深大寺周辺を歩く

調布市は、調布町と神代村が合併して誕生しました。

甲州街道の宿場に端を発し、多摩川の川筋に位置し、戦時中には陸軍飛行場を擁していた調布町とは異なり、多摩川の河岸段丘を何段か上った場所に位置する神代村は、武蔵野台地の南端に位置する純畑作地帯でした。

神代村が有する数少ない歴史的遺産が深大寺です。
今回は深大寺周辺を歩きました。

青渭神社

深大寺の北東に位置する古社です。
旧武蔵国多摩郡にある3つの青渭神社のうちの一つで、延喜式に記載されており、設立年は不明です。

地元では青浪様と呼ばれる水の神様です。
バス通りを挟んだ向かい側には都立農業高校の農園が谷戸の地形に沿って広がっており、園内にはワサビ田もあります。
神社は、鮮烈な湧水が滾々と湧く場所を守る神様だったのでしょう。

現在、人々は青渭神社ではなく深大寺に初詣に向かうので、忘れられた神様になりかかっているのが残念です。

深大寺境内

山門をくぐると深大寺境内です。
平安時代の733年に開基と伝えられる天台宗の別格本山です。

武蔵野台地南端のハケの地形を利用して開山しており湧水にも恵まれています。

本堂には毎年たくさんの人が初詣に訪れます。
普段の日も観光客が多く、路線バスが京王線つつじが丘駅から運行されています。

本堂とは別のお堂ではこの日も檀家衆などを集めてお経が詠まれていました。

国宝の釈迦如来像を祀るお堂です。
白鳳時代の仏像が安置されています。

大みそかには周辺の檀家衆が鐘を突きます。

深大寺周辺の参道

参道は、蕎麦や団子を出す茶店でにぎわっています。

鬼太郎茶屋はかつては時雨茶屋という屋号の店でした。
店の二階の座敷で、門前の池を見下ろして蕎麦を食うのもおつでした。

大みそかの夜から三が日はこのあたり人でごった返します。
地元の子供たちは中学生くらいになると友達同士で大みそかの夜に深大寺へ集まります。

神大寺城跡

古い本には神代城ともあります。
成立は不明で、歴史上に現れるのは16世紀になってからとのこと。
現水生植物公園を見下ろす高台に位置します。

江戸城をにらむ前進基地として場所の利があったのかもしれません。
徳川時代が万全になってからは廃城となったのでしょう。

現在どれくらい発掘が進んでいるのか?
現在はテニスクラブ(松岡修造が通っていた)と住宅地に占められています。

高田馬場から神楽坂を歩き市ヶ谷まで(下)

さて、早稲田の食堂・キッチンオトボケにてカツカレーを食べた山小屋おじさん。
満腹の腹を抱えて、早稲田通りをさらに西進。
神楽坂方面に向かいます。

古本屋の姿もなくなり、学生街の雰囲気から落ち着いた街並みに変わります。

捨て猫?を斡旋する店でしょうか。
様々な猫ちゃんの写真が貰い手を探しています。

しばらく歩くと早稲田通りが、右手にカーブしてゆきます。カーブする通りを進むと神楽坂界隈です。

神楽坂は大正時代に興隆した三業地(置屋、茶屋、料理屋が集まる場所)です。
大商店の旦那や政治家などが、芸者を呼んで飲み食いし、気が向けば泊ってゆける施設が集まった場所だったのです。

芸者が所属するところが置屋、旦那衆が芸者を呼んで飲み食いするところがお茶屋、お茶屋に料理を仕出しするところが料理屋となります。

神楽坂は表通りが商店街。
一歩裏手へ入ると石畳の路に面して、かつてのお茶屋、置屋が佇む風情が残っています。
かつてのお茶屋などは、カフェやレストラン、甘味屋などにリニューアルして観光客を呼び込んでいるようです。

神楽坂の商店街です。
早稲田通りの両側に路面店が続いています。
八百屋、雑貨屋、肉屋など生活に必要な品々を扱う個人商店が残っています。

商店街の雰囲気は「地に足がついた」というよりは、ちょっと浮ついた雰囲気です。
もともとの出発が三業地にくっついた出店なのでその雰囲気が残っているのでしょう。

食堂にも一工夫あり、おいしそうなメニューがラインナップされています。

お茶屋さん(三業地のそれではなく、茶葉を売る店)も残っています。
この店は土日には店頭でほうじ茶を炒っています。

団子屋さんです。

飯田橋の駅の近くには、地元民御用達のエリアもあります。

地元民御用達の飲み屋街入口。

食堂の値段も手ごろになります。

数年前までピンク映画館だったところ。
この手の映画館も希少価値になりました。

飯田橋ギンレイホールという古くからの名画座が残っています。

名物、一升チャーハンとジャンボ餃子を出す中華食堂。
チャーハン5,800円、餃子9,600円。
完食しても無料とはなりませんが、残しても持ち帰れます。

飯田橋駅を左に見て外堀を渡ります。
江戸城の牛込見附という、見張り台の石垣跡です。

外堀の内側には、青森会館がありアンテナショップ・北彩館が営業しています。
リンゴジュース、地酒、ヒバ製品などを常においています。運よくリンゴの特売などが開かれていれば、産地直送の青森リンゴが手に入ることがあります。

飯田橋から市ヶ谷に向けて、外堀沿いの堤防の上を歩きます。
右手には外堀と、外堀に並行して走る総武線の電車が見えます。
もうすぐここは花見の季節となります。

高田馬場から市ヶ谷までの半日散歩でした。

高田馬場から神楽坂へと歩き、市ヶ谷まで(上)

高田馬場から神楽坂へ抜けるコースはかれこれ10年くらい歩いている。
神楽坂についた後は、九段下へ抜けたり、東京神宮から神保町方面へ行ったり、靖国通りを歩いて市ヶ谷まで行ったり。

ことの最初は早稲田通りの古本屋に魅せられたから。

今でこそ、食べ物やが目立つ早稲田通りだが、昔は学生向けの雑多でカジュアルな古本屋が多く、また掘り出し物も多かった印象がある。

さて、令和二年の冬の晴れ間、高田馬場から早稲田通りをスタートした。

高田馬場駅周辺には学生向けの看板が多い。
早稲田界隈ならではの猥雑さか。
他の大学がどんどん無味無臭になっている中、早稲田のバンカラ精神には頑張ってほしい?

早稲田松竹。
いわゆる名画座の生き残り。
断片的なプログラムにはなるが、歴史的な名監督たる溝口健二、ゴダール、イエジー・スコリモフスキーなど作品も2本立て入れ替えなしで上映される。
フィルム上映も可能。
昔は界隈に高田馬場パール座という名画座も残っていた。

早稲田松竹隣の空き地。
30年ほど前だったろうか、冬にここに建っていた純喫茶店に入ったことがある。
すでに廃墟のようなたたずまいで、よろよろしたマスターがこちらの来店に合わせて灯油ストーブを点けてくれたっけ。

喫茶店の裏手には、バンカラ精神の権化のような木造アパートとも、旧制高校の学寮ともつかぬ建物が建っていたっけ。
今はなくなっている。

交差点を渡り、右手にインド大使館を過ぎる。

ここの団子はうまい。

辻には子守地蔵尊のお宮がある。
お祭りも行われているようだ。

地蔵尊を過ぎると古本屋エリアに入る。

まずはここ、古書現世。
サブカルから歴史ものまで品ぞろえが魅力的だった。
廃業したのか?ネット販売で食っているのか?今日も閉店だった。

ぽつぽつと古本屋が現れる。

店頭のゾッキ本棚。
一般的に100円コーナーが多いゾッキ本棚だが、ここでは1冊50円がある。
20円も!

おじさんが、閉店した古本屋を惜しんでいる間に時代は進んでいる。
通りを歩く学生にも外国人の姿が目立つ時代になった。
通りに面して建つのは、中国人向けの日本語教室なのであろうか?

虹書房。
表の20円本コーナーもいいが、戦史、沖縄史、原発、満洲史、アイヌ史、新左翼史・・・と魅力的なコレクションが書棚を彩る古書店。
専門書ばかりではなく、読みやすい書籍もそろっていて、神保町の同様な店より入りやすい。
現存する早稲田の古書店では一番に勧めたい。
店主もまだまだお元気な年代。

現在は、入試期間中で大学構内は立ち入り禁止。
春休みということもあり、構内至近距離の牛丼屋も休業中。

卒論製本屋もあった。

馬場下交差点からは穴八幡神社が見える。

今日の昼食はキッチンオトボケ。
揚げ物系の食堂。
ここのカツカレーはおじさんの好物。

春休みの影響か?近年の若者の嗜好の変化か?いつも満員の食堂がパラパラの入りなのが気になった。
ビルマ人と思しき従業員たちも手持無沙汰のようだった。

(続く)

三多摩の「闇」を行くVOL.1 調布の多摩川沿いを歩く

冬晴れの一日、自転車で調布の多摩川沿いを歩いてみました。

なぜ多摩川沿いかというと、調布にいわゆる部落があると聞いて行ってみたかったからです。

部落というワードに反応するのは、商店街、闇市跡、盛り場、下町などのキーワードに反応する昭和なおじさんの癖です。

おじさんの10歳も上の世代にとっては、それらのワードは現実そのもので、当たり前の世界だったでしょう。

それから10年、「もはや戦後ではない」と経済白書で謳われた昭和31年生まれのおじさんにとっては、受取り方がちょっと違ってきます。
おじさんの世代にとってそれらのワードは、歴史上のものとして紀行文を通して接する対象であるとともに、一方では多少の現実感もともなう微妙な言葉なのです。

ということで、調布市上石原界隈へ行ってみました。

件の多摩川沿いには幟はためくキムチ屋があることは知っていました。
その店の裏側には細すぎる道がグネグネと続く住宅地でした。

不定形な土地の区割りと言い、道路の細さといい、ここが部落であることは一目瞭然でした。

調布というと北多摩郡の時代から、特徴のない近郊農村のイメージですが、この一帯には、昭和の光景と人間の匂いが色濃く残っていました。

このあたり、火葬場もなく、獣皮を扱う伝統もなかったようなので、典型的な被差別部落のイメージがわきません。
どういった人が住んでいたのか?
多摩川を漁場とする漁民、渡し船の船頭、砂利の採掘者、甲州街道布田宿の下働き的な人々、といった、士農工商(常民)外の仕事を司る人々が暮らす場所だったのか?

行き止まりの路地の脇から鶏の声も聞こえていました。

雑品屋、葬儀屋などが多摩川に面して並んでいます。

古くからのいわゆる部落であり、その後は在日の人々も移り住んだ地区なのでしょう。

といっても、すぐ近くにはゴルフ練習場、マンション、分譲住宅などが迫っており、調布に残された「昭和の聖地」も、ゆくゆくはどこにでもある無国籍な光景に飲まれてゆく運命なのかもしれません。
それが「令和の風景」なのでしょうか。

部落から鶴川街道を挟んだ反対側には、砂利・砂の工場があります。
かつては盛んだった多摩川の砂利・砂採掘の名残だと思われます。
砂利・砂は、とっくに多摩川では採掘禁止となっています。
とするとこの工場、北朝鮮などから輸入した砂利の一時受け入れ先なでしょうか?

室生犀星原作の映画「あにいもうと」(1953年)の主人公達の父親が多摩川沿いの引退した砂利採掘人夫だったことが思い出されます。

多摩川沿いを少し南下した辺り、現京王テニスクラブの敷地も昔は部落があった場所だそうです。
近くには大映撮影所がある地域です。

多摩川に流れ着いた観音様を祀ったお宮です。

京王閣競輪場です。
このあたり、戦前の頃は東京市郊外の景勝地として、舟遊びや鮎料理で人を集めた場所でした。
涼を求めた人を集め、演芸場や遊園地を擁していたという京王閣は、今では競輪場となっています。

調布の多摩川沿いは、路地の民が住み、人々をギャンブルに誘い込み、映画という河原芸を発信する場所だったようです。

今日は競輪はお休み。
付近の飲食店は閉店中とはいいながらおとなしい雰囲気です。

近年のギャンブル場はすさんだ雰囲気をうまく隠しています。
一方で、ここ多摩川沿いの旧南多摩郡は、競馬場、競艇場、競輪場が並んでいる地域であることは記憶しておくべきでしょう。

ということで調布の多摩川沿いの旅を終わります。

三鷹と太宰治

三鷹駅南口からすぐのところに、太宰治文学サロンという施設があります。

太宰の年表や人物関係図、三鷹の借家の模型などが並び、年配の案内委員の方がいます。

ヒョイと寄ってみました。

案内員の方と、太宰が玉川上水に入水自殺した地点や、借家の場所などの雑談をするうちにそれらの場所を回ってみようと思いました。

太宰が住んでいた三鷹市連雀町の借家があった場所です。

向かいに井心亭という日本家屋があります。

井心亭には、太宰の借家の庭にあったという百日紅が移植されています。

太宰が愛人?と入水自殺した玉川上水の入水ポイントとみなされるあたりです。
三鷹駅からすぐ近くです。
太宰が通った酒屋、うなぎ屋なども近くにありました。
太宰の生活圏の真っただ中で入水したのですね。

太宰と愛人?がつながれたまま発見された玉川上水の新橋付近です。
発見まで6日かかったそうです。
現在の玉川上水は大人二人がつながって流されるほどの水量はありません。

太宰の墓です。

三鷹市内の禅林寺という大きなお寺の墓地にあります。

斜め前には森鴎外の墓石があります。

故郷、青森の生家を追われ、三鷹で破滅的な文筆生活を送っていた太宰のつかの間の安定を共にした夫人が、太宰の希望通り、縁もないこのお寺に頼んで供養してもらったとのことです。

太宰の命日に墓前で行われていた桜桃忌は、現在は行われていないそうです。

太宰が通った駅前のうなぎ屋跡には案内板が建っています。

毎月第4日曜日(3月から11月)には、予約不要、参加費無料で三鷹駅から太宰ゆかりのコースを、2時間40分かけての定例ガイドが行われています。

「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」を読む(下)

ハリウッドと米国の40年代を俯瞰する大冊を読み終えました。

当時を過ごした米国人ならではの、また名字から察するに、ドイツか東欧にルーツを持つおそらくユダヤ系の著者(オットー・フリードリック)ならではの、「距離感」がキープされた、批評精神に満ちた一冊でした。

本書後半のテーマは歴史の潮流に翻弄された、ハリウッドとそこに依拠する芸術家たちの顛末になります。

1940年代後半のアメリカの歴史潮流は、冷戦時代を背景にした、ルーズベルトのニューディール政策など容共的な姿勢からの反動をベースにしたもので、反米活動的なものの摘発が盛んだったようです。

ハリウッドでは後にマッカーシズムとも赤狩りともいわれる、いわゆる「非米活動」の摘発が下院で繰り広げられ、また社会の空気に支配的となり、結果として左翼的(具体的にはアメリカ共産党員か、シンパか)な芸術家(映画製作者、監督、脚本化、俳優など)が摘発、投獄されていったのでした。

当初は、MGM、ワーナーなど大手撮影所の「帝王」たちも、言論の自由を武器の観点から、自社の映画製作の自由を宣言しますが、後には共産主義については反対に回ります。

政治家たち(のちの大統領ニクソンもその一人)の執拗な干渉(左派と思しきハリウッド人に対する下院への召喚と証言の強要)の結果、チャールズ・チャップリンン、ベルナルド・ブレヒトは米国を去り、俳優のジェームス・ガーフィールドは失意の死に至ります。
エドワード・G・ロビンソンも仕事が激減したそうです。
シンパとみなされそうになった、ハンフリー・ボカードは身をひるがえして活動から去ってゆきました。

下院に召喚されたハリウッド人は19人いました。
その中で最も戦闘的でかつ証言を拒否した、10人のハリウッド人(ハリウンドテン)は侮辱罪で投獄されます。
監督のエドワード・ドミトリク、脚本家のドルトン・トランボなどです。
著者のフリードリックは必ずしも彼らハリウッドテンを英雄視せず、同情的でもなく、公聴会で質問をはぐらかすハリウッドテンたちのしたたかさを強調しているのが印象的です。

そうこうしている間に、産業としての映画そのものの凋落傾向が見えてきます。
大手撮影所がヒットを生む企画に往生し、ならばと有力芸術家たちが立ち上げたいわゆる独立プロダクションでも、例えば名作「素晴らしき哉・人生」を製作したフランク・キャプラらのプロダクションが破産しています。
ほかの独立プロは推して知るべしでした。

独禁法違反でブロックブッキングシステム(映画制作会社が末端の映画館までを直営支配する構造)が摘発され,大手映画会社の凋落を後押しします。

40年代終盤にはこうした凋落の打開策として、聖書を題材にした大作が企画され、「サムソンとデリラ」「クオバデイス」などが製作されますが大勢に影響はありませんでした。

こうした時代の潮流の中、本書の著者は、チャップリン、イングリッド・バークマン、ビリー・ワイルダーなどの映画人にスポットを当てています。

チャップリンについては、本人が『いかに見栄っ張りで単純でセンチで様々な知的な罪を犯そうとも、ハリウッドのどの作家にまして時代の核となる問題を把握し、映画で正しく評価することをやってのけた』としています。
言うまでもなく「モダンタイムス」から「独裁者」「殺人狂時代」の製作を評価してのことでしょう。

イタリアの監督ロベルト・ロッセリーニの下へ走ったバークマンの行いがいかにハリウッド人に理解されなかったか(彼らは、バークマンには関心と興味があったものの、彼女が愛したロッセリーニの「戦火のかなた」「無防備都市」には全く興味を示さず、理解の対処外だった)についても淡々と述べています。

名匠の名高いビリー・ワイルダーが「失われた週末」の成功に続いて製作した「サンセット大通り」についてのエピソードにも章を割いています。
著者によるとワイルダーは『人間嫌いで、死を連想させる不気味な感性を持ち、冷酷で粗暴』だそうです。
それくらいの個性でないとハリウッドでのし上がり、生き残っていけないのでしょう。
もちろん有り余る才能は当然として。

ある意味で映画史のエッセンスともいえる1940年代前後のハリウッド通史です。

この本は、日本人の映画評論家には書けないし、書きたくても情報を持っていない題材に満ちたところの「10年間のハリウッドにおける全事象についての論評」です。
生々しいエピソードの数々もさることながら、その背景に切り込んだ筆致により、ハリウッドの否映画という文化の本質と流れに理解が至ります。
目から鱗が落ちる思いで読みました。

三鷹でいちご狩り

2月11日、三鷹市牟礼にある小林農園というところでいちご狩りをしました。

東京郊外の三鷹市は、中心部を離れると農地がまだまだ残っており、専業ではないものの農家もまだ残っています。

葉物などの近郊野菜はもちろん、キウイなども三鷹の名産です。

ということで、自宅に帰省中の山小屋おじさんは、娘一家らとともに、三鷹市牟礼にある小林農園というところにいちご狩りに行ってきました。

三鷹市内南部を東西に走る東八道路が東に伸び、環状8号線に合流しましたが、その沿道に小林農園はあります。

春先のいちごのほか、キウイ、葡萄、銀杏などを産するとのこと。
数十坪ほどもありそうなハウスが3棟並んでいます。
今の時期は週1回ほどのペースでいちご狩りを行っています。

この農園のやり方は、ハウス内では摘み取りのみで、摘み取った分を買い取る方式です。

当日11時開場に向けて出発しましたが、農園につくとすでに数十人の列が。

日当たりがいいので日光浴をしながら30分ほど並んで入場。

おじさんはハウスの外で待ちました。

自転車でやってくる子供連れのお客さんが多かったです。

いちごの品種はとちおとめとかおり野。積み立てはフレッシュで新鮮でした。

春が近づいてくる東京の建国記念日でした。

「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」を読む(上)

三鷹駅北口の水中書店という古本屋で800円で購入した本を読んでいます。
599ページの大冊で、本体定価3,689円1994年初版の文芸春秋社刊の翻訳本「ハリウッド帝国の興亡」です。

小中学生時代に、リバイバル上映で「80日間世界一周」や「エデンの東」「シェーン」などを映画館で観て映画に心惹かれ、長じては生意気に監督別に作品を追っかけたりしてきた山小屋おじさんの映画人生ですが、齢を越えてようやく映画を「線」で観ようと思い立ちました。

個別の作品に感動したり、好きなスターや監督作品を追いかけるのが、「点」で観るということならば、映画の歴史の流れにのっとった形で作品を選択・鑑賞するのが「線」で観るということだと、遅まきながら気づいたのです。

名画座・渋谷シネマヴェーラではずいぶん前から「映画史上の名作特集」というのをやっていて、サイレント時代の「イントレランス」(1916年)から50年代の作品までデジタル上映しています。
当初は、翻訳なしの素材をやっていましたが、今では自前で翻訳しているようで、歴史上の名作を系統的に(フィルムノワール特集、ミュージカル特集、サイレント時代特集など)上映しています。

最初はこれらの古い名作群のラインナップに心が動かなかったのですが、フィルムノワール特集などで1,2本観てみるとそこには実に味わい深いものがありました。
「夜の人々」(1948年)、「ハイシエラ」(1941年)といった作品は、映画の原点ともいうべき要素が詰まっており、見ごたえがありました。

思い返してみると、おじさんが小学生後半から高校生にかけてテレビの古い洋画放送を観たときも、様々な作品に感動したものでした。
当時は淀川長治さん解説の日曜洋画画劇場のほか、金曜、土曜の夜、日曜の昼間、平日の昼間などに洋画放送があり、そこで数々の映画に接したものでした。

テレビで数々の作品にアトランダムに接したことは財産になりました。
「我が谷は緑なりき」(1941年)、「私は死にたくない」(1958年)、「アパートの鍵貸します」(1960年)、「終身犯」(1962年)などをの作品を思い出します。

ということで、山小屋おじさん、映画鑑賞人生50年の膨大な時間をブラウン管とスクリーンにかけてたどり着いたのが、1940、50年代のアメリカ映画(特にフィルムノワールと呼ばれる分野)と大蔵貢時代の新東宝映画、という魅力的な?「2大分野」です。
映画の歴史という「線」の中で浮かび上がってきた二つの「黄金の時間帯」です。

特に40年代のフィルムノワールがアメリカの映画界で生まれた歴史上の必然や、日本では知られていなかった作品群を知りたいなと思い、関連する本なども探してみたのです。40,50年代のアメリカ映画を「線」上で観るための参考書が欲しかったのです。

そんな時に見つかったのが「ハリウッド帝国の興亡」でした。

著者のオットー・フリードリックという人は1929年生まれ。40年代の映画はボストンでの学生時代に週2、3回観ており、イングリッド・バーグマンの大ファンで、ロナルド・レーガンが死を演じる場面には涙を禁じ得ない、との自己紹介。

本著作では40年代を各年ごとに章で区切り、著者が選んだエピソードを、辛辣な批評を加えるかたちでピックアップしています。
関係者にインタビューなどはせず、文献を漁ってまとめる手法で、矛盾するエピソードも並立に示して、全盛期のハリウッドの歴史、つまりは映画そのものの歴史についてつづっています。

前半の1945年までを読みましたが、そこでつづられているエピソードは、例えば・・・。

ハリウッドの撮影所で絶対的な帝王として君臨するプロデユーサー達。
MGMのルイス・B・メイヤー、ワーナーのジャック・ワーナー、パラマウントのアドルフ・ズーカー、20世紀フォックスのダリル・F・ザナックなど。

⇒ロシヤや東欧出身で、屑屋や職人から身を起こしたそうした初代「帝王」たちの無知ぶりと暴君ぶり。
ジャック・ワーナーは靴職人時代からの癖で、撮影所内を歩いていても釘が落ちていると拾ってくわえていた、など。

⇒コロンビアの「帝王」ハリー・コーンのオフィスにはイタリアファシスト党の党首・ムソリーニの肖像画かかっていたり、MGMの「帝王」メイヤーのオフィスは、レザー張りの壁、4台の電話、暖炉、グランドピアノがすべて白で統一されていたそうです。

とにかく「帝王」たちは、『独りよがりで、無学、貪欲、冷酷で人をだます』人たちだった、とあります。
著者の「帝王」たちに対する姿勢には妥協も忖度もありません。
経営者たちの実像を描くことは、夢の工場と言われたハリウッドの産業としての映画のある意味での背景というか実像に迫ることでもあります。

戦前にドイツから亡命してハリウッドにたどり着いた映画人たち。
フリッツ・ラング、ビリー・ワイルダー、ロバート・シオドマークなど。

⇒フリッツ・ラングのハリウッドにおける成功。
「激怒」(1936年)がヒットして以降、ドイツ人でもアクション映画が撮れると認められたこと。
ビリー・ワイルダーのハリウッドにおけるあくなき成り上がり。

亡命してきた文化人たちのこと。
トーマス・マン(文学)、アーノルド・シェーンベルグ(音楽)、ベルナルド・ブレヒト(演劇)達とその顛末。

⇒なぜかハリウッド周辺にたどり着いた彼ら文化人亡命者。
その多くは祖国での栄光に比して、最後までみじめな境遇にあったこと。

ハリウッドのスタッフ組合と、ロシア移民のチンピラだった、ウイリー・ビオツという組合ゴロの顛末。

⇒チンピラ上りが組合のボスを買収し、ストをチラつかせるなどして会社側をゆすり、のし上がっていった末の悲惨な終焉。

戦争時におけるハリウッド人たちのふるまい。

⇒戦時債券を買った人にキスでお礼するヘデイ・ラマールとラナ・ターナーと、軍隊慰問に特化してゆくボブ・ホープのことなど。

10万ドルの予算で年1本を自由に制作できる破格の条件でRKOというハリウッドの弱小スタジオに乗り込んだ23歳のオーソン・ウエルズが、ジョージ・シェーファーというプロデユーサーの後ろ盾を得て、「市民ケーン」を製作公開するまでの手練手管。

⇒モデルとなった新聞王・ハーストに批判的だとバッシングの中、ウエルズは「テスト」と称してカメラを回し撮影を敢行。
作品完成後は、敵対陣営からの高額でのネガの買取り申込みをシェーファーが謝絶。
作品公開直後にRKOが買収され、制作者:シェーファー、監督:ウエルズともに、RKOを追放されるまでのわずかの間に、「市民ケーン」という映画史上のベストワン作品(ウエルズが思うままに作った最初で最後の映画)が生まれたことの奇跡。

俳優、スタッフを7年間縛り続けるハリウッド独特の契約システムと数々の犠牲者たちとその反撃。

⇒奴隷的契約に風穴を開けた、ワーナーに対するオリビア・デ・ハビランドの抵抗。

・ハリウッドの「帝王」たちが、末端の映画館までを経済的に支配した「ブロックブッキング」は1939年に独禁法違反となっていたが、「帝王」たちは無視していた。
そこに1944年司法省の告発が入って「帝国」の独占にひびが入り始める。

・のちの「ハリウッドの赤狩り」の萌芽ともいえる、映画人のいわゆるブラックリストが、撮影所の「帝王」たちによって作り始められた。

著者お気に入りの監督のエピソード。
オットー・プレミンジャー、チャールズ・チャップリン、ジョン・ヒューストン、プレストン・スタージェス達。

⇒これらの監督たちがハリウッドで仕事するに至るまでの様々な経緯と、そのもてる才能のこと。
そして彼らを高額報酬で「囲った」挙句、その才能を換骨奪胎せんとする、撮影所の「帝王」たちとの闘いと往々にしての敗退。

著者お気に入りのスターのエピソード。
リタ・ヘイワース、エロール・フリン、バーグマン、レーガンなどについての様々なこと。

⇒スペイン人の父を持ち、黒々とした巻毛の少女が、直毛の赤毛に直して芸名をリタ・ヘイワースとし、「カバーガール」(1943年)で女神になるまで、など。

以上、基本的に著者の好みに寄った選別でつづられるエピソードではありますが、リアルタイムに歴史に接してきた記述には臨場感があります。
といっても著者はハリウッドに暮らしていた、いわゆる関係者ではないので皮肉と辛らつを込めた距離感もあります。

ハリウッドのスキャンダルと言えば、写真をメインに、チャップリンやエロール・フリンなどのスキャンダルを集めた「ハリウッドバビロン」という本もありました。

本作もスキャンダルを扱ってはいますが、歴史、政治、芸術性の流れを見失うことなく、独特のユーモアある筆致が魅力的です。

本の後半が楽しみです。

調布の農家から小松菜をいただきました

2月1日、お誘いがあって調布市内の農家で、小松菜の収穫を行いました。

収穫遅れの小松菜を収穫しただけくれるとのことです。

こちらの農家に援農している、家内の知り合いからのお誘いです。

市内の野川沿いに位置する農家。
近郊農家にしては広い面積を持っています。

ハウスが何棟も並んでいます。

土台を組み、敷居がある本格的なハウスです。
東京の冬は日差しがあるので、暖房機能はないようです。

管理機だけで数台持っています。

ハウスでは、小松菜のほかに、春菊、レタスなどが栽培されています。

今回は路地で栽培されている小松菜の収穫。
集まってきた近所のおばさんたちと、鎌を使って収穫、ハサミで根っこを落とし、枯れたはっぱを捨てて持ち帰り用に荷造りします。

10時には農家さんがお茶のペットボトルをさ知れてくれ、休憩しました。

休憩中は、農家の主人から地域の昔話などを伺いました。
また、趣味でコンニャクイモを作っており、子供対象のコンニャク作り教室で使っているとのことでした。

話によると、農家が直接、子供教室などを行うのではなく、援農で出入りしている人が、子供対象の教室などを企画しているようです。

山小屋おじさんが参加した今回の小松菜収穫も、援農で出入りしている女性が、農家さんの協力を得て企画したものです。

都市にはさまざまな才能、能力、力を持った人材が潜んでいます。開放度の強い農家があれば、様々な人材がそこに突き刺さり、一般市民との懸け橋になっているのです。
まさに都市近郊尿業の一つの姿です。

農家さんはこの日は長ネギの定植をしていました。

新鮮な小松菜をしこたまいただきました。

調布市内の農家の畑で初めて作業しました。

ガイドヘルパーを始めました

いくつになっても「先立つ」ものがあります。

毎年12月から3月いっぱいまで山小屋をはずれるおじさん。東京の自宅で主に専業主夫として過ごしますが、一方、有り余る時間を少しでも現金に換えられたら?と思うのが人情です。

最初の年は、府中の税務署に確定申告時の作業要員として短期バイトしました。
近隣の専業主婦たちが大勢詰めかけるバイトでした。

次の年は郵便局の年賀状要員として応募しましたが、応募時期を過ぎていたこともあり落選。
他のバイトにもご縁がなく、ほとんど収入なしでした。

今年こそはと、昨年12月にハローワークにも行きましたが、年齢のほか、「短期」(12月から3月まで)という時点でほぼ募集無しの現状でした。
交通整理員くらいなら?と思っていた山小屋おじさんは世間知らずでした。

人手不足、などというのは表向きのことで、世の中、ますます「若い人を少しでも安く、長期に使いたい」というのが、実業界の本音であり、世の中の常識であったのです。

70歳まで雇用とか、国民総活躍時代とか、氷河期世代の救済とかニュースで言ってますが、本気にしてはいけません。

ほとんどが山小屋おじさんのような庶民中の庶民には「絵に描いた餅」。
世間のキャッチフレーズに惑わされていては、大事な人生の後半戦を生きてはいけません。

自分のことは自分でしつつ、やりたいことをやる。

多少は世間に妥協して、現金収入の手段とすることはあっても、学生時代のバイトのような、現金収入のためには職種を選ばずのような時間の使い方は今更ちょっと。

ということを考えていたら、うちに遊びに来た、社会福祉協議会勤めの人から、「障害者のガイドヘルパーが足りない」との話を小耳にはさみました。
休日などに外出する障害者に同行するヘルパーの仕事です。

小耳にはさみながらハローワークに行くと、ガイドヘルパー資格研修開催のチラシが目に入りました。

早速、12月開催の「知的障碍者移動支援従業者養成研修」に参加しました。

研修日当日、会場の調布市福祉人材育成センターには、12人の参加者がいました。
うち10人が女性で、子育てが一段落した主婦層が主でした。

男性はおじさんを含めて2名。
もう一人の方はサラリーマンの退職者で、おじさんより一つ若いくらいの人。
奥さんを説得して定年後の嘱託生活を早々に切り上げて、サラリーマン生活から足を洗ったとのこと。
同感です、ご同輩。

2日間の研修カリキュラムは、障害者福祉に関する制度について、ガイドヘルパーの実務について、障害者の理解について、など。
講師には市役所の福祉課職員のほか、障害者施設の運営者など。

実際のガイドヘルプの模様を映像を使って見せたり、講師のこれまでの体験を臨場感豊かにプレゼンするなど魅力的な講習の2日間でした。

費用は資料代の1500円のみ。
研修を受ける者は優遇されています。
研修費用を援助する調布市は、実は隠れた福祉の街なのかもしれません?

その後、実習が1日。
協力先の施設のレクレーションの日に合わせ、先輩ヘルパーについて1日過ごしました。

吉祥寺でボーリングするレクレーションでしたが、現地集合するまで電車で吉祥寺に入り、マクドナルドで昼食、家電量販店でウインドショッピングの間、利用者とヘルパーにくっついて歩きました。

おじさんが付いたヘルパーさんは、70歳代の方でしたが、動きやすそうな体つきと、無駄のないガイドぶりに、学ぶところが大でした。

その後、1月に1本立ちのデビュー。
平日の夕方、施設からプールまでの送迎の仕事でした。
行きは先輩ヘルパーさんと同行、帰りは単独のガイドでした。

緊張しましたが何とか無事に完了。
利用者さんは自閉症とはいっても会話ができ、財布も自分で管理できるくらいの人で、新人のおじさんにも優しい人でした。

また、緊張といっても、上司やお客さんの顔色をうかがう緊張ではなく、ひとりの人格に関する尊重という意味での緊張なので、悪い意味でのストレスはありませんでした。

2月にはすでに5本の仕事が入りました。
3月いっぱい頑張ります。