神保町シアターの特集「恋する映画」でこの作品が上映された。
観たかった1本だった。
1956年の大映作品。
製作:永田雅一、監督:吉村公三郎、主演:山本富士子、上原兼、撮影:宮川一夫、照明:岡本健一。
キネマ旬報ベストテン2位。
当時の映画界と大映
当時映画産業は炭鉱などと並ぶ花形産業で、映画人口の最大期を2年後に控える絶頂期だった。
同年のベストテン作品を見ても、第1位の「真昼の暗黒」(今井正監督、橋本忍脚本)をはじめ、4位「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)、5位「ビルマの竪琴」(市川崑監督)、6位「早春」(小津安二郎監督)、8位「流れる」(成瀬己喜男監督)と日本映画の歴史に残る名監督たちの作品が並ぶ。
松竹、東宝、大映、東映、日活、新東宝の6社が専属のスタッフ、俳優をもって製作を行い、独自の配給網を持つ(新東宝を除く)という2度とは来ない夢のような時代だった。
その中で大映は社長永田雅一のワンマン体制が敷かれていたが、専務として新劇の劇作家だった川口松太郎と監督の溝口健二が永田を補佐し、俳優では長谷川一夫を筆頭に、京マチ子などがいた。
京都と東京調布にそれぞれ撮影所を有していた。
業界的には松竹、東宝に次ぐ3番手のイメージ。
社長の永田の資質もあるのだろうが、政治家とのつながりやプロ野球球団保有など目立つ活動を志向していたが、松竹の歌舞伎、東宝の阪急電鉄のような基盤とする背景に乏しく、上映館数も少ないなど、経済的には脆弱だった。
また、永田は当初、新生日活によるスタッフ引き抜き防止を主目的とした、いわゆる5社協定を主導したが、長期的には人材の交流の疎外という点では映画界全体の利益に反した。
一方で、東宝争議後のゴタゴタに嫌気がさしていた黒澤明を招き「羅生門」を製作するなどもしている。
日仏合作の「二十四時間の情事」(アラン・レネ監督)を作ったり、溝口健二監督に好きなように撮らせ、「近松物語」「雨月物語」「山椒大夫」などの名作を世に送り出したのも永田雅一だった。
山本富士子と大映
第一回ミス日本の栄誉を満場一致で受賞したという山本富士子が大映に入社したのは1953年。
当時絶頂の映画界は例えば宝塚スターの再就職先としても有力な先だった(乙羽信子、淡島千景、新珠三千代、有馬稲子など)。
しばらくはいわゆるプログラムピクチャーのヒロイン役ばかりだった山本が、有力監督の文芸作品のヒロインに抜擢されてブレイクしたのが「夜の河」だといわれる。
山本富士子という人、外見の美貌と物腰の柔らかさに反して自立心と自尊心に満ちていた。
当初の大映との契約は3年後にフリーとなる条件だったというが、大映は反故にし、その後も専属契約を押し付けた。
契約更新のたびにもめたらしい。
念願の第1回他社出演は松竹の「彼岸花」(1958年)。
小津安二郎初のカラー作品の準主役に抜擢された山本は、和服姿のあでやかな所作と滑らかな関西弁で画面をさらった。
大映プログラムピクチャーとして消費され、残されていなかった山本富士子の姿が映画の歴史に鮮明に刻印された瞬間だった。
後年の映画ファンにとっては隠されていた日本映画の宝がそこに燦然と輝いているのを発見したような気持だった。
他社出演では「墨東奇譚」(1960年)、「如何なる星の下で」(1962年)がある。
どちらも実力派・豊田四郎の監督作品。
女優に対しては意地悪なほど辛辣な演出を行いかねない豊田監督をして、気高く孤高の女性像を描かしめた。
山本富士子は永田雅一と他社出演をめぐって衝突し、大映を退社。
永田は怒って映画界からの永久追放を画策した。
1983年、「細雪」の映画化に際し、監督の市川崑が長女役に山本を指名し交渉したが断られたという。
山本富士子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の「細雪」だったら・・・それはさぞあでやかだったことだろう。
完成した作品を見た山本が、出演すればよかったと思ったとのこと。
映画ファンにとっても逃した魚は大きかった。
山本富士子と「夜の河」
山本富士子が大映入社3年目。
一流スタッフを集めたカラー作品である。
共演にも東宝の上原兼をもってきている。
この作品についてはまず色彩設計の見事さがいわれる。
舞台は京都のろうけつ染めの工場。
そこの独身の跡取り娘役が山本で、大阪大学の教授の上原と恋をして別れるまでを描く。
色彩設計でいえば、赤や緑の染め物が並ぶ工場の風景が思い出される。
発色もいい。
観たのはデジタル版だが、オリジナルのカラーが再現されているのだとしたらば、カラー撮影は成功している。
カメラは宮川一夫。
溝口作品でのパンフォーカスやクレーンを使ったワンショットワンシークエンスの撮影に力を発揮するカメラマン。
「雨月物語」では、戦乱の世、我が家に戻った森雅之が妻・田中絹代の歓待を受けるが、我が家はすでに廃墟だったというシークエンスを、カメラを360度パンする間の場面、時間転換で表現。
「祇園囃子」では路地を歩く若尾文子が、20メートルほど先の通りの舞妓たちを見て、けいこに通えない身を恥じて姿を隠す場面を、歩く若尾と20メートル先の舞妓たちの双方にピントを当てる鮮やかなパンフォーカスによるワンカットで表現。
照明の岡本健一。
熊井啓が胃潰瘍で血を吐きながら撮った「忍ぶ川」(1972年)。
大映は倒産し、撮影所システムは崩壊する中で、熊井が特に照明担当としてスタッフに招いた人材として記憶に残る。
「夜の河」では、夏の夜、歩く山本と上原が雨に打たれ軒下に休むあたりから、お茶屋内のシーンでのライテイング。
徹底したバックライトで人物の表情を消し、ただならぬ心理状況を表す。
長時間にわたり、影や暗さを微妙にライテイングするには相当の経験と自信がいるはず。
されど「夜の河」では必要以上の技法的主張はなかった。
撮影はカラーの再現と主人公の心情の移ろいを写し取ることに傾注し、手際よくまとめていた。
すべての技術的効果は吉村監督の演出プランの範疇に収まっていた。
心惹かれる相手とのただ一度の逢瀬の後、「子供ができたら、あんさんに似て・・・」と主人公が漏らす。
「子供?」と我に返り逡巡する妻子ある男。
そのわずかな反応に醒め「もしできてもうちの子として育てます」と端然と述べる主人公。
あふれる情念と自立した女性の自尊心を合わせて表現した、主人公と山本富士子のキャラクターが被って見える山場のシーンであった。
逢瀬の場は通りかかったお茶屋。
そこのおかみは主人公と女学校以来の親友で、軒先の二人を招き入れる。
男を紹介しようとする主人公には「ワテは戸籍係であらへん」と客先のプライバシーには踏み込まない。
演じたのは阿井美千子という女優。
てきぱきとした京都弁といい、動きのいい物腰といい、これがプロの京都女性というものなのか?と感心する傑出した演技だった。