STRANGERS in HOLLYWOOD Ⅰ

名画座・渋谷シネマヴェーラで,2021年12月から、年をまたいで1か月以上にわたる特集上映があった。
その名も「ストレンジャーズ・イン・ハリウッド」。
戦前にドイツを逃れてハリウッドに渡った映画監督3人の、1930年代から50年代初頭にかけての作品の特集だ。

3人の監督は、ダグラス・サーク、ロバート・シオドマク、フレッド・ジンネマン。
いずれ劣らぬ映画史上の名監督にして、ユダヤ系の(サークは夫人がユダヤ人、ほかの二人は本人がユダヤ人)、いわばハリウッドにとってのストレンジャーズ。

日本のファンには「真昼の決闘」(1952年)「地上より永遠に」(1953年)で名をはせ、後年「ジャッカルの日」(1973年)「ジュリア」(1977年)など、大監督然としたジンネマンが有名だ。

コアなファンには、声が出ない少女が殺人鬼に追いつめられるサスペンスの古典「らせん階段」(1946年)とともに監督・シオドマクの名が記憶されるかもしれない。

映画ファンを卒業した「シネフィル」と呼ばれる意識の高い方々には、評論家・蓮見重彦氏あたりがもっぱら取り上げ始めた一人:ダグラス・サーク、がここ最近の気になる映画監督(映画作家と呼べばいいのか)なのかもしれない。

上映館のポスター掲示場より(右上がシネマヴェーラ現在上映分)

全34本の上映。
そのほぼ全作品は、シネマヴェーラ自体がデジタル素材を買い取って自前で字幕を付けて上映するという、営業努力によるもの。

サーク:12本、シオドマク:14本、ジンネマン:7本、ほかにエドガー・G・ウルマーの1本を加えてのラインナップ。
うち6本が、戦前戦中に故国ドイツもしくは第一次亡命先のフランスで撮られたものであるという貴重さ。

特集プログラムより

この特集に9回ほど日参し、15本を観た山小舎おじさん。
日々見上げたスクリーンには、70年から90年前の人々の顔だったり、美貌の女優だったり、今なお受け継がれる撮影技法だったりが文字通り横溢しておりました。

1930年当時のベルリンの風景、鏡と影を駆使してサスペンスを盛り上げる技法、レスリー・レアンダー、エラ・レインズ、イボンヌ・デ・カーロ、エヴァ・ガードナーら女優陣の輝き・・・まさしく「映画的世界」の興奮と喜びの連続でした。

特集プログラムの3人の監督紹介文より

個別の作品、女優さん、時代背景などについては次回ブログからおいおい書いてゆこうと思います。

特集プログラムの作品紹介より

その前に付記しておきたいのが、ストレンジャー(外国人:多くはユダヤ人)とハリウッドの切っても切れない関係。
というか、ハリウッドがユダヤ系の巣窟だった(今でもか)という事実。

ここに「カサブランカはなぜ名画なのか・1940年代ハリウッド全盛期の名画案内」という2010年発行の本があります。

奥付きより

戦争を挟んだ1940年代を中心にアメリカ映画を俯瞰的に見るこの本。
その時代のアメリカ映画こそ、〈政治と芸術と商売が絶妙なバランスで一体化した稀有な時代〉で、そういった作品が生まれた背景にはユダヤ系映画人がいたから、という一貫したテーマで書かれています。

ユダヤ系映画人が、政治性(反ナチ)を隠されたテーマとし、商業的にも成功させたこの時代の象徴的な作品が「カサブランカ」でした。
非ユダヤ人(ボガート、バーグマン)を表に立て、ユダヤ系のスタッフ、キャストが脇を固め、巧妙に織り交ぜられた反ナチのアピールは、見事に「ヤンキーをして、ヨーロッパの反ナチとワスプを救わなければならぬという気持ちにさせた」と同書にはあります。

目次より

ハリウッドのユダヤ人には、戦前から有名な監督だけでも、エルンスト・ルビッチ、ウイリアム・ワイラー、ジョージ・キューカー、ルイス・マイルストンなどがいます。
その後亡命してきたり、デビューしはじめたユダヤ人監督には、有名どころだけでもマックス・オフュルス、オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダー、ジュールス・ダッシン、エリア・カザン、マーク・ロブスン(シオドマク、ジンネマンももちろん)などがいます。

彼らこそが通り一遍にスタジオのいう通りだけを聞いて、娯楽映画やミュージカルを撮るだけではなく、時には政治的な主題を、斬新な手法で描いてきた映画監督たちだったのです。

往々にしてその作品は、戦争という非常な時代背景をバックに浮かび上がるユダヤ人としての民族的思想に彩られていたのかもしれませんが、同時に優れた商業映画でもあったのです。

後にいわれるフィルムノワールと呼ばれるB級サスペンス群は、屈折した彼らの心情が反映したているからこそ魅力的なジャンルとなったようです。

監督たちのほかに、有力な製作者や俳優の中にもたくさんのユダヤ系がいてお互いに協力し合ってもいました。

一方、当時のハリウッドのスタジオにはタイクーンと呼ばれるオーナーたちが君臨しており、その誰もが東欧、ロシアからのユダヤ人移民か、その子孫でした。
移住後は都市部のゲットーから身をおこし、劇場経営で財を成して始めたのが映画製作と配給、興業でした。
ハリウッドを形作った人たちです。

彼ら:アドルフ・ズーカー(パラマウント)、サミュエル・ゴールドウイン(ユナイト)、ルイス・B・メイヤー(MGM)ら、はおおむね共和党支持で反共でしたが、決して反ナチではなく、むしろムッソリーニに心酔したハリー・コーン(コロンビア)のような人物もおり、政治的にも教養的にも製作現場のユダヤ人たちとは決して一枚岩ではなかったようです。

製作現場の「進歩的」なユダヤ人たちはのちの「赤狩り」により、共産主義とともにパージされてゆくことになります。
そういった歴史を見る限り、反ナチも政治的な主題も、決してアメリカ総体の意志ではないことがわかります。
むしろハリウッドのストレンジャー達が掲げた政治性が、象徴として「アメリカ総体」からつぶされていったことのようです。

シネマヴェーラのストレンジャーズインハリウッド特集で上映された作品は、その全部がバリバリの反ナチ映画でも、サスペンスでも、フィルムノワールでもありませんでした。
戦前の自由な空気が流れていたり、サスペンス風の味付けながら人間性の高貴さを謳うものも多く、何より当時の有名スターが出演しているバリバリのハリウッド映画でありました。

故国を追われた映画人がハリウッドにたどり着き、独立プロで映画を創り始め、スタジオと契約し、発表していった70年以上前の作品の数々。

メジャー配給会社のトレードマーク:雪山をバックにしたパラマウント、地球儀を取り巻くユニバーサル、ライオンが吠えるMGM、電波塔が発信するRKO・・・で始まる1940年代の夢の世界が連日スクリーンにデジタルで再現されました。

メジャーの配給により歴史に残ることになったこれらの作品。
その一つ一つについては後程。

パラマウントのロゴマーク
RKOのそれ

1956年の映画「火の鳥」

名画座・渋谷シネマヴェーラの特集で「火の鳥」という1956年の日活映画を観たが、よかったので感想を書きます。

同作品は「あなたは猪俣勝人を知っているか」という脚本家・猪俣勝人の特集の一本として上映されました。
この特集の目玉は猪俣自身が監督をやっている「殺されたスチュワーデス 白か黒か」(1959年)という作品です。

この作品は、同年発生したBOAC(英国航空)の日本人スチュワーデス殺人事件(重要参考人として警察に事情聴取中だった、カソリック修道院のベルギー人修道士が事情聴取期間中に突然帰国して迷宮入りとなった)を題材としており、16ミリで残っていたフィルムをデジタル修復したものとのこと。

題材ゆえに大映配給による封切り期間も短く、また名画座上映時にも短縮版がかけられていたとのこと。
今回の完全版の上映は貴重な機会だったようです。
作品は当時若々しかった田宮二郎が扮する事件を追う新聞記者の熱気が画面を支えていました。

今回の特集のパンフレット表紙
シネマヴェーラの特集パンフレットより
劇場ホールに展示されたポスター

さて、当日ついでにもう一本、と観たのが「火の鳥」。
伊藤整の原作で、劇団の主役として、座長の愛人として、映画スターとして輝く主人公の、過去現在の遍歴と未来への希望を描いた作品です。
映画史に残るような作品でもなく、監督井上梅次、主演月丘夢路の代表作でもなく。
若干話題性のあるプログラムピクチャアという扱いの作品です。

「火の鳥」のプレスシートがシネマヴェーラのホールに展示されていた

これが拾い物というか、映画的興奮に満ちているというか。

主演の月丘夢路の美しさに見とれました。

1922年生まれの月丘夢路は当時34歳の女ざかり。
宝塚トップスターだった美貌と勢いに加えて落ち着きも出てきて、彼女が映ると画面が華やかになります。

魅力的な女優さんの全盛期を追体験できたことに映画ファンとして感動せざるを得ない。
とにかくきれいで、アップが映えて、目力があって・・・。

ttsつつkつきつきおつきおkつきおか月丘月yゆゆm、ゆm、えゆm、えjゆm、えじ湯m、江地湯m、江地丘

登場のファーストカットからただならぬ目力に圧倒された女優さんに「暁の脱走」(1950年 谷口千吉監督)の山口淑子がいました。
日中戦争時の日本軍の前線に同行する歌手(原作では慰安婦)の役。
山口淑子のファーストカットが忘れられません。

日中戦争のはざまを潜り抜け、茫漠たる大地の彼方と己が運命を見据えたかのようなその視線と決然としたその立ち姿。
その大きな目玉は、まるで諸星大二郎の漫画の主人公のまなざしを実写化したかのように、見るものをして一瞬のうちに、中国大陸の砂塵と歴史へと誘うかのようでした。

この日のおじさん。
山口淑子ならぬ「火の鳥」の月丘夢路のまなざしによって、宝塚の少女歌劇か、はたまた東洋のハリウッド・日活撮影所の夢舞台へか、魂がさ迷わんばかりでした。

月丘夢路。スタイルの良さが際立つ

こうなれば単純な映画ファンの心など一丁上がり!
手慣れた撮影所の職人技に身も心もゆだねるしかありません。

テンポよく場面が展開、俳優の演技にも無理無駄がありません。

月丘夢路の相手役には、映画初出演の仲代達矢をはじめ三橋達也、大坂志郎、女優陣では山岡久乃、中原早苗の布陣。
それぞれ、芸達者だったり、力が抜けて絶妙だったり、ベテランだったり、若さがはじけていたり。
役柄はステレオタイプなのですが、徹底した「定番」の魅力がありました。

また、月丘夢路の屋敷だったり、劇団の事務所、打ち上げの飲み屋、劇場裏などのセットが「定番」通りとはいえちゃんと作られているし、様になってもいました。
1950年代の映画撮影所の力量です。

シネマヴェーラのパンフレットより

劇中の映画撮影シーンでは、当時の真新しい日活撮影所の屋外の景色やセット撮影の様子が映し出されるのも心躍ります。
北原三枝、芦川いずみ、長門裕之らが実名で現れる場面では、浅丘ルリ子や岡田真澄の顔も見えます。
ラストシーンで劇中劇の階段を主役として堂々と下りる主人公がダンスの相手をするのは三国連太郎ではないか!

井上梅次監督のこういった演出は映画ファンの心を揺さぶるツボを心得ていて、ニクいばかり。
当時の日活撮影所自体の若さ、夢、希望を掬い取ってもいる。

映画デビューの仲代達矢は、「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」という新書で、「撮影初日から茅ケ崎の海岸でラブシーンでしたがやっぱり震えるんですよ。すると月丘さんに、なに男のくせにってお尻を叩かれました」(同書33ページ)と回想しています。
当時俳優座3年目の仲代の抜擢を羨んだ俳優は大勢いたことでしょう。

デジタル版の上映で鮮やかによみがえった1956年の日本映画の豊かさに満足して劇場を後にしました。

東京の新年 保谷東伏見稲荷神社

保谷(現西東京市)の東伏見稲荷へ行ってきました。

商売の神様からお札をいただくためです。
山小舎おじさんの奥さんが介護関係の事業を始めることになり、商売繁盛のお札をもらうことになりました。

新青梅街道沿いにある東伏見稲荷。
並行して走る西武新宿線の東伏見駅から参道が伸びています。

西武戦沿いから参道が伸びる

冬晴れの境内にはほかに2,3組の参拝客がいました。

お札を無事ゲットしました。

帰りには東伏見駅に寄って、名物のたい焼きをお土産に買いました。

移動販売のたい焼きは東伏見駅の名物

東京の新年 雑司ヶ谷大鳥神社

池袋文芸座で映画を観た帰り、目白まで歩く道沿いに大鳥神社の大看板がありました。

池袋東口へつながる道路沿いの大看板

参道を歩いてゆくとお寺がたくさんあります。

一帯にはお寺が多い。敷地の間を抜ける道

鬼子母神を祀る大きなお寺もありました。

鬼子母神を祀るお寺
お寺の境内には売店が残っている

都電荒川線の沿線に目指す大鳥神社がありました。

大鳥神社の鳥居

主宰神は日本武尊。
日本武尊が死んで白鳥になったことにちなんで、全国に大鳥神社があるそうです。

拝殿では参参拝客が

境内には大きな岩もありました。
何かの依り代なのでしょうか?

碑を刻んだ巨石も祀られている

すでに1月も20日を過ぎ、境内には日常の風景が戻っているかのようでした。

東京の新年 府中大國魂神社

武蔵国総社、大國魂神社に新年のご挨拶をしました。

律令時代のクニの区分けで武蔵国といわれた東京、埼玉あたり。

府中はその中心部で、現在の県庁に当たる国府がおかれた場所です。国府の脇に大國魂神社はあります。

武蔵国の6つの古い神社のご神体が全部集まっているそうです。

提灯や屋台がひきも切らない盛況な境内

三多摩地区では断トツに有名な神社で、年末年始やお祭りの時の人では大変なものです。

堂々たる門構えを抜けると拝殿が見える

年空けて2週間経過したある休日、訪れてみるとまだまだ大変な人出です。

拝殿には多くの参拝客が並ぶ

並んで参拝を済ませ、境内をぶらぶらし、宝物殿にも寄ってみました。宝物館では毎年5月に行われる例大祭、通称くらやみ祭りの映像が流れていました。

府中界隈には武蔵国以来の歴史が残っているような気がしました。

東京の新年 阿佐ヶ谷神明宮

JR阿佐ヶ谷駅からほど近い神社です。

新年あけてから1週間以上たっていますがこの人出です。

拝殿に向かって並ぶ列・・・

早々に参拝はあきらめて境内を見ると、神楽殿?ではかるた大会をやっていました。

華やかなかるた大会。都会の神社の景色です

主宰神は天照大神ということです。

神社の由緒が書かれています

東京の新年 調布布田天神

 令和4年の新年です。

初詣に地元の布田天神へ行きました。

拝殿に向かって並ぶ参拝客の列

正月3日の昼間でしたが、参列者が境内を貫いていました。

地元の神社で家内安全のお札をゲット

蚤の市の出店もありました。

今年は皆さんにとっても良い年でありますように。

布田天神の参道は天神通り商店街

令和3年の出荷実績

今年の野菜の売り上げをまとめてみました。

手元にある宅配伝票を取りまとめてみます。
出荷先は彩ステーションです。
奥さんが受け取ってさばいてくれました。
ほぼ完売のようでした。
うれしい限りです。

出荷件数は14件、宅配料金の合計金額は、24,290円です。
赤字はほとんどなく、完売とのことでしたから、毎回の手数料平均を1,000円として、全体の売り上げは38,000円ほど、少なくとも35,000円の売り上げがあったことになります。

月別にみた件数と送料は、6月が1件・1,270円、7月が4件・8,680円、8月が4件・6,920円、9月が3件・4,510円、10月が1件・2,920円です。
売り物の主力が夏野菜であることがわかります。

夏の間の収穫、荷造り、出荷は手間がかかりましたが楽しい仕事でした。
今年からは先方の希望により、個別に袋詰めするのでではなく、種類別の大まとめの荷づくりとしたことは助かりました。
荷物が到着後に小分けして値付けして、販売してくれた、奥さん並びにスタッフさんには感謝あるのみです。

届いた野菜は奪い合うようにして売れ、トマトなどは1袋を分け合って買ってくれたお客さんもいたとのこと、ありがとうございます。
田舎の畑の土の恵みが東京に届くことにお手伝いできたとしたら、こんなうれしいことはありません。

畑にかかった費用をみると、今年から肥料代はゼロなので、資材費だけの出費となりますが、鹿よけのネット代(ぐるりで約50メートル×2基)が約4万円、支柱や寒冷紗などが約5千円、種、苗、種イモなどで約5千円で計5万円ほどでしょうか。
来年からは新規のネット代が不要として、年間1万円ほどの出費で済めば、夢の収益化した野菜作りも可能な計算です。
鹿よけネットの補強に金網などを用意することになれば、もっとかかるか・・・。

収益化のためにも、人気のある夏野菜の品質維持とそれなりの収穫量の確保が必要です。

相変わらず、成り行き任せの野菜作りではありますが、土と地中のコンデションづくりを最優先に、自分が食べておいしいと思える野菜を作ってゆこうと思います。
品種的には、食用ほおずきの思わぬヒットなどがありましたので、それら地域特有の品種(ハックルベリーなども)のと、人気のあるハーブ類、美味しかった枝豆の栽培強化に注力したいと思います。
主力のトマト、キューリ、ナス、ピーマン、ズッキーニなどのに力を注ぐのはいうまでもありません。

東京の皆さま、来年も頑張りますのでよろしくお願いいたします。

信州ソウルフード放浪記VOL.13 まとい食堂

上諏訪(諏訪市)に温泉に入りに行ったとき、ついでに昼食の場所の情報をネットで調べた。
街中にある、まとい食堂というところが美味しそうだったので行って見た。

上諏訪を二分して走るJR中央線の線路と国道20号線との間に片側1車線の道がある。
ところどころ和菓子屋があったり、古道具屋があったり、神社があったりする、いわば生活道路といった趣だ。

この道を茅野側から行ったとして、湯小路交差点のつぎの末広交差点を右折し、さらに細い道を右折した住宅街に、まとい食堂があった。

店の周りは狭い道で車をどうしよう?と思ったが、専用駐車場が4台分あった。

建物はよくある民芸居酒屋調ともいうべきスタイル。
ランチは2時までの長野スタイル。

まとい食堂の外観

13時半過ぎに入る。
14時まで入場可のようだ。
店内は家族連れや、サラリーマンでほぼ満員。
出前を頼みに来た人もいる。

食べているものをチラッと見ると、ソースカツどんや焼き肉ランチなどがテーブルいっぱい展開している。
各々の注文のほかに、チャーシュー麺や唐揚げを頼んでシェアしているグループもあった。

食べ応えのあるものをしっかり食べたい人が集まる食堂。
繁盛店特有の活気がある。
店は最大限の努力でお客が欲するものを提供し、食欲十分なお客は黙々とメニューに取り組む。
幸福な両者の関係!が店内いっぱいに展開している。

今回はラーメンなどあっさり系にしようかな?と暖簾をくぐった山小舎おじさんも、店内にあふれるかのような、とんかつの皿やどんぶりを見て、とんかつ定食(ソース)を注文せざるを得なかった。

注文を待つ間にも左隣の客にミックスフライ定食が到着。
チラ見すると、とんかつのほかエビフライなどが乗った最大ボリュームの定食。
これが1100円。

やってきたとんかつ定食(ソース)も1100円。
期待感があふれ、いつの間にか食欲全開の山小舎おじさん、全力でとんかつに取り組んでゆく。

とんかつ定食(ソース)、1100円。文句なし!

今どき、ちゃんとしたとんかつやソースカツどんなら1500円する。
それほどの肉の量ではないが、サイドメニューと合わせておじさんには十分な量。
とんかつのチェーン店なら、サイドメニューを取ったりすると、肉がこの半分くらいのしょぼさで、値段がちょぼちょぼなのを思うと、まとい食堂の満足感は半端ない。

決して大盛が売りの店ではないが、高齢のおじさんのランチとしてはヘビーな感じ。
とはいいながら、濃い目のソース味が激しくご飯に合い、食べるペースは落ちない。

とんかつそのもの、ソースの味、みそ汁、生野菜サラダは文句なし。
ごはんはやや柔らかいが量的には十分。
何よりの手作り感が、揚げ物に対する罪悪感を上回っていました。

食後には、次回に食べたいメニューがあれこれ浮かんできました。

14時が過ぎ収量の看板が出たまとい食堂

店を出て、看板を撮影していると、「ありがとうございました」の声が聞こえました。
慌てて振り返ると、出前から帰った店の人がニコニコして立っていました。
家族経営と思われる店ですが、スタッフの人柄が味に表れているようでした。

上諏訪の街には温泉が流れている

立寄り湯めぐりVOL.12 片倉館千人風呂

上諏訪温泉街にある片倉館・千人風呂へ寄ってきました。

諏訪湖畔の一番賑やかな一帯。
旅館や飲食店が立ち並び、遊覧船の船着き場もあります。
JR上諏訪駅からほど近いこの一帯、思えば県内では長野、松本の繁華街に次ぐ賑やかな場所かもしれません。

この場所の一角、高層ホテル群の間に片倉館という施設が残っています。
岡谷で製紙業で財を成した片倉財閥が、従業員と地域住民の福利厚生を目的にした施設で三つの建物があります。
そのうちの一つが地元の上諏訪温泉を引いた千人風呂を備えており、現在では一般客も利用できます。

12月の冬じまいに追われるある日、雨が降って外の作業ができなくなりました。
かねてより気になっていた片倉館千人風呂へ行くことにしました。

諏訪湖畔の風景

12月の平日、天気は不順ながら、交通量の多い諏訪湖畔です。
さすがにそぞろ歩く観光客らの姿は少なく、湖畔の無料駐車場もガラガラではありましたが。

片倉館の3棟の洋風建築は、それぞれが国の重要文化財に指定されています。
隣の敷地には諏訪市立美術館が建っています。
それなりに広い駐車場もあります。

片倉館の建物から美術館方面を見る

千人風呂へ向かいます。
洋風建築の威容をたたえた正面入り口の前に立つと、左側に巨大な煙突も見えます。

玄関を開けるとすぐ靴を脱いで上がります。
古い洋風建築物をリユースした博物館のような建物内部の印象です。
受付で入場料750円を払います。

千人風呂がある建物正面

浴室へ入るとそこは少し年代ががったスーパー銭湯のような造り。
広々とした脱衣場にロッカーが並んでいます。

浴室は広いといえば広いですが、最近では大浴場付きホテルのそれと同じくらいかもしれません。
昭和の時代に団体さんを受け入れた各地の温泉ホテルの大浴場を知っている方々からすると「千人風呂」とはまた大風呂敷な、と思うかもしれない程度の広さです。

浴室内部の様子はパンフレットから

浴室の壁の装飾というか意匠は、洋風というのかローマ風呂風というのか。

思えば、昭和時代なのか、その前からなのか、温泉では浴室を西洋風にデコレートする風潮がありました。
まん丸の浴槽にミロのビーナス風の石像が建ち、石像が持つ甕からお湯が噴き出ていたり、ステンドグラス風の装飾があったり・・・。

かつて山形県最上市の瀬見温泉というところで立寄った旅館の浴室がまさにそうでした。
時代を経過したその風情は、それはそれで非日常的でもあり悪くはありませんでした。

休憩室には年代物の備品が展示されている

野麦峠を泣く泣く超えてきて、倒れるまで働いた女工さんたちが千人風呂で疲れをいやした時代ははるか彼方となりました。
その時代に思いをはせるには時がたちすぎた令和3年の冬。
片倉館の千人風呂に浸かって今年の疲れを癒します。

浴槽がそれなりに大きいので温まります。
泉質に強烈さは感じませんが。

大正時代の日本に成金というバブルを生んだ産業の一つである製糸業。
その興隆が産み落とした遺構のような温泉施設が諏訪湖畔に残っていました。

二階の休憩室では入浴客が一人憩う