DVD名画劇場 イタリアンネオ・レアリスモの作家たち その2 ロベルト・ロッセリーニ

イタリアンネオレアリスモと呼ばれる映画群の作家にロベルト・ロッセリーニがいる。
戦争直後に主に街頭ロケで製作した「無謀部都市」と「戦火のかなた」が世界的な評判を呼んだ。

どちらも戦時中の占領下のイタリアでのエピソードを映画化したもので、そのドキュメンタルな手法のみならず、実際に戦争を経験したばかりのイタリア人俳優らによる演技が劇映画を越えたリアリテイを持っていた。
彼等の存在は雄弁に歴史的事実を物語っていた。
そのタイミングを逃さず、劇映画に記録したのがイタリアンネオレアリスモと呼ばれる作品群を撮った映画監督たちだった。

ヴィットリオ・デ・シーカと並ぶネオレアリスモの巨匠、ロッセリーニの作品を見てみる。

「無防備都市」  1945年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア

1943年の連合軍のシチリア上陸とイタリア政権の降伏の後、9か月に及ぶドイツ軍のローマ占領の時期があった。
その時の抵抗のエピソードを素材にした作品。
戦争終了直後の45年に製作された。
巻頭にはフィクションであるとのコメントがあるが、実際をもとにしたフィクションである。

当時のイタリアは、ドイツ軍とイタリアファシスト政権とパルチザンが三つ巴で勢力を競っていた。
占領者のドイツとファシストが一緒になってパルチザン及びその協力者を追いつめていた。

映画に出てくる主な人物は、パルチザンの細胞とその婚約者(アンナ・マニヤーニ)、パルチザンに協力する神父(アルド・ファブリッツイ)、ゲシュタポの将校など。

パルチザン細胞には愛人がいるが、愛人はゲシュタポのスパイとなり、パルチザンを密告する。
連行されるパルチザンに追いすがる婚約者は路上で射殺される。
捕まったパルチザンは拷問の末殺され、神父は銃殺される。

占領者に抵抗するパルチザンの意志の強さ、助ける神父の気高さ、パルチザンに協力する庶民等の虐げられながらも志に殉ずる頑強さがストレートに描かれる。

アンナ・マニヤーニ(左)とアルド・ファブリッツイ

戦争に荒廃した風景と、実際に戦争を経験したばかりのイタリア人俳優の眼差し、ふるまいはその時代のその場所でなくては再現不能なリアリテイに満ちている。

パルチザンを追いつめるゲシュタポとファシストの緊迫感。
連行された婚約者を追い、ドイツ兵をぶったたき、振り切って路上に飛び出すアンナ・マニヤーニの、手を振りかざしてトラックに追いすがり、射殺されて路上に昏倒する姿。
俳優たちのストレートな動きによる切迫感とリアリテイーは、見る者に強烈に訴える。

劇映画としての説明不足、登場人物の整理不足が感じられるが、映画はそれよりも事実をもとにしたエピソードの記録に徹している。
セミドキュメンタリー方式でニューヨークを捉えたアメリカ映画「裸の町」(1948年 ジュールス・ダッシン監督)を思わせる迫力だ。

アンナ・マニヤーニ

パルチザンを密告させるべく、その愛人をスパイに仕立て上げるエピソードもすごい。
ゲシュタポが、レズビアンでモルヒネを駆使する女を使ってパルチザンの愛人を篭絡するのだが、のちにイタリア映画などで描かれるナチスドイツの退廃性、背徳性がもはやこの時期に喝破され、表現されていたことになる。

「戦争は嫌だ」という庶民のアンナ・マニヤーニの問いかけに、「来るべき理想の社会のために戦っている」と答えるパルチザンの婚約者の言葉が、この映画のストレートさを物語っている。

「戦火のかなた」  1946年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア(MGM配給)

「無防備都市」の翌年に作られたイタリアンネオレアリスモの決定版。

シチリアに連合軍が上陸した1943年7月から、終戦を翌年に控えた1944年の冬までのイタリアにおける戦下の陰の名もなき事実を描いている。
「無防備都市」に比べて手際よく各エピソードをまとめており、映画としてわかりやすく、またスピーデイに仕上がっている。

第一話は1944年7月のシチリアでの連合軍上陸直後のエピソード。
上陸した米軍の一小隊が避難民が集まる教会へ向かう。
任務はドイツ軍の動向を探ること。
どこへも逃げ場がなく教会に集まった避難民と米軍が全く成立しない意思疎通を試みる。

米軍は一人の少女を道案内に哨戒に出動する。
イタリア語は全く喋れない、牛乳配達から徴兵された若い米兵と少女が哨戒先で留守番をすることになる。
あくまで英語で意志を伝えようとする米兵と、イタリア語で応える少女のたどたどしくもかわいらしいすれ違いのコミュニケーション。
すっかり話に夢中になり、たばこの火をつけたばっかりにドイツ兵に狙撃される米兵。
残された少女はライフルを手にドイツ兵に向かうが・・・。
駆け付けた米軍小隊が発見したのは、殺された米兵と崖下に突き落とされた少女の死体だった。

第二話。
1943年9月のナポリ近郊。
連合軍に解放されたナポリでは戦災孤児が吸殻を拾って吸いながら「黒人狩り」を行っていた。

酔った黒人兵を連れまわしながら軍靴を盗む子供。
MPの黒人兵は英語のみをしゃべって、孤児らを従わせようとする。
一方、孤児らはわかったふりをしながら、関心があるのは米兵が持っている物資だけ。

ここでも米兵と現地人のコミュニケーションが成立しない現実がある。
黒人兵は孤児が暮らす廃墟の様子を目の当たりにして盗まれた軍靴を捨てて去ってゆく。

この挿話で、ロッセリーニは戦後の廃墟で暮らすイタリア庶民の実写カットを使っていた。
アパートの中庭なのかビルの廃墟なのか、20人くらいの女子供が集まってカメラの方を見ている、ひとりの女は鍋をドラム缶のようなコンロにかけてしゃもじを廻している。
ほんの数秒のワンカットだが、明らかに戦後のイタリア庶民の生活を捉えた実写のカットが、孤児が黒人兵を住処に案内する場面で挿入されていて効果をあげていた。

第二話。黒人兵と少年

第三話には、「無防備都市」でゲシュタポのスパイ役を演じたマリア・ミーキが登場し、イタリア女性の哀しさを演じて忘れられない余韻をもたらした。

1944年2月に連合軍がイタリア本土のアンツイオに上陸し、その後ローマに入城した。
連合軍を迎えるローマ市民の歓びを実写フィルムで伝える場面から第三話は始まる。

ローマ入城時に、歓迎する市民に水を所望した米兵のフレッドは、断水しているアパートに案内されてフランチェスカ(マリア・ミーキ)という娘から接待を受けた。
輝かしく明るいフランチェスカとのつかの間の邂逅はフレッドにとって忘れられない思い出となった。

9か月後、ローマにもどったフレッドは、街の女につかまり部屋に連れ込まれた。
酔ったフレッドは、街の女には全く関心をみせず、フランチェスカとの思い出を語った。
街の女はフランチェスカの6か月後の姿だった。

フランチェスカは彼女の住所を書いたメモを渡し、明日必ず会おうと部屋を出たのだが、翌日素面に戻ったフレッドはポケットのメモを「売春婦の住所だ」と丸めて捨てて任務地へ向かった。
部屋の前ではフレッドを待ち続けるフランチェスカの姿があった。

第四話は、イタリア留学時代の恋人でパルチザンのリーダーになっているルーポに再会せんと、友人とともにドイツ軍の占領地域に潜入する米従軍看護婦のハリエットを描く。

薄いワンピース姿で、壁をよじ登り、頭を下げて狙撃を避け、瓦礫の山を駆け抜けるハリエット役の若い女優が素晴らしい。
若い娘らしいほほ笑む場面もラブシーンもなく、戦火の緊張の中を厳しい顔をして走り回る姿にリアリテイがあった。

第四話。ハリエット役の女優(中央)

フィレンツエが舞台の第四話だが、ドイツ軍の占領地域を目の前にして敢えて手を出さないイギリス軍の様子が描かれる。
大戦末期のワルシャワで蜂起したポーランド軍に対し、川の対岸まで来ていたソビエト軍が静観していたことを思い出した。
連合軍にとって、ポーランド同様イタリアのパルチザンは所詮捨て駒だったということなのだろう。

第五話は、ドイツ軍の防衛ラインだったゴシックライン突破後のエピソード。
ゴシックライン周辺の修道院が舞台。

米軍の従軍宣教師が修道院を訪ねる。
物資が極度に不足し、また旧来のカソリックの価値観に愚直にとらわれる修道士たち。
訪問団の一人が、プロテスタント中最悪の異端ルター派であり、もう一人がユダヤ教徒だと知ってこの世の終わりのように驚き、忌避する修道士たちが可笑しいというか可愛いというか。

ロッセリーニは挿話のラストで訪問団長に規則(食事の時は無言)を破って夕食前の挨拶をさせる。
団長はイタリアの教会、修道院の敬虔さ素朴さを称賛する。
「神の道化師フランチェスコ」(1950年)、「火刑台のジャンヌ・ダルク」(1954年)など宗教をテーマにした作品も多いロッセリーニの姿勢が示される。

第六話は、終戦を翌年に控えた1944年冬。
ポー川の流域で戦い続けるパルチザンの姿。

ドイツ軍に包囲され補給もない。
夜間の投下で補給するからのろしを上げろとの米軍の指示により、かえってシンパの農家が襲撃され皆殺しにあう。

戦闘で降伏したパルチザンはポー川に投げ込まれて処刑される。
ここでも米軍の都合に振り回され消耗してゆく名もなき愛国者たちの姿が描かれる。

ロッセリーニの主題は「無防備都市」での占領者ドイツへの敵意から深化し、「解放者」連合軍との関係性へと向かっている。
英語しか話そうとしない米兵との間の表面的な意思疎通の困難さから、敗戦国女性のやむに已まれぬ哀しさへの無理解、愛国者たちの抵抗運動が連合国軍の都合に振り回される事実。
これらが「戦火のかなた」の主題になっている。
唯一、希望が持てるエピソードとして、新旧のキリスト教徒の融合の可能性を謳った第五話のエピソードがある。

「ドイツ零年」  1948年  ロベルト・ロッセリーニ監督  イタリア

戦後間もないベルリンが舞台。
ドイツ人俳優を起用しオールドイツ語ですすむ。
爆撃と市街戦で瓦礫の山となったベルリンの街でのオールロケーション。

主人公は12歳の少年エドモンド。
アパートに病弱の父、戦争犯罪者の追求を恐れて家に潜む兄カール、父の面倒を見ながらキャバレーで外国兵から煙草をもらって金に換えて生計を支える姉エヴァの4人で暮らす。

アパートの住人は、避難民や没落家族などの戦争弱者であり、さらに電力やガスの供給統制によって生活苦を強いられている。
インフレ、配給制度、闇市経済、タケノコ生活は日本の戦後同様。
また、カールのように「登録」していない国民は配給を受けられず、働くこともできない。

エヴァが毎晩外国兵にもらうたばこ数本が20マルクになり、ジャガイモが2キロほど買える。
全くわずかな稼ぎだが、エヴァは外国の捕虜収容所にいる恋人のためにもそれ以上のことはしない。

エドモンドは労働許可がないのに墓堀りの仕事に行って追い出される。
路上では行き倒れの馬に人が群がり、馬の肉を切り取ろうとする。
路面電車と地下鉄こそ走ってはいるが、街は壊れた建物と瓦礫だらけ。
親を失った子供は群れて生きるしかない。

ロッセリーニのカメラはベルリンの街頭で俳優たちを動かし、通行人たちは何事かとカメラに目を向ける。
「戦火のかなた」で実写カットを使い、現実の緊張感を表現した手法と同じ発想である。
また、一つの芝居をカットを切らずにカメラは追う。
俳優の動きを追い、時には行ったり来たりするカメラは、場の緊張感を途切れさせない。

エドモンドの周りにはかつての恩師なども現れる。
かつての国家社会主義者(ナチス)で今は失業者の恩師は、残党と思われる老人に忠誠を誓いつつ、子供たちを使って怪しげな商売をしている。
ヒトラーが自殺した総統官邸を見物にやって来る外国兵たちに、その場でヒトラーの演説のレコードをかけて金を得るというもので、エドモンドもそれで200マルクを稼ぎ、恩師から10マルク貰う。

エドモンドとその家族。左から兄、エドモンド、姉、父

恩師の周りの孤児たちは、地下鉄で夫人にインチキ石鹸を売りつけ、石鹸の香りを嗅がせるだけで金を奪って逃げる少年とか、その少年とくっついている大人びようとする少女などがいて、演技なのか実態なのか、少年少女たちの存在感が、痛々しくもまた、生生ましい。

ませた少女の孤児とエドモンド

映画はエドモンドの苦悩を通して戦後ドイツの庶民レベルの生活苦の不条理さを告発するとともに、思春期の少年の自立へ向けての苦悩も描く。
非常時の逆風だらけの中での自立だから、まったく大人や世間の関心も理解もなく、少年の人生そのものが破滅してゆくのだが。

まずは戦後ドイツの壊滅的な状況の記録として貴重な作品だということ。
その時期に少年期を迎えることはまさに悲劇であったということ。

「靴みがき」「自転車泥棒」のイタリア人子役もそうだったが、本作のエドモンドを演じる少年の演技は特筆されていい。

宣伝広告(「映画の友」1952年7月号掲載)

令和6年畑 初収穫

いつの間にか畑が収穫期を迎えていました。

第二回目の除草に訪れた畑ではよく見るとキューリ、ズッキーニが実っています。
さっそく収穫しました。

キューリは、塩昆布と和えて、ぬか漬けにして、冷やし中華の具材にして食べました。
例年、とり遅れて太くなったキューリも喜んで食べてくれるバイト仲間の家にも配りました。

シシトウ、ピーマンは魚焼きグリルで鳥軟骨と一緒に焼きました。

ズッキーニは輪切りにして焼いて塩をかけました。

久しぶりに食べた畑の野菜。
まず土の香りがしました。
ついで甘味も。

これは大地の味ではないでしょうか!?

仕入れたアンズを加工

アンズを仕入れたら次は加工です。
3キロ以上も仕入れたアンズをコンポートとジャムにします。

信州の初夏の到来を告げるアンズ

アンズは皮をむかずに加工します。
洗ってから二つに割って種を出します。

コンポートの場合は二つ割りのままシロップ煮にします。
ジャムならさらに細かく、四つ割りにして砂糖をまぶしてしばらくおいてから煮詰めます。

二つ割りにして種を取る。今年は熟して種が取りやすい実が多かった
杏仁と呼ばれるアンズの種。去年は焼酎漬けにした、今年はどうしようか?

コンポートの場合はシロップを作って十分に火入れしてから、二つ割りにしたアンズを加えます。
あまり煮込むと実が煮崩れするので、二つ割りの実が熱湯消毒されたくらいのタイミングで瓶詰めにします。

コンポート用にシロップを煮る
シロップができたらアンズの実を加えて加熱

ジャムの場合は十分煮込みますが、実が少し残っていて、全体がサラサラとトロトロの間くらいで火を止めます。

どちらも砂糖は控えめ。
レシピでは40~50%の糖分ですが、30%ちょっとくらいでやっています。

保存性さえキープできれば、風味が残り独特の酸味を生かしたアンズの加工品になります。

瓶詰にして脱気
コンポートの瓶詰ができた

松代へアンズ仕入れ旅

6月下旬、信州ではアンズが実る季節です。
いつごろからかアンズを作るようになった信州。
現在の千曲市あたりが名産地です。

千曲市に並んで隠れた名産地が松代。
現在の長野市松代町です。

6月下旬の信州、直売所にはアンズの幟が立つ

アンズを仕入れに松代へ向かいました。

山小舎から上田へ下りて、真田経由、地蔵峠を越えて松代へ向かいます。

途中によるのが真田の直売所です。
季節の野菜からお米までそろいます。
季節にはアンズも売られています。
さっそくひとパックを購入。
トマト、ニンジン、ジャガイモなどの野菜も買いました。

久しぶりにビーツが売られているのを見ました。
自宅でスムージーに使っているのでゲットします。
山小舎でも甘酢漬けにしてみましょう。

上田市真田地区にある直売所へ
アンズのほかにビーツなどを仕入れる

地蔵峠を越え、松代に下りてゆきます。
真っ先に地元のスーパーに向かいました。
アンズの大袋があったので購入。
ついでにプラムも。
プラムは酸っぱさがジャムにしたときに生きてきます。

スーパーの隣のお菓子屋でパンと和菓子も買いました。

松代のスーパー現金屋へ
アンズ2袋のほかプラムを購入

昼ご飯は久しぶりに行きたかった地元の食堂、ニュー街道一(あんかけ焼きそばが美味しかった)が予約客のみの営業だったので断念し、スーパーで弁当を買い軽トラの座席で食べました。

次いで地元のJA選果場へ。
アンズの幟が立ち、三々五々車が来場しています。
直売所にはパック詰めのアンズのほか、ジャム用のB品がキロ400円で量り売りされていました。
お客が自分で選び袋に詰める方式です。
B品とはいえ、粒も大きく、熟したものが混じっており、加工用には十分すぎるほどです。
2キロ買いました。

松代の選果場へ
量り売りのB品を2キロゲット

松代でたっぷりアンズを仕入れた山小舎おじさん。
最後に松代温泉に入り、黄金の湯に浸かって大広間で仮眠までして帰りました。

ここへ来たら松代湯には入りたい

DVD名画劇場 イタリアンネオ・レアリスモの作家たち その1 ヴィットリオ・デ・シーカ

イタリア映画の歴史を見るとき、世界的にその名を残すのは第二次大戦の戦中戦後にかけてのネオ・レアリスモと呼ばれる作品群の登場を待たねばならない。

戦前には全盛期を迎え、歴史に残る名匠・鬼才が様々なジャンルで腕を振るったドイツ、オーストリアやフランス、あるいはロンドンフィルムという制作会社によって国際化していたイギリスには、イタリア映画は後れを取ったようだった。

しかしながらイタリアには、1930年代にチネチッタという映画都市が作られ、映画製作、教育の中心として今に至るまでイタリア映画に多大な貢献をしている。
チネチッタは戦前のドイツにおけるウーファ、そしてハリウッドのスタジオ群と並び称される映画製作の本拠地だが、ウーファが営利に準じた会社組織であるのに対し、イタリア政府肝いりの施設として、国立映画大学が併設されてもいた。

1939年に始まった第二次世界大戦に、ドイツ、日本と軍事同盟を結んでいたイタリアが参戦したのが1940年。
北アフリカや東部戦線にも派兵していたイタリアだが、1943年に連合軍のシチリア上陸を許すと、ムッソリーニに代わる政権が連合軍に降伏し、連合軍側での参戦を表明する。
ただしイタリア国内での戦いは、45年の第二次大戦終結まで、ドイツ軍と連合軍との間で繰り広げられていた。

当初はファシスト党を率いるムッソリーニが華々しく登場したイタリアだったが、旗色が悪くなると政権が交代し、また反ファシストのパルチザンが国内群居するなど混とんとした状況。
戦時中のイタリア庶民の生活は、例えば「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年 ルキノ・ヴィスコンテイ監督)に描かれたように、素人の娘が街で生活費のために体を売ったり、「二世部隊物語」(1951年 ロバート・ピロシュ監督)に描かれたように、上陸した日系アメリカ兵のもたらす食料と交換に家の娘を差し出すような状況だった。

このような敗戦国イタリアの現状を、ドキュメンタルな手法でとらえたのがネオ・レアリスモと呼ばれる、文学、映画の作品群。
映画では「靴みがき」(1946年)、「自転車泥棒」(1948年)、「無防備都市」(1945年)、「戦火のかなた」(1946年)などが世界的に有名。
作ったのはヴィットリオ・デ・シーカ、ロベルト・ロッセリーニなどで、ヴィスコンテイの初期作品もその範疇とされる。

今回の名画劇場では、デ・シーカの戦中戦後の作品から4本を選んだ。

「金曜日のテレーザ」 1941年  ヴィットリオ・デ・シーカ監督  イタリア

イタリアが枢軸国側で第二次世界大戦に参戦しているときの1941年の作品。
チネチッタ撮影所で撮られている。
戦争の直接、間接の描写はなく、ハッピーエンドの人情コメデイ作品である。

主人公は小児科医(ヴィットリオ・デ・シーカ自作自演)。
患者は少なくお手伝いさんにも愛想をつかされる人物。
借金だらけで、医院を兼ねる建物は差し押え寸前。
レヴューの踊子の愛人(アンナ・マニヤーニ)がいて、やかましい。

金持ちの親父は直接の援助はしてくれないが、孤児院の嘱託医の職を紹介してくれる。
孤児院は18歳までの女子ばかりが暮らす。
そこで医務室の助手をするテレーザ(アドリアーナ・ベネッテイ)という18歳の女の子と主人公が親しくなるのだが・・・。

戦時中の映画とは思えない軽いタッチとテンポの良さで始まる作品。
最後までもの調子は変わらない。
女性とみれば気安くタッチし、愛想を振りまく主人公。
気はいいのだが最後まで金には縁がなく、医院はいよいよ差し押さえ。

主人公を取り巻く人物がオカシイ。
まずマイペースですっとぼけた執事。
天然で惚れっぽい娘を溺愛する金持ち一家。
主人公は金持ちの娘とあいさつ代わりのキスを下ばかりに婚約者にされる。

孤児院のオールドミスの教師群もイタリア式。
厳格すぎず、どこか人間性を漂わせるのは国民性か。
孤児の女の子たちのわんぱくぶりも楽しい。
すれ違いと、お互いの誤解をテンポよく挟みながら人間関係をハピーエンドに収束させてゆくシナリオも、古さを感じさせない。

アンナ・マニヤーニは数シーンのみの登場。
レヴューのリハーサルのシーンでのやる気のない演技がケッサク。
マニヤーニの背後には足のきれいな踊り子をずらりと並べるというサービスカットでもある。
テレーザは真面目な乙女だが、雨に濡れて主人公宅を訪問した後に、ガウンを着て肩を出したり、ストッキングを履くなど、大人しめだがお色気カットは、これもデ・シーカのサービス精神か。

テレーザの身の上ははっきりしないが、貴族の種か、大俳優の子女かをうかがわせる。
身分の高さにも関わらぬ苦労という設定であれば、戦争という非常時を象徴するエピソードとなる。
まだまだ街は廃墟もなく、金持ちは存在している。
この時期の作品は、大戦緒戦ののんびりムードが支配的な時期のイタリア映画として貴重。

ヒロインのアドリアーナ・ベネッテイは、イタリア女優の一つのタイプである正統派美人。
シルバーナ・マンガーノのような。

「子供たちは見ている」  1944年  ヴィットリオ・デ・シーカ監督  イタリア

ヴィスコンテイが「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)で描いた男女の情欲のどうしようもない世界。
イタリアの片田舎のドライブインを舞台に、流れ者の男と人生で安食堂にたどりついた女との身もふたもない愛情を描いた作品だった。

1944年、戦争真っただ中のイタリアで同じく男女のどうしようもない情欲を描いたのがデ・シーカ。
デ・シーカの手法は子供の目を通したことと、舞台をローマの中流階級が暮らす高層アパートとしたこと。
「子供たちは見ている」の舞台は、家政婦がいる中流家庭。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の片田舎のカフェとは舞台が違う。
しかしながら、庶民が主人公の場末のカフェであろうが、ローマの高層アパートに住む中流階級だろうが、本質は全く変わりはないのが男女の情欲だということがよくわかる。

会計士の夫(エミリオ・チゴリ)と5歳くらいの一人息子(ルチアノ・デ・アンブロジオ)と暮らす一見貞淑な主婦ニーナ(イザ・ポーラ)。
彼女には年下の愛人(アンドリアーノ・リモルデイ)がいて、そいつが現れると一人息子のことなどどうでもよくなり、再三家出を繰り返す。
いったんは帰ってきて、息子のためにやり直すことを許される。

家族でやり直すためのリゾート地で男と出会い、またまた出奔。
絶望した夫は自殺する。
寄宿舎に預けられた息子に喪服で面会に行くニーナだが、幼い息子はニーナに背を向けて去ってゆく。

ニーナと愛人

時代背景としての戦争は、例えば高層アパートのエレベーターが下りの場合に使用自粛になるということで表される。
そのほかでは辻の人形劇の観衆に水兵や兵隊の姿があるくらいか。

高層アパートが建ち並ぶ一角や、ヨットが浮かび、水着姿の金持ちたちがはしゃぐリゾート地に戦争の陰はない。
時代描写をあえて避けたのだろうデ・シーカはひたすら子供の目で、大人の勝手な行動を描く。

母親の出奔後、息子を預けようと訪れた母の姉の元。
姉はお針子数人を抱えるブテイックの仕事をしているが、お針子は男の噂ばかりだし姉にもパトロンのような親父がいたりする。
それならばと息子の祖母の家へ行けば、子守の少女は夜中に部屋を抜け出し男とランデブーの末、頭に植木鉢がぶつかっての大騒ぎ。

人間らしすぎる人々のふるまいに翻弄されるのは、父親と息子。

父と息子

子供の目線で描くことが目新しいし、デ・シーカはまずまずうまくやっている。
全編を通して軽いムードはさらさらなく、重苦しい人間の業のようなものが画面を覆い、緊張感を漂わせる。

戦時中とはいえ、戦争の影が感じられないイタリア国民の生活の記録としても貴重だし、ネオ・レアリスモへ向かうデ・シーカのキャリアの一環としても貴重な作品。

「靴みがき」  1946年  ヴィットリオ・デ・シーカ監督   イタリア

デ・シーカの戦後第一作にして、イタリアンネオ・レアリスモの代表作の一つといわれる作品。
戦後のローマで靴磨きをしながら生活する少年二人の運命に翻弄される姿を描く。

子供を使ってその視線で社会や大人たちを描くという手法は、デ・シーカ前作の「子供たちは見ている」と同じで、デ・シーカ得意の手法なのかもしれない。

主人公の少年たち

イタリア国内で戦争が終わったのは、ドイツ軍が連合軍に降伏した1945年で、第二次大戦の終戦と同じ年。
イタリアでは43年の連合軍シチリア上陸からほぼ2年間、国内で地上戦が行われていたことになる。
といっても沖縄やサイパンなどでの地上戦とは異なり、連合軍の相手は主に山岳地帯に防御線を敷いたドイツ軍であり、対日本の戦闘のように連合軍が住民を巻き込んだ、殲滅戦ではなかった。
また、ローマなどの主な都市は、歴史遺産の保存の観点からも市街戦の舞台にはならなかった。
さらに、イタリアは43年の時点で政権が交代して連合国側に立っており、また国内のパルチザンが連合軍と協力してドイツ軍に抵抗するなど、日本のように最後まで全国民が一致して鬼畜米英でまとまっていたわけではなかった。

とはいっても国内で戦闘が行われ、また国外にも自国軍を派兵していたのは事実であり、多くのイタリア人戦死傷者が出ており、結果、国内に未亡人や戦争孤児が多く、町や村も荒廃していたのは事実だった。

本作「靴みがき」では、街頭ロケのシーンは多くはなく、街の荒廃や人々の困窮が記録として残されることは少なかったものの、出演している俳優や子供たちから醸し出される、戦後の開放感だったり、戦争で受けた癒しようのない傷がこの映画の重要なファクターとなっていた。

馬に乗るのが好きで、馬を買うことが夢の仲良し二人は街頭の靴磨きで稼ぐ少年だ。
一人は孤児、もう一人には母と兄がいる、がその兄は米軍物資の闇売買などで稼ぐグループの下っ端にいる。

二人は稼いだ金で夢と希望の象徴である馬を買うことができたが、兄の指図で米軍の毛布の密売を手伝ったことから警察に連行され、背景を探られる。
兄につながる事件の背景については黙秘を誓い合う二人。
ここら辺から映画は単なる靴磨きの少年たちの悲惨な現状と社会の荒廃を直接描くことから、逆境にも関わらない少年たちの友情とその友情を引き裂くかのように次々と訪れる試練を描き始める。

少年たちが収監される未決の少年刑務所でのエピソードが延々と続く。
所内のスパイのような少年に騙され、事件の背景を白状させようと策を弄する大人たちに騙され、翻弄されつつも二人の友情と硬い心情は保たれる。

ドキュメンタルなイタリア国内の荒廃と国民生活の悲惨さについては直接的な描写は少ない。
が、たとえば裁判所で実刑を食らう少年たちを見守る少女や母親たちの表情は、単なる芝居ではなく、まさに1年前まで国内の戦争に苦しんできた庶民の忘れられない痛みに裏打ちされたものになっている。
デ・シーカの狙いはあくまで劇映画を通しての社会の現状を訴えるものだが、出ている俳優たちの1946年当時の表情を記録しただけでもこの映画の意味がある。

デ・シーカらしいユーモアもあった。
刑務所に監査人がやってきて給食の味見をする、スープを掬い、パンをかじってOKを出す監査人に炊事係の老人がムッソリーニ式の敬礼をする、おもわずムッソリーニ式の敬礼を返す監査人。
お互い去年まではイタリア国軍の軍人だったりしたのだ、というデ・シーカの自虐描写でもあった。

いつも思うのはイタリア人の演技の自然なうまさ。
主演の二人をはじめ素人俳優をたくさん使ったであろう本作で、演技上の違和感をほとんど感じなかった。
イタリア映画の素人俳優(エキストラも)は芸達者だ。

「自転車泥棒」  1948年  ヴィットリオ・デ・シーカ監督  イタリア

主人公は妻子を持ち、公営住宅(5階建てアパート)に住む失業者。
職安で何とか市役所のビラ張りの職を見つけて帰ってくる。

妻は広場の水くみ場からバケツ2杯の水を汲んで部屋へ運ぶ。
1948年当時のイタリア都市部。
郊外にはすでに5階建てのアパートが並んでいる。
部屋数は多く、一所帯分の広さは日本の2LDKに比べると倍ほどもありそうだ。
このアパートは、戦後の復興住宅的なものなのかもしれない、水道すら完備されていないのだから。

希望溢れる初出勤の朝の主人公親子

デ・シーカの戦後レアリスモ第1作「靴みがき」と同じく、素人を主役(主人公夫婦と息子)に配している。
タイトルバックの暗いテーマ音楽、終始一貫して汗じみた一張羅姿の主人公、とデ・シーカは意識してイタリア戦後社会の混乱と、貧しいものの不運を強調する。
脚本は「子供たちは見ている」「靴みがき」のチェザーレ・ザヴァッテイーニ。

自転車を持っていることを条件に得た仕事の間に自転車を盗まれる主人公。
そこからの追跡はイタリア人らしく徹底している。
友人とともに街の泥棒市に行き、分解されて売られているかもしれない自転車を探す。
山のように売られている盗難自転車とその部品。
ここは日本でいうと闇市のようなものなのか。

次いで主人公は犯人と接触していた老人の後をつけ、教会の救護活動に入り込み、ミサを混乱させる。
老人には逃げられる。

とうとう犯人の若者を見つけ、スラム街に入り込む。
若者が逃げ込んだ売春宿を叩きだされ、スラムの住人に囲まれる。
警察を呼ぶが証拠がなく、住人の罵声を浴びながら退散する。

自転車を探す親子

主人公が自転車を追う中で巡り合うエピソードには、イタリアの戦後の混乱、不平等、そして庶民たちの意識のズレ(主人公の妻らは街のインチキ占いおばさんのご神託を求めて列を作るなど)までも描き込まれている。

主人公の、そして映画そのものの数少ない救いが主人公の息子の存在。
「子供たちは見ている」以来のデ・シーカ得意の子供の演出が冴える。
何せ、健気で頑張り屋なのだ、主人公の息子役の子は。
映画を通して、楽天的な人間味を感じることができるのは、イタリアの国民性だけではなく、この子役の存在が大きかった。

子役のエンツオ・スタヨーラ。この作品の後は20歳まで俳優を務めた
主人公の妻を演じるリアネッラ・カレル

デ・シーカは「靴みがき」と同じく、現実社会の悲惨さをドキュメンタルに撮るのではなく、悲惨な中の人間性をドラマを通して描こうとしている。
街頭ロケや街頭の実写シーンの割合は「靴みがき」より多く、戦後イタリア社会の記録としても貴重な作品。
満員のボンネットバスに群がって通勤する人々などの混乱状況の活写とともに、サッカー場に自転車で集まる人々など復興に向けての社会の活気が映し出されていた。