ガイドヘルパーを始めました

いくつになっても「先立つ」ものがあります。

毎年12月から3月いっぱいまで山小屋をはずれるおじさん。東京の自宅で主に専業主夫として過ごしますが、一方、有り余る時間を少しでも現金に換えられたら?と思うのが人情です。

最初の年は、府中の税務署に確定申告時の作業要員として短期バイトしました。
近隣の専業主婦たちが大勢詰めかけるバイトでした。

次の年は郵便局の年賀状要員として応募しましたが、応募時期を過ぎていたこともあり落選。
他のバイトにもご縁がなく、ほとんど収入なしでした。

今年こそはと、昨年12月にハローワークにも行きましたが、年齢のほか、「短期」(12月から3月まで)という時点でほぼ募集無しの現状でした。
交通整理員くらいなら?と思っていた山小屋おじさんは世間知らずでした。

人手不足、などというのは表向きのことで、世の中、ますます「若い人を少しでも安く、長期に使いたい」というのが、実業界の本音であり、世の中の常識であったのです。

70歳まで雇用とか、国民総活躍時代とか、氷河期世代の救済とかニュースで言ってますが、本気にしてはいけません。

ほとんどが山小屋おじさんのような庶民中の庶民には「絵に描いた餅」。
世間のキャッチフレーズに惑わされていては、大事な人生の後半戦を生きてはいけません。

自分のことは自分でしつつ、やりたいことをやる。

多少は世間に妥協して、現金収入の手段とすることはあっても、学生時代のバイトのような、現金収入のためには職種を選ばずのような時間の使い方は今更ちょっと。

ということを考えていたら、うちに遊びに来た、社会福祉協議会勤めの人から、「障害者のガイドヘルパーが足りない」との話を小耳にはさみました。
休日などに外出する障害者に同行するヘルパーの仕事です。

小耳にはさみながらハローワークに行くと、ガイドヘルパー資格研修開催のチラシが目に入りました。

早速、12月開催の「知的障碍者移動支援従業者養成研修」に参加しました。

研修日当日、会場の調布市福祉人材育成センターには、12人の参加者がいました。
うち10人が女性で、子育てが一段落した主婦層が主でした。

男性はおじさんを含めて2名。
もう一人の方はサラリーマンの退職者で、おじさんより一つ若いくらいの人。
奥さんを説得して定年後の嘱託生活を早々に切り上げて、サラリーマン生活から足を洗ったとのこと。
同感です、ご同輩。

2日間の研修カリキュラムは、障害者福祉に関する制度について、ガイドヘルパーの実務について、障害者の理解について、など。
講師には市役所の福祉課職員のほか、障害者施設の運営者など。

実際のガイドヘルプの模様を映像を使って見せたり、講師のこれまでの体験を臨場感豊かにプレゼンするなど魅力的な講習の2日間でした。

費用は資料代の1500円のみ。
研修を受ける者は優遇されています。
研修費用を援助する調布市は、実は隠れた福祉の街なのかもしれません?

その後、実習が1日。
協力先の施設のレクレーションの日に合わせ、先輩ヘルパーについて1日過ごしました。

吉祥寺でボーリングするレクレーションでしたが、現地集合するまで電車で吉祥寺に入り、マクドナルドで昼食、家電量販店でウインドショッピングの間、利用者とヘルパーにくっついて歩きました。

おじさんが付いたヘルパーさんは、70歳代の方でしたが、動きやすそうな体つきと、無駄のないガイドぶりに、学ぶところが大でした。

その後、1月に1本立ちのデビュー。
平日の夕方、施設からプールまでの送迎の仕事でした。
行きは先輩ヘルパーさんと同行、帰りは単独のガイドでした。

緊張しましたが何とか無事に完了。
利用者さんは自閉症とはいっても会話ができ、財布も自分で管理できるくらいの人で、新人のおじさんにも優しい人でした。

また、緊張といっても、上司やお客さんの顔色をうかがう緊張ではなく、ひとりの人格に関する尊重という意味での緊張なので、悪い意味でのストレスはありませんでした。

2月にはすでに5本の仕事が入りました。
3月いっぱい頑張ります。

 

「石井輝男キングオブカルトの猛襲」VOL.3 最終兵器「直撃地獄拳・大逆転」

というわけで、ラピュタ阿佐ヶ谷の石井輝男監督特集も最終週。
今回は伝説のハチャメチャ空手映画「直撃地獄拳・大逆転」(1974年東映)を観に行ってきました。

実は前日に、この作品を観ようとラピュタを訪れた山小屋おじさん。
4番目で入場できる券を買い、昼食へと外へ出た。
13時開映と思い込み、ラピュタへ戻ったのが12時45分頃。
そこでは、平日の初回とはいえ誰もいないロビーで、スタッフのお兄さんが一人、次回特集の看板用ポスターを繋ぎ合わせていました。

13時上映と思い込んでいたおじさんは、開映10分前に「10分前だけど?」とお兄さんに声をかけましたが、帰ってきた言葉は「12:30から始まってます」。
おじさんは焦ったが、すでに上映開始を30分近くも過ぎており、入場は不可。

結局は入場料を払い戻してくれましたが、ラピュタのスタッフには大変なご迷惑。
さぞ、思い込みの激しいクレーマー爺め、と思ったことでしょう。お手数かけました。

これが老化というものか・・・。
自分のせいとはわかりつつも、おじさん自身にもショックな出来事。

折からロビーへやってきた、人生の先輩と思しき70がらみの御仁と雑談して心を落ち着ける。
先輩はバスの無料パスを駆使して、都内の劇場をめぐるのがご趣味とのこと。
三山ひろしなどの演歌歌手が座長を務める講演や、会員パスを使っての映画鑑賞がターゲットで、この日も池袋の文芸座に高峰秀子特集を観に行ったものの番組が変わっており、池袋から中野行きのバスに乗って阿佐ヶ谷まで来たとのこと。

インターネットは使わないので、もっぱらビラを集めて鑑賞のスケジューリングをしているとのことで、山小屋おじさんにも演歌講演や文芸座のビラをくれました。

この先輩との雑談で、この度の「ショック」もどうにか和らいだ山小屋おじさん。
出直しの阿佐ヶ谷駅へと向かう元気が出たものでした。

殻に閉じこもりがちな映画ファンとの雑談は、旧知の間柄でもなくてはほとんどありえないもの。
対話に応じてくれた先輩には感謝のみ。
気を付けてお過ごしください。

さて翌日懲りずにラピュタへ。
今度こそ12:30分の上映開始に間に合うようにロビーへ。

「直撃地獄拳・大逆転」。
シリーズ第1作目の好評を受けて石井監督が受けざるを得なかった作品とのこと。
内容のハチャメチャ具合がすべてを物語っています。

たとえ監督さんの希望の企画ではなくても、プロならばメッセージ性を付与するなりして仕上げるところ、本作にはそういったものがほとんど見られません。
当時空手アクションでバリバリだった、千葉真一のアクションはたっぷりフューチャーしているものの、後の時間はおふざけと楽屋落ちに終始しています。

その楽屋落ちに付き合うのが、丹波哲郎、嵐寛十郎といった、石井組の重鎮たちなのですから、監督の不思議な魅力こそおそるべしです。
ラピュタの石井監督特集の最終兵器として、満を持しての上映です。

主演の千葉真一は、「仁義なき戦い・広島死闘篇」(1973年)で仁義もくそもない凶暴なやくざを演じ、鮮烈に芸域を広げていたものの、本作ではそれまでのヒーロー路線に戻っている。
というか、千葉ちゃんには折からの空手映画ブームをけん引する一連のシリーズ(「殺人拳」「ボデイガード牙」)という、いわば「本業」があるということでしょう。
アクションの切れはすさまじいものがあります。

ヒロインは東映入社2年目の中島ゆたか。
貴重な22歳の時の出演です。
1970年代、映画の時代は退潮をを迎え、この女優さんの代表作ともいうべき作品を残しえなかったのは残念です。

中島ゆたかと同クラスでクレジットされているのが、悦っちゃんこと志穂美悦子。
思えば「帰ってきた女必殺拳」(1975年)で彼女のアクションをスクリーンで初めて見たときは、その激しさ、華麗さ、りりしさが鮮烈に目に焼き付いたものでした。

本作ではラストで華麗なアクションを披露します。
久しぶりに彼女のアクションをスクリーンで観て目が覚める思いでした。
気合の入った掛け声がいいですね。

余談ですが後に長渕剛と結婚した悦っちゃん。
長渕が体を鍛えるようになった原因は、夫婦げんかの度にぼこぼこにされる長渕が、悦っちゃんに対抗しようとしたからだ、という話さえあります。

ということで、石井輝男監督特集が終わりました。
新東宝から東映に移り、活劇に独特なテンポを持ち込み、「地帯シリーズ」などに結実。
題材に、戦後闇市から、三国人との争い、麻薬や人身売買、香港マカオといったアングラなテーマを選び、その遊び心と好奇心はのちの、東映異常性愛路線につながります。

この間、「網走番外地」などのヒット作も連発。
松竹、日活にも招かれて腕を披露しています。

新東宝時代からの吉田輝夫、三原葉子、嵐寛十郎、丹波哲郎をはじめ、東映時代の小池朝雄から近年の岡田奈々まで、お気に入りの役者というか石井組の常連がいるもの特色。

日本映画の歴史の1ページを彩る個性的な映画監督です。

ラピュタ阿佐ヶ谷、モーニングショウの女優特集は、「江利チエミ」でした。

フィルムノワールの世界

フィルムノワールという映画のジャンルがあります。
直訳すると暗黒映画ということになります。

イメージ的には、1940年代のモノクロスタンダードサイズのアメリカ映画で、犯罪的だったり退廃的だったりする登場人物が、必然的にもしくは自業自得として犯罪行為を行い、これまた必然的に破滅へと向かう物語です。

当時流行した探偵・犯罪小説家だった、レイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメット、ジェームス・M・ケインなどの原作物の映画化が多く見られます。

派手にマシンガンを撃ち合うギャングものというよりは、ひっそりと裏街道に潜む市井の人物が、仲間の犯罪集団や悪女の誘惑にあらがえず、自滅してゆくという宿命的なドラマが特徴です。

年末年始にわたり、渋谷シネマヴェーラという名画座で、「フィルム・ノワールⅢ」という特集があり、何本か観ることができました。

「殺人者」1946年 ロバート・シオドマーク監督

スターになる前のバート・ランカスターとエヴァ・ガードナーの主演作です。

監督はドイツからの亡命者・シオドマーク。
代表作は、ドロシー・マクガイアが盲目の少女を演じるスリラー「らせん階段」(1945年)でしょうか。

夜や闇の撮影が上手いイメージの映画です。

ガードナー扮する悪女に振り回されるこれまた悪人のランカスターが自滅してゆく物語。
悪女はもちろん、悪人ながら主人公のランカスターにもほとんど感情移入を許さない乾いたタッチの作品です。

この作品のエヴァ・ガードナーのスチールを見てから、気になっていた映画でした。
後の大女優は、若々しいものの、すでに貫禄が感じられました。

「ガラスの鍵」1942年 原作:ダシール・ハメット

元祖「奥様は魔女」(1942年)のヴェロニカ・レイクを観たかったのです。
レイクはコメデイーを含め、様々な役柄に扮しており、また共演のアラン・ラッドとコンビで売り出されていたようです。

本作はノワール調は控えめで、レイクも完全な悪女ではありません。
むしろスピーデイーな身のこなしのラッドの颯爽ぶりを見る作品なのかもしれません。
レイクは様々なファッションに身を包んで登場します。

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」1946年 原作:ジェームス・M・ケイン

完璧な美女だが下品さを隠し切れない悪女、ラナ・ターナー。
悪女と会った瞬間に自分と同類であることを知り、宿命的に破滅してゆく半端者、ジョン・ガーフィールド。

場末のドライブインを舞台に救いのないノワールな世界が繰り広げられる。

3度目の映画化だが特に悪女役は、ラナ・ターナーを置いて他にありえないと思わせる適役。
原作の退廃性、犯罪性、をすべて彼女が体現している。

撮影がどうこうより、ストーリーがどうこうより、ラナ・ターナーの存在そのものがノワールな記念碑的な作品だと思います。

「ハイ・シエラ」1941年 ラオール・ウォルシュ監督

ノワールとかなんとかの枠を超えた傑作だと思います。

登場人物が全員、犯罪者であったり日陰者だったりするところは「ノワール」です。

必ずしも退廃的ではない日陰者たちの性格描写にも力がはいっており、様々な伏線を巡らせながら、ラストの破滅に向かってテンポよくドラマが進みます。

最終的には犯罪者でありながら人間性に優れた主人公と、日陰者でありながら主人公の人間性に惹かれるヒロインの、破滅への道行きにドラマが収斂。

「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」など、いわゆる『ボーイ&キーチもの』と呼ばれる一連の作品の基調をなす、イノセントな犯罪カップルの破滅への逃避行がこの作品のハイライトです。

ハイウエイをぶっ飛ばしてのパトカーとのカーチェイスのほか、長距離バスでの逃避行シーン。
これに簡易結婚式場での結婚シーンが加われば、「夜の人々」「拳銃魔」とシチュエーションが重なります。

ヒロインのキャラクターの健気さ(不幸な環境、しっかり者、家事もこなす)は「夜の人々」のヒロイン像と重なります。
そう、前3作と異なり、観客の感情移入を許す主人公像がこの作品にはありました。

主人公役はこれが出世作となった、ハンフリー・ボガート。ヒロイン役はのちの「エデンの東」(1955年)でジェームス・デイーンの実母の女郎屋の女主をやった、アイダ・ルピノです。

平凡社新書「ハリウッド100年史講義」を読む

上記の新書を読みました。
副題に「夢の工場から夢の王国へ」とあります。

映画産業の通史という映画史研究家の本はほとんど読んだことがなかったので貴重な経験でした。

この本を読むと、映画というものがいかに工業的な発展とともに進化してきたか、また見世物という人間の根源に訴えかける「即物的な」装置なのかがわかります。

また、映画の工業性、即物性に着目し、徹底してそれに倣い発展して来たハリウッドが昔も今も映画というジャンルの発信源であることも。

映画という光学的な装置による表現手段は、1895年にフランスで生まれました。

その後の発展は、いわれるようなエジソン一人による発明に基づくものではなかったようです。

様々な手によって工学的にも発展していった映画は、興行的な出し物として圧倒的な人気を博し、全米にニッケルオデオンと言われる庶民向けの急ごしらえの上映劇場が展開するに至ります。

この時代のニッケルオデオンの興行主たちが、のちのハリウッドメジャーの立役者たちになってゆくのです。

映画製作の現場では、後に「ハリウッドの父」と呼ばれたD・W・グリフィスが、制作現場での分業化をすすめ、監督、脚本、撮影、照明などの役割分担を明確にしました。

グリフィスは、サイレント時代のハリウッド畢竟の大作「イントレランス」(1916年)を撮ったことで映画史に永久にその名を残します。

必ずしもグリフィス一人の創造ではないものの、ロングショット、クローズアップなどの撮影技法、ロケーションなど今に至る映画技法が確立されたのもこの時期でした。

第一次大戦後の1920年代、娯楽産業として急成長した映画産業に銀行などからの投資が集中しその資本規模と観客動員数を伸ばしてゆきます。

この間、フォックス、MGMなどの映画製作会社は、興行収益の最大化を図るため、映画館の買収などをおこないます。映画産業が、制作から、配給、上映までを統合したものとなり、映画に関する収益がすべて映画会社に収斂するようになってゆきます。

制作現場では、スターと呼ばれる出演者のほかに、政治的な背景を持った監督(ドイツなどからの亡命者)などが才能を発揮し、全権を把握するプロデューサーが大立者としての幅を利かせます。

喜劇のほか、メロドラマ、犯罪もの、ミュージカルなどのジャンルが生まれ、また現在の作品でも見られる様々な映画技法が生まれます。

この間、一貫してハリウッドが忘れなかったのが、「見世物としての映画」という精神です。

通俗的な題材の重要性から、トーキー、カラー、ワイドスクリーン、CGにいたる技術的発展の背景にまでその精神は一貫しています。
だからこそハリウッドは映画産業の中心でいられたのです。

1960年代の大作主義とその反省から、現在のハリウッドは関連業種とのタイアップ。
つまり事前の大量宣伝、関連商品、ソフトの販売、テレビ放送などなどにより、興行的なリスクは狭小化され、映画産業は巨大な収益事業となっています。
映画そのものの興行収益は、関連事業収益の1から2割程度でさえあるのです。

いつしか辣腕プロデユーサーが幅を利かせた時代は終わり、映画会社が配給、上映までを統合経営していた時代も終わり、作品ごとに関連会社と連携してビジネスを行う、という方向に変わっています。

かつては場末の粗末な劇場で来訪者を待っていた映画産業が、現在では劇場に来ようと来まいと、人々がブームに引きずり込まれ、自動的になにがしかの金銭を吸い上げれんばかりの一大装置になってしまった、というのは言い過ぎでしょうか。

制作本数だけではハリウッドを越えるインドのような国もあります。
が、見世物性と不即不離であり、かつ資本や商業性との親和性に富んだ映画というものと、アメリカという国は宿命ともいうべき共通性に満ち満ちており、映画はすなわちハリウッドだとつくづく思わざるを得ません。

「ハリウッド100年史講義」はそのことを理路整然と通史的に教えてくれました。

「石井輝男キングオブカルトの猛襲」VOL.2 「女王蜂と大学の竜」他を観る

名画座・ラピュタ阿佐ヶ谷で年をまたいで催されている石井輝男監督特集。

先回報告の「戦場のなでしこ」の後、「女体渦巻島」(1960年・新東宝)、「神火101・殺しの用心棒」(1966年・松竹)、「女王蜂と大学の竜」(1960年・新東宝)、「緋ぢりめん博徒」(1972年・東映)と映画館に駆けつけてきました。

石井輝男という映画監督、専属だった新東宝倒産のあとは、東映をベースに松竹、日活と招かれて作品を作っており、単なるカルト系のマニアックな映画監督ではなく、職人としての腕が映画会社全般に買われていることがわかります。

かといって、娯楽的ストーリーをそつなくまとめるだけの監督では全くありません。
それは作品の主題やちりばめられたエピソードを観れば一目瞭然です。

例えば「女体渦巻島」の舞台は対馬で、そこで行われている麻薬と人身売買が背景となっています。

麻薬はともかく、戦後に対馬で日本人が人身売買されていたのかどうかはわかりません。

とはいえ、古くは戦国時代から戦前まで続く、日本人奴隷とからゆきさんの歴史を見ると、占領時代から朝鮮戦争へと続くどさくさの時代の玄界灘の離島にあっては無きにしも非ずと思わせる題材です。

同じく1960年の新東宝作品「女王蜂と大学の竜」ではその背景が戦後闇市時代で、やくざと三国人の抗争が主なエピソードとなっています。

これまた、現在では微妙な題材と言わざるを得ません。

中国訛りのある悪役というのは、藤村有弘から小沢昭一に至るまでカリカチュアライズされた正体不明の悪役像でしたが、今でも可能な描写かどうか?

また、東映では「仁義なき戦い」(1972年・深作欣二監督)、「実録・私設銀座警察」(1973年・佐藤純弥監督)などで闇市における三国人と、日本人やくざもしくは特攻崩れの若者との暴力沙汰が描写されていましたが、今では無理でしょう。

「女王蜂と大学の竜」ではトラックに乗って押し寄せる三国人と、機関銃を備えて迎え撃つ(不発でした)やくざという場面が正面から描かれています。
戦後の渋谷では同様の抗争事件があったのが歴史上の事実です。

この作品では、三国人との抗争が、負の歴史として苦渋に満ちた描写ではなく、無国籍なアクション映画のように軽快明瞭に描写されています。

もうこういう映像は制作されないのじゃないでしょうか。
現在ではタブーへの挑戦になってしまいます。

闇市のセットの念の入りようといい、「女王蜂と大学の竜」には戦後直後の日本の風景の再現という意味で、文化遺産的な価値、をさえ感じてしまう山小屋おじさんです。

また、本作には三原葉子の着流し女やくざに「緋牡丹博徒」の原点があったり、嵐寛十郎が立ち回りでバラセンに巻かれるサディステックなシーンがあったりなど、随所に石井輝男監督の非凡なセンスと独特の好みが見られます。

全体を通して、流動的な時代背景を舞台に、伝統を引きずるやくざの親分(嵐寛十郎)と、自由自在に躍動する若い主人公(吉田輝夫、三原葉子)が三国人相手に大暴れするという映画です。
エピソードも盛りだくさんで、新東宝作品らしい場末感に満ち満ちています。
久しぶりに「明るい・前向きな」映画を観た、とおじさんは思いました。

ちなみにラピュタ阿佐ヶ谷における新東宝作品は、フィルムセンターからの貸し出しによるそうです。
渋谷のシネマヴェーラは、新東宝作品の管理会社から直接貸し出してもらえるそうですが、内情はわかりません。

「神火101・殺しの用心棒」は、ヌーベルバーグを経て混迷期に入った、60年代の松竹に呼ばれて石井監督が作った作品の一つで、香港が舞台です。
若き日の竹脇無我が後年とは違った軽々しさを発揮して、監督のタッチとマッチしています。
現在ではほとんど上映機会のない作品で、貴重な上映でした。

この作品でも背景に、中国の海上民である、虱民と彼らが暮らすサンパンの群れを描写するところに石井監督らしさがありました。
今は一掃されているであろう、虱民の風景だけでも貴重な映画なのかもしれません。

藤純子の後継者に予定していた中村英子という女優売り出しのための「緋ぢりめん博徒」は、中村英子の非力もあり全く様にならない作品となっていました。
出てきた若い女優がことごとく様になっておりませんでしたが、その中では盲目の仕込み杖使いに扮した、藤浩子という女優の暗闇での立ち回りのシーンが雰囲気が出ていました。

中村英子は「仁義なき戦い」で梅宮辰男扮する悪魔のキューピー・大西の情婦役をやり、短い登場時間でしたが印象深かったです。
この人は、のちに山口組三代目の田岡組長の子息と結婚。
一子を設けた後自殺しています。

「仁義なき戦いシリーズ」は、既成の女優を別人のように輝かせる舞台でした。
中村英子のほかに、梶芽衣子、池玲子などが印象印に残っています。
これに「仁義の墓場」の多岐川裕美、「人切り与太」の渚まゆみを加えると、深作欣二監督の女優の活かし方には刮目せざるを得ません。

いずれの作品も女優さんを無理にフーチャーするのではなく、無茶苦茶する男どものあくまでも脇として使い、理不尽な状況の中で耐える女の魅力を引き出していることに気づきます。
耐えるだけではなく、控えめながらも状況に抵抗する彼女たちの哀れにも凛とした姿が忘れられません。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーでは往年の映画スターのプロマイドが売られています。女優さんの写真はよく売れるそうです。

ロビー奥には書籍コーナーもあります。

山小屋おじさん初仕事・ポステイングに挑む

令和二年、山小屋おじさんの東京での初仕事です。

シルバー人材センターからの斡旋で、社会福祉協議会の広報配りです。

「福祉の窓」という冊子を3000分ほど配りました。

配った地域は、調布市西つつじヶ丘1丁目と2丁目。
おじさんの自宅から程近く、知った道ばかりの場所です。
マンションなど集合住宅も多く、ポステイングには効率の良い地域でした。

集合住宅の入口にはポステイングお断りの表示がありますが、広報の配布は守衛さんに断られることもありませんでした。

一戸建て住宅の配布は効率的ではありません。
また、郵便受けも最近はデザインとセキュリテイ重視で、最初は投函しずらかったです。

この地域の外車所有率が高く驚きました。
今どき希少価値のある「中流家庭」が多い地域なのです。

5日間、20時間程度の作業で全域に配布ができました。
一部につき6円の作業報酬(プラス1,200円)。
18,000円ほどの収入になりました。

久しぶりに規則的な生活と運動を行い有益でした。
シルバー人材センターには一昨年に登録しましたが、12月から3月までの短期が条件のため今まで仕事の紹介はありませんでした。

あきらめていたところ、今回の作業の紹介がありました。
高齢者が仕事に巡り合うことの難しさをかんじています。

今のところ、長野の別荘地の管理事務所の草刈りが一番、現金収入の手段としてはご縁がありそうです。

調布布多天神へ初詣

令和2年1月11日、調布の布多天神へお参りしました。
今年初の当社へのお参りなので初詣です。

山小屋おじさんの3人の子供のお宮参りと七五三はこの神社でした。
いうなれば我が家と我が地域の産土神です。

手水やで身を清めます。

拝殿に向かって進むと右手に神楽殿があります。
立派な神楽殿ですが、おじさんはまだここで舞や雅楽が奉納されているのを見る機会に浴していません。

天神様なので、菅原道真公由来の牛の像があります。

拝殿にて今年の家族の安寧を祈願します。

家内安全のお札をいただきます。巫女さんに断って撮影しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

令和2年 山小屋開き

あけましておめでとうございます。

令和二年となりました。

正月の2日から4日にかけて、家内と次男坊とともに山小屋開きをしてきました。

正月二日の蓼科山の景色です。

山小舎とその付近の風景です。

地元のスタンドのおばさんによると、今シーズン一度雪が積もったが、その後に雨が降ったとのこと。国道は路面が乾いていました。別荘地内は幹線路は路面乾燥で、山小屋の前の砂利道は凍結していました。

山小舎前の砂利道以外はノーマルタイヤで走行可能の状態でした。

山小屋の水道は、配水管の一部が残った水の凍結で、解消までに時間がかかった以外、問題なしでした。
気温も夜間以外は思ったより低くはなく、薪ストーブと灯油ストーブの併用で快適に乗り切れました。

やはり長野の空気は澄み切っており、快適でした。

翌三日は、家族とともに県内の小布施町に行きました。

小布施堂という和菓子屋直営のカフェで名物のモンブランを食べました。
小布施は週末ともなると観光客であふれていますが、さすがに正月は人出も多くなく、30分ほど待ってモンブランが食べられました。

昼食は同じ小布施町内の鼎という蕎麦屋で十割蕎麦。
蕎麦もおいしかったですが、蕎麦湯の濃さに驚きました。
ルチンをたっぷり摂取できました。

帰りは千曲市の戸倉上山田温泉の立寄り湯・白鳥園によって温泉浴。
入浴料600円のスーパー銭湯方式の立寄り湯です。
食堂や大広間も持つ憩いの施設です。
地元の人で混んでいましたが、熱い湯に温まりました。

今年も一年が始まりました。
皆様のお幸せをお祈り申し上げます。

令和元年12月30日の府中大國魂神社

年の瀬に用事があって府中へ行きました。

府中は律令時代に武蔵国の国府があった場所。
今でも三多摩地区の行政の中心地で、税務署、運転試験場、ハローワーク、法務局などがあります。

京王線の府中駅は、府中の中心・大國魂神社の参道わきにあります。
由来1900年と言われる大國魂神社。
武蔵国一之宮かと思いきや、一之宮から六之宮までを合わせ祀る別格の神社とのこと。

おそらく国の中心に位置する大國魂神社を参拝すれば、武蔵国中の代表的な神社を参拝したことにする機能を付与せしめんとする、当時の政治的な背景があったものと、山小屋おじさんは勝手に推測します。

参道のケヤキ並木の由来は、前九年の役平定の際に、源頼義が寄進したものとされる。
西暦1000年当時、このあたりが東国の蝦夷征伐の後方基地だったことがわかる。
大國魂神社の政治的な役割が、東国征服を国是とする大和律令政府の政策を補完するものだったことも。

ということで12月30日の大國魂神社の境内。

おじさんが見たこともない規模のテキ屋が造営されている。年末年始に大國魂神社に来るのは初めて。
さぞかし初もうでの人出が多いのだろう。

それにしてもこれが東京のテキ屋のスケールの大きさなのだろうか?
それとも大國魂神社が特別なのか?

特別なのだとしたらそれはなぜか?
被差別民としての香具師をルーツとするテキ屋の人々と大國魂神社の歴史的関係は深いからなのか?
そうだとすれば、神の世界と漂泊の民(被差別民)は歴史の闇の中でその境目を不可分にしているということなのか?

と妄想は広がる令和元年の暮でした。

皆様よいお年を。