「夜の人々」とアメリカ映画史の断片

あけましておめでとうございます。
定年おじさんは冬の間の東京暮らしです。
ブログ更新の頻度が減って申し訳ありません。
さて、年末年始に映画を観に行きました。

渋谷シネマヴェーラの「蓮見重彦セレクション・ハリウッド映画史講座特集」へ

よくゆく名画座のシネマヴェーラで、上記の特集上映をやっていました。
蓮見重彦という人は東大総長も務めた仏文学者。
映画評論家としても有名です。

今回の特集はご本人の著作の「ハリウッド映画史講座」で取り上げた作品の中からセレクトしたものとのこと。主に1940年代のアメリカ映画から、左翼系の映画監督、脚本家によるもの、欧州を逃れて渡米した映画監督による作品が中心。
のちのリメーク作品のオリジナル作品である「キャットピープル」(42年)や「犯罪王ディリンジャー」(45年)などを含む27作品です。
全作品がデジタルで上映されました。

蓮見重彦のネームバリューからか、休日の初回など、開場前に20~30人が並ぶなどの人気でした。
なお、蓮見重彦に関しては、多数の信者的映画ファンのほかに、強烈なアンチがいることを付記しておきます。

「夜の人々」(48年)を観る

おじさんは今回の特集上映で、上記の作品を観に行きました。
戦後間もない1948年の制作で監督はニコラス・レイという人。
レイ監督はのちに、主題歌ジャニー・ギターがヒットする西部劇「大砂塵」(54年)や、ジェームス・ディーン初主演作「理由なき反抗」(55年)でヒットを飛ばすが、もともとは左派思想の持主のよう。
今回上映のレイ監督の処女作「夜の人々」は、監督の左派的資質が反映された作風となっています。

おじさんの独断ですが、映画における左派的資質とは、社会現実を反映し、弱者の味方であり、知性的というのがそのイメージであす。
「夜の人々」は1940年代のアメリカの田舎を舞台に、脱獄した若者と少女が自滅してゆくというストーリー。
映画のテーマは、社会の底辺に暮らす無学な若者が、社会には救われないという現実を描くことです。
アメリカ映画らしい、ハピーエンドも、派手なアクションも、虚構の繁栄も、この作品にいはありません。
ただ、無学な若者たちを見つめる目と、背景の現実社会の俗悪さを描く視点があります。

同様なストーリーの映画に後の「俺たちに明日はない」(67年)がありますが、同作の主演二人(ウォーレン・ビーティ、フェイ・ダナウェイ)に象徴されるあざとさが「夜の人々」にはありません。
主演のファーリー・グレンジャーとキャシー・オドンネルの素人臭さには好感しか感じません。

この作品は、B級ギャング映画仕立てということもあろうが、当時は日本に輸入されておらず、映画のデジタル化が進んだ最近になって日本でも見られるようになったとのことです。

アメリカ映画史の断片としての「夜の人々」

「夜の人々」のような、現実を弱者の立場から描くアメリカ映画といえば、おじさんは次のような作品を思い出します。
「怒りの葡萄」(40年)、「アスファルトジャングル」(50年)「ハスラー」(61年)。
いずれもアメリカ国内の恐慌時代や裏社会など厳しい現実を舞台にした弱者の物語であり、現実がそうであるようにハピーエンドとはなりません。

なぜそういった作品が生まれたかというと、ハリウッドには1930年代から、左派思想を持った有能な監督や、脚本家がいたからといいます。

彼らは当然、資本側である製作者と対立し、ブラックリストに載せられパージされていきました。

象徴的な出来事が1950年前後の東西冷戦時代に起こったいわゆる「ハリウッドの赤狩」りです。
「ハリウッドの赤狩り」は、議会での証言(自分がアメリカ共産党のメンバーだったか否か)を拒否した監督、脚本家ら10人が議会侮辱罪で投獄されたことでピークを迎えます。
その後、10人は偽名で仕事をしなくてはなりませんでした。
名誉回復は1970年代のなってからのことです。

「怒りの葡萄」(40年)、「アスファルトジャングル」(50年)「ハスラー」(61年)。

「怒りの葡萄」の監督ジョン・フォードを除き、「アスファルトジャングル」のジョン・ヒューストンや「ハスラー」のロバート・ロッセンは左翼かそのシンパです。「夜の人々」もそういった文脈の中でとらえるべき作品なのでしょう。

東京闇市紀行VOL1 吉祥寺ハモニカ横丁を歩く

吉祥寺駅前のハモニカ横丁を歩きました。
おじさんの家からは自転車で20分ほどの距離です。

闇市跡の風景

東京をはじめとする都市部の駅前には終戦後、闇市と呼ばれるマーケットがありました。
空襲で焼け野原となった跡地、それも駅前など人の流れのある場所に人々が品物を並べたのが始まりとされています。
やがてバラックの商店となり、地回りのやくざや第三国人と呼ばれる勢力が縄張りとする中で固定化されたマーケットとなりました。

「光は新宿より」。
新宿東口の闇市を取り仕切った尾津組組長の長女による当時の回想記。

東京には、当時の闇市の名残が今でも残っています。
新宿の通称しょんべん横丁は当時の景色を残す一角です。
また、今は雑居ビルとなっている新橋駅前のニュー新橋ビル、渋谷駅前のハチ公広場下の地下街、などは闇市マーケットの商権がそのまま組み込まれた建物と聞きます。
下北沢駅前にもつい最近までバラック建てのマーケットが残っていましたが、つい最近更地になって再開発されています。これらの土地は、終戦後のどさくさによって本来の地権者から、やくざや第三国人などが勝手に占拠し現在に至っているものが多いといわれます。

吉祥寺ハモニカ横丁

JR中央線沿線の闇市跡としては、吉祥寺駅前のハモニカ横丁が有名です。
おそらく当時の景色をとどめている場所として貴重な場所ではないのでしょうか?

おじさんが吉祥寺に来始めた30年前のハモニカ横丁は、八百屋、魚屋、肉屋、雑貨屋などがメインの文字通り地元のマーケットでした。
現在ではそれらの店はほとんど姿を消しました。
魚屋が2軒残っているでしょうか。

表通りには八百屋が残っています。

替りに多くなったのがカフェ風の飲食店など。
餃子屋やパスタ屋には人が並びます。
今やスノッブな飲食店街となりました。

代替わりするにせよハモニカ横丁の風景が残るのはいいことだと思います。
今や観光名所ともなりこのまま残ってゆくことでしょう。

昔から飲み屋が並ぶ一角もあります。
この寂れ方は立石などにある古くからの飲み屋の横丁に通じるものがあります。

パルコ地下に映画館ができた

吉祥寺パルコの地下2階には長いこと新刊書店があったが、いつの間にかなくなり、映画館がオープンしていました。
封切館はいくつか残っているが、いわゆる名画座がなかった吉祥寺。

今回オープンしたのは、アップリンク吉祥寺なる映画館。
スクリーンは5つほどのシネコンです。
ちょいとロビーを覗いてきました。
今どきのシネコンのロビーよろしく、自動券売機とカフェ風のカウンターがありました。

スノッブな客以外はお断りの風情を漂わせようとしているようですが、ここは三多摩の武蔵野市。
地元の雰囲気を色濃く漂わせた方々も三々五々歩いており、おじさんは安心しました。

肝心な上映プログラムはとみると、「見逃した映画特集」ということで比較的新しいミニシアター系の話題作を中心に組んでいました。
中にはルイス・ブニュエルの「皆殺しの天使」もありました。
フィルムではなくデータ化された作品であれば、ちょいと話題になったものは上映の機会がありそうです。
今は、様々な作品をやってみて客層を探っているのかもしれません。

ロビーを歩いてびっくりしたのがパンフレット置場の棚の広いこと!
ロビーが狭い映画館ならば、重なっておいてあるパンフが、まったく重ならず広々と置かれていました。また、パンフの種類よりも棚の面積のほうが広いのか、同じパンフが何か所にも置いてありました。
方向模索中の新しい映画館らしさを感じました。

吉祥寺の古本屋巡り

公園口のバス侵入道路沿いにある古書センター。駅から近いが自転車で行くには不向きかも。

井之頭通り沿いにある、よみた屋。
比較的新しくできた店。
八切止夫の「野史辞典」なども比較的安い値段で置いてある意欲的な店。東急デパート南隣の建物2階の、百年という古書店。
場所柄かおしゃれな品揃え。雰囲気がいい店。

五日市街道沿いには昔ながらの古書店、藤井書店もある。文庫などは品揃えもよく値段もお手頃です。

定年おじさん渋谷を行く

渋谷へ行ってきました。寒々しい師走の日でした。

シネマヴェーラ渋谷

という名画座があります。
2006年開館の新しい映画館です。
映画好きの弁護士さんが作って、今は奥さんが支配人とのこと。

巨匠からカルトまで、映画好きなら心が動くプログラムをやっています。
当初は2本立て入れ替えなしでしたが、現在は1本立ての入れ替え制となりました。

おじさんは、開館後初期の「内田吐夢特集」で「飢餓海峡」(64年)に駆け付け、再見。改めて感動しました。
また、毎年夏には「妄執、異形の人々」という、カルト作品、お蔵入り作品などの特集が行われ、「獣人雪男」(55年)「暗号名黒猫を追え」(87年)などを観たのが思い出です。

今回は、「滅びの美学・仁侠映画特集」ということで、その中の「花札渡世」という作品を観に行きました。1967年の東映映画。
監督は成澤昌成。
この人は東映たたき上げの監督ではなく、大監督の溝口健二に師事し、共同脚本などを書いたひと。

そこで思い出すのは、東映という会社のカラー。
チャンバラ、任侠やくざ、実録もの、と時々の路線で稼いできた会社ですが、一方でカラーに染まらぬ意外性も持つ会社なのです。

設立当初は、レッドパージにあっっていた今井正監督を迎えて「ひめゆりの塔」(53年)を制作。大ヒットさせました。

その後も、中国から引き揚げた内田吐夢を迎え入れ、巨匠待遇。「宮本武蔵五部作」(61年~65年)など映画史に残る名作を作らせました。

松竹を追われた大島渚に「天草四郎時貞」(62年)を作らせたり、前衛詩人の寺山修司に「ボクサー」(77年)という映画を撮らせたこともありました。

40年ほど前の実録路線最盛期のころは「実録共産党」という企画が実現寸前までいったというエピソードもあります。

東映の創始者のひとり、マキノ光男が「映画に右も左もあるかい、わしらは映画党や」といったそうですが、活動屋の面目躍如にして、東映カラーを一言で表した名言、といったところでしょうか。

さて、「花札渡世」。
主役の梅宮辰夫は、「ひも」「ダニ」(いずれも65年)などの軟派ものに主役を張り始めていたが、決定打の「不良番長シリーズ」は始まっていない時期。
この作品では正義派をやっています。

相手役の鰐淵春子は子役出身のハーフ美人。
松竹でアイドル路線をやった後の方向転換の時期でしょうか、いかさまばくち打ちの娘役です。

低予算の白黒撮影ですが、溝口監督への師事で鍛えたからでしょうか、成澤監督(脚本も)の女性の描き方が一筋縄ではありません。
きっちりと心の闇、腹黒さも描いて、年季が入ってました。

画面構成でも前景、背景に凝った撮影で、けれんみたっぷり。
テーマとしても花札とばくのシーンに凝ったように見せかけて、やくざ世界の価値観には一顧だにしないところが正統派やくざ映画とは正反対でした。

任侠路線が真っ盛りのころでもこういったアンチ任侠の映画が現れるところが東映という会社の面白いところでしょうか。
映画は本来こうありたいものですね。

東電OL殺人事件

渋谷駅から京王井の頭線でひとつとなりの神泉駅。

そのわきの古びたアパートが事件現場。
地下に居酒屋が入ってます。

隣の粕谷ビルなるアパートが冤罪ネパール人が住んでいたところ。
どちらもいつまでも残されている。
これは、世田谷一家殺人事件の現場建物が残されているのと同じ理由なのだろうか?

おじさんがシネマヴェーラに行くときは、神泉で降りて、このアパートの脇を通って行く。

渋谷でのおすすめ居酒屋

井の頭線ガード下のあたり。
30年前はひっそりとした街に居酒屋が並んでいた。
今はギラギラした渋谷の裏通りになっている。

ここは細雪という飲み屋。常連がとぐろを巻いていたが、入りやすくつまみもうまかった。今でもやってるのだろうか。

焼き鳥のうまい、鳥竹。いつも混んでいた。ホッピーとつまみ、2000円で満足する庶民の味方、山家。昼間でもやっている。

おじさんの青春の町、西荻窪

西荻はおじさん青春の町だった。
中央線沿線のこの町に住んでいたのは今から30年以上前の独身時代。
駅南口を出て徒歩5分のアパートは、大家さん宅の敷地内に建てられた別棟で、トイレ、炊事場共同の4畳半。大家さんは警察未亡人のおばさんで、電話があると呼んでくれた。
火器と女性連れ込みは禁止で家賃1万7千円。
おじさんは住み始めた当事は無職だったが、飛び込んだ駅前の不動産屋が紹介してくれた。
今は、マンションか何かが建っている。

西荻、かつての町のランドマークは今?

当時よく通った駅前の焼き鳥屋、戎。
居酒屋ブームで有名な店になり、昼間から客が飲んでいる。
おじさんが通っていた30年前、焼き鳥1本と焼酎で競馬新聞に見入るジャンパー姿の中年や、家に帰る前に1杯ひっかけるきちんとした身なりの定年前?のサラリーマンの姿に人間というものを学んだような気がする。
西荻のランドマークとして有名になった今の戎は、ファッションとしての居酒屋を楽しむ都会人の場にでもなってしまったようである。

30年前ははるばる亭という店だった。
若い美人のママがいて、ヒノキ製?の徳利で燗を出してくれた。

登亭という定食屋があった。
今は焼き鳥屋になっている。
登亭のマスターは、太い指を揚げ衣に突っ込みながら、いつも何か揚げていて、ついでにその太い指で、大鍋から汁がお椀からこぼれんばかりに味噌汁をよそってくれていた。

マスターお任せの「フライ盛り合わせ」を注文すると早く出たが、「とんかつ定食」などと特定のメニューを注文すると待たされた。
揚げたてのフライはうまくて量もたっぷり。いつも満員だった。

中央線カルチャーのかつての発信源、ホビット村は健在。
全共闘世代のカウンターカルチャーのタイムカプセルのような場所。

1階は無農薬八百屋の長本兄弟商会。2階はかつて満月胴という酒も飲ませる自然食屋だった。
今は別の店が入っている。

3階のプラサード書店は今も変わらず営業中。
精神世界の分野に強い本屋で、かつてはオウム神仙の会の会報なども置かれていた。

いまでもかつてのヒッピー文化の発信源となっているとは頼もしい。

西荻書店巡り

盛林堂という古書店。若い店主が始めた比較的新しい店。
サブカルチャー系と文庫の品揃えがいい。
店頭の廉価本にも掘り出し物あり。

中央線沿いで有数の品揃えを誇る古書店、音羽館。商品の回転がよく、新しい本の品揃えも良い。

旅の本の専門店、のまど。
国内外の旅行記、旅情報があふれている。
旅系、野宿系の自家出版の冊子や、タイで邦人向けに発行されている現地雑誌などがあるのは頼もしいが、「中央線カルチャー脱力系」の店番がやる気なさ過ぎて、残念。

三鷹という街

師走の一日。暖かい日があった。
暖かいどころか、もうちょっとで夏日になろうかという気温の日だった。
関東南部では冬でもこういう日が時々ある。

自転車で三鷹へ行った

三鷹という街がある。
東京の西部。かつては三多摩といわれた地区だ。
中央線を西へ下り、吉祥寺駅の次。
二十三区内はとっくに過ぎ、吉祥寺駅のある東京都武蔵野市の西隣の市だ。

おじさんの自宅のある調布市の北隣で、自転車で自宅から三鷹駅まで30分くらいであろうか。
天気のいい日はよい散歩コースとなる。
定年自転車おじさんの黄金コースのひとつである。

古本屋、上々堂で店主と雑談

三鷹駅のまっすぐ南。商店街のはずれのあたりに1軒の古本屋がある。
上々堂という。
ちなみに中央線沿いには若い店主の古本屋が今でも増えている。地方では考えられないことだ。

自転車を止め、表のゾッキ本棚から冷やかす。
今日は何か惹かれるものを感じ、中へはいる。
今時の古本屋さんは、昔のようにおじさんが番台よろしく座ってだけいるわけではない。
パソコンとにらめっこしているのが普通である。

新潮社の2001年刊「一条さゆりの真実」という本と、ちくま文庫の「聞書き・遊郭成駒屋」の2冊を買う。
レジの時に店主に聞いてみる。

本にビニールカバーをしている理由は?
「今や古本はネット販売が主流。出品時の保存状態を販売時まで維持するため」とのこと。
また、「ネット販売が主流だが、目的の本なく古本屋にきて探すのが好きな人もいる。」(おじさん同感だ)。「中央線沿いは古本の仕入れには好立地。」
「古本屋はもうかる商売ではない」と。

日中あまり人と話すこともないのか、店主は嬉しそうにおじさんとの雑談に応じてくれる。
おじさんは山小屋の一人暮らしで、買い物のとき店の人と話すのが習慣になったが、東京の店でも雑談に応じてくれる人がいるのはうれしいものだ。

ここは数年前まで貸本屋だった。
今では喫茶店、じゃなかった「カフェ」。

駅の北側にある古本屋・水中書店。
こちらも新しい店で、駅南の上々堂と同様に若い店主が切り盛りしている。
掘り出し物あり、値付けも良心的。
今日は定休日だったのが残念。がっつり食事をするなら、駅北の「男の晩御飯」。
揚げ物をおかずにどんぶり飯を食べると満足感が違う。
ホール担当のおばさんの愛想もいい。

三鷹という街

おじさんは三鷹という街の歴史を知らない。
主要街道筋に面しているわけではないから、中央線が開通してから発展した町であろう。
いやまて、中島製作所(現富士重工)があるから、近年は軍需工場を抱える町だったのか。

かつては東京に都電といわれる路面電車が走っていたそうだが、西の終点は荻窪だと聞いた。
そこから3駅西に下った三鷹はつまりはそういう場所だったということだ。

中央線沿線の車窓で畑が見えだすのも、三鷹あたりからだ。
駅の南側の道路がまっすぐで、碁盤の目になっている。近年まで農地で、その後住宅地に区画整理されたということなのだろう。

おじさんにとっては過ごしやすい街。
隣の吉祥寺と違い、駅前のショッピングビルのお客もほぼ全員が地元住民と思われ、店員さんも普段着モード。自転車の駐輪にも気を遣わずに済む。

吉祥寺駅前のハーモニカ横丁は戦後の闇市の名残といわれるが、三鷹には古いものは残っていない。
あるいは最初から闇市などはなかったのかもしれない。

かつては駅前に三鷹オスカーという名画座あったが今はない。一度行ってみたかった。

駅近くの玉川上水。
江戸時代に掘られた上水道の名残。
太宰治がここ三鷹で入水自殺した。

地元、調布駅前で遊ぶ

師走の一日、調布駅前で遊んだ。

調布に住んで30年以上たつ。
現在、駅前の再開発が進んでいる。
半分、山小屋の住民となったおじさん、変貌著しい調布駅前をさまよってみた。

調布の歴史、ざっと

調布の名の由来は、律令時代からとのこと。
当時の税金は、租・庸・調で納められていた。
租は米、庸は兵役や雑役、調は特産品のこと。
調布の地名は、税金を当時の特産品である布で納めた場所だからといわれる。

布を織ることのできたのは当時の渡来人だったとも。
市内の古刹・深大寺が西暦600年代にはあったとのことで、古い土地柄ではある。

江戸時代には当時の五街道のひとつ、甲州街道の宿場町でもあった。
新宿の次が高井戸宿。その次が布田宿(現調布駅前付近)だった。
宿場の名残であろう、赤線が昭和30年初頭まで、仲町という場所にあった。

昭和に入って、陸軍調布飛行場が作られ、帝都防衛の要衝となり、軍都と呼ばれた。
戦後、飛行場は米軍に接収され、調布基地、関東村などと呼ばれ、民間飛行場、サッカースタジアム、外語大学などの敷地になっている。

サッカースタジアムの前には、東京オリンピックのマラソン折り返し地点の標識がある。
アベベが先頭で折り返し、円谷が二番目でターンした場所だ。

都内との連絡は、甲州街道こと国道20号線のほか、私鉄の京王電車によって結ばれている。
電車が引かれた当時は、多摩川の清流べりの京王閣が東京市民の行楽場所で、水泳、アユ釣りなどで遊んだ由。
今、京王閣は競輪場にその名を留める。

市内には、日活と大映の撮影所が今でもある。
撮影所設立時は日本を代表する産業であった映画会社。今ではそれぞれの会社が法的倒産を経て、主にテレビ、CMの貸しスタジオとしての使命に生きている。

駅前の風景、ガラリ

おじさんが調布に住み始めた30年以上前の調布駅は、地上にあり、線路は踏切だった。
駅舎はこじんまりしていた。
今はやりの商業施設を内蔵する駅ビルなどではなかった。

そのうちに駅前にパルコができた。
京王線の支線の相模原線が調布で本線に合流することから、集客を当て込んでのことと思われた。

最近、調布駅が地下に潜った。
踏切がなくなった。駅舎もなくなった。
商業ビルが3本できた。
パルコの中に1館だけあったミニシアターはすでに閉館していたが、新しいビルにシネコンができた。
映画の町復活という触れ込みだが、新作以外の上映はないのが残念。

駅舎の消えた地上を人が覆った。
こんなに調布に買い物客がいたのかと思うほどの人出だ。
大口納税法人がアフラックくらいしかなかった調布もこれで潤うことになるのか?
この先を見守りたい。
既におじさんの手の届かないところに行ってしまっているが。

駅前百景、今昔

駅近辺の飲み屋街、調布百店。渋谷の百軒店にちなんだ命名だろうか。案外さびれていない。甲州街道布田宿以来の赤線街、仲町の現状。
道路拡張され、物理的にも往時の面影は払底された。
といってもおじさんが知っている30年前には、すでにそれらしい建物はほとんどなかったけど。

布田天神の参道、天神商店街。
名誉市民だった水木しげるさんのご縁により、鬼太郎のオブジェが建つ。かつては楽器屋、ペットショップなどが並ぶ「地元の商店街」だった。
今では食べ物屋が目立つ観光商店街に変貌。
古いおもちゃ屋は30年前から変わらない。

布田天神。式内神社。1500年代にこの地へ移転したとのこと。
地元民はここへお宮参りする。

隣のお寺の墓地へ向かう道。
ゲゲゲの鬼太郎の出生地はこの奥にある墓地とのこと。

神保町で過ごす一日

定年おじさんは山小屋を冬じまい、東京の自宅に戻りました。
3月まで自宅にいます。
その間、アルバイトしようと思っています。
アルバイトが始まる前のある日、おじさんの大好きな神田神保町で半日過ごしました。

神保町シアターで「女は夜化粧する」を観る

その昔全国にあった3本立ての名画座は今どこにもありません。
時間つぶしで映画館へ向かう人口がほぼいなくなったことと、古今東西の名画はDVDなどで部屋で見られるようになったこと、それに特に洋画では権利の問題で旧作の上映が困難になったこと、などが理由です。

おじさんが高校、大学時代を過ごした札幌には当時、オリオン座という3本立て名画座がありました。
また、テアトルポー、ニコー劇場などの1本立て名画座があり、封切り直後の邦画や洋画をやってました。

おじさんは、封切り直後の「仁義なき戦いシリーズ」や、最近死んだベルナド・ベルトルッチの「暗殺の森」などをここで観ました。
封切館へ行かなくとも、邦画、洋画の主要作品はここで観られたものでした。

当時は、全国的にも池袋文芸坐、銀座並木座、京都一条寺の京一会館などの有名な名画座がありました。
おじさんは大学入学後の春休みに、関西の親せきの家に投宿して、京一会館へ向かい「次郎長三国志シリーズ」(マキノ雅弘旧作版)などを観たものです。
また、池袋文芸坐の満員の中で、ビスコンティの「ベニスに死す」をたばこの煙越しに観たのも思い出です。
上映プリントがボロボロで、巻頭と巻末は画面が飛び飛びでした。

最近、といってもここ10年くらいですが、東京を中心に名画座が新たに勃興しています。
一時閉鎖していた文芸坐が池袋に復活し、渋谷にシネマヴェーラ、阿佐ヶ谷にラピュタ阿佐ヶ谷という名画座ができました。
特徴はいずれも古い邦画を中心にプログラミングし、フィルム上映がメインということ。

その中の1館に神保町シアターがあります。

本日の上映作品は1961年の大映作品「女は夜化粧する」。
山本富士子さんの主演です。

おじさん、山本富士子の出演作品は、小津監督の「彼岸花」、東宝作品の「如何なる星のもとに」「墨東奇譚」などしか観ておらず、山本さんのホームグラウンドである大映作品はほとんど観ていなかった。

で、いざ観てみると、これが良かった!
まず、山本富士子さん、その美貌と存在感だけで90分間、画面を持たせている。

山本さんの美貌といえば、「彼岸花」で小津安二郎が大輪の花のように扱っていて忘れられないが、ホームグランド大映の通俗の限りを尽くしたシチュエーションの中でもその存在感は変わりませんでした。

衣装、セットの豪華さ、カメラワーク(カメラがパンする中で時間経過を表現するなど)、照明などには、名にしおう大映撮影所の職人芸も堪能できました。

この時山本富士子は31歳。
彼女の20代のフィルモグラフを見ると、いわゆる番線作品への出演が多く、名画座での上映機会がある出演作品が少ないのが残念です。

なお、この日、神保町シアターのロビーには、入場を待つ太田和彦さんの姿がありました。
太田さんは吉田類と並ぶ、マスコミ系居酒屋文化人。
おじさんもかつての出張の折、太田さんが本に載せていた居酒屋に行ってはずれがなかった思い出があります。

農文協のブックセンターで2冊

神保町には、農文協の直営書店もあります。
さすが東京です。
農文協は農家の側に立った編集方針が徹底している月間「現代農業」の発行など、農協とは一線を画しながら得難い情報を現場に提供し続ける出版社。

おじさんも田舎暮らしを始めるにあたってここで、いろんな本を揃えました。
えひめAIという酵素の本とか、軽トラ、チェーンソウの使用マニュアルとか。

今日はここで、野菜の皮と種の利用に関する本と、発酵飲料に関する本を買いました。
来年以降の山小屋暮らしの参考にします。

神保町点描

いつも人が並ぶキッチン南海。カレーと揚げ物の店。

新刊本は東京堂書店。自費出版系や、少数部数の雑誌にも強い。映画関係に強い古書店・矢口書店のショーウインドウ。

古書店の店頭風景

神保町交差点。

長野相生座で小津4K「晩春」を観る

今年も残り少ない山小屋暮らし。
この季節は畑も薪割もほぼ終わり、1年で一番自由な時間に恵まれます。

山小屋から2時間かけて長野相生座へ

映画が好きなおじさんは、県内の上映状況も常にチェック。
今回は、長野相生座の「小津4K」という特集上映に行きました。
小津安二郎の代表作品をデジタル4K素材で上映するものです。

当時の作品は35ミリフィルムで撮影され、ネガで編集され、プリントされたフィルムで上映されました。
セリフ、音楽はフィルムに光学変換で焼きつけられました。
その素材をデジタル化しての上映会です。小津作品に限らず、黒沢作品など、内外の名作はすでにかなりデジタル化されています。

フィルムであれば、1作品で7,8巻、何十キロもの重さになり、上映の際には専用の映写機に掛けなければなりません。
しかも、上映回数が増えたり、年月が経過すると、フィルムが傷ついたり切れたり、カラーが色褪せたりして劣化します。
更に映画フィルムを保管したり、映画館に配給する際の費用がかさみます。
デジタル化するとそれらの欠点が解消されます。
何より映像の経年劣化が防げるというのが最大のメリットでしょう。
なにせ、太平洋戦争時に万が一の戦火を懸念して、「風と共に去りぬ」のネガフィルムが太平洋岸のハリウッドから米国東部に避難したというくらい、映画作品は財産であり、文化なのです。

というわけで小津4K。おじさんが駆け付けた日は「晩春」の上映。1949年松竹作品。
小津監督と主演の原節子の最初の出会い。
この後、「麦秋」(51年)「東京物語」(53年)と二人のコンビが続き、原節子の役名がいずれも紀子ということから紀子三部作と呼ばれています。

朝10:50からの上映。
日曜日ということもあり、集客は15人ほど。
思ったより良い集客。
年配の夫婦も来ていた。

映画ファンは往々にして自分の世界に閉じこもりがちで、例えば話しかけずらい印象がある。
そんなところに、小津の上映会に駆け付ける年配夫婦。ごく普通の夫婦の感じ。
ほっとするような風景だった。

さて、「晩春」。
おじさんは確か3度目。
最初に見たのは学生時代の16ミリ上映会。
原節子の花嫁姿が印象に残った。
独特の緊張感がある画面も。

10年以上ぶりに再見すると予想以上に特異な作品だった。
父親と暮らす婚期を逃しかけた娘が嫁に行くまでの話。予定調和的に言えば、父を思う娘の心情の健気さがテーマ?
ところがこの作品は一筋縄では行かなかった。

小津はいわばホームドラマばかりをつくったが、「麦秋」の主題は家族の崩壊、老人の死の予感だった。
「東京物語」はそもそも家族というものに対する幻想がテーマだった。

予定調和の世界を逸脱はしないながらも、暗く、深刻な実相をうかがわせるのが、小津作品の「特異さ」。
その緊張感が常に画面にある。

「晩春」では、主人公の原節子が、縁談を断ったり受け入れたり揺れ動く。
彼女は、都度都度はっきりとした理由は言わない。
がセリフ以外の表情やしぐさに心情が現れ、観客はハラハラしながら見守る。
果たして彼女が劇中で本心をぶちまけたとして、これ以上の緊張感を感じるだろうか?

さて原節子演ずる紀子は、三部作最終作の「東京物語」で戦争未亡人を演じた。
そのラスト近く、亡き夫の尾道の実家で笠智衆演ずる義父に対し「私ずるいんです。ずるい女なんです」と、女としての本音に近いセリフを吐く。

それに相応するセリフとしては、「晩春」の場合、笠智衆演ずる実父への「私このままがいいの。お父さんと一緒がいいの」であろうか。

「麦秋」では、杉村春子演ずる隣のおばさんへ「おばさん私みたいな行きおくれでもいい?」と言っていた。
駅でよく一緒になる近所の独身男が秋田に転勤することになり、男の母親である杉村が思わず、「紀ちゃんのような人がお嫁に来てくれたらねえ」とつぶやいたあとのセリフだった。

いずれも生身の女の生々しさだけでなく、人生への諦観というか大きな流れに逆らわない人間のすがすがしさが、相反するようだが、ある。
大きくは人間への肯定的な視線の中、意地悪で茶目っ気でかつ醒めた小津の視線がそこにある。

デジタル上映は、音も聞きやすく、画面の劣化からは解放されている。
ただ、昔の写真を復元したような、照りが気になった。昔の映画はハードそのものも古いまま見るのがいいのかもしれない。
デジタルで撮影された作品が、デジタル上映を予定されて作られているように。

権堂商店街にびっくり!

長野市内に権堂通りという商店街がある。
善光寺参りの後の精進落としの場所として栄え、花街があった場所という。
アーケード街が形成されているが、現在の長野市の中心部は駅前に移っており、アーケード街の人通りは少ない。

アーケードを抜けて長野電鉄の権堂駅を過ぎて進むと、一転、飲み屋街となる。
焼き鳥屋に交じって韓国居酒屋、エスニック料理屋と一気に場末感が増す。
BS放送のTBSで人気の「居酒屋放浪記」ロケ場所との店がある。
このご時世、飲み放題メニューのサービスぶりが激しい。
アーケード街にも奥に引っ込んだ気になる店もある。

長野の中心街は駅前

今の中心部はJR長野駅前。
東急デパートがあって、デパ地下は人でにぎわう。

長野は馬肉の本場。飲食店は馬の一頭買いをアピールしているのもうれしい。

今度は長野で飲んでみたい。

今日の昼食はいつものいむらや。
定番の焼きそばではなく、あんかけ中華を食べました。うまかったです。

 

地元パワースポット訪問記VOL.3 諏訪大社本宮で今年を感謝

諏訪大社は全国的に有名だ。
信濃国一之宮というから、西暦1000年前後から、すでに信州における神社の筆頭格だった。

また、全国の諏訪神社の総本社という。
神社の系統は、白山神社、八幡神社、などなどあるが、その一つ諏訪神社系統の筆頭である。

創建年代は不明というほど古い。
祭神は、アマテラス、スサノヲなど天孫系の神様ではなく、オオクニヌシの息子というから国津神系。

渡来人が律令国家を形成し、天孫系の天津神をまつるようになる前から、縄文系の地元民がその神をまつる場所だったようだ。

4か所ある諏訪大社の本宮が諏訪市にある。
市内には、ほかに前宮があり、下諏訪町には、下社春宮、下社秋宮がある。
前宮は創建時の原始的な雰囲気が残る場所。
下社はそれぞれ観光名所となっている。

今日は思い立って本宮に参拝。
参道に出店も並んでいる。

立派な鳥居をくぐる。

手水舎で手を洗う。

本宮には御柱が4本立っている。

参拝路に沿って進み、参拝殿からご神体を望んで二礼二拝。

おじさんは、長野での田舎暮らしの今年の無事を感謝した。

ついでに宝物殿で代々の宝物を鑑賞。
宝物には、数々の歴史上の第一級資料のほか、神社のハンコや日本刀などもあった。
すり減った大昔からのハンコは明治になるまで使われたという。
ハンコは、単なる祭祀用だけではなく、時の政権との連絡など、行政手続にも使われていたようだ。

神社がかつて信仰の対象としてだけではなく、具体的な行政の一端を担っていたことがうかがわれる。
日本刀とは、行政組織としての「力」の裏付けの象徴か?

ちなみに、宝物館のチケットは、お授け所で巫女さんから買う。

この時、巫女さんの凛とした口調のきれいな標準語に接して、おじさんは襟を正さざるをえなかった。
そう、ここはほのぼのとした田舎の神社などではなくて、日本国の設立のころから、その精神的、歴史的な中心のひとつだった場所。

東京などよりよほど古い歴史と精神文化を、巫女さんが象徴するこの神社は誇っているのだ。
これは、先日、前宮を訪れた時に、話を聞いた宮司さんの口調、醸し出す雰囲気と同じだった。

大きな神楽殿の奥には巨大な太鼓が2張りあった。

全国から寄せられる絵などの進物を展示する建物も。
砲丸の進物は戦争時代の象徴か?

これらの進物からは、諏訪大社が民心から遊離した独善的な存在ではないことがうかがえる。

県内の地酒の樽が並ぶ。酒蔵は諏訪大社の有力なスポンサーだろう。

本宮には本殿がない。
背後の山自体が本殿で、パワースポットとされる。
堂々たる広い社内。

恐るべし諏訪大社。
来年もまた山小屋暮らしの無事を祈って訪れよう。

庭の冬囲い

庭の冬囲いをした。
おじさんの山小屋の庭には、去年買ったブルーベリーの苗2本と、ブラックベリーが1本植えられている。

実はこの庭には春から夏にかかて百花繚乱の盛りを迎える。
ハマナスやスグリ、名前は知らない花などが6月ころから一斉に咲きだす。
先代の仙人さん夫婦が植えたものだ。
今は薪の乾燥台の裏側になってしまっているが、グズベリーなども実をつける。
スグリの実は毎年ジャムにしている。

おじさんの時代になってからは、ブルーベリー、ブラックベリーのほか、梅とサクランボも植えた。
ブルーベリーの苗は案外値段が高い。
1メートルほどの苗で2000円くらいもする。
おじさんは去年、直売所で400円の小型の苗を見つけて2本買った。
1500メートルの高地でも育つと聞き、ブルーベリーの好む、酸性土壌にして育てた。

1年たつがほとんど大きくなっていないのが残念だがしょうがない。
小さいままだと、雪に押しつぶされたり、枝が凍ったりするのが心配で、今年も雪囲いをした。

小枝を支柱にし、荒縄で囲んだ。
地面にはもみ殻を撒いた。

ブルーベリーよ来春また会おう。