12月上旬になりました。
八ヶ岳は雪化粧です。

蓼科山の雪景色は、11月のさらっとしたものから冬らしい姿に変わりました。

なんと白樺湖畔に「氷上立入禁止」の幟が立っていました。
湖面が一時凍結したようです。

12月の山小舎は冬まっしぐらです。

60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
12月上旬になりました。
八ヶ岳は雪化粧です。
蓼科山の雪景色は、11月のさらっとしたものから冬らしい姿に変わりました。
なんと白樺湖畔に「氷上立入禁止」の幟が立っていました。
湖面が一時凍結したようです。
12月の山小舎は冬まっしぐらです。
1926年生まれのアメリカ人女優パトリシア・ニールは、ブロードウエイで新人賞、トニー賞などを受賞し、ハリウッドからスカウトされた。
自伝「真実」によると、サミュエル・ゴールドウインやデヴィッド・O・セルズニックなどに食事に呼ばれたとあるが(セルズニックには食事の後にベッドに連れ込まれそうになった、とも)、契約したのはワーナーブラザーズ。
契約料は週給1250ドル(最高で3750ドルにアップ)、舞台出演の際はニューヨークへ戻ってよいとの内容の7年契約だった。
この7年契約は満期を迎えることなく解約となったが、1947年から51年途中までのワーナー専属時代、パトリシア・ニールは8本ほどの映画に出演している。
8本の内訳をみると、ロナルド・レーガンとの共演が2本、ゲーリー・クーパーとが2本。
ジョン・ガーフィールド、ジョン・ウエイン、リチャード・トッドとが各1本。
監督ではキング・ヴィドア(「摩天楼」)、マイケル・カーティス(「破局」)の作品に起用されている。
パトリシア・ニールがA級作品に起用されていることがわかる。
ワーナー時代には後世に残るような作品は少ない(「摩天楼」くらいか)。
というか大ヒット作品はなかったし、大衆に訴えるような作品はなかった。
世界の古典映画をデータ素材で仕入れ、新しくスーパーインポーズをいれて公開している、シネマヴェーラ渋谷の特集で、「摩天楼」と「破局」の上映があった。
DVDで見た「太平洋機動作戦」と併せて、パトリシア・ニールのワーナー時代を振り返りたい。
「摩天楼」 1949年 キング・ヴィドア監督 ワーナーブラザーズ シネマヴェーラ渋谷
ハリウッドに身を投じ、ワーナーと専属契約を結んだパトリシア、2本目の作品。
自伝「真実」によると、1本目の「恋の乱戦」の時の映画撮影現場が好意的に述べられている。
スタジオのセットが夢の国のようで、共演のロナルド・レーガンは陽気でフレンドリーだったこと。
映画俳優としてのプロ意識にたけた俳優たちに感銘を受けたこと、など。
第二作目の「摩天楼」は、1940年代のアメリカのベストセラー小説の映画化で、ワーナーの大監督、キング・ヴィドアに声をかけられてヒロイン役に挑んだという。
自伝では、ヴィドア、クーパーとの顔合わせやスクリーンテストのことが、昨日のことのように生き生きと語られている。
パトリシアが生涯で唯一愛した男クーパーとの邂逅だ。
二人は撮影中に急接近した。
自伝には、毎日撮影後にクーパーの部屋に電話して翌日のスケジュールなどを確認するパトリシアとそれに喜んで答える48歳のクーパーの描写がある。
二人のスタンドインがいたものの、パトリシアとクーパーはリハーサルやセッテイングの最中も二人で身じろぎもせずにその場にとどまっていて、スタンドインに仕事をさせなかったことも。
撮影終了の打ち上げパーテイーの夜、二人は結ばれる。
長い恋愛の始まりだった。
「摩天楼」のスクリーン上の世界よりも、自伝に語られているパトリシアとクーパーの出会いと恋愛の方が数倍もフレッシュで輝いている。
170センチを超える長身とすらっとしたスタイル、流れるような金髪のパトリシアは、ロングドレスや乗馬服に身を包みカメラ映りがいい。
バリバリのハリウッド式メイクにもなじんでいる。
「(40年代ハリウッドの)映画俳優とはこういうものだ」と自覚し、場に溶け込もうとするパトリシアの素直で積極的な姿勢がうかがえる。
低い嗄れ声のセリフ回しは今となってはわざとらしいが、パトリシアのハリウッドへの順応の一環でもある。
「摩天楼」は己の信念を曲げない建築家の主人公が、石切り場の工夫に身をやつしながらも這い上がり、認められるというストーリー。
ヒロインとの間の性的葛藤の味付けをしながら(パトリシアがクーパーを鞭打つシーンもある!)。
パトリシア・ニールは演技力もさることながら、輝くような若さに加え、セックスアピールがあり、まさにハリウッド女優の誕生!の瞬間を見るようである。
が、彼女の本質を生かした配役でないこともまた窺える。
それよりもその長身とややしゃくれた顔は、ディズニーの「101匹わんちゃん」の悪漢の女ボスを思い出してしょうがなかった。
あれは確実にパトリシア・ニールを盗んだ(カリカチュアした)アニメキャラだ。
アニメキャラとなるくらいの影響力をパトリシアは若くして持っていたのだ。
「破局」 1950年 マイケル・カーテイス監督 ワーナーブラザーズ シネマヴェーラ渋谷
パトリシア・ニールのワーナー5本目の作品。
監督に「カサブランカ」のカーテイス、主演に舞台出身の実力者で映画でも人気のあったジョン・ガーフィールドを起用したA級作品。
原作はヘミングウエイの「持つと持たぬと」。
ヘミングウエイの原作は44年に「脱出」として映画化されているが、「脱出」はウイリム・フォークナーのオリジナル脚本とハワード・ホークスの演出による冒険活劇ともいうべき作品とのことで、この「破局」のほうが原作に忠実だという。
腕が確かで真面目なことから信頼を得ている船頭(ガーフィールド)が、日銭に不自由する健気な妻とかわいい子供のため、キューバとの間の密輸に手を染める。
長年の相棒は黒人の船乗りで主人公とは絶妙のコンビ。
金のためにギャングの強盗の手助けを請け負うが、相棒を殺され、自力でギャングと対決する主人公。
その戦いは、孤独で陰惨で残酷。
主人公は自力で窮地を脱する、全幅の信頼を置く相棒と己の腕1本を失って。
やむを得ないとはいえ、人の道に背いた行いを、犠牲を払いつつ自力で落とし前をつける姿が、身を切るような描写で描かれる。
まじめで妻一筋の男の苦悩をガーフィールドが演じる。
ユダヤ人でストリートキッズ上がり、演劇で出世した後もハリウッド赤狩りのターゲットとなったガーフィールドが死ぬ直前に出演した作品。
主人公に絡む身持ちの悪い女にパトリシアが扮する。
柄の悪い役もちゃんとこなす演技が見られる。
第二次大戦は終わったが、朝鮮戦争を目前にして、国内では反共ヒステリーが吹き荒れたアメリカ。
オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人、マイケル・カーテイス監督のタッチもひたすら暗い。
救いは「持たざる者」ガーフィールド一家の健気な妻(フィリス・サックスター)への視線のやさしさ。
そして主人公の危機脱出の後、父親が殺されたことを知らぬ黒人の少年(主人公の相棒の息子)が港に一人取り残されるラストシーン。
最後まで女(パトリシア)の誘惑になびかず、家で待つ妻に操を立てる主人公もいい。
女と敵はなぎ倒してゆくのがアメリカ映画の「タフな男」というお約束の中、真に勇気ある男の姿を描いたのは、ユダヤ人カーテイスの真骨頂か。
マイケル・カーテイスにとって「破局」は「カサブランカ」に次ぐ「アメリカンヒーローもの」なのかもしれない。
「カサブランカ」のボギーがかっこよい表のヒーローだとすれば、「破局」のガーフィールドは、持たざる者の陰のヒーローとしての。
自らまいた種とはいえ、窮地に陥った時は自ら実力をもって解決に当たり、愛するものを決して裏切らず、の陰のヒーロー方が真の勇者なのかもしれない。
パトリシアの「自伝」ではこの作品について、「ガーフィールドはいつも強烈な動物の雄のエネルギーを放射していた。女には抜け目なく手が早かった。彼は私の手を取ると俺の気持ちわかるだろ、といった。彼の気持ちはよく分かったが、彼を相手にそんなつもりはなかった。私はゲーリーの女だった。」と述べている。
「わたしはゲーリーの女だった」。
決まった!
「太平洋機動作戦」 1951年 ジョージ・ワグナー監督 ワーナーブラザーズ DVD
パトリシア・ニールのワーナー7本目の映画、この後の「草原のウインチェスター」を最後にワーナーブラザーズを離れることになる。
ジョン・ウエイン主演の第二次大戦を舞台とする潜水艦もの。
共演にワード・ボンド、ジャック・ペニックを配してのバリバリ男性路線。
パトリシアはわけあってウエインと別れたが、まだ愛し合っている看護婦を演じる。
「自伝」でパトリシアはいう。
「ジョン・ウエインは大衆には大変な人気者だったが、私にはまったく訴えてくるものがなかった。彼が相手では私の魅力も発揮できなかったと思っている」。
また、「私はこの撮影所(ワーナー)にとって金食い虫になりつつあった。映画評論家たちは思いやりがあったが、興行的に大成功を収めたことはなかった。私は新しいガルボになってはいなかった。」とも。
すでに7作目にしてパトリシアが自覚している状況が影のようにこの作品を覆っている。
髪をブラウンに染め、看護婦のコスチュームに身を包むパトリシアだが、背の高さとスタイルの良さが生かされておらず、長身を持て余した猫背の女性に見えてしまう。
ジョン・ウエインとの共演も水と油。
作品そのものも、アメリカ海軍の潜水艦乗りに敬意を表するのはわかるのだが、たとえば急速潜行中に艦長らがタバコを吸ったり、日本海軍駆逐艦の爆雷攻撃中に艦内の食堂でまったりコーヒーを飲んだり、と、どうなの?という表現が横行している。
だいたい潜水艦内の描写に緊張感がない。
ドイツや日本の潜水艦ものに比べ、悲壮感がないのは半分は事実だろうが、艦内の食堂がロードサイドのダイナーのように居住性良く描かれるのは違和感がある。
日本軍が登場するシーンの背景に中国風の音楽が流れるに至っては、がっかり。
ジョン・ウエインを見に来た観客は満足するのだろうが、史実に忠実な戦争映画も数多いハリウッドにあって、この作品は旧態依然というか、大衆におもねた作品に見える。
パトリシア・ニールを生かしきれなかった典型的な作品だと思う。
この時期、実生活でのパトリシアはクーパーとの間の子を妊娠したことに気づいていた。
いよいよ本格的な寒気が山小舎を襲い始めました。
日差しがある時の日中はよいのですが、日が陰る2時過ぎから夕方になるとぐんぐん気温が下がり、夜にはギンギンするほどの寒さとなります。
気合で耐えられる気温の時期は過ぎました。
恥も外聞もなく暖房して身を守らなければなりません。
薪ストーブと灯油ストーブ2台を全開に焚いても寒い時もあります。
暖房の効率を上げて寒さに対抗するしかありません。
そのためには暖気がいきわたる空間を限定するのが一つの方法です。
ただでさえだだっ広い山小舎。
冬の居住空間だけに暖房を集中する必要があります。
夜寝るだけの二階、客間用の和室、洗面所、玄関、などには無駄に暖房の熱が回らないようにします。
そのために、居間をシートで区切ります。
もう数シーズン冬の準備として行っているのですが、ビニールシートを居間とその他の間に下げるのです。
使うのはたっぷり備蓄されているプチプチシート。
サイズに合わせてカットします。
空間を完全に区切ってしまうと人の行き来に不便ですし、上方に集まる温まった空気だけを逃がさないようにすればいいので、区切るのは上部1メートルほどです。
また、ぶら下げたビニールのすそに暖簾状に切れ目を入れます。
毎年やっているこの方法。
今年も山小舎に冬がやってきました。
パトリシア・ニールというアメリカ人女優がいる。
1926年生まれ、南部のテネシー州出身。
年代的には戦中派(日本でいう昭和元年生まれ)。
地元の大学を中退して舞台女優を目指す。
1946年にブロードウエイデヴュー後、新人賞、トニー賞を受賞。
1947年にワーナーブラザーズと7年契約を結びハリウッド入りした。
ハリウッド入りしたパトリシア・ニールは第二のグレタ・ガルボとして売り出されたが、ヒット作に恵まれず、むしろ「摩天楼」(1949年)で共演したゲーリー・クーパーとの恋愛ゴシップを最大の話題としてハリウッドを去った。
パトリシア・ニールが再び映画で脚光を浴びるのは、「群衆の中の一つの顔」(57年 エリア・カザン監督)、「ティファニーで朝食を」(61年 ブレイク・エドワーズ監督)、「ハッド」(62年 マーテイン・リット監督)などに出演してからのことになる。
この度、渋谷のシネマヴェーラの特集で「摩天楼」と「破局」(50年)が上映された。
いずれもパトリシア・ニールがワーナーブラザーズと専属契約を結んだ期間中の作品である。
また、筆者の手元には今までに集めたパトリシアの出演作のDVD(「太平洋機動作戦」「地球の静止する日」そして「ハッド」)がある。
ここは「早すぎた演技派女優」パトリシア・ニールを集中して見ようではないか。
まずは買ったまま積読していた彼女の自伝「真実」を紐解いてみよう。
「パトリシア・ニール自伝 真実」 1990年 新潮社刊
仮にもハリウッド女優と呼ばれたスターがこんな赤裸々で正直で自省的な伝記を書くものなのか。
というのが読んでいる間の感想。
キャサリン・ヘプバーンの自伝「Me」も、かなりざっくばらんで、あけすけだったが、映画界入りから引退まで「勝ち組」で通した、ワスプ出身の医者の娘ケイト(キャサリンの愛称)と違い、南部出身で何の後ろ盾もないパット(パトリシアの愛称)が、決して順風満帆とはいえなかった半生を、ここまでさらけ出すには勇気がいったことだろう。
クーパーとの恋に破れ、作品のヒットもなく、契約半ばにしてワーナーを去り、その後しばらく映画界を離れていたパトリシア。
夢である結婚をし、待望の出産、舞台活動再開、映画界カムバック、子供を亡くし、妊娠中に脳溢血、奇跡の回復と離婚、クーパー亡き後の妻・娘との和解、修道院・・。
劇的な人生の変遷なくして到達しえない境地がこの自伝にはある。
自伝はまた、ブロードウエイ時代、ハリウッド時代の活躍と栄光にも触れてはいるが、パトリシアの人生の目的の一つでもあった「家族を生む」ために、愛してはいないロアルド・ダールと結婚し、5人の子供を産み育てる間の記述がボリューム、内容共に圧倒的だ。
そこには、女優を目指す目立ちたがりでわがままな、一人の南部出身の女性の叫びとともに、一般的な女性の幸せを願い自らの人生でそれを実現させようともがく「戦中派世代」の伝統的なアメリカ人女性の偽らざる姿がある。
脳溢血で倒れ、回復する中でゲーリー・クーパーの娘マリアと文通をし、会う。
マリアからクーパーとの間に子供ができたのは本当か?と聞かれ、本当だと答えると「すごく楽しかったでしょうね、あなたが私の新しいお母さんになっていたら」とマリアが言う。
パトリシアとクーパーの哀しい愛が成就した瞬間だった。
人生で唯一愛した男、ゲーリー・クーパーとの愛を、紆余曲折がありながらも全うできたパトリシアは、やはり選ばれた人間なのだろう。
この自伝の根底を貫いているのは、自分が自分らしくありたいとの一念。
そしてたどりついたのが、個人の執念や願望を越えたところに「神のみ心」とでもいった普遍的な愛の世界が広がっているだろうことへの素朴な信仰心とでもいうべき境地。
彼女は多くを求めず、しかし自分の信ずるところは徹底してこだわり、結果すべてを得た、のかもしれない。
なお、映画時代についての記述が少ないとはいえ、ウィキぺデアのフィルモグラフィーには載っていない映画作品(「ステキなパパの作り方」1951年 ダグラス・サーク監督)についての記述もあり、パトリシア自身の活動の記録という意味でもこの自伝は貴重である。
「映画の友」 1951年5月号
筆者が神保町の古本屋で見つけて購入。
パトリシア・ニールが日本の映画雑誌の表紙になっているのが珍しかったので。
51年といえばパトリシアが鳴り物入りでワーナーと専属契約を結んでいた頃。
デヴュー2作目の「摩天楼」は日本での評判が良かった。
またパトリシア自身が朝鮮戦争兵士の慰問の際に日本に立ち寄ったこともあり、売り出し中の新進女優として注目されていたことがうかがえる。
雑誌の本文中にパトリシアに関する記事はないが、読者や編集室に送られてきた(ファンレターの返信に同封された?)サイン入りブロマイドの紹介コーナーに、パトリシアのものが載っている。
表紙ともども今では貴重なものだと思う。
「マイベスト37」 淀川長治著 1991年 テレビ朝日
テレビ朝日の「日曜洋画劇場」放送25周年記念出版。
淀長さん映画人生80年の書き下ろし。
なんとその37人の中にパトリシア・ニールが含まれている。
淀長さんとパトリシアの最初の出会いは、49年の日本でのインタヴュー。
第一ホテルに逗留中のパトリシアに「映画の友」編集人の淀長さんが取材に行ったもの。
「高飛車な生意気なところが爪の垢ほどもなかった」というのが、この時の淀長さんのパトリシアに対する印象だった。
あけて1951年、わが淀長さんは「映画の友」特派員としてハリウッドを訪問。
なんと淀長さんのハリウッド来訪を知ったパトリシアから、20世紀フォックスのスタジオに呼び出しがあって淀長さんはびっくり仰天。
宣伝部長に案内された淀長さんが、フォックスの食堂で待つと、現れたパトリシアは厚手のぱさぱさしたスカートにサンダル履き。
スパニッシュオムレツとミルクを注文した。
同じものを注文した淀長さんが、いつもの習慣でミルクに砂糖を入れると、「あんたケーキでも作るの!」とパトリシアが叫んだ。
タイロン・パワーと共演の「外交特使」を撮影中だったパトリシアは、三つ隣のテーブルにパワーがいるにもかかわらず「(パワーは)大根よ」といったので淀長さんが慌てて、そんなことここで言ったら首になりますよ、と言ったら。
パトリシアは声をたてて笑いながら「そうなったら舞台に戻るわ」とウインク。
淀長さんが思い切ってクーパーとのことを聞くと、パトリシアは顔を赤くして椅子からずり落ちそうな格好をしたが、「ノー」とは言わなかったと。
淀長さんさすがのナイスクエスチョン。
なんと幸福な淀長さんと若き日のパトリシアの会話だろう。
淀長さん一流のだれにでも可愛がられるオープンな性格もさることながら、二人の波長が合うというのか。
二人ともこれ以上ないイノセントというべきなのか。
ざっくばらんでチャーミングなパトリシア・ニールの人となりが会話に表れていて、貴重な記録というほかはない。
この季節、県内各地の直売所の野菜コーナーには大玉の白菜が盛りと並んでいます。
大玉200円から300円と、値段は高くはありません。
山小舎の一人暮らしで白菜はほぼ使わないのですが、山小舎おばさんに送ろうか?と思い一玉買ってきました。
買った後は日陰の涼しい場所に転がしておいたのですが、送るには重く、かさばる白菜。
思い切って漬けることにしました。
ネットを検索して塩漬けの仕方をチェックします。
四つ割りにして半日干した後、分量の塩で漬け込むとのことです。
さっそくやってみました。
包丁で芯に切れ目を入れてから手で四つ割りにします。
四つ割りにしたものを干します。
塩の分量は白菜の重さの4%とのこと。
めんどくさいので目分量にします。
最初は大きめのたるに漬けて、ある程度漬かってから、樽を変えて、コンブやトウガラシを入れて本漬けするとのネット情報ですが、これもめんどくさいので最初から本漬けするにします。
たるの底に塩をふり、四つ割りにした白菜を2ピースセットで押し込みます。
一段ごとに塩をふります。
二段目に塩をふった後、外葉を被せてその上にも塩をふり中蓋を乗せます。
重めの漬物石を乗せてしばらく置きます。
二日目に様子を見るとカサが減っています。
天地返しをすることにします。
漬物石をどかし、二段目の白菜を取り出します。
一段目の白菜からは水が出て漬かり始めています。
天地返しをしてトウガラシを乗せておきます。
今年の白菜漬けはうまくいきそうです。
冬に備えて薪割りの追い込みです。
秋になって持ち込まれた丸太が2トントラック2台分ありました。
何度かに分けてチェーンソーで玉切りしました。
切った「玉」は軽トラに積んで、作業場に運び、薪割りです。
今回もらった丸太は、カラマツでもシラカバでもミズナラでもなく、あまり扱ったことのない木でした。
広葉樹なのでしょうか、生木は重いのですが、スパッと割れるのです。
ということで薪割り機は借りずに斧で手割りすることにしました。
「玉」を運んで山にします。
大きな口径の「玉」は立てて並べておきます。
切り口を見せて並んでいる「玉」にそのまま斧を振り下ろします。
これでたいがいの「玉」は割れてゆきます。
いちいち、台の上に備え付けてから割るよりよほど早く薪割りがで進みます。
太くはない「玉」も、縦に並べておいて片っ端から斧を振り下ろします。
節があったりして割れないものは、くさびを使って割ります。
細めの枝木は、このままストーブの燃料にします。
生木なので火付きは悪く、温度も上がらないのですが、火持ちがよく、部屋が暖まった後の燃料に重宝します。
割った薪は、パレットで組んだ乾燥台に積んでゆきます。
下の方には重い薪を、上の方には軽い薪を積むようにします。
早ければ、来年の夏以降の燃料になります。
テレビのローカルニュースで須坂動物園のカピバラ温泉のことを見た。
孫たちがリンゴ狩りに来た時に誘ってみたが乗ってこなかったので、自分だけでも見に行こうと思っていた。
須坂へは菅平を越えてゆく。
雪の心配がなくなったある平日、軽トラを出発させた。
上田市の真田地区から上ってゆくと菅平高原に至る。
スポーツの合宿シーズンも過ぎ、スキーシーズンにはまだ早い菅平は、人気がなくひっそりとしていた。
ゲレンデにのみ雪が残りブルドーザーがその雪を広げている。
菅平から峠道を下ると須坂市。
心配した道路の凍結などはなかった。
須坂に下りてからは、動物園のある臥竜公園を目指す。
動物園の臨時駐車場は市内の百々川河川敷にあった。
沿道のイチョウ見事な紅葉が青空に映える。
川の向こうには雪を頂いた北アルプスが聳えている。
まったく、環境が良すぎて別世界のような須坂の風景に心癒される。
動物園の入り口で「カピバラやってますよね?」と確認して入園。
南口から入園するとそこには遊園地が広がっている。
菅平方面の山々をバックに三々五々、広い空間に遊具が点在する遊園地。
家族連れが思い思いに遊んでいる。
環境がよすぎるというか、のんびりしているというか、人が少ないというか、この安心感がたまらない。
臥竜公園の里山のすそ野を、巻くように長く伸びる動物園の通路を歩いてカピバラ舎へ急ぐ。
舎の前には人だかり。
人だかりに交じって舎を覗くと、狭い浴槽に一匹ずつカピバラが入っている。
飼育係のお兄さんが舎の中でマイクで何かしゃべっているが、声が小さすぎて聞こえない。
お兄さんのアピール度の低さというか、押しの弱さというか、しゃしゃり出る意欲のなさに「信州」を感じる。
舎の内部と外では1台ずつのカメラが回っている。
ニュースの取材か、動物園側の記録か。
観客は平日なので子供は少なく、若いカップルが多い。
おじさんの単身はほぼいない。
観光客ではなく地元の人ばかりか。
カピバラって大きな動物なんだなあ。
山羊や羊より太いもんなあ。
カピバラのほかにはオオワシとフラミンゴ、ツキノワグマぐらいが「スター」の須坂動物園。
動物園を出て臥竜公園を散策する。
ジャージを着た小学生たちが体育の授業か池の周りを走っている。
ゴールでタイムを計る先生の声を聴くと11分ほどで一周している。
りんごの無人販売をしていた園芸店を思い出し、そこまで歩く。
リンゴ2袋を買う。
地元客の真似をして、茶店によっておでんを食べる。
一串100円。
店のおばさんの「ごゆっくり」の声に甘えて、池を見ながら心行くまで過ごしてみる。
時間が止まったようだ。
昼食はこれもローカルテレビで見たことがある洋食店へ。
何とか店にたどりつき、人気のないショッピングセンターに隣接した入り口を入り二階へ。
入るまでわからなかったが、地元のサラリーマンや夫婦連れなどで満席の店だった。
しかも途切れず来客がある。
名物らしいオムライスを食べる人が多いようだったが、フライ盛り合わせを注文。
須坂の人気店の味を満喫する。
地元の人で賑わう店。
地元テイストを味わうにはちょうどいい場だった。
帰りは隣町の松代へ寄り、松代温泉松代荘で温泉。
須坂での地元テイスト感の満喫で癒され、体と心が安心・脱力したのか、入湯後は不覚にも大広間で寝入ってしまった山小舎おじさんの旅でした。
りんごの季節になりました。
今は11月、フジが出始めました。
これでりんごの全品種が出そろいました。
8月に早生の新物が出始めて以降、11月にフジが出るまでの間、紅玉、秋映、シナノスイート、シナノゴールド、名月といった品種が続きました。
各地の直売所に寄った際には、この季節、どうしてもりんごを買ってしまいます。
須坂の臥竜公園に行ったときには、公園内の園芸屋の無人販売で、フジ、シナノゴールドの大玉が3個入り一袋が300円で売っていました。
りんごの産地信州でも激安の値段です、生食用としては。
例年、ジャムとチャツネの材料として活用するりんご。
今年はコンポートにしてみようと思いました。
コンポートなら、寒天の添え物として、アップルパイの材料として喜ばれると思ったからです。
また、ジャムなどより手間がかからずできそうな気がしました。
りんごを4つに割って芯をとります。
皮をむいて、3つから4つに割ります。
それを砂糖で煮てゆきます。
焦げないよう、鍋に少し水を入れてストーブにかけます。
りんごが透明になるまで煮ますが、結構時間がかかりました。
同時に保存瓶を煮沸消毒しておきます。
コンポートというからには、シロップを別に用意する予定でしたが、煮汁を込みで瓶に詰めるとちょうど良い分量になりました。
フジの大玉6個で、大中各1本のコンポートができました。
東京の皆さんに喜んでもらえるでしょうか。
畑の冬じまい作業2日目です。
この日の作業は支柱の撤去を終えることと、マルチはがしにかかることです。
まずは、外し残った支柱を撤去します。
支柱は長さ別にまとめておいて来シーズン使います。
支柱を外し終わった畑は、1年間の活動を終えてひっそりしています。
畝の雑草も枯れておとなしくなっています。
マルチがかかったままの畝の整理に入ります。
まずは枯れながら立っている野菜の根っこを引き抜きます。
トマトもナスも良く根を張っています。
この根っこが暑い夏の日でも土中から水分を吸収し結実に導いていたのです。
ざっと根を抜き終わったらマルチはがしにかかります。
マルチの端っこを鍬で掘起し、巻いてゆくようにマルチを剥がしてゆきます。
例年は、鍬で起こした後、手で剥がしていたのですが、うまくやらないとマルチのビニールが切れ切れになってしまうのが悩みの種でした。
今年は最初から最後まで鍬を使い、雑草や土ごとビニールを巻き取ってゆくことにしました。
巻き取った後は、雑草と土とビニールがこんがらがった「ロール」からビニールだけを引き抜いてゆけばよいのです。
この方法だと時間短縮とビニールの取り残しがなくなりました。
畑には生き残っている作物がありました。
ステイックセニョールでしょうか、緑が屹立しています。
夏の酷暑をやり過ごし、快適な季節になって育ったのでしょう。
結実して人間の役に立つことはかないませんでしたが、生き残ったのはあっぱれです。
この後も育てばいいのですが、残念ながら、雪の季節を生き抜くことはできないでしょう。
こぼれ種の自然発芽が毎年見られる畑です。
ハーブ類(パクチー、しそ、バジルなど)、ミニトマトなど、自然発芽を来年も期待しています。
晩秋になってから育ちの良かった食用ほおずきの畑にも行ってきました。
実は黄色く鈴なりになっています。
試しに一つ取ってみると霜にあった実はぐちゃっと潰れました。
残念ながらほおずきも終了です。
次回の畑作業は、残りのマルチの撤去、畑の周りの背の高い雑草の除草、菊芋の収穫になります。
さあ、ハリウッドきっての美男美女カップルの登場です。
1940年代のパラマウント謹製フィルムノワール3本の主演で映画史上にその名を残した、ヴェロニカ・レイクとアラン・ラッドのお二人です。
「拳銃貸します」 1942年 フランク・タトル監督 パラマウント
記念すべき二人の初共演作。
クレジットはヴェロニカがトップでラッドは四番目。
既にトップスターだったヴェロニカを主演に据え、からむラッドは準主演の扱いだった。
ヴェロニカ扮する金髪美人は、キャバレーで手品や歌を披露するショーガール。
キャバレーのオーナーの愛人?のポジション。
歌うシーンもあります、吹替でしょうが。
ラッドは孤独な殺し屋に扮する。
殺しの依頼主に裏切られたラッドが復讐を誓い、ひょんなことからそれに絡んだヴェロニカとの逃避行を繰り広げる。
巻頭の殺しのシーンの、しけたアパートの階段の汚さ、みじめさ。
殺しの依頼主の部屋に続く階段にうずくまる、足に補助器具をつけた少女。
野良猫や不具の少女にだけは優しい孤独な殺し屋、ラッド。
第二次大戦という世相を背景にした、不安感が色濃い舞台設定はノワールそのもの。
殺し屋ラッドの性格付け描写も、定型的とはいえ、いい。
ヴェロニカは自慢の金髪とハスキーボイスを振りまきながら、未亡人のマジシャンという謎の美女を演じる。
最初はオーナーの愛人かと思わせて、実は正義を愛する骨のある愛国女性と分かる設定。
悪のボスの背後には、敵国日本へ情報を流すスパイがいたというオチが時代を物語る。
なお、日本を「ジャップ」と呼ばず「ジャパニーズ」と呼んでいたのはなぜ?
スパイまで行う卑劣な敵国日本の呼称は、アメリカ国内では新聞までが「JAP」だったはずだが。
ヴェロニカとラッドが逃避行の途中で夜のガス会社に忍び込んだ時の、工場の光と影の表現の美しさ。
ヴェロニカの、決して妖艶だけでもなく、性悪一直線でもなく、時々除く素の表情の「普通っぽ」い魅力。
フィルムノワールでのファムファタルとしては、ジョーン・ベネットやラナ・ターナーのように、「いかにも」という風ではないところがヴェロニカ・レイク。
彼女の魅力は、「奥様は魔女」のようなコミカルなツンデレ演技でより発揮されるように思う。
がノワールでのヒロインぶりもいい。
キャラクター的には悪女ではなく、「ヒロイン」になってしまうが。
「青い戦慄」 1946年 ジョージ・マーシャル監督 パラマウント
「拳銃貸します」と「青い戦慄」の間に、「ガラスの鍵」(42年)という作品で共演しているヴェロニカとラッド。
「ガラスの鍵」ではラッドが捕まって、巨漢にさんざん殴られるシーンがあり、そのやられぶりに持ち前の身軽さを発揮したラッドと、自慢の金髪を隠すようなハット?をつけて登場するヴェロニカが印象的だった。
「青い戦慄」ではラッドがトップクレジット、ヴェロニカが2番目。
ラッドはすでにトップスターになっていた。
脚本はレイモンド・チャンドラー。
当時チャンドラーはパラマウント専属のシナリオライターとして、売れなかった小説家時代を思えば隔世の感の待遇で、高給をもらってはアルコール摂取の合間にマイペース?で仕事をしていたようだ。
「青い戦慄」の脚本も完成が遅れ、撮影開始後もラストが決まっていなかったという。
第二次大戦の復員兵3人が事件に巻き込まれる。
ラッドは南太平洋の激戦地クエゼリンでB24爆撃機に乗っていたとの設定。
仲間は、弁護士だった者が一人、もう一人は頭を負傷してストレスに耐えられない設定。
この3人の固い結束は最後まで揺らぐことはなく、窮地に陥ったラッドを助ける。
ラッドが再会した妻は、出征中に一人息子を自分の酒酔い運転で死なせており、その後は酒と男に溺れている。
戦場で地獄を見た戦友たちの心と体の「傷つき」とそれがお互いにわかるからこその結束力と、残された妻たちの「孤独」と「裏切り」。
時代を感じさせる痛々しい設定。
妻はラッドとの気持ちの通じ合わない再会ののち、何者かに殺され、ラッドに容疑がかかる。
妻の浮気相手のキャバレーの経営者の妻がヴェロニカ・レイク。
自由に行動しているヴェロニカは、雨の中さまようラッドを拾い、その後も偶然何度の再開し、警察の捜査からラッドを守る。
フィルムノワールに「必須」のシチュエーションである、主人公カップルのせつない「逃避行」が始まる。
ヴェロニカのキャラクターはチャンドラーらしい、謎めいた、思わせぶりなセリフを吐き、主人公に迫る。
タフで女性にもてるが醒めているチャンドラー印のヒーローは、迫るヒロインを信じず、相手にしない。
筋は込み入り訳が分からなくなる。
時代背景、スターの艶姿、思わせぶりなセリフとふるまいを楽しむ作品。
それを演じるコンビとしてヴェロニカとラッドは申し分ない。
(おまけ) 「サリヴァンの旅」 1941年 プレストン・スタージェス監督 パラマウント
ヴェロニカ・レイクつながりで彼女の出世作といわれる「サリヴァンの旅」を見た。
監督は喜劇の名手といわれたスタージェス。
ハリウッドが舞台。
主人公は売れっ子監督(ジョエル・マクリー)。
社会派作品を撮りたいという監督は実体験をしようと無賃旅行に出る。
シャワー、キッチンに秘書、医者まで備えたトレーラーがついてゆくのがオカシイ。
ある朝、カフェでハリウッドに夢破れた少女(ヴェロニカ・レイク)に会う。
コーヒーとドーナツを奢るが所持金が足りない。
マスターは「これじゃ儲からない」と言いながら負けてくれる。
ボロ姿のマクリーをハリウッドの監督と信じないヴェロニカとの珍道中が始まる。
もちろんトレーラーで関係者は逐一フォローする。
帽子で金髪を隠し、ズボンをはいたヴェロニカはマクリーとともに浮浪者に身をやつし、貨物列車にただ乗りし、救護所で寝泊まりする。
マクリーの正体がわかり、ハリウッドのプールと執事付き豪邸に招待されても、ヴェロニカは「ぼろ姿で旅するマクリーの方が好き」とカワイイことを言う。
スタージェスの演出は、陰や暗さがなく真っ正直。
ハリウッドの製作者たちが自分たちの幼少期の苦労話をするシーンにしても悪意がない。
ユダヤ人のタイクーンたちは移民時代の貧民街暮らしや、くず拾いなど底辺の仕事からのし上がってきており、皮肉っぽく描こうとしたらいかようにもできるのだが。
また、コーヒーとドーナツをサービスしてくれたカフェのマスターの存在や、マクリーを殴って金をくすねた浮浪者が列車にひかれて死ぬというシチュエーションは、人の善意や勧善懲悪といったわかりやすい価値観に基づいており、スタージェスのひねくれていない人間性がうかがえる。
ヴェロニカはボロをまとい、列車に飛び乗り、救護施設でシャワーで洗われるなど体を張っての演技。
監督が「喜劇も大衆を喜ばせるという意味では大切なのだ」、と気づいて映画は終わる。
確かにその通りなのだが、わかりやすすぎるテーマだ。
登場人物のキャラといい、テーマといい、単純でひねりがない。
これはスタージェス監督の素なのか、敢えてのことなのか。
冒頭で、放浪者や大道芸人香具師などへの共感のコメントが映し出される。
作品中で登場する彼らのことは決して差別を目的としたものではない、というエクスキューズなのだが、なるほどこの映画、登場人物のキャラもテーマも、どこからも突っ込みようのない円満な、「毒」のないもの、言い換えれば作者の思い入れに乏しい作品に仕上がっているということになる。
若いヴェロニカ・レイクの存在感は見ごたえたっぷりだった。
やはりヴェロニカは軽喜劇で「生きる」女優さんだと思った。。