令和2年3月29日の雪

東京に雪が降って1週間たちました。
3月29日の雪の日を記録しておこうと思います。

シーズンごとに何回かはある東京地方の雪の天気予報。

雪に弱い東京では、実際に雪が降ったら電車のダイヤは狂うは、バスは来ないは、自家用車は滑るは、で都市機能がマヒしてしまいます。
そこで毎度テレビでは強めの予報を出して、注意を喚起します。
そのためか、雪の天気予報ははずれることが多いのです。

ところが3月29日日曜日の朝。
起きてみると外は真っ白でした。
珍しく雪の天気予報が当たりました。

家の隣の畑に植えられた木々。
家のベランダ。
玄関前の道路。
自家用車に積もった雪。

桜の開花があった後の雪でした。

子供たちなら雪遊びをしたいところですが、ボタン雪もいいところのべちゃべちゃの雪。
ジャンバーにつくと雨のようにしみますし、髪にかかるとたちまち濡れネズミ。

雪国の住民が見ると、夏タイヤでも走れるくらいにみぞれがうっすら積もっているだけの状況でも、東京の住民から見ると、これでも豪雪に1歩も家を出られない厳しい状況、に映るんです。

春先の関東地方の気まぐれな降雪でした。

この雪。
歴史的なコロナ感染に苦しむ首都圏への天の恵みの雪か、天の悲しみの雪なのか。

日中には気温で融けた雪でしたがそれなりにうすら寒い1日でした。

新型コロナについて 上海からのリポート 続報

3月末。
上海の日本人友人から続報が入りましたので、内容を転送します。
日本でのコロナ対応とは、ある意味で極端に異なる中国政府の対応ぶりがうかがえます。

(レポート内容)

上海はいま急速に日常を取り戻しつつあります。
大公園中心だった公園開放が全ての公園に及び動物園、博物館、図書館、植物園、大娯楽施設など映画館、カラオケを除き全てが開場となりました。
しかし人々の心はそう簡単には元どうりとはいかず何かに怯えているようにも見えます。

しかしこれはある意味いい事だとおもいます。
統計上はこの20曰間,上海から感染者は出ていずそういう安心感はみんな持っているのですが、あまりにも徹底した厳かい体制から曰常生活に戻ることになにかとまどいがあります。

それに政府は今迄通りマスクをし手洗い、人込みを避け、換気を良くすることなどを推奨して緊張感を持って生活することを求めています。
マンションの入口は依然として検温所があり通行証も必要です。
でも今日から配達の人々は入ることが出来るになりました。それと公園など公共施設に入場するにはスマホによる登錄が必要です。
このように政府市民ともども試行錯誤をしながらコロナウイルスから解放を目指していますが、繁華街の人出を?とみるとこれは8割がた戻っているように思います。

この騒動が始まって初めて一昨日料理店へ入ったのですが、5分くらいの入りで、入口で消毒してくれました。

上海市の感染者のその後ですが3月3曰の338名でビタッと止まって入院者も18名を残すところで、形勢が突然激変しました。

10曰ほど前から先ずイランから3名,イタリアから2名その後はイギリス、アメリカ、ドイツ等留学生を中心に外国人の駐在員も含めて感染者が94名にも及びます。

入国者はまず北京へ、2番めに上海へ向かいます。
たまりかねた政府は昨日北京空港への入国を禁止しほかの空港へ向かうようにもとめました。
それと同時に検査を徹底させるため全ての入国者にpcr検査を実施し14曰の隔離を自費でもとめました。
これにより上海への負担はさらに重くなります。

さて上海から数千名,中国全土から4万2千名以上に上った紧急医療救援隊ですが現地で热烈な送迎会を受けて続々と、行くときの悲壮感や心意気と打って変わって柔らかな安堵に满ちた表情で凯旋してきました。
歓迎、白衣の天使と大きく書かれた横断幕の前で空港には上海市長も出迎えました。
しかしこれで解散ではなく、上海市郊外のホテルで2週間の隔離生活に入るそうです。
なお上海隊はまだ1400名が残っているということです。
上海隊の隊長を務めた大病院の副院長の人がテレビのインタビューで現地の模様を詳しく話していたのですが初めは防護服も不足していて、8時間休息がなかったそうです。
そのような中で驚いたのは、上海隊には一人の感染者も出なかったそうです。

中国からは今イタリアやイランに救援隊が出ているのですが、この先生も一段落したら出かけたいと話していました。すごいです 。

さて武漢ですがホンダなど大企業を中心に操業を開始し、また武漢から労働者が新幹線の特別号車で広東へ通勤をはじめています。
武漢の中心駅が最後の大規模な消毒を終え今日から武漢のすべての駅が再開しました。

こうして日常を取り戻しつつある中国ですが 世界では大変な事態になっていますね。
今日ネットでニューヨ一クに住む日本人がすでに失業者が街に溢れだしていると書いていて驚いたのてすが、この2か月の中国のことを改めて考えてみると14億人の中国人がすべて隔離されて生活している状熊の中でどうして平稳が保ってこれたかというと、休業中の会社員だけでなく全ての飲食店の店員などにも滞りなく給料が支払われていたことが一番大きく、さらに医療救援隊人たちには3倍の給料が上乘せされた、またコロナウイルスに関しては検査や治療费が無料だったことがみんながかくさず申し出たことにつながったと思います。

曰本は比較的平稳なように見えますが、中国も含めて油断はきんもつですね。
お互い気を引き締めて完全終息に向けて頑張っていきましょう。
一刻も早く世界が平稳を取り戻すことを祈ってやみません。

以上です。

ぼたもちを作りました

春のお彼岸にぼたもちを作りました。

小豆は北海道産の大納言。
令和1年の新豆を用意しました。

一晩水につけ、2度茹でこぼし。
煮始めてからもびっくり水を欠かさず。
豆に火が通ってから、ザラメで味付けしました。
煮詰めるときには付きっ切りでしゃもじでかき混ぜました。

炊飯器でもち米を炊き、すりこ木で半搗きにします。

半搗きの餅にあんこをのせて出来上がりです。

4歳の孫が手伝ってくれました。
もち米4合で20個くらいできました。

孫が持ち帰ったり、翌日に家内が彩ステーションに持って行ったりしてどうにかはけました。

味は思ったよりおいしかったです。
孫とは秋のお彼岸にも作る約束をしました。

今年の桜

令和2年の桜の季節が終わろうとしています。
コロナ騒ぎがご時世の世の中。
桜は例年通りに咲きました。
途中、季節外れの雪が積もったりして。
そして今は桜吹雪となっています。

3月下旬の調布市柴崎。
通称「国有地」脇の桜です。

4月初旬の国際基督教大学正門通り沿いの桜です。
葉桜になっています。
一般人入構お断りの張り紙が正門に貼ってありました。
貼り紙のせいか、コロナのせいか、構内に一般人と思しき人影はありませんでした。

神代中学グラウンド沿いの桜です。
桜吹雪となって散り始めています。
温暖化のせいか、近年は入学式までは花が持たなくなっています。

野川沿いの桜です。
調布の桜の名所の一つとなっています。
野川は国分寺崖線に沿って流れ、世田谷区で多摩川に合流する街の川です。
沿岸の市民の散歩コースとなっています。

今年もよい年でありますように、と願いたいところです・・・。

調布柴崎の彩ステーションと休校中の子供たち その2

家内がやっている地元の彩ステーションの続報です。

その後も彩ステーションは、休校中の子供たちの受け入れ場所として機能しています。
また、普段なら、ワークショップや勉強会などの催し物が行われるホールでは、市内の若いお母さんたちの「手作り市」の場所となっています。

「手作り市」は、小学生向けの防災頭巾、上履き入れ、お道具入れ、マスク、ランチョンマットなどを手作りし、販売しているグループです。
大規模な展示即売会が会場の都合で中止となったため、彩ステーションに場所提供の依頼があったものです。

ご時世柄、マスクがよく売れています。
大人用は毎日完売でした。
入口の「マスクあります」の張り紙を見て飛び込みのお客さんや、口コミでやってくるお客さんも多数あります。

また、新1年生を持つ親御さんなどに、防災頭巾などが喜ばれているようです。

マスクを作る時間は、大人用で1時間に3枚がせいぜいだそうです。
1枚400円として、材料費を考えると決して割のいい仕事ではありませんが、「手作り市」の若いお母さんたちは前向きに頑張っています。

一方、休校中の子供たちも、三々五々集まってきます。

この日は昼食にカレーを自分たちで作って食べていました。子供が好きで、子供扱いの上手なお兄さんが来てくれたり、ベテランの塾の先生が来てくれたりと、子供の面倒を見るボランテイアも集まってきました。

長期戦の様相を呈してきた、コロナ時世。
地域の力で立ち向かってゆきたいものです。

ガイドヘルパーを始めました その3

3月22日の情報です。

この日は3月でわずか2回目のガイドヘルパーの日でした。
2月には7コマのヘルパーをこなしましたが、3月は結局2コマだけとなりました。

当初は、3月も6コマほどの予約が入っていましたが、キャンセルが相次いだのでした。
キャンセルの理由としてはコロナウイルスのリスクのためのほか、ガイド依頼目的の水泳教室などが中止となったため、などでした。
ご時世です。

ということで22日は利用者とともに立川の昭和記念公園へ行ってきました。

ちょいと風が強いものの、春らしい気候。
立川駅周辺はもちろん、昭和記念公園入口付近も陸続と続くファミリーや休校の中高生グループなどでにぎわっていました。
野外で風通しもよく、いくら人が集まっても人の密集などできようもない、広大な昭和記念公園ならではの風景でしょうか。

公園内は早咲きの桜が満開。
ソメイヨシノは3分咲きでした。

公園中央にある「みんなの原っぱ」では、子供たちが遊びまわっていました。
20年以上も前に家族連れで来ていたことを思い出します。

当時と様子が違うのは、日よけなのでしょうかテントがずいぶん立っていることです。
また当時見られた、コンロを持ち込んでのバーベキュー姿は見られませんでした。
いまの親御さんは行儀がよくなっているようです。

砂川口へ向かう途中の菜の花畑です。

花の丘もありました。
現在作付け中で、シーズンには花盛りとなることでしょう。

風のせいで、利用者の目がかゆそうでしたが、1日歩いて心身ともに良い解放感に包まれました。

春の小金井、国分寺を歩く

春本番と思しき最高気温19度の1日、小金井と国分寺を歩きました。

自転車で調布の自宅をスタート。
東八道路の野崎八幡交差点に出ます。

東八道路の歩道には自転車走行スペースがあります。

早々に武蔵境方面へ折れ、さらに左折して国際基督教大学方面へ向かいます。

校庭の真ん中に桜の巨木がそびえる三鷹第二小学校も休校中です。

野菜の無人スタンドです。
三鷹は一般野菜のほかキウイなどが名産です。

畑の中をショートカットで抜ける道があります。
おじさんは「緑のトンネル」と呼んでいます。

緑のトンネルを抜けると、国際基督教大学の正門です。
正門内の桜並木は開花準備中でしょうか。

大学構内を斜めに抜け、裏門から構外へ出ます。

西武多摩川線の踏切を渡ります。
菜の花が満開でした。

このあたり、西武多摩川線の新小金井駅周辺になります。
渋い商店街があります。
駅前でロケをやっていました。

さらに西進。
JR東小金井駅周辺を通過します。

JR武蔵小金井駅を目指します。
高架下には、学生用の下宿が建っていました。

武蔵小金井駅方面へと続く、農工大通り沿いに、花に囲まれた神社があります。
八重垣稲荷神社です。

鳥居の近くにある寒緋桜が満開を過ぎています。
鳥居をくぐってお参りします。
狐のボードが道案内してくれる境内は植物に囲まれた異空間です。
まだ春先なので花々が最盛期ではありませんが、桜が満開の時期のにぎやかさが想像できる境内です。
頻繁に表れる案内板(自筆)に神主さんの人柄が現れています。
素通りできない神社です。

JR武蔵小金井駅方面へ農工大商店街を通ります。

蛇の目通り商店街という極渋の商店街がありました。
スナック、居酒屋が残る、裏通りの雰囲気たっぷりの商店街でした。

JR武蔵小金井駅前です。
右手に、かつては開かずの踏切をまたいでいた小金井街道が走っています。

駅前は何本かのタワーマンションに囲まれたショッピングモールや音楽ホールが集まっています。
今風のタウンが形作られています。

中央線に沿って国分寺を目指します。

JR国分寺北口の商店街に、七七舎という古本屋があります。
かつては高齢の女性が経営してましたが、若いカップルに店主が代わりました。
隣の団子屋を買い取って店を増築。
品ぞろえが格段に良くなりました。
店頭の100円コーナーにも掘り出し物があります。

今回は、テキヤ行商人の聞き書きと、岩波写真文庫を何冊か買いました。

昼食は同じく北口にある定食屋でニラレバ定食です。
だるまや食堂。
量が多くがっつり食べられます。
スタッフはオール日本人で、ホールには時々高校生ほどの女の子が出ています。昭和か?ここは!
まだまだ繁盛しているのでしばらくは生き残ってくれることでしょう。

同じく北口にある、だんごの輪島でデザート用の団子を買います。
ボクシングの輪島功一が始めた団子屋として地元で有名です。

喫茶田園。
90歳くらいのママさんがやっています。
4,5年前は良く寄りました。
ママさん元気だろうか?

国分寺駅北口は現在も区画整理中です。

駅正面はどんどん変わってゆきますが、だるまや食堂や、喫茶田園、だんごの輪島は残ってほしいです。

早春の自転車散歩でした。

令和2年 3月の山小屋

3月の13,14,15日、長野の山小屋に、家族と行ってきました。

水道管の凍結はないか?家の傷みや、積んだ薪の崩壊はないか?などの確認のための、冬季間の定期訪問です。

初日の13日は夜につきました。
途中の道々も、山小屋のある別荘地内も、雪の匂いもなく、カラカラの景色でした。
今年も暖冬だなあと思いました。

山小屋の内部も、水道凍結はなく、スムースに開通しました。
給湯器もすぐ使え、風呂にも給湯できました。
全体に気温も特に低くはなく、薪ストーブと灯油ストーブの暖房で問題なくしのげました。

翌14日は、関東地方にも雪が降った日です。
山小屋周辺は朝から曇天の雪降りでした。
朝起きると別荘地内は一面の雪景色。
どんどん降り積もってゆきます。
別荘地の管理会社は除雪の準備をはじめました。

標高1450メートルの大門峠では、路面が凍結しかかり、場所によってはタイヤのスリップが起こる状況でした。
実際、白樺湖に向かう坂道では、事故を起こしたり、ストップしている車を何台か見ました。

茅野市街に入ると路面は溶けており、車の走行に支障はありませんでした。

岡谷にある水門といううなぎ屋で昼食。
シーズンには開店前に列ができる店も、コロナ騒ぎと悪天候で並ばずとも入れました。
白焼きせず、甘めのタレで香ばしく焼いたうなぎでした。

諏訪湖畔の片倉館という温泉にでも浸かろうかと予定していましたが、帰りの大門峠の路面が心配で早めに山小屋へ帰ることにしました。

東京へのお土産と、夕食の食材を買って15時前に山小屋へ帰りました。
雪は1日中降り続いていました。

翌5日は打って変わった晴天でした。
雪もやみ、新雪が朝日に輝く景色が広がっていました。
地面の新雪と、枝に積もった雪と空の青が醸し出す絶景です。
気温も程よく、日差しの温かさが感じられ、雪遊びするとしたら絶好のコンデイションだと感じました。

コロナ騒ぎの影響もあったのでしょうか、帰りの高速道路も日曜の午後とは思えない空き具合で、運転がスムーズでした。

4月からはいよいよ山小舎が始動です。

三多摩の「闇」を行くVOL.4 京王閣競輪場へ行ってみた

行ってみたら、新型コロナウイルスの影響で、競輪は無観客興行にて行われていた!

競輪場の正面ゲート。
三々五々お客さんがやってくるが、張り紙を見て帰ってゆく。

山小屋おじさんは、正門前の警備員に聞いてみた。
入場料は?ときくと、50円とのこと。
京王閣の中に資料館はないのか?との問いには「競輪資料館があったがすでに閉館している」とのことだった。

多摩川の清流に遊び、鮎を愛でた行楽地・京王閣の歴史は、競輪場となった現在地には残っていないようだった。

川崎側から多摩川越しに京王閣を見る。

正門のすぐ隣にはお城のような質屋が建っていた。

京王閣入場をあきらめ、付近の商店街へ。

飲み屋は軒並み閉まっている。

店店の間にいわくありげな路地が残っていた。

焼鳥屋の店先には大きなアカミミガメが二匹飼われていた。ペットが育ったものか、多摩川に捨てられたペットが強大化したものか?

たい焼きやで一匹買い食い。
150円。
愛想のいいおばあさんが対応してくれた。
年代のものたい焼き器を撮らせてくれた。

肉屋でメンチカツを家族の夕食用に購入。
ショーウインドウを撮らせてくれた。

競輪開催日にはゲートが閉じられるという遊歩道。
用水路のふたを閉じたものであろう。

残り時間は多摩川付近の住民の生活の跡を巡ってみる。

現多摩川原橋から京王相模原線鉄橋の付近にあった渡しの跡。
菅の渡しなどと呼ばれ、渡し船がの運行が、昭和48年まで残っていたそう。
南武線の稲田堤駅から京王閣競輪場へのショートカットとして利用されていたとのこと。

これは矢野口側の渡し口付近に建つ観音像。

大映撮影所の北隣。
ハケを一段上がったところに大映村と呼ばれる一角があったそう。
撮影所のスタッフの家族寮、独身寮などが団地のように集まっていたとのこと。
今は鉄筋アパートが建っていて、入居者はいるようだが人気がない一角になっている。かつての花形産業、映画の栄枯盛衰を物語る。

駆け足で巡る三多摩の先人の暮らし。
今回は「闇」というより「幻」だったでしょうか。

ちくま新書「愛と憎しみの新宿・半径一キロの日本近代史」を読んで

表題の本をブックオフの100円コーナーで買いました。
正確には110円でした。

タイトルを見て面白そうだと思い、目次を眺め、本文をめくってみて相性が合うと思った本を買っています。
最近は寄る年波か、字が細かくびっしり印刷されている本は体が拒否します。
一方、相性が合いそうな本に対するカンは歳とともに冴えてきているような・・・。

1952年、新宿ド真ん中の洗濯屋に生まれ、青年期まで家業を手伝っていた著者による1960年から70年代の昭和史です。

全共闘運動に参加し、当時の最先端カルチャーの、ジャズ喫茶や、紀伊国屋書店、アートシアター、ゴールデン街などに接してきた著者の人生前史でもあります。

1656年、北海道生まれの山小屋おじさんにとって、全共闘終焉である安田講堂落城の光景をテレビニュースで見たのは小学生の時でしたから、4歳上の著者がせいぜい高校1年生くらいの時です。
その著者がなぜ全共闘運動か?
理由は新宿高校時代に活動していたからだそうです。

同時にアートシアターでATGやゴダールを見、ジャズ喫茶で山下洋輔、ゴールデン街をのぞき見、とは都会の高校生はずいぶんませていたのだと羨ましく、またこそばゆく思いました。

この本で語られる著者の高校時代は、政治活動と自宅の洗濯屋の手伝いの合間に、新宿の路地の汚い中華屋でうまい麺を食べ、山谷の争議団に顔を出し、若松孝二のATG映画に同世代の心境を実感する日々です。

今どき、全共闘、アートシアター、ジャズ喫茶などといっても、若い人にはまるでアピールしません。
そんなことは著者も百も承知でしょう。

山小屋おじさんとて、4歳年上の都会育ちの著者の心情風景がぴったりくるわけではありません。
おおむね同世代とはいえ、都心育ちの著者と田舎育ちのおじさんでは、当時も今もその違いは決定的なのはしょうがありません。
著者の語る、都会育ちの高校生の「最先端」の心情風景は、おじさんにとっては今でも現実感のない、くすぐったく、ふわふわしたものでしかありません。

それでも語らずにはおれない熱さが文中からほとばしっているのがこの本です。
書きたい題材を書きたいように書いた時の臨場感ともいうべきものをこの本から感じるのは、年代が近いおじさんだからなのでしょうか。

おじさんはこの本を読んで、登場する70年代の名所を巡ってブログにしようと思っていました。
この度のコロナ騒ぎで、新宿の奥深くに分け入る時期でもないと思い、本の紹介だけにしました。

興味ある方は読んでみてください。