レンタサイクルで諏訪湖一周

10月の秋晴れの日、自転車を借りて諏訪湖の秋を味わった。

下諏訪町の友の会がやっている無料駐車場が、国道20号線沿い、下諏訪駅と諏訪大社下社秋宮との間にある。
そこで、レンタサイクルも行っていて、電動自転車が1時間100円で借りられる。

下諏訪町友の会駐車場で自転車を借りる

朝10時半、自転車を借りて諏訪湖一周の旅へゴー。

下諏訪駅横の踏切を越え、諏訪湖方面へ走る。

下諏訪駅前にも御柱が立っていたが、町内のいろんなお宮にも小型の御柱が立っている。
諏訪は御柱とともにある町だ。

下諏訪駅前の御御柱
下諏訪の街角の御柱

諏訪湖畔に達する。

諏訪市から下諏訪、岡谷に至る諏訪湖畔は人出も多い。
天気が良いと、ランニングしたり散歩する人の姿が見られる。

湖畔のこのあたりは、サイクリング用と歩行者・ランナー用の道路が整備され、公園や駐車場、トイレも多く、ちょっとした運動や日光浴、気分転換に適したエリアだ。

諏訪湖畔に着くと足湯があった
木製のはしけ
ススキが穂を出していた

湖畔に接して、民家や学校などが続く、賑やかなエリアでもある。

諏訪湖の周りには温泉が多い。岡谷温泉
公園には人知れずSLの姿も。岡谷市にて
湖畔には公園が多い。紅葉も

やがて諏訪湖が天竜川となって流出する、釜口という場所につく。
水門があって、名物の赤い鉄橋が見える。
水門上の橋は自転車で通行することができる。

諏訪湖と天竜川では3メートル以上の水位の差があり、漁船はパナマ運河などの水門方式で水位を調節して行き来するのだそうだ。

釜口水門
釜口付近の天竜川にかかる鉄橋

釜口を超えると、いわゆる諏訪湖の裏側。
かつての鎌倉街道の西街道の古い町並みが残るエリア。

湖畔の車道は、岡谷から茅野に抜ける幹線道路で通行量が多い。
サイクリングやランナーの専用道路も整備されているが、人数は一挙に減って人影がなくなる。

釜口を過ぎると途端に人気がなくなる

諏訪湖にはいたるところに漁船やボートの船着き場がある。
防波堤で区切られた一角に数隻の船が溜まっている。
歴史ある湖の風情が感じられる。

釣り船宿
沖合の釣り場

岡谷エリアを過ぎ諏訪市のエリアに入る。
諏訪湖の表側、旅館や土産物屋が並び、遊覧乗り場がある一帯だ。

諏訪市エリアの旅館群
諏訪市エリアの遊覧船乗り場。営業は終了していた
ヨットハーバー

ヨットハーバーもある。

湖畔を離れると高島城というお城もあり、温泉町諏訪のかつての賑わいの残り香が漂う一帯も近い。
上諏訪温泉郷のこのあたり、地元の人が通う古い立寄り湯が街中にあったりもする。

湖畔は全国からの観光客で賑わう、がどこか寂しさも漂う。
かつてのように観光地に団体客が押し寄せる時代ではないし、若い人が決まった場所に詰めかけることもない。
首都圏の観光地の人波の分厚さはない。
東京から日帰りで来れる場所ではないことも大きいのだろう。

諏訪市エリアの湖畔遊歩道
間欠泉が見られる場所がある
湯気は出ているが吹き出しはなくなった
センター3階の花火展示。諏訪湖花火大会も有名だ

全長16キロの諏訪湖一周の旅。
暑いくらいの日差しと、吹く風の冷たさがアンマッチながら、気持ちの良い秋の一日でした。

かかった費用は自転車レンタル代が、4時間半で500円、駐車料金が0円でした。

帰りには下諏訪温泉の立寄り湯の一つ、菅野温泉に入りました。
240円でした。

DVD名画劇場 女優NO.4 イングリッド・バーグマン

評伝「イングリッド・バーグマン時の過ゆくまま」

全米映画協会が1999年に選定したアメリカ映画俳優ベストの女優部門で4位だったのがイングリット・バーグマン。

彼女の評伝がブックオフに200円で売っていたので、買って積んでおいた。
この度バーグマン作品をDVDで見るにあたり、積んであった評伝を紐解き、DVDで見た4作品の関連部分を拾い読みしてみた。
印象深いエピソードが山積みの評伝だったので、それらをピックアップして作品評を進めてみたい。

バーグマンは、1980年に自伝「マイストーリー」を発表していたが、当然ながら本人が望まない部分には触れていない。
1986年に発表された評伝「イングリッド・バーグマン時の過ぎゆくまま」では、自伝、資料、関係者へのインタビューなどにより、本人が触れたくなかった部分も含めた客観的なバーグマン像の創出に成功しているとのこと。

バーグマンは1915年スエーデンのストックホルム生まれ。
幼い時から演ずるのが好きで、女優を目指しスエーデン王立演劇学校へ入学。
その後、国内で演劇、映画に出演した。
この間結婚して娘を授かっている。

スエーデン生まれで王立演劇学校を出、国内で映画出演というとグレタ・ガルボと同じ経歴になる。
また、渡米前に演劇、映画で活躍し、また結婚して一女を授かっているとなるとドイツ出身のマレーネ・デートリッヒと同じ経歴となる。
欧州出身のこの2大先輩女優と、バーグマンとの共通点はこう見ると多い。

バーグマンは渡米前に11本の映画に出演していた。

評伝に目を通しつつバーグマンの作品を見るとわかってくることがある。

バーグマンの作品を見るということはすなわち、バーグマン本人の得難い個性を感じることであり、渡米後に最も世話にもなり、確執もあったハリウッドプロデユーサー、デビッド・O・セルズニックについて認識を深めることである、と気づかされる。

当然ながら、夫ペッターをはじめ、作品ごとの監督、共演者とバーグマンのただならぬ関係性にも思うところ大、とならざるを得ない。

デビッド・O・セルズニック

ハリウッドで30年代から40年代にかけて、「風と共に去りぬ」をはじめとする数々の名作を手掛けたプロデューサーのセルズニック。

キエフ出身のユダヤ人で宝石商だった父がユニバーサル映画に出入りし、その実権を握るまでになったことから映画とともに育つ。

ワーナー兄弟、ウイリアム・フォックス、アドルフ・ズーカー、サミュエル・ゴールドウイン、ルイス・B・メイヤーらいわゆるハリウッド第一世代の〈タイクーン〉らの後を継ぐ第二世代のホープとして、アービング・サルバーグ、ダリル・F・ザナックとともに〈奇蹟の若者たち〉と呼ばれた。

青年時代のセルズニック

セルズニックは映画を金儲けの手段としてのみ考える人間を軽蔑したが、同時に商売でもあることを否定し去るものを認めなかったという。

「銀行マンでは映画は作れない。ショーマン独特の勘とドラマツルギーに精通していなければならない。さらに激しく飛び交う言葉と音とを見事に統一する能力を要求される。」
これは密造酒で財を成し、投資目的で短期間ハリウッドにかかわり、去ったジョセフ・ケネデイ(ケネデイ大統領の実父)が映画プロデユーサーについて述べた言葉である。

セルズニックは(サルバーグ、ザナックも)ケネデイが看破した映画製作の要諦の表と裏を、身近に経験して育ち、長じて理解し実行する能力を持った、良くも悪くも数少ない人間のうちの一人であり、ザナックを除き長くない人生をハリウッドを舞台に突っ走しっていった。

MGM入社後頭角を現したセルズニックは、タイクーン ルイス・B・メイヤーの娘と結婚。
トップと衝突しメジャースタジオを転々とした後独立した。

ヴィビアン・リーをイギリスから、ジョーン・フォンテイーンをマイナープロからスカウトしてきた、芸能プロ社長でもあるセルズニックは、スエーデンからバーグマンをスカウトし、7年契約を結んだ。

セルズニックは自らのプロデユース作品「別離」でバーグマンをハリウッドデビューさせ、その後は彼女を高額な金額で貸し出しもした。
バーグマンがスターになり、セルズニックは長期契約を望んだがバーグマンは最後まで了解しなかった。

(余談)
ミドルネームにアルファベットを入れるのは、ルイス・B・メイヤーが始めたもののようだが、本人たちがもったいぶっているだけで特に意味はないようだ。

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人、エリッヒ・フォン・シュトロハイムが貴族でもないのにフォンを名乗ったようなものであり、よく言って芸名、悪く言ってギミックであろう。
また、ユダヤ系の俳優がアングロサクソン風の芸名を名乗るのも同じと考える。

ちなみにギミックがその業界で必要不可欠なのがプロレス業界で、ユダヤ人のジャック・アドキッセンがフリッツ。フォン・エリックを名乗りナチギミックでブレークするなどぶっ飛んだ例が多い。

またその当時、アメリカの日系レスラーは悪役でしかありえず、東郷、東条などを名乗り日本軍人ギミックを行うか、あるいは田吾作スタイルで下駄をはき、ゴング前に背を向けたベビーフェイス役に塩を撒くスニークアタックで真珠湾のだまし討ギミックを行うことが多かった。
ジャイアント馬場もアントニオ猪木も坂口征二も修業時代のアメリカでは田吾作スタイルでファイトしている。

「別離」 1939年 グレゴリー・ラトフ監督 ユナイト

バーグマンがスエーデン時代に「間奏曲」として主演した題材の再映画化。
バーグマンのハリウッド第一作。

「風と共に去りぬ」を製作中のセルズニックが多忙にもかかわらず頻繁にセットに顔を出したという。

レスリー・ハワードと

バーグマンの雇い主のセルズニックは、自然に見せる以外のメークアップと、英語でのインタビューを禁止してデヴューさせた。

監督はウイリアム・ワイラーでスタートし、グレゴリー・ラトフに交代。
ラッシュを見て撮影のハリー・ストランドリンクをグレッグ・トーランド(「市民ケーン」ほか)にセルズニックが交代させた。

移動ショットが多いカメラワークはトーランドの手腕だったのかもしれない。

バーグマンは単身渡米、朝9時から18時までセットに入り、夜は時に21時までピアノ練習を行った(役柄がピアノ奏者のため)。

自ら製作のセルズニックは、「非の打ちどころがないほど。一番良心的な女優」とバーグマンをたたえた。

ピアノ奏者(バーグマン)が、既婚のバイオリン奏者(レスリー・ハワード)と恋に落ちるが、現実に目覚めて恋人のもとを発つというストーリー。
生々しい不倫の物語ではなく、初々しい若い女性の偽らざる恋と別れの物語となった作品。

当時24歳のバーグマンの若々しさ、無理のない笑顔がハリウッドのスクリーンに登場。
ドレスから除く逞しい肩幅はスエーデン女性らしいが、逞しさより人間的魅力として映るのがスターたるバーグマンが持って生まれたもの。

「風と共に去りぬ」との掛け持ちで、大酒とハルシオンの常用で映画製作に臨んでいるセルズニックが、さらに命を削ってバーグマンを売り出しにかかった作品。

バーグマンの演技上の基本路線である、初々しい笑顔と健康的な体躯、無邪気な性質が、早くも存分に発揮されている。

「誰がために鐘は鳴る」 1943年 サム・ウッド監督 パラマウント

前作の「カサブランカ」の撮影を終えたバーグマンは、宣材の撮影を夫役のポール・ヘンリードと行っていた。
そこへセルズニックから、「誰がために鐘は鳴る」のマリア役がバーグマンに決まったとの電話がかかってきた。
喜びの金切り声を上げるバーグマンは、ヘンリードには「獲物をしとめた雌虎、大変な歓喜と勝利の叫び声」のように聞こえた、と評伝にはある。

原作者のヘミングウエイもマリア役はバーグマンしかいないと公言。
有名人にも味方が多いのもバーグマン個人の魅力のなせる業。

雇い主のセルズニックは、バーグマンを約12万ドルでパラマウントに貸し出し、バーグマンには約3万ドルを支払った。

クーパーとともに

映画はシエラネバタ山脈へ10週間のロケを敢行。
野外撮影は、自然児バーグマンにとって、爆発しそうなほどの幸せだった。

ロケの最中には共演のゲーリー・クーパーと空き時間ほとんどを一緒にいるほどの仲になり、ラッシュを見たパラマウントの幹部は両者のロマンスを確信した。
スタッフはバーグマンに対し、クーパーと一緒のシーンではあまりうれしそうな表情をしないようにとアドバイスしたという。

二人の仲は次の「サラトガ本線」の間は続いたが、そのうちクーパーからの連絡もつかなくなって終了した。
クーパーはのちに「あれほど自分を愛してくれた女性はいなかった」と述懐したという。(ということはのちのパトリシア・ニールとの浮気というか同棲はそうでもなかったということなのか?)

マリア役を演じた

この期間中も、セルズニックはバーグマンとの長期契約を画策したが果たせなかった。

作品は、短髪で素顔が太陽に光り輝く乙女役のバーグマンがむしろ脇に回り、ピレネー山脈中の人民軍(政府軍側に言わせると山賊一味)の堕落したリーダーとその情婦を中心にした組織論であり、絶望の中に活路を見出さんとするパルチザンの物語。
そこにアメリカ人義勇兵のクーパーの橋爆破の任務と、政府軍に両親を殺された娘マリアが絡むもの。

ハリウッド美男美女からは程遠いがリアルなリーダー役(エイキム・タミロフ)と情婦役(ギリシャ人女優:カテイーナ・パクシヌー)の熱演も、クーパーが出てくると定番の西部劇か何かに見えかねない難点はあるものの、ロケ撮影でドラマをまとめ上げたスタッフの意欲は買いたい。
バーグマンはなるほど楽しそうに生き生きと演技していた。

夫のペッター、娘のピアは、このころではすでにアメリカで暮らしている。

「ガス燈」 1944年 ジョージ・キューカー監督 MGM

評伝にこの作品のことはほとんど出てこない。
評伝に記載するほどのロマンスもゴシップもなかったのかもしれない。

製作はアーサー・ホーンブロウ・ジュニアで配給はMGM。
セルズニックは製作にタッチしていない。

「ガス燈」シャルル・ボワイエと

バーグマンは訳ありの夫から精神的に追い詰められる新妻役。
タネは終盤まで明かされず、観客もバーグマンと一緒に不安な気持ちにさせられる。

演出はジョージ・キューカー。
MGMで、ガルボやキャサリン・ヘプバーンの信頼を得た監督であり、本作も遺漏なく丁寧な造り。
だが、サスペンスというより、夫(シャルル・ボワイエ)のモラハラ成分が強く出てしまい、純粋サスペンスのヒッチコック作品とは若干の手腕が違う印象。

バーグマンはもう一つの定番演技である、追いつめられる罪なき若妻、のキャラを申し分なく演じる。
がそれ以上どう?といわれても困る作品。

「ジャンヌ・ダーク」 1948年 ヴィクター・フレミング監督 RKO

イギリスに侵略され国土が分割した15世紀のフランス。
優柔不断な皇太子シャルルは、オルレアンの乙女・ジャンヌのおかげで劣勢のフランス王に即位できたにもかかわらず、パリ奪還をせず、あまつさえ救国の乙女ジャンヌを占領軍イギリスに売り渡してしまう。

このシャルルを演じたのがホセ・ファーラー。
単なる卑劣漢ではなく、品位も保った貴族の、骨の髄からの堕落ぶりを演じて印象に残った。

ファーラーが評伝で言う。
「女優ならだれでもジャンヌをやりたがりますよ。俳優は気高い人物と自分を同一視して、心底からその役を自家薬籠中のものにしたいと思うんです。彼らの職業生活ときたら腐敗に満ちているのに、俳優というものは実際の業績以上に理想化されるんですよ。イングリッドは自分自身の神話を信じ始めたんだと思います。とにかく変わった女性でしたから。」

「ジャンヌ・ダーク」。宗教裁判の一場面

バーグマンはかねてからジャンヌの映画化を希望していた。
ブロードウエイの舞台でジャンヌを演じてもいた。
セルズニックでさえ1940年にはバーグマン主演でジャンヌを企画している。

「イングリッドがこの作品で描きたかったのは15世紀ヨーロッパの血にまみれた道徳的にあいまいな世界で生命を燃えつきさせた歴史上の人物ではなかった。イングリッドが演じたかったのは、神話的なジャンヌ、生徒向けの安価本に書かれているジャンヌだった」(評伝作者)。

さはさりながら、バーグマンはこの作品に、企画者、出資者、監督の愛人、脚本家のお気に入りとして参加した。
セルズニックとの契約は切れ、契約延長には応じていなかった。
監督の62歳、ヴィクター・フレミングはバーグマンなしでは生きていられないほどになり、これまでの数々の監督、共演者らと妻バーグマンとの情事に疲れた夫ペッターとの結婚生活は(実質的にはとっくに)破綻にむかっていた。

バーグマンの家族。夫と娘

作品は要領よくストーリーを追っており、人海戦術によるオルレアンでの城壁攻略場面の迫力もあり、シャルル皇太子の戴冠式のセット等も見ごたえがあった。(DVDは114分だったが、オリジナルは140分とのこと)。

バーグマンが家族を捨てハリウッドを捨てて、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督のもとに走るのは、次回作「山羊座のもとで」(1949年 アルフレッド・ヒッチコック監督)を撮り終えたのちのことだった。

諏訪大社下社の御柱

令和4年の御柱の現在を見ようと諏訪大社下社へ行った。

下社秋宮の御柱

下諏訪町にある諏訪大社下社秋宮。
立派な神社である。

下社秋宮の鳥居

社内の雰囲気が素朴で気高さを感じる上社に比べて、権威と荘厳さを感じる下社。

歴史は下社の方が新しい。

祀る神様は下社と同じタケミナカタの尊、というが長い歴史に翻弄され、神仏習合→廃仏毀釈→国家神道、の歴史を経てきた古い社に表面的な解釈は通じない。
上社が祀る神様が、鹿の首を祀る肉食の文化を祀る神様だったように、下社にも独自の深い歴史があるに違いない。

鳥居をくぐったところのご神木
狛犬に守られた神楽殿
拝殿

諏訪の神様の依り代が、山、石、木。

下社におけるそれは、背後の霧ヶ峰に連なる山々、木にも不自由しない。
では石は?

境内にあったのはさざれ石。
君が代に謳われる、天皇の枕詞ともいうべきもの。

関東は茨城県にある鹿島神宮にも立派なさざれ石があった。
でも諏訪大社は違うんでないかい?
下社は諏訪本来の神様というより、縄文以降の中央集権的な神様を祀っているのだろうか?

境内のさざれ石

拝殿の四隅には御柱が立っていた。
真新しくはなく、ひと夏を経過した貫禄が漂っていた。

拝殿の周りに立つ御柱

下社春宮の御柱

春宮から中山道下諏訪宿を抜けたところにある下社春宮。

春宮の鳥居

権威を感じる堂々たる秋宮に比べ、狭く、ひっそりと素朴なたたずまい。
半面粗削りな凄味も感じる。

神楽殿

近くに万治の石仏があるのでも有名。

境内に至る急坂は、御柱祭の時に二度目の木落しが行われるという。

拝殿は四隅に御柱を携えてたたずんでいた。

御柱

御柱館よいさ

春宮からほど近く、御柱館よいさ、がある。
7年に一度の御柱祭が開かれた今年、2度目の訪問をした。

御柱館よいさの玄関

前回もそうだったが、入場後はボランテイアさんがつききりで解説してくれる。

館内は、御柱祭の映像、山出し、里引きのルートのパノラマ、里引きに使われる高島藩の長持ちなど、が主な展示内容。
何より、御柱祭の里に生まれ育ったボランテイアさんの熱い案内ぶりがいい。

館内の展示

一通り見た後、ボランテイアさんを捕まえて日頃の疑問をぶつけてみた。
「どこから来たの?」とこちらのアイデンテイテイを最低限確かめた後、地元のボランテイアさんは答えてくれた。

木落の模様

  Q、かつては女人禁制だった御柱祭が女性の木遣りもいるが?

「かつては引き綱を女性が跨ぐなどもってのほかだったが、今では木遣りや引き綱もやる。里引きの花笠踊りなども」

  Q、下社と上社では木落しなどもかなり違うが?

「上社の木落坂は土を盛ったもの。下社の木落坂は斜度35度。危険だが今は死者は出ない。」

  Q、里曳きが賑やかで、奴さんや花笠踊りなど出し物が多いが大名行列の影響か?また下社独特か?

「高島藩の大名行列を取り入れたもの。上社も同様な里曳きをしているはず。」

  Q、旧軍の進軍ラッパを里引きなどで吹いているが、明治以降に取り入れたものと思う。終戦後にGHQによく禁     止されなかった?

「あはははは。景気づけにやっている。かつて批判されたようなこともあったが。」

  Q、下社はなぜあんなに立派?

「秋宮はね。春宮はかつては寂しくて観光客も来ない時期もあった」

  Q、下諏訪町は諏訪市と仲が悪い?

「かつては岡谷も含めて合併の話があったがいつのまにか立ち消えになった」

話が尽きませんでしたが、次のお客さんが来たので館を後にしました。
ボランテイアのご婦人たち、訳も分からないおじさんのお相手いただきありがとうございました。

里引きで使われる道具類

キューリの粕漬

塩漬けのキューリが直売所に出ていたので買っておきました。
上田の岡崎酒造に酒かすが出ていたのでこれも買っておきました。

10月に入ったある日、思い立ってキューリの粕漬を漬けてみました。

買っておいてひと夏越したキューリの塩漬け、冷蔵保存でまったく劣化していません。

さっそく塩出しです。
水に半日漬けてみますが、キューリの塩っ辛さは全く抜けていません。
一晩塩抜きすることにします。

塩漬けキューリの塩出し

ある年、自分でキューリとナスの塩漬けを作ってみたことがあります。
しばらくたって樽を開けてみると、キューリの果肉が崩れていました。

夏野菜の塩漬けはなるべく早くに野菜の水分を抜くのが肝心です。
多めの塩と重い重しで2度漬けするのがいいようです。

直売所で入手したキューリは思いっきり塩辛く漬かっておりました。

一晩塩出ししたキューリ

一晩塩出ししたキューリを粕に漬けます。

岡崎酒造謹製の酒かす

粕に砂糖を混ぜて滑らかにしてゆきます。
砂糖の分量は粕の半分ほどです。
レシピには塩も混ぜるとありますが、キューリがしょっぱいので小さじ1杯程度にします。
砂糖にはザラメを混ぜます。

板粕に砂糖を混ぜる

岡崎酒造の板粕、いつだか、買い求めたとき、先代の同酒造おかみさんに「酒粕何に使うの?」と聞かれ、粕漬用にと答えると、「もったいない、漬物にはもっと安いやつでよい。これはかす汁とか甘酒に使って」と指導をうけたっけ。
おかみさんごめん、やっぱり粕漬に使わせてもらうわ!

粕が滑らかになり、いよいよ漬け込みます。
洗って乾かしておいた甕を用意します。

板粕を練ってゆく
砂糖と混じって滑らかなつやが出る酒かす

甕の底と、最後のキューリの表面に粕が残ることを意識し、またキューリとキューリの間に粕をサンドイッチすることを意識します。

甕にキューリを漬け始める
キューリを漬け終える

ラップで密封し、布巾で口を閉めて冷暗所に保管です。

いつ食べられることやら。

蓋をして保存

八ヶ岳美術館と井戸尻考古館

秋の半日、原村と富士見町にある美術館と博物館を訪ねた。

八ヶ岳美術館、原村歴史資料館

まず、原村にある八ヶ岳美術館へ。
原村中心部から八ヶ岳山麓方面へ上ってゆく。
八ヶ岳連峰の赤岳登山口の美濃戸の近く、御柱が山出しされる道の近くに目指す美術館がある。

この美術館は、原村出身の彫刻家・清水多嘉示の作品収納展示のために作られた村立の美術館。
原村の歴史資料館も兼ねており、むしろそっちの部分への関心のため訪れたのだった。

八ヶ岳の麓、集落は途絶え別荘が点在する森林地帯に美術館はある。
駐車場から入り口までのアプローチが長く、地元の中学の卒業生徒が毎年作っているというブロンズ像が野外に並んでいる。

美術館へのアプローチに立つ中学生の卒業ブロンズ像

入場する。
ほかに2,3組の入場者。

係のお姉さんに写真撮影の可否を聞くと、記入用紙に住所氏名と目的を記入せよとのこと。
目的の記入ですったもんだしているうちにそのお姉さんと話が弾む。

来館目的は美術鑑賞というよりは、縄文遺跡だったり歴史物の展示だというと、「どうして?」と聞かれたので、縄文文化と諏訪の神様の関連性を知りたい、と答える。

「館長さんがいればよかったのに。館長さんは諏訪湖の御神渡りの時にお祓いをする神社の宮司さん。」とのこと。「縄文に関心があるなら、富士見の井戸尻考古館がいい」などとも。

こういった施設の学芸員らしく、縄文や諏訪の神様にも関心の深いそのお姉さん。
話が尽きないので入場する。

館内は、よくある地方の埃っぽい郷土資料館ではなく、芸術家のアトリエっぽい雰囲気。
独特の採光性の良い建物の中にブロンズ像がずらりと並んでいる。
郷土出身の作者のフランス留学時代の写真や手紙の展示が興味をそそる。

肝心の歴史資料関係では縄文土器の常設展示と、この地方の伝統である裂織という織物の特別展示が中心だった。

この施設は美術館というだけあってアトリエのようなしゃれた美術館であった。
また、裂織展のような、地方性に富んだ特別展示にも力を入れており、地方の資料館にありがちな沈滞しきった雰囲気ではなく活気があり、よく整備されている感じがした。

井戸尻考古館、富士見町歴史民俗資料館

美術館を出て、富士見町の井戸尻考古館まで行って見る。

井戸尻考古館は長野県と山梨県の県境に近く、JR信濃境駅からほど近い、井戸尻遺跡にある。

井戸尻考古館入り口

館内は主に遺跡から出土した土器、土偶、石器などが展示されている。
考古館の入り口からは山梨方面に山並みが広がり、富士山も遠望される。
絶好のロケーションであり、ここで暮らした縄文人をうらやましく思う。

考古館入り口より望む展望

物言わぬ土器や石器にはいまいちロマンを感じることができない山小舎おじさんだが、土偶も含めこれらの物量が、何千年後かに出土した遺跡というものの存在感に思いをはせることはできる。

展示物。竪穴住居復元模型

隣の胸の歴史民俗資料館へ。

予想通り、農機具のほか、江戸時代以降の生活用具が展示されている。
目を引くのが当時の農家の家屋の復元模型。
また、昔のチェーンソーや薄い板を引くことができるのこぎりなどは貴重なものだった。

館内の農家家屋復元模型
初期のチェーンソー
板を縦引きするノコギリ!

明治以降の生活用具の数々には日本人の生活レベルの高さと、当時の地方の生活水準の高さがうかがえる。
また、奥の部屋には戦国時代からの刀剣、兜などが展示されており、この地方の歴史の深さを感じることができる。

帰りにJR富士見駅周辺に寄ってみる。
駅前ロータリーには立食いそば店もあり、食堂も並んでいる。
駅から続く商店街も小規模ながら残っており、地元に根付いたいい感じである。
ゆっくりと再訪してみたい富士見駅周辺だった。

丸太を処理

丸太をもらいました。
わけあって、その丸太を至急整理し、敷地を一度きれいにしなければならなくなりました。

丸太をもらいました
細めの丸太が積みあがっています

もらった材木は、細い丸太が多く、枝もたくさんあるので、玉切りに時間がかかりそうです。
チェーンソーの刃を取替え、燃料、オイルも十分用意します。

丸太の種類はシラカバがほとんどで、広葉樹とカラマツが混じっています。

早速、積み上げられた丸太を上の方からかたっぱしに切ってゆきます。
新しいソーチェーンはどんどん切り進めてくれます。
仕事の効率、やる気増進にはチェーンソーの切れが肝心なことをつくづく感じます。

切り始めます
切り進めながら切ったものを積み上げてゆきます
かなり切り進めました

切りながら、枝は枝で集め、太い玉は玉でまとめてゆくようにします。
改めて玉の重さ、丸太の重さを痛感します。

地面や石などに当ててソーチェーンが切れなくなることがないように細心の注意を払います。

ある程度集まったら軽トラに積み込んで玉や枝を移動します。

枝はそれ以上割らないで積み込んで乾かします。
玉はまとめておいて薪割りします。

玉のままでは重くて、軽トラに積み込めないようなものは、その場で割ってから積み込みます。

切ったものを軽トラで運びます
重い玉は現場で割ります。まずチェーンソーで切れ目を入れます
くさびで断ち割ります
ハンマーとくさびで割ります

3日ほどかかって切り終わりました。

敷地がきれいになりました。
これで一安心、ゆっくり薪割りや積込みをする予定です。

敷地がほぼきれいになりました

DVD名画劇場 監督フランク・キャプラ

フランク・キャプラは貧しいシチリア移民の家から身を起こし、ハリウッドで映画監督になった。

1920~30年代のハリウッドで育ったバッド・シュルバーグの自伝「ハリウッドメモワール」では、風紀乱れるハリウッド(プロデユーサーであるその夫も女優の家に入り浸っている)に住人である著者の母が、「あの人たちのように暮らしなさい」と息子である著者に言ったのがフランク・キャプラの一家だったという。

本ブログでも、キャプラ作品の「オペラハット」(1936年)、「我が家の楽園」(1938年)、「スミス都へ行く」(1939年)を紹介した。
どの作品も、善良で素朴な若者が、己の良心に従って身近な悪と戦うというもので、庶民の人間性と素朴な正義が、謳われていた。

キャプラ作品はDVDでも多数ラインアップされており、自然と手許に集まってきた。
代表作を含む全盛期の4作品を見た。

「或る夜の出来事」 1934年 フランク・キャプラ監督 コロムビア

キャプラの出世作。
MGMからクラーク・ゲーブルを、パラマウントからクローデット・コルベールを借り受けた弱小スタジオ・コロムビアがメジャー化していったきっかけとなった作品。

髭ははやしていたが(1931年の「残劇の砂漠」では髭がない悪役を演じていた)、まだ若くアクションもどきの素早い動きを見せるゲーブル。
勝気な金持ち娘を演じ、ツンデレぶりも可愛いコルベール。
旬のスター二人が力いっぱいの演技で繰り広げる、ロードムービーにしてロマンチックコメデイ。

映画の観客が求めるものを的確で無駄なく提供したキャプラの監督ぶりは、封切りから90年近く後のDVD視聴者(山小舎おじさん)をも陶酔させる。

ゲーブルとコルベール

当時のアメリカの風景。
長距離夜行路線を走るボンネットバスでは車内販売もしていた。
休憩時間に泊まるドライブインではハンバーガーが売られ、興が乗ると車内で生バンド演奏が繰り広げられ乗客が合唱する。

これらの光景は決してキャプラの楽天的な妄想だけではないのだろう、当時のアメリカの風俗だったのだろう。
なんと牧歌的だったことよ。
場面転換に音楽(画面にバンドが現れる)を使うのがキャプラ流演出の定番だったとしても。

ヒッチハイクのシーン

ラストシーン、結婚式の宣誓で、新郎が誓った後で、新婦のコルベールが逃げ出し、ゲーブルのもとに向かう。

最終のタイミングで、花嫁一人での決断!

花嫁キャサリン・ロスがダスティン・ホフマンに連れ去られる「卒業」(1967年 マイク・ニコルズ監督)より過激で自立した女性像ではないか!

クローデット・コルベール

キャプラ作品では孤軍奮闘する若者に、年長の理解者が現れるのも定番。
この作品ではゲーブルが所属していた新聞社のデスクがそれであり、コルベールの金持ちだが娘の気持ちに理解ある父親がそれだった。

「群衆」 1941年 フランク・キャプラ監督  ワーナーブラザーズ

キャプラが古巣コロムビアを離れての最初の作品で、「オペラハット」「スミス都へ行く」の路線をさらに突き詰めた内容となっている。

すなわち、善良で素朴な主人公(ゲーリー・クーパー)はホームレス上がりの設定とされ、対する社会悪は単に金持ちというだけでなく、マスコミを操作し、民衆を政治的権力のために利用しようとする勢力として描かれる。
このあたり、現代でも基本的には共通する「個人対権力」の構図そのままである。

まだ若いクーパーが素朴さ丸出しで、オドオドし、野球の投球フォームをするときだけ生き生きとするのに対し、権力者(キャプラ作品の常連黒幕役:エドワード・アーノルド)は、政治的野心のために他人を利用し、捨て去る冷酷なキャラとして描かれる。
私利私欲のため、というよりは何かに突き動かされるように動く権力者が不気味である。

権力者の群衆操作により、主人公が偶像から何もない一般人となる瞬間のシーンが素晴らしい。

集会に集まった群衆が、権力者のキャンペーンと扇動により、離反してゆき、主人公がマイクの前でたった一人で残される。
雨の中の群衆シーンに緊張感がみなぎる。

主人公のホームレス仲間で、最後までその姿勢を崩さないウルター・ブレナンが、キャプラ作品に共通する、「孤立する主人公の数少ない味方」のこの作品でのキャラ。

もう一人の味方で、かつてはジーン・アーサーがよくやったヒロイン役にバーバラ・スタンウイック。
芸達者なスタンウイックは、悪女役もこなすがこの作品ではその片鱗も見せずに主人公をバックアップする役を溌溂と演じて好感度アップ。

ゲーリー・クーパーは、素朴な田舎者を演じたこのころが一番良かったのではないか。

「毒薬と老嬢」 1944年 フランク・キャプラ監督  ワーナーブラザース

それまでのキャプラタッチを離れ、ひたすらブラックなスクリューボールコメデイに徹した作品。

二人の老嬢が住む都会の片隅の高級住宅地。
周りの住人だったり、巡回する馴染みの巡査だったりは、一見善意の人々だが、話が進むにつれてちょっと変わった人々に見えてくる。

普通の人々が、特殊な環境下で右往左往するコメデイではなく、主人公(ケーリー・グラント)と隣人の牧師の娘(プリシラ・レーン)以外はちょっとずれた人が、ずれた行いを行うことで生ずるブラックなコメデイ。

「フィラデルフィア物語」(1940年 ジョージ・キューカー監督)では貫禄が出かかったケーリー・グラントが、「赤ちゃん教育」(1938年 ハワード・ホークス監督)のころに戻って、しゃべりまくり、リアクションする。
役者に歳は関係ないということなのだろう。

グラントの義理の兄が整形して登場し、整形医師としてピーター・ローレが出てくる。
この二人の犯人キャラを巡るサスペンスシーンはキャプラ作品らしくなくイマイチ。
また、整形後の義兄に対し「ボリス・カーロフ(に似ている)」のセリフが頻発される。
アメリカのコメデイにつきものの楽屋落ちだが、どうもキャプラ作品には似つかわしくない。

キャプラ作品らしい正義感に満ちた結末や、ニューデール的な価値観と共通するアメリカンヒューマニズムは見られ無いところが山小舎おじさん的には不完全燃焼。

「素晴らしき哉、人生!」 1946年 フランク・キャプラ監督 リバテイプロ(RKO)

独立したキャプラが、ジョージ・ステイーブンス、ウイリアム・ワイラーとともに興した独立プロの作品で、RKO配給。
キャプラがプロデユースもしている。

これまでのキャプラ作品の集大成にして、その特質を存分に発揮し、やりたかったことをやり切った作品。

この作品は、ドナ・リード(左)の存在が忘れられない

素朴で正直な田舎者の主人公、それを見守るしっかり者のパートナー、利益のことしか頭にない悪役、主人公を助ける思わぬ支援者、とキャプラ映画の主要キャラクターがわかりやすく全員登場。
脇を彩る楽団だったり、子供もシッカリ出てくる。
起承転結がしっかりしており、転が結末間近に訪れる構造も。

主人公(ジェームス・スチュアート)は田舎町に生まれ、大学に行きたかったり旅行が趣味だったりするが、弟のために譲り、家業の住宅金融の跡を継ぐ。
幼馴染(ドナ・リード)とも相思相愛ながらスマートに求愛できない(のちに結婚)。
主人公はその行いから、町のタクシードライバーや警官、バーのマスターまでに信用と人気がある。

この主人公が町のボス(ライオネル・バリモワが珍しく悪役)の妨害、懐柔と戦いながら、町の住民のために庶民向けの住宅金融を行ってゆく。
恐慌も、妻や社員、住民の協力で乗り越える。

あるクリスマスイブの日に、住宅金融の社員が8000ドルを紛失したことから、主人公が苦境に陥り、生命保険を最後の手段に自殺まで考える。
そこに現れるのが主人公の守護天使。

天使はやけになった主人公に、彼がいない場合の町の様子を見せる。
まるでパラレルワールドのようなその世界は、町のボスに支配された殺伐とした世界。
妻は独身で眼鏡をかけた司書をしていて、迫る主人公から悲鳴を上げて逃げる。
実母は険しい顔をした下宿のおばあさんで、冷たく主人公を拒否する。

天使に頼み込み、8000ドルの責任を負ってもいいからと元の世界へ戻してもらう主人公。
そこには愛する妻と子供たち、信頼のおける友人たちがいた。
涙なくしては見れない山小舎おじさん。

キャプラ作品の理想像、理解ある家族と友人に囲まれた幸せな主人公を象徴するシーン

ヘタな理屈を考えず、自分が愛するキャラクターを全員集合させたキャプラの姿勢が好ましい。
リアルさよりも好みを優先する巨匠の作風に、小津安二郎の「秋刀魚の味」を思い出してしまった。

キャプラ作品につきものの主人公の支援者に「天使」を持ってきた。
人知の及ばぬ世界を否定せず、そういうこともある、というキャプラの姿勢であろう。

おそらくジェームス・スチュアートの、そしてドナ・リードのキャリア最良の演技のうちの一つであろう。

派手で男好きな幼馴染役を演じたグロリア・グレアム(のちのニコラス・レイ監督夫人)のデビュー作でもあった。

軽トラ流れ旅 初秋の青木村、保福寺峠

今回の軽トラ旅は、9月のお彼岸の頃の旅。
上田地区から峠を越えて青木村へ、そこから旧東山道を通り、保福寺峠を越えて松本方面へ流れました。

青木村は収穫シーズンだった

上田市内の鹿教湯から、小県郡青木村へ抜ける峠道・県道12号線は、2019年の台風19号の被害で長らく通行止めになっていました。
今年2022年の春にようやく開通となりました。

県道12号線

ほぼ一車線の道幅の山道で通行量は少なく、たまに対向車が来ると緊張します。
ここを通行したときに同乗していた家族は、もう通りたくない、と言っていました。
山小舎おじさんはなぜだか時々走りたくなる道です。

松本街道とも呼ばれた県道12号線。道沿いには道祖神も

狭い山道を抜け、峠を下りると、青木村の里の風景が広がります。
収穫期の田んぼの間に、蕎麦の花が咲いています。
江戸時代になって中山道が別ルートで整備される以前は、このあたりを通る東山道が西と東を結ぶ主要街道でした。

青木村の田んぼは収穫時期
これから収穫を迎えるそば畑

村の歴史文化資料館を訪れました。
村出身の東急グループ創始者の五島慶太の業績を展示する記念館と併設して歴史文化資料館がありました。

展示コーナーは4つに分かれています。
昭和の生活を記録した民俗資料館、遺跡土器の展示コーナー、郷土出身の俳人栗林一石路の展示室、義民資料展示室です。

まず、古墳から発掘された直刀に驚かされます。
また石棒も展示されています。
この地方が、諏訪の神様やミシャグジ神と関連することもうかがえます。

古墳出土物。直刀があった
石棒は信州に多い神様の象徴

昭和の暮らしの記録と展示物のコーナーを見ます。
様々な展示物を見ると、青木村が豊かな地域(だった)ことがうかがえます。
かつては多くの人口を抱え賑やかだった様子、高度成長時代以降は都会並みの生活水準を享受し、当時の最先端の電化製品を駆使していたことに、軽く驚かされました。

山小舎おじさんなどは青木村というと勝手に過疎地域をイメージしますが、おじさんが育った北海道などよりよほど物資、文化に恵まれた地方だったようです。
本州と北海道の違いなのでしょうか。

青木村のかつての生活がうかがえる
戦前の青い目の人形は破棄されずに保管されていた

義民資料室へ行くと江戸時代の青木村の存在感が伝わってきます。

青木村の歴史は一揆とともにあったようです。
展示資料を見るとやはり東北、信越地方に一揆が多く発生しています。
農産物(穀物)の生育にハンデがあった地域です。
いかに勤勉でおとなしい民度を持つ地域とはいえ、人間には最低限必要な生活水準があり、我慢の限度もある。
青木村に限らず、上田、松本などにも一揆の記録があり、主導者を義民としてたたえ伝える歴史があるのでしょう。

県別の一揆発生状況。

時の権力者の徳川家康を恐れさせ、大坂冬の陣では家康の本陣寸前にまで迫った真田幸村といい、信州人は怒らせると怖いのかもしれません。

道の駅あおきへ行くと、太鼓の演奏をやっていました。
義民太鼓の幟が立っています。
やはり義民の歴史は村の誇りなのです。

道の駅あおきでは義民太鼓の演奏が

満員の食堂で、義民太鼓の太鼓の音を聞きながら天丼を食べました。
量は十分。
ご飯は地元のお米なのでしょうが、ぜいたくを言えばもうちょっとご飯が美味しければ・・・と思いました。

道の駅の食堂。マツタケご飯は本物を使ってます
天丼。900円

直売所へ行くと、キノコ、リンゴ、ブドウ、新米と秋の実りであふれています。
この地域は全国的にもマツタケの名産地で、時期には松本方面からもマツタケを求めて人がやってくるのです。

直売所では新米も

保福寺峠を越える

青木村と松本を結ぶ峠道が保福寺峠を越える県道181号線。
東山道が通った道で、明治になってウエストンという外国人がここの峠から眺めた風景に感動し、飛騨山脈を(北)アルプスと名付けたという。

現在は青木村と松本を結ぶ主要道路は、青木峠をトンネルでくぐる国道142号線にその座を譲っている。

県道181号線も2019年の台風19号の被害で、保福寺峠越ができなくなっていた。
山小舎おじさんにとっては初の道です。

県道181号線。麓の集落

麓には集落が広がる。
まもなく道幅一車線となり、対向車ゼロの山道が続く。
止まっている車はキノコ採りの地元の車。

走っても走っても、深い山に分け入ってゆくだけで先が見えない。
ところどころに東山道遊歩道の標識が現れる。
遊歩道というにはふさわしくない寂しさ、山の気配が支配的です。

ところどころに案内の標識が

ようやく峠に到着。
松本方面からバイクが1台通って行った。
軽トラを下り、少し歩いてウエストンの碑を見る。

明治時代にここまで来たというウエストン。
村人の案内で、籠できたのか、馬を使ったのか。
当時のゆったりとした時間の中とはいえ、休む場所にも事欠き、途中で宿泊など思いもよらぬ道中だったろう。
青木村に前泊し、早朝出発して1日かけて往復したのだろうか。

保福寺峠にあるウエストンの碑

ウエストンの碑から眺める北アスプス

周りの景色を眺める余裕もなく、東山道の昔を思う暇もなく、とにかく遠いと思いながら走った峠越え。
かつて家族とともに美ヶ原から山道を松本に下った時もたいがい遠く感じましたが、信州の山塊の懐の深さに改めて畏れを感じた山小舎おじさんでした。

麓の化石館で驚く

峠を境に小県郡青木村から松本市へ。
まもなく集落が現れ、県道181号線が国道143号線とぶつかるところに化石館があった。
最近、孫娘が博物館好きだとわかった山小舎おじさん、情報収集も兼ね寄ってみる。

なんでも、松本市四賀というこの地区は化石の宝庫らしい。

館内に入ってみる。
子供が親しみやすいように、化石に触れたり図鑑が並べてあるロビー。
その奥の展示室には復元されたクジラの大化石が、青くライトアップされて宙に浮かんでいた。

シガマッコウクジラの化石標本

立派なアンモナイトなどの化石も多数展示されている。
化石好きな人にはたまらない空間だろう。

館内にはアンモナイトの化石なども

ロビーへ戻る。
付近の地形のパノラマがあった。
化石の出土ポイントがたくさんある。
この地区の見どころは、化石と虚空蔵山だと感じた山小舎おじさん。

事務室の学芸員のお姉さんに、化石出土ポイントと虚空蔵山について質問。
クジラの化石が出土した状態で保存されている場所があるとのことで、その場所の地図をいただく。
虚空蔵山のビューポイントも聞いたがそれについては明確な回答はなかった。
虚空蔵山までは遠いから、まあいいか。

とりあえず地図に沿って進む。
人知れぬ川のほとりに、ガラス張りで展示された一角が見えた。
中を覗くと小型クジラのほぼ全身状態の化石があった。
震災前の宮城県で見た、歌津魚竜館の.化石を思い出した。

化石館から車で5分ほどのところにあるクジラ化石の現地保存場所
出土状態で保存されているクジラの化石

帰りは松本市街を通り、直売所に寄ってリンゴや漬物を買って帰りました。
まだまだ暑さが残る初秋の流れ旅でした。

松本に来たら寄る直売所
紅玉、漬物などを買って帰る

ドライプルーン

9月下旬の信州。
出盛りの果物は、ナシ、リンゴ、ブドウだが、まだまだイチヂクだったり、プルーン、モモもあったりする。
夏の果物の最後は完熟でしかも安い。
直売所に一袋250円のプルーンがあったので即ゲット。

いつもはジャムにするプルーンだが、今年はプルーン、プラムは結構な量をジャムにした。
ジャム以外の加工方法はないものか?

そうだ、乾燥という方法がある。
干し柿、干芋は毎年作っている。
ドライプルーンにチャレンジしてみよう!

事前にネット情報をチェックする。
砂糖をまぶし、水気を引き出しつつ、グリルや炊飯器を使って乾燥(半乾燥)させる、という方法が主流のようだ。

確かに、天日乾燥など、時間もかかるし晴天が続くとは限らない。

干し柿作りには半月かかる。
切り干し大根には、夏の晴天日数で3,4日かかる。
水気たっぷりのプルーンを天日だけを頼りに、腐らせずに乾燥させるのは日本ではむづかしい。

とはいえ、砂糖を使っての即席乾燥はどうなのか?
せっかくだから標高1400メートルの強烈な紫外線を利用したい。

そこで日中は天日に干し、夜はストーブを使って乾燥させる作戦にした。

プルーンを半分に割り、種を出す。
完熟したプルーンは種も取りやすい。
小さな実は、完全に二つ割りにせず、開いた形にしておく。

35度の焼酎を殺菌で噴霧してからお日様のもとへ。

35度の焼酎を噴霧

早速、小型スズメバチが網の隙間から入り込みザルの上でプルーンにたかっている。
果物の熟れた、発酵した匂いは強烈に昆虫たちにアピールするようだ。
このスズメバチをどうしよう?

放っておくと夕方には元気なスズメバチも座り込んだりしている。
そこで、弱ったスズメバチを割りばしで挟んでつまみ出した。
熱射地獄から半日ぶりに外に出されたスズメバチはのろのろと歩くだけ。
難なく踏みつぶすことができた。
害虫2匹を捕獲の上、殺処分。

編み付きザルで天日干し

夜はストーブの熱を利用。

金属製のざるにプルーンを広げ、アルミ箔を敷いたストーブに乗せて一晩。
焦げないが乾燥も甘い。

翌日は天日乾燥の後、フライパンにアルミ箔を敷き、プルーンを乗せてみる。
水分とともに糖分が抜け、焦げる。
プルーン本体が焦げなかったのが幸い。

かなりドライになってきた。

2日目の天日干し
フライパンを使ってストーブで乾燥

繰り返すこと3日。
ほぼできた。
冷蔵庫保存では長期間保存の自信がないので、冷凍庫保存にしようと思う。

出来上がり

余談

ドライフルーツで思い出すのが、おじさん26歳の時に放浪した南アジアの国。
特にパキスタンからイラン、トルコにかけて、市場に行くと荷台に山盛りのドライフルーツが売られていた。

品目はナツメヤシやアンズ、ブドウなど。
時には藁や砂が混じったまま乾燥しているワイルドな果物は、旅の途中の栄養補給にぴったりだった。
あの辺の国々、スイカやメロンの甘さも絶品だが、携行性、保存性という点ではドライがダントツだった。

パキスタン北部のギルギット。
インダス川上流の轟々たる川音を聞きながら、宿の部屋で、大きめの一袋、乾燥アンズをひたすら食べ続けたことを思い出す。
思えばあのころからドライフルーツのファンになったのかもしれない。

DVD映画劇場 女優NO.2 ベティ・デイビス

1999年に全米映画協会が選定した、アメリカ映画スターベスト100の女優部門の1位はキャサリン・ヘプバーン。
2位がベティ・デイビスだった。

山小舎おじさん的には「イブの総て」を辛うじてテレビの映画劇場で見たことがあるくらい。
そのベティ・デイビスの3作品をDVDで見た。

1作目は30年代の作品でデイビス20歳代のもの。
2本目は50年代で40歳代、3本目は60年代で60歳代直前のものだった。

ベティ・デイビス

「痴人の愛」 1934年 ジョン・クロムウエル監督  RKO

原作はサマセット・モームの「人間の絆」。
モームの自伝的小説といわれている。

主人公(レスリー・ハワード)はパリでの画家の生活に夢破れて、イギリスに帰って医学生となる若者。
足に障害がある。
このイノセントな若者が一瞬で惹きつけられるのがカフェの女給(ベティ・デイビス)だった。

「痴人の愛」のデイビス

この女給、性格が悪いことこの上ない。
育ちも悪く、下品で悪趣味。
しかも主人公の純情をもてあそび、次々と裏切る。

だれがどう見てもイノセントで精神性の高い主人公とは釣り合わないのだが、半生に渡って(女給にとっては生涯にわたって)この二人はかかわりを持ち続ける。

まるで「忘れじの面影」(1948年 ジョーン・フォンティーン主演)の男版だが、かの作品でジョーン・フォンティーンが一途に追い求める男性像のダメ男ぶりがソフトに描かれていたのに対し、「痴人の愛」でレスリー・ハワードが追い求める女性像はベティ・デイビスによってすさまじく下品で欺瞞と憎悪に満ち、悲惨に演じられる。

主人公の脚の障害を責め、繰り返し嘘をつき、男を次々に変えては捨てられ、金に困ると主人公のところにやってくる。
主人公を裏切り続けるのは、精神性の高い主人公への女給のコンプレックスの裏返しなのか、それとも高潔に見える主人公も一皮むけば、女給と同じ人間なのだということを陰に表してのことなのか。
主人公たちの二人は、一つの人間性の裏と表なのか。

ほかの女優たちが出演を拒んだというこの女給役を、ベティ・デイビスは望んで引き受けたという。

クロムウエル監督の演出は彼女のチャームポイントであり個性である、その目を強調する演出で彼女の意欲にこたえる。
熱演するベティ・デイビスから目が離せない作品。

「イブの総て」 1950年 ジョセフ・L・マンキウイッツ監督  20世紀FOX

この作品はある意味で悪意に満ちた内幕もの、だ。

ブロードウエイで、有名女優の付け人に潜り込み、ひそかに恩人を裏切って主役の座を奪う、という女優志願者の出世ストーリーの裏側の物語。
ベティ・デイビスは裏切られることになる大女優を演じる。

「イブの総て」。アン・バクスター(左)との対決

この作品のデイビスは、楽屋でコールドクリームを塗ったくった姿で登場し、付け人が愛人をたぶらかす気配を察してパーティーで大荒れ、朝のベッドではすっぴんを思わせるメイクを披露する、など大スターのメンツを捨てたかのような体当たりの演技を見せる。

実年齢40歳を過ぎ開き直った感もするデイビスだが、これは彼女の役作り、サービス精神の発露とみる。
演ずること、映画に出ることが好きで好きでたまらないのだろう。
いずれにせよ、余裕たっぷり、貫禄十分の演技だ。

付け人役にアン・バクスター。
若く初々しい。

恩人を裏切り、自分に役立つ男を次々にたぶらかし、脅迫することにも躊躇ないキャラゥター。
前半の清楚でかわいらしい立ち居振る舞いから、正体を現した後半では、忘れられない悪役に変貌する。

同じく新人女優がブロードウエイでのし上がってゆく映画に、キャサリン・ヘプバーンの「朝の勝利」があるが、かの作品が現実的であり、正攻法で、すがすがしいのに対し、「イブの総て」は作り物めいて、ドロドロし、後味が悪い。

映画人の実名(ザナック、タイロン・パワーなど)をセリフに出しているのも、実録風というか内幕ものとしてのセンセーションを表そうとしたのだろうが、出てきた実名が、立場の弱いもの、全盛期を過ぎたもの、イジメやすいもの(ザナックはこの映画のプロデユーサーだから自虐ネタなのだろうが)をチョイスしたと思わせ、後味が悪い。「サンセット大通り」で、ワイルダーが、キートンなどかつてのスターたちをわざわざ実名で登場させ、はく製のようだと評したときと同じテイストだ。

ベティ・デイビスは新人女優によって世代交代させられるベテラン女優という、いわば損な役柄を堂々と演じ、わがままで尊大、時代錯誤なキャラながら愛嬌さえ感じさせた。
これも彼女の演技力のうちなのか。

「残酷な記念日」 1967年  ロイド・ウオード・ベイカー監督  イギリス(ハマープロ)

50歳を過ぎ、かつてのような花形はもちろん、映画出演そのものがなくなっていたベティ・デイビスが、突然カムバックしたのが「何がジェーンに起こったか」(1962年 ロバート・アルドリッチ監督)。
かつてのこちらも大スター、ジョーン・クロフォードと共演し、どちらも年齢を隠さず、否、強調さえして臨んだサイコホラー劇だったという。

これで開き直ったか、否、調子が出たか、ベティ・デイビスはその後もコンスタントに映画出演を続ける。
「残酷な記念日」はイギリス・ハマープロによる1本。
50年代に、クリストファー・リーの出演により、ドラキュラをリメークしたあのハマープロである。

映画の内容は、強烈なカリスマ性と支配欲で、家族に君臨する母親をデイビスが演じ、記念日に集まった3人の息子とその妻、フィアンセなどとの確執が繰り広げられるというもの。

カラー作品。
真っ赤なドレスと赤い愛パッチで登場するデイビスにまず度肝を抜かれ、彼女のチャームポイントの目が青かったことに気づかされる。

女性下着愛好者の独身の長男、妻と実母に頭が上がらない次男、フィアンセを実母にコケにされても当初はあいまいな態度をとるチャラい三男、と情けない家族を操り、君臨するデイビス。
3人の息子を操り、嫁とフィアンセをいたぶる怪物的な母親である。

いわば誇張され、怪物化した母性をデイビスが独演しているのだが、周りの役者が弱くて盛り上がりに欠ける。
ハリウッド全盛期だったら、わき役にも芸達者をそろえ、おどろおどろしいセットもわざとらしく、この家族の異常性を劇的に際立せたことだろうが、ハマープロにはできない相談だ。

映画の主題は、家族の異常性を描くのではなく、母性と独善の分かちがたき、だったり、家族かくあるべしの偽善性だったり、なのかもしれない。

デイビスは朗々たるセリフ回し、片眼だけとはいえ大きな目の演技、大げさなジェスチャーでこの母親の怪物性を表し、さすがである。
いついつまでも演技が好き、映画が好きなのがわかる。
だからこそのスター女優第2位なのだ。

最後に、三男の若くかわいいフィアンセが将来はベティ・デイビス扮する母親の後継者になる資質を持っている、と示唆することが、この映画の一番のホラーだった。
家族は人間は歴史を繰り返すのである。