ご近所立寄り湯めぐりVOL.10 下諏訪温泉の矢木温泉に入る

下諏訪町に噴出する下諏訪温泉。集めの源泉は、町内の何か所かの公衆浴場に引かれています。

公衆浴場には、新湯、菅野温泉、矢木温泉などが、町中に点在しています。
また、中山道・下諏訪宿付近には、より観光性の強い、旦過の湯があります。

今回は国道20号線に沿いに看板が出ており、その存在が普段から目についていた、矢木温泉を訪れてみました。

国道20号線の下諏訪町沿道を走っていると見える看板

駐車場は10台ほども止められます。
玄関の造りは、ほどほどに整えられており、地元限定に鄙びすぎてもいなく、観光性を追求した派手さもありません。

収容台数の多い駐車場を完備
つつましやかな入口から入場する

番台には地元の住民と思しき高齢者のおじさんが座っており、また県内のこういった公衆浴場と同様に、検温や氏名住所の提出、マスク着用・・・の手続きは一切ありません。

入浴料240円を払って入浴。
混んでもいない客層は、地元の高齢者が中心でした。
下諏訪温泉の湯の印象は高温、ですが、旦過の湯はもちろん、菅野温泉ほどに熱くはなく、適温でした。

松本、塩尻方面からの帰途、国道20号線を利用するときの立寄り湯として貴重な存在です。
ただし、気温が低くなるこれからの季節、ここから約1時間かかる山小屋までの間、軽トラの座席での湯冷めを心配する必要はありそうです。

塩尻の東座で「ひまわり」を観た

塩尻に東座という昔ながらの映画館があります。
シネコンではなく、フィルム上映も可能な、座席数168の映画館です。
1号館、2号館があり、それぞれ一般映画とピンク映画を上映してます。

「大蔵映画」の看板を掲げる映画館は他に現存しているだろうか

たまたま塩尻を訪れたときにこの映画館を見つけ、是非一度映画を見に来たいと思っていました。
調べてみると「ひまわり」(1970年、イタリア・ソ連合作)がリバイバル上映中とわかり、改めて駆けつけました。

一般映画の上映作品はいわゆるミニシアター系が多そう

「ひまわり」は、日本公開当時の1970年時点で10代以上の映画ファンなら、誰でも知っているであろう名作です。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニという、イタリアでは人間国宝級の二人の共演。
監督はヴィットリオ・デ・シーカ。
戦後直後に、イタリア社会の現実をドキュメンタルに描写した「ネオレアリスモ」と呼ばれた一連の作品群の代表作である、「靴みがき」(1946年)、「自転車泥棒」(1948年)を監督した人です。

デジタル上映でよみがえった名作を見て感じたことを表してみたいと思います。

館内は傾斜があり、とても見やすい。この回の入場者は6人ほど

その1、イタリア軍のロシア戦線の従軍

「ひまわり」は愛し合った男女の戦争による離別を骨格とした物語です。
イタリアの男は戦争当時、徴兵されることが当然でした。

主人公もそれは覚悟で、徴兵の猶予期間(12日の新婚期間、入営が猶予される)狙いで結婚し、あまつさえ狂言で精神病院へ入院までするのだが、狂言がばれて送られた先がロシア戦線だった。

第二次世界大戦で、イタリア軍も北アフリカでドイツ軍の補助に参加したのは知っていたが、ロシア戦線に従軍したのは知らなかった。

調べてみると計23万人ものイタリア軍がドイツ軍に呼応してロシア戦線に従軍したとのこと。

当初はルーマニア、ハンガリーもドイツ軍として従軍したロシア戦線。
スターリンの圧政に苦しむ当時のウクライナでは、ドイツ軍が「解放軍」として迎えられたとのエピソードが示す通り、複雑かつ混とんとした情勢の中、ソ連軍の反抗と冬将軍の到来に撤退を余儀なくされた時、イタリア軍は15万人になっていたという。

「11人以下の人数の戦い(サッカーのこと)だと強い」「マンマが見ているときだけ強い」などと揶揄されるイタリア男性。

イタリア軍についても、「エチオピアを植民地とすべく攻め込んだイタリア軍が、騎馬と槍で武装したエチオピア軍に何度も跳ね返された挙句、毒ガスを使ってやっと勝った」とか、「北アフリカ戦線で、水不足とSOSを発したイタリア軍部隊に、救援のドイツ軍部隊が駆けつけてみると、盛大にスパゲテイを茹でていた」など、うそか誠か、でも「いかにも」と思わせるエピソードに事欠かない。

ところが、第二次大戦のロシア戦線でのイタリア軍は奮戦したらしい。
ドン川周辺の占領地域の防御戦で再三ソ連軍の反抗を跳ね返し、ソ連軍に「白い悪魔」と呼ばれたスキー部隊もいた、とのこと。

本作での、ロシア戦線での戦闘描写、厳寒の雪原を敗走する場面、戦後になって妻がソ連に夫を探しに行ったときに目の当たりにする、丘一面の無数の白樺の墓標、は決して大袈裟な描写ではなかったのだ。

映画「ひまわり」の歴史的背景描写と史実は決して乖離してはいなかった。

上映予定表。予約割引、メンズデイなどの有益情報も記載されている

その2、イタリア映画の豊かな伝統

「ひまわり」は、イタリアの大プロデユーサー、カルロ・ポンテイの製作作品で、ソビエトロケやトップ女優・リュドミラ・サベリーエワの出演など、ソ連との合作によって実現した大作という側面が強い。
一方で、イタリア映画の細かな伝統を随所に感じさせる作品でもある。

【イタリア映画の伝統その1】

主人公二人が新婚時代を過ごす町の広場で三々五々過ごす人々の自然な描写。
駅で出征兵士を送る母親年代の女性達の味のある顔また顔。

イタリア映画のエキストラの存在感。
セリフもないエキストラ達は、アップになっても得も言われぬ存在感を醸し出す。

演技がうまいのか、もともと人々の個性が強いのか。
多分両方なのだろう。

画面を引いて、駅の建物一杯に人々が行きかう群衆シーンになっても画面のリアリテイは失われない。

【イタリア映画の伝統その2】

カメラを固定させ、アップもパンも多用しなかったネオレアリスモの時代の後、イタリア映画に於ける撮影はその技量を高めていったように思う。
質感あふれる引きの構図があるかと思えば、独創的な移動ロングショットがあったりする。

マストロヤンニとサベリーエワの夫婦が都市のアパートへ引っ越すときのトラックを、前面から回り込み助手席のサベリーエワ親子をアップでとらえるまでのワンショットの移動撮影。
カメラマンのよほどのやる気と技術と準備がなければできない撮影だ。

イタリア映画でのエキストラの活かし方と、熟練の撮影は、ベルナルド・ベルトルッチ監督にも引き継がれている。
同監督の「暗殺の森」(1970年)、「1900年」(1976年)では、迫真に迫るエキストラシーンと、見事な撮影を観ることができる。

ロビーに置いてあるマップ。塩尻の食堂、カフェなどの情報満載

その3、主題は戦争の悲劇にとどまらず

さて、本作の主題。
ここにもイタリア映画の伝統が強烈に顔を出す。

「ひまわり」という映画のこれまでの印象はというと、山小舎おじさんは「戦争が引き裂いた夫婦の別れ。二人とも運命を受容。悪いのは戦争だ」、というもの。
だからこそのキレイな悲劇の物語。

実はそれにとどまらないのがイタリア映画のしつこいところ。
戦争などで引き裂かれても、イタリア女性はそんなことではあきらめない。
死力を尽くして愛する夫を探し当てる。

女性は、戦争などでは夫への愛を「あきらめ」ないが、反面、夫が別な女性と愛し合っている事実を確認すると、「あきらめ」る。
後に、ソ連からやってきた元夫とイタリアで再会した時も、戦争のせいにする夫を許しはしない。

肉食的というか、頭ではなく体で生きるというか。
イタリア女性の面目躍如。
きれいごとで済まさないところがスゴイ。
それを扱うイタリア映画もスゴイ。

とはいえ、別れた時間は容赦がない。
それぞれに家庭と子供があり、元に戻ることは現実的にはできない、という「落としどころ」に落ち着く。

「ひまわり」撮影時、ソフィア・ローレン34歳、マストロヤンニ46歳。
名コンビとはいえ、新婚時代からを演じるにはギリギリの実年齢。
無理がある?とも思ったが、合作の大作としては必要なキャステイングだったのだろう。

結果としてはリバイバル上映にも十分耐えうる二人の存在感には何も言えない。ソフィアは、若い時と、夫を探すとき、夫を見切ってから、と3つの時代を演じる。
それぞれが素晴らしいが、特に夫をソ連に探しに行ってから見切るまでの時代の演技が素晴らしい。

ソ連で「戦争と平和」のヒロインを演じたこともある、モスフィルムの名花にして、当時のソ連を代表する美人女優のリュドミラ・サベリーエワ。
本役にはもったいないくらいの美貌だが、彼女とてただの悲劇のヒロインではない。

随所に現れる、サベリーエワの人間臭いセリフと動作。
さすがイタリア映画の演出である。
ただの悲劇のヒロインなど一人も出てこない。

随所に現れるマストロヤンニの母親。
息子の行方不明を嘆き、初めて嫁であるソフィアのところへやってきたとき、コーヒーを勧める嫁に、それを断るところ・・・。

人間の描写にいちいち真実をつかないと気が済まない?のがイタリア映画。
これが「人間復興」というものなのか?ルネッサンスの伝統なのか?

一筋縄では行かない大作の「ひまわり」でした。

護岸工事でDIY!

田舎暮らしの醍醐味といわれるものがいくつかあります。
畑だったり、鶏飼いだったり、薪作りだったり、渓流釣りだったり、山歩きだったり・・・。
いずれも都会暮らしでもできることですが、田舎ではそれらがぐんと身近になります。

DIYという言葉があります。
家具作り、簡単なリフォーム、ペンキ塗り、土木仕事・・・。
それらを自分で行うことです。
昔は日曜大工などという言葉もありました。

DIYは、山小舎おじさんの苦手な分野です。
簡単な家具さえ作れません。
庭の法面に簡単な階段が欲しくても作り方がわかりません。
山小舎で行ったDIYらしきことというと、台所の流しと窓の間の垂木に透明防水塗料を塗ったくらいです。

やろうと思っていることはたくさんあります。
ストーブの背後にレンガで防火壁を付け足すこと(現在でも防火壁はあるが少々面積が足りないような気がする))。
居間の天井の梁にそれらしい塗装をすること(梁の1本だけが鉋をかけた無垢の状態になっている)。
などなど・・・。

気になっていることの一つが、山小舎の裏手の小川の護岸工事です。
普段は水無川だが、台風や大雨になると水流が起こる小川で、ちょうど山小舎の裏手に向かって水路がカーブを切っている。
水流が激しくなるとこのカーブが削り取られてゆく可能性が高い。
事実、朽ちたような丸太が小川に並行して打ち込まれている。
先代オーナーが施したものだろう。
ほおっておくと土地が削られ、山小舎の土台に影響するかもしれないから。

その部分に土嚢を積むことも考え、管理事務所にも相談した。
「言ってくれればやります」との返事だったが、正式に依頼しないまま現在に至っている。

今日は護岸工事をDIYしてみた。

岸に杭を打ち、丸太を杭の山側に並べれば護岸になるであろう。
さらに丸太で作った壁の山側に石だの、土を詰めてゆけば堤防になるはずだ。
幸い手ごろな丸太は転がっている。

まず、細めで、杭になる丸太をチェーンソーでカットする。
ついでに先端部分もカットしておく。
杭は長めにしたいが、丸太の都合で長さはバラバラになった。
杭の山側に並べる丸太も見繕っておく。
あまり長いと扱えないので、適当な長さに切っておく。

次いで、現地に行き、いきなり杭を打ち込んでゆくが、基礎部分は河原。
石がごろごろしており、ハンマーで叩いても素直に打ち込まれてゆくとは限らない。
困ったが、位置を替えて何度か打ち込んでいるうちに、何とか砂利の隙間に入り込み、杭3本ほどがしっかり基礎の河原に打ち込まれた。

杭より太めの丸太を杭の山側に並べてゆく。
杭の長さが見事に不揃いで、見栄えのほか実用的にも不安があるが、今のところ丸太による壁らしきものができてきた。

丸太の壁の山間に石を投げこんでゆく。
水害の時、丸太製の堤防が水で洗われ、丸太は崩れなかったとしても、山側の土が水とともに流されてゆくのを防ぎたい。
本来は土嚢がいいのだろうが、できるだけたくさん石を詰め込んだ堤防の基幹部を丸太の山側に形作りたいものだ。

不揃いの杭に長さが工事の信ぴょう性を疑わせる出来栄え
水無川の川底を入れ込んでのカット
川の下流方向を眺める
山小舎の裏手を入れ込んだカット。土台が削れかかっている

本日の作業はこれで終了。
第二期工事は、長めの杭を追加して、長めの丸太を横通しし、石と土に寄る丈夫な堤防基幹部を作る予定です。

杖突街道→伊那→塩尻

10月に入った秋晴れの日。
軽トラで旅に出発した。

鄙びた別世界のような杖突街道を走って、高遠では行きそびれていた郷土資料館へ入り、伊那でソースカツ丼を食い、国道153号線を北上しつつ箕輪町の直売所で仕入れ、さらに北上して行ったことのない塩尻市内を見物しよう、という予定だった。

杖突街道での発見

伊那地方と諏訪地方を結ぶ杖突街道こと国道152号線。
杖突峠を越えて古都・高遠までの沿道風景は、時間から取り残されたような鄙びた集落が続く、山小舎おじさんお気に入りのルートだ。

高遠歴史博物館で買った杖突街道のマップ。情報がてんこ盛り

木造の古い建物が目をかすめた。
木造校舎か?と立寄ってみた。
正体不明の建物だった。

とりあえず写真撮影して、近くに神社があったので表敬訪問。
貴船神社とあるその神社。
案内板を見ると京都の本家・貴船神社から正式に勧請された、とのこと。
縁結びで有名な貴船神社。
調べてみると全国に450社の分社があるという。

杖突街道からこの木造建物が目についた
正面から見た木造建物
京都から勧請した貴船神社
貴船神社の本殿
このあたりの集落は新しい蔵が目立つ

さて不思議な木造建物の件。
この先で寄った、沿道唯一の直売所の駐車場で荷造りしていた地元?の男性によると、地元(藤沢地区)の公民館だったとのこと。

沿道唯一の直売所は閉まっていた

高遠を経て伊那で昼食

高遠では歴史博物館へ寄ってみる。
ここの展示の目玉の一つが、絵島囲屋敷。
絵島という江戸時代の女性が、大奥で女中頭の身でありながら、歌舞伎見物で帰城の門限を破り、当地に島流しにあって、27年間幽閉の身を過ごした屋敷が博物館に隣接しているのです。

高遠歴史博物館で購入した朱印

13時を回ったので慌てて伊那を目指す。
目指すソースカツ丼屋は、長野県の食堂の例にもれず、昼食は14時までの営業時間。
遅れるわけにはいきません。

目指す、たけだという食堂に着いたのが13時36分。
既に看板は「準備中」に裏返っています。
店員に掛け合ってみましたが、「ごめんねラストオーダーは13時30分なの」というばかり。
残念ながら諦めました。

さてどこで何を食べようか?何度か行ったことがある田村食堂へだめもとで行ってみますと、こちらは「ラストオーダーが13時45分」の看板が。
同時刻に滑り込み、快く受け入れてもらいました。

たけだを目指したがかなわず、田村食堂へ

国道153号線沿いに出現する信濃国二ノ宮・小野矢彦神社

伊那から北上して箕輪町の直売所で季節の紅玉リンゴなどを仕入れ、さらに国道153号線を北上する。

伊那地方と塩尻・松本方面を結ぶ国道153号線は交通量も多く、車両の運行速度も速い。

長野県の交通事情は、運転マナーもよく、奥ゆかしいイメージがあるが、どうして、平地を走る主要国道・バイパスの車は飛ばす。
のろのろ走っているとあっという間に後ろがつながってしまう。

国道20号線の塩尻峠、佐久平を北上する国道141号線などは、通行車両が「必死になって先を争って走る」印象がある。

ということで、後ろを気にしながら走っていると、ただならぬ雰囲気の神社が左手に出現して慌ててストップする。
辰野町小野地区と塩尻市にまたがる、小野矢彦神社だった。

国道153号線沿いに出現する小野矢彦神社。巨木がそびえる
手水場はコロナ下(禍)でも閉鎖されていない。心意気やヨシ!

境内に外にまでにじみ出る荘厳な雰囲気。
境内には巨木が立ち並ぶ。
取り急ぎ拝殿に参拝。

参拝したのは小野神社のほうで、矢彦神社は隣にあったらしい。
信濃国二ノ宮とのことがだが、二ノ宮は上田の生島足島神社もそうだったよなあ、と思う山小舎おじさんでした。

小野神社の拝殿。派手にデイスプレイされている
小野神社の神楽殿は拝殿の正面に建つ

塩尻でびっくり!

塩尻は松本と隣接し、つながってしまっている印象だが、実際訪れてみると個性豊かな町だった。

国道から市街地方面へ折れると目の隅に看過できない建物が飛び込んできた。
よく見ると映画のポスターが貼られた建物だ。
東座と銘が打たれた大き目の建物。
よく見るとピンク映画のポスターも貼られている。

待てよ、これは絶滅危惧種の昔ながらの映画館の生き残りではないのか?
慌てて軽トラを止める。

塩尻東座の建物が現れた

「新東宝映画」「大蔵映画」の文字がうれしいというか時代錯誤というか。
都内でも、ここ2.3年で飯田橋駅前にあった専門館が撤退し、上野と池袋にのみ現存するピンク映画の上映館が、一般映画上映館と併存とはいえ塩尻に残っていたとは!
後日ゆっくる訪問することにして写真撮影を済ます。

上映作品のポスター
一般映画上映の1号館入場口

行き当たりばったりの塩尻初訪問。
町の情報を得ようと塩尻駅でパンフ類を収集する。

隣の観光案内所に行って再度びっくり!
コンテナにマスカットを山盛りにして、「3房で100円」の張り紙。
どうしたものかと眺めていると、職員が「駅構内で栽培しているんですよ、黄色めのものが熟してます。種は出さずに食べると甘いです」とのご案内。
思わず100円玉を出し、買う旨を伝えると、袋に詰めてくれ、おまけにもうひと房をくれました。
昔ながらのマスカットは香り豊かで、甘さ充分でした。

JR塩尻駅
観光センター入口
駅構内特産のマスカット特売現場!
駅構内には黒葡萄が実っていた

折角なので、イヅツワインの醸造所まで行ってみます。
塩尻はワイン醸造の名所でもあります。

イヅツワインの売店でワインとジュースを購入しました。
醸造所限定品などはなく、むしろ出荷優先で販売しているとのことでした。

国道19号線沿いの、桔梗が原と呼ばれる当たり、イヅツのほかに五一ワイン、アルプスワインなどの醸造所が集まっているエリアです。

塩尻市桔梗が原のイヅツワイン工場売店

杖突街道から派生する金沢街道などの旧街道筋はぜひ行ってみたいともいました。
また、塩尻の東座は近々訪問したいと思いました。
うれしい宿題二つをもらった今回の旅でした。

上田アリオに行ってきた

アリオといえばセブンイレブン系のショッピングモール。
長野県第三の都市、上田にはもともと西武系のイオンタウンがあったが、後発のアリオが上田駅近くにモールを出店したもの。

ご存知の通り地方都市では(昨今は首都圏でも、都内でも)既存の商店街は閑古鳥が鳴いている状況。
とはいえ、住民の日々の買い物、休日のショッピングの需要はあるわけで、国道沿いの郊外型店舗群がその受け皿となっていたが、近々のマーケテイングというか、商圏として出現したのが、モールという存在。
大規模なものとしてはららぽーと、一般的には○○タウンなどと呼ばれる複合型商業施設が全国的に存在する。

上田では、駅前から続く真田坂、それと直行する海野町商店街などが元来の商店街なのだが、人通りはほとんどない。
店舗を占めた商店も目に付く。

では上田の消費者はどこにいるのかというと、イオンタウンだったりアリオ。
特にアリオは真新しい店内と、全国チェーン店の出店で、休日は地元のファミリーやヤングが繰り出している、という印象だった。

「印象だった」というのは、山小舎おじさん、このアリオに過去1回行ったときに、店内をそぞろ歩く人たちを見て「上田の人は(商店街にではなく)ここにいたのか!」と安心した記憶があったからだ。

地方では、人気のない商店街や住宅地をみて「ひとがいないんだなあ」と感じるが、いざ何かの行事が開催されると、スタッフや参加者に人があふれ「人がいるじゃないか!」と思うことがある。
例えば、茅野市街地では歩く人の姿を見るのも稀な印象だが、蓼科高原映画祭開催の時は、市民ホールと新星劇場に和解世代も含めた住民スタッフが溢れ、「茅野にもこんなに人がいたんだ!」と安心する。
今年のコロナ騒動では、春先の休日に諏訪湖畔に散歩する人の姿が溢れ、普段感じられない地域住民の人数の多さを実感し、頼もしく思ったものだ。

何が言いたいのかというと、地方都市にはまだまだ人がいるということだ。

閑話休題。
前置きが長くなりました。

この日の上田アリオ。
平日の午前中に訪れると、1階のイトーヨーカドーのスーパーマーケットエリアは人が集まっているものの、ショッピングエリア、レストランエリアは閑散としておりました。

上田アリオの入口
1階のイトーヨーカドー
2階から1階通路を見る

もともと地方では、人口の絶対数が少ないうえに、日中、若い人は学校に、壮年は職場に、主婦はパート先に・・・と居る場所が決まっています。

食堂も全国チェーン店以外は、14時から休業時間に入ります。
東京のように勤務時間が様々だったり、何をしているのかわからない人が大量にいたりすることがないので、結果として人の行動は規律的になります。
昼食にしても12時から13時の間にほぼ全員が摂るわけで、食堂はその時間以外に空けておいても客が来ないのです。

たとえ話が長くなりましたが、ついでに続けます。

平日日中のショッピングセンターの閑散ぶりは、東京でも見られます。
街中のスーパーに見られる閑散とした店内と、休憩コーナーで時間をつぶす高齢者の姿です。
この日の上田アリオの雰囲気もそれに近いものでした。

地方に特有の「のどか、のんびり、まったり」した雰囲気ばかりではない「閑散」とした雰囲気。
これが原因は、地方云々というばかりではなく、大きくいえば日本全体の景気停滞、社会の疲弊に端を発するのかもしれませんが。

衣料品店が並ぶストリート
ストリート中ごろには、ハロウイーンのデイスプレイ
シネマコンプレックスも併設
TOHOシネマズのロビーは最新式

とはいえ、新築でこぎれいな、上田アリオ。
で歩いていて気持ちのいい場所です。

上田では貴重な新刊書店もあります。
レストラン街のほかにフードコートもあり、昼食には便利です。
何より全国チェーンの衣料、雑貨店がもたらす都市カルチャーとの直結感が貴重です。

1階のレストラン街、和洋中がそろう
2階のフードコートはそこそこの人出

用事を済ませ、カフェで一息つきながら、午後を迎えたに山小舎おじさん。
その時間には下校時の高校生など、午前中より客層が若返り、人数も増えてきました。
「やはり上田で一番賑やかな場所だ」と感じることができました。

この日の用事はJTB
スタバで休憩した

実は、アリオ訪問記を「パワースポット探訪記」の一環としてまとめる予定でしたが、訪問後、その気持ちがなくなりました。
ひとが集まる場所としては上田で一番なのでしょうが、その割にパワーを頂けなかったという気持ちでした。

それが原因は、自然発生的で歴史ある場所ということではない、現代の商店街・モールの持つ性格なのでしょうか。
地域との共存共栄というよりは、採算が悪くなればいつでも撤退してゆく、という、そのコンセプト。
それを承知で刹那に訪れる人々の移ろい感。

安易に「パワー」を求めてさまようことへの自戒も含めて勉強になりました。

裏山に上ってきた

山小舎の背後には国有林の山がそびえています。
9月の末日、裏山を登ってきました。

登山口?から林道を越えてトレイルへ

別荘地の道路から登山口を伝って裏山ハイキングの開始です。
この道、ほとんど通る人はありません。
獣道のような登山道を登ってゆくと林道に出ます。

登山口?けものみち?からゴー
国有林の間から山小舎が見える
林道に出る

林道を横断して、さらに踏み固められた道をもぼってゆくと、斜面を削った道に出ます。
その道をたどって山を巻いてゆくと尾根に出ます。
大門峠から続く尾根です。

林道を渡って再び登り口へ
斜面を削った道をたどってゆく
尾根に出る

尾根は、防火帯のように草木が削られ、砂利が敷かれた道が続いています。
長門牧場から霧ケ峰方面につづく尾根伝いの道で、分水嶺トレイルと呼ばれ、毎年初夏にトレイルランが行われる道です。

山小舎からここまでの所要時間は小1時間でしょうか。
ちなみに、山小舎前任者の「仙人さん」は、健脚にものを言わせて『白樺湖までの所要時間:25分』と書き残されていましたが。

山小舎おじさんではとても無理。
白樺湖まで下る時間を含めると優に倍以上の所要時間がかかりましょう。

尾根は分水嶺トレイルと呼ばれる
尾根沿いにあった標識

分水嶺から白樺湖を望む

遮ることのない景色を分水嶺から楽しみます。
目を北に向ければ蓼科山、東の眼下には白樺湖が浮かびます。
あたりは一面の薄の原っぱです。

分水嶺トレイルから見た蓼科山
大門峠方面へと続く分水嶺
眼下には白樺湖が望める

折角なので、尾根から白樺湖畔へ下りることにします。
大門峠から続くビーナスラインに出ます。
車山高原を経て、霧ヶ峰、美しが原へ続く観光ルートです。

分水嶺から白樺湖畔へ下りる途中のビーナスライン

更に下ってゆくと白樺湖畔の大門街道に出ます。
平日のこともあり、ハイカー、登山者などの歩行者には一人も出合いません。

湖畔へ下りて大門街道を渡る

白樺湖畔をゆっくり

白樺湖畔の西側でゆっくりします。
土産物屋が2軒ほどと、食堂が1,2軒、宿屋が2.3軒営業している湖の西岸です。

湖畔ではスワンボートが営業中
湖畔の釣り人

夏の間はともかく、紅葉にはまだ早い9月末の平日は人気も少ない白樺湖畔です。

土産物屋前のアルパカの人形
かつては湖畔を馬車が引かれていたのか
西岸の土産物屋は軒並み閉店している

一休みした後、やってきたルートをたどって山小屋まで戻りました。
気持ちのいい初秋のハイキングでした。

付録・裏山ルートで見たもの

植物とキノコ

?タケ
ベニテングダケと思われる
トリカブトの花が咲く
マムシグサ

動物の足跡

鹿の寝床と思われる
鹿が食べた木の皮
動物がひっかいた跡。熊か?
動物の骨。鹿のあごの一部か?

9月の畑

8月以降の畑は、秋野菜の種まき、定植をしたほかは、夏野菜の収穫と管理が主な作業です。

草刈りをさぼるとたちまち生い茂る雑草
畑は一見、雑草の別天地に

秋作の様子

大根が発芽しています。不織布のトンネルが効いています
トンネル栽培の白菜

夏野菜の現状

モロヘイヤ。葉物はなかなか出荷のチャンスがありません・・・
食用ほおずき。今年も収穫期を迎えました

これから収穫期を迎える野菜たち

ヤーコン。久しぶりの雨のおかげで元気がよみがえりました
里芋。今年の生育は少しおとなしめ、です

動物の食害その後

サツマイモ。固い茎は鹿の好物。今年もやられました
落花生。順調に生育した後でやられました。鹿の足跡がついています
これはゲート越しに侵入した、ハクビシンか狸の仕業でしょうか。完食されたトウモロコシ

収穫・出荷状況

9月になってトウガラシを初収穫。今年はナスも収穫が続いています
トマトも頑張って実をつけ続けています。かぼちゃ初収穫です
食用ほおずき。東京のお客さんはどう反応するでしょう?

令和2年 山小舎暮らし前半を終えて

今年前半の山小舎暮らし総括です。

毎年、4月から11月までの山小舎暮らし。
8か月間の前半4か月が過ぎました。
4月から7月までの暮らしを総括してみます。

4月から7月までの期間。
畑のカレンダー的には、畑起しから、種まき、苗の植付け、夏野菜の収穫開始を行う時期。
いうならば、畑作業のハイライトに相当するときで、作業的にもハードな頃です。

また、この時期は、別荘地の作業アルバイトが始まる季節です。
作業内容は4月から5月いっぱいくらいが落ち葉集めや、側溝掃除。
6月からは草刈りが主な作業となります。

山小舎おじさんが、今年、畑作業と別荘地作業バイトに費やした日数を数えてみました。

4月から7月の間で畑に行った日数が43日でした。
バイトに行った日数が31日。

今年は4月15日に山小舎に来ましたから、その間107日。
自宅に帰った日数が5日あり、実質の山小舎滞在日数が102日だから、滞在日数の42%を畑作業に費やし、30%をバイトに費やしていた計算になります。

バイトの日は畑には行けませんからこの数字は重複してはいません。
残りの日数28日(約30%)は、県内を旅したり、買い物や気晴らしに出たり、来訪した家族らと過ごしたり、雨で活動できなかった日となります。

バイトした日はカレンダイーに赤丸をつけている
畑に行った日は青いマーカーで表示
「休養」の文字が出てきた。外出先の表示も
日々の記録はパソコンでも管理
長雨の7月。雨でバイトが全日稼働できない日が多い。

実感としては畑とバイトで働きずくめの春から夏でした。
畑は側溝の整備から、耕耘、畝立て、二度のジャガイモ植え、草刈り・・・と1反歩以上の広い面積と格闘しました。

本来は畑づくりは、毎日畑に顔を出し、気が付いた作業をちょこちょこやるものなのでしょうが、何せ軽トラで片道30分の場所にあるロケーション。
イメージは通い仕事です。

畑にバイトに・・・1週間のうち6日は長靴を履いている

バイト仕事はフルタイムなので、歳とともに段々きつくなってきたのが偽らざるところです。
今年は高原でも暑かった日が多く、一日終わると作業着が汗でぐっしょり、体はバリバリに固まる・・・という日が続きました。

暑さで頭痛がする、という経験もしました。
歳のせいなのでしょうか。

作業服はバイトの時の「制服」

一時期は、週に3日の畑、3日のバイトのスケジュールでしたが、正直よくやったと思います。

休みの日や雨の日などに、茅野や上田などの町に人の顔を見に行ったり、外食したり、気になる観光スポットに出かけたりもしましたが、今年の上半期の印象は、暑い中での畑作業とバイトの日々です。

バイトの時にはめる手袋。玉切、薪割の時にも使用

山小舎暮らしの目的の一つに、古民家由来の貴重な山小舎の、保全とブラッシュアップがあるのですが、今期はほとんどできませんでした。

精いっぱいの畑とバイトの日々に余力がなかったのが実際でした。
ベランダ、玄関先など、リフォームが必要な部分から日々の掃除、整頓まで手付かずに近い状態でした。

また、家内をはじめ家族の意向に、山小舎を来客用にブラッシュアップするということがあるのですが、日々に追われて生活しているおじさんにはいまいちそれが理解できず、やってきた家内にがっかりされたりもしました。

今後は2階を来客用に整備する方向で、家族らとベクトルを合わせたところです。

二階の様子。本棚には児童書を買いそろえつつあるところ・・・

8月位以降はバイトを休んでいます。
お盆休みと家族の来訪で気が抜けたのか、怠け癖が付いたのか。
酷使を免れた体はほっとしていますが。

収穫の時期に合わせてせっせとジャムを煮たり、たまりにたまった材木を薪に割って干したり、室内を掃除したりしています。
気晴らしに信州の素晴らしい自然の中を軽トラで走り回るのも楽しみの一つです。

既に9月。
令和2年の山小舎暮らし後半は、畑や地域からの恵みを活用しつつ、家族の意向を取り入れた山小舎の保全、管理を意識してゆこうと思います。
畑は来季に向け、食害防止の観点からの保全と土壌改良に注力して行こうと思います。

岡谷へ行ってきた

岡谷という町があります。
諏訪湖の北西に面する、人口47,000人の市です。

長野県に居て4年目ながら、家族が来た時にうなぎを食べに行くか、諏訪湖を一周するとき、あるいは松本方面から国道20号線で帰る時に通過したことがあるだけの町でした。
あっ一回街の中心部に行ったことがありましたっけ。

長野といえば善光寺、松本といえば松本城、上田といえば真田、軽井沢といえば別荘族・・・が全国的にも有名です。
その点、岡谷といえば・・・うなぎを連想するくらいでしょうか?

今回は、中信地方にあり、山小舎から割と近い場所にありながら、一般的に連想される特色に乏しい、と思われる町・岡谷に行ってきました。
そこには、現在では忘れられつつある歴史と、独特な町の個性が残っていました。

諏訪湖西岸を通って岡谷市街へ

茅野方面から岡谷へ行くには、諏訪湖東岸の国道20号線を通るより、諏訪湖西岸を抜けたほうが早い。
諏訪湖東岸から北岸にかけては、いわゆる表の諏訪湖であり、観光ホテルなどが立ち並んでいます。
花火大会が開催される場所も表の諏訪湖です。

対して諏訪湖の裏側に当たる西岸は、湖岸道路が、茅野方面から岡谷、塩尻方面への抜け道として利用されており、交通量も少なくはないのですが、信号が少なく流れが速いのです。

「裏諏訪湖」から湖面を見る
夏の名残の藻が浮く諏訪湖畔

諏訪湖西岸の湖岸道路から一本奥に入ったところに集落を抜ける道がありました。

今どきの地方の集落ですから、表通りから一本中に入っただけで、人通りも途絶え、車の往来も少なくなります。
コミュニテイバスが通っていましたが。

諏訪湖西岸の集落のメインストリート
かつて栄えた商家の外壁

この集落に残っていたのは、かつて諏訪湖からもたらされていた豊かな資源の痕跡です。
水産資源のほかに観光資源としての諏訪湖の圧倒的な存在感をうかがわせる地元の集落です。

諏訪湖の水産の興隆を忍ばせる文字
かつての趣のある魚屋の建物。現在は隣の新社屋で営業継続していた
これは旅館か?下宿屋か?諏訪湖の昔をしのばせる建物
シャッターを閉めた商店と郵便ポスト


諏訪湖水門を渡って岡谷市街地へ

諏訪湖北岸の西端には、湖水の排出口の役割を果たす、水門と呼ばれる場所がある。
伊那谷を削りながら太平洋にそそぐ、天竜川の起点となる場所です。

水門にかかる釜橋

釜橋と呼ばれる赤い鉄橋で水門を渡って岡谷市街に向かいます。
中央本線も国道20号線も、諏訪湖の東岸から北岸を走っており、岡谷市街地も諏訪湖及び天竜川の北岸に広がっています。

釜橋から天竜川下流方面を見る

少し走ると、レイクウオーク岡谷なるモールに出くわしました。
全国各地にあり、ファミリーからヤングまでの買い物からデートまで、一括して商業的に承るモールが岡谷にもありました。
かつては地方中核都市の象徴的な存在でもありましたが、今では川崎、横浜から埼玉まで、都市部においても人が集まる場所として認知されている、あのモールです。
自宅近くのモールは、山小舎おじさんの娘一家も孫娘も大好きな場所です。

どこにでもあるモールの風景。岡谷では人呼んでレイクウオーク

ここに岡谷の消費一切が集約されているのか!と、モールを横目に見ながら岡谷駅方面に軽トラを進めると、中央通りなる商店街へ。
かつては製糸工場の女工さんであふれたという昔からの中央通り商店街ですが、現在では全国津々浦々の商店街の例にもれず、さびれていました。


イルフプラザにてお買い物

中央通りの中ほどに、商業施設・イルフプラザがあります。
街の中心部ながら5時間無料の駐車施設をもつイルフプラザは、岡谷市街を訪れる際の駐車場所としてマストな存在です。
2回目の訪問となりました。

中央通りにそびえるイルフプラザ
イルフプラザ駐車場。地方でも5時間無料は大サービス!

イルフプラザ食品館で掘り出し物を探します。
今回もリンゴのB品が10個ほども入って、290円で売られていました。
一瞬触手が動いたのですが、リンゴの加工品を作るにはまだちょいと時期が早いかな?と思い返して我慢。
地元の味噌と、今晩のお惣菜を買いました。

地元岡谷の味噌をお買い上げ

土曜日のこともあり、食品館の集客もまあまあ。
何より、ご当地の、地元感を味わえる貴重な場所でした。
ゲームコーナーには独特の寂寥感が漂っていましたが。

イルフプラザ館内には「ケンカ禁止」の張り紙。御嶽海もにらみを利かす
岡谷にはスカラ座というシネコンがある
イルフプラザ横にある味噌蔵。煙突が立派
イルフプラザから岡谷駅方面を望む


蚕糸博物館で初めて知る岡谷の盛隆

なぜ岡谷が戦前に村から飛び級で市制に移行したのか?

なぜ、岡谷が東洋のスイスと呼ばれる精密工業の中心地なのか?

その源流が、明治から戦前にかけての製糸工業の発展にあることを学べる場所がありました。

この博物館は、過去の遺産の展示だけを行ってはいませんでした。
なんと現役の製糸工場が組み込まれた博物館だったのです。

製糸の歴史の展示コーナーの続きには、現役の工女さんが糸繰をする様子が見られる操業コーナーがあります。
機械が並び、数人の女性が操業しています。

デモンストレーションにしては意気込みが半端ではないな!と思って見終わると、現役製糸工場の実際の操業です、との説明がありました。
博物館は実際の工場が組み込まれたものだったのです。

全盛期には、岡谷の人口の半分が製糸工場の工女だったことや、寮暮らしの工女たちが消費する食料、燃料などの流通が岡谷の経済を発展させたことなどが、博物館の展示コーナーで学べます。

興味ある向きには、工女が手動で操った当初のものから、現在の無人全自動機に至るまでの製糸機械の現物が代々展示保存されているのも貴重です。

戦後、生糸が衰退した時、いち早く精密工業を誘致できたのも、製糸工場というハードと、工女という熟練ソフトが残っていたため、との流れです。

伊那道と呼ばれる、市役所が面するもう一つの目抜き通りにも古い商店の建物がわずかに残り、かつての町の隆盛をかすかに漂わせています。

いまだ残る数々の製糸工場跡などの文化的活用が、わかりやすくアピールされているとは、まだまだ感じられない岡谷ですが、その隆盛の名残が漂っている町でした。

帰りは下諏訪温泉でひとっ風呂

岡谷の帰り道は国道20号線を通って。
途中の下諏訪でひとっ風呂。
菅野温泉、250円。

まちがいありません。

八ヶ岳高原ラインを走ってみた

八ヶ岳南山麓の標高1300メートルあたりを巻いて走る道路があります。
八ヶ岳高原ラインといいます。
小淵沢から清里を結ぶ、山梨県の県道11号線の別称です。
久しぶりにこの道を通って清里、野辺山、小海を回ってきました。

今回のルートをマジックでなぞってみました


八ヶ岳エコーラインから高原ラインへ

山小舎から大門街道を茅野へ下ります。
途中、八ヶ岳エコーラインにぶつかるので、原村方面に右折します。

八ヶ岳エコーライン

原村に入る直前に、八ヶ岳農業実践大学方面に左折します。
ここの売店に寄ってみます。

農業実践大学の売店内部
農業実践大学構内の芝生から八ヶ岳方面を望む

農業大学をさらに八ヶ岳に向かって走ると、美濃戸口と呼ばれる場所があります。
八ヶ岳連峰の主峰の一つ、赤岳への登山口です。
美濃戸口を入ったところに駐車場もあり、赤岳などへの登山ルートがあるので一度登ってみたいものです。

美濃戸口登山口の看板。路線バス終着点


山梨県へ入り、県道11号線(八ヶ岳高原ライン)へ

美濃戸口から、長野県内を県道484号線で、八ヶ岳山麓を南下、富士見町に入ります。
両側に富士見高原と呼ばれるレジャー施設が続きます。

県道484号線を山梨方面へ

山梨県に入り、県道11号線にぶつかるので左折。
ここからが八ヶ岳高原ラインです。

別荘やレジャー施設は影を潜め、雑木林が両サイドに広がる道を進みます。
原生林の道、といった感じのいい道です。

天気が悪いと霧に包まれる標高1300メートルの道です。
この日は晴天で、行きかう車、バイクでひっきりなしでした。

県道11号線を清里方面へ
途中に「仙人小屋」があった。壁板に熊の毛皮がぶら下がる
仙人小屋の本日のメニュー


ペンションブームの清里は今

やがて高原ラインは清里に至ります。
かつてペンションブームで栄えた、清里駅周辺は、昨今の事情を勘案しても、ひっそりとしていました。

ペンションブームが終わったことと、鉄道客の減少のせいでしょうか。
付近の国道141号線沿いの施設が、自家用車で混雑しているのを見ると、時代の移ろいを感じざるを得ません。

この日の清里駅前の目抜き通り

清里地区の美し森。
ここいら辺は、都市部の自治体や大学などの保養施設のメッカでもあります。
山小舎おじさんも20年ほど前は、毎冬、自宅のある調布市が持っている「少年自然の家」へ、家族でよくスキーに来ていました。
調布の学校に通っていた子供たちは、夏の林間学校などでよく来ていたようです。

調布市八ヶ岳少年自然の家の入口
調布市の施設の全景。外壁などは補修されているようだ

小金井市や明治大学の施設が近所にあります。


南牧村美術民俗資料館

国道141号線(佐久甲州街道)を野辺山方面に走ると、右手に南牧村美術民俗資料館という建物がありました。
寄ってみました。

館内は民俗資料館と美術館に分かれています。
おじさんは民俗資料館のほうに興味がありました。
展示内容は、先史時代の遺跡や石器から、近代の農具や生活道具など。
地域の動植物のはく製、標本など。
いわば各地にある博物館、資料館の定番です。

展示物の中でやっぱり気になるのが、昔の写真です。
南牧村は野辺山といったほうが有名ですが、戦後の開拓時代の写真などは雄弁に地域の歴史を物語っています。

展示物を開設するパネルが毛筆で書かれていたので、学芸員の女性に聞いてみました。
地域の高齢の筆自慢がものしたのかな?と聞くと、そうではなく女性書道家によるものとのこと。

そのほかにも、標高2000メートルにある露天風呂に2時間歩いて入ってきた話、高原野菜を生産する農家の事情など、女性の学芸員は、世間話をするように、南牧村の情報をたくさん話してくれました。

たっぷり話ができて、南牧村が好きになった山小舎おじさんでした。

パンフなどを持っていたら、学芸員さんがポスターを再利用した袋をくれた。
付近には鉄道最高地点がある


海ノ口と海尻

国道141号線を小海方面へ北上します。
高原野菜が広がる開けた地形が狭まり、急坂を降りてゆくと、海ノ口という地域です。
このあたり、野辺山の観光ポイントも多く、高原、牧場といったハイカラなイメージの世界から、昔ながらの鄙びた歴史の世界へと一変します。

大昔、浅間山の噴火でせき止められた千曲川がこのあたりで湖を形成していたとのことです。
湖の入口が海ノ口で、出口が海尻と呼ばれ、地名が今でも残っています。

谷が迫り、標高が下がった海ノ口付近の地形
海尻まで川沿いの谷の地形が続く

海尻地区の国道沿いに、古い神社がありました。
諏訪神社でした。
墓地が隣接していたので、「もともと神社とお寺が一体となっていた場所が、明治時代の廃仏毀釈で神社として残ったのかな?」と思っていたら、国道の少し先に立派なお寺がありました。

海尻にある諏訪神社

海尻山医王院という天台宗のお寺で、門構えにあたりを払う威厳があります。
裏山に海尻城という、戦国時代の山城の跡があるとのこと。
お寺自体も佐久33番観音霊場の19番札所とのこと。

医王院の入口
本堂へ続く参道に立つお地蔵さんと仁王像
山門と鐘突き堂が一体となった、鐘楼という作りの山門が建つ

国道を挟んで、医王院の反対側に位置する集落の家々にも歴史を感じます。

門前には古民家が残っていた


番外・道端の古墳

八ヶ岳南麓を回り、野辺山、小海など八ヶ岳の東側を北上。
八ヶ岳北側山麓を西へ回って山小屋へ帰りました。

帰り道、佐久市望月地区から白樺湖方面へと向かう峠道のふもと。
ふもとの集落の一角に古墳がありました。

大規模な古墳ではなく、民家の片隅に取り残されたような風情です。
標識がなければそれとはわからず、保存状態も成り行き任せ。
いつの時代の誰のものなのかも判然としません。

県内では、前方後円墳の巨大なものでも、その由来は皆目不明で、便宜的に地名を冠した○○将軍塚、などと呼ばれています。
畿内の「由緒ある」古墳群と異なり、地方のその時代の歴史は何の記録もない「暗黒時代」なのです。

古墳全景。標識がないとわからない
山の神第三号古墳というらしい。よく残り、発見してくれたものだ
古墳入り口の様子。間に合わせの保護状態が何とも言えない
古墳内部。鉄板の隙間からのぞける

記録が残っていないだけで、いわゆる古墳時代から、この信州には人間の歴史が、あちこちに色濃く刻印されているのでしょう。
何せ、浅間山が噴火して、千曲川をせき止めたのは西暦800年代のことで、それに由来する地名の、海ノ口、海尻が今に残っているのですから。