文芸プロダクション にんじんくらぶ
古書店の映画本コーナーで、で「スターと日本映画界」という古めの本を見つけた。
若槻繁という著者名が引っ掛かった。
にんじんくらぶの代表者だった人物が、設立から解散までの13年間を回想した本だった。
1968年三一書房刊の新書版のこの本を500円で購入し、むさぼり読んだ。
にんじんくらぶは、1954年に岸恵子が中心になって、有馬稲子、久我美子と3人で結成した芸能プロダクション。
岸恵子の従姉の夫である筆者は、日ごろから彼女の相談に乗っていたことから、俳優のマネージャーとして映画界にかかわることを志し、久我美子、有馬稲子の賛同を得て、マネジメントと映画製作を目的とする会社を設立するに至った。
背景には、岸恵子が松竹に、有馬稲子が東宝に対して抱える〈希望する映画に出られない〉不満があった。
岸恵子は当時恋仲だった鶴田浩二との共演作「ハワイの夜」(1953年 マキノ雅弘監督 新東宝配給)に松竹に無断で出演強行するなど、当時の映画女優としても無茶なことをした。
松竹は契約違反を不問に付し、かえってギャラを2倍にして待遇した。
岸は黙って、気が進まぬ「君の名は」(1953年 大庭秀雄監督)への出演を承諾せざるを得なかった。
有馬稲子も、東宝時代に出演が決まり、役作りに入っていた「夫婦善哉」が制作中止(のちに淡島千景に代わって制作された)となったことなどにより、松竹へ移籍した。
移籍時も松竹との契約内容に、小津作品への出演を盛り込むなど、〈自己主張する〉女優だった。
以後、にんじんくらぶは彼女たちの代理人(マネージャー)として、交渉の窓口となる。
交渉の相手は、産業としての全盛期を迎え、製作から配給、興行までを独占しつつ、専属俳優の他社出演をパージする内容の秘密協定を相互に結んでいた映画会社5社(のちに6社)そのものであった。
5社協定(のちに6社協定)と呼ばれるそれは、独占禁止法に触れるため表には出せないものの、公然の秘密として映画俳優を縛っていた。
「人間の条件」
にんじんくらぶの歴史の中で、燦然と輝く歴史がある。
「人間の条件」と「怪談」の製作だ。
いずれの作品も、東宝、松竹などのメジャーでは実現不可能な内容、規模であり、その完成度の高さから、海外映画祭での評価も高く、封切り以降も、名画座上映にとどまらず、「リバイバル上映」として封切館で上映された。
ただし、製作面、金策面では困難を極め、「怪談」での損失は、にんじんくらぶの会社消滅の原因ともなった。
「人間の条件」は全6部作、全9時間39分の上映時間。
製作期間4年、原作・五味川順平、監督・小林正樹、松竹配給の大作だった。
軍隊の非人間性に怒りを抱きながら己の正義を貫く主人公に仲代達矢を抜擢。
妻役には新珠三千代。
軍隊経験者の小林監督は、出演者を松竹大船撮影所に集め合宿。
起床ラッパとともに第一軍装に3分以内で着替え、軍隊式の整列、号令を1か月間訓練してから、満州に見立てたロケ地、北海道サロベツ原野に乗り込んだという。
この作品の撮影は、宮島義勇。
戦後の東宝争議では組合の最高幹部として戦い抜いたゴリゴリの闘士。
ロケ地では、体調を崩しながらも粥をすすって撮影を続行したという。
1・2部がベネチア映画祭の予選を通過しながらも、邦画メジャー5社の妨害(勝手に出品辞退を表明)にあう(無事出品し、サンジョルジュ賞銀賞を受賞)などの混乱の中、1959年の公開時、松竹配給収入の1位、2位を「人間の条件」の1・2部と、3・4部が占めた。
全6部作で配給収入9億円の大ヒットとなった。
なお、本作の製作費は3億2千万円余。
松竹の3億円による買取契約だったため、にんじんくらぶは2千万円余の赤字、松竹は6億円の黒字(経費込みの粗利として)となった。
「人間の条件」という作品。
戦争を経験していた当時の日本人にとっては特別のものであった。
筆者の軍隊経験者である父親(大正10年生まれ)は、テレビ版の「人間の条件」を欠かさず見ていた。
「怪談」
先の「人間の条件」が、苦しい製作条件の中完成し、国内でヒットし、海外で高評価で迎えられたた作品であるなら、同じく赤字、海外高評価ながら、語られるのが憚られるような不幸な作品が「怪談」だ。
1964年に製作開始。
監督・小林正樹、撮影・宮島義勇、原作・小泉八雲。
当初の予算は1億円で、7千万を配給予定の東宝が出資。
3千万をにんじんくらぶが金策してスタートした。
ところが最終的にかかった費用は約3億2千万。
東宝はその後3千万円を追加出資し、計1億円を負担したので、不足分の2億2千万はにんじんくらぶが調達することになった。
この作品は、製作当初からスタジオが決まらず(通常は配給する東宝が面倒を見るものだが)、戦時中に爆撃機を組み立てていたという日産車体の工場跡を改修して使用するなど、前途多難なスタート。
加えて、撮影済みネガの現像処理失敗、俳優陣のスケジュールのバッテイング、小林監督の粘り、などで、撮影は遅れに遅れた。
1964年12月に完成。
そこそこヒットはしたものの、興行収入は国内外合わせて2億4千円万ほど。
契約によるにんじんくらぶの取り分は1500万にしかならなかった。
配給会社の東宝は、自らの出資分、興行費用(プリント代、宣伝費等)を配給収入からトップオフし、残りの収益(あるいは損失)を分配(分担)するので、ほぼ赤字になることはない。
リスクは制作会社が負うのである。
こうしてにんじんくらぶは膨大な借金を背負うこととなった。
筆者はリバイバル上映時に「怪談」を観た。
大画面に広がる、隅々まで映像化された幻想、怪異の世界に見入った。
日本映画としては稀有な大作だと思っている。
プロローグ
「怪談」の赤字によりにんじんくらぶは倒産(手形不渡りによる銀行取引停止)。
前後して、久我美子が別のプロダクションへ移り、有馬稲子はフリーとなった。
設立後ににんじんくらぶに加わっていた俳優のうち、渡辺美佐子、三田佳子、小林千登勢らが新会社・にんじんプロダクションに移った。
にんじんくらぶの功績は、その後の俳優グループの発足につながっている。
まどかグループ(佐野修二、佐多啓二)、三文クラブ(三国廉太郎、小林桂樹)などが相次いで発足した。
にんじんくらぶの参加メンバーも増えていった。
これらの動きは、映画産業の衰退とも相成って、非人道的な6社協定の事実上の撤廃へとつながる。
本書は、映画製作者の回想録としては、えてして美化されがちな経歴を赤裸々に吐露し、映画製作の実際と芸能界の不条理をぶちまけており、記録としても貴重なものだ。
内容が若槻社長の身の回りの出来事と、金策面や芸能界のドロドロに偏りすぎているとはいえ。
この後の岩槻繁は、「我が闘争」(1968年 中村登監督)、「愛の亡霊」(1978年 大島渚監督)などの制作にかかわっていることがわかっている。
それ以上のことは検索しても出てこず、生きているのかどうかも確かめようがない。
若槻のウイキペデイアはない。