女優パトリシア・ニール その1 「真実」

パトリシア・ニールというアメリカ人女優がいる。
1926年生まれ、南部のテネシー州出身。
年代的には戦中派(日本でいう昭和元年生まれ)。

地元の大学を中退して舞台女優を目指す。
1946年にブロードウエイデヴュー後、新人賞、トニー賞を受賞。
1947年にワーナーブラザーズと7年契約を結びハリウッド入りした。

ハリウッド入りしたパトリシア・ニールは第二のグレタ・ガルボとして売り出されたが、ヒット作に恵まれず、むしろ「摩天楼」(1949年)で共演したゲーリー・クーパーとの恋愛ゴシップを最大の話題としてハリウッドを去った。

パトリシア・ニールが再び映画で脚光を浴びるのは、「群衆の中の一つの顔」(57年 エリア・カザン監督)、「ティファニーで朝食を」(61年 ブレイク・エドワーズ監督)、「ハッド」(62年 マーテイン・リット監督)などに出演してからのことになる。

この度、渋谷のシネマヴェーラの特集で「摩天楼」と「破局」(50年)が上映された。
いずれもパトリシア・ニールがワーナーブラザーズと専属契約を結んだ期間中の作品である。
また、筆者の手元には今までに集めたパトリシアの出演作のDVD(「太平洋機動作戦」「地球の静止する日」そして「ハッド」)がある。

ここは「早すぎた演技派女優」パトリシア・ニールを集中して見ようではないか。
まずは買ったまま積読していた彼女の自伝「真実」を紐解いてみよう。

「パトリシア・ニール自伝 真実」 1990年 新潮社刊

仮にもハリウッド女優と呼ばれたスターがこんな赤裸々で正直で自省的な伝記を書くものなのか。
というのが読んでいる間の感想。

キャサリン・ヘプバーンの自伝「Me」も、かなりざっくばらんで、あけすけだったが、映画界入りから引退まで「勝ち組」で通した、ワスプ出身の医者の娘ケイト(キャサリンの愛称)と違い、南部出身で何の後ろ盾もないパット(パトリシアの愛称)が、決して順風満帆とはいえなかった半生を、ここまでさらけ出すには勇気がいったことだろう。

クーパーとの恋に破れ、作品のヒットもなく、契約半ばにしてワーナーを去り、その後しばらく映画界を離れていたパトリシア。
夢である結婚をし、待望の出産、舞台活動再開、映画界カムバック、子供を亡くし、妊娠中に脳溢血、奇跡の回復と離婚、クーパー亡き後の妻・娘との和解、修道院・・。
劇的な人生の変遷なくして到達しえない境地がこの自伝にはある。

自伝はまた、ブロードウエイ時代、ハリウッド時代の活躍と栄光にも触れてはいるが、パトリシアの人生の目的の一つでもあった「家族を生む」ために、愛してはいないロアルド・ダールと結婚し、5人の子供を産み育てる間の記述がボリューム、内容共に圧倒的だ。

そこには、女優を目指す目立ちたがりでわがままな、一人の南部出身の女性の叫びとともに、一般的な女性の幸せを願い自らの人生でそれを実現させようともがく「戦中派世代」の伝統的なアメリカ人女性の偽らざる姿がある。

ゲーリー・クーパーとパトリシア・ニール

脳溢血で倒れ、回復する中でゲーリー・クーパーの娘マリアと文通をし、会う。
マリアからクーパーとの間に子供ができたのは本当か?と聞かれ、本当だと答えると「すごく楽しかったでしょうね、あなたが私の新しいお母さんになっていたら」とマリアが言う。
パトリシアとクーパーの哀しい愛が成就した瞬間だった。

人生で唯一愛した男、ゲーリー・クーパーとの愛を、紆余曲折がありながらも全うできたパトリシアは、やはり選ばれた人間なのだろう。

この自伝の根底を貫いているのは、自分が自分らしくありたいとの一念。
そしてたどりついたのが、個人の執念や願望を越えたところに「神のみ心」とでもいった普遍的な愛の世界が広がっているだろうことへの素朴な信仰心とでもいうべき境地。
彼女は多くを求めず、しかし自分の信ずるところは徹底してこだわり、結果すべてを得た、のかもしれない。

なお、映画時代についての記述が少ないとはいえ、ウィキぺデアのフィルモグラフィーには載っていない映画作品(「ステキなパパの作り方」1951年 ダグラス・サーク監督)についての記述もあり、パトリシア自身の活動の記録という意味でもこの自伝は貴重である。

自伝「真実」裏表紙

「映画の友」 1951年5月号

筆者が神保町の古本屋で見つけて購入。
パトリシア・ニールが日本の映画雑誌の表紙になっているのが珍しかったので。

「映画の友」1951年5月号

51年といえばパトリシアが鳴り物入りでワーナーと専属契約を結んでいた頃。
デヴュー2作目の「摩天楼」は日本での評判が良かった。
またパトリシア自身が朝鮮戦争兵士の慰問の際に日本に立ち寄ったこともあり、売り出し中の新進女優として注目されていたことがうかがえる。

雑誌の本文中にパトリシアに関する記事はないが、読者や編集室に送られてきた(ファンレターの返信に同封された?)サイン入りブロマイドの紹介コーナーに、パトリシアのものが載っている。
表紙ともども今では貴重なものだと思う。

当時のパトリシア・ニールのサイン入りブロマイド

「マイベスト37」 淀川長治著 1991年 テレビ朝日

テレビ朝日の「日曜洋画劇場」放送25周年記念出版。
淀長さん映画人生80年の書き下ろし。
なんとその37人の中にパトリシア・ニールが含まれている。

淀川長春「マイベスト37」より

淀長さんとパトリシアの最初の出会いは、49年の日本でのインタヴュー。
第一ホテルに逗留中のパトリシアに「映画の友」編集人の淀長さんが取材に行ったもの。
「高飛車な生意気なところが爪の垢ほどもなかった」というのが、この時の淀長さんのパトリシアに対する印象だった。

あけて1951年、わが淀長さんは「映画の友」特派員としてハリウッドを訪問。
なんと淀長さんのハリウッド来訪を知ったパトリシアから、20世紀フォックスのスタジオに呼び出しがあって淀長さんはびっくり仰天。

宣伝部長に案内された淀長さんが、フォックスの食堂で待つと、現れたパトリシアは厚手のぱさぱさしたスカートにサンダル履き。
スパニッシュオムレツとミルクを注文した。

同じものを注文した淀長さんが、いつもの習慣でミルクに砂糖を入れると、「あんたケーキでも作るの!」とパトリシアが叫んだ。

タイロン・パワーと共演の「外交特使」を撮影中だったパトリシアは、三つ隣のテーブルにパワーがいるにもかかわらず「(パワーは)大根よ」といったので淀長さんが慌てて、そんなことここで言ったら首になりますよ、と言ったら。
パトリシアは声をたてて笑いながら「そうなったら舞台に戻るわ」とウインク。

淀長さんが思い切ってクーパーとのことを聞くと、パトリシアは顔を赤くして椅子からずり落ちそうな格好をしたが、「ノー」とは言わなかったと。
淀長さんさすがのナイスクエスチョン。

「群衆の中の一つの顔」より

なんと幸福な淀長さんと若き日のパトリシアの会話だろう。
淀長さん一流のだれにでも可愛がられるオープンな性格もさることながら、二人の波長が合うというのか。
二人ともこれ以上ないイノセントというべきなのか。

ざっくばらんでチャーミングなパトリシア・ニールの人となりが会話に表れていて、貴重な記録というほかはない。

ロバート・アルトマン傑作選より「雨にぬれた舗道」

長野相生座での「アルトマン傑作選」に駆け付けた。
アルトマンといえば70年代アメリカ映画のアイコンの一人。
「マッシュ」(70年)と「ロンググッドバイ」(73年)しか見ていない筆者だが、作品とともにアルトマンの名前に印象は深い。
当時は次々と新作が発表され話題になっていた監督だった。

この度の傑作選は、コピアボアフィルムの配給。
セレクトは「雨にぬれた舗道」(69年)、「イメージズ」(72年)、「ロンググッドバイ」の3本。
アルトマン初期の、今では上映機会がほとんどない作品たち。
配給のコピアボフィルムは、相生座の支配人によると「旧作の再輸入を積極的に行っている会社」とのこと。

相生座の上映案内板より

「雨の中の舗道」 1969年  ロバート・アルトマン監督 パラマウント

レアな作品を見た。
懐かしくもマイナー感漂う、70年代のアメリカ映画の匂いがした。

70年代前後、ベトナム戦争の疲弊感もあり、時代に敏感な当時の新進作家たちが、アメリカに代表される現代社会を批判的に描くようになった。
それまでのハリウッド映画では企画にも上らなかった社会の現実や人間の孤独、女性や障碍者、少数民族などの立場に立った作品が発表された。
「イージーライダー」を先頭に「泳ぐ人」、「愛はひとり」、「ジョンとメリー」、「ナタリーの朝」などが次々と発表された。
描かれたのは排除されるヒッピー、ひとかどの社会人の孤独、都会の女性の孤独、若者同士の虚無なつながり、底辺の若者の自立、だった。

ロバート・アルトマンはテレビでデビューし、「雨にぬれた舗道」は長編劇映画の3作目。
テーマは女性の心理、それも経済的にも身分的にも何不自由ない、まだ若い女性の精神的、性的な葛藤。
アルトマンは、この作品の後「マッシュ」で大ヒットを飛ばし、人気作家となる。
その後、女性心理を描いた「イメージズ」(封切り時は日本未配給)、「三人の女」(77年)という作品を撮っており、こういったテーマに重大な関心があることがわかる。

主演はサンデイ・デニス。
舞台出身の実力派だが、筆者には「愛のふれあい」(1969年。小さな恋のメロデイ」のワリス・フセイン監督作品ということで注目した)、「おかしな夫婦」(1970年。愛川欽也の吹替で忘れられない?ジャック・レモンとの共演)でリアルタイムに接しており、コメデイもできる愛らしい女優との好印象を今に至るまでもっていた。

サンデイ・デニスというこの女優さん、愛らしいコメデイエンヌというよりは、例えば「結婚式のメンバー」(52年 フレッド・ジンネマン監督)で実年齢26歳で12歳の少女を演じ、舞台演劇そのままにしゃべりまくって観客を置き去り?にしたジュリー・ハリスが、商業映画「エデンの東」(55年 エリア・カザン監督)では全観客を味方につけるヒロインに化けたように、いかようにもヒロイン像を演じ分けられる、舞台出身の実力派女優なのだった。

サンデイ・デニス

映画は、サンデイ扮する主人公が雨の日、マンションの窓から、公園のベンチで濡れそぼる若者を見掛けたときに始まる。
マンションに連れ込み世話をし始め、食べさせ、泊まらせる主人公。
身は固く、自分に言い寄る初老の医師のことは生理的に拒否している主人公は、初老の金持ち階級とのパーテイくらいしかやることがなく、心底退屈しており、モノを言わない若者相手に嬉しそうに独白状態でしゃべり続ける。

若者は低層階級の長男で、姉との待ち合わせのために公園のベンチに座っていただけだということがわかる。
自問自答のような独白が続いた後、いよいよ若者に迫ろうとする主人公だが若者には全くその気はない。
やがて残酷な幕切れを迎える。

「雨にぬれた舗道」よりサンデイと若者

ほぼサンデイ・デニスの独演(連れ込んだ若者そのものが彼女の幻影だったという解釈も成り立つ。映画はそうは描いていないが)による女性の内面の世界が描かれる。
性的な葛藤がテーマの一つだが、アルトマンは即物的な描写はしない。
映画のシチュエーションが、独身女性が名前も知らない若い男を連れ込んで、飼い続けるというとてつもなくインモラルなものにもかかわらず。

サンデイがさんざん独りよがりの挙句、若者に葛藤をぶつけた瞬間に、彼が言葉を発するシーンがある。
後半の場面の急転であるが、アルトマンは映画的な盛り上げを否定し、あっさりとした撮り方をする。
ショッキングではあるが観客の期待には応えていない。

サンデイの演技力と存在感が辛うじて画面を支えてはいるが、アルトマンの狭量な世界観が映画のふくらみを狭めていた。

70年代前後は価値観の転換期。
「女性の孤独」「性的な葛藤」を描くブームの中で企画が通り、パラマウントが配給することになった作品だが、意あって言葉足らず、公開後はほぼお蔵入りの扱いとなったのもしょうがない。

アルトマンを研究するについては貴重な作品だが、筆者にとっては見るつもりだった「イメージズ」の見る気をうせさせた作品。
同じようなテーマで、手法がより複雑奇怪に進化している作品を見るのはしんどいから。

アルトマン傑作のチラシより

DVD名画劇場 フランス映画黄金時代② ジャック・フェデーとフランソワーズ・ロゼエ(補遺)

ジャック・フェデーはトーキー以降、戦前にフランス映画を3本撮っています。
本ブログでは、そのうち「外人部隊」と「女だけの都」を紹介しましたが、残り1本「ミモザ館」を見る機会がありました。

「ミモザ館」 1934年  ジャック・フェデー監督  フランス

フェデーがハリウッドから帰って「外人部隊」を撮った後の作品。
この後に「女だけの都」を撮ってパリを離れる。
「ミモザ館」を含めた戦前のトーキー3本は、いずれも夫人のフランソワーズ・ロゼエを主演クラスで起用している。

死に瀕した息子と母(フランソワーズ・ロゼエ)

ミモザ館という安宿をニースで営む夫婦がいる。
夫は公営ギャンブル場の管理職で、ギャンブルデイーラーの養成学校の講師も務める。
夫婦には養子がいて特に母親(ロゼエ)は息子を可愛がっている。

時がたちパリに巣立った息子(ポール・ベルナール)は、詐欺師や売春婦がたむろする安宿を根城に、盗難車を転売している。
賭け事には眼がない。
母親が心配してパリにやってきて、折からギャングのボスに焼きを入れられた息子を看病する。
息子はボスの情婦(リズ・ドラマール)に手を出したのだった。

息子は母の説得でニースのミモザ館に帰り、車販売の仕事に就く、が、ボスの情婦が忘れられない。
やがて情婦もミモザ館で息子と暮らすが、庶民の暮らしで我慢できる女ではなく、母とも全く合わない。

母は息子を取り戻すため情婦の居所をボスに伝え、やってきたボスが女を連れ去る。
息子は落胆し、また会社の金を使って賭博で穴をあける。
息子は自死して母の見守る中、その生涯を終える。

母と息子の葛藤

「外人部隊」は社会人としてダメダメの男が、パリで別れた女を生涯忘れられない、という作品だった。
「ミモザ館」の息子も、ぜいたくで浮気性で華美なパリの女を忘れられず人生が破滅する。

どうやら、浮気性の女へのダメな男の片思い、というのがフェデー好みのシチュエーションのようだ。
ぜいたくで、華美で、浮世離れして、だからこそ魅力的な女性と、何度も同じ失敗を繰り返すが人間味はある男の出会いこそが、フェデー劇のパターンの一つのようだ。

フェデーの狙いは、弱い人間同士がどうしょうもない己の業に振り回される様を、ある時は同感を込めてある時は淡々と見つめること。
そこでは倫理観や宗教観に基づく価値判断はない。
フランス映画らしい「人間主義」が貫かれる。

さらにこの作品では、ロゼエ扮する母親の息子への愛という禁断のシチュエーションが加わる。
これこそ無償のといおうか禁断のといおうか、周りが何といっても突き進むタイプの愛情だ。
この作品でも破滅に瀕する息子に妄信的な愛をささげる母親をロゼエが演じる。
一方息子は息子で、出て行った女を死ぬ間際でも忘れられないのが、フェデー流人間描写の粋なのだが。

フェデーとシャルル・スパークによるダイアローグの名調子を、舞台出身の名優たちが名演技で応える。
フランス映画のまさに黄金時代の作品。

フェデーについての文献は手元にないが「天井桟敷の人々」の名女優、アルレッテイの聞き書きがある。
この中にフェデーと「ミモザ館」についてのアルレッテイの言葉がある。
「ミモザ館」での、詐欺師と売春婦が集うパリのカフェ兼安宿のシーンで、息子を待つフランソワーズ・ロゼエの隣で食事をしつつ会話を交わす夜の女の役でアルレッテイが出演しているのだ。

アルレッテイ曰く「フェデーは天性のプレイボーイなの。頼りがいがあってエレガントで、それはもう魅力いっぱいなわけ。(中略)完全主義者で厳格この上ないけれど、常にエレガンスをまとっている人。(中略)フランソワーズ・ロゼエは優しい人で、いつも役者たちの面倒を見ていたわ。」。

フランス映画黄金時代の巨匠、の歴史的位置づけには異論がなかろうが、今では忘れられてしまった感のあるジャック・フェデー作品。
ヒリヒリとした人間の描写に重みとフランス映画の歴史が感じられる。

家城巳代治と「弾丸大将」

家城巳代治は筆者が敬愛する映画監督です。

戦前に松竹に入社、渋谷実に師事し、1944年に監督デヴュー。
以降、松竹で4本を監督。
戦後は松竹の組合委員長を務め、1950年にレッド・パージの対象となり松竹を退社。
その後は、主に独立プロで「雲流るる果てに」(1953年)、「異母兄弟」(1957年)など社会派の力作を発表した。1976年死去。
妻は女優でエッセイストでもあった家城久子。

筆者は家城監督作品のうち「雲流るる果てに」、「ともしび」(1954年)、「姉妹」(1955年)、「胸より胸へ」(1955年)の4本を見ていた。
いずれも松竹レッド・パージの直後の独立プロ作品だ。

独立プロ作品とはいいながら「雲流るる果てに」の主演は鶴田浩二、「ともしび」には香川京子、「姉妹」には中原ひとみと野添ひとみ、「胸より胸へ」には有馬稲子が出ている。
いずれも邦画メジャー所属の俳優、女優だったりする。
これらの作品、「ともしび」を除けば配給が松竹、東映などメジャーによるもの。
パージされたとはいえ、家城は松竹で監督昇進した実力者であり、配給、配役の結果を見るにつけ、メジャー作品並みの扱いである。

妻の久子によるエッセイ「エンドマークはつけないで」が手元にある。
内容は家城と久子の出会いと結婚から死別までの間、久子自身の生き方(俳優学校への入学と女優活動、脚本執筆、子供が生まれた後の地域活動、家城プロの設立)を中心に、夫家城の松竹退社後の映画製作の苦労や文化人としての活動ぶりを愛情豊かにつづったもの。
家城監督については、その知識旺盛で誠実な生き方と映画撮影時の厳しさが活写されている。

家城監督と久子夫人

「雲流るる果てに」は特攻に没した学徒兵の手記をもとにした作品。
鶴田浩二が願っての主演。

作品は、特攻に臨む学徒兵の苦悩を中心に、毎日女郎屋に入り浸る仲間、脱走を誘った学徒兵が出撃した後は抜け殻のようになる女教師(若き日の山岡久乃)などの人物像を描写。

当時の教条的左翼史観からすると「好戦的映画」とも評されたと聞く。
しかしながら、鶴田がいつものヨタった演技が嘘のように熱演し、また滑走するゼロ戦を原寸大で再現しての力作。

戦時下を知る映画人の制作による淡々とした造りは、見る者の心にしみた。

「雲流るる果てに」より鶴田浩二と山岡久乃

「ともしび」は子役らを集めて地方に長期ロケした作品。
東北の戦後直後の中学生の生活ぶりが描かれる。

乳飲み子の末妹を背負い、学校に通う中学生は、妹が圧迫されないように立って授業を受ける。
囲炉裏端のランプの光を頼りにミカン箱で勉強する中学生のもとに補習に通ってくる先生(内藤武敏)を中心に陽気に笑い合う中学生たち。

作品のタッチは生活の厳しさのみを描くのではなく、子供たちの底抜けの明るさ、そこはかとないユーモアを欠かさない。

「ともしび」より香川京子

「姉妹」は忘れられない作品。
ダムの管理で山奥の社宅を転々とする一家の姉妹の物語。

妹役の中原ひとみがいい。
東映の番線番組では準主役の町娘が定番だった彼女がこの作品では芯のある娘を演じる(今井正の「純愛物語」の彼女も良かった)。

社宅の前の道は雨が降ったり雪解けの時は泥んこ。
その道を下駄で歩く姉妹。

河原で牛を飼う訳ありの夫婦(殿山泰司ら)がいる。
近所の嫌われ者の夫婦を「でも私は好きだよ」と何事もないように擁護する妹。

姉は結婚する、嫁入りはバスで。
花嫁姿の姉がバスの後部座席から手を振る。

なんということはない地方の庶民の生活が淡々と描かれる。
その貴重さ、強さ、楽しさ、美しさ。

「姉妹」より中原ひとみと野添ひとみ
姉の嫁入りの場面
「姉妹」演出中の家城監督。左から二番目は久子夫人。

家城監督の遺作は、妻の久子の脚本による「恋は緑の風の中」(1974年)。
家城プロの第一回作品で原田美枝子の映画デヴュー作でもある。

製作中に東宝の配給が決まったという。
やはり腐っても松竹の監督出身者、家城監督は何か持っている。

一人息子を育てた経験を持つ久子が脚本を書き、青春ものはと渋る家城監督を説得し、配給が決まらないままにスタートした作品だという。
筆者は未見。

「恋は緑の風の中」のノベライズ本。原田美枝子と佐藤佑介

家城監督は、1954年から7年間、東映と専属契約を結び9本の作品を作った。
「異母兄弟」という家城監督の代表作を独立プロで発表した後のことで、監督後期のフィルモグラフィーを成す作品群を東映で撮っていたのだ。

これには、時代劇で観客動員を続け、勢い余ってニュー東映なる配給ルートを作り、東映東京撮影所の現代劇で新配給ルートを埋めようという東映大川社長の思惑があった。
そこで監督として信用のある家城に話があったことがうかがえる。

東映で家城は、のちの東映のエース監督となる佐藤純也、降旗康夫を助監督に起用した「東映家城組」をなし、佐藤らとは後々まで師弟関係であった。
映画史に残ったり、賞を取るような作品は作らなかったが(「裸の太陽」のベルリン映画祭青少年向き映画賞受賞を除く)、当時の若手女優のホープ、佐久間良子や三田佳子を起用した興味深い作品群を撮っている。

今回、ラピュタ阿佐ヶ谷で「ニュープリント大作戦」と題した特集があった。
これまで数々の特集上映に際し、新しくプリントを焼いて(多くはラピュタ持ち出のことと思われる)上映した作品を集めた特集だ。
その1本に家城監督東映時代の「弾丸大将」(1960年)があったので駆け付けた。

「弾丸大将」 1960年  家城巳代治監督  東映

家城監督が東映専属になって3本目の作品。
テーマは米軍演習場で身の危険を冒して不発弾や薬きょうを回収する日本人の姿を通して、静かに反戦を訴えるもので、家城監督の信条から逸脱するものではない。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに掲示されたポスター

手法的にはますます教条的左翼主義を排した自由なものとなっている作品。
主演の南廣扮する「不発の善ちゃん」は米軍演習場で不発弾を掘り出し、信管を抜き、火薬を抜いて売るのが得意。周りには、暴発により夫を亡くした未亡人(淡島千景)や、未亡人と両思いになった挙句暴発で死ぬ男(木村功)など、周辺の部落民が跋扈する。

善ちゃんは女(春丘典子)がいるものの、未亡人に惚れて通い詰めるが、未亡人は木村功が死んでから心ここにあらずとなり、偶然近づきになった米軍人と結婚を約束する。
渡米前の準備金にと不発弾を掘る未亡人だが善ちゃんの目前で爆死する。

映画はひたすら演習場で着弾地点へ「突撃」する善ちゃんたちを活写する。
善ちゃんたちは、戦争が終わっても自ら危険を顧みず、まっしぐらに行動する日本人そのものだ。
部落の飲み屋の描き方、善ちゃんと女の描き方、善ちゃんの未亡人への迫り方も描かれるが、家城監督らしくその描写に良識は失われない。

淡島千景と南廣

川島雄三ならハチャメチャに破廉恥に、今村昌平ならねちっこくいやらしく撮るであろう、田舎の無学な衆の居酒屋におけるふるまい、男の女への迫り方、は淡々と演出される。
人間の生態描写がこの映画のテーマではないということだ。

善ちゃんはまた教条的左翼ではないので、生活のためには米軍基地反対はせず、代わりにやってきた自衛隊に対しても弾拾いを敢行する。
実践的で生活力が旺盛なのだ。
それが善ちゃんの限界でもあるのだが。
善ちゃんは戦後のわれわれ日本人の姿なのだ。

特集パンフより

あまり効果的ではなかった(というか、もったいないキャステイング)が、都会から開拓部落にやってきた場違いな美人未亡人役の淡島千景。
こういったメジャーなキャステイングも、家城監督の実力と人脈がなせる業なのだろうか。

貴重な東映専属時代の家城作品に接することができた。

「弾丸大将」演出中の家城監督

DVD名画劇場 フランス映画黄金時代② ジャック・フェデーとフランソワーズ・ロゼエ

トーキー移行で、アメリカやドイツに後れを取ったフランス映画は、1930年になってトーキー時代を迎えた。
そのころにフランス映画界は、サイレント時代にデビューを果たしていた、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエらが監督の中心におり、その一人にジャック・フェデーがいた。

フェデーはベルギーの生まれ。
サイレント時代のフランス映画界で頭角を現し、ハリウッドのMGMと契約して渡米。
何作か発表したものの評判に至らず、フランスに戻っていた。
夫人はフランス演劇界の大女優、フランソワーズ・ロゼエである。

ジャック・フェデー

1930年代のフランス映画は、歴史的名作、「巴里の屋根の下」(1930年ルネ・クレール)、「望郷」「舞踏会の手帖」(いずれも1937年ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)、「どん底」(1936年 ジャン・ルノワール)などなど、を生みだし続けていた。

フェデーはこの時期に「外人部隊」「ミモザ館」「女だけの都」を発表する。
いずれも夫人フランソワーズを主演ないし重要なわき役に配した堂々たる規模の大作である。
この3作品によりフェデーはフランス映画界に永遠の名を残した。(フェデーはこの後、製作者のアレクサンダー・コルダに招かれてイギリスへ渡り、1948年に没)。

「フランス映画の歩み」表紙

では、世に言われるフランス映画の特色とはどういったものか。
ここに1冊の研究書がある。
題して「フランス映画のあゆみ」(岡田真吉著 1964年刊)。
著者はフランス映画(とフランス語)に資するところがあり、ジャン・エプスタン、ルネ・クレール、ロベール・ブレッソンらと文通して、彼らに質問したり、自らの映画批評を仏訳して送ったり、彼らから撮影台本を譲り受けたりしたという人物。
のちにフランス映画人たちの理解を得、何度もカンヌ映画祭に招待されたという(健康問題で渡仏は実現せず)。

ここでは、本著の第一章の要旨をもってフランス映画の特質、優秀性の引用としたい。
まずフランスの深い歴史的伝統に裏打ちされた文学的精神があること。
またフランスの文化的伝統たる演劇性に深く裏打ちされていること。
演劇的伝統はフランス映画に修辞作家の独立をもたらしたこと。
演ずる俳優たちが演技者として優秀であること。等々。

そして、フォトジェニイという映画的手法を確立したこと。
フォトジェニイとは「カメラに捉えられて一つの映像となるとその精神的価値を増加させる一つの資質」(同著P13)とある。
フランス映画が事実を追うだけでなく、人物の心理の陰影や性格を描いたり、一つのシチュエーションをそれが持つ情緒を浮かび上がらせるように描くことを志向するときの一つの映画的手法であり、モンタージュという概念と並ぶ映画芸術の本質を規定する要素、だという。

「フランス映画の歩み」目次

ヌーベルバーグの時代、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」のフランソワ・トリュフォーらにより、全否定されたこの時代の作家と作品(クレールを除く。ルノワールは別格)。
しかしながらDVDで見たフェデーの作品は、作品の規模、俳優の演技力、脚本の完成度ともに一流のもので簡単に否定し去るものではなく、むしろフランス映画文化の伝統と奥深さを感じさせるに十分なものだった。

「外人部隊」 1934年  ジャック・フェデー監督  フランス

名花マリー・ベル扮する薄幸流転の場末の歌姫。
ピエール・リシャール=ウイルム扮する、無責任の挙句親族に国外追放されモロッコの外人部隊に流れ着く主人公。フランソワーズ・ロゼエ扮する場末の宿兼バーのいわくありげな女主人。
フランソワーズの宿六には「恐怖の報酬」が忘れられないシャルル・バネルが扮する。

役者がそろったところで観客はモロッコの場末で繰り広げられる「半端者」たちのグダグダの世界へ案内される。

フランソワーズ・ロゼエ(右)

主人公は悪気はないが苦労なく育った坊ちゃん。
パリで女に入れあげた挙句、親族の会社の金を使い果たして追放される。
金だけでくっついていたぜいたく好きの女フローレンス(マリー・ベル二役)は去る。
主人公は流れてモロッコの外人部隊へ。

外人部隊で友を得る主人公。
友は何くれとなく主人公の世話を焼いてくれる。
そう、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年 ルキノ・ヴィスコンテイ)で無賃乗車の主人公を救ってしばらく面倒を見た放浪の香具師のように。

友はその過去を問うた時だけは激高した。
「お互い過去は詮索しない約束ではないか!」と。

主人公は、定宿の女主人(フランソワーズ・ロゼエ)に気に入られている。
必ず当たるので、女主人はやりたがらないトランプ占いでは、「かつての女と再会し、人を殺すが巨額を得る」と出る。
その占いは、流れ者同士の寄る辺ない一夜の暇つぶしであったはずだ。

宿の女将が主人公を占う。フランソワーズ・ロゼエ18番のシーン

友と訪れたバーで、忘れられないフローレンスとそっくりのイルマ(マリー・ベルニ役)を見る。
イルマは歌っても華がなく、席に着けば素人っぽくぎこちない酒場の女である。

どこから流れてきたのか本人も覚えていないこの女を主人公は見染める。
フローレンスが自分を追いかけてきてとぼけているたのだろう、と思う。
外人部隊で苦労しようとどうしようと、お坊ちゃんはどこまでも自分本位なのである、悪気はないが・・・。

場末のキャバレーに流れてきた女。マリー・ベル二役

過去に翻弄され、汚濁にまみれて流れてきた場末女イルマに扮し、やっとのことで主人公に心を開いてゆく、女ごころのいじらしさを演じるマリー・ベルが素晴らしい。

のちの世から見れば、お涙頂戴の不自然極まりない芝居なのかもしれないが、いいものはいい。

ラスト近く、アラブの王族とオープンカーでカサブランカを行く、本物のフローレンスと邂逅した主人公は一も二もなくなびいてゆく。
フローレンスが己を愛しているというついぞ捨てきれぬ己の幻想を信じ、またマルセイユ行きの切符2枚まで買ったイルマを船上に捨てて。

まるでサイレント時代のグロリア・スワンソンのような白一色のファッションで、王族のオープンカーから降り立つフローレンスに扮するマリー・ベルも光り輝いているが、人を信じるという経験すらない場末の女が、純粋だけは取り柄の主人公に触れて人間の心を取り戻してゆくイルマを演じ分ける、別人のようなマリー・ベルが忘れられない。

主人公の「身代わり」で激戦地に出陣し、戦死して帰ってくる友。
遺品を宿の暖炉にくべながら、ロシア語新聞に芸術家として紹介される友の記事を見るやるせなさ。

戦友の遺品を燃す。ロゼエと主人公

外人部隊が楽隊を先頭に街に入ってくる、子供らが行進に付きまとう。
モロッコの酒場での、カンカン踊りのようなベリーダンスのような、煽情だけをむき出しにした女たちのふるまい。これらをドキュメンタルというか、感傷なしに描写するジャック・フェデーの視線は乾いている。

「女だけの都」 1935年  ジャック・フェデー監督  フランス

パリ郊外に組まれたという16世紀フランドル地方都市の大オープンセット。
城内はお祭りの準備で市民が天手古舞。

市長一家のおっかさん、フランソワーズ・ロゼエも大忙し。
家では末っ子を風呂に入れ、女中のおしゃべりをぴしゃりと制して指図し、恋多き愛娘の訴えには親身にアドバイスをくれる。
そこには、モロッコの果てで占いトランプを前に斜に構える憂いに満ちたロゼエの姿はない。
庶民的で男勝りの肝っ玉おっかあの役も彼女に似合う。

フランソワーズ・ロゼエは娘にとっては頼もしいおっかさん

ロゼエの達者な演技に見とれるだけで本作を見る意味は十分あるのだが、フェデーと脚本のシャルル・スパークは寓意に満ちた本筋と練られたデイテイルを駆使して観客をぐいぐい引っ張る。

時はスペインの治世、公爵一行が城壁都市にやってくる。
思わず最悪の事態が頭をよぎる。
略奪、凌辱、拷問、殲滅の幻影。

市長ら男たちは肖像画のモデルを早々にやめて、死んだふりを行うことにする。
ここで立ち上がったのがロゼエおっかさんを中心にした女性達。
日頃から男どもの優柔不断にはあきれており、野生的なスペイン軍を思うと心ときめく、とともに体を張って外敵を迎えることを決議する。

城壁都市にスペイン兵が進駐

女達がスペイン兵たちをエスコートして街に入場する。
さっそく、男らしいスペイン将校たちに取り入るおかみさんたち。
市長夫人のロゼエは公爵にべったり。
年甲斐もなくよろめきかかる。
ここではさすがに踏みとどまり、愛娘の結婚保証人を公爵に願い出るが。

公爵一行の随行者に生臭坊主と小人がいる。
坊主にはルイ・ジューベが扮して笑わせる。
フェデー堂々の宗教権威批判だ。

幻影のスペイン軍の乱暴狼藉シーンは当時としては衝撃的でリアルな描写。
スペイン兵たちと市民たちが入り乱れる飲み屋のシーンも猥雑。
ここら辺は「外人部隊」にも共通するフェデーのリアルで乾いた描写ぶり。

中世市民のおおらかさを寓話的に描き、フランソワーズ・ロゼエの演技力という力技を加えた勢いで突っ走った快作。
古さは感じない。

DVD名画劇場 ドイツ表現主義時代の幻影「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトゥ」

第一次世界大戦後からヒトラーが台頭するまでの1918年から1933年まで。
ドイツ映画はその全盛期を迎えていた。

サイレント映画からトーキーへの移行にあたるこの時代、ベルリンのウーファ撮影所を中心に、幾多の名作が生まれ、ハリウッドをしのぎ世界一の水準を示した。

手許に「写真 映画百年史」という5巻シリーズのグラフ雑誌がある。
1954年から発刊され編著者に筈見恒夫、表紙に野口久光という一流の布陣。

発刊の趣旨は映画発祥時からサイレント時代、トーキー時代を経て1950年代までに至る世界の映画史を写真でたどるというもの。

グラフ雑誌「写真映画百年史第2巻」表紙

日本映画についてが半分ほどを占めるのは致し方ないとはいえ、残りの半分をハリウッド映画と欧州映画で分け合った構成となっている。

「写真 映画百年史」は、見開き2ページに一つのテーマで写真が載っている。
日本映画に関しては「目玉の松之助専本の映画を完成」としてサイレント時代の日本映画のヒーロー、尾上松之助の作品写真を集めたページがあり、外国映画に関しては「巨匠グリフィスの功績」としてD・W・グリフィスがチャップリンやピックフォード等のちにパラマウントを設立するメンバーと談笑する写真などを掲載している。
ファン向けでもあり、本格的でもある映画グラフとなっている。

注目すべきは第一次大戦後から、ナチス台頭までの時代のドイツ映画の取り上げ方だ。
第1巻では「表現派と歴史大作 敗戦ドイツ大いに賑わう」の表題で「ドクトルマブセ」や「カリガリ博士」を紹介するページがあり、「逞しいドイツ映画」の題でフリッツ・ラングによるゲルマン神話の映像化「ニーベルンゲン物語」などを紹介している。

第2巻では「ムルナウとパプストの活躍」と題してサイレント名画「最後の人」「パンドラの箱」を紹介。
「山岳映画と科学空想映画」と銘打ってアーノルド・ファンクらをフォロー。
「ドイツ映画 現実と幻想」として表現主義の後の潮流となったドイツ映画のリアリズムとロマンチシズムの諸作品を紹介。
「ウーファ映画華やかに咲く」では20年代に花開いたドラマの数々を紹介。
ほかに、ドイツからハリウッドに移ったエルンスト・ルビッチについてのページもある。

第1巻より。「カリガリ博士」が紹介されている
第1巻より。「ニーベルンゲン」などの紹介
第2巻より。ルイズ・ブルックスの顔が見える
第2巻より。「メトロポリス」など
第2巻より
第2巻より。忘れられたウーファ作品の数々

こう見ると「写真 映画百年史」におけるドイツ映画の比重はかなり大きい。
ドイツ映画の主に1920年代の流れが、表現主義、歴史もの、音楽ものからリアリズムとロマンチシズムへと続いて行ったことがわかる。
その流れの中に「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトウ」「嘆きの天使」「制服の処女」などの作品があり、また現在では忘れられている幾多の作品やスターがいたことも。
戦前のドイツ映画が質量ともに第一線にあったことが日本でも認識されていたことも。

なお、サイレント時代のドイツ映画で起こった「表現主義」とは、第一次大戦に敗戦したドイツの退廃と虚無が生んだ芸術形式(写真映画百年史第1巻P27)とある。
当時の主流であった、自然主義、印象主義への反動として生まれた前衛運動であったようだ。

では、表現主義時代の代表作「カリガリ博士」を見てみよう。

「カリガリ博士」 1919年  ロベルト・ウイーネ監督  ドイツ

「クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの冒険」という劇場用アニメを見たことがある。
街に出現したヘンダーランドという見るからに怪しい遊園地でもっと怪しいおかまが呼び込みをする。
街では呼び込みの歌が流れる「変だ変だよヘンダーランド、嘘だと思ったらチョイとおいで・・・」。
しんちゃんたちは果たして怪しさの究極地・ヘンダーランドから脱出できるのか!?

遊園地の、非日常的な空気感とそのいかがわしさを描く映画は「カリガリ博士」がその元祖だった。

カリガリ博士と棺桶のチェザーレ

分厚い眼鏡に山高帽、ずんぐりしたマント姿。
眼鏡を上に下にずらしてぎょろ目をむく。
役人や官憲に対しては卑屈にふるまい、弱いものを誘惑して遊園地のテントへと誘う。
その名もカリガリ博士が街に現れる。

ドイツの民話「ハーメルンの笛吹き男」からのモチーフなのか?
時代を越えて世界に敷衍する人さらい神話の援用か?

プラハ出身のハンス・ヤノウッツとグラーツ出身のカール・マイヤー。
オーストリア=ハンガリー帝国出身の第一次大戦経験者、二人による共同脚本。

遊園地と精神病院、バレーダンサーのような身のこなしの夢遊病者と怪人博士。
怪しすぎる映画的組み合わせが、抽象的な書割を背景として繰り広げる悪夢のような物語。

二人の脚本家は主人公の名前を「発見」したとき会心の叫び声を上げたという。
カリガリ。
魔術師、奇術師の類に通ずるというイタリア系のネーミングだ、カリオストロ、フィーデーニのような。

この作品の背景は思いっきりデフォルメされた書割で表される。
書割の道路や壁がゆがみ、入り口は斜めっていて悪夢の世界を増長する。
遊園地を表す書割には猥雑な賑やかさに満ちている。

カリガリ博士が見世物として棺桶で飼っている夢遊病者・チェザーレもすごい。
ぴっちりとしたタイツ姿でダンサーのような身のこなしで美女を狙う。
カリガリ博士がドイツ的な土臭さ、やぼったさ、頑迷さに囚われた存在とするなら、芸術的、情緒的、美的な存在のチェザーレは、遠近法を無視したゆがんだ書割セットを背景に、ダンスのようなあるいはパントマイムのような誇張した動きでさ迷う。

チェザーレの方が悪夢度が高い。

チェザーレに扮したコンラット・ファイト
チェザーレに扮するコンラット・ファイトが幻想的な書割を背景に美女を誘拐する

「カリガリは人間の価値尊厳を蹂躙するプロイセンミリタリズムの擬人化された姿であり、チェザーレは徴兵され殺人訓練を受ける一般民衆のことである、と二人の脚本家は考えた。
そのテーマは、第一次大戦で非人間的な体験に遭わずにおれなかった二人の反戦、反国家思想から出現したもの。」(岩崎昶著 朝日選書「ヒトラーと映画」P227より)

朝日選書「ヒトラーと映画」。1933年前後のドイツ映画を語る

リアリズムによらず、むしろ極端な表現主義によって反戦、反国家を謳った名作。
現在見ても、その表現の徹底ぶりに驚かされる。
また非人間的な権力に対する恐怖という点では時代を越えたテーマを有する作品である。

「ヘンダーランド」の原点でもある。

「吸血鬼ノスフェラトゥ」 1922年 F・W・ムルナウ監督  ドイツ

カリガリ博士というガチガチにカリカチュアライズされた自らの民族性の宿痾に次いで、ドイツ人は中欧の伝承の中により不安定で超自然的な吸血鬼というキャラクターを発見した。
ドイツ民族は災難から逃れられないようである。

カリガリという災難が反理性主義のいわば象徴で、時代の変遷や理性主義により克服し得るものだとすると、吸血鬼は歴史的かつ超自然的な存在で、その災難度は高く深い。

ドイツ映画が吸血鬼を素材にするこということは、理性主義ではどうにもならない当時の現実からの逃避なのか。

カリガリはともかく、吸血鬼は21世紀になっても映画の素材として生き残っていることから、ドイツを越えたキャラクターを発見したということなのか。

ノスフェラトウの象徴的なポーズ

「吸血鬼ノスフェラトウ」のストーリーは、ハリウッドによるリメーク「魔人ドラキュラ」にほぼトレースされている。
違うのは吸血鬼の見た目と性能。
「魔人ドラキュラ」の吸血鬼は人間に対してはオールマイテーで、魅入られた人間は対処できない。
まるでエイリアンや病原菌のような吸血鬼である。

「ノスフェラトウ」の吸血鬼は人間を倒すことはできるが、たとえ吸血したあとでも完全な下僕にはできない。
また、自己を犠牲にして他を助けようとする人間の崇高な意志の前に、あえなく朝日を浴びて溶けていってしまう。

自らを犠牲とする美女のクビに気を取られた挙句、朝日に溶け行くノスフェラトウの最後

まことに人間臭いのがドイツ製吸血鬼。
その姿はハリウッド版のベラ・ルゴシ扮するドラキュラのように支配的、魔術的なものではなく、「カリガリ博士」のチェザーレのように女性的で美的なもののようだ。

ノスフェラトウには、その城の麓に生きる村人に忌諱される悲しみがある。
日陰に生きる者の哀れさとでもいおうか。
さらにいうと、ノスフェラトウの尖った禿げ頭、鷲鼻、ひょこたんひょこたんと歩く姿はどこか奇形的で、被差別感すら感じられるのだ。

ノスフェラトウがワイマール時代のドイツ人にとって、社会的恐怖・差別の象徴であることは確かだ。

追加) 「M」 1931年  フリッツ・ラング監督  ドイツ

第一次大戦後のドイツ映画界は、表現主義、歴史もの、ゲルマン神話、音楽もの、と様々なジャンルで第一級の作品を発表してきた。
この時代の第一線の監督として、ムルナウ、パプスト、エルンスト・ルビッチなどと並んでフリッツ・ラングがいる。

ベルリンにそびえるウーファ撮影所はユダヤ人がいなければ成立しない、といわれていた。
ラングもユダヤ人だった。

ラングはゲルマン神話に題材をとった「ニーゲルンゲン」をナチス宣伝相ゲッペルスに絶賛されたものの、「怪人マブセ博士」(1932年 サイレント作品「ドクトルマブセ」のセルフリメーク)を上映禁止にされ、1933年ナチス党の政権奪取の年にフランスへ亡命した。
「M」は「怪人マブセ博士」のひとつ前の作品で、ラング初のトーキー作品である。

ナチスの政権奪取前後に、ユダヤ系映画人が多数アメリカに亡命している。
が、それ以前のドイツ映画全盛時代から、ドイツ映画人のハリウッドによる引き抜きが続いていた。
ハリウッドによる映画人の引き抜きと、撮影所への資本参入がドイツ映画界の衰弱を生んだ。
とどめを刺したのがナチス党の政権奪取だった。
ドイツ映画のシンボル、ウーファ撮影所は第二次大戦のベルリン陥落とともに文字通り崩壊した。

「M」はナチス党政権奪取前夜の不安感をユダヤ人フリッツ・ラングがこれでもか、と描いた作品。
スリラー仕立てだが、ラングの狙いが、組織や群集の愚かさ、群集心理の不条理さにあったことは明白だ。

ピ-ター・ローレ、畢竟の怪演

ピーター・ローレが児童誘拐の犯人を演じる。
まだ若くぽっちゃりしている。
彼もまたハリウッドに亡命し「毒薬と老嬢」では人造人間とともに逃亡を続けるドイツ訛りの医者を自虐的に演じている。
彼のハリウッド時代のおどおどした小悪党演技の原点が「M」なのだろう。

児童誘拐殺人犯Mを追いつめる警察と犯罪組織。
なぜ犯罪組織がMを追うのか?
Mのおかげで泥棒は上がったりだ、という理由で。
その理由もばかばかしいが、警察の方も捜査の決め手を欠き捜査会議でタバコをふかすばかり。
ラングはカットバックで犯罪組織と警察会議を並行して描く。
まるで警察も泥棒も同じだ、と言わんばかりに。

Mを捕まえた犯罪組織が人民裁判よろしくMの罪状を追いつめる。
小児愛好者という病気のMは自分でも犯行を抑えることができない。
形だけの弁護人役が、Mに必要なのは治療で処罰ではないと正論を述べるが、圧倒的群衆は処罰を求めて叫ぶ。
群集心理の絶望感が画面を覆う。

この作品、警察の捜査の一環で、ベルリンの娼婦が集まるいかがわしいバーに踏み込むシーンがある。
長い尺で。
ラングが、警察の藪にらみ的な愚鈍さとともに、当時のドイツ社会の絶望的な裏側を描きたかったことを物語る。

映画を通してみて、犯罪スリラーとしての鋭さも印象に残るが、その比重は少ない。
社会に潜む「普通」の人間が小児嗜好の持ち主であり、それは本人では抑止できない「病気」であるとの観点は新しい犯人像だと思うが。

ラングによる戦前のドイツへの訣別のメッセージともいえる作品。
フランス経由でハリウッドに渡ったラングは、暗黒ものから西部劇まで様々なジャンルで活躍することとなる。

アンナ・カリーナの美しさ!「女と男のいる舗道」㏌上田映劇

上田映劇で「ジャン=リュック・ゴダール反逆の映画作家」(2022年)公開を記念に、ゴダールの初期作が3本上映された。
そのうち「女と男のいる舗道」に駆け付けた。

当日の劇場前ディスプレイ

本作はゴダールの長編4作目で、アンナ・カリーナのゴダール作品出演3作目にあたる。
二人は1961年の「小さな兵隊」の後にゴダールの熱烈なアタックにより結婚していた。

長編第1作の「勝手にしやがれ」をモノグラム映画社(B級専門のハリウッド映画会社)に捧げ、第3作目の「女は女である」をハリウッドミュージカルに捧げたゴダールは、4作目の「女と男のいる舗道」をB級映画に捧げている。

2作目の「小さな兵隊」はアルジェリア戦争をモチーフにした独自の政治的スタンスに基づくオリジナルな作品だったから除くとして、ほかの3作品はアメリカ映画のスタイルへの仮託を標榜した作品が続いていたとことになる。

この事実には、前提として映画批評家ゴダールの深い映画的経験と、その志向(アメリカ映画のそれもB級映画が好き)があるにせよ、映画監督としてのキャリアの浅さからくる自信のなさがうかがえる。

長編劇映画を作ることは、収益上の責任を持つということで、ヒットすることが劇映画の監督を続けられる必要条件となる。
ゴダールは、目くるめくストーリー性があるわけでもなく、集客力のあるスターが出ているわけでもない自身の作品を、既存のカテゴリーに仮託して観客に提示せざるを得なかったのだろう。
自虐的であるとも、客観的であるともいえる行為である。

劇場前の上映予定看板

「女と男のいる舗道」 1962年  ジャン=リュックゴダール監督  フランス

この作品、はるか昔に16ミリ版のフィルムで見たことがある。
暗い画面に、アンナ・カリーナがうつむいてばかり、という印象だった。
暗いのは内容ばかりではなく、映写機によって映し出される画面が物理的に見えずらいのだった。.

この度上映されたデジタル版では、映像がクリアに抜けていて、明るい場面でも、暗い場面でも、中間の場面でもその通りに再現される。
いい時代になった。

チラシより

当時22歳、若さはもちろん、本来の可憐さが残るアンナ・カリーナ。
初々しく緊張した「小さな兵隊」、天真爛漫な「女は女である」を経て、若さの中に憂いと陰影を加えた表情を見せる。
「気狂いピエロ」「メイドインUSA」などカリーナ=ゴダール時代の後期作では疲れと不機嫌さが目立つ(ゴダールとの離婚後の作品ということもあるか?)カリーナにあって、その若々しさが残る最後の作品なのかもしれない、(「離れ離れに」は未見だが)。

この作品でのゴダールのカリーナに対する視線は、「小さな兵隊」における、まるで自主映画の監督が主演に連れてきた女優に対するような憧れを隠せないようなもの、から、カリーナの内面に迫るものに変化している。

カリーナの髪形、衣装、メイクはかなり凝っており、短髪(かつら?)、アイシャドーを施したばっちりメイクは、映画が進むにつれ濃くなってゆく。
若々しいカリーナの肌は濃い化粧のノリもよく、また化粧負けしてもいない。

チラシより

愛するカリーナに、夫と別れて出奔し、家賃も払えないほど困窮し、友達に誘われて街娼となり、ヒモにいいように翻弄される女性を演じさせるゴダール。
カリーナは、カール・ドライヤーのサイレント映画「裁かるるジャンヌ」を見て涙し、カフェで自分を見ていた哲学者と会話を交わす。
金もなく、街娼の境遇にまで至った女性だが、自らの内面を見つめようと無意識にせよ模索し続ける。

ゴダールは突き放した視線で、カリーナ扮する無垢な女性の内面を捉え続ける。
同時に、ジュデイ・ガーランド(カリーナが務めるレコード店で客がそのレコードをオーダーする)、エリザベス・テーラー(カリーナの背後にポートレートが貼ってある)などゴダールのアメリカ映画趣味が垣間見られたり、「突然炎のごとく」公開の劇場に並ぶ観客の実写カットなどの楽屋落ち(仲間のフランソワ・トリュフォー作品なので)があったりもする。

カリーナは本作での自分の姿を見て、きれいに撮れていないと激怒し、ゴダールとの離婚の一因ともなったという。
客観的に見てアンナ・カリーナの若き日の代表作ともいえる本作は、彼女の表面上の美しさだけではなく、内面の葛藤もとらえた画期的な作品である。
カリーナの無理解は、映像的なものからくるのではなく、その内面に迫ろうとした作風に対するもののようだ。

講談社現代新書

講談社現代新書「ゴダールと女たち」(2011年刊 四方田犬彦著)では、本作について「ゴダールがこのフィルムで試みたことは(中略)みずからの眼差しによってアンナの身体の内側に隠されている魂の美しさを引き出し、画面に定着させてみせることだった。(攻略)」(同書 P68)と評している。

同書目次

ゴダールのその試みは十分達成され、「女と男のいる舗道」は22歳のアンナ・カリーナの姿が永遠に刻印された記念碑的作品となった。

ゴダールとカリーナのコンビは、映画史上では、スタンバークとデートリッヒ、溝口健二と田中絹代、小津安二郎と原節子、に比べることができるのかもしれない。
ヒッチコックとグレース・ケリーというコンビもあった。
いずれも手練れの業界人同士によるビジネスカップル(小津と原はプラトニックな関係。ヒッチコックは一方的な横恋慕)だが、結婚までいったゴダール組はある意味正直で素人っぽかった。

アンナ・カリーナはゴダールとの結婚期間中からそれ以降、ゴダール以外の多彩な監督作品に出演している。
「輪舞」(1964年 ロジェ・バデイム)、「修道女」(1966年 ジャック・リヴェット)、「異邦人」(1968年 ルキノ・ヴィスッコンテイ)、「悪魔のような恋人」(1969年 トニー・リチャードソン)などなど。

このそうそうたるキャリアは、カリーナ本人の才能によることもさることながら、ゴダールの眼を通して探求、表現されたその諸作品におけるアンナ・カリーナの魅力が、名匠たちにインスピレーションをもたらして実現したもの、と思えてならない。

DVD名画劇場 ハリウッドカップルズ① メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス

手許に「ハリウッド・カップルズ」(キネマ旬報社1998年刊 筈見有弘著)という本がある。
1930年代から90年代にかけて、ハリウッドで人気を博したカップル(ビジネスカップルも含む、というかそれがほとんど)について書かれており、キネマ旬報での連載をまとめたものだという。

連載にあたって古い作品や日本未公開の作品を、ビデオで見直し、またニューヨークに毎年通うなどして拾って歩いたという、映画評論家筈見有弘の著作。
内容は個人的作品評論に偏重せず、古い作品群の紹介や映画人の回顧録などの文献からの引用を多用し、記録としても貴重な著書となっている。

「ハリウッド・カップルズ」表紙

この本の最初に登場するのが、メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス。
ハリウッドの伝説上のカップルである。

同・目次

「アメリカン・スイートハート」と呼ばれた永遠の少女スター・メリーと、一代の剣劇スター・フェアバンクスは、実際に結婚していたビッグカップルだが、共演作は1929年の「じゃじゃ馬馴らし」ただ一作。
1910年代から人気を誇っていたメリー37歳の、いわば「晩年」の作品となる。

ハリウッド映画史で、初めて名前で観客を集めることができたという、スター第一号のメリー・ピックフォードとは何だったのか。
ここに、スター・メリーの本質に迫った著書がある。
「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」(1980年フィルムアート社刊 アレグザンダー・ウオーカー著)である。

「銀幕のいけにえ」表紙

前書きには、この本のねらいとして、「スクリーンに、またそのスター自身にあらわれでた女性のセクシュアリテイの本質をきわめること。」とあり、セダ・バラ、クララ・ボウ、デートリッヒ、ハーロー、モンローなど10人のスターが取り上げられている。
メリー・ピックフォードが第二章に登場する。

同・目次

1893年カナダトロントで生まれたメリーは5歳で父親を亡くし、以降母親と兄弟を養うべく旅芸人とともに舞台に立つ。
13歳の時、ブロ-ドウエイのプロデユーサーに自らを売り込み巡業団の女優となり、16歳でバイオグラフ社というD・W・グリフィス率いる映画会社に採用される。
清純な少女が好みのグリフィスの眼に敵ったという説があるが、グリフィス作品の常連にはなっていない。

メリー・ピックフォード

1910年代を迎えていた映画界は、全米で1万館を超える映画館(ニッケルオデオン)が大衆的人気を博し、製作側も資本投下を本格化して作品の質的な向上が起こった時期。
当時、俳優の名前はスクリーン上に表されていなく、「巻毛の少女」として大衆に親しまれ始めていたメリーは、はじめてメリー・ピックフォードという芸名をスクリーンに映し、大衆に知らしめた映画俳優となる。

150センチちょっとの身長と童顔。
幼い兄弟の親代わりに過ごしたリアルな幼女時代の体験に基づいた演技力。
巻毛と子供用エプロンの衣装。
これらは、当時の観客が求める少女像にぴったり適合し、小公女、あしながおじさん、不思議の国のアリスなどを題材とするメリー主演の映画はヒットし続けた。

「ハリウッド☆不滅のボデ&ソウル銀幕のいけにえたち」では、この時期のメリーの演技について、古い価値観に縛られ、大衆人気に迎合した少女像を演じながらも、随所に覗くセクシュアリテイについて指摘している。
それらのセクシュアリテイは、決して大衆を扇動し、新たな風俗を出現させるようなものではなく、大衆にとっては彼らの住む裏街のコミュニテイでは日常茶飯事のことだった、と。
それこそがメリーという女優の本質だったのだろう。

メリーとグリフィス(左)

実際のメリーはしっかり者で、契約更新のたびに倍増するギャラの交渉にも抜け目なく、名を成してからは、監督、製作者よりも製作現場で権限を持つ契約内容を要求した。
これはのちに、グリフィス、チャップリン、フェアバンクスとともに映画製作会社、ユナイテッドアーチスツを設立する行動につながる。

また、30歳を超えても少女役を要求される状況から脱しようと、人妻やヴァンプなどの役に挑戦するがヒットはせず、これが1933年に迎える女優人生の終焉につながった。
私生活では3度の結婚。
フェアバンクスとの結婚はお互いに2度目の結婚だった。
生活は堅実で、二人が暮らす豪邸でのパーテイは、ハリウッドスターにありがちな酒池肉林的なものではなかったという。

「じゃじゃ馬馴らし」 1929年  サム・テイラー監督  ユナイト

メリーとフェアバンクス唯一の共演作。
それまで共演作がなかったのは、それぞれが単独で十分商売になったこと、さりながらこの時代になってお互いの人気に陰りが出てきたことによるという。

「じゃじゃ馬馴らし」日本公開時のポスター

シェークスピア原作の映画化。
興行収入、批評共にパッとしない(というか惨憺たる実績と評価の)作品という。

フェアバンクスに鞭をふるうマリー

フェアバンクスの剣劇スターとしての動きはともかく、メリーは伝説の少女役を卒業し、じゃじゃ馬そのものの役を演じている。
そこにメリーの女優としての真価が見られたのかどうか。

結婚したマリーはフェアバンクスから仕返しされる

美人女優としての素地は隠しようがなく、整った美貌のメリーが、父親や妹に当たり散らし、鞭を振り回す。
そこへ財産目当てに駆け付けた頓珍漢な男、フェアバンクス。
相手の気持ちにかまわず、己をしゃべり散らかしメリーに接近。
それならばと、心許すふりをして痛撃を加えようと手ぐすね引くメリー。
まるで実際のメリーとフェアバンクスのカップル像のようにも見える。

堂々たるマリーと苦笑いのフェアバンクス

とおりが良く朗々としたセリフに、大都映画のアクションスター・ハヤブサヒデトのような、ファンタステック!なフェアバンクスのアクション。
正統派美人の気品と貫禄をたたえつつ、リアルなヒステリー演技に徹するメリー。

功成り名を遂げたスター達が、「流した」演技で撮ったフィルムのようでもあり、さりながら一代の名俳優がその実力と経験を示した熟練の「十八番」のようでもあり。

「ハリウッド・カップルズ」では、メリーとフェアバンクス夫婦について、
「(二人の屋敷は)ハリウッドの大使館のような役割を果たしていた。私生活を隠すスターが多い中にあって彼ら夫妻は、ファンあってのスターであるというポリシーを崩さなかった。そうした態度を崩さなかったことによって業界からの信望は厚くファンからも支持された。」と評した。

私生活に問題が多く、今の時代であれば(昔であっても)、性加害、幼児虐待、パワハラ、殺人などの犯罪行為で社会的制裁を受けてしかるべき人間に事欠かなかったハリウッドにあって、これは最上級の賛辞なのではないか。

上田映劇でジャン・ルノワールの「どん底」を上映

我らがミニシアター、上田映劇がまたまたやってくれた。
ジャン・ルノワール初期の代表作「どん底」(1936年)の上映だ。

今回上映された素材は、4Kレストア版というデジタル素材。
輸入したのは川崎市アートセンター。

川崎市アートセンターは同市麻生区新百合ヶ丘にある、小劇場と上映館からなる、「しんゆり・芸術のまち」を標榜する施設。
小劇場ではミニシアター系の作品を連日上映している。

川崎市アートセンターの2023年9月のプログラム
プログラムの見開き。ロバート・アルトマンの再輸入作品の上映もある

海外のデジタル化した旧作は、近年精力的に輸入公開されている。
ベルモンド傑作選と銘打って「カトマンズの男」「リオの男」などが上映されたり、ミムジー・ファーマー主演の70年代のムード漂う「モア」「渚の果てにこの愛を」が公開されたり、マルセル・カルネ監督の歴史的フランス映画「天井桟敷の人々」が再輸入されたことは記憶に新しい。

これらの作品の日本での輸入元は、キングレコードだったり、個人会社だったりするようだが、いずれにせよ版権が存在し、またフィルムの状態では(日本では)存在しない海外の旧作品を、映画館の大画面のクリアな映像で鑑賞できることは、名画座やテレビの映画放送がほぼなくなった現在、大変貴重である。
川崎市アートセンターと上田映劇には感謝しつつ、駆け付けた。

上田映劇の劇場前案内

「どん底」 1936年  ジャン・ルノワール監督  フランス

「ジャン・ルノワール自伝」(1977年 みすず書房刊)でルノワールはいう。
「シャルル・スパークと私が作り上げたシナリオは、(原作者)ゴーリキイの芝居の原作とは大いに違っていた。われわれはこれを原作者の承認を得るために、ゴーリキイのもとに送った。」(自伝 160P)。

また、「ある役の演技に、すぐ形をつけようとする俳優は、陳腐な形にはまり込む危険を冒している。一個の芝居、一本の映画のいかなる部分たりとも、オリジナルな創造たらずんばあるべからずなのだ。」(自伝 161~162P)ともある。

原作者から映画化の同意が得られたことについては、原作者ゴーリキイが映画を芸術としては全く認めておらず、どうでもよく、送られてきた脚本も読まなかった、との話もある。
ロシア人プロデユーサーからの依頼仕事であるこの作品の製作に際し、ルノワールは熟練の脚本家、シャルル・スパークと共同で脚色して臨んだ。

原作にはない重要な役柄の「男爵」には、舞台俳優にしてフランス高等演劇学校の教授、パリ国立劇場の演出家でもあったルイ・ジューベを起用。
場末のミュージックホールからジャン・ギャバンを見出して抜擢し、ジューベと組ませた。

ジューベが演じた没落男爵。
ギャンブルで遺産を食いつぶし、自殺を決心した夜に泥棒に入ったジャン・ギャバンと意気投合する役柄。
ついにはギャバンらが住む、掃き溜めのような安宿に転がりこんでくる。

この男爵、没落する自身を「人生を振り返っても、その時々に着ていた服でしか覚えていない」と回想するほどで、没落してからが我が人生、といわんばかりの達観した人物。

ルイ・ジューベ扮する男爵(右)、安宿の女将(奥)

名優ジューベが演じる浮世離れしたこの男爵を見ていると、ルネ・クレールの「自由を我等に」で、財閥からもとの放浪者に戻った主人公の晴れ晴れとした気分を思い出す。
また、ルキノ・ビスコンテイの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で、無賃乗車した主人公の運賃を払い、しばらくは自らの露天商に同行させて去っていった、放浪詩人のようなキャラクターをも。

ギャバンとジューベと子供たち

安宿の経営者は、強欲な老人で、その妻はギャバンとの通じていたりする。
店子たちはいずれも老齢だったり、社会に不適合な人物ばかり。

この安宿の人物たちは、しかしルノワールが創造、演出すると、悲惨なばかりではなく、ユーモラスともいうべき人間味が加わる。
人間は必ずしもその一面だけの存在ではない、というルノワール流世界観の創出である。

再輸入、再公開にあたってのチラシ

カメラは彼らの芝居を丸ごととらえようと、あるいは邪魔しないように、長回し移動撮影でとらえる。
時にピントがずれるのも構わずに。

安宿のどぶに咲く一輪の花たる、ナターシャが意に添わぬ監督官に誘われてガーデンレストランでデートするシーン。
カメラは、べたべたするアベック客などの様子を捉えつつひたすら移動してゆき、ナターシャと監督官のテーブルに行きつく。
まるで舞踏会で繰り広げられる踊りの渦に迷い込むときのマックス・オフュルス(「輪舞」「たそがれの女ごころ」)の移動するカメラのように。

ルノワールは自伝でいう、「男爵は観客にとって親しみ深い存在となり、観客はギャバンと一体化して、男爵の物語を聞こうという気になるのだ。」(自伝 164P)。

ルノワールの「どん底」は、ルノワールとスパークが創造したルイ・ジューベ扮する男爵の物語でもあり、その人物により照射されるギャバンらどん底に住む人間味ある人物らの物語でもあった。

チラシ裏側

第26回蓼科高原映画祭 「秋日和」と岡田茉莉子

今年も蓼科高原映画祭が開かれた。
毎年、茅野市の2会場で1週間ほどに渡って開かれる映画祭。
蓼科の別荘でシナリオを練った小津安二郎を記念して開催され、小津作品出演者などの豪華ゲストが訪れる。

第26回蓼科高原映画祭のプログラム

今年のテーマは、蓼科と野田高梧・小津安二郎。
例年にも増して小津作品を多数上映し、メイン会場の茅野市民館では蓼科の別荘と野田、小津の写真展が開かれるなどした。

上映スケジュール

今年のゲストは岡田茉莉子。
出演作「秋日和」の上映後にトークショーがあるとのこと。
メイン会場の茅野市民館に駆け付けました。

茅野駅から続くコンコースに葉映画祭の幟が

ロビーにはボランテイアの茅野市民が受付などに展開、中庭には「もてなし」のテントも張られています。
諏訪地域でいう「もてなし」とは、御柱祭の山出しなどの時に沿道の住民が祭りの参加者に差しれる風習を言います。
この日のテントでは、コーヒー、ポップコーンのほか、寒天菓子、豚汁などが無料でふるまわれていました。

茅野市民間受付のレイアウト

立派な舞台を持つ市民館のホールに入場します。
例年、ゲストのトークショーは盛況で、かつて市内の現存映画館・新星劇場で行われた司葉子さんのトークショーは満員だったのを思い出しましたが、市民館のホールは収容人数が多いのか、この日は7,8割の入場者でした。

舞台では短編映画コンクールの入選作品とその監督の紹介が行われていました。
最後にコンクール審査委員も舞台に出てきて、審査委員長の伊藤俊也監督も登壇しましたが、姿勢がすっかり老人となっており時間の経過を痛感しました。

受付横の手書き看板

「秋日和」上映の前に関係者のトークショーがありました。
小津監督の甥の長い秀行さんと、「秋日和」の撮影助手だった兼松さんの対談です。

寡聞にしてお二人のことを知らなかったのですが、兼松さんは松竹撮影所で小津組の「専属」だった厚田カメラマンの助手として「彼岸花」以降の小津作品に参加したとのこと。
既に高齢で杖をお使いながらも、撮影所育ちの活動屋の匂いを感じさせる方。
スタッフ思いで、ユーモアのある小津監督のエピソードを語ってくれました。

市民館ホール入り口の様子

「彼岸花」 1960年  小津安二郎監督 松竹

そして「彼岸花」の上映。
デジタル修復版で色彩も完璧に再現されている。

原節子の小津作品最終出演作であり、東宝の司葉子の小津作品初出演。
また重要な役を演じる岡田茉莉子の小津作品初出演作でもある。
端役ながら岩下志麻も出ている。

豪華絢爛な女優陣を他社からも招き、自社の若手を厳選してのカラー作品。
小津作品のこういった傾向は「彼岸花」(1958年)からなのではないか。
山本富士子(大映)、久我美子(フリー)、有馬稲子、田中絹代(ともに松竹)らを並べたカラー作品「彼岸花」の華やかさは今でも忘れられない。

対する男優陣。
晩年の小津作品には自らを揶揄したような初老(といっても当時の実年齢は50代の設定と思われる)の社会的地位のあるおっさん方が数人出てくる。
「秋日和」では佐分利信、中村伸郎、北竜二の3人。
それぞれ会社重役だったり、大学教授だったりする。
大学時代(東大)からの仲間の未亡人と娘(原節子、司葉子)と七周忌で再会した場面から話が始まる。

適齢期を迎えた亡友の娘を心配し、未亡人となった大学時代のマドンナの再婚を気にするおっさん達。
類型的な心配ではなく、老いて未だに心残りな若き時代のマドンナに対する私的心情が混じってのことである。
要は暇な爺たちのエロ話がこの作品の一つのテーマなのである。

こういったテーマを庶民的に、あるいは通俗的に処理すると、みじめだったり生臭かったりするが、演劇界の重鎮(中村)や正統派の二枚目(佐分利)にやらせ、かつ設定も中流上の悠々自適な人物設定なのだから、そこは生臭さとは無縁。
かえって小津独特のユーモアが生きてくる。

また、爺の価値観にべったりではなく、分析・批評を加えるのも小津流。
「秋日和」では司葉子の友人役で起用した岡田茉莉子がその役割を担う。
岡田は爺たちの、悪意こそないが勝手な振る舞いに翻弄される友人(司)を見かねて、爺たちの本拠(会社の重役室)に乗り込み、ストレートに言いたいことを言って最後は爺たちに謝らせる。

ここのシーンは、岡田茉莉子らしい歯切れのいいセリフの連発で、観客からも同感の笑いが起こる。
爺たちの退屈まぎれの勝手な振る舞いにうんざりしていた観客の気持ちをすっきりさせるとともに、小津自身の自身に対する客観性をうかがわせる大事な場面である。

当時の地位のある爺たちのふるまいに関しては、例えば「彼岸花」での佐分利信の着替えシーンが思い浮かぶ。
会社から帰ってきた佐分利は、結婚前の娘(有馬稲子)の行動に上から目線で文句を言いながら、背広、ズボン、ネクタイと畳の上に脱ぎ捨てる。
着物姿で片ビザついて控える妻(田中絹代)がかいがいしくそれらを拾ってはハンガーにかけたりする。

昭和時代に育った山小舎おじさんでもそういった爺の姿を実見したことがないのだが、中流上の家庭では、そうだったのかもしれないと思わせる、昭和の時代の爺たちを分析するに足る描写である。

「秋日和」でも中村伸郎が帰宅後、背広とズボンを脱ぎ捨て、ハンカチを取り出して放り捨てる。
片付けるのは妻の三宅邦子の役目なのだ。
山小舎おじさんの世代でそんなことをしても、翌日まで服はそのままの姿で残っていただろうし。
さらにその下の世代となると、妻(パートナーといわなければならない)から不思議そうな顔をされるのが落ちなのであろう事実に時代の流れを感じざるを得ない。

そして小津作品永遠のテーマである家族の崩壊。
「晩春」「麦秋」「東京物語」。
紀子三部作といわれ、原節子が主演してきた小津の代表作のテーマはいずれも、家族の崩壊を通して描く、人間はしょせん一人だという、寂しく残酷な人生の真実だった。

「秋日和」では娘の結婚で残された未亡人の孤独が余韻となる。
紀子三部作ではいずれの作品でも、自分が出て行く(残された家族の崩壊が想定される)側の人間を演じた原節子が、残された側を演じている。

日本映画全盛期の文化遺産のような作品。
こういった作品を残してくれた小津安二郎と松竹撮影所に感謝したい。

映画祭プログラムより、上映する小津作品の解説

岡田茉莉子トークショー

「秋日和」の上映が終わり、岡田茉莉子のトークショーとなった。
果たしてどんな岡田さんが出てくるのかと少し心配した。
杖もなく歩いて壇上に現れた。
思ったより小柄である。
歩き方は少しよちよちしている。

トークの相手は、10年前の小津没後50年を記念したNHK番組を演出したデレクターで、その際にも岡田本人と、存命だった吉田喜重監督にインタビューした関係とのこと。
岡田単独でのトークはもう無理かもしれない。

耳がかなり遠くなっており、質問が伝わるまでに時間がかかったりしたが、いざ話となると立て板に水のようにスムースで内容的にも焦点のあった話ぶりだった。

「秋日和」のセットでは元気よく挨拶して明るく振舞ったこと。
本作の共演者で演技的に感心した人はいなかったこと。
小津作品では小津監督の演出以上のことをしてもダメなこと、ただしセリフのテンポだけは自分で工夫して事。
「秋日和」で爺さんたちをやりこめる場面は自分でも好きなシーンなこと。
小津本人から小津組の1番バッターだといわれてうれしかったこと。
当時の松竹大船撮影所は同時に6作品を制作しており、計600人ほどのスタッフが常に駆け回っており、活気に満ちていたこと。
松竹は監督にも物言える雰囲気で家庭的だったこと。等々

最後に今後とも映画をよろしくお願いします、と言い残した岡田さん。
映画女優としての矜持、プライドを全身にまとい、また映画全盛期を知る女優の言葉として重みがありました。

市民館中庭でのもてなしテント
もてなしのコーヒーを飲みながらアンケートに記入