防獣ネットを張る

畑に防獣ネットを張りました。

諏訪の神様への供物の鹿。
山小舎おじさんの畑にやってくる鹿は、農作物に餌付けされた「野良鹿」。

人間としては、「ここは鹿の来るところではない。食べ物は野生のものらしく、自力で探せ」と示さなければなりません。
鹿としては「そんなこと言ってもここに我々が食べられる植物があるじゃないか」といって開き直り、安易な採食をやめようとはしないでしょう。

そこで、物理的に食べられないようにしようということです。
防獣については、人間世界では、「駆除か防御」しかない、と一応の結論が出ているところです。
防獣「第三の道」はおじさん、現在勉強中で、今年の畑には間に合いません!

準備

資材を整えます。
今までの「そこにある材料で簡単に」という考えはこの際捨てることにします。

必要な資材を、最低限必要な資金を投入してあつらえます。
とりあえず畑1枚にネットを張ることにして、長さ50メートル、高さ2メートルのネットを購入しました。
ネットを支える支柱を25本も用意します。

支柱は通常の園芸用のものですが、端っこにネットの紐を支える溝がついており、もう一方の端は尖っているものです。
また、四隅の支柱用に太いものを5本ほど用意しました。
全体の強度のためです。
これで〆て1万5千円ほどの出費です。

支柱を地中数十センチまで埋め込むには人力では困難です。
冬作の玉ねぎ用の囲いを作ったときにその事実を痛感したおじさんは、穴堀機の導入を考えました。

「現代農業」の特集記事を参考にし、茅野にある農機具販売店を訪ねて情報収集。
最終的にはネットの楽天市場で2万円ほどの穴掘機を購入しました。

国産品では十数万(エンジン式)から数万(充電式)する機械が2万円は安すぎるのですが、こちらにも予算があります。
ここまでで計4万円弱の予算執行。
これで来年以降もジャガイモなどが収穫できるのであれば結構なのです。

ネット通販で穴掘機(オーガ)を買いました

作業(支柱立て)

いよいよネットを張る作業です。

不慣れな作業を一人で行うには不安があります。
ネット動画で同様な作業の模様を閲覧しました。

キモは支柱をしっかり2メートル間隔で立てること、ネットをたわまないように張ること、ネットの下はある程度地面に垂らすこと、を学びました。

さていよいよ実践です。
穴掘り機で穴をあけてゆきます。
ほぼ順調に掘り進む場所、いったん耕盤層に当たるもののそれを突き抜けるとさらに掘り進む場所、硬い場所に当たってそれ以上掘り進めなくなる場所、といろいろありました。

ドリルごと体を持って行かれそうになったりもしました。
心配していた機械の調子ですが、エンストやエンジンからの白煙などがありましたが、無理せず休ませながら使うと何とか一日持ちました。

タコ糸のしるしに合わせて穴掘りします
オーガは穴掘りに活躍してくれました。人力でここまでの穴掘りはとても無理

あけた穴に支柱を放り込んでゆき、さらにハンマーで上からたたいて埋め込みました。
穴の深さ(土の堅さ)によって支柱の高さに違いが発生しました。
どうしても穴が掘り切れない場所は、少しずらして穴を掘りました。
ハンマーで叩き、穴を踏み固めると支柱はしっかり立ちました。
高さと角度を微調整しました。

四隅の柱や若干ぐらぐらする支柱には支えとして、短い支柱などを立てて結束バンドで本支柱と結び合わせました。風の強い日など、支柱が地面で折れてしまうのを防ぐためです。

脚立に乗り、ハンマーで支柱の頭をたたいてしっかり土中に固定します
支柱が立ち並びます。深さ、角度には若干の不ぞろいがあります

作業(ネット張り)

作業のハイライトはネット張りです。
まずネットを支柱の外側の地面に渡します。

50メートルのネットは重さこそないのですが、一馬力の人力で一気に片付く分量でもありません。
順を追って作業します。

まずは、丸まっているネットの中心に支柱を通して、端っこに立てておきます。
これをくるくる回しながら渡してゆこうというのです。
この際、ネットの先端にも、フリーの支柱一本を結束しておきます。
この支柱を引っ張りながら渡してゆきますが、何せ50メートルの距離です、一気に渡すことなど無理なので、少しずつほどきながらほどいててゆきます。
2人いればはかどるのになア、と思いながらの作業です。

50メートルのネットを立てて回しながらほどいてゆきます
ネットを渡し終わりました

渡し終わったネットを、最初の支柱から、張ってゆきます。
支柱の上部の溝に通し、ネットがたわまないようにします。

ネットの中程と下部は結束バンドで支柱に固定しますが、まずは上部と中程を、テンションをかけながら張ってゆきます。
風の強い日で、ネットが風邪を受けて膨らみます。
支柱がたわみます。
偉大な自然の力の一端が思い知らされます。

渡し終わったネットを張ってゆきます
一面を張り終わりました
入り口部分を除き張り終わりました

ひと渡り結束し終わり、地面には余ったネットが垂れています。
鹿はジャンプするのは最終手段で、できるだけネットや柵をくぐって侵入するそうです(ネット情報)。
最終的には外に垂らしたネットの端を津で埋めるなどして、鹿対策の万全を期したいと思います。

今日の作業は終了

風も冷たくなってきた4月の夕方近くの畑。
予定の作業を終えて山小舎への帰途に就くおじさんでした。

雨の上田映劇で 「時をかける少女」

明日の天気予報は雨。
上田映劇の上映情報を見たら「時をかける少女」をやっている。
当日、朝8時に山小舎を出て上田に駆けつけた。

上田に残る「興行街」には上田映劇だけが残る。隣のストリップ小屋は廃業。否これも映画のセットの名残りか?

うえだ子供シネマクラブの第9回の企画とのこと。
シネマクラブは、映画館を利用して子供の居場所を作ろう、という趣旨のもと、NPO法人が月2回、上田映劇を舞台に行っている由。

上田映劇って、そもそもがNPO法人だし、映画に限らず演劇の舞台でもあるし、ロビーには地域の有志が、情報誌、手芸品、Tシャツ、古本を並べているし、すでに地域の居場所ではあるんだけどね。

「時をかける少女」。
1983年作品。
監督:大林信彦。
主演:原田知世。

今回はフィルム上映。
もぎりにいた支配人に「映写技師はどうするの?」と聞くと「私がやります」とのこと。
日大芸術学部大学院出身で地元にUターンしたという若い支配人には、年に何回かの入場ではあるにせよ、そのたびに映画について話しかけたくなる山小舎おじさんです。

半年ぶりの上田映劇。
ロビーの雰囲気は変わらないが、あらたな情報誌が展示してあるなど、地元有志の参加の度合いが増えているような気がする。
入場者の感想ノート(感想文にはスタッフからの返事が赤字で追記されていた)が見当たらくなったのは残念だったが。
これもコロナか。

館内の設備にも変化があった。
水漏れするので補修カンパを募っていたこともあった天井には扇風機が回り、舞台の袖には大掛かりな装飾が・・・。
支配人に聞くと、扇風機はもともとあったが、舞台袖の装飾は映画のロケの大道具とのこと。
ロケのセットを壊さないのも上田映劇流だ。

館内の舞台袖の装飾は映画のロケセットだという

さて、映画上映が始まった。
観客は朝イチと天候のせいもあるのか、ほかに一人のみ。

見終わって、感動している山小舎おじさんがいた。

原田知世がいい。
少女が戸惑い、成長するけなげな姿がいい。
彼女の不安、愛情の芽生えなどがドラマチックに表現されている。

あるいは、現実の少女の実像を追う映画であれば、作り手の先入観を裏切る瞬間の表現も避けては通れないだろうが、この作品は大林監督(そして角川春樹制作者の)主観が優先された作品だ。
描かれているのは少女像を通しての作り手の幻想だ。

同時に、デジャブ(既視感)を表現した映画でもあった。
ストーリー上、未来人と絡むタイムトラベルの話ということになっているが、そこに至るまでの数日間の表現は、まさにデジャブに戸惑う少女の描写に終始している。

主人公の不安な心理を表す、影や夜を多用したシーンが続く。
うまくカットをつなげ、主人公同様、観客もタイムトラベル(スリップ?)というデジャブを味わわされる。
主人公の不安感はデジャブによるものであり、同時に思春期独特の感情によるものでもあることに気づかされる。

デジャブの混乱と、大人へと向かう成長の感情がクロスするクライマックスのシーンでは、ここまでほぼ封印してきた、大林監督の映像テクニックがさく裂する。

駒落し、脱色、着色、書込み、逆光、移動、を駆使したカットは、大林初期の16ミリ作品「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1967年)以来の十八番であり、大林作品必須の映像テクニックだ。

他にも大林監督がこだわったカットに、原田知世が素足に下駄をはく姿があった。
「日本全体のデジャブ」ともいえる尾道の裏町風景を背景に、制服姿や昭和の私服姿で現れる少女の描写は、大林監督の念願でもあったろう。

原田知世は、アップに耐え、アップになると魅力が現れる。
このひとの20代の代表作を見てみたいと思った。

「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」は、自主映画の名作といわれ、山小舎おじさんは大学生時代に見る機会があった。
あの日、上映が終わった瞬間に観客が一人、ホールの舞台に駆け上がり何かしゃべろうとした。
期待にざわめく会場。
結局、舞台に駆け上がった彼はうまく言葉が出ずにいて、やがて引っ込んでいった。
それは、観客の映画的興奮を代弁しようとしたかのような、夢の中のような、それこそデジャブのような光景だった。

大林作品というと、「いつか見たドラキュラ」の目くるめく映像テクニックとともに、舞台に駆け上がった青年の姿を思い出す山小舎おじさんです。

続々・諏訪の神様が気になるの 御頭祭で「鹿の頭」を覗き見る

毎年4月15日に、諏訪大社本宮と前宮を結んで、御頭祭が行われる。
本宮を出発したみこしの列が、前宮まで行列し、前宮で鹿の頭を供えて祈祷するという「奇祭」だ。

事前に確認すると、行列が本宮を出発するのは13時ころとのこと。
神長守矢資料館で仰天した鹿の頭のお供えの現実版が見られるのだ。
果たしてそこには土着の縄文系神様の魂が感じられるのか。

当日の諏訪大社本宮の鳥居

「諏訪の神様」初心者の山小舎おじさんは、畑仕事を休んで駆けつけました。

12時半ころの本宮駐車場はガラガラでした。
境内へあがってゆくと、半纏を羽織った人の姿が見えました。
下から拝殿のほうを覗くと、ネットで見た、黄色い装束が見えたので慌てて上がってゆきました。

境内には法被を着た関係者の姿が

三々五々、黄色や白の装束を着た参加者が集まっています。
女性もいます。
参加者の一人に話しかけてみました。

拝殿の前にはみこし行列を担う方々が。女性の姿も見える

「地区の人が抽選で役割を割り振られる」とのこと。
「女人禁制ではない」とのこと。
「言われたとおりのことをするだけ」とのこと。
「おみこしで前宮まで運ぶのが何かは知らない。詳しいことは巫女さんにでも聞いてくれ」とのこと。
地区の行事に半ば義務感だけで参加しているかのような気楽さあふれる返答ぶりでした。

やがて神主さんがやってきて、彼らにいろいろと指示を出します。
指示に従って、一般人立ち入り禁止の拝殿前に入ってゆきます。
やがて、色とりどりの装束を着た神主の集団、背広を着、法被を羽織った地区の有力者など参拝者の集団、みこしを担ぐ集団の3つに分かれて拝殿前に整列します。

神主の合図で拝殿に向かって並び始める関係者たち
儀式を見守る見学者たち

やがて神主が祝詞を上げ、拝殿から何物かを下ろし、みこしに乗せます。
おろしている間は参加者は頭を下げ続けます。

神主集団はマスクをしていませんが、何物かを下ろすときだけは息がかからないようなマスクをし、手袋をつけていました。

境内には雅楽が(テープで)流れ、礼拝などの合図はマイクから流れます。
みこしに何物かが乗った瞬間には花火まで打ち上げられました。
このころになると、見学者が増えてきました。

神主が拝殿に上り祝詞を唱える
前宮へ「持ってゆくもの」がみこしに乗せられる
担ぎ手がみこしを担いでいよいよ行列が始まる

境内から参加者が流れ出て、前宮へ向かう列を作ります。
見学者の多くもついてゆくように流れてゆきます。
おじさんは軽トラに戻り、座席で弁当を食べてから、前宮へ向かいました。

関係者がみこし行列を形作る

本宮から前宮への道路は、おみこし行列のため交通規制されており、う回路に不案内なおじさんの軽トラはあちこちさ迷い歩きました。
やっとのことで前宮駐車場にたどり着くと、行列はすでに到着していました。

鹿の頭を供えて祝詞を上げる建物の脇には見学者がぎっしり。
カメラの砲列ができています。
ここが祭りのクライマックスだと多くの見学者は知っていたのでしょう。
出遅れた山小舎おじさんは、神主の姿を眺め、体をねじってようやく鹿の頭を実視しました。

前宮では神主が拝礼する
お供えの鹿の頭が並ぶ
儀式を見守るカメラの砲列

建物の反対側には有力者らが整列して参列しています。
方や、黄色い装束の担ぎ手たちは、境内の片隅で三々五々休んでいます。

担ぎ手は参列できないということなのでしょうか。
ということはもともとの身分と関係することだったりするのでしょうか。

確かに見学者が気軽に声をかけられるのは、担ぎ手の方々までで、参列者や神主などは全く「別格の」「あちら側の」人といった感じなのです。

有力者たちは恭しく参拝する
方やみこしの担ぎ手たちはリラックス

前宮での儀式が続く中、おじさんは境内を後にしました。
いつも参拝者で賑わう本宮はともかく、いつもは静かな前宮が輝いて見えました。

神社には地元の人が似合います。
久々に地元の人でにぎわう境内には、にぎやかさと明るさがあふれていました。
地元の神様が喜んでいるのでしょう。
これが本来の前宮の姿なのだろうなと思いました。.

別の拝殿には、野菜、果実、魚のほか名産の寒天が供えられていた
みこし行列がかつできたなぎなた。重かった。
前宮からは雪を頂いた八ヶ岳が望まれた

続・諏訪の神様が気になるの  神長官守矢資料館と諏訪博物館へ行った

諏訪の神様とは何か?、気になってしょうがない山小舎おじさん。

「諏訪の神様が気になるの 古文書でひもとく諏訪信仰のはるかな旅」を読んで、諏訪の神様の正体へと向かうであろう、様々なキーワードが、おぼろげな霧のかなたから浮かび上がりました。

キーワードは、大祝(おおほうり)、神長(じんちょう)、諏訪氏、守矢氏、ミシャグジ等々。

「諏訪の神様が気になるの」にも重要人物として登場する守矢氏。
神長官という諏訪大社の神官を78代にわたって受け継いでいる家系です。

もう一方の神官のトップが、大祝と呼ばれる職位で、こちらは諏訪氏が受け継いできたのですが、もともとは守矢氏の方が諏訪地方の先住だったとのこと。
その守矢氏は、諏訪大社の「公式」の主祭神・建御名方神より古い、洩矢神という神様をもともとは祀っていたのだといいます。

神長官守矢資料館へ

そいういえば、茅野市にある諏訪大社の前宮から、諏訪市の本宮へと向かう道路脇に、「神長官守矢資料館」なる看板を見たことがある山小舎おじさんでしたが・・・。

守矢氏?WHO?。
わけのわからない古文書が展示しているだけ?つまらなさそう、と寄ることはありませんでした。

今や、守矢氏なるキーワードは、「諏訪の神様初心者」としてのおじさんにとっても避けては通れないところ。
早速、資料館に向かいました。

資料館は、78代続く守矢家の敷地内にあります。
屋敷そのものは現在空家で、78代当主の守矢早苗さんは東京住まいとのこと。
門構え、母屋、祈祷殿が保存されています。

敷地内には、古文書保存と資料展示のための資料館が建っています。
また、ミシャグジ神を祀る祠や一族の墓、古墳などもあります。

表通りに立つ看板

門をひとたびくぐると空気が一変。
折からの季節のためか、咲き乱れる花々と降り注ぐ陽光。
手入れされた下草の斜面に今を盛りと桜が点在しています。
草の斜面では来場者の親子が遊んでおり、屋敷の若い住人が庭で戯れているのかと見まごうようでした。

表札が残る門構え
門を入るとまず祈祷殿がある
祈祷殿の隣が母屋、今は空家だ

資料館に入ってみます。
学芸員の方の解説を聞くまでもなく度肝を抜かれるのが、壁一面に備え付けられた鹿やイノシシの頭。
ウサギの串刺しもあります。

御頭祭という毎年春の諏訪大社本宮のお祭りに関する展示です。
神様へのお供えとして、鹿の脳みそやウサギの燻製などの展示もありました。

資料館が建つ
資料館の内部はパンフレットから転載

一見して、この展示は神事を表したものなのか、縄文時代の狩猟生活を表したものなのか、はたまた、地域の自然環境を表したものなのか、理解ができずに混乱しました。
解説を聞いて、諏訪の神様を祀る神事を表したものと確認し、再び驚きました。

文字だけで接してきた、諏訪の神様が実像を伴って現れた瞬間でした。
それは、物質、生命の塊ともいえる獣の質感を持ったものでした。

敷地に建つ案内板
母屋の全体像

神社では、お米と塩を供えるものだと漠然と思っていた山小舎おじさん。
天照大神一族を祀る高天原系(天孫系)の神社はその通りなのでしょうが、ここは諏訪。
高天原勢力に放逐された神様が遷座した土地。
いや、それ以前から土着の神々が息づいてきた土地です。
それらの神々はいわゆる縄文系の神様で、狩猟による山の幸がごちそうだったのです。

土着の神々の総称ともいえる?ミシャグジ神を祀る祠もありました。

ミシャクジ神を祀る祠

大祝・諏方家のお墓が、敷地上手の一等地に日の光を浴びて勢ぞろいしています。
守矢家と諏方家の関係や如何?

日を浴びて墓標が建つ

敷地を奥へ行くと、不思議な物体がありました。
資料館をデザインした藤森照信氏による、空飛ぶ泥船と高過庵です。
地元出身のデザイナー藤森氏が、太古の諏訪神にインスパイアされての創作なのでしょうか?

敷地に建つ泥船。
同じく高過庵。

守矢家は不思議な空間でもありました。

諏訪市博物館へ

諏訪大社本宮前に諏訪市博物館があります。
おじさん2度目の訪問は、諏訪の神様という目的を持ってのもの。

パンフレット表紙

常設室の展示物には、廃仏毀釈の折に、隠しおおせて破棄を免れた仏像(本宮に隣接する神宮寺の五智如来)などがありました。
神仏習合の時代には、神宮寺の敷地のほうが諏訪大社本宮の何倍も広大だったことを示す地図なども。

パンフレットより

博物館の奥に、その名も「すわ大昔情報センター」という資料室がありました。
入ってみると郷土史に詳しい係の人がいて、「諏訪大社のことを知りたくて・・・」と訪れたおじさんに、まずは入門書的な写真版概説書を取り出してくれました。

それを閲覧した後、書架を眺めていると、おじさんの興味を察したのか、係の人が出してくれたのが、ミシャクジ神についての冊子でした。
その冊子には、守矢家の77代当主・守矢真幸が書き残した、一子相伝の「神長家の秘伝」なるとじ込みページがあり、薦められてコピーして帰りました。

いきなりの本格的な資料は猫に小判ですが有り難く頂きます。
同時に、地元の有志の郷土に対する愛着と探求心を強く感じた山小舎おじさんでした。

コピーした「神長家の秘伝」
77代当主真幸の筆跡部分

「諏訪の神様が気になるの」・・・

長野県に住んで早や5年目。
山小舎の簡易神棚には毎年、諏訪大社と生島足島神社のお札をいただいています。

山小舎は行政的には上田地方に属するので、生島足島神社のテリトリーですが、直線距離的には諏訪が近く、東京からの入口でもあるので、諏訪大社へのお参りも毎年欠かしません。

「諏訪の神様が気になるの」という本を読みました。
東京の書店で見かけました。

2020年信濃毎日新聞社刊。
同新聞は、北海道で言えば「道新」のような存在で、午後のローカル番組には、同社のデスク格のおじさんがコメンテーターで出ていたりします。
著者は1958年上田生まれという女流作家です。

そもそも諏訪の神様って、どんな神様?という著者の疑問からスタートしたこの本。
著者は数々の古文書を紐解く方法によってこのテーマに迫ってゆきます。

著者が読破した古文書は「古事記」を始め、「諏訪重信解状」(1249年)、「諏訪大明神神絵詞」(1356年)などなど。

諏訪初心者の山小舎おじさんにとって、迷路のような世界です。

諏訪大明神はともかく、建御名方神(タケミナカタノカミ)、ミシャグジ、などの神様の名前。
大祝(オオホウリ)、神長(ジンチョウ)などの神職名。
これらはおじさん、初めて聞く名前です。

これらに各時代の個人名が加わって、神話時代から現代までの出来事がこまごまと続くので、文字を追うのが精いっぱい。
本文中のエピソードが記憶に残らなく、全体の流れなど霧の中をさまようがごとく、まったく把握できませんでした。

著者は山小舎おじさんより2歳年下でした

その後、神長職を77代務めたという守矢家の資料館を訪れたり、諏訪博物館の資料室を訪ねたりして、おじさんなりに、諏訪の神様像を求めてゆきました。

このブログをまとめるにあたり、改めて「諏訪の神様が気になるの」を斜めに再読してみました。
ちんぷんかんぷんだった本書の内容と、諏訪の神様の世界がおぼろげに浮かび上がってきました。

諏訪の神様を紐解くキーワードごとに章建てした内容

諏訪の神様たち(「諏訪の神様が気になるの」より)

「古事記」によると、大国主神の息子の建御名方神が高天原からの使者により諏訪湖のほとりに追放された、いわゆる国譲りが行われたとある。

一方、国譲り以前から諏訪地方には土着の神様がおり、それは、神長を務めた守矢家が祀る、洩矢神だったり、包括的にはミシャグジと呼ばれる古来の神格、霊性たちであった。

諏訪大社は、実はこれら歴代の神々を祀る社であること。

神仏習合時代には仏も含めて祀っていた。
明治維新後の廃仏毀釈と国家神道の流れの中で、主祭神を建御名方神として時代に迎合し現在に至っている。

独特のイラストに彩られた本です

神職たち(「諏訪の神様がきになるの」より)

大祝といわれる、諏訪大社の神職は諏訪家が代々務め、祭祀と為政者のトップとして君臨していた。
同時に、先住者として、諏訪家と争ったものの、敗れた守矢家が、下社周辺にあって、神長という神職を続けた。

諏訪家、守矢家ともども、鎌倉時代には武家化し、実力を持って血で血を洗う抗争を行い、また武田氏など時の支配勢力に迎合・対立するなど、時代によって変容しつつ存在してきた。

最終的には明治維新後、国家神道のもとに統制されることになった諏訪大社に於いて、諏訪家が担ってきた大祝職は消滅し、地元の血脈による諏訪大社の運営はその長い歴史を終えた。

神長・守矢家は、ミシャグジ神を下ろすという、一子相伝の秘法こそ明治で途絶えたものの、78代目が現存している。
当代の女性は家に伝わる古文書を茅野市に寄付し、資料館で保存して後世に伝えている。

読後感想

以上は、山小舎おじさんが本書を再読後に、無理やり内容の一部を要約したもので、理解不足があるかもしれません。

いずれにせよ、静謐として整えられた現在の諏訪大社の背後には、鬱蒼たる太古の神々が控えていることを想像して、興味が絶えないことを感じています。
おじさんなりに、その実像に迫ってゆこうと思っています。

このテーマについては、次回以降、「神長守矢家資料館訪問記」、「諏訪大社下社の御頭祭祭見物記」、などでブログでフォローしてゆきたいと思います。
ブログのシリーズ名は、勝手ながら、「諏訪の神様が気になるのVOL.〇」にしようと思います。

大祝(諏訪家)と神長(守矢家)の当初の抗争のシーン

山小舎暮らし再開!初仕事は蜂の巣箱づくり!?

令和3年も4月になりました。
今年も山小舎へ帰ってきました。

ところで、山小舎おじさんの奥さんが突如、養蜂に興味を持ち始めて、栃木まで泊りがけで行って、日本ミツバチの養蜂を学んで帰ってきました。
今年の山小舎オープンに同行した奥さんは、巣箱を持参してきました。

巣箱の設置場所を考えた結果、山小舎近辺ではなくて、畑周辺に設置することとしました。
標高1400メートル近い山小舎は、蜜となる花の種類も少なく、スズメバチはよく見かけるのですが、ミツバチはあまり見かけないからです。

畑の近くに大家さんがシイタケ栽培をしていた場所があります。
栗の木が生えていて、ちょっとした日陰になっています。
こんな場所もあるよ、と大家さんから案内されていた場所です。
ここに巣箱を設置することにしました。

奥さんが巣箱を設置してゆきます。
土台はコンテナ2つにしました。
コンテナの上に板を敷き、5ミリの隙間をあけて「せいろ」のような枠を3段ほど積んでゆきます。
ふたをかぶせて、さらに波板で屋根を作り全体を縛って完成です。

奥さんが巣箱を組み立て始めました
木枠を4段ほど積み重ねます。ずれないようにします
波板固定して雨除けとします。木枠の最下段と底板の間の5ミリの隙間から蜂が出入りするそうです

実に簡単な構造です。
養蜂でよく見る蜜がしたたる板を引き上げて採蜜する方式は、西洋ミツバチの養蜂なのだそうです。
日本ミツバチの養蜂は、木枠を重ねた巣箱の中に作られた巣の一部を切り取って採蜜するのだそうです。
かつては農家が片手間に巣箱を山林に放置して日本ミツバチの養蜂をしていたそうです。

巣箱の設置場所近くに咲く山桜

奥さんの後を受けた山小舎おじさんは、直売所などでパンジー、芝桜、なでしこなどの苗を買ってきて、巣箱のまわりに植えました。
西日が当たらないように設置場所を塩梅して、コンテナを杭で固定しました。
周辺にえひめAI液を散布しました。
昆虫は良く寄ってきます。

果たして日本ミツバチは来るのでしょうか?

コンテナがずれないように杭で固定します
周りに花を植えました

4か月ぶりの畑は、南側の山の木が伐採されていました。
一段上の畑の持ち主が伐採しているようです。
おかげ様で畑の日当たりが格段に良くなります。
野良鹿たちも隠れ場所がなくなって行動ルートを変えてくれればよいのですが。

一段上の畑はいつの間にか薪割場所になっていました
山小舎おじさんの畑から見ても山の木はほとんど残っていません

大家さんの家の裏の畑が、おととしの台風19号で土石流に襲われてから1年半たっていました。
こちらも復旧工事の順番が回ってきました。
うまくいけば来年くらいから畑が復活するかもしれません。

畑があった場所。土石が撤去され平らに整備されている

光文社新書「松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち」を読む

「映画」には様々な切り口がある。
作品からの切り口、撮影技術や演出などに焦点を当てた切り口、脚本からの切り口。

一方、映画作品は公開して完結するものである。
映画作品の公開は、それによって作品評価の機会となるだけではなく、高額な制作費用の回収の意味を持つ。
映画作品と興行とは切っても切れない関係を持っている。

「松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち」という新書を見かけたので買ってみた。
映画にとって切っても切れない興行の世界を理解したいと思った。

この本は、現在でも映画興行の世界に君臨する2社の創業者の生い立ちから、主に戦前までの推移を追った労作だった。
その時代は映画製作と興行が隆盛を迎える前のことで、興行は歌舞伎などの芝居を出し物とする時代だった。
両社が、歌舞伎、新劇、歌劇、レビュー、映画などを出し物に、興行界を、あるいは制覇し、あるいは形作ってゆく姿を、ひたすら客観的に、細かく追った本で、2,3行読み飛ばすと流れがわからなくなるほどの情報量に満ち満ちた内容だった。

松竹の歴史

松竹の歴史は、白井松次郎と大谷竹次郎という双子が明治10年に誕生したのをきっかけとしている。
父親は、祇園の芝居小屋の売店を経営していた。

父親がある芝居小屋のオーナーになったことから、双子が芝居小屋の経営に参画し、やがて京都新京極、大阪道頓堀の劇場を次々に買収していった。

前金制度で、銀行融資を受けられなかった時代の芝居興行にあって、松竹(この時代にはマツタケと呼ばれていた)の経営戦略は一つの芝居町の劇場を独占し、歌舞伎、新劇、レビュー、喜劇などの出し物をそろえ、どれかが不入りでも、別の人気の劇場がカバーするというものだった。

松竹は単に数多くの劇場を経営するだけでなく、劇場経営に関する悪習を改革していった。
木戸にたむろするごろつきの排除、幕間の時間厳守、役者のセリフ忘れの厳禁など、現在では当たり前だが、当時は慣行だった悪習を経営者として断っていった。

一方で、関西の歌舞伎界の名優、中村鴈次郎と出会い、松次郎が終生のマネージャーとして盟友関係を結んだことが後々にわたって松竹を助けた。

明治42年にはその鴈次郎が歌舞伎座に客出演することによって東京進出を果たし、後の歌舞伎座買収に至る道筋をつける。
この時代には東西の歌舞伎役者のほとんどを支配下としており、浅草に劇場を得て、東西の歌舞伎界を支配するに至る。

大正9年映画部門に進出する。
43館の映画館をチェーン化し、配給、興行事業からのスタート。

大正13年には京都下賀茂に撮影所を作り映画製作を開始。
林長二郎(のちの長谷川一夫)が専属の人気スターとなる。

映画部門の責任者として松次郎の娘婿、城戸四郎(のちの松竹映画社長)が入社する。

松次郎が歌劇へ乗り出し、昭和3年には楽劇部が設立、水の江瀧子が断髪男装で人気を得る。

昭和12年、松竹株式会社が設立し、東西の演劇部門と映画部門を併合がなった。
ここからショウチクと呼ばれることになる。

戦時統合により映画会社が3社体制となった際にも単独で生き残り、戦後を迎えることになる。

松次郎は昭和26年に、竹次郎は45年に死亡。

東宝の歴史

創始者の小林一三は、明治6年、山梨県韮崎の裕福な商家の長男として生まれ、慶応大学を経て三井銀行へ入行する。
学生時代から新聞小説を執筆するなどの一方、芸者に入れあげ、見合い結婚の相手とは離婚し、当該芸者と再婚するなど、素行不良といわれ、青年時代を過ごす。

後の阪急電鉄につながる鉄道会社に転職。
沿線の宅地開発、ターミナル駅直結の百貨店、宝塚における劇場、遊園地の経営など、鉄道会社による需要創出のビジネスモデルを発案していった。

大正2年には、温泉施設が売り物だった宝塚に、施設の余興としての唱歌隊(のちの宝塚歌劇団)を結成。
小林自ら脚本を書くなどして、終生これに入れ込むこととなる。

小林の興行に関するポリシーは「容易に安価に大衆に芝居を提供する。芝居は芸術であると同時に事業でもある」というもの。
夕方からの興行、料金の低廉などを行い、そのためにも大人数収容の大劇場建設を目指した。
マーケットリサーチの結果、日比谷に劇場街を作り上げていった。

松竹が既存の劇場を買収する方式で拡大していったのに対して、劇場街の創出と建設を行った。
阪急は鉄道事業を中核とし、不動産、興行、デパートなどの事業を展開する唯一の企業体となった。

昭和5年に、宝塚に映画会社を設立。
昭和7年、株式会社東京宝塚劇場を設立、東宝がスタートした。

映画部門は配給事業からスタートし、PCLなどの制作会社を併合してのちに制作を開始した。
松竹から人気スター林長二郎を引き抜き、長谷川一夫として売り出した。

実は職業野球の分野にも読売より早くに目を付けたのが小林で、宝塚運動協会というリーグを作ったが後に解散したこともあった。

戦時統合時代も松竹と並び単体で生き残り、戦後を迎えた。

両社の共通性、そして「興行」とは・・・

ここに1冊の新書がある。
「悪所の民族誌 色町・芝居町のトポロジー」(文春新書)。

大阪・釜ヶ崎に隣接する場所で育ち、新世界で遊んだという著者が説くのは、「悪所と呼ばれる地域の三つの特徴は、その場所が、色里であり、芝居町であり、また被差別民の集落が隣接していたこと」。

この意味では松竹の松次郎と竹次郎はまさに「悪所」に生まれ育ち、「悪所」に寄って立った存在であった。
二人が被差別民かどうかは知らないが、芝居小屋の売店を生業とする家に生まれ、生涯を劇場の経営と役者との付き合いにささげた事実は、松竹と「悪所」の生まれながらの強い関係性を表す。

一方で裕福な商家生まれで学歴もある小林一三は、しかし若くして文芸に耽溺し、芸者に入れあげて素行不良といわれて若き日を過ごす。
その後の半生を、少女歌劇と劇場経営にささげた小林は、生まれながらではないにせよ、宿命的に「悪所」に入れあげた人生を送ったことになる。

「悪所の民族誌」によれば、近世の三大悪所は、大阪・道頓堀、京都・四条河原、東京・浅草という。
これはそのまま松竹が入れあげてきた地域と合致する。

また、歌舞伎は、遊女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎と発展したが、もともとは遊女が行ったもので、色里と芝居町は表裏一体とも記す。

小林一三が芸者に入れあげ、少女歌劇にこだわった精神と、日本の在野の芸能史の精神は根底で共通してはいないだろうか?

「悪所」をキーワードに、興行の世界で生き残ってきた松竹と東宝の共通性が際立つ。

現在、松竹は映画撮影所を手放しているが、歌舞伎人気と劇場経営により会社を維持している。
東宝は、映画撮影所は維持しつつ、阪急資本をバックに、宝塚歌劇団の人気などにより経営は盤石に見える。
消えていった映画会社に比べて、両社のしたたかで強靭な経営戦略がうかがえる。
これも「悪所」がもたらした生命力のためであるのだろうか。

「現代農業」3月号に見る新しき農の世界

「現代農業」という月刊雑誌がある。
発行元は一般社団法人・農村漁村文化協会。
行政や農協をバックにしておらずに、農家に役立つ情報を発信している。

イデオロギー臭もなく、かといってエコロジー偏重でもない。
農薬、農業機械の正しい使い方の発信も、この雑誌の主題の一つになっている。

といっても、時代の流れに敏感で、また時代をリードする感性を持ち合わせているのがこの雑誌の鋭いところ。
これまでも、えひめAI液、もみ殻の利用、鉄茶の利用、など、山小舎おじさんも、この雑誌からは感化を受けている。
令和3年3月号の特集は「縦穴堀りが流行中」。

山小舎おじさんが借りている段々畑4枚は、水はけが悪い。
畑脇の水路の整備などは行っているが、雨が降ると表面に水がたまるし、全体にじくじくしてくる。

縦穴を掘ると田畑の水はけが格段に良くなるらしい。

「現代農業」3月号には、縦穴掘りについての農家の体験談、理論的解明、使用道具の解説の記事が載っている。
新潟大学の農業土木研究者によると、縦穴を掘ることにより、空気と水の流通と循環が起こるとのこと。
土中の空気は渦を巻いており、それが縦穴を通過することによって、大地全体の通気浸透性を高めるとのこと。

道具の調達など、関門は高いものの是非畑で試してみたいと思うや山小舎おじさんです。

縦穴を掘る機械を紹介するページ
新潟大学の研究者による、縦穴掘り効果の解説

「現代農業」3月号にはほかにも興味深い記事がありました。

まずは井戸掘りの記事。
国的には水道法の下で上水の供給を一本化したいところなのでしょうが、水道民営化など公共の福祉に逆行化しかねない立法が行われている現状があります。
また災害時などに自力で上水を確保できれば、それに越したことはありません。
まことにタイムリーな、自力井戸掘りの記事です。

更には、税法に物申した「どぶろく宣言」の記事といい、「現代農業」は庶民の立場に立った編集方針を貫いています。

自力で井戸を掘る記事
現代農業で長年続くどぶろくつくりの記事

農家が教える免疫力アップ術の記事。
農家が長年伝える様々な生活の知恵があります。
野草の活用もその一つ。
このような大マスコミが伝えない知恵の世界を伝えるのも「現代農業」の仕事の一つです。
山小舎おじさんも大いに興味があるものの、実行しきれないくらいの情報量がこの記事一つにあふれています。

山小舎おじさんにとって「現代農業」3月号の極めつけが、「まさねえの獣害対策よもやま話」という記事でした。
著者を講師とした獣害の勉強会があったそうです。

勉強会で著者曰く「イノシシが悪いと思っている間は被害は止まりません。(中略)被害っていうのは皆さんがここは安心してエサ(農作物)が食えると思わせたから。これを餌付けといいます。(中略)悪いのは餌付けをした自分‼って頭を切り替えること。」
のっけから頭にガーンときます。

女性らしい感性というか、物事の本質に直感的に到達する力というか。
今までの「常識」とは一線を画した「真実」が表に出始めたというか。
「常識」と「非常識」の境界がなくなってきたというか。

単に獣害に悩むだけだはなく、自然に対する心構えを諭されたような。
今後の展開が楽しみになってくる記事です。

他にも、足の付け根に紐を撒くことによって体の負担を軽減する方法など。
「ただで、誰でもできることが間違いのない方法」だと思う山小舎おじさん。
いろいろな知恵に助けられて山小屋生活を送りたいと思います。

孫へのホワイトデー

バレンタインデーに手作りチョコレートをもらったお礼に、孫へホワイトデーのお菓子をプレゼントしました。

お返しのプレゼントは、孫がはまっているポケモンのキャラクターのお菓子です。
息子から孫へのお返しに便乗させてもらいました。

いいmいま今今、、

ほどほどに喜んでもらえました。

映画「小島の春」と女優・夏川静江

ラピュタ阿佐ヶ谷という名画座で、「豊田四郎と文学の心」という、特集上映が行われている。
都合のつく日に行ってみた。

阿佐ヶ谷には自転車で行くことが多い。
運動にもなるし、交通費もかからない。

阿佐ヶ谷は、適度に庶民的で居心地のいい街だ。
今はやりの巨大な駅ビルや、タウンモール的なショッピングセンター、タワーマンションがない。
戦後というか昭和が残っている街だ。

JR阿佐ヶ谷駅南口の風景

駅北口周辺には小さな飲食店が軒を連ねる。
戦後のどさくさで、細切れの居住権、商権が発生した名残りなのだろうか。
再開発の波にも飲み込まれず、かといって寂れてもいない。

阿佐ヶ谷駅北口に広がる飲み屋街

駅から徒歩2~3分、ラピュタ阿佐ヶ谷のホール。
特集上映に合わせて豊田監督作品のポスターが並ぶ。
映画関係の書籍やブロマイドが置いてあるのもうれしい。
窓際にはテーブル席もあり、持って行った弁当を広げられるのもいい。

ラピュタ阿佐ヶ谷の看板
上映予定の豊田作品のポスターが並ぶ
映画関係本を売っている

係のお兄さんから時節柄のこまごまとした注意(携帯の設定、飲食の禁止、私語の禁止、脱帽、録音撮影の禁止、マスクの着用・・・)を喚起されたのち、いよいよ「小島の春」の上映だ。

フィルムセンター所蔵作品のタイトル。
配給は東宝。
制作は東京発生映画製作所。
後に東宝に吸収されることになる制作会社とのこと。

監督、豊田四郎、当時34歳。
脚本、八木保二郎。
主演は夏川静江31歳、脇に菅井一郎、杉村春子など。

原作はハンセン病患者救済につくした小川正子という女医の手記。

特集上映のパンフレットより

瀬戸内に浮かぶ帆掛け船、という今ではCGでしか再現できないであろう「日本の原風景」のロケーションで始まるこの作品。

ポンポン船、渡し場の造り、漁村風景、宿の部屋の造り、など戦前の日本の景色が見られる。

主演の夏川静江は、無声映画時代に子役から娘役として第一線で活躍してきた女優。
戦後、母親役などで控えめながらしっかりとした演技を残したが、31歳の時の「小島の春」でも、そのイメージを彷彿とさせ、まさに適役。
媚びなく、凛とした、シンの強い人物像を再現している。
演技もうまく、娘役として漫然とやってきた感じではない。
女優は歳を取ると崩れたり、化けたり、怖くなったりすることが多いなか、戦後になっても、シンを残したまま怖くならずに歳を重ねた女優さんだった。

「男ありて」(1955年 丸山誠治監督)より。左:志村喬

脇役に、菅井一郎と杉村春子を配している。
壮年時代の菅井、若さの残る杉村をスクリーンで観ることができるのもこの年代の作品ならではだが、若くてもさすがは両俳優、家族から離されて療養所へ向かうハンセン病患者の苦悩を演じきっている。

豊田四郎監督は、代表作が「夫婦善哉」(1955年)と「雪国」(1957年)で、ほかにも「猫と庄造と二人のをんな」(1956年)、「駅前旅館」(1958年)、「墨東奇譚」(1960年)など、名作が多い。
映画の造りもがっちりしているし、有名俳優を使う。

どの作品も観て損はない監督だが、今にして思うと、名優たちの演技が過剰な作品が多いような気もする。
森繁など、豊田作品で好きなように暴れているように見えて、いいところは監督がすべて持って行った、ように思ってしまうのはヒネクレた見かたか。
もっとも映画監督とはそんなものか。

ラピュタ阿佐ヶ谷のパンフレットより。豊田四朗監督(中央)

戦後の作品では、重厚で役者の演技をとことん引き出す豊田監督の作風にあって、戦前の「小島の春」には、緊張感はあるものの、さらさら流れるような演技と、社会的良心に満ち満ちたストーリーのみがある。
これも主演の夏川静江の個性がなせる業なのだろうか。

まじめな女の先生(教師)が被災後の現地を巡るというシチュエーションでは「原爆の子」(1952年 新藤兼人監督)という作品がある。
また、瀬戸内海を舞台にした女教師の物語には「二十四の瞳」(1954年 木下恵介監督)があった。

前者の乙羽信子、後者の高峰秀子のどちらも若くてきれいだったが、一番先生らしいのが「小島の春」の夏川静江だった。

1999年文芸春秋社刊の「キネマの美女」という大型本に、夏川静江のインタビューがが7ページにわたって掲載されている。
それを読むと、「小島の春」への出演は、結婚を機に一旦引退した後の特別出演だったとある。
自身が選ぶ代表作に「小島の春」が入っていることも。

「キネマの美女」より、インタビュー記事

山小舎おじさんが印象に残る夏川静江の出演作は、まず前述の「二十四の瞳」(1954年 木下恵介監督)、ついで「蟻の街のマリア」(1958年 五所平之助監督)。

前者では大石先生こと高峰秀子の母親役。
娘の学校での愚痴を聞いてやり、先生を訪ねてきた子供たちに大わらわでうどんをふるまってやり、娘の亭主に赤紙が来てはしゃぐ息子(孫)を叱る娘(亭主の妻)を制して「お義母さん一本つけてください」と場を取りなす義理の息子にこたえて支度し始める、お母さん(おばあさん)役。

亭主の戦死広報には「お父さん死んだよ」と息子に告げるだけだった高峰秀子も、母親の夏川静江が静かに死んでいったときには「お母さん、お母さん」と取り乱していた。

「蟻の街のマリア」では、バタ屋部落にボランテイアで住み込むキリスト者の娘を心配し、リヤカーを引く娘に遭遇した際には、走って追いかけるも途中で走れなくなり、同行の若い女中に後を頼んで息をつく姿が印象に残っている。

「キネマの美女」より

「小島の春」で島のハンセン病患者やその家族を診て回り、宿に落ち着くシーンがあった。
畳の部屋には火鉢のほか何もない。
火鉢と宿のおかみと、手に持つお茶だけが相手のすえっぱなしのワンショットワンシークエンス。

夏川静江の動きにに見入った。
無駄なく、隙もなく、媚もなく、見苦しくもない立ち居振い。

見入ってしまった理由が、夏川静江の演技力のせいなのか、当時の堅気の日本女性が身にまとっていた歴史、文化のたまものなのか。
どちらのせいでもあるのだろうと思った。

「小島の春」はそういう映画だった。