ステップ組み立てで DIY!

春から作り直していたベランダに上がるステップ。
現在のステップの惨状と、使いにくさに音を上げ、最終組み立てを自力で行いました。

午前中はさわやかな秋晴れの山小舎周辺

娘の婿さんに促されて作り直しを開始したこのステップ。
材料の買い出しと、板の墨出しは彼がその娘(山小舎おじさんの孫)と行いました。

その後、防腐塗装と組み立て部分の削りだしは山小舎おじさんが行い、最終組み立てを待つばかりとなっていました。

その間にも、ステップはベランダとの行き来に毎日のように使い続け、壊れたステップは斯くのようなありさまになってしまいました。

ステップの惨状

毎日の作業にも不便をかこった山小舎おじさんは意を決して自力で組み立てることにしました。

道具をそろえます。
素材の板を取り出します。

ドリルでねじ穴をあけることから始めました。

電動ドリルとねじくぎ
切り出し、掘り出し、塗装を終えた材料

片方の側板に、一か所4つずつの穴をあけてゆきます。

まず側板にねじ穴をあける

次いで、踏み板を側板に取り付けます。

ステップの素材は厚く、重い板なので作業台がしっかりしていなければいけません。
また、側板への取り付けがずれたりすると全体の組み立てがうまくいかなくなります。

側板に踏み板をセットしてドリルで釘孔を通す

側板への取り付けは仮止めとし、4か所中2か所だけをねじ止めします。

片方の側板に踏み板を仮止めする

次いでもう一方の側板を取り付けます。
ここでうまくいかないとやり直しです。
案の定、側板と踏み板がうまく一致しません。

取り付けようとする側板の、削りだし部分を改めて削りなおします。

もう一方の側板を当ててみて、掘り出しの調整を行う
もう一方の側板を取り付ける

何とかうまく組み合わせることができました。

真新しいステップの出来上がりです。

全体の高さの調整が必要なようで、後日、側面の板をカットしましょう。
着地する部分に石を噛ませて腐りを防ぎましょう。

新しい自家製のステップが完成

婿さんの正確な隅出しのおかげで、素人作にしてはよくできたステップとなりました。

午後からは霧雨の山小舎でした

納豆に和える野沢菜

山小舎のお向かいさんは、スコットランド出身の65歳。
山小舎おじさんとほぼ同年齢ということもあり、付かず離れずの付き合いは、おじさんが先代のオーナーに導かれて山小舎に遊びに来始めてから、かれこれ7、8年。

この紳士、スコットランド出身がアイデンティティ。
車にユニオンジャックをシールしていたり、ここぞという日には伝統のスカート姿になったりする。
毎朝バグパイプの練習をしていたことも。

最近は故合って独身をかこつこの紳士。
働き先を上田の中学校の英語講師から、地元和田地区の漬物工場へ変えてしばらくたつ。

時々製品のアウトレットや試作品をいただくことがある。
野沢菜漬けが主力商品の工場らしいが、社長が意欲的で色んな新製品をトライアルしている。
スモーク野沢菜、という漬物もいただいた。
野沢菜にスモークの香りをつけたもので、酒のつまみに最高だった。

今般いただいたのが、納豆に和える野沢菜。
そのアイデアに驚くまでもなく、新アイデアね、と抵抗なく試食させてもらった。

今般いただいた新製品がこれだ!

山小舎でよく食べる地元大豆を使った大粒の納豆に混ぜてみる。

山小舎御用達の納豆がこれだ!

野沢菜の塩味を考慮し、しょうゆを使わずに食べてみた。
少々塩味が足りなく感じた。

まずは、しょうゆなしで混ぜてみる!

二度目はしょうゆを加えてみた。
野沢菜も多めに混ぜてみた。

納豆ご飯にしていざ試食!

薬味というより、野沢菜も一緒に食べる納豆ご飯になった。
これはこれでいい。

野沢菜漬けは信州のソウルフード、というかそれ以前に食卓の必需品なのだから。

薬味ということなら、からしやネギの方がアクセントがはっきりしている。
納豆に和える野沢菜、は薬味ではなく、納豆と一緒に食べる食卓のお供、なのだった。

DVD名画劇場 女優NO.1キャサリン・ヘプバーン

1999年にアメリカ映画協会が選定した歴代女優ランキングで1位に選ばれたのがキャサリン・ヘプバーン。

山小舎おじさん的には、テレビ洋画劇場での「アフリカの女王」(1951年 ジョン・ヒューストン監督)。
現地の教会で黒人相手に讃美歌をオルガンをかき鳴らすオールドミス宣教師を演じた姿を思い出す。

大柄で、ぎすぎすして、言いたいことをまくしたてる、肌のカサカサした中年女性、のイメージだったが。

この度、初期の代表作3本を見せてもらった。

キャサリン・ヘプバーン

「勝利の朝」 1933年 ローウエル・シャーマン監督 RKO

ブロードウエイ出身のヘプバーンがハリウッドに呼ばれて3本目の作品。
実年齢で26歳になる年の作品だが、若々しさ、初々しさに満ちているて、見ていてこちらも楽しくなる。

ブロードウエイのスターを夢見てニューヨークにやってきた演劇志望の若い娘が、夢かなうまでのストーリー。

腕利きのプロデユーサー(アドルフ・マンジュー)と座付きの脚本家が取り仕切る事務所。
すれっからしの女優たちが出入りするその場所に、田舎出のヘプバーンが迷い込む。
裏表あるプロデユーサーにあしらわれるが、人間味のある老俳優と仲良くなり、英語(正しい発音)を教えてもらいに通いだす。

しばらくは全く芽が出ず、飲まず食わずで、ボードビルのアシスタントなどをして凌ぐ。

このヒロイン、若く田舎者ではあるが、決して「私、何もわからないから・・・」というアイドル的イノセントではない。
自分が目指すものが明確で、好きなものを自覚しまた発し、たばこを吸い、目的のためなら食事も我慢してホットパンツ姿でボードビルの舞台にも立つ、バリバリの自立型女性なのである。

たまたま潜り込んだパーテイーで、酔って、シェークスピアのセリフを朗々と演じてアピールもする。
映画の観客もここらへんでヘプバーンその人の演技の実力を認識する。

舞台の初日に主演女優のわがままで主役が降りたとき、脚本家の推薦でヘプバーンの代役が決まる。
成功裏に終わった楽屋でヘプバーンが独白する。

この成功には終わりが来ること、それまでは希望敵ったこの道を第一に進むこと、そのためには好きな人とのこともあきらめなければいけないし、恋の申し込みにも応えられないこと・・・。

田舎出の少女が事務所前で自己紹介したときから、パーテイーでの独演、そして舞台で成功後の独白と、要所での長いセリフを嬉々として、また朗々とこなすヘプバーン。

うまさだけでなく、女の魅力に偏重もせず、人間として清々した感じが出ている。
この作品でアカデミー女優賞を受賞したヘプバーンは歴史上の大女優としてのキャリアをスタートさせる。

「赤ちゃん教育」 1938年 ハワード・ホークス監督 RKO

いわゆるスクリューボールコメデイの快作で、数々あるケーリー・グラントとのコンビの1作。
ハワード・ホークスの無駄のないスピーデイーな演出に応える主演2人の達者ぶりに時間がたつのも忘れる。

冴えない博物学者で終始眼鏡をかけたグラント。
根拠なく自信たっぷりで、はつらつとした若い女性役のヘプバーン。

ヘプバーンが一目で気に入ったグラントを追いかけまくる。
追いかけ方も、勝手に人の車に乗ってぶつけまくったり、と手段を選ばない。

優柔不断で人のいいグラントは婚約者がいながら、渋々じゃじゃ馬娘の要求に沿って動くかざるを得なくなる。
敢然と袂を分かっても、また会わざるを得ないシチュエーションが発生する。

この二人が一晩の珍道中ののち、互いの愛に気づくまでのドタバタ。

まだ若い主演の二人。
走り、転び、水に飛び込み、スカートを破いて下着を出し、と動きが過激でさえある。
豹とさえ絡む。

豹?そうなのだ豹まで出るのだ、それもヘプバーンのおばさんが注文したペットとして。
この豹の名前がベイビー、映画の原題が「BRIGING UP BABY」。
(世話の焼ける無垢な男性)を表しての赤ちゃんと、(愛のキューピットたる)豹の名前をかけているのだろう。
気に入ったグラントを徹底的に追い掛け回すヘプバーンは、息子にかまける世話焼きママさんのようだ。

惜しみなく芸達者ぶりを炸裂させる若き日のヘプバーンとそれを受けきるグラント。
思い切り二人に動いてもらうべく舞台を用意し、スピーデイでまったく無駄のないホークスの演出が最高の作品。

「フィラデルフィア物語」 1940年 ジョージ・キューカー監督 MGM

客を呼べず、映画館主泣かせのスターと呼ばれていたヘプバーンが、舞台のヒット作をMGMに売り込んで実現した作品。
ヘプバーンは監督にキューカーを指名、相手役にスペンサー・トレーシーとクラーク・ゲーブルを要求したという。

狙い通りのヒット作となり、ヘプバーンはマネーメイキングスターの座を獲得した。
まるで「勝利の朝」のキャラを地で行くようなエピソードだが、女優を志し、叶えるような女性とはそういうものなのだろう。
ヘプバーンもまたしかり、だった。

相手役のグラント、スチュアートとともに

フィラデルフィアの上流階級のわがままお嬢さんが愛に目覚めるまでの物語。
相手役に貫禄が出てきたケーリー・グラントとまだ若さの残るジェームス・スチュアート。

世界一の映画会社MGMによる豪華セットと衣装。
上流社会のパーテイーで優雅なドレスに身を包み、瀟洒なプールで水着姿さえ披露するヘプバーン。
キューカーの演出は悠々迫らず、MGMタイクーンの意を汲んでいるかのよう。
これがソフィスティケイテッドコメデイというものか。
特に前半、ヘプバーンのお嬢様キャラの嫌みが強烈すぎたきらいはあったが・・・。

この作品でもヘプバーンの独演というか長い独白が見られるが、豪華なセットやわき役の達者さ(子役も含め)に紛らわせて、いろんな楽しみ方ができる作品となっている。

実年齢33歳になるヘプバーンは貫禄も出てきて、「アフリカの女王」の時とほぼ変わりなく映る。

その芸達者ぶりは、日本女優では浪速千恵子だったり、黒柳徹子だったりを連想させる。
むろん活躍した舞台も、女優としてのスケールも違いすぎるが、観客に愛され、ある時代ある場所でのアイコンとなり得たという点では共通しているのかもしれない。

第25回蓼科高原映画祭

小津安二郎が懇意にした別荘が蓼科にあったことから、ふもとの茅野で開かれて25回目。
コロナで中止の年を2年挟んで3年ぶりの開催。
小津安二郎記念 蓼科高原映画祭が今年(令和4年)は開催された。

映画祭の幟がはためく茅野駅コンコース

毎年、茅野市民館と市内唯一の映画館・新星劇場を舞台に9月に催される映画祭。
今年のポスターは「お早よう」(1959年 小津安二郎監督)をモチーフにしたもの。

上映作品は「お早よう」のほか、第60回日本映画監督協会新人賞受賞作品「洗骨」(2018年 照屋年之監督)、「老後の資金がありません!」(2021年 前田哲監督)など、市民のリクエストや長野県で撮影された作品、などからチョイスされた22作品。
弁士付きでサイレント映画の上映や短編映画コンクールもプログラムに含まれる。

第25回の映画祭ポスター

ゲストには短編映画審査長として伊藤俊也監督のほか、現役の監督、俳優が予定されている。

3年ぶりに映画祭が開催されると聞いた山小舎おじさんは、パンフレットを手に入れて参加の機会をうかがいました。
上映作品に伊藤俊也監督の「日本独立」(2020年)があったので、新星劇場での上映に駆け付けました。

映画祭当日の新星劇場

映画祭の立て看板と茅野の町

劇場前に駆け付けると、テントがひと張りと、ボランテイアが数人います。
例年のレッドカーペットや、コーヒー、樽酒、寒天デザートなどの接待はありません。

接待が中止なのは致し方なく、レッドカーペットは台風接近のために撤去したとのことです。
映画祭最終日恒例の会費制オープン参加によるゲストとの交流会も、今年は中止とのことでした。
かつては司葉子さんが舞台でトークショーをしたりしましたが、今年は小津ゆかりの女優さんのゲストもいません。

劇場前のテントとボランテイアスタッフ。背後は中央本線

富士見町から来たというご応輩のお客さんと雑談しながら開場を待ちました。
フリーパスを買って毎日来ているというそのお客さん、今までの上映では「老後の資金がありません!」が満員だったとおっしゃってました。

「日本独立」の上映開始。
平日なので入場は40から50人くらいでしょうか。
者側の挨拶があって上映となりました。

作品は伊藤監督らしい、生真面目できっちりした作りで、終戦後の日本憲法施行までの舞台裏を再現するもの。

手の込んだ空襲後の焼け野原のセット、ワンカットで表現された空襲のシーン、浅野忠信、小林薫、宮沢理恵らメインキャストのほか、当時の閣僚らを演じる柄本明、石橋蓮司、松重豊らの熱演(野間口徹が昭和天皇!)。
撮影所育ちの伊藤監督のこだわりと、終結したスタッフの意気込みが感じれられます。

映画祭パンフレットより

が、なぜ今憲法なのか?この作品の狙いは何か?という素朴な疑問がわきました。

マッカーサーを頂点とするGHQの恣意的な占領政策が憲法にまつわる混乱の原因にあるのはいいとして、GHQの悪さが映画の主題なのか?寝技で対抗した吉田茂の政治力を肯定したいのか?それともGHQ主導の矛盾だらけの憲法をいただくことになった戦後日本は戦争で死んでいった若者たちの本望ではないだろう、といいたいのか?

おそらくそれら全部の要素を盛り込んだ作品なのでしょう。

テンポよくエピソードを取り上げ、GHQにも、当時の内閣政府にも遠慮しない姿勢を貫き、史実として広まっていないエピソードも交えて戦後の一断面を描いた作品でした。
伊藤監督としては、国の最高法規がこんないい加減に、短期間で、占領軍と日本の間に意思の一致もなく決められていったのだよ、という絶望に近い問題提起をしたかったのだろうと思います。

手法的というか体質的にいうなら、テーマを、スピーデイーでドラマチックに盛り上げるのではなく、ねちねちとした日本的風土に根ざし、公平な視点で描くのが伊藤監督の体質なのだろう。

映画祭パンフレットより

伊藤デビュー3作目の「女囚さそり701号けもの部屋」(1973年)。
巻頭、地下鉄で刑事(成田三樹夫)に手錠をかけられたさそり(梶芽衣子)が、刑事の腕をぶった切って手錠につながれた刑事の腕ごと街を逃亡するシーンがあった。

観客を一気に映画の世界へ引きずり込むテンポの良いアクションシーンだが、そういった映画的興奮をもたらす手法を伊藤が取るのはあくまでイントロダクションだから。
作品の主眼は、底辺に生きる姉弟とそれと共生するしかない異界のものとしてのさそり、その〈ドロドロ〉とした怨念と警察権力の対峙だった。
アクションによるカタルシスが最後にあるものの、伊藤の興味が〈ドロドロ〉にあることは明白だった。

「さそり」第4作目の演出を主演の梶芽衣子によって拒否され、降板した伊藤が4年後に撮った「犬神の悪霊」(1977年)。
期待して映画館に駆け付けた観客の目に映ったのは、スリラーとしても、伝奇ものとしても、アクションとしてもい中途半端な、つまりは映画的興奮を求める観客の期待には応えようとしない作品だった。
「さそり」のように、敢えて異形のものを登場させ、作り物めいた映画世界へ誘うような作風はなく、監督の冷静な視点を崩さなかった。

とすればこの作品で伊藤が訴えたかったのは、村社会の因習と近代文明(村でのウラン鉱の開発)の決して融合しえない断絶とその中で翻弄される個人の悲劇なのか。

いずれにしても、アクションにも怪奇にも敢えて偏重しようとしない伊藤作品の作りは、映画的快感に乏しく、また、だからこそ、かえってテーマ本質への観客の接近を妨げてしまったのではないか、という疑念をもたらす。

「日本独立」で久しぶりに伊藤作品を見て、変わらないものを感じた山小舎おじさんでした。

糸魚川カニ屋横丁

新潟へ行ってきました。
長野県に隣接し、日本海への出口に位置する新潟県ですが、案外遠くて、山小舎に来てからは行けていませんでした。

今回は家族と行きました。
自宅に帰り、合流して自動車で行きました。

関越道で群馬と新潟の県境を越え、六日町のインターでした道に下りました。
魚沼郡、十日町などを越え、上越市に入りました。

ここで一泊。
地元の居酒屋で海鮮中心の夕食。
上越市の旧直江津市街地の店でした。

家族で一泊し、翌朝は日本海沿いを糸魚川に向けて出発。
好天の日本海沿いの道は快適でした。

糸魚川に入り、道の駅能生という場所へ向かいます。
駐車場は、関東や中京、北陸方面のナンバーで満車に近い状態です。

構内にカニ屋横丁というカニ専門の店が並ぶ一角があります。
鮮魚店が3店ほどあります。
道の駅なので土産物屋、食堂などもあります。
付近には道の駅が管理するキャンプ場もあるようでした。

カニ専門店が並ぶカニ屋横丁

鮮魚店で自宅に送る鮮魚を買い求め、宅配便を手配しました。
ノドグロをはじめ、南蛮エビ、イカ、石鯛などの鮮魚、サバの干物なども売られています。
その場で食べられる生ガキ、焼きイカなども売られていました。

カニ屋横丁と直角に鮮魚店が並ぶ
鮮魚店内の鮮魚の数々

カニ屋横丁前のパラソル付きテーブルにはカニを食べるお客でにぎわっています。
茹でたカニを買うと、バケツとはさみと割りばしと手拭きがついて来て、その場で割ってほじって食べられるのです。

カニ屋横丁前のテラスでカニをむさぼる

何とも豪快です。
日本は狭いようで広く、現地に行かないとわからないことがまだまだたくさんあります。

かつて夏に秋田の日本海沿いを車で走った時に、真夏の道の駅で人々が生ガキをじゃんじゃん食べては、蛎殻で一斗缶を山にしていた光景を思い出しました。
夏に生ガキを食べたことがない山小舎おじさんはその光景に驚きましたが、今なら喜んで仲間に入ることでしょう。

夏の新潟では茹でカニをむさぼり食う光景が繰り広げられているのでした。

カニをチョイスした山小舎おばさんによると、1杯1600円ほどでカニを買うと、倍くらいのおまけをしてくれたとのことでした。

これで1600円(おまけ込み。唐揚げ、コロッケは別)

家族で無言でカニをむさぼり食べました。
外なので多少こぼしても、汁が垂れても大丈夫。

茹でカニは生臭いこともなく都会ではなかなか出会えない味でした。
合わせて、カニご飯とカニクリームコロッケも食べましたが美味。

9月中旬ながら夏の日差しの日本海で思わぬプレゼントでした。

軽トラ流れ旅 須坂デイープ旅

軽トラで須坂まで行ってきました。
上田から真田をとおり、菅平へあがって須坂へ下るコースで行きました。

須坂は、新潟方面へ北上する谷街道と、菅平をとおって現群馬方面へ抜ける大笹街道が交わる交通の要衝として中世より発展。
江戸時代になると須坂藩が置かれ、物資の流通により豪商が発生しました。
明治以降は生糸の生産の中心地として発展したところです。

当時の蔵が立ち並ぶ町が残っており、小布施と長野の中間地という立地から、観光客にも人気の町です。

山小舎おじさんは2度目の訪問。
前回は江戸時代の豪商田中家の屋敷を見、蔵の街並みを見、長野電鉄が走る須坂駅に行き、地元で人気の食堂で昼食しました。
この度、前回訪問時には改修中だった博物館を見たくて再訪問しました。

臥竜公園で博物館と動物園

臥竜公園は須坂市民の憩いの場です。
春は桜の名所となります。
一角に須坂市博物館があります。

須坂市博物館前景

常設展示室では、カモシカのつがいが、はく製姿でお出迎えしてくれます。

常設室最初の展示はカモシカ

石器時代から古墳時代のエリアへ行くと、この地域に古墳が多くあり、剣など重要な埋葬品が発掘されたことがわかります。
長野県は古墳の数では全国有数の、古代の文化圏だったのです。

古墳から出土した直刀

隣の展示室には須坂の観光名所の、米沢瀑布と米沢鉱山跡の展示がありました。
興味をひかれたので、学芸員の方に詳細を聞くと、米沢瀑布は紅葉の名所でシーズンにはシャトルバスが出るとのこと。
ただし現在は2019年の台風19号の被害で交通遮断となっていること。
駐車場から40分くらい歩くこと、などを聞きました。

また、硫黄鉱山跡の米沢鉱山は、瀑布からさらに徒歩で行かなければならないこと。
鉱山とその周りの町の跡はすっかり撤去され、廃墟的なものは残っていないこと、なども教えてくれました。
いつかは行って見たい米沢瀑布と鉱山跡です。

博物館の後、公園内の須坂動物園に向けて歩いてみました。
ローカル放送で須坂動物園のイヌワシの話題があったのを思い出したのです。
イヌワシは捕獲禁止なのはもちろん、飼っている動物園も限られているとのことです。

臥竜公園

桜並木を動物園まで歩くと、園内にSLの姿が見えました。
入り口の案内板を見ると入場料が大人200円とあります。
迷わず入場券を買いました。

須坂市動物園入り口

臥竜公園の端の丘陵というか、坂を利用した動物園です。
細長い敷地で上り下りもあります。
女性のスタッフが働いようで、鳥類、小動物が多く飼育され、猛獣はツキノワグマだけです。

天然記念物イヌワシ
ペンギンもいます

小動物と触れ合う施設があったり、昆虫などの展示館もありました。

園内の様々なコーナーの一つ

入り口近くに、中央本線の木曽福島機関区で勤めを終えたD51が展示されていました。
野外展示ですが、まずまずの保存状態で、運転席に上がることもできます。

笠鉾会館とまゆくら

須坂市博物館で、市内にある博物館分館の笠鉾会館との共通入場券200円を購入していました。

笠鉾会館へ行って見ました。
付近の市営駐車場の駐車券2時間分をくれました。

市立博物館が自然と古代の展示を分担しているとするなら、笠鉾会館は中世以降近世までの展示を行っていました。須坂の夏の風物詩である祇園祭の山車の展示も。

7月に行われる祇園祭の山車
往年の祇園祭の様子

祇園祭なるものは佐久地方の岩村田でも行われており、京都と信濃の歴史上の関係がどうなっているのか興味があります。

また、笠鉾会館では、交通の要衝としての須坂の歴史や、幕末の名君・堀直虎のことなどを知ることができました。

ここまで来たら市内の博物館は全制覇です。
続いてまゆくらという場所に行きました。

生糸生産全盛期に繭の蔵として使われていた建物を移築した博物館です。

まゆくら全景

入場して、届け出表に住所氏名を記入すると、係の70歳前後のおばさんが話しかけてきました。
古い蔵造りの建物のことから、当時の製糸工場の女工さんのこと、大笹街道のこと、などなど、話が途切れません。

須坂の女工さんは給料などの待遇がよかったとのことでした。
豪商田中家では屋敷の庭石を大笹街道を通らせ、菅平を越えて運ばせたこと。
製糸業衰退後は富士通の進出で精密工業が興ったこと、などなど。

まゆくら3階部分

話が尽きないので、須坂の町の花街のことも聞いてみました。
芸者さんがいたエリアを教えてくれました。
ほかに青木新道という場所と駅前もそういう場所だったことも。

後でわかりましたが、青木新道と駅前はいわゆる赤線、青線の地帯でした。
全盛期には長野からもお客が須坂駅前に来たとのことです。

須坂の闇、赤線地帯へ

博物館めぐりを終えた後は、地酒、どら焼きなどのお土産を買いがてら、まゆくらで得た情報の場所を巡ってみました。

芸者さんがいた花街の跡はすぐ見つかりました。
地図上で教えてもらった場所に料亭が1軒残っていました。

花街の現在

午後2時を過ぎ、昼食もまだでしたので急いで赤線地帯にも行ってみました。
昔のことを知っているとはいえ、女性の記憶なので、まゆくらのおばさんからの情報では、確かな場所がわかりません。
ネットで検索すると、劇場通り、青木屋小路などがその場所のようでした。

大体の方向へ歩いてみると、果たして劇場通りにぶつかりました。
かつては映画館(前身は芝居小屋)があり、にぎやかな商店街だったとのことです。
今はひっそりした劇場通りを歩いてゆくと、青木屋小路の看板がありました。

劇場通りの行灯
青木屋小路

青木屋小路に入り、ぶつかった道にはスナックなどがありました。
見ればそれらしき建物の名残も。
ここら辺がかつての遊興の巷だったのでしょう。

時代も変わったこともありますが、富士通も撤退し若い勤め人がいなくなったことが衰退の主な原因なのでしょう、かすかな残滓を残し住宅地に変貌してゆく地域となっていました。

青木新道に現存するスナック
かつての赤線と思われる建物
付近の道路標示。「現在地」に隠れたあたりが青木新道

歩き疲れ、腹も減り、須坂での今回の目的も果たしたので駐車場へ戻りました。
既に3時を回っており地元の飲食店はとっくに休業に入っている時間帯でした。

DVD名画劇場 溝口健二と田中絹代「西鶴一代女」

映画の教科書のような作品だった。
1950年代の映画撮影所の力量を思い知らされた。

監督の溝口健二は戦前のサイレント時代からのベテラン。
同棲中の女性に剃刀で背中を切られるなどの修羅場を体験し、女を描かせれば当代随一といわれた。
それも、玄人の女性だったり、運命に翻弄される逆境の女性を好んで描いた。

新東宝で撮影した「西鶴一代女」(1952年)は、ベネチア映画祭に出品され国際賞を受賞した。
溝口はその後、「雨月物語」(1953年)、「山椒大夫」(1954年)で、連続して同映画祭の銀獅子賞を受賞する。

国際的にも評価を受けた溝口健二は、ヌーベルバーグの若手監督らからも崇拝され、ジャン=リュック・ゴダールは来日時に、たっての希望で溝口の墓にお参りした。

主演の田中絹代はこの作品の撮影年に43歳となるベテラン女優で、松竹の大幹部女優として戦前から活躍していた。戦後の1949年に親善大使として渡米したが、約3か月の滞在後の帰国時に、投げキッスやアメリカナイズされた服装がバッシングを受けた。

スランプに陥った田中は、溝口から「西鶴一代女」の主人公お春役のオファーを受けた。
御所勤めの身分から、夜鷹、乞食にまで落ちぶれるが、気高さを失わない女性の一生を、鬼気迫る演技で応え、スランプを脱した。

その後も、わきに回りながらも映画、テレビで活躍した。
1974年「サンダカン八番娼館・望郷」で年老いた元からゆきさんを演じた田中に、ベルリン映画祭は最優秀女優賞をもってたたえた。

「西鶴一代女」  1952年  溝口健二監督  新東宝

御所のお女中?として権勢を誇っていた10代のお春。
欲張りなだけで、意気地なしの父親(菅井一郎)の自慢の種だった。

お春にほれ込んだ若侍(三船敏郎)の一途な愛に応えたのがお春の転落の始まり。
不義密通の罪に問われ、洛外追放。
若侍は死罪となり、三船は開始早々いなくなる。

御所からの見舞金を当てにして散財していた父親に泣きつかれて、島原に売られ太夫として売れっ子になるお春。
廓ではあさましく金に右顧左眄する主に嫌われて里へ帰る。

商家へ奉公するが、島原にいたことがわかると態度を変える主(進藤栄太郎)や、玄人女性に嫉妬する奥方(沢村貞子)に翻弄され、いられなくなる。
店では手代(大泉晃)に惚れこまれ、のちに商家をクビになった手代に言い寄られることになる。

腕のいい扇職人(宇野重吉)に是非にと乞われて嫁に入って幸せになるのもつかの間、夫が辻斬りに合って死体で帰ってくる。

出家しようと尼寺に身を寄せるが、言い寄られた男との現場を見られ、庵主から追放される。

お春は、どんな状況にあっても己に正直に、孤高の姿勢を崩さない。
ただ黙っているだけでなく自分の気持ちを主張し、権力に反発する。
そのために零落していっても、慌てず、嘆かず、人のせいにせずにその状況(というか己の運命)を受け入れる。

溝口とのコンビの脚本家・依田義賢は、お春のキャラを1本芯の通ったわかりやすいものとした。
お春を巡る人々のキャラも、一途な者、まじめな者、ずるいもの、小心者、などと分かりやすく色分けされている。結果、作品は外国人にわかりやすいものとなっている。

お春を巡る男性陣の描き方にも溝口らしさが出ている。
金に右顧左眄する島原の廓の主人や、お春が島原出だとわかった瞬間、これからはただでできるわいとスケベな顔になる商家の主。
小心で、娘の金ばかりあてにする実父の描き方も徹底している。
男の卑近さの強調は、ほかの溝口作品、「雨月物語」、「祇園囃子」(1953年)、「赤線地帯」(1955年)などとも共通している。

一方、誠実で男らしい男は登場後すぐに死んでゆく。

このブラックジョークのような状況を敢然と受け入れてゆくお春を演じる田中絹代がすごい。
夜鷹になったお春が、羅漢の顔に三船扮する若侍の顔をオーバーラップさせるときのすごみのある表情。
夜鷹の客に、化け猫とからかわれ、取って返して啖呵を切る時の鋭い体の動きにみなぎる怒りの表現。
ラストシーン、乞食となって巡礼するお春の笠の下の表情は、諦観した聖女のようだった。

撮影は平野好美。
新東宝のスタッフなのか、溝口とは名コンビの大映の宮川一夫カメラマンではない、が、溝口の手法は変らない。

奥に細長い商家のシーンでは縦の構図を生かして撮影。
深度の深いフォーカスで手前にも奥にもピントを合わせた撮影で、ワンカットワンシーン演出に応える。

お春の運命が転換(ほとんどの場合は暗転)する場面では、走るお春を俯瞰で追いかけるクレーン撮影で、状況の変化をカットを切らないで表現する。

多くのショットは、フルサイズ以上で突き放すように登場人物たちを捉える。

家屋のセットでの人物の動きを、横の動きは障子越しにワンショットの移動撮影でとらえ、また2階から1階へ駆け降りる縦の動きでは、セットの壁越しにクレーンを使ったワンショットでとらえる。
緊張感の持続と、状況の説明に的確な撮影である。

1950年代の日本の映画撮影所の技術の高さ、俳優の演技のうまさ、入魂ぶりがさりげなくかつ十分に確認できる作品である。

令和4年青春18きっぷの旅 大糸線で穂高、白馬へ

日曜日に穂高と白馬へ行ってきました、青春18きっぷの旅です。

穂高神社再訪

茅野から松本へ行き、大糸線のホームへ。
連絡するのは穂高行き普通列車。

通路片方にボックスシートが並び、反対側はベンチシートという作りの車両です。
白馬や南小谷まではゆかない、穂高止まりの下り列車なので乗る人もほとんどいません。

大糸線穂高行き普通列車
ボックスシートとベンチシートが混在する珍しい車両

松本郊外の宅地の風景を抜け、田んぼばかりの農村風景となった頃、穂高駅に着きました。

御船に飾られるような武者人形が迎える穂高駅

車窓からも見えたこんもりした森が穂高神社です。
朝9時の穂高神社は、鳥居へ向かう途中の木漏れ日の鮮やかさが新鮮です。
鳥居をくぐる際の空気感に襟を正します。

穂高神社の森の木漏れ日
鳥居。神楽殿の背後に拝殿

2,3年前に来た時同様、境内は掃き清められ、鳥居正面の神楽殿は真新しい姿をとどめています。
拝殿にお参りします。

神楽殿から鳥居を望む
拝殿

ふと見渡すと、穂高のお祭りで活躍する、御船が見えました。
桃太郎をテーマにした作りです。

毎年9月に行われる御船まつり。
船をかたどった山車がぶつかり合うというもので、安曇野に船でやってきたという遠い祖先の言い伝えを今に伝えるものといわれています。

境内には御船があった

船で当地にやってきたという安曇野の祖先の神様にして、北アルプス総鎮守でもある穂高神社を後にします。

穂高神社の鶏がいない

前回、穂高神社に来た時に印象的だったのが境内を走り回っていた放し飼いの鶏。
神様のお使いだとのことでした。
今回、その鶏の姿がないので聞いてみました。

先ず、お守りを売っている巫女さんに聞きました。
今はいなくなりました、野獣に捕られたのでしょうか?とのこと。

売店でコーヒーをテイクアウトした際に店主のおばさんにも聞いてみました。
最近まで2羽いたんですが、いなくなりましたね、とのこと。

皆さん鶏と神社の関係は認識しており、またいなくなったことは知っているようです。

駅に向かい下りの列車を待つ間に、駅前の観光案内所に行って見ました。
お土産の生わさびを買いつつ、係の人に鶏のことも聞いてみました。
あれっいなくなったんですか、知りませんでした。とのこと。

観光案内所でおろし生わさびを購入

穂高神社から神の使いがいなくなってしまいました。
鶏よ、よかったら戻ってきてください。

大糸線の車窓より

穂高から南小谷行きの列車に乗ります。
座席は8割がた埋っています。

信濃大町を過ぎて北上します。
車窓にはそろそろ北アルプスの姿が見えてもいいのですが、この日天気は良く気温も高いのですが、雲が里山の上あたりにかかっていて、背後に壁のようにそびえるアルプスの姿は見えません。

北アルプスは雲で望めず

標高が上がるにつれ、水田の間にそば畑が広がり収穫前の白い花を咲かせています。.

北アルプス方面の里山と田園風景

大町と白馬の間の山間に湖が3つ続きます。
木崎湖、中綱湖、青木湖です。

天気の良い休日とて湖面には釣舩やモーターボートが浮かんでいます。
諏訪湖と違い、藻なども発生していません。
遠目からでも、静けさと水質の良さがうかがえるようです。

このあたりの地形、安曇野が湖だったころの名残なのでしょうか。

車窓から見る木崎湖

白馬は外来者天国?

白馬で下車します。。

白馬駅。観光地特有の空気感

11時を過ぎていたのでまず腹ごしらえ、とネットで調べたとんかつ屋へ向かいます。

12時過ぎになってロースカツ定食にありつくことができました。
有名店らしく、県外ナンバーの車両が開店時間に詰めかけるのですが、店の玄関は締まっています。
11:30の開店時間も過ぎてから中から店の人が顔を出し、そこにいる人の予約を受け、ついでに開店時間を12:00に書き直しました。
CLOSEDの看板は出したままです。

ネットで評判のとんかつ屋へ行って見た
案内板(食事中に一部書き換えられていた)

コロナで、予約客のみの対応という方針もあるのかもしれませんが、開店前の看板からではよくわかりません。11:30にやってきた県外ナンバー車両は、あきらめて開店前にほとんど去ってゆきました。

店内のレイアウトも一人ずつアクリル板で区切られており、テーブルには瓶入りのソースとチューブ入りのからしが乗っています。
注文と同時に会計でした。

1100円のロースカツ定食は、肉が特段厚くもなく、また明らかにお米の質が悪く、ごはんが美味しくありません。
高遠で食べた1000円のソースカツ丼の方がずっとおいしかったでした。

ロースカツ定食。

近くには、キャンプサイト用品のショップがあり、庭ではマルシシェが開かれていました。
スタバのテラスで憩う人々は都会からの移住者なのか、避暑客なのか、観光客なのか?
マルシェの出店者も、来客も地元の人ではなく、”外来者”ばかりのようでした。
店内には外国人の姿や、関西弁をしゃべる人の姿も目に付きます。

サイクルショップの庭からスタバのテラスを望む
サイクルショップの庭ではマルシェが開かれていた

ここで駅に戻り貸自転車を借りて行動。
まずは白馬村歴史民俗資料館を目指しました。

自転車で15分もかかりましたでしょうか、白馬グリーンスポーツの森という場所の一角に資料館がありました。
係の女性が一人います。
入場無料です。
このあたり、外来者が集まるエリアとは異なる、のんびりした空気が流れています。

資料館はワンフロアだけのスペース。
石器時代からの歴史、林業、農業に関する歴代の道具のほか、塩の道という現在の大糸線にトレースする旧街道のパノラマが目を引きました。
白馬らしく登山やスキーの歴代の道具の展示もありました。

資料館の展示。。
塩の道パノラマ

続いてマップを頼りにジャンプ台まで。
長野オリンピックのジャンプ会場です。

ここに至るまでの道すがら、とにかくたくさんのペンションを見ました。
それも3,4階建ての大掛かりな建物をよく見ました。
現在はともかく、スキーや避暑に訪れる客でごった返した時代があったことをうかがわせます。

白馬ジャンプ競技場

ジャンプ台の下でしばし休憩。
ジャンプ団体で日本チームが優勝した時の競技の模様を思い出します。

この日はトレイルランの大会が開かれているようで、高低差のある地形の中をランナーたちが駆けてゆきます。空にはパラグライダーが浮かんでいます。
こういった地道な活動、観光は無理がなくていいものです。

ジャンプ台下でオリンピックの旗がひらめく

白馬村内には温泉もたくさんあるようです。
八方というエリアをとおると、温泉施設があり、足湯は満員でした。

トレイルランのゴールがあり、次々とランナーたちが帰ってきます。

八方温泉の足湯
トレイルランでゴールするランナーたち

古くから登山とスキーの基地として開発され人があふれていた白馬村。
ペンションブームを経て、国内・海外からの移住者が増え、観光客の人気も続いています。
一方、古くからこの地方の中心地として主に農業・林業で栄えてきた歴史があります。

地元の人にとって、外来者は生活の糧でもありましょうが、両者の接点は金だけで、生活圏から人的交流まで隔絶されているのかな?とも思いました。

先のとんかつ屋の客あしらいにしても、貸自転車屋の全く事務的な対応にしても、明らかに外来者に対する、飽き飽きした感情、人的な交流を拒否する感情、があるような気がしてならないのです。

もともと外部に対して閉鎖的な県民感情のベースが、観光基地として長年外来者に荒らされてきた白馬にあって強化された結果なのかもしれませんが。

廃材をもらう

山小舎のリフォームをお願いしている大工さんから電話がありました。

廃材が集まったので取りに来ないかとのこと。
二つ返事で伺いました。

大工さんの資材置き場があるのは、長和町の和田地区。
旧小県郡和田村です。

軽トラで姫木別荘地内をエコー平スキー場付近まで上がり、鷹山牧場付近まで続く道をとおり、県同55号線に合流して和田峠の麓の男女倉(お目倉)まで行きます。
そこで中山道に合流して和田まで下ります。

角材を含めてたくさんの板材、垂木の端材などをもらいました。

軽トラの荷台一杯の廃材をもらいました

さっそく持って帰って廃材を再利用します。

長めの角材は、薪を干す台に使います。
薪の乾燥台は地面から15センチ以上あることが望ましく、また当然ながら台が水平であることが必要です。
その点、柱や梁に使われていた角材は、乾燥台の土台に最適なのです。

さっそく角材を薪の乾燥台の荷台に使います

板材は適当な長さに切った後、手斧で割って焚付に使います。
既に乾燥している板材ですので火の付きがよく重宝します。

この大工さんからは数年前にも板材の廃材をたっぷりもらい、焚き付けとして使っていましたが、それももうそろそろ使い切るところなのでした。
まさにグッドタイミングでした。

DVD名画劇場 グレタ・ガルボ伝説 「グランドホテル」「椿姫」

手元に「銀幕のいけにえたち・ハリウッド不滅のボディ&ソウル」という古本がある。
アレクサンダー・ウオーカーというアイルランド生まれの映画評論家が1966年に発表したものが原著。
10人の不滅のハリウッドスターのスクリーン上の、また彼女ら自身を通して女性のセクシュアリテイの本質を極めること、がテーマの一つだとある。

グレタ・ガルボについての1章があるので、引用、要約してみる。

ガルボは1905年スエーデンに生まれた。
労働者階級の家庭に育ち、学校に行ったのは13歳まで。
引っ込み思案で、人前できちんと話すこともできない性格だったという。

14歳で父親を亡くし、15歳の時には裏通りの散髪屋で石鹸娘として働いた。
のちにデパートで販売員として働いていた時、宣伝用の短編映画に出演、これを契機に王立劇場付属の俳優学校に通い始める。

俳優学校長の推薦で、当時スエーデン映画界で第一人者の一人だったモーリッツ・スティルレル監督の新作の主演女優に抜擢された。
特に美人でも才能があるわけでもないガルボをスティルレル監督は熱弁をふるって擁護したという。

この点では、同僚たちの反対を押し切ってマレーネ・デートリッヒを「嘆きの天使」に抜擢した、スタンバーグ監督のケースも同様だった。
ステルレルはグレタ・ガルボ(本名グレタ・グスタフソン)の名付け親でもあった。

1925年にMGMのタイクーン、ルイス・B・メイヤーがスティルレルともどもガルボをハリウッドに呼び寄せる。
まもなくスティルレルは独裁的な態度がスタジオの総反発を食らいMGMを解雇され、ガルボだけが残る。

当時のハリウッド映画(の女性性)は、フラッパーたちの”フリーラブ”哲学”か、もしくはリリアン・ギッシュに代表される清純に二分され、ガルボが象徴する、性的なものと精神性の組み合わせをうかがわせるキャラクターは希少価値があり、斬新な存在だった。

同時に「彼女は台本やシュチュエーションをたちどころに理解してしまうんだ。ほとんどリハーサルの必要がない。(中略)自分の才能と実力でもってドラマを膨らますことができる」とスタッフが述べるくらいの完璧な仕事ぶりだった。

スエーデン時代のガルボ

ジョージ・キューカー、エドモンド・グールデイング、クラレンス・ブラウンといった”専属”監督と、何よりカメラマン、ウイリアム・ダニエルズらスタッフの貢献もあり、ガルボは銀幕の大スター、生ける神話となった。

ファンが自分と同一化するのをかたくなに拒み、記者会見やインタビューに応じず、パーテイーに出ず、最後は全盛期の36歳で引退して、ガルボは永久に神話の中に閉じこもった。

「グランドホテル」 1932年 エドモンド・グールデイング監督 MGM

ベルリンの豪華ホテルを舞台に繰り広げられる人間模様。

登場するのは舞台にナーバスのなっているロシア人バレリーナ(ガルボ)、紳士を装った泥棒(ジョン・バリモア)、工場の経理係を休職し全財産をもって滞在中の初老の男(ライオネル・。バリモア)、企業買収を策動中の経営者と雇われタイプライター(ジョーン・クロフォード)。

各キャラの描写と演技が的確で味わいがあり、自然とドラマに見入ってしまう作品。

「我が家の楽園」とも共通する、ライオネル・バリモアの名演技も見られる。
声だけでこの人(ライオネル・バリモア)と分かるようになった山小舎おじさんは彼のファンになった!

紳士を装ったホテル専門の泥棒ながら、最後は本物の紳士として死んでゆく、ジョン・バリモアもいい。

ガルボに言い寄るジョン・バリモア

若き日のジョーン・クロフォード。
当時も今もいる、軽薄で金次第で世の中を渡ろうとしている、即物的な若い女性を軽やかに演じて、魅力的。
最後は人間の尊厳の何たるか、に目覚めて観客を安心させるのもいい!

そして、ガルボ。
これが、決して飾り物ではない存在感を見せる。

バレリーナに見えるかどうかは置いておいて、自らの繊細さに苦しむ芸術家が、時にはしゃぎ、時に鬱々とする姿をまるでガルボ自身のことのように演じていて、うまさを感じさせる。

「グランドホテル」のグレタ・ガルボ

寝巻の下にホットパンツをのぞかせて色気を振りまき、ラブシーンも欠かさないが、それがいちいち魅力的だ。

この時代にしては肌を見せることもいとわない?ガルボ…

ラストの大団円に向けて、各キャラが、まるで豪華ホテルがシェアハウスか何かのように自由に各部屋を行き来するのがおかしく、またいいなと思う。

30年代のアメリカ映画。
フランク・キャプラの「我が家の楽園」「スミス都へ行く」に見るような正義感、人間性を詠うことに躊躇がなかった時代。
観客もそれを受け入れていた時代。
現実はともかく映画の中くらい正義が通用してもいいんじゃないか、と思った。

「椿姫」 1937年 ジョージ・キューカー監督 MGM

「グランドホテル」と異なり、ガルボが完全な主役で壮大なその独演、相手役との駆け引き、を楽しめる。

ガルボとロバート・テーラー

19世紀中盤のパリの社交界。
素性の知れぬ男女が虚々実々の駆け引きを繰り広げる濁った世界。

ガルボ扮する椿姫も極貧から身を起こし、金持ちの男を渡り歩いてきた身の上。
人間関係は気の向くまま、流されるまま、そこに信頼も尊厳もない、というキャラ。

椿姫に夢中になる青年に若き日のロバート・テーラー。
「哀愁」以降の中年になったテーラーしか知らなかったが、若いころはハンサムなうえに初々しく誠実な見かけで、スケベ一辺倒のゲーリー・クーパーより好印象。

実年齢32歳になるガルボは、画面を通しても年相応の貫禄はごまかせなく、(声も1932年の「グランドホテル」当時よりは低くなっている印象)また、口をつく「ハハッ」という相手を小ばかにしたような笑いも年齢を感じさせるのが実情。
しかしながら、だからこそ、若い燕の言い寄りをいなす演技は絶妙。

青年との真実の愛に目覚めたときの演技よりも、社交界を浮遊しながら、あることないこと思いつくままに口をつく”余裕”の演技が印象に残る。

青年の父として、椿姫に身を引くことをお願いする役をライオネル・バリモアが演じ、通り一遍の敵役に収まらぬ余韻を残す。
さすがだ!

瀕死のガルボがテーラーを迎えて真情を披露し、ある意味、幸福のもとに死んでゆくラストシーンでは、思わず眼がしらが熱くなる山小舎おじさん。
おじさんもすでにガルボ伝説に囚われた身となったのか?それとも単純なヤツだけということか?

ガルボの豪華な衣装も楽しめる作品。

(余談)

スエーデン出身の女優というと、イングリット・バーグマンはじめ、アニタ・エクバーグなど、大女のイメージがある。
我がガルボは身長が169センチというから、大女とはいいがたい。
体の厚みもなく、ただし肩幅は広くがっしりした印象でそこにスエーデンの血は生きている。

「ニノチカ」(1939年エルンスト・ルビッチ監督)に見る、ロシアの”人民服”姿と男っぽいふるまいも、そのがっしりとした体つきには似合うというものである。

ちなみにスエーデン系のアメリカ人女優にはグロリア・スワンソン、ジーン・セバーグらがいる。
スワンソンは背は低いが肩幅広くがっしり型。
セバーグは背は低く肩幅も広くない。

スエーデン系にも色々いるという次第である。