令和7年 諏訪大社上社前宮

山小舎開きを終え、諏訪大社にお新しいお札をもらいに行ってきました。

山小舎では上田の生島足島神社と、諏訪地方の諏訪大社からお札をもらうのが恒例です。
大型連休がスタートする日、茅野市の諏訪大社上社前宮に参拝しました。

四つの社がある諏訪大社で一番古く、もともと諏訪地方にいる神様を祀るのが上社前宮です。

民家の石垣の山吹。桜も見える

樹々に囲まれてひっそりたたずみ、敷地に囲いがなく、いかにも古社の気構えが漂う前宮です。
この日は観光客の姿も目立ちました。

御頭際の神事が行われる神殿

まずは本殿に参拝します。
御頭祭が行われる神殿を過ぎ、境内を上ってゆくと両側に畑や民家があります。
かつては神社の関係者が住む家が並んでいたとのこと。
今は、ごく普通の民家が並んでいます。

本殿では今年の山小舎の安全を祈願しました。

本殿
塀がなく民家に隣接している

参拝の後、五平餅の幟がはためく、交流センターに寄ってみました。
何か昼食に代わるものが食べられるかなと思ったからです。

ざる蕎麦を注文しました。
直売所にあるような地元の主婦が切り盛りする茶房が出す蕎麦です。
漬物と、寒天で作ったデザートがうれしかったです。
寒天デザートは、諏訪地方でのおもてなしによく供されます。

ざる蕎麦800円

最後に授与所によって、家内安全のお札をいただきました。

続々と登ってくる観光客らとすれ違いながら前宮を後にしました。

上田映劇と「ルノワール・新しい波」

山小舎開きの後、久しぶりに上田映劇の情報を検索すると、ジャン・ルノワールの晩年の2作品「コルドリエ博士の遺言」と「捕らえられた伍長」を上映しているので駆け付けた。

特集上映のパンフ表紙
特集上映のパンフより

2作品は1960年前後に製作され、公開時に本国でヒットしなかったこともあり、日本では劇場未公開だったり、上映機会が少ないもの。
4Kレストア版の本作を配給したのは、株式会社アイ・ヴィー・シー。
生涯映画を愛し語った、淀川長治氏の理念に基づき、映画の配給、販売を行う会社だという。

昨年1年は訪れることのなかった上田映劇はいつも通りに営業していましたが、建物全体の活力というか現役感がさらに少なくなったような気がしました。
モギリ、映写にかかる人員が、支配人ともう一人のお兄さんだけで、ロビーは常に人気がないというのも例年通りながら、寂しさがより極まっている気がしました。

この日の上田映劇前

「コルドリエ博士の遺言」  1959年  ジャン・ルノワール監督  フランス

戦時中アメリカに亡命し、ハリウッドで5作品を撮った後、アメリカを離れ、インドで「河」(51年)、イタリアで「黄金の馬車」(53年)を撮ったルノワールは、本国に帰還して「フレンチ・カンカン」(54年)を撮った。
が、その後の「恋多き女」(56年)から「コルドリエ博士の遺言」(59年)、「草の上の昼食」(59年)、長編劇映画の遺作となる「捕らえられた伍長」(61年)に至るまで、商業的にも作品の評価的にもに恵まれず、失意のまま映画界を離れることになった。

本作「コルドリエ博士の遺言」は、ルノワールがフランス国営放送のスタジオに入り、作品の解説を語り始める場面で始まる。
劇場公開とテレビ放送が同時に行われるという、方法的にも実験的な背景を持った作品だった。

複数のカメラで同時撮影するというテレビ的な手法で作られたこの作品。
なるほど、大掛かりな移動撮影もなく、スタジオの芝居を平板に捉えたり、アップが多かったり、テレビ的な画面が多い。
と同時に、芝居を途切れずに撮るテレビの撮影方法は、俳優の気持ちや流れが途切れることなく捉えることができ、この作品に貢献している。

俳優の芝居の『途切れなさ』でいうと、この「ジキル博士とハイド氏」を下敷きにした作品の見どころでもある、別人格のハイド氏の変身ぶりについては、主人公ジャン=ルイ・バローのメイクと独特の動きに一番表れている。

バローが人格者のコルドリエ博士から、変態怪人・オパ-ルに変身した際の動き!
まるで人格が解放され、子供に戻り、常識から自由になったかのようなうれしさに溢れた姿。
舗道をステッキを振り回し、首を突き出し、きょろきょろと飛び跳ねながら、少女の首を絞め、障碍者の杖を突き飛ばす。
たばこを吸い散らかしながら、あらゆる屁理屈をまき散らし、追及者をけむに巻く。
こんな人物、実在しないか?

「吸血鬼ノスフェラトウ」(1922年 FW・ムルナウ)の吸血鬼、「カリガリ博士」(1920年)のチェザーレなど、かつてスクリーンに跳梁した怪物たちは、どこか愛嬌があったり、人間社会に接点を持ちたがったりした。
現代のパリに表れ、真昼の舗道で人間にちょろちょろちょっかいを出すオパールは、ルノワール版の愛嬌を持つ怪物なのだった。

オパールにメイクで変身するバロー。ルノワールが覗いている

ルノワールらしさは、魂への影響というコルドリエ博士の研究を真っ向から批判する、ライバルの精神医学博士の描写にも表われている。
ひっきりなしにタバコを吸い時間と面会者に追われ、秘書や面会者を怒鳴りつける現代の犠牲者のようなこの博士は、ジャック・タチの「僕の伯父さん」に出てくるすべてが自動電化製品に支配された暮らしを送る、俗物性の塊のっような人物(ユロ氏の義弟)のようだ。

オパールの解放された人間性(凶悪さ、残忍さを含め)を、常識という価値で判断していないところがルノワール。
それよりも、現代人に特有のグネグネとし、背中が丸まった、多動的なオパールの動きを60年も前に予言していたかのようなバローが衝撃的だった。

「恋多き女」以来脚本家としてまた芸術観衆として協力してきたジャン・セルジュは証言したという。
『「コルドリエ博士の遺言」の編集に立ち会ったが、撮影されたフィルムの内容に愕然となった。演劇なのか、テレビなのか、映画なのかわからない代物が出来上がっていた。ジャン=ルイ・バローのやりすぎのせいで、つなぎようのない写真になってしまっていた。実験的な映画だったが、結果は失敗だった。』(「ジャン・ルノワール越境する映画」2001年青土社刊P183)

65歳にして、仲間内からでさえこういった評価を受ける作品を撮るルノワール。
最後まで彼らしいではないか。

特集上映のパンフより

[捕らえられた伍長」  1961年  ジャン・ルノワール監督   フランス

第二次大戦でフランスがドイツの侵攻を受け、休戦を申し入れるあたりの記録映像で始まる。
ドイツが応じ、休戦協定が結ばれる。
休戦とは聞こえがいいが実態はフランスの一方的な負けであり、ドイツは実力でパリに進駐する。

このころの捕虜キャンプ。
本降りの雨の中、大きなトランクを引きずりながら「俺がいなきゃ牛の世話はどうなる?女房が一人で大変だ」とフランス兵の捕虜がキャンプを出て行こうとしてドイツ兵に止められる。
雨の中、簡単なテントの中で、軍靴から雨水を開け乍ら、三々五々過ごすフランス兵たち。
「休戦なのになんで我々が捕虜なんだ?」

この作品の登場人物は、自宅のことが心配でキャンプを勝手に出て行こうとしたり、戦争に負けた捕虜の自覚がなかったり、かといって本気で占領軍に抵抗する気などさらさらなかったり。
フランス人らしいというか、ルノワール的人物たちというか。

「捕らわれた伍長」撮影風景

ジャン=ピエール・カッセル扮する主人公の伍長には唯一無二の友情に元ずく仲間がいる。
ことあるごとにその友情を最優先する。
脱走を試みて、当然に友人を誘う。
友人はメガネを落としたことにして、脱走からエスケープする。

のちに友人は通訳としてキャンプで物資に恵まれた生活を送るが、再会した伍長に自身の弱さを吐露する。
伍長は落胆はするが責めはしない。

伍長はその後も再三にわたって脱走を繰り返す。
脱走はドアを開けるとガチョウが部屋に乱入してきたり、同行者(最初のシーンで牛と女房の心配をしていた中年の捕虜)がガラクタの入ったトランクをぶちまけたりして失敗する。

ルノワールの捕虜脱走ものといえば「大いなる幻影」だが、ここにはそのスリルも、祖国に対する忠誠も、荘厳なプライドも全くない。
あるのは、フランス兵たちの平時の職業のあたりまえさだったり、兵士としての使命より個人の感心だったり。

最後に脱走に成功してパリで伍長と別れる捕虜は「戦争時代の方が、身分格差がなくてよかった。パリに戻るとまた格差の世界に戻る」と話す。

最後の脱走の途中、伍長たちはフランスと国境地帯の農村を通る。
そこにはフランス語を話す農夫と、ドイツ語を話す農婦が暮らしていた。
独仏で領土問題を抱えた地域で暮らしているのだろう。
「農婦の夫はソ連兵に殺された。いずれは結婚するつもりだ」と農夫は話し、国境への道を伍長に示す。

緊張感などさらさらない。
ドイツ軍の将校は自転車に乗って捕虜の前に現れる。
ドイツに対する余裕を持ったカリカチュア。

友情、庶民性、自由、人間の弱さ、各自のてんでに向いた価値観に対する尊重、泰然としたユーモア、国境・国籍を凌駕した本当の意味でのグローバル。
これらが満載した映画。
ルノワールの世界。

牛と女房を心配し、トランクを引きずってキャンプを出ようとした中年兵はのちに「女房が若い男と家を出た」との知らせを受ける。
いろんなことがあるもんだ。

特集上映のパンフより

ルノワールは夫人デイド宛の手紙で『大変満足しています。(中略)質の高い、そして僕を買ってくれる何人かの友人たちを失望させないだけの一風変わった作品を生み出すことができたと思ています』(「ジャン・ルノワール越境する映画」2001年青土社刊P190)と書き残している。

この作品に対する一番の評価ではないか。

春の山小舎リフレッシュ! カーテンを洗濯、窓を拭く

山小舎では8月からの来客を迎えるにあたり、恒例の大掃除をしています。
春らしい陽光と暖かな大気が掃除のやる気を起こします。
今日はカーテン掃除です。

自宅の大掃除でもカーテン洗いはするのですが、部屋の埃っぽさを防ぎ、室内炭火焼きの汚れを洗い流すためにも、山小舎でのカーテン洗いは欠かせません。

前オーナーから山小舎を引き継いだ時にもカーテンを洗ったのですが、洗濯水がドロドロになるほど汚れていたことがありました。
数年以上も吊り下げられたままだったカーテンは、土ぼこりを含んだ山の風にさらされ、土などの汚れを含むので

山小舎のカーテンは、1階の居間と和室、2階の居住部分に、レースカーテンも含めて、計15枚ほどかかっています。
それらをカーテンレールから取り外します。
プラスチックの留め具を外して洗濯機で洗います。
埃臭さがなくなったのを確かめて、洗濯を終えたカーテンを物干しざおに干します。

自宅では絞った後のカーテンをいきなりカーテンレールに吊り下げて乾かすようなこともするのですが、山小舎では室内の防湿も考慮して、外の風に当てて乾かします。

カーテンレールも拭く

カーテンレールの埃もふき取ってから、乾いたカーテンを吊り下げます。
ついでに窓と窓枠をきれいにしてしまいます。

カーテンを洗濯のために取り下げた後のサッシを、内側・外側と拭いてゆきます。
まず重曹の水溶液をスプレーでガラスに吹きかけます。
2、3枚吹きかけたら水で絞ったぞうきんで拭きとってゆきます。

窓を拭く

日差しに照らされたガラスに重曹の拭き取り残しが白く残ります。
その部分は乾いたぞうきんでこするように拭き取ります。

ついで外側も同様にします。
外側の泥の汚れより、内側のスス汚れが気になりました。
室内でよく行う炭火焼きの煙の汚れでしょうか。

窓枠にたまったカラマツの枯葉などは水を使ってブラシで押し流します。

窓枠を掃除する

洗濯を終えたカーテンが吊り下げられ、拭き掃除できれいになった窓ガラス。
山小舎の空気がリフレッシュしました。

春の山小舎リフレッシュ! マットレスの臭い取り

山小舎にはまだまだ独特の臭いがあります。
埃っぽいというか、かすかにかび臭いというか。

外出先化から帰ってきて玄関を開けると臭うのです。
その臭いは山小舎らしさの一環をすでに担っています。
ひところよりは緩和され、夏など窓を開けることの多い時期はそれほど感じなかったりします。

原因としては、もともとが古民家であり家の材質が古い木材であること、古い建具が多く残っていること、前オーナー由来のガラクタがまだまだあることですが、最大の要因としては、建物の隙間や、家具、家財に埃が溜まり、カビなどが生えやすいことがあります。

山小舎の立地は、標高1400メートル以上の山の中。
風が土を運んできますし、湿気もたまります。
日本家屋の古民家では、それらを完全に防ぐことはできません。
しかも冬期間の4か月弱は無人で締めっぱなしで通気がありません。

臭いの元の一つにマットレスがあります。
前オーナーの時代から使い続けたものです。
冬など寝具に必要なので使い続けていますが、これの中味のスポンジが埃臭いのです。
そこでマットレスのリフレッシュにトライしました。

今までも中味を外し、カバーを洗濯したことはありました。
その時は中味のスポンジを天日干しにしたのですが、埃臭さは取れませんでした。

ネットで検索すると、スポンジに重曹をふりかけ、しばらく置いて掃除機で吸い取るという方法がアップされていました。
さっそく実行してみました。

先ずカバーを外して洗濯します。
中味のスポンジを広げ重曹をふりかけます。

カバーを外す
スポンジを広げる
使用する重曹
給装を振りかける
外したカバーを洗濯

重曹ごと掃除機で吸い取ります。
この時、重曹を含んだ排気が白く掃除機から排出されました。
「それはそうだな」(あるいは、集塵とパックがセッテイングミス?)と、白い排気が収まるまで窓の外に掃除機を出しました。
肝心のスポンジを嗅いでみると、埃臭さが軽減しているような気がしました。

重曹を吸い取る

まあまあの成果でしたが、この作業の最大のネックが待っていました。
スポンジをカバーに脱着する際の手間が尋常ではないのです。
掛布団カバーを脱着させる際のスムーズさは全くありません。
スポンジがいちいちカバーに引っかかって作業が進まないのです。
これはスポンジを取り出すときも同様です。

時間をかけて何とかスポンジを押し込みますが、ぴったり収まらない場所があると決して自然に是正されるようなことがなく、ゆがみがそのまま残るのです。
結果、たわみがあるマットレスが出来上がります。

カバーをセッテイング。若干歪んでいる

洗濯によって古いカバーが縮んだこともあったでしょうが、これだけ脱着時に抵抗があるスポンジをぴったりサイズのカバーにはめることに、そもそも無理があるような気がしてしょうがありません。
もともと脱着を予定した商品ではないような気もします。

ということで、だんだんと古いカバーを廃棄して新しいものに取り換えたり、スポンジを含めて買い替えたりをしつつ、寝具としては重宝するマットレスと付き合いたいと思います。

平成7年畑 畝の準備

今年2回目の畑作業です。
この日は日差しは温かいも、風が冷たく、半袖での作業は肌寒い感じです。

前回は畝立てをしました。
今日は枯れ草や雑草などを畝から取り除きます。
畝に乗っかった枯れ草、雑草をレーキで寄せます。
これらの「ゴミ」は後で、畝間に被せておくと、乾燥や雑草の防止の役に立ちます。

「ゴミ」を取り去った畝

次回は、畝にえひめAIの散布とマルチング作業です。
今日の作業はここまで。

冬を越したルバーブが順調に成長
出始めのヨモギを採取

帰りにJAによって、ビニールマルチと種を購入。
キャベツやレタスの苗も売ってました。
資材も苗もすっかり値段が上がっていました。

JAで種とマルチを買う
苗が売られていた。20円台に値上がりしたのは初めて

次いで地元の神社にお参り。
長久保集落の鎮守・松尾神社に行きました。
桜がまだ残っていて、川沿いの山吹が鮮やかです。
今年の畑作業の無事とできれば豊作を祈願しました。
集落にある大家への挨拶は、山小舎おばさんとともに済ませています

松尾神社
川辺の山吹
鳥居近くにはボタン桜が

大門街道沿いの大門稲荷神社へもお参り。
いつもながら独特の凄味を感じるお宮です。
ここでは山小舎暮らしの安全を祈願。

徐々に例年通りの山小舎暮らしがスタートです。

大門稲荷神社。名物の土俵には養生のためシートがかかっていた
稲荷神社のたたずまい

春の山小舎リフレッシュ! タンス整理

令和7年の山小舎暮らし開始です。
もうすぐゴールデンウイーク、さっそく孫たちがやってきます。
その事前準備として、冬を越した山小舎のリフレッシュ(大掃除)をしました。
第一弾は衣料タンスの整理です。

山小舎開きに訪れた、山小舎おばさんが「2階の隅にハンガーでかかっていた冬物衣料がかび臭い」と言っていました。
そこで2階の衣料をまず洗ったり、天日干しました。
不要の衣料は捨てました。

冬物衣料を天日干し

ついで衣料つながりで、和室のタンスに目が行きました。
普段着るシャツやズボン、半そでから長袖までが入っているタンスです。
5段全部の引き出しを取り出し、中身を出し、いらないものは捨て、着るものだけを残すことにしました。
是㎜部を畳の上に広げ、厚手のものは天日干ししました。

タンスの引き出しを開け、中身を整理

空になった引き出しを水拭きし、しばらく乾かします。
乾いた後は、防湿シートを買ってきて底に敷きました。
タンスを移動した後の畳や壁も拭いておきます。

引き出しを拭いて乾かす
買ってきた防湿防カビシートを敷く
タンスを置いていた場所を拭いて乾かす

しばらく外気にさらしておいた衣料を引き出しに納めます。
かなりスリムになりました。
衣料の湿気も取れたことでしょう。

使うだけの衣料を収納する

タンスを置いている和室は来客用の寝部屋として使いますので、空気感のリフレッシュのためにもやってよかったと思います。

土台に通期のための板をかませてタンスを設置して完了

令和7年畑 仕事始め

山小舎に戻って、今年初めて畑に行ってみました。

一冬越した畑

まず、夏野菜を栽培する畑へ行きました。
ガッテン農法の畝づくりをしている場所です。

まだ桜が終わったばかりで、本格的な春を迎えていないからなのでしょうか、雑草はそれほど繁茂していません。
とはいえすでに4月中旬を過ぎようとしている時期です、作業は効率よく行わなければ、主力野菜の生産に間に合いません。
この日は、畝立てと昨年使ったビニールマルチの片付けを行いました。

ビニールマルチの残骸

冬を越してへこんだ畝に、畔の土を寄せ、畝を整え、マルチングができるようにするのです。
畝の土は今年もふかふかしていて、雑草も多くありません。
畔には雑草が伸びかかっていますが、まだまだ鍬で軽く起こせるほどの土の硬さです。

雑草ごと畝に土寄せする

休み休み、13列の畝の土寄せをしました。
細かいことは省いて、雑草、枯れ草ともども鍬で畔の土を起こしてゆきます。
土とともに畝に寄せられたゴミ(雑草、枯れ草など)は次回にレーキで除去することにします。

仕事始めにしては頑張りました。
作業時間的には2時間も続かなかったですが。
また、ビニールマルチの残骸はコンテナに2箱ほどになりました。

13列の土寄せを終える
ビニールマルチをコンテナに詰める

ここ数年間は、肥料を施さずに栽培をつづけたガッテン農法の畝に若干の心配はありますが、省力化を目指しての農法を継続しようと思います。
この後は、畝を整地し、えひめAIという発酵液を散布し、マルチで覆い、連休後には夏野菜を定植する予定です。

冬を越した畑には、例年こぼれだねで発芽するパクチーと、昨年定植したルバーブが生き残っていました。

生き残ったルバーブ
畑を見守る里山

七賢酒造

山梨の日本酒に七賢があります。
山小舎開きのため、東京から中央道を走ってきた山小舎おじさんは、その日の昼食を、山梨県白州の蕎麦屋で食べようと、須玉インターで降り下道を走りました。
北斗市白州町の甲州街道台ケ原宿にある蕎麦屋に着きましたが、先客が並んでいます。
待っている間、宿場の街並を歩いてみました。

七賢酒造の古い建物があったので中に入ってみました。

七賢酒造入り口
場内のレイアウト

一歩中に入るとひんやりした土間が続いており、売店や、歴史的な品物が展示されている座敷などが土間の両側に続いています。
土間を抜けると醸造に使う井戸水や、二次発酵用の建物、醸造所などの工場エリアが広がっています。

二次発酵室
井戸
場内

蔵に付属したモダンなショップを持つ酒蔵や、店内の一部に江戸時代からのひな人形などを展示している酒蔵など、最近の酒蔵はサービスに工夫していますが、七賢所蔵のサービスは徹底していました。
古い酒蔵が持つ歴史的優位性をたっぷり使ってデイスプレイしています。

場内を一回りし、お土産に発泡酒と甘酒を買いました。
時間があれば明治天皇関係の資料が展示されているという座敷にも上がって見たかったものです。

瓶内二次発酵・七賢スパークリング「山ノ霞」

甲州街道台ケ原宿の景観はほどほどに保存されていますが、現役で商売している建物は、七賢酒造と元祖信玄餅で有名な金精軒のほぼ2軒だけのようです。

元祖信玄餅の金精軒

小さな歴史探訪の旅でした。

令和7年 山小舎開き

4月中旬になりましたが今年も山小舎開きをしました。

4月中旬の山小舎
真っ白だった道もこの通り

自家用車にパソコンや古本、瓶詰用の空き瓶などを積み込んで、山小舎おばさん同行の元、帰ってきました。
姫木別荘地も山小舎周辺も、あれだけあった雪は跡形もなくなっていました。

春を迎えた山小舎周辺
唯一雪が残る日陰の軒下

思ったよりも温かい気候で、薪ストーブこそ焚きますが、昼間は冬用のジャンパーなど全く不要です。

山小舎おばさんとの夕食は炭火焼き

松代温泉に入り、道の駅信州新町で蕎麦を食べて、山小舎おばさんは単身帰宅してゆきました。

松代温泉の源泉
道の駅信州新町の蕎麦は今年も美味かった

9シーズン目の山小舎暮らしのスタートです。
既に4月中旬、畑作業などが目白押しですが、まずは冬の間に洗濯ができなかった来客用の寝具を洗って干します。

室内に風を通す
タオルケットなどの洗濯開始
冬野の衣料を干す

ママチャリ迷走記2025 改めての多摩川沿い

春爛漫の4月中旬。
久しぶりに多摩川の土手の上を、調布から立川までママチャリで走りました。

かつて興隆を誇った多摩川の砂利採取。唯一工場が多摩川原橋たもとに残る
鶴川街道は多摩川原橋を渡って川崎市多摩区へと続く

やや風があったものの、もはや寒くはありません。
桜も終わり春本番の気候です。

鶴川街道が渡る多摩川原橋の袂から土手のサイクリング道路に乗ります。
多摩川の河原は名も知れぬ雑草が黄色の花を咲かせています。

サイクリング道路を走り始める
右手は調布の部落といわれた地区。今ではキムチ工場、雑品会社など在日系の企業が見られる

平日のサイクリング道路は人通りも少なく、ジョギングする人、散歩する人のほかは、ロードバイクを走らせる人がたまに現れるくらいです。
このロードバイク、流行り出したころには集団で高速走行する人が多く、事故もたまに見ましたが、最近は集団走行はなくなり、やたらスピードを出す人も減ったように感じます。

府中に入った頃、巨大な排水門
かつて多摩川の行楽客目当ての売店があった場所
自転車マナーアップの幟がはためく

サイクリング道路は府中市に入り、しばらく市内を通過します。
名残の桜並木の下で人が休んでいます。
休日には人で賑わうバーベキュー場も平日はさすがに閑散としています。

葉桜の下で休む人
府中郷土の森公園近くのバーベキュー場

府中の多摩川沿いには、読売新聞、キューピーマヨネーズなど、大企業の支社や工場があります。
キューピーの工場は調布の仙川にありましたが、ここへ移転しました。

府中市内の高層マンション

京王線、JR南武線、中央自動車道などの高架下をくぐってサイクリング道路は続きます。

京王線の鉄橋。八王子方面から調布方面へ電車が走る
名所旧跡、渡し船の跡地などには案内版が建つ

しばらくは河川改修などの工事現場が続いていた多摩川ですが、だんだん本来の姿を現してきました。
たっぷりとした水量がとうとうと流れています。

パラソルの下で釣りをする人

国道20号線の日野橋近くで、サイクリング道路は途切れます。
ママチャリの馬力も途切れるころとなり、土手を下りて立川方面へと進路を替えてこの日の迷走を終えます。

サイクリング道路の終点。この先があるのか?