丸根賛太郎という映画監督がいた。
1914年生まれ、旧制富山高校時代に映画研究会で活躍、京都大学入学後から日活京都撮影所に出入りし、そのまま助監督に。
自作のシナリオが片岡千恵蔵御大に気に入られ、1939年25歳で監督昇進。
以来、大映、東映と渡り歩き46本ほどを演出した。
丸根賛太郎は、マレーネ・デートリッヒからとった監督名とのこと。
丸根監督の「狐の呉れた赤ん坊」という1945年の作品が、ワイズ出版の「日本カルト映画全集」の9巻目として取り上げられている。
内容は、本作のシナリオ採録をメインに、丸根の奥さん(元大映女優)などへのインタビュー、丸根監督が生前に雑誌などに書いたエッセイの採録など。
丸根監督のエッセイはウイットに富みかつ読みやすい。
文面からは、本人のプロレタリアートとしての信条、ルネ・クレールなど戦前のフランス映画への造詣がうかがえる。
当方、このムックを入手していたところ、中古DVDで本作が出ていたので合わせて入手。
同じく丸根監督の「天狗飛脚」(1949年)と併せてみるチャンスを得た。
「狐の呉れた赤ん坊」 1945年 丸根賛太郎監督 大映
カルト映画なのかどうかはわからなかったが、坂東妻三郎の魅力と人情味があふれる作品で、丸根監督の信条でもあるプロレタリア性も随所に見られた。
むかしむかし、東海道大井川の渡し場に人足の寅八(坂妻)がいた。
酒とばくちと喧嘩が飯より好きな暴れ者。
人足仲間には兄貴と呼ばれ、飯屋の看板娘(橘公子)には慕われてもいる。
この寅八がひょんなことから赤ん坊を拾う。
寅八は酒もばくちも喧嘩も断って、父親になったつもりで赤ん坊を育てるが、赤ん坊は去る殿様の落し胤ということがわかり、涙の分かれを迎える。
丸根監督が企画からタッチし、脚色している。
何といっても阪妻。
この人が出ているだけで映画全体が阪妻調に染め上げられる。
この人のチャンバラは素晴らしく、「血煙高田馬場」(1937年 マキノ雅弘監督)では度肝を抜かれ見ほれたものだ。
今回はコミカルな演技。
貧乏人で暴れん坊だが、1本筋が通っており周りには好かれるというキャラはお約束。
作品中、大事に育てた赤ん坊を取り戻しに来た家老一行に対し、庶民の人情を訴え、啖呵を切る場面が2,3あり、プロレタリアート・丸根の主張がうかがえる。
細かなところでは、渡し場のご意見番として、寅八らが何かと頼る質屋の屋号が「質々始終苦」だったり、サイレントの字幕をうまく使ったり、丸根監督の遊びこころが見られる。
赤ん坊の病気に、寅八が宿場を疾走して医者を抱えてくる場面のスピード感もいい。
阪妻の演技と、人情噺を骨格としながらも、全体を貫くコミカルで明るい調子、またきちんと整理された、わかりやすくテンポの良い演出は丸根監督の持ち味であり、実力だと感じられた。
「天狗飛脚」 1949年 丸根賛太郎監督 大映
市川右太衛門が飛脚に扮し東海道を駆け抜ける。
右太衛門は片岡千恵蔵とともに、戦後の東映時代劇を支え、御大と呼ばれたスター。
この作品では、粗末な格好でとにかく動き、走り回る。
この作品の右太衛門は画面とストーリーに溶け込み、コミカルでスピーデイーな展開の邪魔をしない。
この点はどんな映画に出ても画面を阪妻色に染め上げる板東妻三郎とは異なり、好印象だ。
右太衛門が飛脚屋の仲間(加東大介ら)に兄貴と慕われ、飛脚屋の娘(相馬千恵子)に好ましからず思われながら、子供たちのためにオランダ製の解熱剤を求めて大阪まで走り、江戸の町を荒らす怪盗からの冤罪を晴らすために駆け回わる。
なんと大阪まで東海道を3日で走り抜ける。
怪盗の正体の下手人を捕らえ、解熱剤を適正価格で入手し、家業のためにいやいや大阪に嫁ぐ途中のヒロインを救って大団円を迎えるまで、スピーデイーでテンポよく映画は進む。
昼行燈ぽいが正義感が強い役人に志村喬。
後味がよくすっきりすること請け合いの作品。
スターを使いこなし、会社が求める商業映画としての枠は超えず、わかりやすい作品に仕上げ、自分のカラーや主張も盛り込む。
職人監督としての模範のような2作品だった。