「STRANGERS in HOLLYWOOD」より ロバート・シオドマクの「モルナール船長」

ドイツ出身のユダヤ人監督で、アメリカ亡命後はB級サスペンス映画の巨匠といわれたロバート・シオドマクのフランス亡命時代の作品「モルナール船長」(1938年)を観た。

ストレンジャーズインハリウッド特集で見た15本(内シオドマク作品が10本)中の忘れられない作品だった。

パンフレットの作品紹介より、右がモルナール船長役のアリ・ボール

出演者は知らない俳優ばかり、設定はフランスの船乗りの話で、舞台は寄港先の上海と帰港後のフランスの港町。
主人公は初老を迎えようかという中年太りのおっさん。
「つかみ」はよくない。

前半に描かれる、戦前の上海の風景とフランス租界の暗黒街(飲み屋の女たちのやさぐれぶりや、植民地に巣食う小物ギャングたち)のエキゾチズムに目を引かれているうちに、だんだん映画の本筋にはまっていく。

肝臓が肥大しているような成人病体形のモルナール船長は、実は船長として卓抜した経験と技量を持ち、船員を見事に統率し、また己の信念に生きる男の中の男だった。
同時に自宅に残る妻との関係は冷え切り険悪で、船主の会社幹部からは腕利きながら要注意人物として嫌われ、また、寄港先では武器の密輸でポケットマネーを得ている人物でもあった。

密輸に手を染める人物だが、現地のギャングたちとわたりあい、もめごとは部下たちと力を合わせて実力で解決してゆく堂々たる男っぷり。
いざとなるとガンアクションも辞さない身のこなしは、体形にかかわらず粋にアクションをこなす中年フランス人俳優の真骨頂だ。
ジャン・ギャバンやイブ・モンタンを思い出す。

モルナールたちの上げ足を取ろうとする船主にも忖度一切なしで正面からの対決姿勢を貫き、結果、船長の任務から外される。
偽善に満ちた帰港地での歓迎行事は船員ともども完全に無視し、酒場へ直行する。
ここら辺は、シオドマク監督の社会派、正義派ぶりが表れていないか。

意地悪な妻にも妥協せず立ち向かうが、両親の喧嘩に心を痛めた娘が家を飛び出し海に身を投げると、すかさず後を追って飛び込み、ずぶ濡れの娘を海から救い上げる頼もしい父親でもある。
この娘は病に伏した父の最後の願いをかなえるため、それまで言いなりだった母に抵抗して、父が仲間のいる船で最期を迎える手助けをし、父親の愛情に応える。

余談だが、冷え切った関係の妻ということでは「容疑者」(1944年)での主人公チャールス・ロートンの妻役を思い出すし、健気な少女像ということでは「らせん階段」(1946年)のドロシー・マクガイアを思い出す。
どちらのキャラもシオドマクの好きなキャラなのかもしれない。

「ストレンジャーズインハリウッド」特集のパンフレットより

決して聖人君主ではなく、社会とうまくやれず、カミさんの操縦にも失敗しているが、己の生きる道にだけは精一杯取り組み、問題を解決してゆく実力を有し、何より全幅の信頼がおける仲間がいる。
そういった男の人生を、ギャグでごまかさず、反対意見を取り入れてボカさず、ストレートに描いている。

脚本はフランスの名脚本家、シャルル・スパーク。

人間性と正義感を肯定した正攻法のドラマが本来のシオドマクのスタイルなのだろうと感じる。
戦争がなければドイツで堂々たる人間ドラマを作ったことだろう。

「STRANGERS in HOLLYWOOD」の女神たち その2

ジュリー・ハリスと「結婚式のメンバー」

「エデンの東」(1955年)でジェームス・デイーンの兄の婚約者役を演じたジュリー・ハリスが12歳の少女役を熱演した「結婚式のメンバー」を観ました。
コロンビア配給、1952年のフレッド・ジンネマンの監督作品です。
ジンネマンとしては「真昼の決闘」(1952年)の後、「地上より永遠に」(1953年)の前の作品になります。

シネマヴェーラのパンフレットより

舞台は南部の片田舎の一家庭。
登場人物は主人公の少女(ハリス)と黒人のメイド(エセル・ウオーターズ)、少女のいとこの少年(「シェーン」のブランデン・デ・ワイルド少年)にほぼ限定された舞台劇のようなドラマです。

主人公の癇性な少女が、閉鎖的な土地柄と人間関係に強烈な違和感を抱きつつ暮らしている中で、いとこの結婚や自らの体の成熟を機会に、人格的な成長への足掛かりをつかんでゆくまでの物語。

「結婚式のメンバー」より、左からデ・ワイルド、ハリス、ウオータース

少女の抱える社会への違和感が一つのテーマでもありますが、それをほぼすべてセリフで表現しており、とにかく主人公が延々としゃべる、いらだつ、怒る。
演ずるのは当時27歳のジュリー・ハリス。
30歳で演じた「エデンの東」でのヒロイン役は違和感がなかったのですが、さすがに27歳での12歳の少女役はちょっと、と感じるのは草食民族のおじさんだからでしょうか。

「エデンの東」(1955年)のジュリー・ハリス

細い体つきは12歳でも通るのですが、マシンガンのごとく飛び出すセリフと切れ切れの演劇的アクション、はどう見ても達者な20代の俳優のそれ。
見どころは主人公の少女ぶりではなくて、セリフで説明されるところの若い人格の苛立ちと成長なのでしょうが、草食民族のおじさんとしては、理性に直撃する言語の連打だけではなく、映画ならではの12歳の少女の体温や柔らかさの表現も望んでしまいます。

とにもかくにも演技者としてのジュリー・ハリスをとことん堪能できる作品。
少女の苛立ちと成長を包み込むかのような黒人メイド役のエセル・ウオーターズの存在感が圧倒的で、それには、ハリスの演技力もかなわない、と思いました。

デ・ワイルド少年のとぼけたかのようなたたずまいも忘れられません。

パトリシア・ニールと「ステキなパパの作り方」

パトリシア・ニールは「摩天楼」(1949年 キング・ヴィダー監督)で共演した妻子あるゲーリー・クーパーと恋に落ち、同棲し、子まで宿したことのある女優さんで、この作品の撮影当時(1951年)もロケ先などにクーパーがしばしばやってきたといいます。

シネマヴェーラのパンフレットより

ブロードウエイの舞台俳優出身のニールはインテリでもあり、演技力もある。
若い時ばかりではなく、中年になってからも細やかな心情を演ずることができそうなタイプだ。

彼女の自伝がある。
「ゲーリー・クーパーこそが私が情熱をもって愛したただ一人の男性だった」という記述で結ばれる同書の中で、この「ステキなパパの作り方」については、「どうということのない映画だったが、ヴァン・ヘフリンと仕事をするのは楽しかった」(同書179ページ)とだけある。
たった2行の記述だ。
そのころ彼女の頭の中はクーパーのことでいっぱいだったのだろうか。

パトリシア・ニール自伝「真実」の表紙

戦後中産階級全盛の時代のテレビドラマよろしく、にぎやかでユーモアにあふれたホームドラマのこの作品では、若いシングルマザー役のニールと、シングルファザー役のヘフリンが、その子供たちによってお約束通りに、出会い、てんてこ舞いし、結ばれる。

展開もスピーデイーで、ギャグもふんだんにちりばめられ、適度に風刺も効いた(子供が預けられたキャンプ場のリーダー像は、金髪碧眼の健康オタクで、これはまさにナチス時代の自然主義への皮肉)小品は、亡命後にユニバーサルでエース級の監督に上り詰めていたダグラス・サークによるもの。

ニール扮するママの長男の名前が何と「ゲーリー」。
作り手のウイット(皮肉)なのか、ハリウッドの露悪趣味なのか。
主演女優の不倫真っ最中の相手の名前を劇中の長男の役名に持ってくるとは!

ニールはたくましい母の役柄に徹し、劇中で何度も「ゲーリー」!と息子に叫んでおりました。
そのたびに当時の観客は微苦笑を禁じえなかったことでしょう。
あるいは爆笑したのか?

70年後の観客は、その際の女優パトリシア・ニールの胸中を、ひたすらおもんばかるばかりでしたが。

「摩天楼」の一場面。パトリシアとゲーリー

ドロシー・マクガイアと「らせん階段」

ハンデキャップのある美女が悪漢に追いつめられるパターンを確立したサスペンスの古典。
ロバート・シオドマク監督の職人芸がスリルを盛り上げる「らせん階段」(1946年 RKO配給)。
主演は清純派のドロシー・マクガイアです。

シネマヴェーラのパンフレットより

サイレント映画が上映され、馬車が動いている時代のアメリカが舞台。
屋敷のメイドを務める主人公の周りには、彼女に接近する独身の医者、屋敷に出戻った主とは種違いの兄弟、頑固な下男夫婦など怪しげな人々が立ち現われます。
幼少時のショックで声を出せない主人公に迫る恐怖。
どうやら真実の味方は寝たきりの老女主人(主の母親)ただ一人。

ゴシック調のサスペンス演出をベースに、影と鏡を使った撮影でスリルを強調するドイツ出身の監督シオドマク。
最後にわかる意外な犯人。

気丈にふるまう主人公とハピーエンドは、この作品が単によくできたサスペンスとしてだけではなく、一人の人間の成長への賛歌となっていることがわかります。
最後に言葉を発し、自らの力で窮地を脱し、自立へと成長する女性の姿を描くことがこの作品の一方のテーマとなっています。

行動的で健気なヒロイン像は、他のシオドマク作品にもみられます。
「罠」(1939年)のマリー・デア、「幻の女」(1944年)のエラ・レインズなどです。
広く定義すれば「モルナール船長」(1938年)での船長の娘役の最後のふるまいとも共通します。

「らせん階段」のドロシー・マクガイアはサスペンス映画のヒロイン像として出色のキャラクターを確立していました。

「STRANGERS in HOLLYWOOD」の女神たち その1

渋谷シネマヴェーラで1か月にわたる上映を終えた「ストレンジャーズインハリウッド」特集。
全34本の上映作品中15本に駆け付けた山小舎おじさん。
その中から忘れえぬ女神たちをご紹介したい。

1930年ベルリンの自由な女性たち

「日曜日の人々」という作品を観た。
1930年のドイツ映画。
サイレントである。.

監督がロバート・シオドマクとエドガー・G・ウルマー、脚本がビリー・ワイルダー、ノンクレジットでフレッド・ジンネマンが協力、と戦前に活動を始めたユダヤ系映画人が故国ドイツで集合した作品。

冒頭、俯瞰するカメラはベルリンの街角:路面電車や通勤者が活発に行き来する活気ある風景、を映し出す。
主演を務める二人の断髪した若々しくもコケティッシュなベルリン娘たち。
一般市民を配役したという。

シネマヴェーラのパンフレットより

若者たちが、日曜日にデートする風景を追うストーリー。
デートの場所はベルリン郊外の湖。
ビールとソーセージと蓄音機を持参し、水着のすそのほつれを針で繕って、うきうきと水浴びする娘たち。

ナチス台頭以前の自由でのんびりした時代の雰囲気が漂う。
素人女優らの自然な振る舞いがいい。
90年前のベルリンと若者のふるまいが、懐古趣味とも、資料的価値とも違う興味と魅力を今に伝える。

ワイルダー脚本なので素直なハッピーエンドなどありようもなく、男女関係の影をイジワルで残酷に匂わせつつストーリーは展開するが、画面に支配的なのは若く、自由で、晴れ晴れとした雰囲気だ。

観終わって晴れ晴れとする作品。
シオドマクにもジンネマンにも、その心の中に暗闇はまだ到来してなかったのだろう。

ウーファの歌姫ツアラー・レアンダー

戦前のベルリンにはヨーロッパ一の設備を誇る映画撮影所があった。
ウーファと呼ばれ、ローマのチネチッタ撮影所と並び称された。

ウーファ売り出しのスター女優が、スエーデン出身のツアラー・レアンダーだった。

「南の誘惑」(1937年 ダグラス・サーク監督)に出ていた。
なるほど美人で歌も歌う。
平和な時代が続いていればドイツ映画の大女優として歴史に名を残していたかもしれない(すでに一部の「シネフィル」たちの間では伝説となっているが)。

シネマヴェーラ作品紹介パンフより

「南の誘惑」では、戦前のプエルトリコを舞台に繰り広げられる大メロドラマのヒロインを堂々と務めているレアンダー。
印象的だったのは子役といるとサマになっていること(母性的なのだろう?)と、北欧系のがっしりした体つき。

ツアラー・レアンダー

同じく北欧系の、グレタ・ガルボは背も高くなく、体も薄いが、肩が張り出したがっしり系だった。
イングリッド・バークマンは厚みも肩も、背丈もあるがっしり系。
父親がスエーデン系というグロリア・スワンソンも背は低いが肩だけはしっかりしていた。
皆さん体つきが似ていて、安心感があり、おじさん的には好ましい。

ツアラー・レアンダー

ともかく幻の大女優・レアンダーの作品を観られたのは収穫だった。

フランス亡命時代のマリー・デア

ユダヤ系のロバート・シオドマク監督がドイツで何本か映画を撮った後、ナチス政権下にフランスへ亡命している。
このフランス亡命時代に撮った作品に「罠」(1939年)がある。

主演のモーリス・シュバリエが調子よくしゃべり、歌う、この作品のヒロインがマリー・デアという女優。

まったく当時のシュバリエって、日本映画でいえば戦前のディック・ミネ(「鴛鴦歌合戦」(1939年 マキノ雅弘監督)でのニヤけた若殿様役)をさえ連想しかねない調子よさと、お気楽ぶりの(ミネよりははるかに芸はあるが)、いかにも憎めないキャラクター。
フランスの芸達者なおじさん・シュバリエを相手にして渡り合うのがマリー・デアだった。

役柄は、ひょんなことから警察の囮捜査に協力することになる若い踊り子。

「鴛鴦歌合戦」。左が役不足ながらお気楽若殿役のデイック・ミネ。右の顔半分、志村喬

マリーさんが囮となって、危機一髪の脱出劇を繰り広げる。
逃れる魔の手には、まだ精悍さの残るエリッヒ・フォン・シュトロハイム演じる変態紳士などなどが怪演で応える!?

フランスの女優らしく、ウイットに富んで、男あしらいもでき、愛嬌もあり、活発に動ける。
マリー・デアという女優が実に魅力的だった。

シネマヴェーラのパンフレットより。左マリー・デア、右シュバリエ

この、おきゃんでしっかり者で活発なキャラクターは、色を変えつつ「幻の女」(1944年)のエラ・レインズや「らせん階段」(1946年)のドロシー・マクガイアに引き継がれており、シオドマクの好むキャラクターなのだとわかる。

エラ・レインズ3部作「幻の女」「容疑者」「ハリーおじさんの悪夢」

山小舎おじさんが勝手に名付けたものだが、エラ・レインズ3部作。
いずれもハリウッドに移ってからのロバート・シオドマクの作品で、「幻の女」(1944年)がヒットしたからか、ヒロインのエラ・レインズが3作続けて出演している。

「幻の女」はウイリアム・アイリッシュ原作のサスペンスで、シオドマクのサスペンスを盛り上げる演出が冴えた。

写真左がエラ・レインズ

エラ・レインズが扮するのは上司の冤罪を晴らすため駆け回る活発な女性秘書役。
最初は特徴のない美人秘書、しかしてその正体は、冤罪の証拠を得るためなら例え商売女に扮してでも、窮地に飛び込む熱血女史!。
熱血女史が飛び込む先、証人のバンドマンたちがまくしたてるフリーセッションシーンの不気味な熱気と猥雑な雰囲気。
エラ女史は、バンドマンのキスに〈汚らわしい〉といわんばかりに口を拭いながら、冤罪の証拠収集のために立ちまわる。

サイコな殺人鬼をめぐるサスペンスの盛り上げとそのB級ムードに、エラ・レインズがよく似合う。
まさしくB級の女王としてその魅力を発散しはじめるエラ・レインズだった。

続いての「容疑者」(1944年)は、一見サスペンス風を装った人間劇で、チャールズ・ロートンを主人公にし、英国を舞台にした作品。
ほぼロートンの一人芝居でストーリーをつなぐ中、エラ・レインズは既婚者・ロートンと心を通わせる独身女性を演じる。

写真はエラ・レインズとチャールズ・ロートン

彼女のB級な冷たい美人顔からすると、この後、主人公を平気で裏切るキャラクター〈いわゆるファムファタル〉か?、と思いきや最後まで清純なまま。
この作品はロートンを通して人間を描くのがテーマで、彼女扮する女性は単に象徴として使われただけだった。
エラ・レインズはこの作品では清純な女性を輝くような笑顔で演じていた。
そこが物足りなくもあった。

シオドマクが彼女を気に入ったのか、会社の指示なのか、1945年の「ハリーおじさんの悪夢」の重要な役でエラ・レインズは三度、シオドマク作品に登場する。

スクリーンにも慣れたのか、「幻の女」の時のようにおどおど、せかせかしてはいなく、「容疑者」のようにひたすら微笑むだけでもなく、ニューヨークのバリバリのビジネスウーマン役として、余裕とこぼれんばかりの色気を携えてこの作品に登場するエラ・レインズ。

エラ・レインズとジョージ・サンダース

この作品は恐慌後のアメリカ郡部の没落地主一家の心理劇で、サイコパスっぽい独身の妹と、その彼女が兄に向ける近親的な愛憎をサイドストーリーに、兄主導の犯罪サスペンスが皮肉に展開する、といったもので、難しい妹の役はジェラルディン・フィッツジェラルドという、うまい女優が演じている。
エラ・レインズは旧態依然とした家庭に外の風を吹き込む、挑発的な都会女の役。

エラ・レインズ。
十分に美人な女優さんだが、B級的なシチュエーションにおいてこそ輝く女優ではある。
演技力があるわけでもないので、「ハリーおじさん」の妹役のようなサイコな役柄も向かず、かといってシチュエーションの周りでうろうろする狂言回しの役は「幻の女」でやったとすれば、サスペンス物の被害者役に落ち着くのが流れだったのかもしれない。
シオドマクの3作品においてはまだ、前途に希望を抱かせる配役だったが。

1940年代のシオドマク作品でキラッと輝いた女優である。

エラ・レインズは1920年アメリカ生まれ。
「幻の女」の前年の1943年ころから映画出演が始まり、1944年には年間数作品に出演(同年の「拳銃の町」ではジョン・ウエインと共演)していた。
40年代後半には問題作「真昼の暴動」(1947年 ジュールス・ダッシン監督)に出演。
50年代初頭には出演作もなくなっていたようです。

STRANGERS in HOLLYWOOD Ⅰ

名画座・渋谷シネマヴェーラで,2021年12月から、年をまたいで1か月以上にわたる特集上映があった。
その名も「ストレンジャーズ・イン・ハリウッド」。
戦前にドイツを逃れてハリウッドに渡った映画監督3人の、1930年代から50年代初頭にかけての作品の特集だ。

3人の監督は、ダグラス・サーク、ロバート・シオドマク、フレッド・ジンネマン。
いずれ劣らぬ映画史上の名監督にして、ユダヤ系の(サークは夫人がユダヤ人、ほかの二人は本人がユダヤ人)、いわばハリウッドにとってのストレンジャーズ。

日本のファンには「真昼の決闘」(1952年)「地上より永遠に」(1953年)で名をはせ、後年「ジャッカルの日」(1973年)「ジュリア」(1977年)など、大監督然としたジンネマンが有名だ。

コアなファンには、声が出ない少女が殺人鬼に追いつめられるサスペンスの古典「らせん階段」(1946年)とともに監督・シオドマクの名が記憶されるかもしれない。

映画ファンを卒業した「シネフィル」と呼ばれる意識の高い方々には、評論家・蓮見重彦氏あたりがもっぱら取り上げ始めた一人:ダグラス・サーク、がここ最近の気になる映画監督(映画作家と呼べばいいのか)なのかもしれない。

上映館のポスター掲示場より(右上がシネマヴェーラ現在上映分)

全34本の上映。
そのほぼ全作品は、シネマヴェーラ自体がデジタル素材を買い取って自前で字幕を付けて上映するという、営業努力によるもの。

サーク:12本、シオドマク:14本、ジンネマン:7本、ほかにエドガー・G・ウルマーの1本を加えてのラインナップ。
うち6本が、戦前戦中に故国ドイツもしくは第一次亡命先のフランスで撮られたものであるという貴重さ。

特集プログラムより

この特集に9回ほど日参し、15本を観た山小舎おじさん。
日々見上げたスクリーンには、70年から90年前の人々の顔だったり、美貌の女優だったり、今なお受け継がれる撮影技法だったりが文字通り横溢しておりました。

1930年当時のベルリンの風景、鏡と影を駆使してサスペンスを盛り上げる技法、レスリー・レアンダー、エラ・レインズ、イボンヌ・デ・カーロ、エヴァ・ガードナーら女優陣の輝き・・・まさしく「映画的世界」の興奮と喜びの連続でした。

特集プログラムの3人の監督紹介文より

個別の作品、女優さん、時代背景などについては次回ブログからおいおい書いてゆこうと思います。

特集プログラムの作品紹介より

その前に付記しておきたいのが、ストレンジャー(外国人:多くはユダヤ人)とハリウッドの切っても切れない関係。
というか、ハリウッドがユダヤ系の巣窟だった(今でもか)という事実。

ここに「カサブランカはなぜ名画なのか・1940年代ハリウッド全盛期の名画案内」という2010年発行の本があります。

奥付きより

戦争を挟んだ1940年代を中心にアメリカ映画を俯瞰的に見るこの本。
その時代のアメリカ映画こそ、〈政治と芸術と商売が絶妙なバランスで一体化した稀有な時代〉で、そういった作品が生まれた背景にはユダヤ系映画人がいたから、という一貫したテーマで書かれています。

ユダヤ系映画人が、政治性(反ナチ)を隠されたテーマとし、商業的にも成功させたこの時代の象徴的な作品が「カサブランカ」でした。
非ユダヤ人(ボガート、バーグマン)を表に立て、ユダヤ系のスタッフ、キャストが脇を固め、巧妙に織り交ぜられた反ナチのアピールは、見事に「ヤンキーをして、ヨーロッパの反ナチとワスプを救わなければならぬという気持ちにさせた」と同書にはあります。

目次より

ハリウッドのユダヤ人には、戦前から有名な監督だけでも、エルンスト・ルビッチ、ウイリアム・ワイラー、ジョージ・キューカー、ルイス・マイルストンなどがいます。
その後亡命してきたり、デビューしはじめたユダヤ人監督には、有名どころだけでもマックス・オフュルス、オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダー、ジュールス・ダッシン、エリア・カザン、マーク・ロブスン(シオドマク、ジンネマンももちろん)などがいます。

彼らこそが通り一遍にスタジオのいう通りだけを聞いて、娯楽映画やミュージカルを撮るだけではなく、時には政治的な主題を、斬新な手法で描いてきた映画監督たちだったのです。

往々にしてその作品は、戦争という非常な時代背景をバックに浮かび上がるユダヤ人としての民族的思想に彩られていたのかもしれませんが、同時に優れた商業映画でもあったのです。

後にいわれるフィルムノワールと呼ばれるB級サスペンス群は、屈折した彼らの心情が反映したているからこそ魅力的なジャンルとなったようです。

監督たちのほかに、有力な製作者や俳優の中にもたくさんのユダヤ系がいてお互いに協力し合ってもいました。

一方、当時のハリウッドのスタジオにはタイクーンと呼ばれるオーナーたちが君臨しており、その誰もが東欧、ロシアからのユダヤ人移民か、その子孫でした。
移住後は都市部のゲットーから身をおこし、劇場経営で財を成して始めたのが映画製作と配給、興業でした。
ハリウッドを形作った人たちです。

彼ら:アドルフ・ズーカー(パラマウント)、サミュエル・ゴールドウイン(ユナイト)、ルイス・B・メイヤー(MGM)ら、はおおむね共和党支持で反共でしたが、決して反ナチではなく、むしろムッソリーニに心酔したハリー・コーン(コロンビア)のような人物もおり、政治的にも教養的にも製作現場のユダヤ人たちとは決して一枚岩ではなかったようです。

製作現場の「進歩的」なユダヤ人たちはのちの「赤狩り」により、共産主義とともにパージされてゆくことになります。
そういった歴史を見る限り、反ナチも政治的な主題も、決してアメリカ総体の意志ではないことがわかります。
むしろハリウッドのストレンジャー達が掲げた政治性が、象徴として「アメリカ総体」からつぶされていったことのようです。

シネマヴェーラのストレンジャーズインハリウッド特集で上映された作品は、その全部がバリバリの反ナチ映画でも、サスペンスでも、フィルムノワールでもありませんでした。
戦前の自由な空気が流れていたり、サスペンス風の味付けながら人間性の高貴さを謳うものも多く、何より当時の有名スターが出演しているバリバリのハリウッド映画でありました。

故国を追われた映画人がハリウッドにたどり着き、独立プロで映画を創り始め、スタジオと契約し、発表していった70年以上前の作品の数々。

メジャー配給会社のトレードマーク:雪山をバックにしたパラマウント、地球儀を取り巻くユニバーサル、ライオンが吠えるMGM、電波塔が発信するRKO・・・で始まる1940年代の夢の世界が連日スクリーンにデジタルで再現されました。

メジャーの配給により歴史に残ることになったこれらの作品。
その一つ一つについては後程。

パラマウントのロゴマーク
RKOのそれ

1956年の映画「火の鳥」

名画座・渋谷シネマヴェーラの特集で「火の鳥」という1956年の日活映画を観たが、よかったので感想を書きます。

同作品は「あなたは猪俣勝人を知っているか」という脚本家・猪俣勝人の特集の一本として上映されました。
この特集の目玉は猪俣自身が監督をやっている「殺されたスチュワーデス 白か黒か」(1959年)という作品です。

この作品は、同年発生したBOAC(英国航空)の日本人スチュワーデス殺人事件(重要参考人として警察に事情聴取中だった、カソリック修道院のベルギー人修道士が事情聴取期間中に突然帰国して迷宮入りとなった)を題材としており、16ミリで残っていたフィルムをデジタル修復したものとのこと。

題材ゆえに大映配給による封切り期間も短く、また名画座上映時にも短縮版がかけられていたとのこと。
今回の完全版の上映は貴重な機会だったようです。
作品は当時若々しかった田宮二郎が扮する事件を追う新聞記者の熱気が画面を支えていました。

今回の特集のパンフレット表紙
シネマヴェーラの特集パンフレットより
劇場ホールに展示されたポスター

さて、当日ついでにもう一本、と観たのが「火の鳥」。
伊藤整の原作で、劇団の主役として、座長の愛人として、映画スターとして輝く主人公の、過去現在の遍歴と未来への希望を描いた作品です。
映画史に残るような作品でもなく、監督井上梅次、主演月丘夢路の代表作でもなく。
若干話題性のあるプログラムピクチャアという扱いの作品です。

「火の鳥」のプレスシートがシネマヴェーラのホールに展示されていた

これが拾い物というか、映画的興奮に満ちているというか。

主演の月丘夢路の美しさに見とれました。

1922年生まれの月丘夢路は当時34歳の女ざかり。
宝塚トップスターだった美貌と勢いに加えて落ち着きも出てきて、彼女が映ると画面が華やかになります。

魅力的な女優さんの全盛期を追体験できたことに映画ファンとして感動せざるを得ない。
とにかくきれいで、アップが映えて、目力があって・・・。

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登場のファーストカットからただならぬ目力に圧倒された女優さんに「暁の脱走」(1950年 谷口千吉監督)の山口淑子がいました。
日中戦争時の日本軍の前線に同行する歌手(原作では慰安婦)の役。
山口淑子のファーストカットが忘れられません。

日中戦争のはざまを潜り抜け、茫漠たる大地の彼方と己が運命を見据えたかのようなその視線と決然としたその立ち姿。
その大きな目玉は、まるで諸星大二郎の漫画の主人公のまなざしを実写化したかのように、見るものをして一瞬のうちに、中国大陸の砂塵と歴史へと誘うかのようでした。

この日のおじさん。
山口淑子ならぬ「火の鳥」の月丘夢路のまなざしによって、宝塚の少女歌劇か、はたまた東洋のハリウッド・日活撮影所の夢舞台へか、魂がさ迷わんばかりでした。

月丘夢路。スタイルの良さが際立つ

こうなれば単純な映画ファンの心など一丁上がり!
手慣れた撮影所の職人技に身も心もゆだねるしかありません。

テンポよく場面が展開、俳優の演技にも無理無駄がありません。

月丘夢路の相手役には、映画初出演の仲代達矢をはじめ三橋達也、大坂志郎、女優陣では山岡久乃、中原早苗の布陣。
それぞれ、芸達者だったり、力が抜けて絶妙だったり、ベテランだったり、若さがはじけていたり。
役柄はステレオタイプなのですが、徹底した「定番」の魅力がありました。

また、月丘夢路の屋敷だったり、劇団の事務所、打ち上げの飲み屋、劇場裏などのセットが「定番」通りとはいえちゃんと作られているし、様になってもいました。
1950年代の映画撮影所の力量です。

シネマヴェーラのパンフレットより

劇中の映画撮影シーンでは、当時の真新しい日活撮影所の屋外の景色やセット撮影の様子が映し出されるのも心躍ります。
北原三枝、芦川いずみ、長門裕之らが実名で現れる場面では、浅丘ルリ子や岡田真澄の顔も見えます。
ラストシーンで劇中劇の階段を主役として堂々と下りる主人公がダンスの相手をするのは三国連太郎ではないか!

井上梅次監督のこういった演出は映画ファンの心を揺さぶるツボを心得ていて、ニクいばかり。
当時の日活撮影所自体の若さ、夢、希望を掬い取ってもいる。

映画デビューの仲代達矢は、「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」という新書で、「撮影初日から茅ケ崎の海岸でラブシーンでしたがやっぱり震えるんですよ。すると月丘さんに、なに男のくせにってお尻を叩かれました」(同書33ページ)と回想しています。
当時俳優座3年目の仲代の抜擢を羨んだ俳優は大勢いたことでしょう。

デジタル版の上映で鮮やかによみがえった1956年の日本映画の豊かさに満足して劇場を後にしました。

ビリー・ワイルダーと映画「異国の出来事」

渋谷シネマヴェーラの「神話的女優」特集で、ワイルダーの日本未公開作「異国の出来事」を観ることができた。1948年の作品で、マレーネ・デートリッヒとジーン・アーサーの競演。
終戦後のベルリンにロケして、瓦礫の山となった当時の風景を写し取っている。

ワイルダーの監督作品としては7本目。
「深夜の告白」「失われた週末」の後、「サンセット大通り」以前の作品である。

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ系で、戦前のベルリンでダンサー兼ジゴロまでしたワイルダーが、アメリカに亡命したのは1934年。
ドイツ時代に脚本家としてデビューしていたワイルダーは渡米後、ハリウッドに脚本を売り込み、チャールズ・ブランケットと共同で「ニノチカ」(1939年 エルンスト・ルビッチ監督)などの脚本作品を発表。
1942年の「少佐と少女」で本格的監督デビューしている。

シネマヴェーラ「神話的女優特集」

1948年「異国の出来事」発表当時のワイルダー周辺の状況は、「失われた週末」がアカデミー作品賞を受賞しており、ハリウッド主流の監督として売り出し中であったこと。
また何より重要なのは、亡命を余儀なくされたとはいえ、故国ドイツ(旧オーストリア=ハンガリー帝国を含む)が戦争に敗れ、若き日を過ごしたベルリンが瓦礫と化したことであったはずだ。

自身は戦勝国の売り出し中の映画監督として安全な地位にはあるものの、自らのアイデンティティをなす場所や価値観の崩壊する時代を迎えたときに、たとえそれが反語的な意味であっても、個人的な感情、感慨は抑えきれないものがあるだろう。

シネマヴェーラのチラシより

ということで、何よりワイルダー自身の興味と郷愁と慚愧の念(ワイルダーがアメリカ亡命後、一度ウイーンに戻って母親をアメリカに連れてゆこうとするが母は断りその後行方不明となっている)を乗せて、アメリカの輸送機が戦後のベルリンに降り立ってゆくファーストシンから映画が始まる。

輸送機の乗っているのは、占領軍の軍紀を調査に来たアメリカ議員団。
唯一の女性議員がアイオワ州選出のジーン・アーサー。

山小舎おじさん的には「シェーン」(1953年)のお母さん役で忘れられない女優だが、全盛期は1930年代。
「異国の出来事」の時はすでに40歳台だが、いかにも親しみやすい顔つきと、ひっつめのヘアースタイルと動きやすいスーツに身を固めた、快活で単純なアメリカ女性像の典型を演じて全く違和感がない。

「平原児」(1936年)のジーン・アーサー
「シェーン」(1953年)のジーン・アーサー

ジーン・アーサーが単純明快なアメリカ民主主義の象徴を演じるならば、待ち受けるアメリカ進駐軍の大尉を演じるのがジョン・ランドというヤニさがった男優。

クラーク・ゲーブルを思わせるちょび髭と女性に関してはマメすぎる態度。
戦闘行為以外にはやる気たっぷりで、占領先ではいかにして現地女性を誑し込むかを最優先に考える典型的アメリカ軍人の役で、キャバレーの歌姫で過去にナチス高官との関係が疑われるドイツ女性(デートリッヒが演じる)を瓦礫の一室に囲って毎夜通ってもいる。
彼は議員団の案内役を務める。

堅物の女性議員が、アメリカ兵と元ナチスの愛人との関係をかぎつけ、その相手がジョン・ランド扮する大尉とは気づかないまま、大尉本人とともに調査を行うことから巻き起こるドタバタ劇。

デートリッヒとアーサーの邂逅は、瓦礫の中のキャバレーで行われる。
堂々とした登場ぶり、歌とふるまいで場をさらうデートリッヒのステージシーンが映画全体で2回見られる。
デートリッヒがアーサーに面と向かい、その田舎臭い(アメリカ臭い)髪型とファッションを独特の表現で揶揄するときの貫禄。

単純明快なジーン・アーサーは、ドイツ女性との関係を隠そうとして色仕掛けを仕掛ける大尉の手練手管にころりと参り、キャバレーで泥酔してアイオワ州の歌を歌う。
瓦礫のベルリンでは全く場違いなアメリカの田舎の歌にシラケる米軍ロシア軍混合の酔客たち。
さすがに困惑するアーサー。
挙句は酔客の兵隊たちに胴上げされたアーサーは、そのまま天井の梁にぶら下がってバタバタする。

ある意味「米国の良心」を具現したかのような女優にこういった演出を行う、ワイルダーの底意地の悪さが全開する場面だ。

映画は、女性議員とスケベ大尉の占領地の恋を感傷的に扱ったフィナーレを迎える。
ナチス協力者でアメリカ兵ともうまくやっていたデートリッヒもナチ協力者として捕まって終わる。
当時のアメリカ映画の価値観に沿った結論となる。

では、「異国の出来事」が単によくできたコメデイか?というとそれだけではない。
全体を通してのトーンは暗さ、である。
背景が瓦礫のベルリンとそこに暮らす困窮した人々、ということもある、が、ワイルダーが描くベルリンは、ネオレアリスモの監督たち(ロベルト・ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカなど)が描くローマとは全く異なり、敗戦国の悲哀を全世界に訴えるといった視点は全くない。
闇市でごった返すドイツ国民に対するワイルダーの視線は冷ややかで諧謔的でさえある。

作品にあるのは、アメリカ軍のいい加減なスケベぶりであり、アメリカ民主主義の単純明快な押し付けぶりであり、デートリッヒの役柄に託された、敗れたとはいえ毅然と生きるドイツ人の矜持であった。

マレーネ・デートリッヒ

ベトナム戦争の後では、「マッシュ」(1970年 ロバート・アルトマン監督)や「キャッチ22」(1970年 マイク・ニコルズ監督)などで徹底的におちょくられまくることになったアメリカの軍隊を、「正義」の第二次世界大戦直後の1948年の時点で、コメディーの体裁をとってのこととはいえ、相当程度にここまで風刺を効かせて描いた作品があったろうか?

定型的アメリカ女性の髪形やファッションを、敵役のセリフに託してとはいえここまではっきりと揶揄したことはあったのか?

反面、デートリッヒのベルリンのキャバレーでのステージを演出するときのリスペクトぶりはどうだ?
まるで、敗れたりとはいえ故国に殉じて戦った同志を誇らしくも労わるかのような視線に満ち満ちているではないか。

そこにあったのは、自分自身の問題として、ワイルダーが素通りできなかった祖国への複雑な思いだ。

「異国の出来事」はワイルダーにとっては、「この作品を撮らなければ前に進めない」ものだったのだ。

その個人的なテーマ性から、ヒットもせず、日本に輸入もされなかったのかもしれないが。

長野相生座と「カトマンズの男」

権堂通商店街

長野市の中心部、善光寺表参道と交差して一筋のアーケード街がある。
権堂通商店街といい、その昔は善行寺参りの精進落としの場として、遊女を置くような店があった場所らしい。

今では洋品、雑貨、食堂などが並ぶ商店街で、1本裏にはいると風情を感じるバー、料亭なども見える。
中心部からそれるにつれ、アーケードの覆いがなくなり、居酒屋などが並ぶ飲み屋街へと姿を変える。

ここ権堂通商店街の一角に相生座がある。

当日朝の権堂通り商店街

相生座

明治25年に芝居小屋として開設し、国内最古級の歴史を誇る相生座。

県内には、上田映劇、伊那旭座、塩尻東座、茅野新星劇場などのが歴史を誇る映画館が現存する。
映画館らしい外観はもちろん、大スクリーンを擁し天井が高く2階席がある場内、現役のフィルム映写機もあったりする。

その中で、歴史、上映作品の質量で県内トップの映画館が相生座である。
長野市は遠いのだが、山小舎おじさんも相生座の、小津4K特集やルイス・ブニュエル特集には駆け付けた。

相生座前景。3スクリーンを持つ

支配人は女性で、時には入場者にほうじ茶をふるまうなどアットホームに対応してくれ、山小舎おじさんとの雑談にもよく応じてくれる。
支配人の心配りはホールの展示や、枕の貸し出しなどにもうかがえる。
何より上映作品のセレクトに映画への愛と営業への熱意がにじみ出ている。

商店街から映画館へのアプローチに掲示されるポスター

上映作品はいわゆるミニシアター系の新作が中心だが、時には地元テレビ局製作のドキュメンタリーを上映したり、関係者の舞台挨拶もよく行われる。

何よりオールドファンにうれしいのは、過去の名作特集。
最近では、小津、ブニュエルのほか、デジタル版の「天井桟敷の人々」が特別料金で上映されたりした。
こういった点にも、県内最高レベルの映画館の自負がうかがえる。

映画館前のポスターには独特のワクワク感がある

ベルモンド傑作選「カトマンズの男」

相生座でこの秋に上映されたのがベルモンド傑作選。
ジャン=ポール・ベルモンドの主要作品をデジタルで上映するもの。
この日は名コンビ、フィリップ・ド・ブロカ監督の1965年作品「カトマンズの男」。

10時の上映時間に合わせて、7時に山小舎を出発したおじさん。
交通量の多い朝方の道をかき分け、9時半過ぎに相生座に到着しました。

入場者受付で忙しそうな支配人の暇を見て雑談。
作品の輸入元のキングレコードの英断で実現した企画だが、版権先との交渉が大変で値段も高かった。
ベルモンドはフランスでは国宝級の人物ですからね。とのこと。

日本ではヌーベルバーグの主演者の一人として映画史に残っていますが、娯楽アクションスターの位置づけだったベルモンドは単独では回顧上映は組みづらかったことでしょう。
ベルモンド88歳での逝去をきっかけにしたとはいえ、企画してくれたキングレコードと、上映してくれた相生座には感謝です。

当日10人ほど駆け付けた観客。
年代的にも中高年。
リアルタイムではベルモンドもすっかり落ち着いていたころの世代となります(山小舎おじさん的には「ラ・スクムーン」(1972年 ジョゼ・ジョバンニ監督)、「薔薇のスタビスキー」(1974年 アラン・レネ監督)がリアルタイムのベルモンド)。
リオやカトマンズを駆け回る「男」シリーズはテレビ洋画劇場で見るイメージでしたね。

で、この「カトマンズの男」。
邦題ではカトマンズとは銘打ちながらも、ほとんどが香港を舞台とするアジア冒険活劇物で、カトマンズは王宮やボダナートと思われる巨大仏舎利でロケされており、インドから到着する空港は、マチャプチャレがバックに見えるポカラ空港である。

ロビーにはアメリカ公開時のポスターも展示

が、そんなことはどうでもいいほど画面に活力と魅力を漲らせるのが若いベルモンドのアクション。
スタントマンを使わないといわれるだけあって、ほとんど全部のシーンに体を張って、香港ではクレーンに追り上げられ、竹で組んだ足場を走り回り、市場の野菜や卵に飛び込む。

上映開始を待つ場内

ヒマラヤでは、気球から吊り下げられたロープをよじ登り、山脈の崖をよじ登り、雪山を転げ落ちる。

南国ランカウイ島では、ヒロイン(ウルスラ・アンドレス当時29歳)とのつかの間のロマンスに興じ、像に乗って悪漢を撃退したりする。

とにかくサービス精神旺盛で、アクション満載。
観たままを楽しめばいい造りながら思ったよりはるかに大作。
全編に近い場面がアジアの現地ロケであるところもいい。
ド・ブロカとベルモンドの若さと明るさを感じる。

相手役のアンドレスが、世界を放浪しながら社会学をフィールドワークしているという女子大生役で、かわいらしく演出されているのも貴重。

大富豪の2世として何不自由なく暮らしているものの、いったん命の危機に瀕すると途端に生き生きと冒険に邁進するというヒーローを演じるベルモンド。
彼が当時、フランス映画界においていかに大事に育てられているか!がわかる。

育ちよく、影のない、若いヒーローの冒険。
これこそがフランス映画の希望と未来だった!
「カトマンズの男」はそういった時代の快作だった。

これは「リオの男」も観ざるを得まい。

相生座の歴史の展示
近日上映のレトロスぺクテイブは、ジャン・コクトーとジム・ジャーウイッシュ

山本富士子と「夜の河」

神保町シアターの特集「恋する映画」でこの作品が上映された。
観たかった1本だった。

1956年の大映作品。
製作:永田雅一、監督:吉村公三郎、主演:山本富士子、上原兼、撮影:宮川一夫、照明:岡本健一。
キネマ旬報ベストテン2位。

当時の映画界と大映

当時映画産業は炭鉱などと並ぶ花形産業で、映画人口の最大期を2年後に控える絶頂期だった。

同年のベストテン作品を見ても、第1位の「真昼の暗黒」(今井正監督、橋本忍脚本)をはじめ、4位「猫と庄造と二人のをんな」(豊田四郎監督)、5位「ビルマの竪琴」(市川崑監督)、6位「早春」(小津安二郎監督)、8位「流れる」(成瀬己喜男監督)と日本映画の歴史に残る名監督たちの作品が並ぶ。

松竹、東宝、大映、東映、日活、新東宝の6社が専属のスタッフ、俳優をもって製作を行い、独自の配給網を持つ(新東宝を除く)という2度とは来ない夢のような時代だった。

その中で大映は社長永田雅一のワンマン体制が敷かれていたが、専務として新劇の劇作家だった川口松太郎と監督の溝口健二が永田を補佐し、俳優では長谷川一夫を筆頭に、京マチ子などがいた。
京都と東京調布にそれぞれ撮影所を有していた。
業界的には松竹、東宝に次ぐ3番手のイメージ。

社長の永田の資質もあるのだろうが、政治家とのつながりやプロ野球球団保有など目立つ活動を志向していたが、松竹の歌舞伎、東宝の阪急電鉄のような基盤とする背景に乏しく、上映館数も少ないなど、経済的には脆弱だった。

また、永田は当初、新生日活によるスタッフ引き抜き防止を主目的とした、いわゆる5社協定を主導したが、長期的には人材の交流の疎外という点では映画界全体の利益に反した。

一方で、東宝争議後のゴタゴタに嫌気がさしていた黒澤明を招き「羅生門」を製作するなどもしている。
日仏合作の「二十四時間の情事」(アラン・レネ監督)を作ったり、溝口健二監督に好きなように撮らせ、「近松物語」「雨月物語」「山椒大夫」などの名作を世に送り出したのも永田雅一だった。

山本富士子と大映

第一回ミス日本の栄誉を満場一致で受賞したという山本富士子が大映に入社したのは1953年。
当時絶頂の映画界は例えば宝塚スターの再就職先としても有力な先だった(乙羽信子、淡島千景、新珠三千代、有馬稲子など)。

しばらくはいわゆるプログラムピクチャーのヒロイン役ばかりだった山本が、有力監督の文芸作品のヒロインに抜擢されてブレイクしたのが「夜の河」だといわれる。

山本富士子という人、外見の美貌と物腰の柔らかさに反して自立心と自尊心に満ちていた。

当初の大映との契約は3年後にフリーとなる条件だったというが、大映は反故にし、その後も専属契約を押し付けた。
契約更新のたびにもめたらしい。

念願の第1回他社出演は松竹の「彼岸花」(1958年)。
小津安二郎初のカラー作品の準主役に抜擢された山本は、和服姿のあでやかな所作と滑らかな関西弁で画面をさらった。

大映プログラムピクチャーとして消費され、残されていなかった山本富士子の姿が映画の歴史に鮮明に刻印された瞬間だった。
後年の映画ファンにとっては隠されていた日本映画の宝がそこに燦然と輝いているのを発見したような気持だった。

他社出演では「墨東奇譚」(1960年)、「如何なる星の下で」(1962年)がある。
どちらも実力派・豊田四郎の監督作品。
女優に対しては意地悪なほど辛辣な演出を行いかねない豊田監督をして、気高く孤高の女性像を描かしめた。

山本富士子は永田雅一と他社出演をめぐって衝突し、大映を退社。
永田は怒って映画界からの永久追放を画策した。

1983年、「細雪」の映画化に際し、監督の市川崑が長女役に山本を指名し交渉したが断られたという。
山本富士子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子の「細雪」だったら・・・それはさぞあでやかだったことだろう。
完成した作品を見た山本が、出演すればよかったと思ったとのこと。
映画ファンにとっても逃した魚は大きかった。

山本富士子と「夜の河」

山本富士子が大映入社3年目。
一流スタッフを集めたカラー作品である。
共演にも東宝の上原兼をもってきている。

この作品についてはまず色彩設計の見事さがいわれる。
舞台は京都のろうけつ染めの工場。
そこの独身の跡取り娘役が山本で、大阪大学の教授の上原と恋をして別れるまでを描く。

色彩設計でいえば、赤や緑の染め物が並ぶ工場の風景が思い出される。
発色もいい。
観たのはデジタル版だが、オリジナルのカラーが再現されているのだとしたらば、カラー撮影は成功している。

カメラは宮川一夫。
溝口作品でのパンフォーカスやクレーンを使ったワンショットワンシークエンスの撮影に力を発揮するカメラマン。

「雨月物語」では、戦乱の世、我が家に戻った森雅之が妻・田中絹代の歓待を受けるが、我が家はすでに廃墟だったというシークエンスを、カメラを360度パンする間の場面、時間転換で表現。

「祇園囃子」では路地を歩く若尾文子が、20メートルほど先の通りの舞妓たちを見て、けいこに通えない身を恥じて姿を隠す場面を、歩く若尾と20メートル先の舞妓たちの双方にピントを当てる鮮やかなパンフォーカスによるワンカットで表現。

照明の岡本健一。
熊井啓が胃潰瘍で血を吐きながら撮った「忍ぶ川」(1972年)。
大映は倒産し、撮影所システムは崩壊する中で、熊井が特に照明担当としてスタッフに招いた人材として記憶に残る。

「夜の河」では、夏の夜、歩く山本と上原が雨に打たれ軒下に休むあたりから、お茶屋内のシーンでのライテイング。
徹底したバックライトで人物の表情を消し、ただならぬ心理状況を表す。
長時間にわたり、影や暗さを微妙にライテイングするには相当の経験と自信がいるはず。

されど「夜の河」では必要以上の技法的主張はなかった。
撮影はカラーの再現と主人公の心情の移ろいを写し取ることに傾注し、手際よくまとめていた。
すべての技術的効果は吉村監督の演出プランの範疇に収まっていた。

心惹かれる相手とのただ一度の逢瀬の後、「子供ができたら、あんさんに似て・・・」と主人公が漏らす。
「子供?」と我に返り逡巡する妻子ある男。
そのわずかな反応に醒め「もしできてもうちの子として育てます」と端然と述べる主人公。

あふれる情念と自立した女性の自尊心を合わせて表現した、主人公と山本富士子のキャラクターが被って見える山場のシーンであった。

「夜の河」の上原兼と山本富士子

逢瀬の場は通りかかったお茶屋。
そこのおかみは主人公と女学校以来の親友で、軒先の二人を招き入れる。
男を紹介しようとする主人公には「ワテは戸籍係であらへん」と客先のプライバシーには踏み込まない。

演じたのは阿井美千子という女優。
てきぱきとした京都弁といい、動きのいい物腰といい、これがプロの京都女性というものなのか?と感心する傑出した演技だった。

「月夜の阿呆烏」(1956年)の阿井美千子、右は堺俊二

グロリア・スワンソンと「舞姫ザザ」

ここのところ「失われた週末」「サンセット大通り」とビリー・ワイルダー監督作品づいていた山小舎おじさん、「サンセット大通り」でグロリア・スワンソンを「発見」し、大いに気になっていたところ、渋谷シネマヴェーラのサイレント映画特集で、スワンソン主演の作品をやっていたので、自宅帰還の折に観た。

シネマヴェーラのパンフレットより。ピンボケですみません

「サンセット大通り」(1950年)では、自身がモチーフともいわれる、サイレント時代の大女優を演じた当時50歳のスワンソン。
作品は監督ワイルダーの屈折した皮肉を絡めた、ある意味「ハリウッドの暴露もの」であったが、そこで自分自身をカリカチュアライズした人物を演じながらも、決して役柄に埋没せず、むしろ存在感を発揮したのがスワンソンだった。

50歳にしてかつての美貌と輝きを十分に残しつつ、軽やかな動きもこなし、華美な装飾を着こなす姿は、おそらくはワイルダーの演出意図を越えたものとなっていた。
そこにあったのは「没落した妄執の老女優」ではなく「かつての栄華の残り香をしっかり残したベテランスターの余裕と貫禄の姿」だった。
スワンソン全盛期のサイレント映画を観たいと思った。

「舞姫ザザ」は1923年の作品。
タイトルにはアドルフ・ズーカーの名前がクレジットされている。
のちのパラマウント映画の配給である。
パラマウントはスワンソンのキャリアの舞台となる。
制作はアラン・ドワン プロダクション。

パリの場末の舞台のスターだったザザ(スワンソン)が身分違いの外交官と道ならぬ恋に落ちるストーリー。
チャームポイントのあごのほくろに星のマークを付け、過剰な舞台衣装をまとったスワンソンが、鼻持ちならない売れっ子女優として、ライバルとキャットファイトし、止める男を蹴っ飛ばし、足を踏ん張り、万歳し、顎を上げてミエを切る!
23歳の颯爽としたスワンソンがスクリーンを駆け巡る!

サービス精神旺盛で、アクションシーンをいとわず、プライド高く、派手好きだが、お茶目でかわいげのあるキャラクターがすでにそこにはあった。

クジャクの羽飾りの帽子を被った場面では「サンセット大通り」でセシル・B・デミルに会いにパラマウントのスタジオを訪問するシーンを思い出した。
「舞姫ザザ」ではたくさんの羽で帽子を飾っていたが、「サンセット大通り」では帽子の羽は1本だった。
クジャクの羽の数が、スワンソンに関しては「ザザ」の時代がオリジナルで、「サンセット」はそのパロデイであることを物語る。

ストリーは波乱万丈、金のかかったセット。

サイレント映画といえばグリフィスの「国民の創生」やヴァレンチノの「血と砂」、チャップリン、キートン、マルクス兄弟、くらいしか見たことはなかった。
そこにあったのは途方もなく金と人数をかけた場面だったり、スターのとびぬけた存在感だった。

「舞姫ザザ」をみて、サイレント時代すでに映画は完成され、スターの個人的な才能のみに寄らない総合的な文化となっていることを確認できた。

サイレント時代のスワンソン
宝塚風とでもいうのでしょうか、ヴァンプ風を意識した孤高のメイクのスワンソン
デミル好みというのでしょうか、サロメ風メイクのスワンソン

淀川長治さん日曜洋画劇場25周年記念として出版した「MyBest37」という本があり、スワンソンについても1章が割かれている。

1952年にアカデミー協会の招きで渡米した淀長さんが、協会長のチャールズ・ブランケットと立ち話をした際、スワンソンの話となった。
ブランケットは当時ワイルダーと組んでおり。「サンセット大通り」の製作者でもあった。

「スワンソンの生き字引」を自任する淀長さんが話を盛り上げると、ブランケットが「スワンソンと会いたいか」と聞いた。
「会えたら死んでもいい」と淀長さんが答え、その場でブランケットはスワンソンに電話した。

後日、ハリウッドの豪邸で4時間会見し、ニューヨークのホテルでも会った。
豪邸での会見で財布を忘れてきた淀長さんにスワンソンから電話がかかり、ポーターがホテルまで届けてきたそうだ。
淀長さんを生涯魅了した女優の一人がグロリア・スワンソンだった。

トーキー世代のスワンソンファンにとってはこの写真になってしまう。「サンセット大通り」より

ビリー・ワイルダーと「サンセット大通り」

山小舎おじさん、9月初旬にも自宅に帰りました。
その際、渋谷シネマヴェーラで「サンセット大通り」をやっていたので見てきました。
ここのところ気になっているビリー・ワイルダー監督の1950年作品です。

シネマヴェーラの作品紹介文

アメリカ映画は暴露ものが好きなのか?

「サンセット大通り」は名監督ワイルダーの代表作の一つ。
40年代から活躍し始めたワイルダーが評価を不動のものした記念碑的な作品でもあります。

ストーリーはサイレント時代の大女優が、時代がかった執事(往時の名監督で最初の夫でもあった、という設定)とハリウッド近郊の古い邸宅の中で暮らしているところへ、ひょんなことから売れないシナリオライターが迷い込み、大女優の妄執に翻弄された挙句、悲劇の結末を迎えるというものです。

大女優役は実際にサイレント時代のスターだったグロリア・スワンソンが扮し、執事役には実際にサイレント時代の名監督だったエリッヒ・フォン・シュトロハイムが扮しています。

左から、ウイリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

これって、いわゆる「暴露もの」ではないでしょうか。
そうじゃなかったら「あの人は今」的な「のぞき見」もの。

アメリカ映画には「市民ケーン」(1941年 オーソン・ウエルズ監督)で当時の新聞王ハーストを批判的に描き、「独裁者」(1940年 チャールズ・チャップリン監督)で当時の対立世界の覇者ヒトラーをカリカチュアライズした、という「実績」があります。

当時のハーストを扱うということは、現代でいえは、ステイーブ・ジョブスだったりビル・ゲイツといった億万長者兼実業界のカリスマの裏面を暴くようなものでしょう。
また当時、勃発中の第二次大戦の主役の一人だったヒトラーを馬鹿にすることは現在でいえば習近平やプーチンにケンカを売るようなものでしょう。

その点、ワイルダーの「サンセット大通り」はすでに名声時代が過ぎ去った主人公たちを扱っています。
本人たちが納得ずくで没落した人物を演じるのですから、名誉棄損の批判を受ける心配もありません。
ワイルダーの狡さというか意地悪さが見て取れるのは私だけでしょうか。

主人公二人のほかに、セシル・B・デミル、バスター・キートン、ヘッダ・ホッパーなどの映画人を実名で登場させ、ヴァレンチノ、グリフィスなどの実名をセリフで言わせていますが、そこでは抑えた演出をしています。

ワイルダーにとっての暴露すべき悪とは

ワイルダーの演出は、主人公二人(スワンソン、シュトロハイム)については、暴露もの的な意味で、デミル、キートンについてはあの人は今的ない意味で使っています。

スワンソンとシュトロハイムに関しては思いっきりイジワルな演出をしています。
が、ワイルダー自身にはほとんど危害が及ばないところがミソです。

後で述べますが、結果としてスワンソン、シュトロハイムに関しては悲惨さよりはアイコンとしての貫禄が画面から漂い、ワイルダーの毒というか本心は露骨に表れない、という結果になっています。

表面には現れませんが、ワイルダーがケンカを売りたかったのは、ハリウッドシステムの尊大な滑稽さで、大女優と執事はその犠牲者という位置づけだったのかもしれません。

ワイルダーにとって本当の敵とは何だったのか?
祖国からの亡命を余儀なくさせたナチスドイツか?ユダヤ人という宿痾か?尊大で欺瞞に満ちたハリウッドシステムか?
それぞれのテーマをある程度は匂わせながら決して肉薄しないのがワイルダーです、隠しきれない毒は画面のそこかしこに現れてはいますが・・・。

ワイルダーは正義派でも社会派でもありません。
良い作品ができる題材と、多少は自分の毒が満足できる演出ができればそれでいいのでしょう。
自分に危害が及ばないのなら、他人の尊厳、プライバシーを犯すことに良心の呵責はありません。

1950年制作の「サンセット大通り」まではそれでも際物的な要素のも取り入れながら作品を作っていましたが、名声を得た50年代以降は際物的な要素は少なくなってゆきます。
「サンセット大通り」は転換期に当たる作品なのではないでしょうか。

グロリア・スワンソン

なお、暴露ものというジャンルはアメリカ映画の専売特許ではありません。
日本映画には権力者を批判的に描く骨のある暴露ものの作品はあまり思い浮かびませんが、実録もの、事件の再現ものなどのジャンルがあります。

事件の再現ということでは、あの阿部定がのちに座長として巡業したとか、アナタハン事件の後で事件の女主人公が再現劇で巡業したなどの話を聞きます。
暴露ものがあらゆるメデイアにとって親和性のあるジャンルということがわかります。

「サンセット大通り」の表面上のモチーフの「年増女が若い燕に狂って破滅する」は、2時間サスペンスや、ワイドショーのネタ、ドリフのコントのネタ、などとして綿々と受け継がれてもいます。
事実この作品を見ていて、コントみたいだと思った瞬間がありました。

それを防いだのはグロリア・スワンソンの存在そのものでした。
老醜、妄執がコンセプトの大女優役に於いて、当時50歳のスワンソンが実に魅力的だったのです。
まだまだきれいで、いわゆる怪奇派としての老嬢役に収まりきらない魅力が垣間見れるのです。

自分が所属していたマック・セネットの水着ガールやチャップリンの物まねまで再現、披露します。
ワイルダー演出は老嬢の若作り、悲惨さを狙ったのかもしれませんが、さすが往年のスター。
演技がしっかりしており、ポーズも決まるので単なるカリカチュアにとどまらないスワンソンの演技に、山小舎おじさん、魅入ってしまいました。

ストーリーの間に挟まる、若い燕・ホールデンと若い女性の逢引のシーンの方が70年前のアメリカ映画の古臭さを隠しきれないのに対し、スワンソンが出てくるシーンは時間が超越されているようでした。
本物は、類似品がのちにテレビのコントになって消費される時代が来ても古典として残るのだなあと思いました。

スワンソンの演技は、暴露ものという映画の設定を突き破り、自身のキャリアの尊厳を逆説的に主張しているかのようでした。
その点が作品に深みと救いをもたらしてもいます。

それがワイルダーが最初から意図したものだったかどうかはわかりません。

まだまだ魅力十分なグロリア・スワンソン