DVD名画劇場 女優NO.4 イングリッド・バーグマン

評伝「イングリッド・バーグマン時の過ゆくまま」

全米映画協会が1999年に選定したアメリカ映画俳優ベストの女優部門で4位だったのがイングリット・バーグマン。

彼女の評伝がブックオフに200円で売っていたので、買って積んでおいた。
この度バーグマン作品をDVDで見るにあたり、積んであった評伝を紐解き、DVDで見た4作品の関連部分を拾い読みしてみた。
印象深いエピソードが山積みの評伝だったので、それらをピックアップして作品評を進めてみたい。

バーグマンは、1980年に自伝「マイストーリー」を発表していたが、当然ながら本人が望まない部分には触れていない。
1986年に発表された評伝「イングリッド・バーグマン時の過ぎゆくまま」では、自伝、資料、関係者へのインタビューなどにより、本人が触れたくなかった部分も含めた客観的なバーグマン像の創出に成功しているとのこと。

バーグマンは1915年スエーデンのストックホルム生まれ。
幼い時から演ずるのが好きで、女優を目指しスエーデン王立演劇学校へ入学。
その後、国内で演劇、映画に出演した。
この間結婚して娘を授かっている。

スエーデン生まれで王立演劇学校を出、国内で映画出演というとグレタ・ガルボと同じ経歴になる。
また、渡米前に演劇、映画で活躍し、また結婚して一女を授かっているとなるとドイツ出身のマレーネ・デートリッヒと同じ経歴となる。
欧州出身のこの2大先輩女優と、バーグマンとの共通点はこう見ると多い。

バーグマンは渡米前に11本の映画に出演していた。

評伝に目を通しつつバーグマンの作品を見るとわかってくることがある。

バーグマンの作品を見るということはすなわち、バーグマン本人の得難い個性を感じることであり、渡米後に最も世話にもなり、確執もあったハリウッドプロデユーサー、デビッド・O・セルズニックについて認識を深めることである、と気づかされる。

当然ながら、夫ペッターをはじめ、作品ごとの監督、共演者とバーグマンのただならぬ関係性にも思うところ大、とならざるを得ない。

デビッド・O・セルズニック

ハリウッドで30年代から40年代にかけて、「風と共に去りぬ」をはじめとする数々の名作を手掛けたプロデューサーのセルズニック。

キエフ出身のユダヤ人で宝石商だった父がユニバーサル映画に出入りし、その実権を握るまでになったことから映画とともに育つ。

ワーナー兄弟、ウイリアム・フォックス、アドルフ・ズーカー、サミュエル・ゴールドウイン、ルイス・B・メイヤーらいわゆるハリウッド第一世代の〈タイクーン〉らの後を継ぐ第二世代のホープとして、アービング・サルバーグ、ダリル・F・ザナックとともに〈奇蹟の若者たち〉と呼ばれた。

青年時代のセルズニック

セルズニックは映画を金儲けの手段としてのみ考える人間を軽蔑したが、同時に商売でもあることを否定し去るものを認めなかったという。

「銀行マンでは映画は作れない。ショーマン独特の勘とドラマツルギーに精通していなければならない。さらに激しく飛び交う言葉と音とを見事に統一する能力を要求される。」
これは密造酒で財を成し、投資目的で短期間ハリウッドにかかわり、去ったジョセフ・ケネデイ(ケネデイ大統領の実父)が映画プロデユーサーについて述べた言葉である。

セルズニックは(サルバーグ、ザナックも)ケネデイが看破した映画製作の要諦の表と裏を、身近に経験して育ち、長じて理解し実行する能力を持った、良くも悪くも数少ない人間のうちの一人であり、ザナックを除き長くない人生をハリウッドを舞台に突っ走しっていった。

MGM入社後頭角を現したセルズニックは、タイクーン ルイス・B・メイヤーの娘と結婚。
トップと衝突しメジャースタジオを転々とした後独立した。

ヴィビアン・リーをイギリスから、ジョーン・フォンテイーンをマイナープロからスカウトしてきた、芸能プロ社長でもあるセルズニックは、スエーデンからバーグマンをスカウトし、7年契約を結んだ。

セルズニックは自らのプロデユース作品「別離」でバーグマンをハリウッドデビューさせ、その後は彼女を高額な金額で貸し出しもした。
バーグマンがスターになり、セルズニックは長期契約を望んだがバーグマンは最後まで了解しなかった。

(余談)
ミドルネームにアルファベットを入れるのは、ルイス・B・メイヤーが始めたもののようだが、本人たちがもったいぶっているだけで特に意味はないようだ。

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人、エリッヒ・フォン・シュトロハイムが貴族でもないのにフォンを名乗ったようなものであり、よく言って芸名、悪く言ってギミックであろう。
また、ユダヤ系の俳優がアングロサクソン風の芸名を名乗るのも同じと考える。

ちなみにギミックがその業界で必要不可欠なのがプロレス業界で、ユダヤ人のジャック・アドキッセンがフリッツ。フォン・エリックを名乗りナチギミックでブレークするなどぶっ飛んだ例が多い。

またその当時、アメリカの日系レスラーは悪役でしかありえず、東郷、東条などを名乗り日本軍人ギミックを行うか、あるいは田吾作スタイルで下駄をはき、ゴング前に背を向けたベビーフェイス役に塩を撒くスニークアタックで真珠湾のだまし討ギミックを行うことが多かった。
ジャイアント馬場もアントニオ猪木も坂口征二も修業時代のアメリカでは田吾作スタイルでファイトしている。

「別離」 1939年 グレゴリー・ラトフ監督 ユナイト

バーグマンがスエーデン時代に「間奏曲」として主演した題材の再映画化。
バーグマンのハリウッド第一作。

「風と共に去りぬ」を製作中のセルズニックが多忙にもかかわらず頻繁にセットに顔を出したという。

レスリー・ハワードと

バーグマンの雇い主のセルズニックは、自然に見せる以外のメークアップと、英語でのインタビューを禁止してデヴューさせた。

監督はウイリアム・ワイラーでスタートし、グレゴリー・ラトフに交代。
ラッシュを見て撮影のハリー・ストランドリンクをグレッグ・トーランド(「市民ケーン」ほか)にセルズニックが交代させた。

移動ショットが多いカメラワークはトーランドの手腕だったのかもしれない。

バーグマンは単身渡米、朝9時から18時までセットに入り、夜は時に21時までピアノ練習を行った(役柄がピアノ奏者のため)。

自ら製作のセルズニックは、「非の打ちどころがないほど。一番良心的な女優」とバーグマンをたたえた。

ピアノ奏者(バーグマン)が、既婚のバイオリン奏者(レスリー・ハワード)と恋に落ちるが、現実に目覚めて恋人のもとを発つというストーリー。
生々しい不倫の物語ではなく、初々しい若い女性の偽らざる恋と別れの物語となった作品。

当時24歳のバーグマンの若々しさ、無理のない笑顔がハリウッドのスクリーンに登場。
ドレスから除く逞しい肩幅はスエーデン女性らしいが、逞しさより人間的魅力として映るのがスターたるバーグマンが持って生まれたもの。

「風と共に去りぬ」との掛け持ちで、大酒とハルシオンの常用で映画製作に臨んでいるセルズニックが、さらに命を削ってバーグマンを売り出しにかかった作品。

バーグマンの演技上の基本路線である、初々しい笑顔と健康的な体躯、無邪気な性質が、早くも存分に発揮されている。

「誰がために鐘は鳴る」 1943年 サム・ウッド監督 パラマウント

前作の「カサブランカ」の撮影を終えたバーグマンは、宣材の撮影を夫役のポール・ヘンリードと行っていた。
そこへセルズニックから、「誰がために鐘は鳴る」のマリア役がバーグマンに決まったとの電話がかかってきた。
喜びの金切り声を上げるバーグマンは、ヘンリードには「獲物をしとめた雌虎、大変な歓喜と勝利の叫び声」のように聞こえた、と評伝にはある。

原作者のヘミングウエイもマリア役はバーグマンしかいないと公言。
有名人にも味方が多いのもバーグマン個人の魅力のなせる業。

雇い主のセルズニックは、バーグマンを約12万ドルでパラマウントに貸し出し、バーグマンには約3万ドルを支払った。

クーパーとともに

映画はシエラネバタ山脈へ10週間のロケを敢行。
野外撮影は、自然児バーグマンにとって、爆発しそうなほどの幸せだった。

ロケの最中には共演のゲーリー・クーパーと空き時間ほとんどを一緒にいるほどの仲になり、ラッシュを見たパラマウントの幹部は両者のロマンスを確信した。
スタッフはバーグマンに対し、クーパーと一緒のシーンではあまりうれしそうな表情をしないようにとアドバイスしたという。

二人の仲は次の「サラトガ本線」の間は続いたが、そのうちクーパーからの連絡もつかなくなって終了した。
クーパーはのちに「あれほど自分を愛してくれた女性はいなかった」と述懐したという。(ということはのちのパトリシア・ニールとの浮気というか同棲はそうでもなかったということなのか?)

マリア役を演じた

この期間中も、セルズニックはバーグマンとの長期契約を画策したが果たせなかった。

作品は、短髪で素顔が太陽に光り輝く乙女役のバーグマンがむしろ脇に回り、ピレネー山脈中の人民軍(政府軍側に言わせると山賊一味)の堕落したリーダーとその情婦を中心にした組織論であり、絶望の中に活路を見出さんとするパルチザンの物語。
そこにアメリカ人義勇兵のクーパーの橋爆破の任務と、政府軍に両親を殺された娘マリアが絡むもの。

ハリウッド美男美女からは程遠いがリアルなリーダー役(エイキム・タミロフ)と情婦役(ギリシャ人女優:カテイーナ・パクシヌー)の熱演も、クーパーが出てくると定番の西部劇か何かに見えかねない難点はあるものの、ロケ撮影でドラマをまとめ上げたスタッフの意欲は買いたい。
バーグマンはなるほど楽しそうに生き生きと演技していた。

夫のペッター、娘のピアは、このころではすでにアメリカで暮らしている。

「ガス燈」 1944年 ジョージ・キューカー監督 MGM

評伝にこの作品のことはほとんど出てこない。
評伝に記載するほどのロマンスもゴシップもなかったのかもしれない。

製作はアーサー・ホーンブロウ・ジュニアで配給はMGM。
セルズニックは製作にタッチしていない。

「ガス燈」シャルル・ボワイエと

バーグマンは訳ありの夫から精神的に追い詰められる新妻役。
タネは終盤まで明かされず、観客もバーグマンと一緒に不安な気持ちにさせられる。

演出はジョージ・キューカー。
MGMで、ガルボやキャサリン・ヘプバーンの信頼を得た監督であり、本作も遺漏なく丁寧な造り。
だが、サスペンスというより、夫(シャルル・ボワイエ)のモラハラ成分が強く出てしまい、純粋サスペンスのヒッチコック作品とは若干の手腕が違う印象。

バーグマンはもう一つの定番演技である、追いつめられる罪なき若妻、のキャラを申し分なく演じる。
がそれ以上どう?といわれても困る作品。

「ジャンヌ・ダーク」 1948年 ヴィクター・フレミング監督 RKO

イギリスに侵略され国土が分割した15世紀のフランス。
優柔不断な皇太子シャルルは、オルレアンの乙女・ジャンヌのおかげで劣勢のフランス王に即位できたにもかかわらず、パリ奪還をせず、あまつさえ救国の乙女ジャンヌを占領軍イギリスに売り渡してしまう。

このシャルルを演じたのがホセ・ファーラー。
単なる卑劣漢ではなく、品位も保った貴族の、骨の髄からの堕落ぶりを演じて印象に残った。

ファーラーが評伝で言う。
「女優ならだれでもジャンヌをやりたがりますよ。俳優は気高い人物と自分を同一視して、心底からその役を自家薬籠中のものにしたいと思うんです。彼らの職業生活ときたら腐敗に満ちているのに、俳優というものは実際の業績以上に理想化されるんですよ。イングリッドは自分自身の神話を信じ始めたんだと思います。とにかく変わった女性でしたから。」

「ジャンヌ・ダーク」。宗教裁判の一場面

バーグマンはかねてからジャンヌの映画化を希望していた。
ブロードウエイの舞台でジャンヌを演じてもいた。
セルズニックでさえ1940年にはバーグマン主演でジャンヌを企画している。

「イングリッドがこの作品で描きたかったのは15世紀ヨーロッパの血にまみれた道徳的にあいまいな世界で生命を燃えつきさせた歴史上の人物ではなかった。イングリッドが演じたかったのは、神話的なジャンヌ、生徒向けの安価本に書かれているジャンヌだった」(評伝作者)。

さはさりながら、バーグマンはこの作品に、企画者、出資者、監督の愛人、脚本家のお気に入りとして参加した。
セルズニックとの契約は切れ、契約延長には応じていなかった。
監督の62歳、ヴィクター・フレミングはバーグマンなしでは生きていられないほどになり、これまでの数々の監督、共演者らと妻バーグマンとの情事に疲れた夫ペッターとの結婚生活は(実質的にはとっくに)破綻にむかっていた。

バーグマンの家族。夫と娘

作品は要領よくストーリーを追っており、人海戦術によるオルレアンでの城壁攻略場面の迫力もあり、シャルル皇太子の戴冠式のセット等も見ごたえがあった。(DVDは114分だったが、オリジナルは140分とのこと)。

バーグマンが家族を捨てハリウッドを捨てて、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督のもとに走るのは、次回作「山羊座のもとで」(1949年 アルフレッド・ヒッチコック監督)を撮り終えたのちのことだった。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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