山本富士子と「夜の河」

神保町シアターの特集「恋する映画」でこの作品が上映された。
観たかった1本だった。

1956年の大映作品。
製作:永田雅一、監督:吉村公三郎、主演:山本富士子、上原兼、撮影:宮川一夫、照明:岡本健一。
キネマ旬報ベストテン2位。

当時の映画界と大映

当時映画産業は炭鉱などと並ぶ花形産業で、映画人口の最大期を2年後に控える絶頂期だった。

同年のベストテン作品を見ても、第1位の「真昼の暗黒」(今井正監督、橋本忍脚本)をはじめ、4位「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)、5位「ビルマの竪琴」(市川崑監督)、6位「早春」(小津安二郎監督)、8位「流れる」(成瀬己喜男監督)と日本映画の歴史に残る名監督たちの作品が並ぶ。

松竹、東宝、大映、東映、日活、新東宝の6社が専属のスタッフ、俳優をもって製作を行い、独自の配給網を持つ(新東宝を除く)という2度とは来ない夢のような時代だった。

その中で大映は社長永田雅一のワンマン体制が敷かれていたが、専務として新劇の劇作家だった川口松太郎と監督の溝口健二が永田を補佐し、俳優では長谷川一夫を筆頭に、京マチ子などがいた。
京都と東京調布にそれぞれ撮影所を有していた。
業界的には松竹、東宝に次ぐ3番手のイメージ。

社長の永田の資質もあるのだろうが、政治家とのつながりやプロ野球球団保有など目立つ活動を志向していたが、松竹の歌舞伎、東宝の阪急電鉄のような基盤とする背景に乏しく、上映館数も少ないなど、経済的には脆弱だった。

また、永田は当初、新生日活によるスタッフ引き抜き防止を主目的とした、いわゆる5社協定を主導したが、長期的には人材の交流の疎外という点では映画界全体の利益に反した。

一方で、東宝争議後のゴタゴタに嫌気がさしていた黒澤明を招き「羅生門」を製作するなどもしている。
日仏合作の「二十四時間の情事」(アラン・レネ監督)を作ったり、溝口健二監督に好きなように撮らせ、「近松物語」「雨月物語」「山椒大夫」などの名作を世に送り出したのも永田雅一だった。

山本富士子と大映

第一回ミス日本の栄誉を満場一致で受賞したという山本富士子が大映に入社したのは1953年。
当時絶頂の映画界は例えば宝塚スターの再就職先としても有力な先だった(乙羽信子、淡島千景、新珠三千代、有馬稲子など)。

しばらくはいわゆるプログラムピクチャーのヒロイン役ばかりだった山本が、有力監督の文芸作品のヒロインに抜擢されてブレイクしたのが「夜の河」だといわれる。

山本富士子という人、外見の美貌と物腰の柔らかさに反して自立心と自尊心に満ちていた。

当初の大映との契約は3年後にフリーとなる条件だったというが、大映は反故にし、その後も専属契約を押し付けた。
契約更新のたびにもめたらしい。

念願の第1回他社出演は松竹の「彼岸花」(1958年)。
小津安二郎初のカラー作品の準主役に抜擢された山本は、和服姿のあでやかな所作と滑らかな関西弁で画面をさらった。

大映プログラムピクチャーとして消費され、残されていなかった山本富士子の姿が映画の歴史に鮮明に刻印された瞬間だった。
後年の映画ファンにとっては隠されていた日本映画の宝がそこに燦然と輝いているのを発見したような気持だった。

他社出演では「墨東奇譚」(1960年)、「如何なる星の下で」(1962年)がある。
どちらも実力派・豊田四郎の監督作品。
女優に対しては意地悪なほど辛辣な演出を行いかねない豊田監督をして、気高く孤高の女性像を描かしめた。

山本富士子は永田雅一と他社出演をめぐって衝突し、大映を退社。
永田は怒って映画界からの永久追放を画策した。

1983年、「細雪」の映画化に際し、監督の市川崑が長女役に山本を指名し交渉したが断られたという。
山本富士子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の「細雪」だったら・・・それはさぞあでやかだったことだろう。
完成した作品を見た山本が、出演すればよかったと思ったとのこと。
映画ファンにとっても逃した魚は大きかった。

山本富士子と「夜の河」

山本富士子が大映入社3年目。
一流スタッフを集めたカラー作品である。
共演にも東宝の上原兼をもってきている。

この作品についてはまず色彩設計の見事さがいわれる。
舞台は京都のろうけつ染めの工場。
そこの独身の跡取り娘役が山本で、大阪大学の教授の上原と恋をして別れるまでを描く。

色彩設計でいえば、赤や緑の染め物が並ぶ工場の風景が思い出される。
発色もいい。
観たのはデジタル版だが、オリジナルのカラーが再現されているのだとしたらば、カラー撮影は成功している。

カメラは宮川一夫。
溝口作品でのパンフォーカスやクレーンを使ったワンショットワンシークエンスの撮影に力を発揮するカメラマン。

「雨月物語」では、戦乱の世、我が家に戻った森雅之が妻・田中絹代の歓待を受けるが、我が家はすでに廃墟だったというシークエンスを、カメラを360度パンする間の場面、時間転換で表現。

「祇園囃子」では路地を歩く若尾文子が、20メートルほど先の通りの舞妓たちを見て、けいこに通えない身を恥じて姿を隠す場面を、歩く若尾と20メートル先の舞妓たちの双方にピントを当てる鮮やかなパンフォーカスによるワンカットで表現。

照明の岡本健一。
熊井啓が胃潰瘍で血を吐きながら撮った「忍ぶ川」(1972年)。
大映は倒産し、撮影所システムは崩壊する中で、熊井が特に照明担当としてスタッフに招いた人材として記憶に残る。

「夜の河」では、夏の夜、歩く山本と上原が雨に打たれ軒下に休むあたりから、お茶屋内のシーンでのライテイング。
徹底したバックライトで人物の表情を消し、ただならぬ心理状況を表す。
長時間にわたり、影や暗さを微妙にライテイングするには相当の経験と自信がいるはず。

されど「夜の河」では必要以上の技法的主張はなかった。
撮影はカラーの再現と主人公の心情の移ろいを写し取ることに傾注し、手際よくまとめていた。
すべての技術的効果は吉村監督の演出プランの範疇に収まっていた。

心惹かれる相手とのただ一度の逢瀬の後、「子供ができたら、あんさんに似て・・・」と主人公が漏らす。
「子供?」と我に返り逡巡する妻子ある男。
そのわずかな反応に醒め「もしできてもうちの子として育てます」と端然と述べる主人公。

あふれる情念と自立した女性の自尊心を合わせて表現した、主人公と山本富士子のキャラクターが被って見える山場のシーンであった。

「夜の河」の上原兼と山本富士子

逢瀬の場は通りかかったお茶屋。
そこのおかみは主人公と女学校以来の親友で、軒先の二人を招き入れる。
男を紹介しようとする主人公には「ワテは戸籍係であらへん」と客先のプライバシーには踏み込まない。

演じたのは阿井美千子という女優。
てきぱきとした京都弁といい、動きのいい物腰といい、これがプロの京都女性というものなのか?と感心する傑出した演技だった。

「月夜の阿呆烏」(1956年)の阿井美千子、右は堺俊二

SL! SL! SL!

県内に保存されているSL(蒸気機関車)の話です。

山小舎生活5年間。
長野県内の各所を訪れるにつれ、思いがけず、数々の保存されているSLと出くわしました。
一時のSLブームが偲ばれます。

駅前に大切に保存されているSL、人気のない公園の片隅に野ざらしでたたずんでいるSL、いろいろありました。

子供時代は、住んでいた旭川から例えば近隣の神居古潭(石狩川に白い吊り橋がかかる、旭川と深川の間の景勝地)まで行こうと思えば、当時の普通列車はSLでした。

札幌・函館間を走る急行ニセコはC62という高速型SLが二重連結で走っていました。

道内のちょっとした駅には、SL用の給水タワーが立っていました。
乗客はトンネルに入ると、煙を防ぐため窓を閉めました。
SLがけん引する客車の座席はすべて木製で、背もたれが直角だったような気がします。
SLには親近感を感じる山小舎おじさんです。

茅野駅東口のC12

まずは茅野駅東口のロータリーに大切に保存されているC12です。

戦前に茅野郊外の北山にあったという諏訪鉄山から茅野駅まで、鉄鉱石を運んだとのこと。
北山地区は茅野市内から白樺湖へ向かう道筋にありますが、今は鉱山も線路跡も痕跡を探すのが困難なくらい様変わりしています。

茅野駅前のC12

SLの保存状態はトップクラスです。
普段は訪れる人も少ないですが(駅に降り立つ人がそもそも少ない)、駅東口に大きく掲げられた「縄文のビーナス」の垂れ幕と合わせて目につく場所に置かれています。
それまでの苦労に十分報いるであろう待遇を受けているSLです。

茅野駅東口階段よりSLを見る

諏訪湖畔のD51

諏訪湖畔のメイン通り、大きな旅館や土産物屋が並び、花火大会の際はメイン会場となる場所にD51が保存されています。

戦後に上諏訪機関区に配属となり、中央本線や篠ノ井線で活躍した車両とのことです。
篠ノ井線を走ったということは、姨捨駅をスイッチバックで越えたということです。
頑張りました。

諏訪湖畔のD51

D51はSLの中で一番多く製造された車体です。
山小舎おじさんが乗ったSL列車のほとんどがD51が引っ張る列車だったことでしょう。

せっかくだから運転室に登ってみる
これがSLの運転室か・・・
運転席からの視界

屋外ですが屋根付きで展示されており、保存状態もまずまず良好です。
何より運転室に入れるのがいい。
安全面のこともあり、屋外のこういった展示車両で「乗車」できるケースはなかなかないものと思います。
展示場所が諏訪湖畔というロケーションもいいですね。

諏訪湖畔のロケーション
諏訪湖方面を見る

南牧村のC58

県外の人には「野辺山」といった方が通りがいいのが南牧村。
小海線野辺山駅を中心に広がる高原野菜の産地です。
かつてペンションブームの際に若者でごった返した清里(山梨県)の隣です。
近頃は高原野菜農家が労働力として頼りにする外国人研修生の関連で有名かもしれません。

南牧村の56

村の中心部、国道141号線脇の南牧村資料館の隣の公園内にC56が展示されています。
北海道から現佐久市中込の機関区に移り、小海線で貨客車両をけん引した活躍した車体とのことです。

小淵沢・清里間は急こう配、野辺山付近には鉄道最高標高地点があります。
冬期間の寒さもあります。
過酷な自然環境との戦いを乗り切った車体なのでしょう。

屋根付きで保存状態はすこぶる良好です。
のちにSLホテルとしても利用されたとのこと。
現在は、八ヶ岳をバックにしたロケーションも現役時代と変わらずに退役した車体を静かに休めています。

はるかに八ヶ岳を望むロケーション

飯山と飯田のD51

県北の飯山と県南の飯田にもSLが保存されています。

飯山では駅近くの児童公園の脇に野ざらしでポツンと置かれていました。
周りが草ぼうぼうです。
車体も傷み始めています。
このまま廃棄されてしまわないよう願うばかりです。

飯山の人気のない公園にたたずむSL
放置され朽ちてゆくのか孤高の姿

飯田では繁華街を過ぎたあたりの公民館の脇の空き地にありました。
野ざらしです。

「火の用心」の標語が飾られている程度には手をかけられてはいるようです。
それでも存在感を失わないのはさすがSLです。

飯田の公園内のD51

ブームが終わったいま、各地のSLをどう保存するのか。
動かすのは無理にしてもせめて傷まないように保存してほしい。
それが無理なら、部品別に保管してほかの保存車両の修繕などに使うとか。

全国の保存SLのデータベースのようなものは・・・ないのだろうな。

ベランダ塗装でDIY! 床編

ベランダの床を防水・防腐塗装しました。

デッキブラシを使って水洗いし、乾かしたベランダの床。
日頃通ることが多い箇所は塗装が剥がれたり、床板がへこみ気味になっています。
洗浄すると、床板の傷みなども浮き上がります。

水洗い完了後のベランダ。よく見ると経年劣化している

塗料はナフタデコール。
外壁、デッキなどの塗装は、ドイツ製のキシラテコールという塗料が使われることが多く、例えば役場の発注工事などでは、使用塗料として指定されることが多いそうです。
しみ込み型の油性塗料で高性能ですが高いのが難点。
一斗缶(16リットル)で2万円以上します。

ナフタデコールは山小舎おじさんのバイト仲間から教えてもらったもので、現在、通販でしか手に入らないようですが「キシラテコール同様性能品」をうたう日本製品です。
くだんのバイト仲間が使ってみて「問題ない」というので山小舎おじさんも取り寄せていたものです。

取り寄せたナフタデコール。一斗缶で1万4千円ほど。

当時は山小舎全体を焦げ茶色(材木の自然経過による古民家風の色)で塗ろうかと思っていたので、焦げ茶色のナフタデコールを注文しました。

実際、台所側の外壁を焦げ茶色で塗装していました。
ところが山小舎の外壁は洗えば洗うほど、ピカピカした材質が現れるのです。
そこで、台所側以外の外壁は本来の材質に寄せた色(ビニーと呼ばれる黄土色)に変更し、塗料を再発注しました。入手済みの焦げ茶色の缶はベランダ床や、柵、柱の上塗りに使うことにしました。

ということである晴れた日に塗装開始です。

ナフタデコールは適度に粘りがあり、伸びもよく、使い勝手が良い塗料でした。

ベランダ床は、20年前とはいえ塗装済みの場所ですので、さらさらとしみ込むだけの塗料でははじかれるだけとなりかねませんが、適度な粘り気により、はじかれることもありませんでした。
むしろたっぷりと色が乗ってしまって、乾くのが遅くなりはしないかと心配するほどでした。

塗り始める。塗料のノリとノビは良い
ベランダ半分ほどの塗装を完了。光っている部分は塗り方が下手だから・・・

重ね塗りするかどうかは乾いた後に様子を見て決めますが、オリジナルの塗装が剥がれた部分以外は必要なさそうです。
手元に余ったと料はベランダの柵や柱の重ね塗りに使いました。

ベランダ柵や柱はケミソールを何度も塗っていますがこの通り。今後、ナフタデコールで重ね塗りします

ベランダ側の外壁を洗う

山小舎を塗りなおしています。
雨に当たるベランダ部分、外壁など。
材木にしみ込んで防水、防腐に役立つ油性塗料を塗っています。

今回はベランダ側の外壁の塗装準備として、外壁の洗浄を行いました。

まず、ベランダに置いてあるものをどけます。
全部はどけきれないので、まず面積にして半分程度の片付けを行いました。

空いた部分の外壁とベランダ床を洗浄します。

片づけ終わった該当部分。新築以来の埃が付着しています

ホースを伸ばします。
どうにか届きました。

ホースから水を出して該当部分の外壁と床に水をかけます。
いったん水を止めてたわしでこすります。

雨水などが直接はかからない外壁ですが、築何十年の汚れはありました。
たわしでこすると埃などの汚れが浮いてきます。

外壁に水をかけます
たわしでこすり汚れを浮かします

汚れが浮いたところで、ホースの水で洗い流します。

新築時のような材質が浮かび上がりました。
くすんだ茶色ではなく、キシラテコール塗料の色柄でいえば「ビニー」と呼ばれる切りたての材木のような色です。

浮いた汚れを洗い流します。
ついでに床もホースで水洗いします。

2,3日乾かしてから塗装します。新築時の木材の色が再現できるでしょうか、楽しみです。

床はホースで水だけかけたのですが、翌日見ると汚れが縞になって残っていました。
翌日デッキブラシを使ってやり直しました。
ベランダ部分は、柵に合わせて床も焦げ茶色に塗ることにします。

玄関脇はと二度目の塗装をしました
台所側の外壁です。防水性の高いケミソールを塗ったので焦げ茶色になってしまいました。高いところもほぼ塗り終わりました。

また丸太が来た

業者さんが丸太を持ってきてくれました。
今年は、カラマツを中心に少々のナラなどを2,3回持ってきてくれました。

今年の丸太はもう終わりかな?と思っていた10月初旬。
畑から戻ってみると、シラカバの丸太が山のように放り出されていました。

久しぶりのシラカバです。
シラカバはカラマツよりは割りやすく、ナラなどの広葉樹よりは乾きやすいので山小舎おじさん的には大歓迎です。

森林業者的には、シラカバはカラマツと並んで利用価値のない木材のようです。
家具や建築材、土木用の丸太として一部利用されているカラマツの方が価値があるのかもしれません。
いずれにしても、捨てる場所に困り、廃棄するには金がかかる丸太だからこそ山小舎にやって来るのではありますが。

ある日山小舎に帰ってみるとシラカバがどっさり

とりあえず、道路のはみ出さんばかりの部分を切り落とします。
といっても丸太の数が多いので、1時間(チェーンソーのオイルと燃料を満タンにして2回分)かかってこれくらいの仕事量です。

玉切り仕事の効率にはチェーンソーの刃の切れ味がものをいいます。
切れなくなるとほんとに仕事が進みませんので、事前の棒やすりによる刃の研ぎや、チェーンのテンションの調整が大切です。
全部を玉切りし終わるにはどれくらい時間がかかるか?
冬までに終わるか?

一時間ほど、道路際に突き出た丸太を玉切り

さて、この冬の薪は十分にあるのですが、乾かすために積んである場所から利用しやすい場所への移動をしなければなりません。
新しく割った薪を積む場所を空けなければなりません。
また、今年はベランダやベランダ側の外壁の塗装を考えています。

というわけで、
①ベランダの塗装予定部分を片付けて塗装前の洗浄、塗装をの準備をする
②ベランダの片付けものを一時保管する場所を確保する
③乾いた薪を手元に移動するとともに、新しく割った薪の積み込み場所を確保する、
の3命題を関連して履行することになりました。

そのための片付けをスタートします。

ベランダのものを軒下に移動します。
そのために軒下の薪を撤去します。

軒下の薪を撤去。空いた場所にベランダのものを移動

焚き付けなどの置き場に使っていた木製のケースですが、取り去ってみるとベランダの床は埃まみれです。
このをきれいに洗浄して、防水・防腐塗装を施すことにします。

一度に全部のベランダを洗浄・塗装するのは難しいので、2,3回に分けて行うことにします。
同時に外壁を洗浄・塗装します。
この部分の塗装が終わったら、次の部分のものをどけて塗装しようと思います。

片付け後のベランダと外壁

ベランダには薪、焚き付けのほか、コメ袋に入ったもみ殻、ぬか、燻炭など。
刈払機、オーガなどの機械類。
塗料類。
収穫した芋類、などが置いてあります。

雨がかからず、日陰で、活動ヤードに近いこの場所は納屋代わりに使うのに便利な場所なのです。
が、とりちらっていますし、埃、落ち葉などが溜まりやすくなっています。
今後は、米袋類はベランダ下に置くなどし、ベランダの整頓と保全に努めたいと思います。

整理整頓を待つベランダ

シラカバの丸太がやってきたことに関連して、いろんなことが起こる山小舎でした。

グロリア・スワンソンと「舞姫ザザ」

ここのところ「失われた週末」「サンセット大通り」とビリー・ワイルダー監督作品づいていた山小舎おじさん、「サンセット大通り」でグロリア・スワンソンを「発見」し、大いに気になっていたところ、渋谷シネマヴェーラのサイレント映画特集で、スワンソン主演の作品をやっていたので、自宅帰還の折に観た。

シネマヴェーラのパンフレットより。ピンボケですみません

「サンセット大通り」(1950年)では、自身がモチーフともいわれる、サイレント時代の大女優を演じた当時50歳のスワンソン。
作品は監督ワイルダーの屈折した皮肉を絡めた、ある意味「ハリウッドの暴露もの」であったが、そこで自分自身をカリカチュアライズした人物を演じながらも、決して役柄に埋没せず、むしろ存在感を発揮したのがスワンソンだった。

50歳にしてかつての美貌と輝きを十分に残しつつ、軽やかな動きもこなし、華美な装飾を着こなす姿は、おそらくはワイルダーの演出意図を越えたものとなっていた。
そこにあったのは「没落した妄執の老女優」ではなく「かつての栄華の残り香をしっかり残したベテランスターの余裕と貫禄の姿」だった。
スワンソン全盛期のサイレント映画を観たいと思った。

「舞姫ザザ」は1923年の作品。
タイトルにはアドルフ・ズーカーの名前がクレジットされている。
のちのパラマウント映画の配給である。
パラマウントはスワンソンのキャリアの舞台となる。
制作はアラン・ドワン プロダクション。

パリの場末の舞台のスターだったザザ(スワンソン)が身分違いの外交官と道ならぬ恋に落ちるストーリー。
チャームポイントのあごのほくろに星のマークを付け、過剰な舞台衣装をまとったスワンソンが、鼻持ちならない売れっ子女優として、ライバルとキャットファイトし、止める男を蹴っ飛ばし、足を踏ん張り、万歳し、顎を上げてミエを切る!
23歳の颯爽としたスワンソンがスクリーンを駆け巡る!

サービス精神旺盛で、アクションシーンをいとわず、プライド高く、派手好きだが、お茶目でかわいげのあるキャラクターがすでにそこにはあった。

クジャクの羽飾りの帽子を被った場面では「サンセット大通り」でセシル・B・デミルに会いにパラマウントのスタジオを訪問するシーンを思い出した。
「舞姫ザザ」ではたくさんの羽で帽子を飾っていたが、「サンセット大通り」では帽子の羽は1本だった。
クジャクの羽の数が、スワンソンに関しては「ザザ」の時代がオリジナルで、「サンセット」はそのパロデイであることを物語る。

ストリーは波乱万丈、金のかかったセット。

サイレント映画といえばグリフィスの「国民の創生」やヴァレンチノの「血と砂」、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、くらいしか見たことはなかった。
そこにあったのは途方もなく金と人数をかけた場面だったり、スターのとびぬけた存在感だった。

「舞姫ザザ」をみて、サイレント時代すでに映画は完成され、スターの個人的な才能のみに寄らない総合的な文化となっていることを確認できた。

サイレント時代のスワンソン
宝塚風とでもいうのでしょうか、ヴァンプ風を意識した孤高のメイクのスワンソン
デミル好みというのでしょうか、サロメ風メイクのスワンソン

淀川長治さん日曜洋画劇場25周年記念として出版した「MyBest37」という本があり、スワンソンについても1章が割かれている。

1952年にアカデミー協会の招きで渡米した淀長さんが、協会長のチャールズ・ブランケットと立ち話をした際、スワンソンの話となった。
ブランケットは当時ワイルダーと組んでおり。「サンセット大通り」の製作者でもあった。

「スワンソンの生き字引」を自任する淀長さんが話を盛り上げると、ブランケットが「スワンソンと会いたいか」と聞いた。
「会えたら死んでもいい」と淀長さんが答え、その場でブランケットはスワンソンに電話した。

後日、ハリウッドの豪邸で4時間会見し、ニューヨークのホテルでも会った。
豪邸での会見で財布を忘れてきた淀長さんにスワンソンから電話がかかり、ポーターがホテルまで届けてきたそうだ。
淀長さんを生涯魅了した女優の一人がグロリア・スワンソンだった。

トーキー世代のスワンソンファンにとってはこの写真になってしまう。「サンセット大通り」より

リンゴの季節

信州の果物の1年は、初夏のアンズに始まり、夏の桃(ネクタリン、ワッサーを含む)、プルーンと来て、秋のイチヂク、ブドウ、柿、リンゴで終わります。
リンゴのわせの品種は9月から出回り、11月のフジまで続きます。

今日は南箕輪村というところの直売所で仕入れてあった紅玉を加工してみました。
5玉入って400円でした。
例年ならもうちょっと安かったような・・・。

原料の紅玉を取り出します
四つ割りにして芯をとります。ここで再び水洗い
皮付きのまま鍋に移して砂糖をかけます。ザラメを加えました
ストーブに乗せて煮ます。焦げ付き防止に水を少し入れておきます。同時に瓶の煮沸もします
煮えてきました。好みでレモンを加えても
煮えたら舞台をガスレンジのある台所へ移します。煮沸した瓶と蓋を布巾に乗せておきます
瓶にジャムを入れ、蓋をした後減圧してから蓋をきつく締めます

又々・諏訪の神様が気になるの 守屋山

諏訪大社上社の奥宮にしてご神体、依り代ともいわれる守屋山に上ってきました。

この絵地図を参考に登ってきました

雨上りの翌日。
茅野へ下りて杖突街道を上がります。
杖突峠の展望台を過ぎ、伊那市に入ってすぐ、守屋山への登山口があります。

この日、登山口の駐車場にダンプが集まって道路工事の準備をしていました。
軽トラで乗り付けた山小舎おじさんがおろおろしていると、あとから来た電設会社の車が山道を上り始めました。
登山道の途中のキャンプ場までは車道があることを聞いていた山小舎おじさんは、電設会社の車の後をついてゆくことにしました。

杖突峠を伊那側に越えたあたりに登山口があります
奥の駐車場には登山客の車が止まっています。平日ながら人気の山であることがわかります

雨水に掘られた後も生々しい砂利道を時速10キロくらいで登ってゆくと、メガソーラーというのでしょうか、斜面一面にソーラーパネルが張り巡らされ、送電施設が併設された場所で、電設会社の車は止まりました。
登山道は続いています。

登山道を軽トラで登ってゆくと・・・・
途中にメガソーラー基地がありました

山すその気配も濃厚になった頃、キャンプ場に着きました。
車が通行できる林道はここまで。

軽トラを止めてキャンプ場経由、登山道へ入ってゆきます。
駐車場から歩いてきたという中高年の男女3人組が小休止していました。

キャンプ場から徒歩でスタートです
手作り感あふれるキャンプ場を象徴する看板です

ここから約1時間。
雨に濡れた粘土質の道を上ってゆきました。

いつも思うのですが長野県の山道(登山道、車道を問はず)は、少々の斜度であれば直線的に上ってゆく傾向があるのです。
蓼科山もそうでした。
山を巻いてゆっくり上るよりは、脚力を頼みに駆け上ることを信条としているのかもしれません。
さすが山に囲まれた歴史を持つ信州の土地柄です。

湿っている道は、粘土の地面より木の根に注意します。
湿った木の根を踏ん張るとツルっと滑ってしまうのです。

登山ルートは急な場所もありますが、案内板が整備され間違えようはありません

肌寒い気温でしたが汗だくになります。
久しぶりの山歩きは全身運動で非常に体に良いのですが、体内が一巡してスッキリするまではひたすら汗と熱気が放出されてゆきます。
呼吸も荒くなります。
山頂の奥宮への参拝を楽しみに上ります。

東峰の山頂が見えてきました

守屋山東峰は標高1631メートル。
360度のパノラマで、八ヶ岳から諏訪湖、南アルプスまでが一望できます。
山頂は今までの湿気と肌寒さが嘘のように晴れ渡っていました。

山頂から南側の高遠方面を望みます
東南方面、八ヶ岳を望みます
諏訪湖上空の雲が晴れ渡りました

奥宮は西峰方面へ少し下がったところにありました。
守屋神社とあります。
氏子総代として守屋姓の名前が記されています。

かつて雨乞いのために山頂からけり落されていたという祠と、現在の石の祠は違うもののようです。
付近にはやはりというか、諏訪のご神体である「石」の一団が配置されていました。

山頂には平日にもかかわらず、登山客が入れ替わり現れていました。
いくつものルートがある守屋山は地元のハイカーにとって親しみやすい山のようでした。

登山道は特色もないのですが、頂上に立った時のすがすがしさと、信州中部の山々を一望できる眺めは素晴らしいものがありました。
諏訪大社の奥宮としてこれ以上のない立地だと思いました。

山を下り、伊那方面へ下りました。
いつもの杖突街道ルートではなく、千代田湖畔を通るルートを走ってみました。

守屋山の東方向、金沢峠のふもとにある千代田湖という人知れぬ湖
湖畔の旅館は休業中だった

伊那市へ下りてから車を置いて久しぶりに街中を歩いてみました。
いつも思うのですが、伊那市はどこかとぼけたような、明るさのある、味のある街だなと思いました。

歩く場所は毎回同じようなところになってしまいます。
街角には、1年や2年では変わらないような歴史のしぶとさがにじみ出ていますが、それでも昨今の「緊急事態」にダメージを被った感も少し見えたような気がします。
変わらずに頑張ってほしいのですが。

天竜川を渡り伊那市中心部に入ると・・・
旅のお客に対する「ローメン」からのお出迎え
ローメンの碑が建っている
脱力系ギャグでも旅人たちをウエルカム
居酒屋の張り紙にもご時世柄が・・・
改めて飯田線と伊那の街の親和性を感じる景色
そういえば町の景色もアバンギャルドな気が・・・
上田映劇、塩尻東座と並ぶ県内3大シアター(おじさん談)伊那旭座は健在
旭座2はささらに渋い

南箕輪村を通って帰ります。
南箕輪村ではいつも直売所によります。
ブドウ、リンゴの季節です。
今年はマツタケが豊作で値段も安いとのことでたくさん出ていました。
自宅のお土産にたくさん仕入れました。

イチヂク、ブドウ、マツタケ、紅玉、地粉などを仕入れる。マツタケの安さは記録的?

第三次・護岸工事で DIY!

山小舎の裏の土手に、3つ目の護岸用の丸太積みをしました。

そもそも山小舎の立地は斜面です。
斜面にある程度の盛り土をして家を建てています。

さらに山小舎の場合、斜面下に小川が流れています。
普段の水流はないのですが、大雨の後は1週間ほども水が流れつづけ、マックス時には轟々と音を立てて流れます。

水が引いた後行ってみると、川底には石がごろごろと転がっており、川岸が削れていたりもしています。
川岸の盛り土には、山小舎の前オーナーが設置したであろう、苔むした丸太が転がっています。
前オーナーも盛り土の護岸を意識していたのです。

不肖山小舎おじさんも先達に習い護岸工事のための土留めを設置してきました。
今までに2基の土留めを作りました。

この8月の大雨でも急流が発生し、川底には大きめの石が新たにゴロゴロしていました。
幸い2基の土留めは倒れたりしてはいませんが、補強のための石などが水流により散らばっていました。

そこで、2基の土留めのメンテナンスをすると同時に、3基目の土留めを設置することにしました。
なお、新たな土留めの工事は今期の活動予定にも入れていましたが、丸太が重かったりで腰も重い状況でした。
丸太運びは息子が来小屋した際にヘルプを頼もうと、思ったりしていました。

意を決して現場へ行ってみます。
散乱した石を土留めの足元や裏側に積みなおします。

水流は土留めの足元を洗っており、このままだと次回の水流で土留めの杭が揺るぎかねません。
特に1基目の土留めは、石だらけの河原に杭を立てているため、杭が深く打てていなかったり、また杭そのものがホームセンターにあるちゃんとしたものではなく、そこら辺の細めの丸太を使っているため強度に不安があるのです。

一度バラバラになった石を土留めの足元に集めなおします

ついでに丸太と杭を針金で縛って補強するなどしました。

3基目の土留めを、既存の二つの土留めの間に打つことにしました。

杭はホームセンターで購入し、焼いた後コールタールを塗ってあります。
杭を打つのは、河原ではなく土手ですので基本的にハンマーでたたくと入ってゆきます。
強度を確かめながら杭を3本打ちます。

新たな土留めを設置する場所に杭を打ちます

杭に渡す丸太を長さに合わせて切ります。
土留めに使う丸太はカラマツ材です。
まっすぐで広葉樹より軽くて「安い」のです。

今回は短めの3本を用意します。
おじさんの自力でも運べました。

このカラマツは燃料用に丸太を持ってきてくれる業者さんに「細めのやつも一緒にお願いします」と言っておいて入手しました。
燃料用には中途半端な直径の丸太ですが土留め用にはちょうどよいのです。

土留め用の丸太を選別しておきます。サイズに合わせて切り、でこぼこもなるべくカットしておきます

丸太を運び、杭に合わせて積んでゆきます。
2段目3段目は杭に針金で結びます。

1本目の丸太を運びます
2本目の丸太を運びます
3段目を積んで針金で固定します。背後の苔むした丸太は前オーナーが置いたものです。

この土留め、これで完成ではありません。
大雨や急流が来たとき、土留めだけが残って土手が崩れたり、土手が泥となって土留めの間から流れ去ってはどうしょうもありません。
土留めが土手の最終ラインとならなければいけないのです。

そこで次の作業として、現在の土手と土留めの間を、土嚢や石などで埋めなければなりません。
護岸工事はまだまだ続きます。

現状の護岸。補強と、4基目の設置。土嚢の設置が次の目標です

小豆の脱穀、選別

収穫した小豆を脱穀しました。

小豆の収穫自体初めての経験です。
鞘に入った豆は手で一つ一つ外して脱穀できます。
とはいえ、ある程度の量の鞘をいちいち手で脱穀することはできません。

豆の鞘を棒でたたいて脱穀する風景を思い出しました。
伝統的農家は回し棒という、鞘にぶつける部分がくるりと回って、スナップが効いた打撃を与えることができる農機具で脱穀するようですが、素人の山小舎おじさんは棒なら何でもいいでしょう、とホーキの柄を使うことにしました。

畑でハザ掛した小豆を持ってきました
鞘だけを切り外しました。本職は行わない作業です

収穫後干してあった小豆の樹から鞘だけを切り取ります。
農家では樹そのものをシートに積んで、回し棒をでぶったたいているようですが、切り取るひと手間を加えてみました。

鞘が乾いていると棒の打撃で鞘が開き、豆が飛び出してきます。
なるほどこれは効率的だ。

シートの上で周り棒ならぬホーキの柄で鞘ごとたたきます
豆が飛び出してきます

豆の姿を見た山小舎おじさん。
早くも豆の収穫が終わったような気になりましたが、小豆を処理する作業はこれからが本番でした。

シートの上には空の鞘と豆だけが残っている、はずなのですが・・・。
そこには大量のゴミ(枯草、枯れ枝、砕けた鞘など)と規格外(かびていたり、壊れていたり、黒くなっている)豆が混じっていたのです。

脱穀の後は選別という作業を行わなければなりません。
伝統的農家では、送風によるごみの選別の後、豆の大きさに合わせたフルイを通して選別しているようです。
山小舎にはそんな道具はもちろんありません。

シートの上のものをザルに集めました。豆のほかにゴミが相当あります

ゴミ取りと選別は手で行います。
時間がなければできない仕事ですので当然後回しの仕事になります。

100円ショップで選別に手ごろなザルを探してみたりしましたが、ぴったりのが見つかりません。
最終的には、農協で専用のフルイを買うしかないのかもしれません。

時間を見つけて、秋の日差しに当たりながらの選別です。
ごみと食べられない豆を捨てます。
大きさにはこだわらず食べられる豆は食べてみようと思います。

秋の陽だまり、ときどきハチやトンボが来て様子を見てゆきます。
選別するおじさんの手にトンボが止まろうとしました。
うれしかったのですが、忙しいのでトンボを追い払ってしまいました。

陽だまりでの選別作業その1
かなり選別できました。。