“女ごころ”とマックス・オフュルス

渋谷シネマヴェーラの「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」特集で、マックス・オフュルス監督作品6本が上映された。
イタリア時代の作品が1本、アメリカ時代のものが2本、フランス時代が3本の構成。
未見の4本の上映に駆け付けました。

「永遠のガビー」 1934年 マックス・オフュルス監督 イタリア

オーストリア生まれのユダヤ人で、戦前のドイツで活躍していたオフュルスがドイツ脱出後、イタリアで撮った唯一の作品。
ヒロインはイザ・ミランダ、相手役はメモ・ベナッシ。

ストーリーはヒロインの出世物語なのだが、単なるスターものでもなければメロドラマでもない。
開巻から素早いカッテイングと縦横無尽のカメラワークで己の世界に観客を引きずり込む手際の良さは、当代一流のオフュルス節全開。
「この映画は原作者のものでも、製作者のものでも、出演者のものでもない。俺の作品だ」とのオフュルスの主張が鮮やかだ。
流れるようで、鋭い映画手法に、山小舎おじさんはあっという間もなく画面に引きずり込まれる。

素早いカットつなぎ、クレーンで縦横無尽に動き回るカメラ。
古さを感じない映画手法が連続する。
例えが適切かどうかわからぬが、リチャード・レスター監督が1960年代後半に、ビートルズ主演のスター映画を、斬新なカッテイングやコマ落とし撮影などを駆使して思いっきり「自分の映画」としたことを思い出した。

独特なプロット、手法に晩年までこだわり続けたオフュルスワールドの原型が、この作品ですでに見られた。

シネマヴェーラのパンフより

「輪舞」 1950年 マックス・オフュルス監督 フランス

オフュルス監督は流麗なカメラワーク、〈既視感〉に溢れた忘れがたい背景設定などを駆使して、一瞬にして観客を己の世界に引きずり込むが、さらに音楽にも重要な役割を担わせているのがこの作品でわかる。

狂言回しの俳優が、一話ごとにシュチュエーションにふさわしいコスチュームで登場し案内する、愛と恋の小話が6話ほど。
タイトルバックに流れる主題歌を、時には狂言回しが口ずさみながら、時には場面のバックミュージックとしながら物語がつづられる。
音楽が、懐かしさに彩られた寓話的映画の世界の演出効果を高める。

映画は、シモーヌ・シニョレが演じる街の女と兵隊の物語で始まるが、その兵隊は次のシチュエーションでシモーヌ・シモンが演じる小間使いを追いかけまわし・・・と、役者を重複させながら別の話へと進んでゆく。
典型的なオムニバス映画にひと手間加え、一話ごとにストーリーが途切れない工夫がされている。

「輪舞」より、シモーヌ・シニョレとジェラール・フィリップ

各小話に登場する俳優もいい。
ダニエル・ダリューのよろめき夫人はいかにも適役だし、若々しいシモーヌ・シモンの小悪魔ぶりも、ベテラン女優役のイザ・ミランダ(「永遠のガビー」のヒロイン)の余裕ある美しさも忘れがたい。

「輪舞」より、ダニエル・ダリュー(右)とダニエル・ジェラン

遊園地と回転木馬を用いた場面は、「忘れじの面影」(1948年)においてもそうだったように、懐かしさに彩られた、映画的記憶に満ち満ちている。
忘れがたき、オフュルスの映画的世界である。

シネマヴェーラのパンフより

「快楽」 1953年 マックス・オフュルス監督 フランス

モーパッサンの短編3話からなるオムニバス。
今回の特集で上映されたフランス時代の3作品では最も製作費がかかっているものと思われる。

第一話。
若き日の思い出を忘れられず、仮面をつけて若作りし、舞踏会にまぎれこむ老人の話。

オフュルスのカメラは、話の本題に入るまでの、舞踏会の館に次ぎ次ぎに乗り付ける馬車とドレスアップした客、迎える召使など、豪華なセットと、多数の俳優たちの動きを延々と描写する。
また、踊りまわる人々を館のガラス越しに移動撮影で追い、人々の間をクレーン撮影で動き回る。

見ている我々は、舞踏会の賑わいと猥雑な熱気の渦の中で翻弄される。

豪華なセットと馬車、群集に近い大人数を使ったぜいたく極まりない撮影に、思わず「そんなに金賭けて大丈夫か?」と、70年後の観客である我々も心配してしまう。
これでもかと繰り広げられるオフュルスワールドには圧倒される。

第二話。
ある港町の娼館のマダムとマドモアゼル(娼婦)一行が、マダムの実家の田舎へ、姪の神事に参加するために旅行する。

マダムにジャン・グレミヨン作品のマドンナ、マドレーヌ・ルノー。
マドモアゼルの一人にダニエル・ダリュー。
田舎で一行を迎えるマダムの兄にジャン・ギャバン。

全体を通すのびやかでのんびりとしたムード。

ダニエル・ダリューは草原で花を摘みながら主題歌を口ずさみ、マダムは終始口元に笑みを浮かべ、田舎のスケベ紳士ジャン・ギャバンは、いつもの深刻ぶった顔も忘れ、マドモアゼルの姿にひたすら鼻の下を伸ばす。
ルノワール映画のような開放感。

第二話「テリエ館」の一場面

あまりにいい感じだったので、原作「テリエ館」を読んでみた。
原作ではマダムとマドモアゼルの容姿、性格の描写がかなり辛辣だが、映画ではダニエル・ダリューをはじめキレイどころが演じている。
リアリズム映画ではないのでこれでいい。
鉄道で田舎へ向かう場面などでほぼ原作通りのセリフが使われてもいる。
ジャン・ギャバンふんする田舎紳士がマドモアゼルに執心して追いかけまわすところも映画ではソフトに描かれている。

第三話。
ムードががらりと変わる。
こわばった表情の登場人物が、閉ざされたアトリエ内で、あるいは寒々しい大西洋の海岸で交錯する様を表現主義的な手法も用いて描いている。

ダニエル・ジェラン扮する新進の芸術家が、シモーヌ・シモンに恋をし、モデルにして売り出す。
売り出し後、心変わりして女を捨てようとする。
女はマンションの窓を突き破って身投げをする。

第三話。芸術家のモデルとなるシモーヌ・シモン

何年か後、海岸を散歩する車椅子の女と、付き添う初老の男の姿が見られる。

救いようのない男と女の関係が、一瞬ののちに永遠の救いにつながる。
女ごころを一皮めくり、一見その救いようのなさの中に救いを見出す、オフュルス永遠のテーマに沿った挿話だった。

シネマヴェーラのパンフより

「たそがれの女心」 1953年 マックス・オフュルス監督 フランス

オフュルス永遠のテーマを徹底的に掘り下げ、その極北に至った作品。
女ごころの探求もいいが、その深さに翻弄されているうちに、どうにもならなくなる寸前までいった作品。

ダニエル・ダリューのよろめき夫人がダリュー自身の実像に見えるほどのビター感。
その浅知恵、いい加減さ、欲深さ、好色、大胆さ、自己中心なヒロイン像が。

将軍(シャルル・ボワイエ)の何不自由ない夫人(ダリュー)が、イタリアの外交官(ヴィットリオ・デ・シーカ)と恋に落ちる。
ダイヤを小道具にした出会うまでの筋回しが、しゃれているというか、闇が深いというか。

外交官が夫人を追いかけて恋がスタートするが、そこには何の必然性も合理性もない。
もっとも、登場人物の合理性には何の関心もないのがオフルス映画なのだが。

「たそがれの女心」のボワイエとダリュー

闇を持たず、裏のない人物など一人もいないだろう、ヨーロッパの上流社会がすでに救いがない。
その中で、ひたすら情人を求めて心ここにあらずの外交官と夫人。

ダニエル・ダリューとデ・シーカが、再会の念願かなってのダンスシーン。
クレーンショットでカメラは二人の周りを回り続ける・・・ように見える。
が、よく見ると、回っているのは踊る二人で、カメラはクレーンでついて行ってる。
二人の周りをカメラが回っているように見える効果が、目くるめく。
二人の喜びと、不安定さが象徴される。

リアリズムではなく、一見豪華な画面作りの中で浮かび上がる、女ごころ。
上流社会の闇と腐敗。
オフュルスの真骨頂。

ダリューとデ・シーカのたそがれのダンスシーン

「快楽」の第一話のような大掛かりな舞踏会のシーンはこの作品では見られず、必要以上のカメラワークのテクニックも少ない。
予算の関係もあるのだろうが、結果としてヒロインの女ごころによりフォーカスする結果となった。

終盤になるにつれて、イタリアの伊達男デ・シーカが哀れな浮気男に、将軍ボワイエは己の闇に対面せず逃げおおせたズルイ男に、見えてくる。
とすれば「たそがれの女心」ダニエル・ダリューは己に正直なだけのピュアな女、なのか?

オフュルスがハリウッドで撮った「忘れじの面影」(1948年)が、イギリス人女優ジョーン・フォンテイーンをフィーチャーした、不可解で非合理的だが、まっすぐな女ごころを描いた作品だとしたら、本作はフランス人女優ダニエル・ダリューによる、裏も表もあり、闇も深く、非合理的極まりない、最後の最後まで本心が見えない、女ごころを描いたものなのかもしれない。

パンフより

(余談)

ダニエル・ダリューは1917年、ボルドー生まれのフランス人女優。

ダニエル・ダリュー

主な出演作品は「うたかたの恋」(1936年)、「赤と黒」(1954年)、「チャタレイ夫人の恋人」(1955年)など。ジャック・ドミー監督のミュージカル「ロシュフォールの恋人たち」(1967年)にも出演している。

「うたかたの恋」

渋谷シネマヴェーラ「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」特集

令和4年から5年にかけての年末年始、ミニシアター・渋谷シネマヴェーラで「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」と銘打ったフランス映画特集があった。

フランスで、1960年前後に発生したヌーヴェル・ヴァーグは、映画を中心とした当時の新進作家の台頭であるが、それに「前夜」があったかどうかは知らない。
今回シネマヴェーラが集めたのは、ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち(もっというと映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の同人たち)に評価され、また信奉された映画作家たちの、おもに1950年代(つまりヌーヴェル・ヴァーグ前夜)の作品であった。

特集された映画作家は、ジャン・ルノワール、ジャン・グレミヨン、マックス・オフュルス、ジャック・ベッケルを中心に、サッシャ・ギトリ、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、マルセル・パニョルといった人々。

うち、ルノワール作品は8本が集められている。
内訳は戦前フランス時代の代表作というより、戦中戦後の作品が中心で、渡米後の4作品(「南部の人」(1945年)、「浜辺の女」(1947年)など)に加え、帰仏後の2作品(「黄金の馬車」(1952年)、「フレンチ・カンカン」(1954年))が含まれている。

注目すべきはジャン・グレミヨン、ジャック・ベッケルそしてマックス・オフュルスの諸作品が取り上げられたこと。

グレミヨンは、50年代のフランス映画の中心的人物の一人だったが、日本での評価を含め、忘れられた映画作家のひとりでもある。

シネマヴェーラの特集パンフより(以下の添付写真に同じ)

ベッケルは「現金に手を出すな」(1954年)、「モンパルナスの灯」(1958年)、「穴」(1960年)などで日本でも一般的な評価を受けた映画作家。
ルノワールの助手を務めた後1本立ち。

オフュルスはオーストリア生まれ。
戦前のドイツ、イタリアで、その後亡命してハリウッドで、また戦後はフランスで活躍した職人派の映画監督。
〈人間的なあまりに人間的な〉素材を、独特のタッチで画面に謳いあげ、女性映画の名手と呼ばれた。
その華麗だが、一皮めくると底知れぬ暗さに彩られた人間の〈さが〉を描く姿勢は、単に女性映画の名手のとどまらない。
長回し、移動撮影などを駆使する流れるような画面作りも含めてヌーヴェル・ヴァーグ一派に支持された。

この特集、山小舎おじさんにとってはこれ以上ない大好物。
ルノワールの未見作はDVDで見ることにして、鑑賞機会の少ないグレミヨン、ベッケル、オフュルスなどの諸作品に連日駆け付けました。

グレミヨンの「曳き舟」(1941年)は、港町を舞台にしたジャン・ギャバンとミシェル・モルガンのみちならぬ恋を描く作品。
家庭を持ち、腕利きの救助艇船長のギャバンが一瞬の出会いでモルガンと恋に落ちる。
その人間の〈さが〉を大西洋をバックにした冬の海岸を舞台に描く印象深い1作。
延々と、救命艇での活動シーン、家庭人としてのギャバンを描きつつ、それらすべてをひっくり返すようなモルガンとの強烈な出会いを持ってくる、グレミヨンの映画的センスに驚く。

「不思議なヴィクトル氏」(1938年)、「高原の情熱」(1943年)と他のグレミヨン作品にも、ヒロインか重要な脇役にマドレーヌ・ルノーという、小柄で演技派の女優が起用されており、その的確な演技がグレミヨン作品のグレードを維持している。

また、「曳き舟」「不思議なヴィクトル氏」「高原の情熱」は、舞台がパリ以外の場所に設定されている。
その舞台は、生活感のある港町だったり、隔絶された高原だったり。
作品の舞台が醸し出す雰囲気も、グレミヨンが重要視していることがわかる。

ベッケルの「エストラパート街」(1952年)はリアルタイムのパリが舞台。
若いカップルの暮らしぶりが軽快に描かれる。
アンヌ・ヴェルノンとルイ・ジュールダンのカップルは、ゴダールやトリュフォー映画の現代的ですっとぼけたカップル像を思い出させる。
そういった意味では「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」そのものの作品。
好感を持てる現代フランス美人のアンヌ・ヴェルノンの火遊びシーンがヒヤヒヤさせる。

「赤い手のグッピー」(1944年)はフランスの田舎を舞台にした異色作。
しゃれたフランス映画のテイストからは程遠く、むしろ閉鎖的・因習的な田舎の村を描く視点が新しい。

そして「肉体の冠」(1951年)。
シモーヌ・シニョレがそのキャリアの初期に良く演じた娼婦役で堂々の存在感。
運命の男と女の出会いと結末を淡々と描く。
底に流れるのはフランス映画永遠のテーマである人間の〈さが〉。
肯定でもなく否定でもなく、淡々とそれを描くベッケルの姿勢が一番怖い。

のちの大女優シモーヌ・シニョレ。
娼婦の仕草を演技力で再現している前半より、運命の相手を見つめるまなざしの鋭さ、ただならなさがみられる後半に、よりその存在感を発揮していた。

マックス・オフュルスの諸作品については別稿にて。

”若大将映画のマネージャー”江原達怡自伝「心ごころの思い出」

江原達怡という俳優がいた。
山小舎おじさんの年代には、加山雄三主演の「若大将シリーズ」で加山扮する若大将が所属する運動部のマネージャー役でお馴染みの人だ。

東宝カラーというか、都会的でスマート、お坊ちゃん的なキャラクターが似合った。

「独立愚連隊」(1959年 岡本喜八監督)や「あるサラリーマンの証言・黒い画集」(1960年 堀川弘通監督)にも出ていて、それぞれ中国大陸での日本兵や、若いOLと簡単に仲良くなる軟派な学生を演じたこともあるが、いまいち似合わないというか、「若大将のマネージャーがいろんな役で出ているんだなあ」と思ってしまうのだった。

「独立愚連隊」より

自伝のような本が出ており、ミニシアター・ラピュタ阿佐ヶ谷に置いてあったので買って読んでみた。

江原は、東京の三田の生まれで、中等部から大学まで慶応という、若大将のマネージャーを地で行く経歴の持ち主だった。
小学校時代の担任の指導の下、児童劇に出て、たまたまコンクールの全国大会に出演した。
それが松竹の目に留まり、初代水谷八重子の子供役で映画デビュー。

少年期に入ると、東宝から声がかかり岡田茉莉子主演の「思春期」(1952年 丸山誠司監督)でラブシーン。
大映の性典もので若尾文子の相手役を務めた。

その後、家から通うのに便利だという理由で東宝と専属契約を結んだ。

慶応での高校、大学時代は麻雀、ビリヤード、ダンス、スキーと遊びまわった。
若大将のマネージャーにふさわしいキャラクターはこの時期に形作られたのかもしれない。

映画界に入ってからの「忘れがたい人々」の章では、岡本喜八、恩地日出夫、黒澤明などの名監督らとともに、加山雄三、佐藤充、田中邦衛、夏木陽介ら東宝時代の盟友のエピソードがつづられる。

恩地日出夫監督の「伊豆の踊子」(1967年)では、旅芸人一座の唯一の男であり、踊り子の兄の役。
学校に行きたかったけど行けなかった人間、自分で勉強してきた人間、という役作りをした。
映画評論家の双葉十三郎に褒められ、それから東宝でのギャラが上がったという。

「伊豆の踊子」より

佐藤充との出会いは、谷口千吉監督の「不良少年」(1956年)。
セットで初めて佐藤を見たとき、本物の不良がいる、と思った。

そして加山雄三。
出会いは慶応の1年後輩の加山と大学のスキー授業で志賀高原へ行った時。
上原兼の息子ですと挨拶してきたとのこと。
当時の加山は船の設計士になることが夢だったという。

若大将シリーズでは江原は、当初、運動部の選手仲間としてキャステイングされたが、江原自身の提言によりマネージャー役が新設され、役が変更されたという。
まさに古き良き時代の、明るく楽しい東宝映画史上の名シリーズの名配役が決まった歴史的瞬間だった。

自伝の後半は、俳優をセミリタイアした後の話になる。
プロ級のドライブテクニックを駆使しての、モータードライブの世界。
好きなスキーを生かして、ウエアのデザイナーになったり。
ハリウッドで映画の買い付けをしたり。
スポーツドリンクを広めたり。
絵を描いたり。
穂高に美術館を開いたり。

都会的でスマートな活躍ぶりは、実生活でも「若大将のマネージャー」ぶりをほうふつとさせる。

映画全盛期に活躍したスマートな名わき役。
その姿をこれからも名画座のスクリーンで見るのが楽しみだ。

キャサリン・ヘップバーン自伝「Me」

全米映画協会が選ぶ歴代女優ベストテンで1位に輝いたのがキャサリン・ヘプバーン。

DVDで見た、「勝利の朝」(1933年)や「赤ちゃん教育」(1938年)がまずは面白く、主演のキャサリンが若々しく、エネルギッシュで可愛げもあり、いっぺんでファンになってしまった。

初期の傑作「赤ちゃん教育」より

古本屋巡りの際に、キャサリンの自伝が文庫本上下巻セットで売っていたので買って読んでみました。
口語体でつづられる自伝は、あけっぴろげで明るさに満ちており、何より読みやすく、たちまち読了しました。

文庫版の自伝、上下巻

生まれてから演劇に目覚めるまで

名門というほどではないが、東部の裕福な家に生まれた両親の記述からこの自伝は始まる。
教養があり開放的な家庭を築いた両親をキャサリンは生涯誇りに思う。

活発な少女だったキャサリンは、両親、特に父親の元、ますます活動的に育つ。
水泳、飛込、乗馬、のちに車のドライブなどはこの時期に身についたという。
「フィラデルフィア物語」(1940年)で、見事な水着姿で鮮やかにプールに飛び込むシーンを思い出す。

演劇に目覚めたころのキャサリン

高校時代に演じることの面白さに目覚め、カレッジ時代を通して演劇を続ける。
父親は眉をひそめたが干渉はしなかった。

駆け出し時代のキャサリンのエピソードが語られる。

ある演劇の端役をもらったときのこと。
衣装が配られる日に早めに駆け付けたが順番はびりだった。
残った似合わない衣装を持って呆然としていると、一番に並び、いい衣装を身に着けた女の子がキャサリンにこう言った。
「この衣装受け取ってくれないかしら。私、結婚するの。女優にはならない。でもあなたはなれると思う。大スターになるような気がするの。ね、受け取って」。

大スターになる星のもとに生まれてきた、キャサリンらしいエピソードではないか。
まるで映画のような話だが、どんなにドジでも、失敗しても、スターになる人はなるのだ。

映画デビュー作「愛の嗚咽」

こうして「勝利の朝」のストーリーそのままに、キャサリンの駆け出し時代が過ぎてゆく。

キャサリンはまたこの時代に生涯一度の結婚をする。
その相手とは離婚後も一生涯の友人の一人となる。

ハリウッドデビューと映画スターへの道

デビッド・O・セルズニック製作、ジョージ・キューカー監督の「愛の嗚咽」(1932年)でハリウッドデビュー。
出演に当たってはギャラと待遇をセルズニックと直接交渉しているのが、いかにもキャサリンらしい。
週給1500ドルの3週間契約だった。

「愛の嗚咽」。ジョン・バリモアとのシーン

ハリウッドといえば、業界の悪習渦巻く背徳の都、というのが山小舎おじさんの連想だが、キャサリンの自伝にもそれらしきエピソードが出てくる。

デビュー作「愛の嗚咽」の共演者がジョン・バリモアだった。
名優であり、キャサリンもリスペクトをもってバリモアを描写する。
撮影期間中バリモアの控室に呼ばれたキャサリンがドアを開けると、だらしない格好でソファに横たわっていたバリモアが毛布をはねのけた、キャサリンは部屋を飛び出した。
この事件の後もバリモアのキャサリンに対する態度は変わらなかった、云々。

こういったセクハラ?は被害者からの拒否にあうと加害者の態度が悪化するのが普通だが、そうならないところもキャサリンがスターの星のもとに生まれた証左の一つであろうか。

「若草物語」(1933年)

MGMではタイクーン、ルイス・B・メイヤーに可愛がられる。
本来は吝嗇で口うるさく高圧的でパワハラ満載なのがハリウッドのタイクーン像である。
「彼は私を自由に泳がせてくれた」(自伝上巻P367)とキャサリンは、メイヤーについて語る。

他人に言わせれば、キャサリンがタイクーンを上手く転がしているように見えるのだが、こういった大物とうまくやれるところもキャサリンの才能の一つである。

ルイス・B・メイヤーと

監督ジョージ・キューカーとの公私にわたる交友についてもページを割いている。
デビュー作、そして勝負作「フィラデルフィア物語」にはキャサリンのご指名で演出にあたった、演劇出身の名監督。
キューカーの豪邸にはキャサリンをはじめスターが集まった。
専用の部屋まで用意されていたキャサリンにとって、その豪邸はカルフォルニアでの定宿となっていたという。

盟友ジョージ・キューカーと

ハワード・ヒューズはキャサリンのハリウッド時代の愛人だった。
ヒューズがキャサリンの舞台で見染め、旅公演にまでついてきたのが始まりだという。
別れた後も交友関係は続いた。
離婚相手とも、別れた元愛人とも、その後も友人でいられるところもキャサリン。
大物である。

そして最もページ数を割いて語られるのが最愛の人、スペンサー・トレーシー。
二人が出会ったとき、スペンサーには妻子がいた。
27年間キャサリンはスペンサーと暮らし、生涯深い敬愛を抱いた。
死をみとったのもキャサリン。

人情を越えた広い心を持つのもキャサリンか。
スペンサーの未亡人、娘とはその後親交を結んだという。

パトリシア・ニールが、妻子あるゲーリー・クーパーと愛人関係となって、クーパーの死後、残された娘に会って打ち解け、友人となったというエピソードを思い出す。

生涯のパートナー、スペンサー・トレーシーと

(余談)

自伝ではほとんど触れられていないが、1947年から始まった非米活動委員会(いわゆるハリウッド赤狩り)に際し、ハリウッドに対する政治の非干渉を求めて立ち上がった映画人グループの象徴的存在がキャサリンであった。

自由と正義を愛し、自分で考え、正しいと思ったことは表明し、突き進む、まことに彼女らしいふるまいだ。

非米活動委員会に召喚された、製作者、監督、脚本家の10人が議会侮辱罪で投獄される中、キャサリンとともに立ち上がった映画人にも変化が起こる。
迫害を苦にしての自死(ジョン・ガーフィールド)、仕事を干される(マーナ・ロイ)、運動からの撤退(ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール)などなど。

結果的にキャサリンには何の影響も、お咎めもなかったのだが、その背景にはMGMの大立者、メイヤーの庇護、愛人ハワード・ヒューズの存在があった。
なにより本人がアメリカ支配層のWASP出身、があったからではないかと思うのは山小舎おじさんだけであろうか。

城戸四郎著「日本映画傳・映画製作者の記録」を読む

城戸四郎は1894年(明治27年)、東京の築地の生まれ。
一高、当代法学部を出て一度は国際信託銀行(現みずほ銀行)に就職したものの、当時の松竹社長・大谷竹次郎に乞われて松竹キネマに入社。
以降、松竹鎌田撮影所長、松竹副社長、社長、会長を歴任した。

その城戸の1956年文芸春秋社刊「日本映画傳」を読む機会があった。
創立当初から現在に至るまで、日本映画のメジャーの地位にある松竹の戦前戦後を通しての、会社経営者であり映画製作者であり、日本版タイクーン(ハリウッドでいえば、セルズニックやザナックの位置づけか)でもあった城戸の自伝である。
全盛期の日本映画の記録としても貴重なものだった。

新聞記者志望で弁護士資格を持つ城戸が、戦前の興行会社である松竹に入社した経緯は、本著では「以前からぼくの家とはちょっと知り合いの松竹の大谷社長から、松竹へきて働かぬかという話をうけた」(同著P11)と簡単に表現している。
これは、城戸の生家が築地精養軒という日本における西洋料理の草分けであり、東京の拠点を築地に置いていた松竹の大谷社長との接点があったこと、大谷社長が長男を亡くし後継者を捜していたことが契機になってのことだと思われる。

城戸四郎

松竹は関西の芝居小屋の経営を母体にした興行会社であり、当時も今も関西の芝居、映画の興行、東京での歌舞伎、芝居、映画の興行がメインの会社である(映画製作については現在も行ってはいるが、唯一の直営撮影所であった大船撮影所を手放した現在では、メインの事業ではなくなっている)。
当時の興行界は、小屋に出入りするヤクザ、巡業先の地元のヤクザ、役者、小屋主との付き合いが、今よりも重要視される特殊な業界であり、城戸のようなエリートが就職先として選ぶことはまれであった。

サイレント映画の撮影風景。当時は楽隊の演奏をバックに撮影していた

本著では城戸が行った松竹キネマを舞台にした経営者としての業績が数々つづられる。
具体的には、
撮影所内で女優を妾とし、少し人気が出れば自分の実力のためと過信する俳優たちと対峙して撮影所内のシステムと風紀を是正した。
契約したフィルム貸出料金を滞納する映画館主たちから回収を行い松竹の財政を改善した。
戦前の対抗勢力であった日活との間で興行戦争を行いスターを引き抜き合った。
新興勢力東宝との間で日比谷の興行街の利権争いでは一敗地にまみれたものの、別件でまき返した、などなど。

一方、製作責任者として、自らの理念に沿った施策も行った。
具体的には、
撮影所内にシナリオ研究所を作って人材を育成し、
撮影所をスターシステムからデイレクターシステムへと変更し、
新人育成用に中編映画を製作する、など。

また、
映画批評家と松竹作品の内容を巡って論争したり、興行に向かない作品は遠慮なくオクラ入りして才能ある監督に更なる奮起を促す、などの出来事には、映画理論家としての城戸の妥協なき理念性が現れてもいる。

城戸が映画製作においてその理念としているのは、「人間社会に起こる身近な出来事を通して、その中に人間の真実というものを直視すること」(本著P39)であり、また「いわゆる社会の常識を考え、社会的の思想なり判断、社会の大衆の分析やその判断に沿い、そうしてそれにマッチしながら、なおかつその人たちに感動を与える」(同P241)である、と述べている。

これがいわゆる蒲田調、大船調の底流ととなった理念である。
同時に松竹映画の、良くも悪くもこれが限界となって今に至るのではあるが、1956年、映画産業全盛期に書かれた本著では、それら理念の成果や反省がご本人によって述べられる時期ではなかったのが残念でもあり、一方で安心もする。

松竹蒲田調の結実。島津保次郎監督「隣の八重ちゃん」

エリートで感受性に優れ、正義感もある城戸は、映画界の悪癖、因習を改革し、また戦中戦後にあっては映画界を代表して国家や権力側と交渉し、松竹のみならず、業界全体の利益と透明性のために尽力していることが本著から窺える。
監督や俳優に対する、愛情のこもった視線も本著の随所に表れている。

これらを見ると、映画製作者(日本版タイクーン)としての城戸の特性は、大映の永田雅一などに見られる、斬った貼ったの興行主としてのそれではなく、また東宝の経営者のように不動産をやりくりしながら財政をキープするスマートなものでもなく、映画青年の感受性を持ちつつ、新聞記者を目指した客観性を維持しながら、映画製作者という極めてヤクザな職務を全う(しようと)した点にあるのではないかと思う。

(余談)

本著には、1929年(昭和3年)、ソビエトからヨーロッパ、アメリカへと9か月にわたる洋行の著述がある(本著P57~71)。

ソビエトでエイゼンシュテインやプドフキンと面談し、モンタージュ論を議論し、城戸の持論を述べたこと。
また持参の「からくり娘」を見せたが、「長い」といわれたことに触れている。

城戸がその際思ったのは、日本人が出ていること自体、彼らの想像と理解から離れ、それをして彼らに「この映画は長い」と言わしめたのだ、彼らに興味を持たせるにはすでに彼らの日本に対する常識となっている、時代劇的なものでなければだめだ、ということだった。

さらに興味深いのはハリウッドで製作者、B・P・シュルバーグに会っていること。
B・Pは大著「ハリウッドメモワール」を書いたバッド・シュルバーグの父親。
城戸は試写室に招かれ、B・Pが監督とデスカッションをしている場面を見て、ハリウッドの生存競争がいかに激しいかと感じる。
晩さん会ではノーマ・シアラー、グレタ・ガルボ、駆け出しのゲーリー・クーパーらと会食をしており、VIP待遇だったことをうかがわせる(ガルボが出てきたということは、B・Pがルイス・B・メイヤーのもとで製作をしていた頃であったのか)。

城戸が接待されたB・Pシュルバーグ、愛人シルビア・シドニーと。(メイヤーと袂を分かちパラマウントと契約していたころか)

城戸はトーキーシステムの事前調査も行っており、彼なりにあたりをつけて帰ってきており、帰朝後はさっそく日本でのトーキー映画の研究をスタートさせる。

当時はサイレント時代の末期で映画界が下り坂だったらしく、ホテルに投宿する城戸らに、ハリウッド女優のあっせんがあったそうである。
値段を聞くと一晩10ドルといわれたとのこと。
映画界の実情を表す記録として貴重な記述でもある。

節分の日の田無神社

令和5年節分の日は日曜日でした。
たまたま自転車散歩で立寄った田無神社では、節分の例大祭が行われていました。

新青梅街道を新宿から武蔵野市を越え、西東京市に入り、所沢街道への追分の手前に鎮座する田無神社。
鎌倉時代の創建と伝えられ、青梅街道旧田無宿の付近に位置する。
現在でも地域住民の参拝で賑わう。

通りかかると外からでもうかがえるほどの賑やかさに思わず自転車を止める。
鳥居をくぐると、移動カフェや屋台も出店し、家族連れが三々五々集まっている。
賑わいに誘われるように境内へ進む。

神楽殿も開かれ、獅子舞も出ている。
本殿には参拝を待つ人の列。

開かれた神楽殿
獅子舞と一緒に記念撮影をする親子

ひっそりとした神社仏閣の風情もいいが、縁日で賑わう境内はさらにいい。

本殿に並ぶ参拝客
本殿

都心の神社のメジャー感や、にぎやかさはないが、地域独特のまったり感がいい。

女性宮司が本殿で神事を行っていた
鯛がここの名物なのか

ここまで自転車に乗ってきて、立春を迎える喜びを味わわせてもらった思いで、田無神社を後にしました。

新春の神田明神

令和5年の1月下旬。
神保町からお茶の水へと歩いたついでに神田明神に参拝しました。

神田明神は江戸総鎮守の神社で、江戸城の鬼門に位置します。
主宰神の一人が平将門で、その時代に関東で反朝廷の武力蜂起を起こした人です。

将門は捕らえられて処刑されましたが、この場所に神と祀って、その祟りを抑えるとともに、江戸の鬼門を封じたのです。

久しぶりに訪れた神田明神。
都心の由緒ある神社としての格調、品格があります。
主宰神の荒々しい主張は極々薄められ、代わりに長い間庶民が集い祈った場所の、穏やかさ、賑わいを感じます。

正月ではないので、お参りに並ぶ人の数もわずか。
おみくじが結ばれた木が、真っ白に待っているのが目を引きます。

都内のみならず、全国から人が集まっているようです。
山小舎おばさんの仕事の繁盛を祈願して、お札をもらって帰りました。

浅草寺と浅草界隈

令和5年1月。
遅い初詣を兼ねて浅草へ行ってきました。

平日の金曜日ながら、都営浅草線のホームにはアジア系の観光客の姿が見られ、気分はコロナ前に戻った浅草界隈です。

浅草へ行くのなら、と家族からリクエストのあったどら焼きの亀十。
店へはいってゆくと「並んでください」とのこと。
外へ出てみると中国人らしき観光客などが三々五々並んでいる。
どこが最後尾かと聞けば、次のブロックあたりだという。
どれくらい並ぶ?といえば4、50分との返答。
速攻で並ぶのをやめる。

見れば隣にも和菓子屋があり、店内には全く客がいない。
値段も亀十が350円とすれば、どら焼き1個が240円と適正価格。
こちらの店でお土産のどら焼き購入とする。

亀十前に並ぶ人の列

雷門の前へ。
内外の観光客であふれている。

ここから浅草寺への参道沿いの仲見世は浅草随一の人出が集まる。
折角なので浅草寺へお参りする。

仲見世を行く人出を見ると、中国人やらスペイン語?をしゃべる外国人やらに交じって、修学旅行?の中学生グループの姿が目立つ。

浅草寺仲見世

浅草寺の山門をくぐり、煙を浴びて本堂で御参り。
振り返ってみる五重塔と山門の姿がいい景色だった。

諏訪大社本宮にあった神宮寺の五重塔も現存していれば国宝級、という話を思い出した。

浅草寺の山門
本堂から山門方面を見下ろす

浅草寺の後は、法善寺通りを通り、ホッピー横丁から、六区興行街へ。

和装で人力車の乗る内外の観光客やら、目指す店に並ぶ人の姿が目に付く。

人力車で浅草を回る観光客
天丼の大黒屋にも人が並ぶ

六区興行街のはずれにあった浅草名画座やピンク劇場の跡地にはホテルが建っていた。
向かいの場外馬券売り場は今日は休業日だ。

六区の浅草名画座跡地に建つホテル。突き当りは関東大震災で倒れた「十二階」が建っていた場所になる

ひさご通り入り口にある、350円のラーメンで昼食。

千束通りへ抜け、土手から旧あしたのジョー商店街、山谷、泪橋から三ノ輪へ行ってこの日の行程を終えました。

教のランチは350円ラーメン。東京風のあっさり味
ひさご通りから望むスカイツリー
土手の伊勢屋(天丼)も営業中だった
アーケードを取っ払い、ドヤ街とは訣別した?旧あしたのジョー商店街
山谷の労働者福祉会館。稼働しているのだろうか?
泪橋交差点にあるその名も泪橋ホールという映画喫茶。次回訪問してみたい

令和5年 山小舎新年

山小舎の新年は孫たちとともに明けました。

1月初旬、孫たちが雪遊びがしたいと山小舎へやってくるのに同行し、令和5年の山小舎新年を共に祝いました。

心配していた山小舎の水回りは、上水の凍結は、水抜きしていったので当然なかったのですが、台所と洗面所の排水が凍り、排水が流れるまでに2,3時間かかりました。
配水管の構造上の問題かと思われますが・・・。

そうはいっても、白樺湖のスズランの湯に浸かって山小舎へやってきた一行を、地元の鶏、豚、牛の炭火焼きで迎え、華々しく山小舎新年を祝うことができました。

翌日は午前中は山小舎周辺で孫たちとそり遊び、午後は池之平ファミリーゲレンデへ孫一家はお出かけ。
ジイジたちは買い物とお留守番。

3日目も帰る時間まで山小舎の周りでそり遊び。
十分楽しんで帰りました。

賑やかな山小舎の新年となりました。

令和5年初詣 その2

田端神社

新年早々自転車でほっつき歩いていると、杉並区に気になる神社がありました。
荻窪のはずれにある神社で、表道路から参道が長く続いており、その奥を覗いてみたくなります。

田端神社といい、昔この地区にあった村の田んぼのはずれに立っていた氏神様のようです。
1月早々ですが、境内に梅が咲いておりました。

本殿わきには梅が咲いていた

住宅街に取り囲まれた小さな敷地の神社ですが、よく手入れされたこぎれいな場所でした。

神明宮

阿佐ヶ谷にある神社です。
古くから有名で、ヤマトタケルが東征の帰途に休憩したとか、近世では甲州街道の旅人が内藤新宿から寄り道して参拝したという記録もあるそうです。

去年、山小舎おじさんが立寄った際には、神楽殿で晴れ着姿の娘さんたちによるかるた大会が開かれており、大変華やかでした。
また、その時に初もうで客がずらりと並んでおり、参拝をあきらめたことでした。

神楽殿はこの日は閉鎖

この日はほどほどの人出。
ゆっくり参拝することができました。

拝殿の奥の本殿の造りと配置を見ると、伊勢神宮を連想しました。
伊勢系、天孫系の神社なのでしょう。

東京の神社らしく、敷地も広く、きれいに整備され、華やかな雰囲気が漂う神社です。

拝殿にて参拝
拝殿の奥に鎮座する本殿

布田天神

調布住民はこの神社への挨拶は欠かせません。
古くから調布地区の氏神様です。

布田天神境内に作られた鬼太郎のサンドアート

3が日もとうに過ぎているので参拝客はまばら。
サクサクとお参りを済ませます。
調布地区の守り神なので、家族の安泰と併せ、調布地区の安寧もお祈りします。

本殿

参拝を終わって境内を見渡すと、神楽殿、社務所の造りや配置が堂々としており、都下の氏神とはいえやはり首都東京の神社の堂々たる様を感じます。

社務所の立派な造りに改めて気が付く