春を探して家の近くを散歩しました。
家の庭にいつの間にか沈丁花が咲いています。

家の横の遊歩道沿いにはボケの花が開花しつつあります。

梅が散っています。

畑は植え付けの準備完了です。また、菜の花が真っ盛りです。


歩道沿いの花壇には、水仙などが満開です。

木蓮が咲き誇るグランドでは少年サッカーの試合が行われていました。

冬から春にかけて、かんきつ類が実るのも関東ならでは。
夏ミカンやキンカンが鮮やかな黄色の実をつけています。


60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
春を探して家の近くを散歩しました。
家の庭にいつの間にか沈丁花が咲いています。
家の横の遊歩道沿いにはボケの花が開花しつつあります。
梅が散っています。
畑は植え付けの準備完了です。また、菜の花が真っ盛りです。
歩道沿いの花壇には、水仙などが満開です。
木蓮が咲き誇るグランドでは少年サッカーの試合が行われていました。
冬から春にかけて、かんきつ類が実るのも関東ならでは。
夏ミカンやキンカンが鮮やかな黄色の実をつけています。
ある春爛漫の日、早稲田通りを散歩しました。
高田馬場駅で降りて早稲田通りを歩きます。
賑やかな高田馬場駅周辺を抜け、明治通りを超えると、学生街の雰囲気が漂います。
ここら辺、20年前は古本屋が軒を連ねていたのですが、今では数軒から10件未満が残るばかり。
代わって飲食店の出店が目立ちます。
早稲田界隈の古本屋には、左翼思想や沖縄問題などの専門店があったり、値段が安かったりして、覗くのが楽しみです。
この日も映画関係の本や戦後の対米慰安婦関係の本を買ってしまいました。
更に早稲田通りを下り、穴八幡神社のある交差点を過ぎると、キッチンオトボケがありました。
ここで昼食です。カツカレーは720円に値上がりしていましたが、ボリュームとルーの味は変わりありませんでした。
店内のスタッフは、変わらず元気なビルマ?人の若者たちでした。
神楽坂方面へ歩きます。
ここからは主に和菓子屋、お茶屋、パン屋を覗き、適当なお土産を探しますが、値段が高い!ので断念。
名画座とピンク映画館があった路地へと進みました。
名画座(今ではミニシアターといわれる)のギンレイホールが閉館になっていました。
場所を移して再開するとのことですが、また一つ昔ながらの映画館がなくなりました。
ピンク映画館は数年前に閉館しています。
この後は飯田橋駅を横に過ぎて、青森県会館にあるアンテナショップを覗いてから九段下まで歩きました。
靖国神社の鉄製の大鳥居(必要以上に大きくないかい?)を見ながらベンチで休憩。
都営新宿線で帰りました。
先日「ハリウッドとマッカーシズム」という本を読んだばかりの山小舎おじさん。
続いて「レッドパージ・ハリウッド」という本を読んでみた。
なぜに映画界が赤狩りの主なターゲットとされたのか?
そこにはユダヤ人などへの差別はあったのか?
それとも左翼勢力と「民主国家」アメリカの価値観との覇権争いが本質だったのか?否か。
「レッドパージ・ハリウッド」 2006年 上島春彦著 作品社刊
定価3800円、399ページの大著を吉祥寺の古本屋で2000円で思い切って購入。
帯に「映画ファン必読の労作ー蓮見重彦氏絶賛」の文字が踊る。
本のタイトル、ボリュームからして、ハリウッド赤狩りの歴史的経緯と評価が体系的、時系列的に網羅された内容を連想する。
読んでみて、著者がハリウッド赤狩りの歴史的、時系列的解説に興味のないことがすぐ分かった。
本書は、チャップリンがドイツからの亡命人作曲家で左翼のハンス・アイスラーにかかわりがあった、という話から始まり、「ライムライト」撮影後に共産主義者としてアメリカを追われたチャップリンの話へと続く。
その後も赤狩りの時系列的、歴史的経過に著者の関心はなく、ジョン・ガーフィールド、ベン・マドウ、フィリップ・ヨーダンといった俳優、脚本、製作者の個別の話が続く。
これらの登場人物は、赤狩りの犠牲者だったり、赤狩りでブラックリストに載った脚本家の「フロント」(名義貸し)だったり、一連の「赤狩り事象」に深く関係した人たちだった。
が、日本ではあまりなじみのない人物でもある。
著者は彼らの経歴のみならず、演劇・映画の作品の背景(作品完成に至る、人物関係、業界関係など)に分け入り、また枝分かれした先の情報をたどってゆく。
そこに確証のない情報だったり、著者の推測が混じる。
本書「はじめに」によれば、「著者の関心は普遍的部分にはなく」また「本書は基本的には年代記ではなく人物伝の形式をとる」とある。
本書はハリウッド赤狩りに関心のある初心者用に書かれたものではなく、ある程度の時系列的事実を押さえた者でかつ映画史の周辺に興味を持つマニア向けに書かれたものだ、ということがわかる。
なるほど蓮見重彦氏が推薦文を書くはずである(文体、文脈も蓮実氏と似ている)。
赤狩り時代を題材にした、ハリウッド人物伝として読めば、豊富な裏話(確証のないものも含めて)に溢れる本書は確かにマニアにとっては面白い。
本書が採り撃揚げた人物には以下のような映画人がいる。
ジョン・ガーフィールド 俳優
1913年ロシア系ユダヤ人の移民の息子としてニューヨークに生まれ、ストリートキッズとして少年時代を過ごし、16歳の時にメソッド系の演劇レッスンの練習生となる。
左翼系の演劇集団グループシアターで売り出し、ハリウッドに進出。
自らの経歴を生かすようなストリートキッズ役で脚光を浴び、ジェームス・ギャグニーの後継者としての評価を得る。
独立プロを作ったガーフィールドは、エイブラハム・ポロンスキー脚本、ロバート・ロッセン監督で代表作「ボデイアンドソウル」を製作する。
1951年、共産主義シンパとして非米活動委員会の召喚を受けたガーフィールドは、自らを「共産主義者でもないし、その思想に共鳴もしない」と議会で証言。
ただし、仲間の名前を出すことは拒んだ。
1952年、ガーフィールドは知人女性の部屋で死亡。
自死ともいわれたが、最近では持病の心臓発作によるものと思われている。
赤狩りのストレスが間接的な死因であることは自明。
フィリップ・ヨーダン 脚本家、製作者
1914年シカゴ生まれのポーランド系ユダヤ人。
「犯罪王デリンジャー」(1945年)を製作しヒット。
「大砂塵」「折れた槍」「バルジ大作戦」などの脚本、製作を経て1990年代まで映画製作に関与した人物。
筆者が特に関心を寄せたのは、このヨーダンがブラックリストに載った脚本家を起用し、そのフロントとなったことが多々ある(のではないか)という点。
「最前線」の脚本でブラックリスト作家ベン・マドウのフロントを務めたとのこと。
このヨーダンなる人物、メジャースタジオの内部で働いてきたわけでもなく、脚本家としての実績もあいまいで、いかにも胡散臭い人間(独立系映画プロデューサーとはかような人物をさす)。
著者にとっても、どの作品がブラックリスト作家のフロントだったのか確証がない。
本書からは「いかがわしい映画人」以上のヨーダン像が伝わってこない。
ただし、日本人がほとんど論評してこなかったヨーダンなる映画人に、スポットライトを当てた点だけは意味があるのかもしれない(まったく意味のないマニアの自己満足なのかもしれないが)。
エイブラハム・ポロンスキー 脚本家、演出家、映画監督
ユダヤ系の薬剤師の家庭に生まれ、社会主義の家風に育ちコロンビア大学を出て弁護士の資格を持っッテイタポロンスキーは、小説家志望から劇作家となり、ハリウッドでの活動に至った。
主に脚本家で活躍する。
監督処女作は「フォースオブイーグル」。
1951年には盟友ジョン・ガーフィールドに次いで非米活動委員会の召喚を受けた。
ガーフィールドを除く仲間の密告によるものだった。
ポロンスキーは筋金入りの共産主義者で、人種差別と偏見に基づく非米活動委員会の召喚リスト中でも「唯一追放に値するハリウッドの共産主義者」といわれた。
ブラックリスト入りで早々にハリウッドを離れたポロンスキーはニューヨークの演劇界に戻り、50年代をテレビの台本執筆などで過ごした。
この時期1959年にはロバート・ワイズ監督、ハリー・ベラフォンテ主演の「拳銃の報酬」でノンクレジットながら脚本を書いている。
「拳銃の報酬」は、偏見に満ちた白人が、犯罪仲間の黒人と協同する中でお互いの理解に至るまでを描いた犯罪映画。
著者は「善意の黒人を白人が受け入れる、というそれまでのプロット(「手錠のままの脱獄」などでシドニー・ポワチエが演じる善良な黒人のイメージ)から一歩進んで、ありのままの黒人が白人の理解を得る、という、より進歩的なプロットを描いたもの」(山小舎おじさん要約)と評価している。
エリア・カザン 演出家、映画監督
トルコ、コンスタンチノーブル(現イスタンブール)出身のギリシャ系。
移民とはいえ絨毯で財を成していたおじさんにより裕福な生活を送る。
学生時代から演劇に親しみ、左翼系演劇集団グループシアターでジョン・ガーフィールドなどと親交を結ぶ。
この時期に共産党に入党し、のちに脱退。
1952年非米活動委員会の召喚を受けたカザンは、委員会の活動を全面支援するとともに、共産党シンパの名前を10名近く挙げた。
この密告について著者は、「ハリウッドで監督として商売する以上は、非米活動委員会に協力するよりほかにない」(山小舎おじさん要約)状況だったと述べている。
事実、密告したエドワード・ドミトリクもエリア・カザンも、ロバート・ロッセンも、もともと監督としての実力があったにせよ、(密告をした)50年代以降の監督としてのキャリアはそうそうたるもので、非協力を貫いたポロンスキーとは見事な対比を見せている。
陸井三郎著「ハリウッドとマッカーシズム」中のアーサー・ミラーによっても、本書著者の上島春彦によっても、「救いようがない」と両断されたカザンの行動。
仲間を売るという行為が、ハリウッドで演出家が生き残るための当時唯一の手段だったとはいえ、その後も自分の裏切りに開き直り、売った仲間を誹謗し続けたカザンの人間性を非難している。
また、著者はカザンが自伝やのちのインタビューで盛んに強調したという、「自らの移民としてマイノリテー性」なる「被害者意識」にしても、恵まれた幼少時代からの生活ぶりなどを理由に切り捨てている。
まとめ
時系列を無視し、著者の興味と知識(確証がない部分も含めて)の赴くまま、自在に時空を超えて展開するブラックリスト人の映画ワールド。
混乱する展開が多々あるとはいえ、「映画マニア」としての著者が思わず熱を込める筆致が、えもしれぬ魅力を発していたのも事実。
本書の切り口、端はしに顔を見せるマニアックな豆知識の数々。
例えば・・・。
ブラックリスト中では有名人のドルトン・トランボが、「ローマの休日」の原案者だった?とか、トランボの別名執筆といわれている「黒い牡牛」だが、背後はそんな単純なものではなさそうなこ話。
「ボデイアンドソウル」のユダヤ人母親役が「緑園の天使」でエリザベス・テーラーの母役を演じた個性的なアン・リヴェアという女優である話。
などなど。
何やかんや言いながら、映画ファンの端くれ・山小舎おじさんもつかの間、映画の光と影にが作り出す渦に巻き込まれ、夢を見させてもらったような読後感でした。
筆者の関心は、ユダヤ人問題にも、左翼問題にもなく、ひたすら映画マニア的な人物関係にあったような気がします。
本書の値段が高いのは読者層が非常に限られているからでしょう。
ラピュタ阿佐ヶ谷の、令和4年から5年にかけての年越し企画、2か月にわたる「血沸き肉躍る任侠映画」特集があった。
藤純子主演の「女渡世人おたの申します」を見てきた。
「女渡世人おたの申します」 1971年 山下耕作監督 東映
「おたの申します」とは「よろしくお頼み申し上げます」をやくざ風の言い回しにしたもので、藤純子は「女渡世人」「緋牡丹博徒」などの主演シリーズ中、仁義を切るシーンで使っている。
「女渡世人」シリーズは「緋牡丹博徒」シリーズをヒットさせた藤純子による新シリーズ。
「おたの申します」はその第二弾。
監督は東映京都撮影所で「将軍」と呼ばれた山下耕作。
脚本は「仁義なき戦い」シリーズでやくざ映画の新境地を切り開いた笠原和夫。
重要なわき役に島田正吾と三益愛子を配しており、東映プログラムピクチャア中では異色にして鉄壁の布陣。
映画は期待にたがわぬ完成度の高いものだった。
「緋牡丹博徒」シリーズなど、藤純子主演の任侠映画のパターンは、仁義を通して渡世稼業(ばくち打ち)に生きる女渡世人の藤が、悪徳やくざの理不尽な所業に耐えかねて殴り込み、日ごろ藤の応援団を自任する親分(若山富三郎)が助っ人に駆け付けるなどして悪漢をやっつける、というもの(だと思う)。
「おたの申します」ではそのパターンを一ひねり。
藤は主なストーリーのむしろ脇に回り、理不尽な所業に苦しむ渡世人(ばくち打ちではなく、正業を営んでいる)を島田正吾が演じて、正統派の芝居をたっぷり見せる。
その妻役の三益愛子による、大時代的ではあるがそれでも抑えた演技も任侠映画に枠を超えて見ごたえがある。
「男はつらいよ」シリーズでもパターンが煮詰まっていた時期に、浅丘ルリ子扮する場末の歌姫・リリーを創出し、道東を走る夜汽車の中で寅さんと邂逅させたり、東京の場末の街でリリーが実母に金をせがまれたりする場面によってリリーの「異色な」キャラ付けを行い、シリーズに新境地を開いたことが思い出される。
「緋牡丹博徒」シリーズで藤がバッタバッタと悪漢を斬り伏せるというファンタジィに疲れた東映が、ここは藤のスーパーウーマンぶりを抑えて、しっとりとした人情の世界を描き、シリーズの世界に厚みを持たせよう、としたのが本作ではなかったかと推察する。
悪漢の理不尽に耐える正義の人、の役柄は島田正吾がしっかり演じ、盲目の妻・三益愛子は藤を息子の婚約者と思って情けをかける。
不肖の息子はとっくに殺され、藤は婚約者でも何でもない渡世人だと知りながら。
その状況に悩む藤は、威勢のいい女渡世人ではなくて一人の若い女として描写される。
とはいっても堅気の女衆は決して、やくざの藤を受け入れない。
ラストシーン、堪忍袋の緒を切って悪漢に殴り込み、しょっ引かれる藤に、ただ一人三益愛子が思わず「お前は本当の(義理の)娘だと思っている」と声をかける。
思わず「おっかさん」と叫ぶ藤。
「義理と人情」の虚構の話が「真情」に変わった瞬間。
母親の愛を知らずに育った女渡世人が弱弱しい年相応の娘に戻り、母を慕う心情を吐露した瞬間だった。
「日本映画全作品の鑑賞が目標」といい、ラピュタ阿佐ヶ谷の客席でも時々見かける、落語家の快楽亭ブラックが生涯ベストテンで第二位にランクした作品。
いつどこのメデイアに、だったのかは覚えていないが。
令和5年の3月3日。
お雛様を祝ってちらし寿司を作りました。
孫娘2人のお祝いです。
前日に干しシイタケを戻しておきました。
当日朝に、かんぴょうを熱湯で戻します。
ごぼうをささがけにし、ニンジンを切り、油揚げを熱湯で洗います。
シイタケの戻し汁にこれらの具を入れ、砂糖、しょうゆ、酒、みりんなどで炊き合わせます。
具の味が出来上がりの寿司の味を決定づけるので、念入りに味付けします。
若干濃い目、甘めが好みです。
炊きあがった具材は、かんぴょうとシイタケを細かく切っておきます。
米を5合、昆布を入れ酒を垂らして炊きます。
若干硬めの水量にします。
炊きあがりをおひつに開けて、ヘラで切ってゆきます。
全体を切ると同時に、すし酢を合わせてゆきます。
うちわで湯気を飛ばしながら行うのが理想ですが、おひつが余分な水分を吸収し、また保温、保湿してくれます。
酢飯を味見してOKならば、炊きあがって冷ましておいた具を投入して混ぜ合わせます。
具は煮汁を絞らず、むしろ若干の煮汁をまぶすようにして酢飯に混ぜ合わせます。
この時にちらし寿司の味が決まります。
味見をしてOKならば、飾りつけの具材を乗せてゆきます。
飾りつけは青、黄、赤が基本。
今回は、キヌサヤを甘酢で茹でたもの、錦糸卵、でんぶとしました。
ほかにレンコンの薄切りを甘酢で茹でたものも加えました。
半分を孫たちに持って行き、半分を自宅で食べました。
大好評でした。
令和5年。
2月下旬に山小舎の様子を見に家族と行ってきました。
毎年、冬の間も、月に1回は山小舎の様子を見に顔を出すようにしています。
心配なのは積雪と、水道関係の凍結です。
上水道は水抜きをしてゆくので大丈夫として、複雑な排水関係が一部凍結していることがあるのです。
この3月に、娘一家が雪遊びに来たいとのことなので、冬の山小舎の下見も兼ねての山小舎行です。
高速道路を下り、茅野市内から大門街道を白樺湖方面へ上ります。
標高が上がるにつれ、路肩に残雪が見えてきます。
路面は雪がなく、走行に問題はありません。
白樺湖は湖面が凍結しており、全体がもやっていました。
蓼科山は靄で見えません。
大門峠を下り、姫木別荘地へと入ります。
心配していた別荘地内の路面凍結は、別荘地入り口付近ではありません。
山小舎前の枝道は白く雪が残っていました。
辛うじて雪遊びができそうです。
今回の滞在中は、炭火焼きをしたり、温泉に入ったり、家族でゆっくりしました。
水道関係の凍結は、排水に多少ありましたが1月の時ほどではありませんでした。
今回は排水溝にも不凍液を流し入れて帰ることにしましょう。
3日目の朝は晴れました。
新雪に彩られた山小舎周辺です。
3月は第2週に娘一家と来て、山小舎おじさんが常駐を開始するのは第4週目からになりそうです。
陸井三郎著、1990年筑摩書房刊の「ハリウッドとマッカーシズム」という本を読んだ。
マッカーシズムとは、1940年代から60年代にかけて、アメリカ下院議会に設置された「非米活動委員会」の活動を指す。
上院議員のジョゼフ・マッカシー議員に由来するネーミング。
委員会のメンバーは、反共、反リベラル、白人至上主義、反ユダヤ、人種差別、親ナチの主義者。
その目的は共産党員とそのシンパの摘発。
非米活動委員会は1947年、その目標をハリウッドに定め、共産党員、元党員およびシンパと目された19人の、映画製作者、脚本家、監督を「非友好的」証言者として議会に召喚した。
19人は全員が戦争中、反ナチ、親ソの立場で仕事をし、また10人ないし13人がユダヤ系だった。
また、彼らのうち、脚本家ドルトン・トランボ、監督のルイス・マイルストン、脚本のレスター・コール、俳優のラリー・パークスなどは、すでにハリウッド最高クラスの高給取りだった。
委員会は19人の召喚の前に、「友好的」証人として、ウオルト・デイズニー、ジャック・ワーナーなど保守的な映画界のボスたちを召喚し、証言させた。
ボスたちに、共産主義の影響を受けた「破壊活動分子」がハリウッドに存在していること、またボスたちが彼等をすでにリストアップし、かつ追放していることを証言させ、世論を委員会の味方つけることが目的だった。
1947年10月「非友好的」証人19人が召喚に応じ、うち11人が議会で証言した。
委員会が要求した証言内容は、煎じ詰めると「あなたは共産党員か、元党員か」であり、「ほかに共産党員だった人物を知っているか」だった。
それに対し「非友好的」証人らは、言論の自由を規定したアメリカ憲法の修正第一条を盾に、非米活動委員会の召喚そのものが憲法に違反している、という建付けで証言(を拒否)することで対抗した。
そもそもの始まりが、戦前の1938年に、反ファシストの立場から、仮想敵国のスパイ活動を取り締まる目的で設置されたのが非米活動委員会だった。
ところが、戦後、非米活動委員会は、反共に基づいた思想調査活動を、FBIとの連携のもとおこなうように変容しており、あまつさえマッカーシー、ニクソンなどの保守派議員の活動実績作りの場ともなっていた。
それに対し、左翼やニューディール派の知識人、マスコミなどは批判的で、「右翼」に乗っ取られた委員会による中傷、誹謗に対しては、軽蔑と嘲笑をもって応えていた。
11人の「非友好的」証人らは、証言席で、事前にまとめたステートメントを読み上げようとし、また、憲法が定める表現の自由を無視するかのような委員会自体の在り方に疑問を呈し、反論した。
自作のシナリオを持ち込み「どこに共産主義的要素があるのだ」と委員会に逆質問した。
「あなたは共産党員ですか」の問いには質問自体が憲法修正第一条に違反するからと答えず、再度の質問には「先ほどお答えした」と答えた。
「他の共産党員の名を述べよ」との質問に答えるわけがなかった。
委員会は証言者10人を議会侮辱罪で、下院本会議に上程した。
本会議は圧倒的多数でこれを可決し、10人の議会侮辱罪が裁判所に提訴されることになった。
これに応え、1948年ワシントン連邦地裁は、10人全員に禁固1年ないし6か月、罰金1000ドル前後の判決を下した。
10人は下獄した。
この時、「政治」に先導されたアメリカ世論は、すでに「反共」に変わっており、10人を擁護する流れが、非米活動委員会を容認する風潮に変わっていた。
下獄した10人はのちにハリウッドテンと呼ばれた。
以上が、非米活動委員会の第一次証人喚問時の、ハリウッドテンに関する概略である。
本著は、この部分を著作中の全9幕中の、第1幕と2幕に集約。
残りの7幕はハリウッドテンの周辺で非米活動委員会の召喚を受けた文筆家、アルヴァ・ベッシー、ベルナルド・ブレヒト、ダシール・ハメット、リリアン・ヘルマン、アーサー・ミラーなどの顛末に充てている。
アルヴァ・ベッシーは映画脚本家だったが、スペイン戦争に義勇軍として参加したという理由だけで召喚され、議会侮辱罪で下獄し、以降は職を転々として暮らした。
ベルナルド・ブレヒトは、最後までアメリカ国籍を持たなかったドイツ人劇作家。
ドイツ出国後は各地を転々と亡命しており、アメリカ亡命後は同じくドイツ亡命組のフリッツ・ラングやウィリアム・デイターレの支援の下にハリウッドに脚本家として活動しようとしていた。
ブレヒトは文化的にも芸術的にもアメリカおよびハリウッドに馴染もうとはしなかった。
非米活動委員会の証言では委員の質問を巧みにはぐらかした。
委員たちの敵う相手ではなかった。
ブレヒトは議会侮辱罪で上程されることもなく、旧東ドイツに向けて出国した。
著者は、戦後すぐの1945年に米軍によって日比谷に開設されたアメリカ文化センターに送られてきた新聞・雑誌・書籍により、マッカーシズムに接し、以降研究をつづけた。
本著では、アメリカ議会の議事録と残されている録音、画像を照合し、証言の再現を行うなどして、ハリウッドに関するマッカーシズムについて著している。
リアルな証言の再現などは臨場感をもって、当時の進歩的文化人たちの矜持に接することができる。
ダシール・ハメットやアーサー・ミラーたちハリウッド外の文化人たちの気骨に触れられたことも、読者にとっての有益だった。
エリア・カザンやリリアン・ヘルマンなどに対する決して高くはない「評価」に触れられたことも。
一点不満を申せば、晩年は不遇だったダシール・ハメットの葬儀に女優のパトリシア・ニール画参列した、など、映画関連では詳細な情報に触れ得る本著ではあるが、エリア・カザンの1962年作品「訪問者」がイングリッド・バークマン主演とあった(P249)のは事実と違う記述であり残念だった。
カザン、バーグマンとも映画史上のレジェンドであり、基本的事実関係は押さえておいてほしかった。
著者の左翼的史観から、多少のひいき目と固定観念があったきらいはあるが、ハリウッドにおけるマッカーシズムの歴史が整理された労作だった。
東京の、それも三鷹駅で、盛岡さんさ踊りを見る機会がありました。
時どき寄る三鷹駅の立食い蕎麦。
店を出て何気なく見たポスターに北東北フェスの文字が。
よく見ると秋田の竿灯と、盛岡のさんさ踊りを、三鷹と武蔵境の駅でダイジェストでデモンストレーションする催しが開かれるとのこと。
3月のJR東日本の新幹線乗り放題切符発売前の宣伝も兼ねての企画なのでしょうか。
たまたま先月の八戸魚買い付け旅行で、盛岡にも寄ったばかりの山小舎おじさん。
さらにたまたま、盛岡城跡公園内の歴史文化館でさんさ踊りの展示を見たばかりでした。
歴史文化館の展示コーナーには、さんさ踊りの準備から本番までをビデオが上映されており、ミスさんさ踊りに選ばれた娘さんが踊りをマスターするまでの練習の様子も見ることができました。
山小舎おじさんは、毎年8月に開かれるさんさ踊りの本番を見たことはないのですが、初夏に訪れた盛岡の北上川河原で本番に向けて練習する集団を見かけたことがあります。
本番さながらの熱の入った練習風景に、北国の夏の到来を感じたものでした。
さて当日の三鷹駅構内。
いつものように乗客らでごった返しています。
さんさの演武は駅コンコースで行われるとのことですが、心配になります。
大丈夫でしょうか。
駅員に詳しく聞くと、みどりの窓口前に特設会場を設置するとのこと。
14時開演の30分前から会場設営作業を開始するとのことでした。
待ちきれないおじさんは、設営開始時間前にみどりの窓口前に行ってみました。
時間になると駅員たちが、ポールとテープをもって場所を仕切り始めます。
三々五々、観客らしき中高年が集まり始めます。
さんさの演武を聞いて駆けつけた、岩手出身の方々なのでしょうか。
駅員たちが盛岡、秋田の観光パンフレットの入った袋を配りはじめました。
その間にも、「14時から、ミスさんさ踊り、ミス太鼓、ミス横笛の参加による演武が始まる」とのアナウンスが繰り返されます。
観客は狭いコンコースを遮断するように二重、三重に演武舞台を囲み始めています。
さあいよいよミスさんさ踊りがやってきます。
会場が一気に華やぎます。
水色の着物と、青の着物を着たミスさんさ踊りが一人ずつ。
背後に赤い着物と、特徴的な飾りをつけた菅笠姿のミス太鼓が3人と、ミス横笛が1人。
いずれも若い娘さんたちです。
立ち姿、表情はすでに素人のそれではありません。
特にミスさんさ踊りの二人は。
初々しく、つつましやかな表情の娘さんたちですが、さんさのプロとしての自信と覚悟がかんじられます。
司会係の駅員が後で言ったことには、2021年と22年のミスさんさ踊りだったとのことです。
一礼して演武が始まりました。
独特の手の動き、跳ねたり中腰になったりダイナミックな足腰の動き。
歴史文化館のビデオで見たさんさ踊りそのままです。
太鼓のリードに横笛の調子が和して、テンポの速いリズムです。
2曲ほど舞うと、ミスたちは肩で息をしていました。
曲の間にはミス達が自らマイクを持ち、盛岡やさんさ踊りの解説、宣伝を行いました。
ニューヨークタイムス選定の「2023年に行くべき世界の旅行先52か所」に盛岡が選ばれた(なんと第2位!)ことにも、さりげなく触れていました。
20分間の演武が終わりました。
夏のお祭りでダイナミックにはじける、岩手の伝統文化を感じることができました。
美人が踊る姿はいいものだ、と思いながら三鷹の駅を後にしました。
令和5年になった1月、盛岡経由で八戸を目指して1泊旅行をしました。
目的は八戸の八食センターで海産物の仕入れ。
1日目の昼を盛岡で途中下車して過ごすのも目的の一つです。
朝の新幹線で盛岡へ。
降り立った盛岡駅前は予想通りの雪景色。
雪を踏みしめ駅前のロータリーに集まるバスの光景に北国の風情を感じます。
まずは、駅ビルで家族リクエストの、南部せんべい「豆五郎」や、岩手の銘菓「かもめの玉子」を買い込みます。本屋で地元の情報誌もついでに。
盛岡駅の駅ビルが変わらず賑やかだったのはうれしい限りでした。
外へ出て中心街を歩きます。
北上川にかかる開運橋を渡り、大通りと呼ばれるアーケード街へ。
路面は圧雪状態ですが市民はすたすた歩いています。
北海道育ちの山小舎おじさんにとって、雪の残る車道や、歩道は懐かしい光景です。
盛岡城跡公園を過ぎて、もう一つ川を渡るとバスセンターのある中心街・肴町エリアです。
目指す東屋本店で昼食です。
2階ではわんこそばもやっている、老舗のソバ屋です。
ここは丼物も美味しいので少し迷ったのですが、いつまた来れるかわからない盛岡ですので、王道のそばをチョイス。
期待通り、記憶通りの味でとてもおいしかったです。
盛岡では城跡公園内の郷土資料館にも寄ってみました。チャグチャグうまっこや、さんさ踊りの展示、さらには盛岡藩の成立から幕末までの歴史が丁寧に展示されています。
欲を言えば、中世の俘囚長で、前九年の役で現盛岡市の厨川のあたりで滅亡した安部氏など、北東北固有の蝦夷の歴史にも踏み込んでもらいたかったですが。
夕刻迫る盛岡駅に再び凍り始めた圧接を踏みしめ戻ります。
16時ころの新幹線で八戸を目指しました。
盛岡、新八戸間の新幹線はトンネルの連続で景色が見えないのが残念です。
新八戸駅到着後、バスに乗って中心街についたのは、18時ころ。
既に夕方です。
真っ白な雪景色の中心街は街頭に照らされています。
ホテルに投宿後向かったのは居酒屋ばんや。
15年ほども前に一度来ていて、魚のうまさにうなったことがあります。
カウンターとテーブルが3席ほどの店内。
15年前にいた大将の姿はなく、おかみさんがカウンター内で陣取り、ホールにはバイトの女の子を置いた布陣です。
まずはビールを注文。
刺身はヤリイカとしめさばにします。
ついで地酒・陸奥八仙を注文。
バイトのお姉さんが、甘口、甘口、超甘口、辛口のどれにしますか?というので甘口を選択。
ぐい飲みに注いでくれますが、受け皿にこぼさない上品な注ぎ方が、ばんや流でした。
この後はメヌケのカマの煮魚を注文。
隣席の30代の大阪からのサラリーマンに声をかけると話が弾みました。
ネットで調べてこの店へやってきたとのことで、ウニなどの刺身を取り地酒をバンバン飲んでいました。
山小舎おじさんは店を出て雪の中を八戸の飲み屋街を一巡。
そのまま宿へ帰りました。
翌朝はバスで八食センターへ向かいます。
宿で教わったバス乗り場を探しますがうまくたどりつけません。
八食センター行きのバスが止まった停留所を見つけたのでそこで待ちます。
結局、新八戸駅行きのバスが来たのでそれに乗りました。
新八戸駅からも八食センター行きのバスはでているのです。
生鮮鮮魚市場に隣接して建つのが八食センター。
魚を中心にした小売市場です。
8年ほど前に家族と北東北旅行をした際にここに寄り、ホッケやサバの干物などを買って送り、食べたところったところ、家族に大好評でした。
今回の旅行の目的もここで鮮魚や干物を仕入れることだったのです。
8年ぶりの八食センター。
開店早々の時間だったとはいえ、人の少なさに驚きます。
前回来た時は夏の観光シーズンだったとはいえ、昼食を摂ることが困難なほど御客であふれていましたから。
しかも目指す、ヒラメ、サバなどの鮮魚が売っていません。
店の大将やおかみさんに聞けば、天候が悪く漁がない、とのこと。
それにしても全体の品ぞろえが、鮮魚を丸で売るというより、干物、冷凍もの、切身うり、が中心となっており、観光客向けの商品構成となっているような気がしました。
魚や全体に元気が感じられません。
店の構成も、魚屋と乾物屋が中心ではありますが、食堂、カフェ、酒屋、土産物屋などが増えていて、観光客や休日の地元家族連れがターゲットの場所になっていることがわかります。
目指す鮮魚はありませんでしたが、干物やホッキ、ホタテ、若干の刺身類を買って送りました。
お弁当のホッキ寿司を買ってバスで新八戸駅へ。
新幹線で東京に帰りました。
渋谷シネマヴェーラの「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」特集で、マックス・オフュルス監督作品6本が上映された。
イタリア時代の作品が1本、アメリカ時代のものが2本、フランス時代が3本の構成。
未見の4本の上映に駆け付けました。
「永遠のガビー」 1934年 マックス・オフュルス監督 イタリア
オーストリア生まれのユダヤ人で、戦前のドイツで活躍していたオフュルスがドイツ脱出後、イタリアで撮った唯一の作品。
ヒロインはイザ・ミランダ、相手役はメモ・ベナッシ。
ストーリーはヒロインの出世物語なのだが、単なるスターものでもなければメロドラマでもない。
開巻から素早いカッテイングと縦横無尽のカメラワークで己の世界に観客を引きずり込む手際の良さは、当代一流のオフュルス節全開。
「この映画は原作者のものでも、製作者のものでも、出演者のものでもない。俺の作品だ」とのオフュルスの主張が鮮やかだ。
流れるようで、鋭い映画手法に、山小舎おじさんはあっという間もなく画面に引きずり込まれる。
素早いカットつなぎ、クレーンで縦横無尽に動き回るカメラ。
古さを感じない映画手法が連続する。
例えが適切かどうかわからぬが、リチャード・レスター監督が1960年代後半に、ビートルズ主演のスター映画を、斬新なカッテイングやコマ落とし撮影などを駆使して思いっきり「自分の映画」としたことを思い出した。
独特なプロット、手法に晩年までこだわり続けたオフュルスワールドの原型が、この作品ですでに見られた。
「輪舞」 1950年 マックス・オフュルス監督 フランス
オフュルス監督は流麗なカメラワーク、〈既視感〉に溢れた忘れがたい背景設定などを駆使して、一瞬にして観客を己の世界に引きずり込むが、さらに音楽にも重要な役割を担わせているのがこの作品でわかる。
狂言回しの俳優が、一話ごとにシュチュエーションにふさわしいコスチュームで登場し案内する、愛と恋の小話が6話ほど。
タイトルバックに流れる主題歌を、時には狂言回しが口ずさみながら、時には場面のバックミュージックとしながら物語がつづられる。
音楽が、懐かしさに彩られた寓話的映画の世界の演出効果を高める。
映画は、シモーヌ・シニョレが演じる街の女と兵隊の物語で始まるが、その兵隊は次のシチュエーションでシモーヌ・シモンが演じる小間使いを追いかけまわし・・・と、役者を重複させながら別の話へと進んでゆく。
典型的なオムニバス映画にひと手間加え、一話ごとにストーリーが途切れない工夫がされている。
各小話に登場する俳優もいい。
ダニエル・ダリューのよろめき夫人はいかにも適役だし、若々しいシモーヌ・シモンの小悪魔ぶりも、ベテラン女優役のイザ・ミランダ(「永遠のガビー」のヒロイン)の余裕ある美しさも忘れがたい。
遊園地と回転木馬を用いた場面は、「忘れじの面影」(1948年)においてもそうだったように、懐かしさに彩られた、映画的記憶に満ち満ちている。
忘れがたき、オフュルスの映画的世界である。
「快楽」 1953年 マックス・オフュルス監督 フランス
モーパッサンの短編3話からなるオムニバス。
今回の特集で上映されたフランス時代の3作品では最も製作費がかかっているものと思われる。
第一話。
若き日の思い出を忘れられず、仮面をつけて若作りし、舞踏会にまぎれこむ老人の話。
オフュルスのカメラは、話の本題に入るまでの、舞踏会の館に次ぎ次ぎに乗り付ける馬車とドレスアップした客、迎える召使など、豪華なセットと、多数の俳優たちの動きを延々と描写する。
また、踊りまわる人々を館のガラス越しに移動撮影で追い、人々の間をクレーン撮影で動き回る。
見ている我々は、舞踏会の賑わいと猥雑な熱気の渦の中で翻弄される。
豪華なセットと馬車、群集に近い大人数を使ったぜいたく極まりない撮影に、思わず「そんなに金賭けて大丈夫か?」と、70年後の観客である我々も心配してしまう。
これでもかと繰り広げられるオフュルスワールドには圧倒される。
第二話。
ある港町の娼館のマダムとマドモアゼル(娼婦)一行が、マダムの実家の田舎へ、姪の神事に参加するために旅行する。
マダムにジャン・グレミヨン作品のマドンナ、マドレーヌ・ルノー。
マドモアゼルの一人にダニエル・ダリュー。
田舎で一行を迎えるマダムの兄にジャン・ギャバン。
全体を通すのびやかでのんびりとしたムード。
ダニエル・ダリューは草原で花を摘みながら主題歌を口ずさみ、マダムは終始口元に笑みを浮かべ、田舎のスケベ紳士ジャン・ギャバンは、いつもの深刻ぶった顔も忘れ、マドモアゼルの姿にひたすら鼻の下を伸ばす。
ルノワール映画のような開放感。
あまりにいい感じだったので、原作「テリエ館」を読んでみた。
原作ではマダムとマドモアゼルの容姿、性格の描写がかなり辛辣だが、映画ではダニエル・ダリューをはじめキレイどころが演じている。
リアリズム映画ではないのでこれでいい。
鉄道で田舎へ向かう場面などでほぼ原作通りのセリフが使われてもいる。
ジャン・ギャバンふんする田舎紳士がマドモアゼルに執心して追いかけまわすところも映画ではソフトに描かれている。
第三話。
ムードががらりと変わる。
こわばった表情の登場人物が、閉ざされたアトリエ内で、あるいは寒々しい大西洋の海岸で交錯する様を表現主義的な手法も用いて描いている。
ダニエル・ジェラン扮する新進の芸術家が、シモーヌ・シモンに恋をし、モデルにして売り出す。
売り出し後、心変わりして女を捨てようとする。
女はマンションの窓を突き破って身投げをする。
何年か後、海岸を散歩する車椅子の女と、付き添う初老の男の姿が見られる。
救いようのない男と女の関係が、一瞬ののちに永遠の救いにつながる。
女ごころを一皮めくり、一見その救いようのなさの中に救いを見出す、オフュルス永遠のテーマに沿った挿話だった。
「たそがれの女心」 1953年 マックス・オフュルス監督 フランス
オフュルス永遠のテーマを徹底的に掘り下げ、その極北に至った作品。
女ごころの探求もいいが、その深さに翻弄されているうちに、どうにもならなくなる寸前までいった作品。
ダニエル・ダリューのよろめき夫人がダリュー自身の実像に見えるほどのビター感。
その浅知恵、いい加減さ、欲深さ、好色、大胆さ、自己中心なヒロイン像が。
将軍(シャルル・ボワイエ)の何不自由ない夫人(ダリュー)が、イタリアの外交官(ヴィットリオ・デ・シーカ)と恋に落ちる。
ダイヤを小道具にした出会うまでの筋回しが、しゃれているというか、闇が深いというか。
外交官が夫人を追いかけて恋がスタートするが、そこには何の必然性も合理性もない。
もっとも、登場人物の合理性には何の関心もないのがオフルス映画なのだが。
闇を持たず、裏のない人物など一人もいないだろう、ヨーロッパの上流社会がすでに救いがない。
その中で、ひたすら情人を求めて心ここにあらずの外交官と夫人。
ダニエル・ダリューとデ・シーカが、再会の念願かなってのダンスシーン。
クレーンショットでカメラは二人の周りを回り続ける・・・ように見える。
が、よく見ると、回っているのは踊る二人で、カメラはクレーンでついて行ってる。
二人の周りをカメラが回っているように見える効果が、目くるめく。
二人の喜びと、不安定さが象徴される。
リアリズムではなく、一見豪華な画面作りの中で浮かび上がる、女ごころ。
上流社会の闇と腐敗。
オフュルスの真骨頂。
「快楽」の第一話のような大掛かりな舞踏会のシーンはこの作品では見られず、必要以上のカメラワークのテクニックも少ない。
予算の関係もあるのだろうが、結果としてヒロインの女ごころによりフォーカスする結果となった。
終盤になるにつれて、イタリアの伊達男デ・シーカが哀れな浮気男に、将軍ボワイエは己の闇に対面せず逃げおおせたズルイ男に、見えてくる。
とすれば「たそがれの女心」ダニエル・ダリューは己に正直なだけのピュアな女、なのか?
オフュルスがハリウッドで撮った「忘れじの面影」(1948年)が、イギリス人女優ジョーン・フォンテイーンをフィーチャーした、不可解で非合理的だが、まっすぐな女ごころを描いた作品だとしたら、本作はフランス人女優ダニエル・ダリューによる、裏も表もあり、闇も深く、非合理的極まりない、最後の最後まで本心が見えない、女ごころを描いたものなのかもしれない。
(余談)
ダニエル・ダリューは1917年、ボルドー生まれのフランス人女優。
主な出演作品は「うたかたの恋」(1936年)、「赤と黒」(1954年)、「チャタレイ夫人の恋人」(1955年)など。ジャック・ドミー監督のミュージカル「ロシュフォールの恋人たち」(1967年)にも出演している。