレース姿のヒルデイは、夜半の夢うつつに現れた女神のごとく、全世界の男の夢の化身だった。
この場面のペキンパー演出にブラボー。

白いネグリジェ姿のヒルデイ

ペキンパーは、回想シーンや凝った伏線などを用いずに時間経過を追ってこの作品を撮った。
「ワイルドバンチ」や「ゲッタウエイ」のようにスローモーションを用いてもいない。
むしろコメデイとしての山場のシーンではコマ落としをもちいているのだ(ヒルデイが樽で水浴しているときに時間より早く駅馬車が到着し、ヒルデイが裸で小屋に駆け込むシーンなど)。
力の抜けたペキンパーは作品をここでは楽しめる。

(DVD特典映像より)

DVDには付属特典として、ステラ・ステイーブンスインタビューが収録されていた。
彼女が50代のころではないか。
メイクしたステラはまだまだ魅力的で、自分のキャリアの出発から「砂漠の流れ者」についてまでを縦横に語っていた。

「砂漠の流れ者」やサム・ペキンパーについてはこう回想している。

・この作品については「コメデイ」だと聞いていたが私は、コメデイの法則を施したラブストーリーだと思う。
・ヒルデイを演じてその心境を理解するのが困難だった。ペキンパーに『ヒルデイっはどんな人?』と聞いたら通りの真ん中で『ヒルデイはお前だ!』と怒鳴り返されたことがある。
・劇中の歌は自分でアカペラで録音したものに、ジェリー・ゴールドスミスが伴奏を録音したもの。
・ヒルデイがサンフウランシスコに出てゆく夜の分かれのセリフのシーンでは自然に涙が出た。
・ヒルデイが車に乗って着飾って泉に帰ってくるシーンが大好き。豪華な衣装も。
・ペキンパーは自分の子供を動物園に連れてゆくようなタイプではない。仕事にしか興味がなく、成功のためには手段を選ばない。
・ペキンパーは自分の憎しみ、寂しさを隠すためにサングラスをかけ、アルコールを飲んだ。小柄な体格で、喧嘩が強いとは思えなかった。
・45歳の時(1972年)、ペキンパーから映画の話があり、『ヒルデイのその後をやるんだったら出る』と答えた。ステイーブ・マックイーンが『あなたじゃだめだ』と言ったのでその話はなくなった。
(「ゲッタウエイ」のことだと思われる)

尊厳と貫禄を漂わせ、己のキャリアにゆるぎなさを感じさせながらも、今もなおスリムでキュートでかつ繊細な表情を崩さないインタビュー中のステラは『脚本と監督を自分がやって映画を作りたい。「底抜け大学教授」のジェリー・ルイスのように』と話していた。
酸いも甘いも味わいつくした大人の魅力がそこにあった。

(「ケーブルホークの男たち 遥かなるサム・ペキンパー」より)

ここに「ケーブルホークの男たち 遥かなるサム・ペキンパー」という本がある。
「砂漠の流れ者」の原題を表題としたこの本は、ペキンパーの同志でもある作者による同作のメーキング本である。この中からステラ・ステイーブンスについての部分を拾い読みしてみた。

『ステラ・ステイーブンスは最高の演技を残したし、それはジェイソン・ロバースにも言える。(中略)サムが最高傑作をものにしたことも間違いない』(同著P145)

『ステラは、ペキンパーが今まで最高の演技を引き出してくれたと語った。彼のメソッドはあまり好ましいとは思えなかったが、毎晩ラッシュを見るたびにそれがうまくいっているので、思い通りにやらせることにしたのだという。この作品のために彼に賭けたのだし、そのお返しとしてサムも私に賭けてくれたと思う、とも彼女は語った。』

などと著者は語っている。

(「女優グラフィテイ」より)

小藤田千栄子、川本三郎の両映画評論家を中心にごひいき女優を1978年の時点で選んだ女優賛歌。
ステラ・ステイーブンスについては川本三郎が『星影のステラ』として242から243ページにわたって評論している。

『のっけからいってしまえばこの十年間に知りえた最高のヒロイン。』(P242)と「砂漠の流れ者」のヒロインを演じたステラを絶賛。
『この映画がペキンパーの傑作足りえたのは、ひとえにステラ・ステイーブンスのためといってもオーバーではないだろう』とも。

目次
「女優グラフィテイ」より

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.1

第二次大戦前のドイツ映画は、その栄光の時代を迎えていた。
すなわち、1910年代の第一次大戦後のサイレント映画時代には、G.W.パブスト、F.W.ムルナウ、ヨーエ・マイらの演出陣が社会的リアリズムもしくは表現主義などの影響下に名作を輩出し、早くも世界市場に打って出ていた。
日本においてもドイツ映画が一定の評価を受けていた。

「写真映画世界史第3巻」より

映画がトーキーになった時、技術的にもいち早く対応したのがドイツ映画だった。
内容的にはオペレッタなど音楽を前面に出した作品群を世界に送り出すとともに、ゲルマン神話に基づく歴史もの、山岳映画など独自のジャンルを打ち出していた。
監督陣ではエルンスト・ルビッチ、フリッツ・ラングなど後々にハリウッドで長く活躍する人材を輩出した。

ドイツ映画の特色は、当時の映画製作の中心地ウーファ撮影所に根付く伝統的な映画技術の高さとともに、ヨーロッパの中心としての歴史を持つドイツ人気質の堅実さ、地味さ、素朴さが自然と画面に表れている点にあった。
反面、残酷なほどに人間性の善悪を表現するのもドイツ映画の特色であろうが。

今回の名画劇場は手元に集まった戦前のドイツ映画3本を見る。

「最後の人」  1924年  F・W・ムルナウ監督  ドイツ

サイレント時代のドイツ映画には、「カリカリ博士」(1919年 ロベルト・ウイーネ)、「ノスフェラトウ」(1922年 F・W・ムルナウ)、「メトロポリス」(1926年 フリッツ・ラング)、「パンドラの箱」(1929年 G・W・パブスト)などの名作がある。

G・W・パブストと並ぶサイレント時代からの名監督がムルナウ。

「最後の人」は、主演のエミール・ヤニンニングス扮する初老のホテルドアマンがトイレ番に左遷され失意の中で死んでゆくまでを描く。
ヤニングスは「嘆きの天使」で歌姫に溺れる堅物の教授を演じたひと。
この人の演技、表情や仕草にはサイレント映画らしい大仰さがみられるものの、心理を表す表情・仕草や瞬間に素早く動いて状況の急変を表現することができるなど、「鋭さ」がある。

「最後の人」撮影風景

映画の技法的には、表現主義の影響が見られる。
ホテルの役職を降格させられた主人公が退社後仰ぎ見るホテルを捉えるカメラは、きらきら窓の光がさんざめく建物を二重写しのようにとらえる。
現か幻か判然としない映像表現は、主人公がすでに正常な精神状態ではないことを独自の技法で表現する。
また、降格した主人公を待ち受ける安アパートの住人たちのあざけるかのような顔のクローズアップは脅迫的な主人公の心理状態を強調する。

エミール・ヤニングス(左)

主人公の娘が己の結婚式のためにケーキを焼くシーンや、ホテルの制服(に象徴される世俗的権威)への執着、落ちぶれた隣人に対する嘲笑(権威ある隣人に対する諂いと根っこは同じ)などは、いわゆるドイツ的なものが濃厚に漂う。
質実剛健なドイツ人気質だったり、とはいえ権威に弱く、周囲に同調的な気質だったり。

「制服」への過剰なこだわりについては、制服が主人公のアイデンティティーの象徴として描かれているのではあるが、一方でドイツ人の「制服」への気質的な執着を表してはいないか。
第二次大戦のドイツ軍の制服、武器の優れたデザイン性は現代でも一定のファンを持つ。
ドイツ気質と武器・制服のデザインの卓越性との親和感がこの作品にも通底してはいないか。

一方で、制服に象徴される権威、没個性からの解放を秘かな主題としているのもこの作品。

主人公がホテルの支配人から降格通知を渡される場面では、窓の外のカメラが移動しワンショットで窓の内側に来るなど、撮影技法が洗練され高度なのもこの映画の特徴。
サイレント時代からドイツ映画のレベルの高さが見られる。

「會議は踊る」  1931年  エリック・シャレル監督  ドイツ

何という楽しい映画であろう。
陽気で、楽天的で、性善説的で、庶民的で。
最も印象に残ったのはその軽さ。
重々しく、悲観的で、マニアックで、伝奇的なドイツ映画らしさがそこには無く、さっぱりとオペレッタに徹した作品となっている。

リリアン・ハーベイとウイリー・フリッチ

時は1815年、第一次ナポレオン戦争が終わった後の講和会議をウイーンで行うことになった。
主宰することになったオーストリアの首相メッテルニッヒ(コンラッド・ファイト)は、『どうしてウイーンでやるの?』と後ろ向き。
だが策士でもあるメッテルニッヒは、外交官や職員たちを盗聴し、書簡を検閲しながら情報を収集。
やり手のロシア皇帝アレクサンダー(ウイリー・フリッチ)を美女で篭絡し、その間に講和会議をまとめてしまおうと画策する。

一方で鳴り物入りでウイーンにやってきたロシア皇帝は、ウイーンの帽子屋の売り子で愛嬌のあるクリステル(リリアン・ハーベイ)の歓迎ぶりに歓び、街の居酒屋で皇帝の身分を明かさずのデート。
クリステルの純朴な愛らしさを愛で、クリステルもつかの間のジェントルマンとの邂逅に夢心地、彼が居酒屋に払った金貨で相手が皇帝だとわかる。

リリアン・ハーベイは街の人気者

王子様と町娘の恋といえば「ローマの休日」とは逆のパターン。

皇帝に呼ばれ、クリステルが馬車で彼の別荘へ向かう長回しのシーンがすごい。
クリステルが謳う主題歌とともに、川面に恋を語るカップルや、民族衣装で洗濯する娘らを手前にしてドナウ川の橋を渡る馬車。
馬上で喜びを精一杯表現するクリステルに、カップルは抱き合うのを止め、洗濯娘らは手を振る。
到着したお城のような別荘の庭では何組ものカップルがダンスで馬車を迎える。
ハリウッドミュージカルの山場のシーンのようではないか。
というか、後年ハリウッドが延々とまねしてるだろ、これ。

メッテルニヒ(コンラード・ファイト)はフランスの伯爵夫人(右)を使ってロシア皇帝の篭絡を画策

居酒屋で仲睦まじい皇帝とクリステルが店を出るときには、楽団がマーチを奏で、店の客が出てきて踊りながら二人を見送る。
急に音楽が始まり場面が転換する。
ミュージカルのお約束でもあるこういった場面が続く。

リリアン・ハーベイの艶姿

クリステルを演じるリリアン・ハーベイは、独英混血らしいが、ドイツ娘らしい逞しさを感じさせるとともに、1933年のオーストリア映画「未完成交響楽」で、若き日のシューベルトを助ける質屋の娘を演じたルイーゼ・ウルリッヒのような素朴な健気さを見せる。
またその陽気な明るさ、お色気、芸達者ぶりは天性のものとしか思えない。
彼女の健康なエロチシズムは、逆光に浮かぶ体のシルエットだったり、スカートをたくし上げた際の一瞬の生足で直接的にも表現される。

明るく、軽いタッチとミュージカルらしい場面転換で映画をまとめた監督のシャレルは、オペレッタの舞台演出家から製作者のエーリッヒ・ポマーにスカウトされ、この永遠に古びないミュージカル作品を撮った。

ドイツ映画はトーキー以降にオペレッタ映画の興隆時期があり、本作はその時期の代表作だった。
軽さ、明るさ、陽気さで統一された本作だが、製作された2年後にはナチス党が政権を取り、7年後にはポーランドに侵攻するという時代性を感じさせるように、エンデイングはナポレオンが幽閉先を脱出し、フランスに上陸したというニュースとともに、再びの欧州の戦禍を必然としてロシア皇帝は直ちに本国へと出発するというものだった。

町娘の夢のような恋は、一瞬の思い出とともに来るべき戦乱に覆いかぶせられるのであった。

「制服の処女」  1931年  レオンティーネ・ザガン監督  ドイツ

まず、ナチス党台頭前夜の1931年のドイツでこういった作品が生まれたことに素直に敬意を表したい。

ベゼルブルグ先生とマヌエラ

女流監督のザガンは、この時代のドイツ演劇界の重鎮だったマックス・ラインハルト門下だという。
製作はカール・フレーリッヒで1930年代後期のドイツ映画界の随一のプロデユーサーだという。

主演の女学生マヌエラ役にヘルタ・ティーレ、マヌエラが慕う女教師・ベゼルブルグ先生役にドロテア・ヴィーク。スチル写真を見たら忘れられない凛とした美貌のドロテアさんはスイスの男爵夫人で、クララ・シューマンの後裔だといわれているらしい。
教師の服装が似合う。

先生を慕うマヌエラ

叔母に連れられて寄宿制の女学校にやって来たマヌエラ。
14歳だ。
この学校は校長の方針で、規律を尊重し空腹に耐えてプロシア精神を体現する女子を教育する方針。
生徒は縞模様の(大戦中のユダヤ人収容所のような)制服の上にふだんは前掛けのスタイル。

テイーンエイジャーの女の子らしく、空腹に耐えかねたり、男優のプロマイドを隠し持って『セックスアピールがどうのこうの』と騒いだり、厳しい舎監の先生に陰で『あっかんべー』したりする生徒たちだが、本当の意味で厳しい団体生活に我慢できるのは、ベゼルブルグ先生の存在があるからだった。

消灯とともに寝室にやってきて皆にキスしてくれる先生は、母親のいないマヌエラにとっても思慕の対象であり、生きがいともなった。

院長の誕生会に催される生徒の劇は盛り上がるが、その打ち上げで事件が起こる。
ベゼルブルグ先生への思慕を素直に打ち明けたマヌエラの行動が問題視される。

規律違反だと断罪する院長に、反対しマヌエラを守ろうとするベゼルブルグ先生。
マヌエラは自殺寸前のところを仲間に助けられ、皆の非難の目を背に院長は去ってゆく。

ドロテア・ヴィーク(上)とヘルタ・テイーレ

ナチス時代となった時、亡命を余儀なくされたというザガン監督、ほとんど唯一の作品。
監督が女流ならば出演者も全員女性。
切羽詰まった場面ばかりではなく、折々に学園ドラマのノリのような、『青春のどうしょうもない』シーンも加える。
女学生役の女優達も美人ばかりではなく、実際に学校に居そうなキャラが揃っている。

全体主義に対する人間主義の抵抗をテーマにした作品。
しかしながらその根底には当時のドイツの暗い世相が覆っているかのようだった。

DVD名画劇場 児玉数夫「やぶにらみ世界娯楽映画史」傑作選その1

手許に1988年刊の教養文庫「藪にらみ世界娯楽映画史」がある。
著者は児玉数夫。

彼はひとくくりに映画評論家と呼ばれるものの枠を超えて、広く職業として映画に関わってきた人物。
戦後直後にGHQ配下でアメリカ映画の輸入、配給を一手に引き受けていたセントラル映画社というところで、広告宣伝を担当するという稀有なキャリアの持ち主。
以降、リアルタイムで輸入洋画ほぼ全作に接しており、知識としての映画ではなく、体験としての映画を語りうる存在。

裏表紙には淀長さんによる絶賛のコメントが

著書も多数あり、特に西部劇、ギャング物、ターザンシリーズ、キートン、怪奇映画、ミュージカルなど、著者お気に入りのジャンルでは、数々の映画の記録や、保有する当時の内外の宣材などをもとに作品を紹介している。
名作や個人的好みに偏重するいわゆる映画評論家とは違い、幅広くほぼ輸入全作品に接してきた経験から、映画作品に対する思い込みや偏見から自由で、かつ映画に接してきた歴史の長さから、作品の由来、背景を系統的に理解している。
本当に面白い映画を見分けることができるのが児玉数夫の強みである。

「やぶにらみ世界娯楽映画史」のまえがきに著者は記す。
『本書には、いわゆる名作もあれば、ほとんど採り上げられることなく冷遇に甘んじた作品もある。私は、そうした作品もいとしく想う。話題作・問題作ばかりの映画史など、少しも書きたいとは思わない。』と。

目次を見ると、なるほどほかの場所で、映画史上の有名作だったり、スターの代表作だったり、監督論などの媒体により、散々取り上げられている作品も、面白いものであれば取りあげられている。
例えば「ジョルスン物語」、「雨に唄えば」、「十戒」、「山河遥かなり」など。

同著の目次第一ページ。見よ堂々の「海賊バラクーダ」「死闘の銀山」のランクインを!

同時に「海賊バラクーダ」、「死闘の銀山」、「凸凹透明人間」、「白昼の脱獄」など、今ではすっかり忘れられ、昔のTV名画劇場での放映を最後として公的な公開機会は永遠に来ないであろう作品が取りあげられている。
このあたりが本書の真骨頂なのだ。

今どきの映画評論家の、受け狙いの「発見」に引っかからず、いまだ持って注目されない作品群。
でもリアルタイムに見てきた児玉数夫の記憶に残る面白い映画、価値ある映画の数々。

今回は本書で取り上げられた作品の中から3本を選んで鑑賞した。

児玉数夫の著書は数多く文庫化されており、埋もれた数々の作品を再発見することができる。「1940年代の洋画」もそうした1冊
同じく、「ヨーロッパ映画1950」

「サラトガ本線」  1945年  サム・ウッド監督  ワーナーブラザーズ

「やぶにらみ世界娯楽映画史」の本作紹介文には『昭和24年晩秋。数多くの新入荷をみたアメリカ映画の中でも、この「サラトガ本線」と肩を並べることのできる大作はそうそうはなかった。』とある。
当時、洋画輸入の窓口に居た児玉数夫の実感に基づいた記述である。

「やぶにらみ世界娯楽映画史」より

原作はエドナ・ファイバーというアメリカの女流作家。
数々のベストセラーの中には1966年に映画化された「ジャイアンツ」もある。

本作「サラトガ本線」は、奔放な女性を主人とし、彼女の復讐心を背景にした、金と男による自己実現の人生に、恋人役として野生的なヒーローを配置した、いかにも女性作家的な、もっというと少女漫画的なドラマである。

時代背景が19世紀のニューオリンズとサラトガで、フランス文化の背景とアメリカ開拓時代末期のスケール感を取り込んでもいる。
主人公女性のキャラクターや時代背景の壮大さは、何やら「風と共に去りぬ」に似てもいる。
スケール感はかなり縮小しているが。

監督はセシル・B・デミルのもとで修業し、師匠譲りの保守主義者のサム・ウッド。
本作での起用は「誰がために鐘は鳴る」(1943年)でクーパーとバーグマンを上手く扱った所以からかもしれない。

で、「サラトガ本線」。
ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンを起用したワーナーの大作乍ら、映画史的にも両俳優のフィルモグラフィ的にも、今に残る名画の扱いではない。
どうしてなのか。

その理由を探ってみた。

芳賀書店刊「シネアルバム➉ゲーリー・クーパー」の149ページに本作の紹介が載っており、『この作品は論理性を欠いておりバーグマンとクーパーが妥当な演技をしてもカバーできない』(NYタイムス B・クロウザー)とある。
どうやらこの『論理性』なる言葉に、この作品に陽が当たらない理由の一端が覗いているようだ。

当時のアメリカの倫理観は、健全な家庭、宗教的価値観、人種差別、フロンティア精神といったものが幅を利かせていた。
そして、映画は最も敏感に時代の倫理観に従わざるを得ないメデイアでもあった。
その中で「サラトガ本線」は自由にふるまう女性を主人公としていた。

彼女は母親の復讐のためにフランスからニューオリンズに戻ってきた行動力のある女性であり、金持ちの男と結婚するという人生目標を隠さなかった。
たばこを吸い、桃をブランデーに浮かべて泥酔するまで飲む。
逆境(といっても自らの正体が暴かれそうになるなど損得に絡んだ場合のみだが)には自ら解決に立ち向かってゆく逞しさを持っている。
よく笑い、叫び、損得の絡む相手に対しては大いに演技力を発揮する。

今現在であれば、自らの「女」を武器にのし上がるサスペンスドラマでよくあるキャラクター。
ひょとしたらフェミニストによって、女性の自立を謳いあげるドラマのヒロインにでもなりそうなキャラクターでもある。

この主人公をバーグマンは実に生き生きと、愉快そうに演じる。
その様は、彼女個人の本質にも似通っているようにも見えるし、彼女個人が協賛する女性像をなぞっているようにも見える。
これまで作品ごとに関係者と浮名を流し、「サラトガ本線」当時は「誰がために鐘は鳴る」でメロメロだったゲーリー・クーパーとの仲も継続していたバーグマンの、彼女個人としても真骨頂のことであったろう(この作品の直後、バーグマンはクーパーとの浮気を打ち切ったが)。

セルズニックにスカウトされて以降、ハリウッド流の型にはめられ(ようとし)ていたバーグマンが、ここでは自由に羽ばたいている。

クーパーとバーグマン

ワーナー製作の鳴り物入りの大作とは言え、こういった女性の自立を隠れた(隠れてはいないか)テーマとした作品を保守派のサム・ウッドがよく引き受けたものだとも思う。

主人公は魅力的な若い女性とはいえ、黒人ハーフの中年女性(白人女優が黒塗りで演じる)と小人の中年男性(名前はキュビドン!)を従者とした異形の集団の主宰者でもあった。
彼らが霧にむせぶニューオリンズ港に降り立ち、荒れ果てた屋敷(バーグマンの実母がニューオリンズを追われた事件の現場)に立ち入る映画のオープニングはホラーかサスペンスとしか形容のしようがないものだった。
これらは正統派のハリウッドメロドラマとは決して相いれない要素であった。

そういった異形のシュチエーションをバックに、自己陶酔のように自らの欲望を語りまくり、お互いに一目ぼれしたテキサス男(クーパー)との会話が時にかみ合わなくなっても、まったく気にしないバーグマンの演技を見ていると、この作品が、ハリウッドの悪しき伝統を破壊せんと企てられた、一種のカルトムービーなのではないか、とさえ思ってしまう。

少なくとも伝統的なハリウッドメロドラマ的ではない。
当時としては新しい価値観に基づき、生き生きとした女性像を描いた画期的(冒険的?)な作品だった。

クーパーの背後が小人の従者キュビドン

バーグマンが生き生きと立ち回る姿に見ほれた。
こういう作品に出合うと、これまで映画を見続けてきてよかった、とさえ思う。

さすがに児玉数夫は隠れた「名作」を忘れてはいない。

「窓」  1949年   テッド・テズラフ監督   RKO

1949年当時のニューヨークの下町。
主人公のテリー少年と両親が暮らすボロアパートには電話はなく、洗濯物は向かいのアパートに渡したロープにかけて乾かす。
非常階段をたどれば隣家のベランダを通ることになる「長屋暮らし」。
6階建てアパートにエレベーターは当然ない。
隣の建物は崩れるに任せた廃墟で、主人公ら悪ガキ仲間のあそび場だ。

こうした環境で育つ9歳の少年テリー。
父親は夜勤の仕事、母親は専業主婦という一般大衆。
テリーは夢多い少年でおしゃべりが得意、勢い虚実取り交ぜたおしゃべりにより、大人からは嘘をつくなと指導されている。

テリー少年一家の夕食

テリーが寝付かれぬ夏の夜に枕をもって風通しの良い非常階段で寝ることに。
その時に目撃する階上の夫婦の殺人。
母親に言っても夢を見ているだけといわれ、父親に言っても逆に説教される。
思いきって警察を訪ねるが、最初から本気ではない警察は形だけの調査をするだけ。

勘づかれた犯人夫婦に拉致されるテリーだが・・・。

配給会社による宣材
少年と殺人犯夫婦

RKO時代のドア・シャーリーの製作(クレジットタイトル上のプロデユーサーはフレデリック・アルマンJR)。
本作「窓」は、シャリー製作のヒット作「らせん階段」(46年)の少年版ともいうべきか。
「らせん階段」はおしの女性に迫る危機を描いていたが、本作では、話を大人に信じてもらえない少年に迫る危機を描く。

ヒッチコックの「汚名」のカメラマンだった監督のテッド・テズラフの演出は徹底的に暗さにこだわる。
ほとんどが夜のシーンだが、効果的に使われるライテイングにより画面の暗さが気にならない。
ラストのアクションシーンでは、画面に向かって崩れる階段や梁の構図が目新しい。

ノースターの作品といいながら、若手の良識派アーサー・ケネデイ(テリーの父親役)、ルース・ローマン(殺人夫婦の妻役)と、決して手を抜いてはいないキャステイングもいい。

ルース・ローマン

「やぶにらみ世界娯楽映画史」では、この作品について『ドア・シャリーのプロデユースになるものは、最低の製作費で最高の興行成績を狙うものとして有名であるが、この「窓」もその例にもれず、75万ドルといわれる安い製作費で作られている傑作である』と評されている。

戦勝国とはいえ、ニューヨーク下町の庶民の暮らしは決して明るくも、希望に満ちてもいない。
空想癖により自由に精神をはばたかせるのが好きな少年にもやがて残酷な現実が押し寄せる。
空想の世界に浸る危険性と、貧しい現実に安住することの安全性が描かれる作品。
それが「反語」としてのことなのか、「正論」としてのことなのかはわからないが。

「恐怖の一夜」  1950年  マーク・ロブソン監督  RKO

戦前からの名プロデユーサーで、MGM(メトロ・ゴールドウイン・メイヤー)にその名を残し、ウイリアム・ワイラーと組んで、「孔雀夫人」(1936)、「嵐ケ丘」(1939年)、「偽りの花園」(1941)、「我等の生涯の最良の年」(1946)などの名作をプロデユースしたサミュエル・ゴールドウインの製作。
監督には前年「チャンピオン」で華々しく世に出た新鋭のマーク・ロブソンを、脚本にはフィリップ・ヨーダンを起用した異色作。

舞台は都会の貧民窟。
犯罪者や低所得者が住むアパートに暮らす青年マーテイン(ファーリー・グレンジャー)。
彼の父は自殺したため、地区の教会の神父から教会葬を拒否される。
それ以来、教会と神父を憎むようになるマーテイン。

その後、貧しいながらも生花店でまじめに働くマーテインだが、最愛の母親は病気で臥せっており、やがて死ぬ。
盛大な葬儀で母親を見送りたいマーテインだが、雇い主も助けてはくれない。
思い余ったマーテインは神父を訪ね、信心深かった母の葬儀への援助を要求するが、すげなく拒否される。
衝動的に十字架で殴りつけ、神父は死ぬ。

マーテインと警察。
後任の若い神父(ダナ・アンドリュース)とマーテイン。
それぞれのヒリヒリとした関係が、夜の貧民窟と場末の警察署を舞台に葛藤する。

新任の若い神父(ダナ・アンドリュース)。左は善人神父の姪役の女優

貧困のせいもあり、教条的な信仰心には相いれない青年が事件を経て己の心と向き合うまでがつづられる。

貧困と無知から犯罪を犯す若きカップルが主人公の犯罪映画には「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」などがある。
本作でも主人公のマーテインには、エレベーターガールをしながらマーテインからのプロポーズを待つガールフレンドのジュリーがいる。
若く、貧しく、ナイーブすぎるマーテインとジュリーには、貧しさゆえに犯罪を起こし社会に追われる犯罪映画のカップルに似た匂いがする。

が、本作の感性は、社会に虐げられたカップルを犯罪に追い込むものではなく、またそういった若者たちに寄り添うものではない。
社会の不条理を描きつつも、虐げられたものへの社会の無理解を訴えるわけでもない。

後任の神父がマーテインにつぶやく『君が神を捨てても、神は君を捨てない』に象徴される、虐げられるものであればあるほど信仰心が大事であることを訴えるのがテーマとなっている。

とはいえ、ディテイルには監督マーク・ロブソンの鋭い感性が光っている。
どこからともなく現れて、にこりともせず無礼にふるまい、正体不明の不気味ささえ漂わせる刑事たちは、とても正義の執行者には見えない。
マーテインを拒絶する前任の神父は、貧民窟の絶望と40年間向かい合って消耗し尽くしたという理由があったにせよ、官僚的そのもので既存の宗教の非人間性を表す。
その神父が十字架の置物で殴り殺されるのは象徴的だ。

それでも信仰心にこそ救いがある、との結論は製作のゴールドウインの感性であろう。

DVD名画劇場 イタリアンネオ・レアリスモの作家たち その2 ロベルト・ロッセリーニ

イタリアンネオレアリスモと呼ばれる映画群の作家にロベルト・ロッセリーニがいる。
戦争直後に主に街頭ロケで製作した「無防備都市」と「戦火のかなた」が世界的な評判を呼んだ。

どちらも戦時中の占領下のイタリアでのエピソードを映画化したもので、そのドキュメンタルな手法のみならず、実際に戦争を経験したばかりのイタリア人俳優らによる演技が劇映画を越えたリアリテイを持っていた。
彼等の存在は雄弁に歴史的事実を物語っていた。
そのタイミングを逃さず、劇映画に記録したのがイタリアンネオレアリスモと呼ばれる作品群を撮った映画監督たちだった。

ヴィットリオ・デ・シーカと並ぶネオレアリスモの巨匠、ロッセリーニの作品を見てみる。

「無防備都市」  1945年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア

1943年の連合軍のシチリア上陸とイタリア政権の降伏の後、9か月に及ぶドイツ軍のローマ占領の時期があった。
その時の抵抗のエピソードを素材にした作品。
戦争終了直後の45年に製作された。
巻頭にはフィクションであるとのコメントがあるが、実際をもとにしたフィクションである。

当時のイタリアは、ドイツ軍とイタリアファシスト政権とパルチザンが三つ巴で勢力を競っていた。
占領者のドイツとファシストが一緒になってパルチザン及びその協力者を追いつめていた。

映画に出てくる主な人物は、パルチザンの細胞とその婚約者(アンナ・マニヤーニ)、パルチザンに協力する神父(アルド・ファブリッツイ)、ゲシュタポの将校など。

パルチザン細胞には愛人がいるが、愛人はゲシュタポのスパイとなり、パルチザンを密告する。
連行されるパルチザンに追いすがる婚約者は路上で射殺される。
捕まったパルチザンは拷問の末殺され、神父は銃殺される。

占領者に抵抗するパルチザンの意志の強さ、助ける神父の気高さ、パルチザンに協力する庶民等の虐げられながらも志に殉ずる頑強さがストレートに描かれる。

アンナ・マニヤーニ(左)とアルド・ファブリッツイ

戦争に荒廃した風景と、実際に戦争を経験したばかりのイタリア人俳優の眼差し、ふるまいはその時代のその場所でなくては再現不能なリアリテイに満ちている。

パルチザンを追いつめるゲシュタポとファシストの緊迫感。
連行された婚約者を追い、ドイツ兵をぶったたき、振り切って路上に飛び出すアンナ・マニヤーニの、手を振りかざしてトラックに追いすがり、射殺されて路上に昏倒する姿。
俳優たちのストレートな動きによる切迫感とリアリテイーは、見る者に強烈に訴える。

劇映画としての説明不足、登場人物の整理不足が感じられるが、映画はそれよりも事実をもとにしたエピソードの記録に徹している。
セミドキュメンタリー方式でニューヨークを捉えたアメリカ映画「裸の町」(1948年 ジュールス・ダッシン監督)を思わせる迫力だ。

アンナ・マニヤーニ

パルチザンを密告させるべく、その愛人をスパイに仕立て上げるエピソードもすごい。
ゲシュタポが、レズビアンでモルヒネを駆使する女を使ってパルチザンの愛人を篭絡するのだが、のちにイタリア映画などで描かれるナチスドイツの退廃性、背徳性がもはやこの時期に喝破され、表現されていたことになる。

「戦争は嫌だ」という庶民のアンナ・マニヤーニの問いかけに、「来るべき理想の社会のために戦っている」と答えるパルチザンの婚約者の言葉が、この映画のストレートさを物語っている。

「戦火のかなた」  1946年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア(MGM配給)

「無防備都市」の翌年に作られたイタリアンネオレアリスモの決定版。

シチリアに連合軍が上陸した1943年7月から、終戦を翌年に控えた1944年の冬までのイタリアにおける戦火の陰の名もなき事実を描いている。
「無防備都市」に比べて手際よく各エピソードをまとめており、映画としてわかりやすく、またスピーデイに仕上がっている。

第一話は1944年7月のシチリアでの連合軍上陸直後のエピソード。
上陸した米軍の一小隊が避難民が集まる教会へ向かう。
任務はドイツ軍の動向を探ること。
どこへも逃げ場がなく教会に集まった避難民と米軍が全く成立しない意思疎通を試みる。

米軍は一人の少女を道案内に哨戒に出動する。
イタリア語は全く喋れない、牛乳配達人から徴兵された若い米兵と少女が哨戒先で留守番をすることになる。
あくまで英語で意志を伝えようとする米兵と、イタリア語で応える少女のたどたどしくもかわいらしいすれ違いのコミュニケーション。
すっかり話に夢中になり、たばこの火をつけたばっかりにドイツ兵に狙撃される米兵。
残された少女はライフルを手にドイツ兵に向かうが・・・。
駆け付けた米軍小隊が発見したのは、殺された米兵と崖下に突き落とされた少女の死体だった。

第二話。
1943年9月のナポリ近郊。
連合軍に解放されたナポリでは戦災孤児が吸殻を拾って吸いながら「黒人狩り」を行っていた。

酔った黒人兵を連れまわしながら軍靴を盗む子供。
MPの黒人兵は英語のみをしゃべって、孤児らを従わせようとする。
一方、孤児らはわかったふりをしながら、関心があるのは米兵が持っている物資だけ。

ここでも米兵と現地人のコミュニケーションが成立しない現実がある。
黒人兵は孤児が暮らす廃墟の様子を目の当たりにして盗まれた軍靴を捨てて去ってゆく。

この挿話で、ロッセリーニは戦後の廃墟で暮らすイタリア庶民の実写カットを使っていた。
アパートの中庭なのかビルの廃墟なのか、20人くらいの女子供が集まってカメラの方を見ている、ひとりの女は鍋をドラム缶のコンロにかけてしゃもじを廻している。
ほんの数秒のワンカットだが、明らかに戦後のイタリア庶民の生活を捉えた実写のカットが、孤児が黒人兵を住処に案内する場面で挿入されていて効果をあげていた。

第二話。黒人兵と少年

第三話には、「無防備都市」でゲシュタポのスパイ役を演じたマリア・ミーキが登場し、イタリア女性の哀しさを演じて忘れられない余韻をもたらした。

1944年2月に連合軍がイタリア本土のアンツイオに上陸し、その後ローマに入城した。
連合軍を迎えるローマ市民の歓びを実写フィルムで伝える場面から第三話は始まる。

ローマ入城時に、歓迎する市民に水を所望した米兵のフレッドは、断水しているアパートに案内されてフランチェスカ(マリア・ミーキ)という娘から接待を受けた。
輝かしく明るいフランチェスカとのつかの間の邂逅はフレッドにとって忘れられない思い出となった。

9か月後、ローマにもどったフレッドは、街の女につかまり部屋に連れ込まれた。
酔ったフレッドは、街の女には全く関心をみせず、フランチェスカとの思い出を語った。
街の女はフランチェスカの6か月後の姿だった。

フランチェスカは彼女の住所を書いたメモを渡し、明日必ず会おうと部屋を出たのだが、翌日素面に戻ったフレッドはポケットのメモを「売春婦の住所だ」と丸めて捨てて任務地へ向かった。
部屋の前ではフレッドを待ち続けるフランチェスカの姿があった。

第四話は、イタリア留学時代の恋人でパルチザンのリーダーになっているルーポに再会せんと、友人とともにドイツ軍の占領地域に潜入する米従軍看護婦のハリエットを描く。

薄いワンピース姿で、壁をよじ登り、頭を下げて狙撃を避け、瓦礫の山を駆け抜けるハリエット役の若い女優が素晴らしい。
若い娘らしいほほ笑む場面もラブシーンもなく、戦火の緊張の中を厳しい顔をして走り回る姿にリアリテイがあった。

第四話。ハリエット役の女優(中央)

フィレンツエが舞台の第四話だが、ドイツ軍の占領地域を目の前にして敢えて手を出さないイギリス軍の様子が描かれる。
大戦末期のワルシャワで蜂起したポーランド軍に対し、川の対岸まで来ていたソビエト軍が静観していたことを思い出した。
連合軍にとって、ポーランド同様イタリアのパルチザンは所詮捨て駒だったということなのだろう。

第五話は、ドイツ軍の防衛ラインだったゴシックライン突破後のエピソード。
ゴシックライン周辺の修道院が舞台。

米軍の従軍宣教師が修道院を訪ねる。
物資が極度に不足し、また旧来のカソリックの価値観に愚直にとらわれる修道士たち。
訪問団の一人が、プロテスタント中最悪の異端ルター派であり、もう一人がユダヤ教徒だと知ってこの世の終わりのように驚き、忌避する修道士たちが可笑しいというか可愛いというか。

ロッセリーニは挿話のラストで訪問団長に規則(食事の時は無言)を破って夕食前の挨拶をさせる。
団長はイタリアの教会、修道院の敬虔さ素朴さを称賛する。
「神の道化師フランチェスコ」(1950年)、「火刑台のジャンヌ・ダルク」(1954年)など宗教をテーマにした作品も多いロッセリーニの姿勢が示される。

第六話は、終戦を翌年に控えた1944年冬。
ポー川の流域で戦い続けるパルチザンの姿。

ドイツ軍に包囲され補給もない。
夜間の投下で補給するからのろしを上げろとの米軍の指示により、かえってシンパの農家が襲撃され皆殺しにあう。

戦闘で降伏したパルチザンはポー川に投げ込まれて処刑される。
ここでも米軍の都合に振り回され消耗してゆく名もなき愛国者たちの姿が描かれる。

ロッセリーニの主題は「無防備都市」での占領者ドイツへの敵意から深化し、「解放者」連合軍との関係性へと向かっている。
英語しか話そうとしない米兵との間の表面的な意思疎通の困難さから、敗戦国女性のやむに已まれぬ哀しさへの無理解、愛国者たちの抵抗運動が連合国軍の都合に振り回される事実。
これらが「戦火のかなた」の主題になっている。
唯一、希望が持てるエピソードとして、新旧のキリスト教徒の融合の可能性を謳った第五話のエピソードがある。

「ドイツ零年」  1948年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア

戦後間もないベルリンが舞台。
ドイツ人俳優を起用しオールドイツ語ですすむ。
爆撃と市街戦で瓦礫の山となったベルリンの街でのオールロケーション。

主人公は12歳の少年エドモンド。
アパートに病弱の父、戦争犯罪者の追求を恐れて家に潜む兄カール、父の面倒を見ながらキャバレーで外国兵から煙草をもらって金に換えて生計を支える姉エヴァの4人で暮らす。

アパートの住人は、避難民や没落家族などの戦争弱者であり、さらに電力やガスの供給統制によって生活苦を強いられている。
インフレ、配給制度、闇市経済、タケノコ生活は日本の戦後同様。
また、カールのように「登録」していない国民は配給を受けられず、働くこともできない。

エヴァが毎晩外国兵にもらうたばこ数本が20マルクになり、ジャガイモが2キロほど買える。
全くわずかな稼ぎだが、エヴァは外国の捕虜収容所にいる恋人のためにもそれ以上のことはしない。

エドモンドは労働許可がないのに墓堀りの仕事に行って追い出される。
路上では行き倒れの馬に人が群がり、馬の肉を切り取ろうとする。
路面電車と地下鉄こそ走ってはいるが、街は壊れた建物と瓦礫だらけ。
親を失った子供は群れて生きるしかない。

ロッセリーニのカメラはベルリンの街頭で俳優たちを動かし、通行人たちは何事かとカメラに目を向ける。
「戦火のかなた」で実写カットを使い、現実の緊張感を表現した手法と同じ発想である。
また、一つの芝居をカットを切らずにカメラは追う。
俳優の動きを追い、時には行ったり来たりするカメラは、場の緊張感を途切れさせない。

エドモンドの周りにはかつての恩師なども現れる。
かつての国家社会主義者(ナチス)で今は失業者の恩師は、残党と思われる老人に忠誠を誓いつつ、子供たちを使って怪しげな商売をしている。
ヒトラーが自殺した総統官邸を見物にやって来る外国兵たちに、その場でヒトラーの演説のレコードをかけて金を得るというもので、エドモンドもそれで200マルクを稼ぎ、恩師から10マルク貰う。

エドモンドとその家族。左から兄、エドモンド、姉、父

恩師の周りの孤児たちは、地下鉄で婦人にインチキ石鹸を売りつけ、石鹸の香りを嗅がせるだけで金を奪って逃げる少年とか、その少年とくっついている大人びようとする少女などがいて、演技なのか実態なのか、少年少女たちの存在感が、痛々しくもまた、生生しい。

ませた少女の孤児とエドモンド

映画はエドモンドの苦悩を通して戦後ドイツの庶民レベルの生活苦の不条理さを告発するとともに、思春期の少年の自立へ向けての苦悩も描く。
非常時の逆風だらけの中での自立だから、まったく大人や世間の関心も理解もなく、少年の人生そのものが破滅してゆくのだが。

まずは戦後ドイツの壊滅的な状況の記録として貴重な作品だということ。
その時期に少年期を迎えることはまさに悲劇であったということ。

「靴みがき」「自転車泥棒」のイタリア人子役もそうだったが、本作のエドモンドを演じる少年の演技は特筆されていい。

宣伝広告(「映画の友」1952年7月号掲載)

DVD名画劇場 イタリアンネオ・レアリスモの作家たち その1 ヴィットリオ・デ・シーカ

イタリア映画の歴史を見るとき、世界的にその名を残すのは第二次大戦の戦中戦後にかけてのネオ・レアリスモと呼ばれる作品群の登場を待たねばならない。

戦前には全盛期を迎え、歴史に残る名匠・鬼才が様々なジャンルで腕を振るったドイツ、オーストリアやフランス、あるいはロンドンフィルムという制作会社によって国際化していたイギリスには、イタリア映画は後れを取ったようだった。

しかしながらイタリアには、1930年代にチネチッタという映画都市が作られ、映画製作、教育の中心として今に至るまでイタリア映画に多大な貢献をしている。
チネチッタは戦前のドイツにおけるウーファ、そしてハリウッドのスタジオ群と並び称される映画製作の本拠地だが、ウーファが営利に準じた会社組織であるのに対し、イタリア政府肝いりの施設として、国立映画大学が併設されてもいた。

1939年に始まった第二次世界大戦に、ドイツ、日本と軍事同盟を結んでいたイタリアが参戦したのが1940年。
北アフリカや東部戦線にも派兵していたイタリアだが、1943年に連合軍のシチリア上陸を許すと、ムッソリーニに代わる政権が連合軍に降伏し、連合軍側での参戦を表明する。
ただしイタリア国内での戦いは、45年の第二次大戦終結まで、ドイツ軍と連合軍との間で繰り広げられていた。

当初はファシスト党を率いるムッソリーニが華々しく登場したイタリアだったが、旗色が悪くなると政権が交代し、また反ファシストのパルチザンが国内群居するなど混とんとした状況。
戦時中のイタリア庶民の生活は、例えば「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年 ルキノ・ヴィスコンテイ監督)に描かれたように、素人の娘が街で生活費のために体を売ったり、「二世部隊物語」(1951年 ロバート・ピロシュ監督)に描かれたように、上陸した日系アメリカ兵のもたらす食料と交換に家の娘を差し出すような状況だった。

このような敗戦国イタリアの現状を、ドキュメンタルな手法でとらえたのがネオ・レアリスモと呼ばれる、文学、映画の作品群。
映画では「靴みがき」(1946年)、「自転車泥棒」(1948年)、「無防備都市」(1945年)、「戦火のかなた」(1946年)などが世界的に有名。
作ったのはヴィットリオ・デ・シーカ、ロベルト・ロッセリーニなどで、ヴィスコンテイの初期作品もその範疇とされる。

今回の名画劇場では、デ・シーカの戦中戦後の作品から4本を選んだ。

「金曜日のテレーザ」 1941年  ヴィットリオ・デ・シーカ監督  イタリア

イタリアが枢軸国側で第二次世界大戦に参戦しているときの1941年の作品。
チネチッタ撮影所で撮られている。
戦争の直接、間接の描写はなく、ハッピーエンドの人情コメデイ作品である。

主人公は小児科医(ヴィットリオ・デ・シーカ自作自演)。
患者は少なくお手伝いさんにも愛想をつかされる人物。
借金だらけで、医院を兼ねる建物は差し押え寸前。
レヴューの踊子の愛人(アンナ・マニヤーニ)がいて、やかましい。

金持ちの親父は直接の援助はしてくれないが、孤児院の嘱託医の職を紹介してくれる。
孤児院は18歳までの女子ばかりが暮らす。
そこで医務室の助手をするテレーザ(アドリアーナ・ベネッテイ)という18歳の女の子と主人公が親しくなるのだが・・・。

戦時中の映画とは思えない軽いタッチとテンポの良さで始まる作品。
最後までもの調子は変わらない。
女性とみれば気安くタッチし、愛想を振りまく主人公。
気はいいのだが最後まで金には縁がなく、医院はいよいよ差し押さえ。

主人公を取り巻く人物がオカシイ。
まずマイペースですっとぼけた執事。
天然で惚れっぽい娘を溺愛する金持ち一家。
主人公は金持ちの娘とあいさつ代わりのキスを下ばかりに婚約者にされる。

孤児院のオールドミスの教師群もイタリア式。
厳格すぎず、どこか人間性を漂わせるのは国民性か。
孤児の女の子たちのわんぱくぶりも楽しい。
すれ違いと、お互いの誤解をテンポよく挟みながら人間関係をハピーエンドに収束させてゆくシナリオも、古さを感じさせない。

アンナ・マニヤーニは数シーンのみの登場。
レヴューのリハーサルのシーンでのやる気のない演技がケッサク。
マニヤーニの背後には足のきれいな踊り子をずらりと並べるというサービスカットでもある。
テレーザは真面目な乙女だが、雨に濡れて主人公宅を訪問した後に、ガウンを着て肩を出したり、ストッキングを履くなど、大人しめだがお色気カットは、これもデ・シーカのサービス精神か。

テレーザの身の上ははっきりしないが、貴族の種か、大俳優の子女かをうかがわせる。
身分の高さにも関わらぬ苦労という設定であれば、戦争という非常時を象徴するエピソードとなる。
まだまだ街は廃墟もなく、金持ちは存在している。
この時期の作品は、大戦緒戦ののんびりムードが支配的な時期のイタリア映画として貴重。

ヒロインのアドリアーナ・ベネッテイは、イタリア女優の一つのタイプである正統派美人。
シルバーナ・マンガーノのような。

「子供たちは見ている」  1944年  ヴィットリオ・デ・シーカ監督  イタリア

ヴィスコンテイが「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)で描いた男女の情欲のどうしようもない世界。
イタリアの片田舎のドライブインを舞台に、流れ者の男と人生で安食堂にたどりついた女との身もふたもない愛情を描いた作品だった。

1944年、戦争真っただ中のイタリアで同じく男女のどうしようもない情欲を描いたのがデ・シーカ。
デ・シーカの手法は子供の目を通したことと、舞台をローマの中流階級が暮らす高層アパートとしたこと。
「子供たちは見ている」の舞台は、家政婦がいる中流家庭。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の片田舎のカフェとは舞台が違う。
しかしながら、庶民が主人公の場末のカフェであろうが、ローマの高層アパートに住む中流階級だろうが、本質は全く変わりはないのが男女の情欲だということがよくわかる。

会計士の夫(エミリオ・チゴリ)と5歳くらいの一人息子(ルチアノ・デ・アンブロジオ)と暮らす一見貞淑な主婦ニーナ(イザ・ポーラ)。
彼女には年下の愛人(アンドリアーノ・リモルデイ)がいて、そいつが現れると一人息子のことなどどうでもよくなり、再三家出を繰り返す。
いったんは帰ってきて、息子のためにやり直すことを許される。

家族でやり直すためのリゾート地で男と出会い、またまた出奔。
絶望した夫は自殺する。
寄宿舎に預けられた息子に喪服で面会に行くニーナだが、幼い息子はニーナに背を向けて去ってゆく。

ニーナと愛人

時代背景としての戦争は、例えば高層アパートのエレベーターが下りの場合に使用自粛になるということで表される。
そのほかでは辻の人形劇の観衆に水兵や兵隊の姿があるくらいか。

高層アパートが建ち並ぶ一角や、ヨットが浮かび、水着姿の金持ちたちがはしゃぐリゾート地に戦争の陰はない。
時代描写をあえて避けたのだろうデ・シーカはひたすら子供の目で、大人の勝手な行動を描く。

母親の出奔後、息子を預けようと訪れた母の姉の元。
姉はお針子数人を抱えるブテイックの仕事をしているが、お針子は男の噂ばかりだし姉にもパトロンのような親父がいたりする。
それならばと息子の祖母の家へ行けば、子守の少女は夜中に部屋を抜け出し男とランデブーの末、頭に植木鉢がぶつかっての大騒ぎ。

人間らしすぎる人々のふるまいに翻弄されるのは、父親と息子。

父と息子

子供の目線で描くことが目新しいし、デ・シーカはまずまずうまくやっている。
全編を通して軽いムードはさらさらなく、重苦しい人間の業のようなものが画面を覆い、緊張感を漂わせる。

戦時中とはいえ、戦争の影が感じられないイタリア国民の生活の記録としても貴重だし、ネオ・レアリスモへ向かうデ・シーカのキャリアの一環としても貴重な作品。

「靴みがき」  1946年  ヴィットリオ・デ・シーカ監督   イタリア

デ・シーカの戦後第一作にして、イタリアンネオ・レアリスモの代表作の一つといわれる作品。
戦後のローマで靴磨きをしながら生活する少年二人の運命に翻弄される姿を描く。

子供を使ってその視線で社会や大人たちを描くという手法は、デ・シーカ前作の「子供たちは見ている」と同じで、デ・シーカ得意の手法なのかもしれない。

主人公の少年たち

イタリア国内で戦争が終わったのは、ドイツ軍が連合軍に降伏した1945年で、第二次大戦の終戦と同じ年。
イタリアでは43年の連合軍シチリア上陸からほぼ2年間、国内で地上戦が行われていたことになる。
といっても沖縄やサイパンなどでの地上戦とは異なり、連合軍の相手は主に山岳地帯に防御線を敷いたドイツ軍であり、対日本の戦闘のように連合軍が住民を巻き込んだ、殲滅戦ではなかった。
また、ローマなどの主な都市は、歴史遺産の保存の観点からも市街戦の舞台にはならなかった。
さらに、イタリアは43年の時点で政権が交代して連合国側に立っており、また国内のパルチザンが連合軍と協力してドイツ軍に抵抗するなど、日本のように最後まで全国民が一致して鬼畜米英でまとまっていたわけではなかった。

とはいっても国内で戦闘が行われ、また国外にも自国軍を派兵していたのは事実であり、多くのイタリア人戦死傷者が出ており、結果、国内に未亡人や戦争孤児が多く、町や村も荒廃していたのは事実だった。

本作「靴みがき」では、街頭ロケのシーンは多くはなく、街の荒廃や人々の困窮が記録として残されることは少なかったものの、出演している俳優や子供たちから醸し出される、戦後の開放感だったり、戦争で受けた癒しようのない傷がこの映画の重要なファクターとなっていた。

馬に乗るのが好きで、馬を買うことが夢の仲良し二人は街頭の靴磨きで稼ぐ少年だ。
一人は孤児、もう一人には母と兄がいる、がその兄は米軍物資の闇売買などで稼ぐグループの下っ端にいる。

二人は稼いだ金で夢と希望の象徴である馬を買うことができたが、兄の指図で米軍の毛布の密売を手伝ったことから警察に連行され、背景を探られる。
兄につながる事件の背景については黙秘を誓い合う二人。
ここら辺から映画は単なる靴磨きの少年たちの悲惨な現状と社会の荒廃を直接描くことから、逆境にも関わらない少年たちの友情とその友情を引き裂くかのように次々と訪れる試練を描き始める。

少年たちが収監される未決の少年刑務所でのエピソードが延々と続く。
所内のスパイのような少年に騙され、事件の背景を白状させようと策を弄する大人たちに騙され、翻弄されつつも二人の友情と硬い心情は保たれる。

ドキュメンタルなイタリア国内の荒廃と国民生活の悲惨さについては直接的な描写は少ない。
が、たとえば裁判所で実刑を食らう少年たちを見守る少女や母親たちの表情は、単なる芝居ではなく、まさに1年前まで国内の戦争に苦しんできた庶民の忘れられない痛みに裏打ちされたものになっている。
デ・シーカの狙いはあくまで劇映画を通しての社会の現状を訴えるものだが、出ている俳優たちの1946年当時の表情を記録しただけでもこの映画の意味がある。

デ・シーカらしいユーモアもあった。
刑務所に監査人がやってきて給食の味見をする、スープを掬い、パンをかじってOKを出す監査人に炊事係の老人がムッソリーニ式の敬礼をする、おもわずムッソリーニ式の敬礼を返す監査人。
お互い去年まではイタリア国軍の軍人だったりしたのだ、というデ・シーカの自虐描写でもあった。

いつも思うのはイタリア人の演技の自然なうまさ。
主演の二人をはじめ素人俳優をたくさん使ったであろう本作で、演技上の違和感をほとんど感じなかった。
イタリア映画の素人俳優(エキストラも)は芸達者だ。

「自転車泥棒」  1948年  ヴィットリオ・デ・シーカ監督  イタリア

主人公は妻子を持ち、公営住宅(5階建てアパート)に住む失業者。
職安で何とか市役所のビラ張りの職を見つけて帰ってくる。

妻は広場の水くみ場からバケツ2杯の水を汲んで部屋へ運ぶ。
1948年当時のイタリア都市部。
郊外にはすでに5階建てのアパートが並んでいる。
部屋数は多く、一所帯分の広さは日本の2LDKに比べると倍ほどもありそうだ。
このアパートは、戦後の復興住宅的なものなのかもしれない、水道すら完備されていないのだから。

希望溢れる初出勤の朝の主人公親子

デ・シーカの戦後レアリスモ第1作「靴みがき」と同じく、素人を主役(主人公夫婦と息子)に配している。
タイトルバックの暗いテーマ音楽、終始一貫して汗じみた一張羅姿の主人公、とデ・シーカは意識してイタリア戦後社会の混乱と、貧しいものの不運を強調する。
脚本は「子供たちは見ている」「靴みがき」のチェザーレ・ザヴァッテイーニ。

自転車を持っていることを条件に得た仕事の間に自転車を盗まれる主人公。
そこからの追跡はイタリア人らしく徹底している。
友人とともに街の泥棒市に行き、分解されて売られているかもしれない自転車を探す。
山のように売られている盗難自転車とその部品。
ここは日本でいうと闇市のようなものなのか。

次いで主人公は犯人と接触していた老人の後をつけ、教会の救護活動に入り込み、ミサを混乱させる。
老人には逃げられる。

とうとう犯人の若者を見つけ、スラム街に入り込む。
若者が逃げ込んだ売春宿を叩きだされ、スラムの住人に囲まれる。
警察を呼ぶが証拠がなく、住人の罵声を浴びながら退散する。

自転車を探す親子

主人公が自転車を追う中で巡り合うエピソードには、イタリアの戦後の混乱、不平等、そして庶民たちの意識のズレ(主人公の妻らは街のインチキ占いおばさんのご神託を求めて列を作るなど)までも描き込まれている。

主人公の、そして映画そのものの数少ない救いが主人公の息子の存在。
「子供たちは見ている」以来のデ・シーカ得意の子供の演出が冴える。
何せ、健気で頑張り屋なのだ、主人公の息子役の子は。
映画を通して、楽天的な人間味を感じることができるのは、イタリアの国民性だけではなく、この子役の存在が大きかった。

子役のエンツオ・スタヨーラ。この作品の後は20歳まで俳優を務めた
主人公の妻を演じるリアネッラ・カレル

デ・シーカは「靴みがき」と同じく、現実社会の悲惨さをドキュメンタルに撮るのではなく、悲惨な中の人間性をドラマを通して描こうとしている。
街頭ロケや街頭の実写シーンの割合は「靴みがき」より多く、戦後イタリア社会の記録としても貴重な作品。
満員のボンネットバスに群がって通勤する人々などの混乱状況の活写とともに、サッカー場に自転車で集まる人々など復興に向けての社会の活気が映し出されていた。