信州ソウルフード放浪記VOL,15 伊那・たけだのソースカツ丼

長野県のカツ丼は、卵とじ方式が主流ですが一方でソースカツ丼の流れもあります。
伊那地方ではソースカツ丼が主流のようです。
山小舎おじさんは伊那へ行くと、「たけだ」でソースカツ丼を食べるのが楽しみです。

「たけだ」は精肉店が併設している食堂です。
伊那市の中心部からは少し離れていますが、休日などは人が並ぶ店となります。

カツの厚さは精肉店ならでは、さらに自家製のソースが食欲をそそり、何度食べてもその直後に「また来たい」と思ってしまいます。

「たけだ」の外観
右に精肉店、左が食堂。ランチタイムは13時30分までに入店しないとアウトになります

この日は並ばずに入れました。
1150円の「得々ソースカツ丼」を頼みました。
内容と比してリーズナブルな値段設定です。

メニュー

いつも通りに分厚い肉は柔らかく、ソースが食欲をそそり、ご飯の炊け具合もちょうどいいです。
幸福感に満たされているうちに満腹にもなります。

運ばれた時の姿。店員さんに「写真撮っていいか?」と聞くと「おいしく撮ってください」。
蓋を開けていざ

ソースカツ丼といえば新潟が有名です。
かつて出張の際に、あらかじめ調べておいた新潟駅近くのとんかつ屋でソースカツ丼を食べたことがありました。
とてもおいしかったでした。
イメージとしては、上品にカットした豚肉を上手に揚げて細やかな味のソースに浸したもの。

一方、「たけだ」のソースカツ丼は、まずカツ自体が分厚いのです、分厚くて柔らかいのです。
それに手作りのフルーテイなソースが絡むのですから独特の満足感に満たされるのです。

単に卵とじの代わりにソースに浸したカツ丼、ではなくてカツ丼のスペシャリテイといってもいいくらいです。

伊那市内には、分厚いカツを使ったソースカツ丼を出す店がほかにもありますが、ソースが単に甘辛いだけだったりで、「たけだ」の味にかなわないのが残念です。

肉の分厚さを見よ

発酵腐葉土を仕込む

畑に投入する資材として、発酵腐葉土を作っています。

去年仕込んだ発酵腐葉土は畑の準備で活躍中

この資材の役割は、植物へ直接作用する栄養(肥料)としてではなく、土壌中の微生物の栄養としてです。

微生物が活性化すれば、植物への栄養補給のほか、土中環境の改善などが期待でき、要すれば自立した生命力のある野菜が育つからです。

ガッテン農法の「教科書」に載る発酵腐葉土のレシピ

無農薬、無肥料の自然農法を目指している山小舎おじさんですが、畑全部が自然農法向けに出来上がっているわけではありません。
日照りが続くとすぐカチカチになる土壌や、常に湿っている場所もあります。

去年の例でいうと、キャベツがいつまでたっても肥大しなかったり、イモ類の収量が少なめだったりしました。
成長したものの、硬く仕上がったセロリのような例もありました。

野菜には収穫期というタイムリミットがあります。
それを過ぎた野菜は、硬かったりして食べるのに適しません。

肥料で促進するのではなく、その植物にふさわしい成長期間に収穫を迎えられるよう人間がサポートしなくてはなりません。

サポートするための資材として、例年使っている「えひめAI」のほかに、今年から「発酵腐葉土」を使うことにしました。

土壌改善が進めば土自体もふんわりしたものになります。
湿気の強い場所では、物理的な穴あけによる排水作業も実施します。

今日は発酵腐葉土を新たに仕込みました。

腐葉土、燻炭などを用意します。
分量通りに配合して混ぜ合わせます。
密閉して日中は日に当て、10日ほどで完成です。
苗を育てる際の用土の元にも使えます。

信州ソウルフード放浪記COL,14 岩村田青春食堂

佐久市は山小舎周辺の「街」の一つです。

白樺湖畔近くに位置する山小舎。
大門街道に沿って、北陸新幹線、しなの鉄道方面へ下れば上田の街があります。
大門峠を越えて中央線方面へ下れば茅野、諏訪の街があります。
もう一つ、大門峠を北へ折れ、雨境峠を下ると、芦田、望月といった中山道沿いの村落を経て佐久の街があるのです。

手元に、昭和60年信濃毎日新聞社編の「ふるさと地理誌①佐久平 上田盆地」というグラフ誌があります。
東信地方と呼ばれる、軽井沢、小諸、佐久、上田から山小舎のある小県郡旧長門町までの、主に産業と文化を紹介しています。

今は佐久市に併合された、臼田町の商店街や、佐久の繁華街だった中込、岩村田の商店街の当時の賑わいを見ることができます。

同紙で紹介されている中込地区の商店街再開発後の景色
当時の岩村田商店街。交通量は変わらない

岩村田は山小舎から佐久に下った道沿いにあり、佐久方面の街へ行くときには寄ることが多いにです。
ここには中山道沿いにアーケード商店街が残っており、和泉屋という和菓子屋(洋菓子もある)で季節の和菓子を買って帰るのが楽しみです。

近くに北陸新幹線の佐久平駅ができ、新しい商店街としてショッピングモールと郊外型店舗ができました。
休日などはショッピングモールは家族連れで混雑しています。

かつてはそこそこの人口を擁していた地域ごとに路面店が集まった商店街がにぎわっていました。
今では、首都圏と結ぶ大動脈の新幹線駅周辺が一大商圏となり、各地域の消費者は自動車でそこに集まります。

この日、今年初めて佐久の「街」へ出かけた山小舎おじさん。
お昼ご飯に、岩村田商店街にある青春食堂を選びました。

令和4年3月の岩村田商店街

アーケード街を折れた通り沿いにある食堂。
見た目は、若者が古民家を改造して始めたカフェ風。
メニューはフライ定食や麺類で、がっつり系です。

青春食堂玄関

店内は古民家風。
といっても100年以上の古民家ではなく、明治以降に作られた住宅風。
天井を吹き抜けにし、梁と柱を強調したリノベーション。
残した2階はゲストハウスにしている。
聞けば税務署の官舎だった建物だという。

リノベを施した税務署官舎が建物

頼んだのは塩ラーメンセット。
鶏のから揚げとサラダがついています。
ラーメンは思ったよりこってりとしており食べ応えがありました。

満腹の一膳です

店内には岩村田で行われるという「祇園祭」のポスターと、過去のお祭りの写真が展示されていました。
200回を超えるという岩村田祇園祭、チャンスがあれば見たいものです。

食堂がある通りはちょっとした飲み屋街です

帰りはいつもの和泉屋でどら焼きのお土産。
お土産といっても一人で食べる用。
和泉屋は佐久平のモールにも出店しています。
さすがポイントは押さえた経営ぶりです。

アーケード街にある和泉屋菓子店
この日の「お土産」

北国街道 上田宿

北国街道はその昔、信州を南北につなげた街道です。
軽井沢追分で中山道と別れて北上し、上田、善行寺などを経て越後に至りました。
佐渡の金などを江戸に運ぶ重要な道筋だったとのこと。

3月下旬のある日、上田市内に残る北国街道の跡をたどりました。

ヨコの線上を歩く。タテの線は旧上田電鉄線

柳町通

上田市内で最も旧北国街道の姿を残している一角が柳町通です。
銘酒・亀齢の岡崎酒造や味噌醸造所などが残り、往時の風情を残しています。

柳町。左手に岡崎酒造

古い商家をパン屋やカフェなどに転用した店もたくさんあり、シーズンには観光客の姿も多く見られます。
「犬神家の一族」(1976年)のロケ地にもなりました。

岡崎酒造の土間に飾られる江戸時代のひな人形

紺屋町

柳町を左折すると紺屋町という通りが続きます。
城下町には、大手、鍛冶、馬場、紺屋などの町名がつきものですが、上田にも一通りあります。
紺屋町とは染め物職人が集まった一角です。

お城の北側を進みます。

柳町から上紺屋町に左折したあたり

この通り、今では生活道路として住宅街の中に落ち着いており、観光客の姿もまずありません。
往時は軒を連ねていたであろう商家の建物はポツンポツンと残るだけです。

紺屋町には造り酒屋も残る。和田龍酒造
このあたりの民家。奥に長い敷地を木の塀で囲っている

旧北国街道は、現在の常磐城という一帯で右折し、矢出川を渡って現国道18号線に合流します。

矢出川沿いの石垣と古民家

歴史の散歩道

常磐城から右折する北国街道ですが、地図に寄ればこの付近に「歴史の散歩道」なる一角があるようです。

お城の西側に位置するこのあてり、曲がりくねった細道が多く、たまに異様に広い敷地を持つ民家があったりします。

名もしれぬお堂がたたずむ
住民は隣組を組む
お城近くにあった解放会館。休館日だった

花園と上田電鉄

帰りは北国街道沿いを戻るのではなく、赤線があったという旧花園地区を通りました。

バス停には花園の名が残る

明治以降、上田市街地の外側に新地と呼ばれる赤線が作られたとのこと。
その時代には上田電鉄という私鉄が上田駅から、お城のお濠脇をとおり、赤線に近い花園駅までつなげていたとのことです。

上田電鉄はこのほかに、丸子線、別所線を持っていましたが、現在のこっているのは別所線だけです。

上田電鉄花園駅があったあたり

現在の花園あたりは完全な住宅街になっています。
名残は病院名や営業所名に残る「花園」の冠名だけ。
まっすぐな道と、入り口近くの料理屋、鰻屋に特徴を残すくらいです。

赤線入り口があった場所には食堂が残る
赤線といえば鰻屋
電柱には新地の名が残る
この場所に建つ花園病院

一味違う上田の歴史をたどったこの日の散歩でした。

春だ!畑だ!定植だ!

4月頭の大雪の前。3月下旬に、ポカポカ陽気になりました。

畑が乾いたころを狙って、大家さんから管理機を借りて畑を耕しました。
また、直売所やJAにレタスやキャベツの苗が出ていたので定植しました。

2年ぶりに管理機を借りました。
エンジンをかけてみると、いつものようにかかりました。
日本製の農機の〈信頼性〉に軽く感動です。
ただし、左右のブレーキが利かなくなっていました。
方向転換は力ずくです。

今年も無事動いた信頼の管理機

去年は管理機など重い機材は畑に入れませんでした。
土が締まる、と思ったからです。
特に水気が残って湿りやすいうちの畑にとっては。

しかし春の畑を見て、その雑草の芽吹きや、去年の雑草の枯れた残滓を見て、一度表面をひっくり返してきれいにしようと思いました。

陽春を浴び管理機が進む

「ガッテン農法」を施し済みの畝以外の部分に管理機をかけました。
湿った土を耕してもこねて固くなるだけですので、湿った部分は避け、他の部分も表面をひっくり返すだけにしました。

畑の表面をざっと耕す

レタス10株、キャベツ100株を定植しました。
この後、雪が降るとは思いませんでした。
レタスは全く変わりなく、キャベツも葉っぱが霜やけ色になりましたが、生きています。

鍬で畝を立てキャベツを定植

強風にあおられたり、鹿に踏み倒されて倒れたネットを立て直しました。
折れた支柱を取り替え、ぐらぐらになった支柱に新しい副え木を当てて補強しました。
畑のある地形は軽い谷戸地形なので、扇端から吹く風が思いのほか強い時があります。

ネットを修理

湿り気改善の作業として、用水路のどぶさらいもしました。
常に水が滞留し、イモリが棲んでいるほどの用水路も今年は水捌けを要チェックです。

年を越した玉ねぎはほとんどの株が生き残っていました。
これまでで一番の活着率かもしれません。
これからの玉の肥大に期待します。
肥料は今のところ、昨年の油粕だけ、生育を見て発酵腐葉土を追肥する予定です。

ほとんどの株が生き残って越冬した玉ねぎ

茅野の雑品屋へ行きました。
金物なら無料で引き取ってくれるし、在庫品を売ってもくれるところです。
防獣ネットの補強に使う、支柱、金属パイプ、トタンを探しにゆきました。

雑品屋

トタンはネットの外側に置いて、イノシシ除けに使います。
金属パイプは支柱の補強素材として使います。

トタン10枚以上と、支柱20本、ステンレスパイプ2本などを買いました。
心強い味方が補強できました。

買ったもの

山小舎の初詣

山小屋の〈お正月〉は例年、3月下旬から4月にかけて、です。
今年も3月に地元の神社に初詣をしました。

生島足島神社

信濃の国二ノ宮、日本中央を鎮守下さる古社にお参りします。

今年は7年に一度の御柱祭の年ですが、諏訪地方からは大峠を越えた塩田平にあるこの神社にも御柱祭の看板がありました。

諏訪大社の御柱祭に賛同でもしているのかと思いきや、独自の御柱祭を4月16日から3日間に行うとのことでした。

まずは本殿にお参りです。
3月下旬の肌寒い日のこととて参拝客もほとんどありませんでしたが、いつ来てもおごそかな中に親しみを感じる神社です。

家内安全のお札をもらい、去年のお札を納めます。
ついでに係の人に気になっていたことを伺いました。

「生島足島神社でも御柱祭が行われるのですね?」

こちらにも諏訪神社がありますので。参道に立つ大鳥居のさらに奥に御柱4本が切り出されています。
アカマツです。

「山宮があると聞いたのですが」

山宮は大鳥居の奥の方ですが、私は行ったことがありません。神主さんでも道を迷うほどの場所だそうです。

「2,3年前の9月ころ、神楽殿で巫女さんの舞いを見たのですが」

9月の例大祭の時ですね。
中学生くらいの子が代々引き継いでやっています。
7月にもあります。

境内にある諏訪神社

生島足島神社、大鳥居と御柱

教えてもらった御柱を見に参道をたどった。
田んぼを見下ろす高台に大鳥居が建っている。

参道に立つ大鳥居

遠くからも目立つこの大鳥居。
これまでは、山宮の鳥居なのか?と思っていた。

大鳥居からさらに登ってゆくと、道端に御柱が4本横たわっていた。

御柱が4本用意されていた

この御柱なるもの、諏訪地方の専売特許と思い込んでいたが、この生島足島神社や、上田地方の名のなき神社でも、出発を前に横たわっているのを見ることができた。
地域を問わない信州の風習なのか?信州地方の諏訪神社に特有の風習なのかはこれから確認しよう。

諏訪大社上社本宮

後日、例年通り諏訪大社にもお参りしました。

この日の上社本宮

こちらは御柱祭の本家。
テレビニュースでお馴染みの〈死人が出る〉木落坂は下社に向かう御柱の風景で、上社の御柱は八ヶ岳のふもとから茅野の街を通り、少しなだらかな木落坂を下り、川を渡って下社に着きます。

7年前の御柱が建立されている

今年は木落も、川渡もなし。
八ヶ岳ふもとの待機場から、下社前宮のあたりまでトレーラーで運ばれ、5月の3日間で、里曳き、建立が行われるとのことです。

今年のお札をいただく

3月の味噌仕込み

山小舎暮らし2回目の味噌仕込みをしました。

今回は3月下旬の仕込みです。
大豆の量は1キログラムとしました。
麹も1キロ、塩が400から500グラムとなります。

麹を用意。700グラムと400グラムの袋を使いました。

まず大豆を洗って水に漬けます。
水につける時間は漠然と一晩とかではなく、豆の芯まで水に漬かるまで。
18時間くらい漬けました。

18時間水につけた大豆

ストーブに鍋を乗せて大豆を茹でます。
これも完全にやわらかくなるまで、4時間くらい煮続けました。

豆が手で簡単につぶれるくらい煮ます

煮ている間、麹と塩を合わせておきます。
〈よおく〉、混ぜます。

麹に塩を400グラムほど混ぜます。

茹で上がった大豆を潰します。
〈よおく〉、潰しておいて、塩麴とよく混ざるようにします。

前回の味噌は味もまずくなく、日持ちもいいので愛用しているのですが、豆の粒が残っていたり、塩気が立っていたりと、細やかさに欠ける出来でした。
今回は材料を〈よおく〉混ぜるなど、手をかけてまろやかな出来上がりを目指します。

煮上がった大豆を潰します

大豆を〈よおく〉茹でて完全につぶし、塩麴とよく混ぜます。
すりこ木でつぶれない部分は、スマッシャーなどを使いできるだけペースト状にします。

混ぜ合わせたものをボールに丸め、そのボールを甕の内壁にぶつけるようにして詰めてゆきます。
こうすると空気が抜けてカビが生えずらくなるなど、発酵・保存状態がよくなるようです。

大豆と塩麴を混ぜて甕に仕込んでゆきます。

甕に材料を詰め終わると、表面を平らにならし、残しておいた塩を振って密閉します。
ラップを敷いて、布巾をかけ、重しをします。
空気に触れさえしなければカビは生えないものと思います。

密閉し、重しを乗せて保存します。

夏を越えたころに一度天地返しをする予定です。

彩ステーションで eスポーツ大会

3月中旬に調布の彩ステーションを会場にある催し物が行われました。

eスポーツ大会です。

主宰は調布市とNTT。
市役所から場所提供と動員の依頼があり、彩ステーションで行われることのなったもの。

NTTによる通信環境の設定準備を経て開催。
市役所の担当係長が仕切り、プロの司会者を起用して行われました。

種目は太鼓たたき。ゲームセンターなどでよくやっているアレです。

動員された年配者の皆さん

出場者は彩ステーションに出入りしている年配者や子供たち。
さあ、開催時刻です。

ところが、当日になって同時開催場所の調布市文化会館「たづくり」との通信がつながらなかったりして、スタート時刻がのびのびに。
その間、市役所の係長さんのお話が続き、座っている年配者や子供たちが疲れてきて・・・。

司会者(左)と市役所係長(中)

色々なことがありましたが、大会は遅れて無事スタート。
いざゲーム開始となると、子供たちはさすがの対応力を発揮して活躍していました。

大会スタートし活躍する子供たち

彩ステーションとしては従来の活動内容との乖離がありましたが、守備範囲を広げ、多彩な人事交流という面ではいい経験だったのではないでしょうか。
何より、市役所から依頼があったというのがすごいと思いました。

見守る関係者たち

4月の雪

4月になりましたが、山小舎周辺では雪が積もっています。

4月初旬の朝

今年はここいら辺、何年に一回の大雪だそうです。

3月の大門稲荷神社。境内の土俵が雪で真白!

3月一杯は積もった雪の雪割りに追われました。
雪の重みで崩れた薪を積み直したり、焼却炉の周りの雪を砕いてゴミ焼をしました。

雪が大体片付いたか?と思った頃にまた降りました。

一時は春の日差しに雪解けが進んだ3月

4月初旬に孫の誕生会で帰京するときも、雪の中を出発し、帰ってきたらそこそこの雪が積もっていました。

高速バス停のある茅野では雨でしたが、峠道を上り白樺湖が近づくにつれて雨がみぞれになり、山小舎に着くと銀世界でした。

4月になり再びの冬景色

雪が多いと冬らしいし、スキー場など冬の観光施設には良かったのではないでしょうか。

真冬には白樺湖の湖面も凍結して、雪を頂いた立科山をバックに、極寒の景色でした。

八ヶ岳連峰も山頂が白く輝き、パワーをみなぎらせた勇壮な姿を見せていました。
中央道から見える富士山もこの時期ならではの壮麗な姿でした。

今冬の山小舎暮らしでは灯油代がかさみます。
今シーズンは18リットルで2000円を超えました。

雪でもけもの道をとおって別荘地へ通う鹿

「フレッド・ブラッシー自伝」

銀髪鬼と呼ばれたプロレスラーの自伝を読んだ。

プロレスラー、ブラッシー

プロレスという仕事がある。
アメリカで発生したプロフェッショナルレスリングのことだが、およそスポーツとしてのレスリングとはかけ離れたもので、アマレス的なアスリートの要素から、演技的なエンターテインメントの要素までを含んだ仕事である。

日本でも有名なブラッシーというプロレスラーがいた。
1918年、オーストリア=ハンガリー帝国からの移民の子供として生まれ、海軍除隊後、地元でプロレスラーになった。

売り出し中の若き日のブラッシー

南部のアトランタで売り出し、以後、ロサンゼルス地区を中心にヒール(悪役)として一世を風靡。
日本にもたびたび遠征した。
現役引退後は、現WWEのプロモーションでマネージャーとして活躍した。

プロレスという仕事

プロレスラーは大会会場を巡業して歩く。
ある期間、一定の場所を一定のメンバーで回る。
プロモーターと呼ばれる興行主画がんだスケジュールの元、与えられたキャラクターを演じ、観客を集め興奮させるのが仕事だ。

それは、身体能力に恵まれ、アスリートとして、またパフォーマーとしての特別な才能を有する者だけが所属を許される職業集団。
そこで行われるパフォーマンスは、「試合」ではなく、「興行」と呼ばれる(日本では慣習上「試合」と呼ばれているが)。

スポーツ系でいえば大相撲の世界に近い。
また、旅芸人、サーカス団に近い。
大相撲は八百長を忌避する、サーカスもインチキではできない、それでも真剣勝負のアマチュスポーツの「試合」とはなぜか色合い画異なる「興行」の世界である。

本書で、ブラッシーからプロレスラーとして高評価を得ているのが、日本でも有名なザ・デストロイヤー。
アマレスの全米チャンピオンの実力を持ちながら、覆面を被り独特のキャラを確立。
リング上では激しいファイトをいとわないが、業界のルールは決して破らない。
大学出で知性と常識に富んでいる。

一方で、厳しい評価を受けているのが、プロレスファンなら知っているバデイ・ロジャースとジョニー・バレンタイン。
特にロジャースは世界チャンピオンとなるくらいの人気者ではあったが、ブラッシーに言わせると、「相手の体のことを考えずに技を出す」自分勝手な奴。
バレンタインンの度を越した悪戯っぷりもダメだったらしい。

ブラッシーはヒール(悪役)となって以来、ファンに21回も刺されたという。
会場に乗り付けた車は、興行の間にファンに壊されたという。

私生活では2回の離婚。
セントルイスに家族を置いて、アラバマで巡業していた期間は、家族に会えるのは年に何回か。
巡業先で女は欠かさなかったという。
プロスラーはもてるのだ。
たいてい離婚もしている。

自伝では、ファンに刺されたことや、車を壊されたことを、むしろ誇らしげに書いてある。
ファンをヒートアップさせるのがプロレスラーとして有能であることの証明だ。

観客には決して自分からは手は出さないが、昔はリングに上がってくる素人の力自慢の相手もしたという。
ケガしない程度に痛めつけて、プロレスラー強しを証明しなければならないのも仕事の一つ。
ブラッシーも事故にならない程度に、こうしたイカレたファンを痛めつけたこともあったという。
今なら訴訟モノだが。

ブラッシーはテレビショーに出たときも、台本なしでのパフォーマンスを繰り広げ、〈アングル〉なしでMCの上着を引き裂いたりしたという。
〈アングル〉(事前の打ち合わせ)があろうがなかろうが、プロレスラーは自分のキャラに生きなければならない。
〈アングル〉があればそれに従い、なければ相手の出方に応じていかようにも対応できなければならない。

アドリブにも長じ、いかなる場でも、自分のカラーに染めることできるブラッシーはプロレスラーの鏡といえる。
テレビスタジオという、視聴者にとっては〈現実〉そのものの空間を、一瞬にして〈プロレス〉という異空間に変換させ得る力を持つ者がプロレスラー。
そういった意味でも、プロレスラーは現代の〈マレビト〉なのだ。

テレビショーでMCの上着を引き裂く

ブラッシーと日本

ブラッシーは力道山の生前に初めての日本遠征。
テレビでブラッシーの噛みつきによる流血試合を見た老人がショック死。
ブラッシーは、謝罪するどころか報道陣の前でやすりで刃を研いで見せた。

力道山との血の抗争。ブラッシーのプロに徹した表情を見よ

1965年には日本で見染めたミヤコという女性を口説きに口説いて結婚。
自身が死ぬまで添い遂げる。
ミヤコとの結婚後は、巡業先に同行させ、あんなに好きだった浮気もしなかったという。
この部分はプライベートなブラッシーの人間性。

日本人ミヤコさんとの結婚は終生続いた

力道山の死後も日本には何度か遠征。
ジャイアント馬場やアントニオ猪木と戦っている。

このころのテレビ中継を思い出す。
体格差のある馬場にも果敢にネックブリーカードロップを決めていたし、若かった猪木にも決して主導権を譲らない、老獪でねちっこいファイトぶりだった。

猪木が当時保持していたUNヘビー級王座にも挑戦している。
ブラッシーの日本における評価が、本国同様に高かったのがわかる。

一方、ブラッシーの猪木に対する評価は低く、のちにモハメド・アリのマネージャーとして来日し、猪木との異種格闘技戦に臨んだ後、猪木のことを「私がボクサー側についたこと以上に、あの夜のうちに彼(猪木のこと)がこの業界(プロレス界)をどれだけ傷つけたかりかいしていたのだろうか」(本書334ページ)と述べている。

猪木との異種格闘技では、アリのマネージャーを務めた

ジャイアント馬場のアメリカ修業時代

ブラッシーがプロレスラーとして評価していた日本人がジャイアント馬場。
馬場はその修業時代の1964年に、ブラッシーのWWA世界王座にロサンゼルスで挑戦している。

1964年、馬場とのロサンゼルスに於けるタイトルマッチのパンフレット

この時の馬場は、NWAのルー・テーズ、WWWFのブルーノ・サンマルチノにも連続挑戦していた。
プロレスでは、タイトルに挑戦するためには、一定の地区で巡業を行い、プロモーターの信用を得て、人気と評価をあげてから、が手順。
いきなりのゲスト出場で、ご当地会場のメインエベントで世界タイトルに挑戦するのは異例。
その後も、その手のレスラーは、アンドレ・ザ・ジャイアントがいたくらい。

力道山の死亡の報を受けた馬場に対し、当時のマネージャー・グレート東郷が、手取り年27万ドルの条件でアメリカ残留をオファーした。
一流レスラーの年収が10万ドルといわれた時代。
日本人のアメリカンドリーム第一号はジャイアント馬場だった。

馬場は、ブラッシーが嫌ったバデイ・ロジャースが世界チャンピオン時代に何度も挑戦している。
本来世界チャンピオンとは、全米のテリトリーを回り、当地のプロモーターが押す地元のチャンピオンとタイトルマッチをしなければならない。
ところがバデイ・ロジャースは挑戦者とテリトリーを選ぶチャンピオンだった。

馬場は、そのロジャースに気に入られ、巡業に同行し、挑戦者として遇された。
馬場が、いかにプロレスラーの何たるかをわきまえた存在だったということがわかる。

強いだけではなく、強烈な個性でチャンピオンとの対極性をアピールしつつ、決してチャンピオンの存在を根底的にはおびやかさない常識性を持った存在として。
馬場はまさにロジャースの相手役としてお眼鏡にかなったのだった。
それはプロレス人生における馬場の評価と信用にも結びついた。

プロレスの神髄を知るブラッシーの馬場と猪木に対する評価の違いは興味深い。
おそらくそのあたりにプロレスとは何かの答えの一つがあるのだろう。