上田トラゥム・ライゼでゴダール追悼

上田にあるミニシアターで、2022年に亡くなったゴダール追悼特集が上映された。
会場は上田映劇と同じNPOが運営している映画館トラゥム・ライゼ。

上田映劇、トラゥム・ライゼともに、ワンスクリーンでフィルム上映も可能な昔ながらの映画館。
上映作品はいわゆるミニシアター向けの作品が多い。

近年全国上映されたパゾリーニ(「テオレマ」「王女メデイア」)やブレッソン(「たぶん悪魔が」「湖のランスロ」)、ミムジー・ファーマー(「モア」「渚の果てにこの愛を」)などの旧名作の再輸入プログラムもカバーしているのがうれしい。

ゴダール追悼上映の全国プログラムもカバーされ、そのうちの2作品に駆け付けた。

「小さな兵隊」 1960年  ジャン=リュック・ゴダール監督  フランス

ゴダールの長編第二作であり、のちにゴダールの妻、アンナ・カリーナの長編デビュー作。
撮影は「勝手にしやがれ」と同じくアンリ・ドカエ。

フランスからの独立戦争であるアルジェリア戦争。
アルジェリアの独立派と保守派の、フランス国内における抗争を背景に、保守派の鉄砲玉として独立派の幹部を暗殺する主人公と、独立派の女性(アンナ・カリーナ)の出会いと別れを描く。

ハリウッド映画であれば、派手なアクションと男女間の立場を超えたロマンス、体制派の価値観に沿った結末とセンチメンタルな男女の分かれ(独立派の女性が、保守派の男の手の中で死亡)で終わるのがパターンだが、ゴダールの手法は全く異なる。

処女作「勝手にしやがれ」はハリウッドのB級ギャング映画に仮託していたその作風が、「小さな兵隊」では、一見スパイ映画に仮託した風ではあるが、ゴダール自身の特性を濃厚に漂わせる、重たく、暗い政治的作品となっている。

追悼上映パンフレットより

保守派の義勇兵を脱走しジュネーブの街を漂う主人公は、ゴダール映画の主人公らしく、とにかくしゃべりまくり、動き回る。
追跡する保守派の幹部から、脱走を免責する代わりに独立派の幹部の暗殺を命じられるが、優柔不断に避け続けたり、暗殺に失敗したりする。
独立派につかまり、証拠が残らないような拷問を延々とされる。
独立派の女性は拷問の末殺されたことをにおわす。

主人公の前に現れる独立派の女を、初々しいアンナ・カリーナが演じるが、作中臆面もなくカリーナにそそがれるゴダールの視線は、映画監督でなかったら最も女性にもてない(理解されない)であろうゴダールのオタクっぽい暗さに満ち満ちている。

なんて的を得たタイトルなんだ!

全編オールロケ、対話する人物の間を往復する手持ちカメラ、一つの芝居の間に関係のないカット(演技の後のオフショットだったり)が挟まる手法、はゴダール映画ならでは。

ヌーベルバーグの作家たちも、予算があれば豪華セットでクレーン撮影によるワンショットワンシークエンスの演出をしたかったと思う。
が予算がなく、何よりそこまでの経験、力量(演出力と俳優の演技力も)がない若手監督にとって、撮影セオリーをあえて無視したカメラはやむを得ないもの。
また、わざとらしいドラマチックさを排除する編集手法もゴダールならでは。

アルジェリア戦争という政治的なテーマは、例えば大島渚がどうしても「日本の夜と霧」を作らなければ前に進めなかったように、ゴダールにとっては必然のテーマだったのだろう。

そのためか、「勝手にしやがれ」「女は女である」「男性女性」といった、B級ギャングやミュージカル、ポップミュージックに仮託したときの軽やかさ、明るさがない作品となった。
作品に漂うのは重さと暗さ。
それこそがゴダールの本質なのだが。

一方でアンナ・カリーナを撮るときの、学生映画の作り手の主演女優に対するようなまなざしは、ほほえましいというかなんというか。
ゴダールのアンナに関する憧れは、次作「女は女である」でついに炸裂。
「小さな兵隊」ではぎこちなかったアンナの演技も満開となるのだった。

「カラビニエ」 1963年  ジャン=リュック・ゴダール監督  フランス

今回の追悼特集には「はなればなれに」がラインアップされていた。
残案ながら見逃がしたが、アンナ・カリーナ主演で、ギャング映画に仮託したミュージカルの色付けがある作品とのことだった。

「カラビニエ」はゴダールの一方のカラーである、暗い政治的メッセージに彩られた作品。

出演は、素人だったり無名の俳優だったりするが、主人公の家族役の2人の女優などは、アンナ・カリーナやのちのアンヌ・ヴィアゼムスキーに似ており、色気もある魅力的な女優で、ゴダールの女性の好みが見事に反映されている。

また、予算のなさはいつものことながら、トラクターにベニヤを被せたような戦車を1台と、戦闘シーンでは複数の爆薬を設置するなどの大盤振る舞いを見せている。
大掛かりな戦闘シーンは第二次大戦時のニューズリールで代用しているが。

トラゥムライゼ入り口
劇場の掲示板

王様の命令で戦争に行く主人公たち。
戦地では美女を思いのままにでき、財宝をわがものにできると信じた無知の主人公井たち。
戯画化され誇張され、また省略化された戦場場面を経て自宅に戻った二人が、家に待つ女性二人に持ち帰ったものは世界各地の絵葉書だった。
やがて王様はレジスタンスに追われ、主人公たちも王様側の兵隊に殺される。

ゴダール初期の作品で、寓話的内容ながら戦闘シーンなど、具体的な描写に心がけた作品となっている。
のちのゴダール作品の象徴性(「中国女」ではベトナム戦争の米軍爆撃機をプラモデルで表現)への移行以前の貴重な作品だった。

上映後の帰り道。上田の夜

DVD名画劇場 フランス映画黄金時代①  ルネ・クレールと巴里


エジソンがのぞき窓式の動画・キネトスコープを特許商品としたのは1894年のことでした。
スクリーンに上映するという現在の方式で映画を公開したのは、翌年の1895年フランスのシネマトグラフが最初です。

フランス映画の歴史はこの後、リュミエール兄弟とジョルジュ・メリエスという映画作家を生み、スタジオでトリック撮影するなど、シネマトグラフを発展させました。
第一次大戦による欧州の疲弊で、ハリウッドにその座を奪われるまで、世界最大の映画会社はパテとゴーモン。
フランスの映画会社でした。

1930年前後のトーキーの時代を迎えたころから1950年代まで、フランス映画界で活躍し今も映画史上にその名が残る映画作家が、ルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジュリアン・デュビビエ、マルセル・カルネ、ジャン・ルノワールです。

ルネ・クレール

今回はこの世代の代表格として名高いルネ・クレールの戦前の作品を4本見ました。

「巴里の屋根の下」 1930年 ルネ・クレール監督  フランス

クレールのトーキー第一作にしてフランス映画のトーキー第一作。
パリっ子クレール監督のパリを舞台にした作品で、クレールの代表作の1本としてだけではなく、のちの映画作品に作風、技法ともども多大な影響を与えている。

主題歌の「巴里の屋根の下」は今ではポピュラーなシャンソン。
街角の楽譜売りの主人公が作品中に何度も歌う。

「巴里の屋根の下」メインセット。右下に楽譜売りを取り囲む聴衆が見える

楽譜売り、そこに集う人、それを狙うスリ、町のやくざ者。
パリの市井の人々が集う街角。

下町の屋根が並び、煙突から煙が昇る。
屋根屋根を移動していったカメラが舗道に下りてゆく。
アパートの各階の人々の暮らしを写しながら。

クレールが奏でる巴里の物語の世界へと一瞬で引きずり込むカメラ。
家々はすべてセットに組まれたもの。
遠近法を取り入れ、遠景は実写も使っている野外セットだ。

スリに奪われた鏡をヒロインに返す主人公

堅気とやくざの境界線上のような楽譜売りで暮らしている主人公。
歌を歌っては1枚1フランで楽譜を売る。
これが今はやっている歌だよ、と。
盲目のアコーでイオン弾きが伴奏だ。

歌いながら聴衆に若い美人がいると目を付け、スリが仕事をするとそれにかこつけスリと友達になる。
自由にパリの街角で生きるパリジャンが主人公。
目を付けた美人のヒロインとの恋模様が始まる。

やくざの親分(左)もヒロインにご執心

泊まる場所がなくなったヒロインを部屋に泊めることになった主人公。
一晩の顛末は、ピューリタンの倫理に支配されたハリウッド映画(「或る夜の出来事」「ローマの休日」)のように高潔なものとはならずにフランス風の味付け。
主人公はヒロインをあきらめきれずに一晩中ドタバタするというねちっこさ、否、人間臭さ。

主人公の部屋で一晩過ごす。おとなしくは終わらない

監獄の塀の上を歩いて暮らしているような主人公が、冤罪で入獄した間にヒロインが親友とくっつく。
ハリウッド映画なら、ヒロインと親友が倫理的価値観に基づき処理されるケース。
クレールの味付けは、恋人に振られた主人公に身を引かせる、という大人で粋な巴里風の決着。

あるいは男同士の信義にも厚い主人公、親友との友情を重んじたから身を引いたのか。
一方で、開き直るでもなく堂々としている新しい恋人たち(親友とヒロイン)。
既婚者同士の不倫でもなし、人生こんなこともあるだろう、とでもいうようなフランス映画の世界。

町のやくざ者と主人公の果し合いのシーンでは、武器を持たぬ主人公にやくざ連中が自分のナイフを提示し、主人公がそれぞれにダメを出すというユーモラスな描写も。
助けに来た親友が拳銃をぶっぱなし、街灯に弾が当たってあたりが暗闇となり、パトカーのヘッドライトに我彼が浮かび上がるという、ギャング映画でよく見る場面が続く。

こういった場面処理って、ひょっとしたらクレールがその先駆け?
その後のギャング映画で何度も繰り返され、映画的記憶となっているのは、後進の映画監督たちがクレールの手法をまねしたから?

喧嘩のバックに汽笛が流れるなどのスマートな場面処理も見られ、1930年当時、クレールの才気が画面に渙発している。

セリフで説明しなくてもいい場面のサイレント映画風の処理。
よくできた映画主題歌とその効果的な使い方。

ヒロインを奪われた後、主人公がカフェで親友と話すシーンでは、肝心な会話はカフェの窓ガラス越しで聞こえない。
役者にすべてを語らせず、説明過多を避ける粋な手法。

パリジャンは、ルネ・クレールは、やぼったくない。
「巴里の屋根の下」はそういう作品だった。

「ル・ミリオン」 1931年 ルネ・クレール監督 フランス

今作の主人公は売れない画家。
肉屋、牛乳屋、大家に借金を重ねてている。
アパートの向いの部屋の若い女性(アナベラ)が婚約者だが、見てくれのいいほかの女性にも当然のように粉をかけては、アナベラに怒られており、パリジャンの面目躍如。

ヒロインを務めるアナベラ

1930年代のパリの下町。
若い画家の主人公と親友、婚約者、愛人。
主人公を追いかける借金取りはミュージカル風にコーラスしつつ、サイレント映画風に一列で主人公を追いかける。

そんな主人公がオランダの宝くじに大当たり。
ところが当選くじをポケットに入れた上着を盗まれ、その上着は泥棒市でオペラ歌手の舞台衣装になり。
借金取りが当選祝いの祝宴を主人公の自宅で準備するなか、上着を追いかける主人公たち。
上着の奪取後は祝宴の支払いが待っている!

自らもバレエダンサーとしてオペラに出演するアナベラ嬢は、主人公のために上衣を追って主役のおじさんに取り入ったり、また親友は主人公を裏切って上着を独占しようとしたりの展開。

主人公(左)とバレエスダンサータイルのアナベラ

家々の屋根のシーンから始まる巴里物語。
今回はアパート内部のセットが幾何学的で、思いきったデイフォルメ処理で目を引く。
追いかける警察の一団はコーラスを歌いながら登場し、これまたミュージカル風に一列で行動する。

役者を複数回起用しないというクレール作品では珍しく「巴里祭」と併せてクレール作品に登場しているアナベラ嬢。
若々しくも素人っぽいバレエダンサー姿で走り回る。

音楽とのコラボ。
サイレント映画的処理。
巴里が主人公。
男同士の友情(裏切りもあり)。
可憐な乙女と別な愛人。
機知にとんだユーモア。

いつものクレール節が炸裂している。

フランソワ・トリフォーは本作と「巴里の屋根の下」「巴里祭」をクレールの巴里三部作と評している。

「自由を我等に」 1931年 ルネ・クレール監督  フランス

今回は、パリ市内にある刑務所からの話。

刑務所内の親友(クレール作品にお馴染みの親友同士)が脱獄する。
一人が脱獄に成功し、一人は残る。
脱獄した一人が、蓄音機の工場を経営し、やがて財閥となる。
出獄したもう一人がひょんなことから蓄音機工場に雇われて二人は再会する。

満期出獄した方の一人は金や名誉にまるで関心がなく、工場の管理事務所の若い娘にのみ淡い恋ごころを抱く。
財閥になった方は、再会した親友に対し、金の無心だけを心配する。
が実は、財閥になった方も、毎日のパーテイと浮気性の妻にはうんざりしており、妻が情人と出て行って喜んだりする。

主人公二人組(右が財閥役)

刑務所内での作業風景と蓄音機工場での流れ作業の描写を似せて描くクレール。
むしろ刑務所での牧歌的な作業をより非人間的にしたのが工場での流れ作業だ、という描写。
「モダンタイムス」やジャック・タチの近代工業批判のタッチとこの作品のそれは同じだ。

工場経営者による「働くことにより自由が得られる」というセリフは、アウシュビッツ収容所の入り口ゲートにかかる標語と同じ。
資本家による洗脳の標語をこの作品はナチスより先取りしていた!

随所に溢れるウイットとユーモア。
テンポの良い描写。
セリフで過度に説明せずにパントマイム的な動き。
ヒロインの可憐さ。
は他のクレール作品と同様。

過去がばれそうになって工場を手放し、もう一人は憧れの乙女との結婚をあきらめ、再びコンビに戻って放浪の旅に出る二人。
放浪者チャップリンはヒロインとカップリングする結末を描いたが、まったくの一文無し、女なし、という自由をたたえるクレールの潔さよ!

「最後の億万長者」 1934年  ルネ・クレール監督  フランス

フランスとパリという題材を離れたクレールが作った風刺作。

カジナリオという架空の国。
首都がイコール国土という狭い国で、産業は外人観光客によるカジノ。
国民は全員役人で乞食が一人いるだけ。

財政ピンチになり、国外に住む富豪に公債3億フランの引き受けを要請する。
富豪は20歳の王女との結婚を条件に出資を引き受ける。

カジナリオ国王宮

カジナリオの王室のこっけいさをたっぷり描いたのち、富豪が国へやってくる。
国民は給料が出ておらず、電話交換手は通話の途中で勝手に切ったりして、話が通じない。

既に宮中楽隊のコンダクターの愛人がいる王女は結婚から逃げ回る。
王女は愛人と駆け落ちしようとするが、財政難で車のガソリンを買えず失敗したりする。

「ビジネスマン」の富豪は、国の権力を奪取しようと、行政長官の座に就くが、大臣らは反発し暗殺未遂。
頭を強打した富豪はパツパラパーになり、おかしな法令を連発する。

時間が経過。
今度は王室から狙われた富豪が一発食らって今度は正気に戻り。
しかし社長不在の本業が株価暴落で破産となり、約束の3億フランは、ない袖は振れず。

富豪は母国にとどまらざるを得なくなり。
王室は当てが外れて右往左往。
王女は念願かなって愛人と島へ脱出。
という結末。

クレールの批判精神が炸裂した作品。
巴里を離れ、フランス人の人情の世界を離れた作品だからだろうか、ヒットはしなかったようだ。

「自由を我等に」のように、あくまでパリとフランスを舞台にして、批判精神を加味していればよかったのかも。

風刺だ、批判精神だといっても例えばマルクス兄弟のように周りの役者を落とし込むような、我だけ良しの毒はないのがクレール流で、その洗練と鷹揚さがうかがわれる。

また、フランスの喜劇には、ルイ・ド・フユネスやクレイジーボーイもののように、とことんくだらなく、だらけた喜劇の伝統があるのだとしたら、テンポがよくスマートで才気が感じられるのがクレール流。
フランスが誇る一流の映画監督である。

DVD名画劇場 オードリー・ヘプバーン ハリウッドに降臨!

アメリカ映画協会が1999年に、映画スターベスト100を選定。
女優部門で歴代第3位に選出されたのがオードリー・ヘプバーンだった。

初期のオードリーといえばこの作品。「ローマの休日」の一場面

「妖精」と呼ばれ、日本では現在でも特別な人気を誇るオードリーは、映画の本場アメリカでも評価が高いことがわかる。
今回はオードリーの出演作から、イギリス時代の1本、ハリウッドデビュー第1作と第2作を見ました。

「若妻物語」 1951年 ヘンリー・カス監督  イギリス

若き日のオードリーはバレエを習い、舞台に立つなど、のちのスター女優への経歴を歩んでいた。
イギリス時代には映画に数本出ている。

「若妻物語」はその中の1本で、オードリーはわき役のエキセントリックな娘を演じている。
170センチの背丈と、スマートというよりやせぎすの体躯と、オーバーアクションともいえる表情、演技が印象的な21歳のオードリーが見られる。

1950年代は、イギリス、フランス、イタリア、そして日本などでも映画製作が盛んだった。
イギリスではアレクサンダー・コルダなど有名制作者や、怪奇映画のハマープロなどが海外にも通用するメジャー作品を製作。
また、ブリテイッシュ・ノワールなどと後で呼ばれる、犯罪映画の作品群も作られていた。

「若妻物語」を見ると、当時イギリスでは、コメデイ風のホームドラマも作られていたことがわかる。
また、この作品でのユーモアのセンスもハリウッド映画のそれとよく似ており、俳優が大人びて地味な点、ギャグが常識的な点をのぞけば、アメリカ製のテレビドラマといわれてもわからないくらいの類似性を感じる。
英語圏の白人の文化の共通性なのだろうか。

この作品の舞台はロンドンの住宅地。
戦後数年は経過しているが庶民の生活は苦しい。
子供が生まれたばかりの主人公夫婦は知人の家に間借りしている。

間借りといっても当時の日本とは違い、腐っても大英帝国。
広い部屋が数間あり、互いのプライバシーは厳に守られている。
さらに大家はベビーシッターを雇っている。
イギリスのベビーシッターは料理、洗濯もするようで、夫人たちは家事、育児のアウトソーシングは当然だと思っている。

間借りしている若夫婦と、大家の友人夫婦、それにベビーシッターの老婦人らを交えた家庭の事情、まだ若い男女のこころとからだの問題、をコメディータッチで描いており、テンポもよくまた出演者も達者である。

オードリーは、戦争のどさくさで家と家族をなくしたのかどうか、若夫婦と一緒に居候している娘という役回り。
時々現れては周りをかき回す。
重要な役ではないものの、男嫌いでエキセントリックな若い娘像を精一杯演じるその姿に、女優への意欲を感じさせる。

「ローマの休日」 1953年  ウイリアム・ワイラー監督 パラマウント

製作兼監督のワイラーの強い意向により長期イタリアロケを敢行。
パラマウントとしてもイタリアで稼いだ映画収益を当時はドルとして還元できない事情から、現地での製作費に使うことは渡りに船だった。
ワイラーは、カラーで撮りたかったようだが、フィルムの輸送問題から断念したという。

主演の王女役に無名のオードリーを抜擢。
テストフィルムでの演技外の自然な笑顔が決め手となったという。

イタリアロケとオードリーの抜擢がこの作品を映画史上永遠のアイコンとした。

イタリアロケでの一場面。グレゴリー・ペックと

現実離れした逆シンデレラストーリーの原案はダルトン・トランボ。
赤狩りでハリウッドを追われた一人が作った夢の様な物語。

イタリアロケの空気感、新人オードリーの素を生かしたのは、監督ワイラーの功績。
名匠ながらも己のカラーに固執せず、万人向けの作品に仕上げたのは、ワイラーの性格の良さがなせる業か。

日本公開時のポスター

王女のふるまい、英語の発音ではロイヤルな演技をするオードリーだが、グレゴリー・ペックらとローマの街をデートするときの彼女は、素の若い女性。
表情豊かでうれしそうで、元気いっぱい。

王女らしさに拘る演出ならばカットされたであろう演技も敢えて通し、オードリーの初々しい魅力追及を主眼としたワイラーの慧眼。

名跡「真実の口」の場面では、手首がなくなったとだますペックに驚くオードリーの自然なリアクションが見られる。
このシーン、監督とペックが示し合わせてオードリーをだまして撮った一発OKのカットとのこと。
オードリーの大騒ぎして相手の胸を叩くリアクションは、王女のそれではなくて彼女の素である。

オードリーのハリウッド版シンデレラストーリーとして割り切った作品なので、怠けものの特派員(ペック)をいじめる編集長にも毒がなく、周りの登場人物は「すべて善意の人々」といった趣である。
それでいい。

初々しく、見ているこちらもうれしくなるようなオードリーの幸福期の作品。
初々しくも、今はやりの言葉で言えば「あざと可愛い」のだが、それでいい。

イギリス時代の映画を見ればわかるようにオードリーはすでに演技派である。
ハリウッド映画に出られてうれしいのは本心としても、逆シンデレラの王女役を張り切って演じるのは女優としての魂である。
女優という業の深い運命に選ばれ、そのために努力を惜しまず、また野心に溢れた若い外国人女性である。
まったくの素人ならばその後のハリウッドでの活躍もなかった。

監督ウイリアム・ワイラーの演出を受けるオードリー

制作者、監督のワイラー、相手役のペックともども「悪意」なくイギリスの新人女優を迎い入れており、まさに奇蹟的なオードリーのハリウッド第一作であった。

「麗しのサブリナ」 1954年  ビリー・ワイルダー監督  パラマウント

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人で、戦前のベルリンでダンサー兼ジゴロだったビリー・ワイルダーは、初期にコンビを組んでいた脚本家のチャールズ・ブランケットからこう評されていた。
『人間嫌い、死を連想させる不気味な感覚、冷酷さ、根っからの粗暴さ。』(オットー・フレードリック著、文芸春秋社刊「ハリウッド帝国の興亡」P567より)。

「深夜の告白」ではパラマウントの看板女優(バーバラ・スタヌイック)に金髪のカツラを被せ、バスタオル1枚で埃臭い屋敷に登場させ、「サンセット大通り」では往年の大女優グロリア・スワンソンを妄執の老女優とし、零落したバスター・キートンなどを実名で使い倒したワイルダーが、果たして「ローマの休日」でデビューした非アメリカ人のオードリーをどう扱うのか?

ワイルダーには「異国の出来事」で30年代のアメリカ映画の女神たるジーン・アーサーをベルリンの廃墟の中のバーで天井からぶら下げた前科もある。

運転手の娘サブリナ

「ローマの休日」に引き続きモノクロ作品。
ハンフリー・ボガートにウイリアム・ホールデンまで出ているこの作品がモノクロ。
何を企んでいる?ワイルダー。

財閥のお屋敷のお抱え運転手の娘が、財閥の御曹司である屋敷の息子と結ばれるというシンデレラストーリー。
ただし、ワイラーの「ローマの休日」と違って、シンデレラストーリーにも、新人女優の売り出しにも関心がないのがワイルダーの本音。
ワイルダーの「悪意」がいつ発揮されるのか?と、ヒヤヒヤしながら見ざるを得ない、オードリーのハリウッド第二作。

お屋敷には二人の御曹司がおり、運転手の娘のサブリナ(オードリー)は弟の方(ホールデン)に惹かれている。
三回離婚したチャラチャラした遊び人を演じるホールデンは「サンセット大通り」「第十七捕虜収容所」に次いでのワイルダー作品。
アメリカ財閥の御曹司のカリカチュアを楽しそうに演じている。

一方、兄は独身で財閥のCEOである真面目一方のビジネスマン。
演じるのはボギー。
真面目一方ながら、どこかズレたワイルダー流解釈によるアメリカのビジネスマンを演じる。

ボギーは、開発したプラスチック製のテーブルに乗っかってユラユラしたりもする。
ワイルダーとしてはズレたビジネスマンを演じさせたかったのだろうが、撮影中ボギーとの仲は悪く、それはボギーの死の間際まで続いたという。
ワイルダー流演出はどの俳優にも通じたわけではなかったようだ。

想像するにヒリヒリとした、悪い意味での緊張感に満ちたこの作品の撮影現場で、我らがオードリーの心境たるやいかばかりだったか。

不器用なボギーの愛を受け入れるサブリナ

運転手の娘として木陰からお屋敷のダンスパーテイをのぞいた娘時代。
パリの料理学校から帰って見違えるファッションに身を包み財閥の弟の車をUターンさせたドレススタイル。
、ダンスに誘われた時のドレススタイル。
実直な兄に心惹かれ、兄の会社で料理を作ろうとするときのパンツスタイル。
のちにサブリナファッションと呼ばれるオードリーのファッションが見られる。

ハリウッド流メイクによっても個性の消しようがないオードリーのオードリーらしさは、ワイルダーの毒によっても消されることなく、むしろその毒に拮抗して見せた。

エデイット・ピアフの「バラ色の人生」を原語で口ずさむオードリー。
そこにはハリウッドデビューしたばかりの初々しさを卒業し、次の段階へ挑むオードリーの意欲と逞しさがある。
ヒリヒリと悪い意味での緊張感に満ちた?撮影現場も案外オードリーには響かず、むしろ女優としての野心がすべてに勝っていたのかもしれない。

撮影期間中、ウイリアム・ホールデンとのロマンスのうわさもあったオードリー。
ハリウッドの女優として、なんと逞しいことか。

サブリナパンツに身を包んだオードリー

ワイルダー流のギャグは随所に見られ、「カサブランカ」のセリフをおちょくったり。
ただしもう一つボギーがノッていないのがこの映画の玉に瑕。

それにしても、ワイルダーのモノクロ作品は設定がコメデイだろうがロマンスだろうが、禍々しいスリラーの雰囲気を漂わせているのはどうしてなのだろう?

封切り当時の劇場プログラム表紙

DVD名画劇場 モダン!山中貞雄

山中貞雄という映画監督が戦前にいました。
脚本家を経て監督となり、20代のうちに26本の時代劇を監督。
28歳で出征先の中国で戦病死しました。

山中監督の作品2本を見る機会がありました。

「丹下左膳餘話 百萬両の壺」 1935年  山中貞雄監督  日活

片目片腕のニヒルな剣客・丹下左膳が用心棒兼ヒモとして、寄宿している射的屋の女将とともに、貰い子を巡って右往左往する作品。
もともとは異形の怪人として、数々の作品にフィーチャーされてきた丹下左膳に思いきった解釈を加えた山中監督の快作。

屈折した性格で、剣を抜けば神がかり、の怪奇派である左膳が、女将の尻に敷かれ、射的屋の座敷に寝そべっている。
女将(有名な芸者の新橋喜代三が演じて存在感十分)が得意の三味線で歌いだすとそそくさと逃げ出すといダメ亭主ぶり。
後の活躍の伏線とするために、ショバ荒らしのやくざを追っ払う時の颯爽とした動きの描写も忘れないが。

女将は「子供なんて嫌いなんだよ」といいながら次のカットで子供に飯を食わせている。
「竹馬なんていけません」と説教した次のカットで、嬉しそうに子供と竹馬で遊んでいる。
道場に通わせようとする左膳と、寺子屋だという女将が夫婦喧嘩。
次のカットで寺子屋へ通う子供。
脚本は十分に練られている。

人斬りのシーンの素早い凄惨さ、道場破りのシーンでのとびかかるような腰が入ってバネの効いた動き、は大河内傅次郎自身が持つ、目を見張るような凄さ。
これを最後まで封じて、子煩悩なヒモを演じさせる山中演出の新しさ。

タッチは乾いていないが日本流のソフィステイケーテッドコメデイのようだ。

大河内演じる左膳のコメデイアンぶりもいいが、女将さんを演じる新橋喜代三の貫禄、色気も存在感十分。
いいキャステイングだった。

「人情紙風船」 1939年  山中貞雄監督.  PCL

山中監督出征前の作品。
「あれが遺作では寂しい」と本人が出征中に述懐したという。

作品を貫く庶民目線(反権力)の精神を、細かいところまで練られた脚本で見せる。

長屋に住む落ちぶれた武士が、地位のあった父のツテを頼って権勢をふるう御家人に取り入ろうとするが相手にされない。
一方長屋の住人達には、目が見えるとしか思えない按摩がいたり、やくざのショバで賭博をしては逃げ回る職人崩れがいたり。

長屋の住人の描写がユーモラスでブラックで面白い。
落ちぶれた武士をあしらい続け、出入りのやくざを使ってまで排除する御家人と豪商の描写もシニックでリアリステックだ。

職人崩れが、豪商の放蕩娘を誘拐して、彼らの鼻をあかしたりもする。
が、庶民側の抵抗もここまで。
職人崩れはやくざの親分と果し合い、落ちぶれた武士は万策尽きて長屋で妻と心中する。

庶民目線の精神は、時代の暗黒を前にペシミステックな結末となる。
山中監督の「この作品が遺作では・・・」という述懐は、戦争に向かう時代の暗黒を色濃く反映した作品を遺作にはしたくなかったということなのだろう。

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代 ザッツMGMミュージカル② ジュデイ・ガーランドの時代

MGMアメリカ映画黄金時代シリーズです。
今回はMGMミュージカルのスター、ジュデイ・ガーランドの作品を選んでみました。

1939年に「オズの魔法使い」で17歳のジュデイがスターになってから、1950年にMGMとの契約を解除されるまで。
ジュデイ20歳代の作品群です。

「若草のころ」 1944年 ヴィンセント・ミネリ監督  MGM

時まさに第二次世界大戦真っ盛り。
ヨーロッパ、太平洋共に戦線をアメリカ軍が仕切り、枢軸国を追いつめんとしている時期。
アメリカ軍の攻勢がはっきりしていた時期とはいえ、戦時体制は軍事最優先。
一般国民はもちろんハリウッドも慰問や戦時国債のキャンペーンなどで撮影所を挙げて協力していた時代。

その時代に作られた「若草の頃」は、戦争に協力せざるを得ない国民感情を刺激しないような作風。
地道で伝統的な古き良きアメリカを静かに賛美した保守的な作品でした。

1903年の春から冬へのセントルイスの一家庭を舞台に、弁護士の父、しっかりした母(メリー・アスター)、長兄、四姉妹(次女がジュデイ・ガーランド、四女にマーガレット・オブライエン)の暮らしを追うホームドラマ。

製作はアーサー・フリード。
当時のMGMプロデューサーのトップで、ミュージカルの制作に腕を振るった。
別の顔ではセクハラとロリコンで有名なユダヤ人。

監督はのちにジュデイ・ガーランドと結婚し、ライザ・ミネリの父親となるヴィンセント・ミネリ。

マーガレット・オブライエン(左)とジュデイ・ガーランド

女系家族の中で浮いている父親。
メイドとの連携よろしく、美しく料理の得意な母親。
ボーイフレンドの気を引くことに夢中な長女と次女。
家族のマスコットとして可愛がられる三女と四女。

メリー・アスター(左)、ルシル・ブレマー(中)と

古き良き、おてんばのお嬢さんキャラを演じるジュデイ。
少しやせて娘らしさはあるが、本来の元気さ、パンチが出ていない。
戦時中の保守的ドラマにあっては、ジュデイ本来の破天荒な動きと、パンチの効いた歌声は時期尚早だったのか。

なお、三女、四女を巡る描写に、アーサー・フリードのロリコン趣味が濃厚に現れており、戦時中に製作された保守的なホームドラマにあっても製作者の公私混同は貫かれていたようだった。

「雲流るるままに」 1946年 リチャード・ウオーフ監督  MGM

さあ、戦争は終わった。
アメリカは戦勝国だ。

とはいえ戦後直後の1946年。
MGMが選んだ題材は、アメリカ人音楽家の第一人者、ジェローム・カーンの自伝だった。

保守的で堅実な題材である。
製作はアーサー・フリード。

作曲家カーンはそれまでイギリス人作曲家が幅を利かせていた舞台音楽の世界で、アメリカ人として初めて第一線で活躍した人。
ロバート・ウオーカーが演じる。

主人公の生涯の恩人に、作曲家のヴァン・ヘフリンとその幼い娘。
「シェーン」につながるヘフリンの頼りがいのあるざっくばらんな善人キャラがいい。
主人公と仲良くなるおしゃまな幼女の執拗な描写に制作者フリードの好みが反映している。

主人公らの活躍と変遷のドラマに舞台のシーンが挟まる。
舞台のシーンに、ジューン・アリスン、ジュデイ・ガーランド、アンジェラ・ランズベリー、フランク・シナトラのミュージカルスターが登場する。

ジュデイの登場シーンはヴィンセント・ミネリが演出したらしい。
皿洗いのバイトをしながらスターを目指す娘、というバックステージものを演じるジュデイは溌溂としている。
楽屋で出番を待つときの緊張ぶりを演じてもいたが、ジュデイの繊細な実像とオーバーラップするようで印象的だった。

「雲流るままに」のジュデイ

1927年、舞台「ショウボート」の大成功で主人公は大作曲家となり、ハリウッドにも招かれる。
一方成長したヴァン・ヘフリンの娘(ルシル・プレマー)は舞台女優を目指して家出をし、主人公らを心配させる。

成功した人物の苦労譚はハリウッドの得意な素材。
今回も無難にまとめている。

テレビのなかった当時、作曲家にとっても舞台で評価されることが、キャリアの出発点だったことがわかる。
舞台製作者の権限、ブロードウエイで売れたときの栄光、別枠として出てきた映画という存在。
1920年代のアメリカのショウビジネス界を背景に、作曲家カーンの半生を描いた作品だった。

「ハーヴェイ・ガールズ」 1946年 ジョージ・シドニー監督 MGM

サンタフェ鉄道が走るニューメキシコ。
西部の町にレストランを開こうと、ウエイトレスの一団(ハーヴェイガールズ)とともにやってきた経営者ハーヴェイ。
偶然同じ列車に乗り合わせたのは、新聞広告の花嫁募集に応じてやってきたジュデイ・ガーランド。

西部の町にはカジノと売春宿とキャバレーを兼ねた酒場がすでにあり、ボスと情婦(アンジェラ・ランズベリー)が支配している。
かたや堅気のハーヴェイレストラン。

「ハーヴェイガールズ」主題歌のオリジナルレコードジャケット

ボス一派からの嫌がらせにおびえるハーヴェイガールズ。
単身酒場の乗り込み、ボスに啖呵を切るのは、結婚相手に夢破れたその足で、ハーヴェイガールズに応募したジュデイ・ガーランド。
若く、生き生きとした動きを見せるジュデイだが、不自然に痩せた姿を見せるのはちょっと不本意。

劇中の仲良し3人組。右はシド・チャリシー

ガールズの面々(その一人にシド・チャリシー)は、飛び切りの美人ぞろい。
スターを目指しハリウッドにやってきた娘たちから、プロデューサー(この作品もアーサー・フリード)が腕によりをかけてセレクトした風がうかがえる。

「ガス燈」の不貞腐れメイド役でデヴューし、「緑園の天使」ではエリザベス・テーラーの姉を演じた、アンジェラ・ランズベリーは酒場の歌姫役。
可愛げのない貫禄たっぷりの押し出しも、このとき弱冠21歳。
酒場の舞台では下着のようなドレスで歌い踊る。
主人公、ジュデイ・ガーランドと向き合えば、身長、体の厚みともに圧倒的な体格の差を見せる。
この存在感が息の長い女優生活を生み、「ジェシカおばさんの事件簿」につながったのか。

貫禄のアンジェラ・ランズベリー(中央)

サンタフェ鉄道のSLを走らせる大オープンセットはさすが世界一の映画会社MGMの仕事。

町のボス相手に拳銃片手に単身乗り込み、乱闘シーンもこなす若き日のジュデイ・ガーランドも、そのコミカルな演技は愛嬌があるのだが、体の線の細さが弱弱しさを感じさせる。
どうしたジュデイ!本領発揮はまだか。

「サマーストック」 1950年 チャールズ・ウオルター監督  MGM

ジュデイ・ガーランド最後のMGM出演作。
舞台裏では何があったのか知らないが、結婚し、子供を産み、体つきもしっかりしたジュデイが溌溂と歌い踊る。
待ち望んでいたジュデイらしさが存分に楽しめる。

3代続いた農場の跡取り娘がジュデイ。
経営不振で農夫は出てゆき、演劇狂いの妹も出て行ったきり、メイドと二人健気に農場を守る。
そこへ妹が売れない劇団(主宰者ジーン・ケリー)を連れてくる。
納屋でミュージカルの稽古をし、興行を打つという。

農場を守りたいジュデイ、保守的な町の人々、浮世離れした劇団。
三者が入り乱れ、決して交わらないままドタバタが続く。

町のダンス大会は伝統的なフォークダンス。
見守りながらも決して交わろうとしない劇団員たち。
決して劇団員をダンスの輪に呼び込もうとはしない町の人たち。
日本でも田舎の閉鎖性云々が話題になるが、それどころではないアメリカの、西洋の地域間、階層間の断絶もさりげなく描かれる。

ジーン・ケリーとの一場面

やむに已まれぬ事情から劇団の面倒を見るジュデイだが、ひょんなことから自分のダンサーとしての才能に気づき、ジーン・ケリーとも打ち解けはじめ・・・。

興行直前にニューヨークへ出奔した妹の代わりに主役で舞台に立つことになるジュデイ。
圧倒的な歌と踊りがこれでもかと炸裂する。

ジュデイ、MGM時代最後の雄姿

MGM最後の出演作でジュデイの才能を存分に味わえたことを良しとするべきか。
もったいないと思うべきか。

小型ながらタンクのような体でファイトむき出し、演技がうまく愛嬌もある。
何よりパワフル。

この先、肝っ玉母さんのようなキャラもできたろうし、可愛い奥さん役も似合ったろう。
売れない芸人の奥さんとして苦労する役も案外にあったかもしれない。

この後、ワーナーで名作「スタア誕生」を残しジュデイ・ガーランドは永遠にスクリーンから姿を消した。

ジュデイの原点。グラムシスターズ時代(左)

DVD名画劇場 大都映画とハヤブサヒデト

大都映画という映画製作会社が戦前にあった。

集英社選書に「幻のB級!大都映画が行く」があって一読。
そこには、戦時体制で映画会社が3社に統合されるまで、松竹、東宝、日活、新興キネマと並んで邦画メジャー5社の一つに数えられた大都映画の発祥と解散までの貴重な経緯がつづられていた。

集英社選書 本庄慧一郎著 「幻のB級! 大都映画が行く」

作家、脚本家の著者はテレビ、広告業界でCM製作を手掛ける傍ら、「大都映画撮影所物語」という劇を執筆、好評を得た。
戦前のメジャー映画会社でありながら、現在では知られることの少ない大都映画に、親族が勤めていた縁を持つ著者が、その歴史を掘り起こし新書にまとめたのが本著である。

建築業界の風雲児としてのちに大都映画を創業した河合徳三郎の生涯から、大都映画のカラーである徹底した大衆路線と、戦前の企業統制により大都映画が解散するまで、仰天エピソードの数々がつづられる。

一代で名を成し、全身に入れ墨があり、関係者に慕われたという河合徳三郎。
映画会社の経営者としては、やくざ上がりの大映・永田雅一社長や、女優を妾にしたと公言して憚らなかった新東宝・大蔵貢社長、さらには京都に発祥し、やくざと切っても切れなかったマキノ映画から東映京都へとつながる人脈、に近いものがあろう。
東大新卒の城戸四郎を社長に据えた松竹や、実業家にして文化人の小林一三を元祖とする東宝とは毛色が異なる。

大都映画のモットーが「楽しく、安く、速く」であり、徹底した娯楽路線の作品を、粗製乱造と揶揄されるスピードで量産し、低価格で公開したのも、この「毛色」と深く関係していよう。

また、大都映画の本拠である巣鴨撮影所は、低賃金、過酷な労働環境ながら家族的雰囲気で、河合社長のもと一団結していたという。

大山デブ子、杉狂児、山本礼三郎、伴淳三郎、水島道太郎などのスターを生み、千葉泰樹、佐伯幸三などの監督を生んだ。

戦時統制により映画会社が統合された際、東宝、松竹と並ぶ第三社となるべく、大都は日活、新興キネマと合併し、大映映画が誕生した。
大映誕生の裏には永田雅一の「寝技」があったといわれるが、いずれにせよこの時点で大都映画は消滅した。

通算で1200本以上を製作した大都映画だが、現存するのはごくわずか。
ほとんどが戦災でネガごと灰塵に帰しているのは残念なことである。

最も、戦前の作品が現存しないのは大都に限ったことではない。
背景には、映画プリントを消耗品と考え、興行上映でボロボロになるまで使い切った後は、プリントを簡単に廃棄し、またネガを大切に管理していたとはいえない当時の日本映画界の慣習がある。
戦前の作品が海外(アメリカの日系映画館や、欧州のフィルム博物館など)で発見されることが多いのは、ことためもある。

大都映画のスター、ハヤブサヒデト

「怪傑ハヤブサ」  1948年  ハヤブサ・ヒデト監督

最初に断っておかなければならないのは、この作品が大都映画ではないことだ。
大都映画は戦前に消滅したのだから、1948年のこの作品が大都ではないことは自明だ。
ではなぜこの作品を見たのか。大都のスターだったハヤブサヒデトが出ているからだ。

1948年版「怪傑ハヤブサ」。中央の女優がヒロイン長谷川ひとみ

オートバイが疾走する。
燃える納屋に突っ込み、囚われのヒロインを曳きずり出す。
オートバイとその疾走は「月光仮面」に援用されているといわれる。
「少年ジェット」という番組もあり、オートバイで疾走する主人公の脇には並走するシェパード犬がいた。

ハヤブサというネーミング。
戦時中はビルマに展開した中島飛行機製の名機隼を擁した加藤隼戦闘隊があった。
山小舎おじさん幼いころのテレビ番組には「海底人8823(はやぶさ)」というのがあった。
最近では日本中が応援した気象探査衛星が愛称はやぶさだった。

オートバイとはやぶさ。
この二つのアイコンに彩られた主人公がハヤブサヒデトである。

ハヤブサの全盛期は大都時代の1930年代といわれる。
「怪傑ハヤブサ」は、戦後に、自らの演出で再現されたハヤブサアクションである。

そのアクションは、サーカスで鍛えた空中綱渡り・滑走と、オートバイ、格闘である。
モーターボートで疾走し、海に飛び込んでもいる。

実写で行われるそれらアクションは、どちらかというとジャン=ポール・ベルモンドの体を張った動きを連想させる。
アナログだからこそハラハラするアクションである。

ヒロインは長谷川ひとみという女優で美しい。
派手なパーマはともかく、当時の若い日本女性ならではのふるまいが好ましい。

DVD版は上映時間49分。
オリジナルは89分だそうで、約40分分がブツブツに切れておりストーリーがよくわからなくなっている。

が、いずれにせよ伝説のハヤブサヒデトを見られる貴重な記録である。

DVD名画劇場 D・W・グリフィスのハリウッドバビロン

無声映画時代に歴史に残る大作映画を作り、併せてクロースアップやカットバックなどの映画技法を編み出したアメリカ人映画監督がD・W・グリフィス。

ダグラス・フェアバンクス、チャールズ・チャップリン、メリー・ピックフォードと4人でユナイテッド・アーチスツという映画会社を立ち上げた。
ユナイト映画は今に続いている。

今回は、グリフィスの代表作2本を見た。

グリフィスの撮影風景

「国民の創生」 1915年  D・W・グリフィス監督  ユナイト

BGMもないサイレント映画。
3時間をどう過ごそうかと心配。
しかも字幕が文学的というか、セリフを表すのではなく、シークエンス全体の説明というかテーマを表す字幕となっており、最初は何が書いてあるのかわかりづらい。

それでも歴史的名作。
シッカリ映画的興味と興奮は味わうことができた。

まず、ヒロイン、リリアン・ギッシュの美しさ。
ついでアメリカの裏の歴史ともいうべき黒人解放の過程の裏面史が描かれていること。
KKK団と自由黒人急進派の激突のスリルとスピード感。
「国民の創生」は重層的に楽しめる映画だった。

リリアン・ギッシュ

映画は、南北戦争を挟んで、南部の家庭と北部の家庭の交流と運命に翻弄される姿を立軸に、黒人奴隷解放の流れと相克を横軸、にして進む。

南部の白人家庭に生まれた娘を演じるリリアン・ギッシュは、交流ある北部の青年に思いを寄せられ、戦争に翻弄された挙句結ばれる。
ギッシュは南軍の従軍看護婦になるなど波乱の歴史に気丈に立ち向かう娘を演じる。

戦争は北軍が勝ち、今に至るアメリカ権力と価値観の流れが形作られる。
黒人に対する処遇もこの時に形作られる。

奴隷として白人に従属するのが南部の黒人で、黒人自身もそれを望んでいた。
北部では黒人を開放し、程度の差はあっても白人と平等に扱うという方針。
南北戦争の結果、解放された黒人は「自由黒人」と呼ばれ、一部は急進化した。
南部支配のために北部権力者のコマとして南部に送り込まれた黒人もいた。

映画では、黒人解放に関するエピソードがつづられる。

白人の犯罪者を隊長とする北軍黒人部隊の、南部人に対する乱暴狼藉。
負けた南軍に対する融和政策を掲げるリンカーン大統領の北部急進派による暗殺。
白人との混血黒人を南部に送り込み、不正選挙で州副知事に祭り上げる北部急進派。
不正選挙の結果、州議会議員数は黒人議員101人、白人議員23人となり、逆差別が横行する。
北部出身の黒人たちによる南部の黒人へのリンチなどの乱暴狼藉、南部の白人への迫害。

南部白人家庭に押し掛ける自由黒人たち、娘らは地下に身を隠す。
うっかり一人で水を汲みに出た娘が、横恋慕する黒人に追いつめられた挙句、崖から身を投げる。

やむなく南部の白人たちが、白装束に身を固めて反撃に出る。
南部の女性たちが秘密裏に白装束を縫う。
KKK団の始まりだった。

南部出身のグリフィスは、自由黒人急進派の乱暴狼藉ぶりを執拗に描き、南部白人の反撃をヒロイックに描く。
現代の価値観では(特に映画などマスコミ及び表現手段では)「結果としての黒人差別は100%悪く」、また「KKK団は100%悪い」ことになっているので、この映画は、現在ではとんでもない独断と偏見に満ちた作品という評価だ。

とはいえ、アメリカ映画最大のヒット作の一つである「風と共に去りぬ」は、注意深く直截的な表現描写は避けているが、南部出身の原作者マーガレット・ミッチェルの価値観に沿った内容となっており、その精神は「国民の創生」とベクトルが同じである。

出演者ではリリアン・ギッシュのほかに、その妹役の少女の演技が印象的。
幼いころの突拍子もないふるまい、娘盛りになってからのコケテイッシュな振る舞いがいい。
グリフィスはスタジオで自分の周りに可憐な乙女たちを集めるのに熱心だったという。
その象徴がメリー・ピックフォードであり、リリアン・ギッシュだった。

主要黒人配役を、黒塗りの白人俳優が演じるなど、ムリヤリの演出が時代を感じさせるものの、この作品はグリフィス版「風と共に去りぬ」ともいうべき大河ドラマでもあった。

「イントレランス」 1916年 D・W・グリフィス監督  トライアングルフイルム

ハリウッド史上最大の作品なのではないか。

1話1作品は優に作れるスケールで、4話同時進行の1作品とした。
どの挿話もスケールがただものではない。
大セット、大エキストラは今後とも再現不可能な規模だ。

テーマは「不寛容」。
人間社会のおける不寛容な現実とその彼岸における幸福を追求している。

サイレント映画だが内容に沿ったBGMが流れる。
字幕のムズカシサは「国民の創生」同様。
これはグリフィス作品の特性か。

第1話は現代のブルジョワと労働者の話。
工場経営者の気まぐれで解雇になった労働者親子。
かわいらしく、無邪気な父思いの娘。
都会へ出て、父を失い、青年と知り合い、悪に染まった青年を改心させ結婚。
ところが青年が悪時代の流れで冤罪となり・・・。
無産階級の立場から現代社会の無慈悲を描くグリフィス。
その冷酷な現実描写が印象的。

第2は古代エルサレム。
イエスの誕生。
パリサイ人の宗教的不寛容。

第3話は16世紀パリ。
カトリーヌ・ド・メデイチの権力的野心と、それに振り回される王様たち。
結果のバルテルミー大虐殺。

そしてこの映画のハイライトたる、伝説の大セットと大エキストラによる第4話はバビロンとペルシャの戦い。

両側に像の彫刻を並べた祭壇に数十人の侍女が並んでダンスをするハリウッド史上最大の仕掛けによるバビロンの祝宴のシーン。
巨大な城門が開いて、馬が引く戦車が出入りする。
ペルシャ軍は巨大な投石器を運び、さらに馬の革で作った巨大な塔を運んできてバビロンの城壁を攻略せんとする。
この悪夢のような戦闘シーンの幻は、原寸大のセットを使った実写によって再現されている。
今後とも再現不可能な撮影。
これこそが「ハリウッドバビロン」の世界である。

伝説のバビロン実物大セット

バビロン挿話のヒロインは元気いっぱいの男勝りの娘。
美人だが自ら鎧をまとい、戦車を操り、弓を弾く。
まるでアニメの戦闘少女のようなキャラクターもグリフィスの作によるもの。
「国民の創生」同様、少女たちが魅力的な映画でもある。

ラストに向け、各挿話の山場シーンがカットバックされ大団円になだれ込んでゆく。
かくて16世紀のフランスでは大虐殺に至り、紀元前のエルサレムではイエスが処刑され、バビロンはペルシャに滅ぼされる。

唯一、現代では、冤罪の青年の罪は晴れ、処刑台からすんでのところで救い出される。
不寛容渦巻く人間社会ではあるが、希望は失うまいとのことであろうか。

DVD名画劇場 グラマー女優一代!ジェーン・ラッセル

ジェーン・ラッセル。
大富豪ハワード・ヒューズが自ら監督した唯一の映画「ならず者」でデヴュー。
その煽情的?な宣材写真が検閲に触れ公開が遅れた、という伝説を持つグラマー女優。
その代表作3本を見る機会があった。

ジェーン・ラッセル

「ならず者」 1946年 ハワード・ヒューズ監督 RKO

ジェーン・ラッセルのデヴュー作。
どんなにセンセーショナルな内容か?と思いきや、何ともとぼけた西部のヒーロー達が男の三角関係?を繰り広げる物語だった。

曲者すぎる出演者たちと若きジェーン・ラッセル

ウオルター・ヒューストン演ずるドク・ホリデイ。
トーマス・ミッチェル扮するパット・ギャレット。
新人ジャック・ビューテルのビリー・ザ・キッド。

男同士でのかみ合わないセリフ、繰り返される意味のない動作。
赤毛の馬にこだわり、たばこを取り合う。
彼ら3人の醸し出す、緩いというか、間延びしたというか、何ともいえない世界。

すっとぼけたウオルター・ヒューストンのキャラと、芸達者なトーマス・ミッチェル、素人っぽいジャック・ビューテル。
この3人に絡む男勝りの野生の女がジェーン・ラッセル。
最高に魅力的な女性なのだが、男たちはこのいい女をあっさり譲り合う、という不思議な展開。

これが「ならず者」の宣材写真だ!

ハワード・ホークスの監督で撮影が始まったこの映画。
当時、ジェーン・ラッセルに夢中だったスポンサーのハワード・ヒューズが、ホークスを更迭して自ら演出した。
監督が素人のヒューズだからなのか、ヒューストンの個性を出しすぎた?独特の演技が(監督を無視して?)冴えわたる。
一方で、監督の「ひいき」にもかかわらず、己の存在感を失わないジェーン・ラッセルがただものではない。

ジェーン・ラッセルの印象の強烈さはヒューズ監督にとってもこれが本望か。
記念すべきはジェーン・ラッセルの伝説が、この映画でスタートしたこと。

「腰抜け二挺拳銃」 1948年  ノーマン・Z・マクロード監督    パラマウント

ジェーン・ラッセルのネット上のフィルモグラフィによると、彼女の第2作目。
ご存じ、ボブ・ホープの腰抜けシリーズのゲストヒロインとして登場。
有名なこの映画主題歌「ボタンとリボン」は劇中ホープの弾き語りで歌われる。

テクニカラーの画面に当時25,6歳のジェーン・ラッセルのドレス姿が映える。
女ガンマンスタイル(カラミテイジェーン役)で、時にはガンアクションを披露。
時にはカラフルなドレス姿でホープとのラブシーンもどき、と活躍するラッセル。

映画は西部を流れるインチキ歯医者に扮するホープが、インデイアンにダイナマイトを横流ししようとする悪漢たちと、それを取り締まろうとする州政府の攻防に巻き込まれ、たわいないギャグとトークで場をつないでゆく、というギャグアクション。

調子がいいだけのインチキ弱虫のお馴染みのキャラを全盛期?のホープが演じる。
まだ若い動きの良さと、毒の薄いギャグのマシンガントークが切れ味いい。

主題歌ボタンとリボンのオリジナルレコードジャケット

ラッセルは、男にこびず自力で世を渡ってゆくカラミテイ・ジェーンのキャラクターが似合う。
「ならず者」でのキャラクターの延長線上の役柄。
ホープのギャグ映画でのびのびとヒロインを演じている。
全編が大掛かりなコントのようなこの作品で、唯一見ごたえを感ずることができる存在感を示した。

「紳士は金髪がお好き」 1953年 ハワード・ホークス監督  20世紀FOX

ラッセルのデヴューから7年目の作品。
現在ではむしろマリリン・モンローの主演作として認知されているこの作品だが、クレジットの順番はラッセルがトップ。
その存在感はいや増していた。

マリリン・モンローとのそろい踏み。左は「紳士」たち

テクニカラーによる原色の背景と衣装。
のっけからラッセルとモンローのご機嫌なダンスから映画は始まる。

ラッセルとモンロー扮する踊り子二人が船に乗り込み、金持ちの紳士たちを篭絡せんとするストーリー。
乗り込んだ船で同乗のオリンピック選手団とラッセルが意気投合し、歌い踊るミュージカルシーンが楽しい。

スタイル抜群

ラッセル扮する姉御は余裕たっぷり。
発達の良い脚線美も豪快だが、踊りもゴージャス。
若いモンローの踊りやふるまいに、かわいらしさと繊細さを感じさせるのとは対照的。
どちらもいい。
ホークスのはっきりとした演出はラッセルのキャラにあっている。

DVDのカバーはモンローをフィーチャー

この3作品を見ると、ジェーン・ラッセルはアメリカ女性らしく堂々たる体躯を誇った典型的なグラマーではあるが、スキャンダルの間を泳ぐような煽情的なハリウッド女優ではなく、むしろさっぱりとした開放的な性格の女優であると思わせる。

デヴュー作でスカウトされた富豪ハワード・ヒューズにもなびかなかったというし、スキャンダル史上にその名もない。
むしろ「紳士は金髪がお好き」撮影中に、繊細なモンローの代わりにマスコミの矢面に立つという「男らしさ」を示したというエピソードが物語る、開放的で姉御肌に富んだ女優だったようだ。

だからこそそのさっぱりした性格が、ラッセルをしてハリウッドのセックスシンボルとなしえなかった。
各年代のセックスシンボルと呼ばれた、クララ・ボウ、ジーン・ハーロー、マリリン・モンローが持つ、幼児性、神秘性、背徳性、煽情性に寄らず、常識的で大人の女性だったのだろう。

DVD名画劇場 ユニバーサル・ホラー3連発!

今回は1930年代に映画会社ユニバーサルが製作したホラー映画3作。

この時代、ユニバーサルは、吸血鬼ドラキュラ、フランケンシュタインの怪物、ミイラ男、狼男などを題材にホラー映画を連発し、ヒットさせた。

吸血鬼や狼男は古くからの伝説が題材。
フランケンシュタインは原作ものだった。
それらをハリウッド式に(再)映画化したのがユニバーサルで、ドラキュラを演じたベラ・ルゴシ、フランケンシュタインの怪物を演じたボリス・カーロフは、永遠のハリウッド・アイコンとなった。

「魔人ドラキュラ」 1931年  トッド・ブラウニング監督  ユニバーサル

吸血鬼伝説はヨーロッパに古くから伝わり、またドイツで「ノスフェラトウ」、デンマークで「吸血鬼」の、古典ホラーの名作となる映画化がされていた。

ハリウッドでの最初の(おそらく)吸血鬼ものの映画化。
主演のベラ・ルゴシは舞台で吸血鬼を演じてヒットさせていたという。
この映画のヒットで、ドラキュラのスタイルを確立させた。
死んで棺桶に入った時のベラ・ルゴシの服装もドラキュラスタイルだったとのこと。

ストーリーは中欧トランシルバニアのドラキュラ城に、不動産賃貸借の契約にやってきた若者が、ドラキュラに襲われて子分となる。
子分はドラキュラとは異なり、人間の血は欲せずクモやネズミの血を欲し、また日の光にも耐えられる。
この子分の助けで、トランシルバニアの土を入れた棺桶ごと、船でロンドンへ渡る。
精神病院へ収容された子分を夜な夜な呼び出し手助けさせ、ドラキュラはロンドンの上流階級に食い込む。
狙いは上流階級の令嬢。
眼力でを虜にし、毒牙にかける。
そこに立ちはだかる超常現象専門の博士(巻き舌が激しいドイツ訛り)。
その対決の結末やいかに!

ベラ・ルゴシのドラキュラ

ベラ・ルゴシの眼力。
スポットライトを目に当ててのクロースアップ。
狂気すれすれの表情。

蝙蝠に身をやつし、どこへでも侵入する。
人の常識や好意につけ込み躊躇なく悪を行使する。

古くは疫病、現在のコロナ禍にも例えられるであろうその災禍。
人間が抵抗できないさまは、宇宙人の侵略にも例えられようか。
現代に在っては、無意識に人々を洗脳する悪意の情報操作にも通じる。

意のままに操られる子分。
苦もなく陥落する美人令嬢。
常識に縛られ、右往左往するだけの婚約者青年。

ドラキュラに敢然と立ち向かうのが超常現象専門のヘンデキング博士。
ドラキュラが鏡に映らなかったり、トリカブトに弱かったり、十字架に致命的だったりを次々と暴き、令嬢を守らんと、ドイツ訛りで訥々と周りを説得する。

「吸血鬼の強みは、自らの存在が迷信だとおもわれていること。」だと喝破し、科学文明に支配された現代の隙間で悪を行使せんとする勢力を見抜き、けん制し、征伐する博士が頼もしい。

ヨーロッパ文明の深いところに由来する伝説のせいか、ハリウッド製吸血鬼映画は、けれん味に徹した切れ味に乏しく、ヨーロッパの歴史に遠慮した風が見られる。

「フリークス」で歴史に残るカルトムービーの原祖となったトッド・ブラウニング監督の手腕は、ドラキュラ城の埃っぽさや、吸血鬼を迷信と信じながら惑わされる現代人の不安、などの演出に非凡さを発揮はしたが。

吸血鬼伝説と現代の相克については、先の映画化「ノスフェラトウ」「吸血鬼」はもちろん、のちのイギリスハマープロによる映画化「吸血鬼ドラキュラ」や、ポーランドからの亡命者ロマン・ポランスキーによる「吸血鬼」、さらにはアンデイ・ウオーホル「処女の生血」など、面々と製作され続けた歴史上の吸血鬼映画全体の検証を待たなければならないのかもしれない。

「フランケンシュタイン」 1931年  ジェームス・ホエール監督  ユニバーサル

ベラ・ルゴシがドラキュラのイコンであったとしたら、ボリス・カーロフはフランケンシュタインの怪物の元祖となった、そのメークによって。

カーロフはこの作品にクレジットされていない。
モンスター役の俳優名は「?」となっている。
冒頭、ユニバーサル映画のタイクーン、カール・レムリからのメッセージが映される「耐えられない人がいましたら、今のうちにご退場ください」と。

おどろおどろしい古い風車を改造した研究室。
嵐の夜、雷が鳴り響く。

ここら辺の演出は、その後のフランケンシュタインものや「バックトウザフーチャー」に至るまでのハリウッド式「研究室」のお約束、となった。

背むしの助手は死刑囚だった人間で名前はフリッツ。

墓場から死体を盗み、大学から脳を盗み出すのはフリッツの仕事。
監獄に戻すぞ、と脅かされながら仕事をするが、盗む予定の善人の脳を取り落とし、あわてて犯罪者の脳を持って帰るなど仕事ぶりはいい加減だ。

フランケンシュタイン博士は決してマッドサイエンテイストというわけではないが、裕福な家庭と美人の婚約者を今は顧みず、異端で先進的過ぎる自分の研究結果を最優先することに取りつかれている。

怪物が生まれ、脱走してからが映画の本題。
犯罪者の脳を持つ怪物だが、人間の心を併せ持つ。
村人に徹底的に排除され、攻撃される怪物だが、邪気のない心を持った幼女とは一瞬の交流を持つ。

一方、改心したフランケンシュタイン博士は婚約者と結婚を決意。
結婚式当日、着飾った花嫁に迫る怪物。
村では怪物に湖に投げ込まれ、水死した娘を抱いて復讐を誓う村人が群れ始める。

映画はマッドサイエンスの悲劇を怪物自らの悲劇を通して描いている。
無自覚な群集心理の恐怖とマッドサイエンテイストへのしっぺ返しもしっかりと。
吸血鬼もののように歴史と伝統の世界ではなく、現代科学と群集心理、人間の感情の世界なので、ハリウッド映画は存分にその力を発揮している。

カーロフはそのメイク姿で怪物の歩き方、動き方をよく表現している。

フランク・キャプラの「毒薬と老嬢」では、そっくりな怪物とドイツ訛りの博士(ピーター・ローレ)を登場させ、作中の相手人物に「ボリス・カーロフ?」と何度も言わせていた。
「ヤングフランケンシュタイン」などでも再映画化されている。

「フランケンシュタインの花嫁」 1935年  ジェームス・ホエール監督  ユニバーサル

前作では「?」だったボリス・カーロフがトップにクレジットされている。
いかに人気が出ていたかがわかる。

前作で村人の襲撃により水車とともに燃えつきた、はずの怪物が生き残っていた。
かたやマッドサイエンスから足を洗って村の有力者として暮らしていたフランケンシュタイン博士のもとに、本物のマッドサイエンテイストが近寄る。

このマッド博士は、なんと瓶の中に人間を発生させている。
この描写がすごい、撮影技法もだが、コンセプトが完全に科学を逸脱して、伝奇の世界に行ってしまっている。
悪夢のようなシーンだ。

マッド博士に半ば脅迫されてフランケンシュタイン博士は再び人造人間をつくる。
今度は若い女性の死体で。
この人造人間、「メトロポリス」のマリアのようにも見える。
ぶっ飛んだキャラクターで、伝奇性は瓶の中の小人とどっこいどっこい。
その後の映画で再登場はしていないのはなぜか。

「花嫁」と怪物

一方、カーロフ扮する怪物の方は、村人に追われ、捕まったりしながら小屋に逃げ込む。
そこには盲目の世捨て人のような老人が住んでおり、怪物の人間性と感応して穏やかな一瞬を過ごす。

女版人造人間はまマッド博士が怪物のパートナーとして作ったが、二人は結ばれることはなかった。

カーロフのフランケンシュタインの怪物役は1939年の「フランケンシュタインの復活」をもって終了。
この3作をもってカーロフの怪物役は永遠のハリウッド・アイコンとなった。

DVD名画劇場 若き日のアヌーク・エーメ

アヌーク・エーメはフランスの女優。
1932年パリに生まれる。
両親はユダヤ系の舞台俳優だった。

戦時中はユダヤ人迫害から逃れるため地方に疎開したり、ドイツ占領中は黄色の星を胸につけるのを避けるため、母親の姓を名乗ったりした。

1947年、パリでスカウトされ映画デビュー。
イギリスにわたり演劇学校に通った。
この度見ることができた「火の接吻」は出演3作目に、「黄金の竜」は4作目に当たる。

若き日のアヌーク・エーメ

代表作は「モンパルナスの灯」(1958年)、「甘い生活」(1960年)、「ローラ」(1961年)「8 1/2」(1963年)。
そして「男と女」(1966年 クロード・ルルーシュ監督)。

この「男と女」の美貌の未亡人役で強烈な印象を残す。
山小舎おじさんなどはリバイバルで見て、その音楽と映像、そしてアヌーク・エーメに魅せられ、陶酔し、上映していた映画館の風景ともども夢に出てきたほどだった。

もっと若い日のアヌーク・エーメ

「火の接吻」 1949年 アンドレ・カイヤット監督 フランス

アヌーク16歳の作品。
当時新鋭のアンドレ・カイヤット監督。
共演にセルジュ・レジアニ、ピエール・ブラッスール、マルチーヌ・キャロルと一線級のスタッフ、配役による大作である。

映画セットでの主人公二人

舞台は戦後のベニス。
子供や少女が街角で物売りをし、アヌークが当家の娘を演じる貴族?の家系のお屋敷は没落していかがわしいブローカーまがいの男(ブラッスール)に牛耳られている。

ベニスの映画スタジオでは「ロミオとジュリエット」が撮影されようとしており、プロデユーサーが主演女優(キャロル)を連れて小道具の骨董品を探しに、アヌークの屋敷へやってくる。

ベネチアガラスの職人アンジェロ(レジアニ)とアヌークがスタジオに潜り込み、ロミオとジュリエットの代役に採用される。
二人は一目で恋に落ち、物語の舞台・ベローナでのロケを通して親密になる。

一方で、アヌークとの結婚を条件に没落屋敷に出資していたブローカー、彼の支援に頼るアヌークの両親、屋敷のメイドらが入り乱れ、絡む。
ロミオとジュリエットよろしく若い二人が悲劇的な結末を迎える。

「火の接吻」所蔵のDVDセット。中央がアヌーク・エーメ

映画では芸達者たちがさまざまなエピソードを披露している。
悪徳ブローカー役のブラッスールは悪ふざけ寸前の精力的な動きでわかりやすく卑小な悪人を演じる。
最後にアンジェロの代わりに撃たれて死ぬ場面では、見ているこちらも溜飲が下がり思わず笑ってしまう程の怪演。

屋敷のメイドとして20年仕えているレテイシアという老女もぶっ飛んでいる。
元判事の気弱な主人の隠れた愛人兼慰め役として屋敷に君臨しており、戦争で気がおかしくなった下男で判事の従弟を手なずけてもいる。
アヌークのベローナロケにはメイドとしてついてゆくが、道中のバスから出演者らと仲良くなり、アヌークなど放っておいて勝手に盛り上がる。
演じるはマリアンヌ・オズワルドという女優。
これも怪演中の怪演。

上流階級の内幕をブラック風に描くところはルイス・ブニュエルの映画のようであり、ブラックをギャグ寸前にまで徹底した演出。

劇中でまともでさわやかなのはアヌークとレジアニ扮する若きカップルだけである。
二人はベローナのロミオたちの墓守(訪れるファンのレターを毎日燃やすのが日課)に祝福され、ジュリエット役のマルチーヌ・キャロルにその恋を応援される。

DVDセットの解説欄より

ロケの合間に川で泳ぐ二人。
スカートをまくって川に足を漬けるアヌーク。
レジアニが誘うと、後ろを見ていてと言って服を脱ぐ。
偶然通りかかった墓守が驚く。
服で体を隠し、墓守が去った後、裸で川に飛び込む。

当時のハリウッド映画では不可能なシーン。
新人のアヌークだったからできたシーンだろうし、映画の本気度とそれにこたえる10代のアヌークの意欲を感じる。

「火の接吻」よりアヌーク・エーメ

アヌークはまた、ジュリエットの衣装から透ける足、ネグリジェから透ける胸、悪徳ブローカーに襲われて服が破れる場面など、容赦ないカイヤット監督の演出に体を張って応えている。
女優として生きる覚悟が感じられる。
フランス映画の写実的というか、芸術至上的な傾向も。

相手役のセルジュ・レジアニは、のちの「肉体の冠」(1952年)などが印象的な若き演技派。
当時27歳。

なんといってもアヌーク・エーメの若さ、美しさはセンセーションであったろう。
その彼女のキャリアの出発点となった作品であった。

「火の接吻」のアヌーク

(おまけ)

監督のアンドレ・カイヤットは弁護士から映画監督に転身した変わり種。
代表作は「裁きは終りぬ」(1950年)、「洪水の前」(1954年)、「眼には眼を」(1957年)、「ラインの仮橋」(1960年)。
ヴェネツイア映画祭で2度のグランプリを受賞するなど国際的な評価が高い。

ところが最近名前を聞かなくなった。
2003年刊の集英社新書「フランス映画史の誘惑」にもその名前が掲載されていない。
「フランス映画の歴史と全体像を簡潔に読みやすく紹介すること」(同書P14)を目的とした同書に於いてさえ。1964年刊の岡田真吉著「フランス映画のあゆみ」には当然ながらその名が掲載されているが。

2003年刊「フランス映画史の誘惑」にカイヤットの名はない

特にフランス映画史については、いわゆる「カイエ・デユ・シネマ」派の論評が現在の主流というか、流行であり、彼らの好みが日本の研究者・評論家たちにも大いに影響している現状がある。

カイエ派がカイヤットの存在あるいは作風を嫌ったのかどうか。
俳優の演技力に立脚し、脚本の構成力ありきのカイヤット作品は確かにカイエ派の好みではないのだが、映画史から抹殺するにはもったいない力量を持っていることは確かなのではないか。

1964年刊の「フランス映画のあゆみ」にはカイヤットの名がある

「黄金の竜」 1949年 ロナルド・ニーム監督 イギリス

製作は「第三の男」のアレクサンダー・コルダ。
監督はのちにハリウッドで「ポセイドンアドベンチャー」を撮ったロナルド・ニーム。
ブリテッシュノワールと呼ばれる戦後のイギリス製犯罪映画の1作。

トレバー・ハワード扮する英国のエージェントが北アフリカのチェニジアで、発掘された遺跡をイギリスへ運ぶために現地へ向かう。

イギリスのエージェントという物々しさ、植民地?の遺跡を勝手に運び去るという帝国主義的ふるまい、にイギリスらしさが覗く。
チェニジアってフランスの植民地ではなかったか。

チェニジアでロケをしたという作品。
現地の市場の風景などには歴史的映像価値がある。

エージェントがたどり着く辺境のバー兼宿屋の若き女主人がアヌーク・エーメ、当時17歳。
初々しいが謎めいていて大人の落ち着きもある。
トレバー・ハワードは中年丸出しで、アヌークの相手役にはふさわしくないし、アクションシーンも似合わない。

プログラムピクチャーのパターンを踏襲。
訳の分からぬ現地人、堕落して悪に染まった白人に正義の主人公が立ち向かう。

アヌークの役は、心ならずも戦乱の本国(フランス)を離れた傷心のヒロインとして、のちの映画で言えば007のボンドガールのイメージか。
なるほど、若々しいセパレートの水着姿も見せる。
謎めいた雰囲気も消え、海で遊び、ヨットに乗って、エージェントにすっかりなつく若い女の子の姿。。
そんなアヌークもまたいいけど。

ブリテッシュノワールと呼ばれるジャンルが映画史上にあることを知りました。
のちのスパイもの、007とはどうつながっているのかな。