DVD名画劇場 クララ・ボウとシルビア・シドニー

映画プロデユーサーの息子で、作家のバッド・シュルバーグの自伝的回顧録「ハリウッド・メモワール」には、1920年代から30年代のハリウッドが活写されており、様々な映画人が登場する。
この書で、子供時代の筆者の視点で印象的に描写されているのが、女優のクララ・ボウとシルビア・シドニーだった。

バッド・シュルバーグ著「ハリウッド・メモワール」。表紙はシルビア・シドニー

クララ・ボウは、バッド・シュルバーグの父のB・P・シュルバーグがスカウトしてきた新人女優だった。

子供だったバッドから見ても、〈クララは演技ができなかった。それに覚えがいい方ともいえなかった〉(「ハリウッドメモワール」P160)が、同時に〈彼女の全身から電流のような活発さ、うきうきする感じが発散していた〉(同161P)存在だった。

1920年代のセックスシンボルとしてクララ・ボウの評価は現在定まっている。

クララ・ボウ

シルビア・シドニーはニューヨークの芝居に出ていたところをB・Pにスカウトされた、東欧ロシア系のユダヤ人で、1933年に結成されたのちのHANL(ハリウッド反ナチ同盟)の創立メンバーの一人だった。

映画はトーキーとなり、セリフがちゃんと喋れるタイプの女優が重宝された。

まもなく彼女とB・Pは共に暮らすようになり、B・Pはバッドらが暮らす自宅には帰ってこなくなった。

〈私の目には、シルビア・シドニーが自分の女優としての立場を守るために父の血を吸うきれいな吸血鬼のうちの最新の女だと決めつけている考えを変えることはできないと思えた。〉(同書353P)

シルビア・シドニー
蜜月時代

今回は彼女らの代表作を見てみようと思った。

「つばさ」 1927年 ウイリアム・A・ウエルマン監督  クララ・ボウ主演 パラマウント

第一次大戦時の複葉機による空中戦を再現した戦争ドラマ。
クララは若き戦闘機乗りの恋人に思いを寄せ、従軍女性ドライバーとして戦地に赴き、また必要とあらばフラッパーな格好でパリのカフェに現れ恋人に迫る、健気で可愛げのあるアメリカンガールを演じる。

「つばさ」より

監督はこれが出世作となったウエルマン。
無名の存在だったが、空軍の従軍経験をアピールし、当時で製作費100万ドルを超える大作のメガホンをとることを必死に製作者のB・Pに売り込み。パラマウントのタイクーン、アドルフ・ズーカーはB・Pの連帯責任を条件にOKした。

ウエルマン監督

とにかく空中戦のシーンが多い。
それもロングショットで撃墜シーンなどが繰り返される。

基本、実写だった時代の空中戦の撮影は、出演する方も演出の方も大変だったろうと想像がつく。
地上戦の再現シーンも大掛かりで、とにかく戦闘シーンの再現に力が入った作品。

戦闘場面

一方で、パリのカフェで酔っ払って正体不明の恋人に、フラッパーなクララが迫る場面では、シャンパングラスから泡が出てくる特撮を演出。
ロマンチックなムードを醸し出してもいた。

DVDパッケージ

サイレント時代の作品だが、実写の空戦シーンを中心に今でも目を見張るところのある作品だった。

「暗黒街の弾痕」 1937年 フリッツ・ラング監督 シルビア・シドニー主演

若い主人公たちが社会の無理解から追い込まれ、犯罪に手を染めた挙句に自滅してゆく姿を描く、いわゆる〈ボニーとクライド〉ものの原点といわれる作品。

シルビア・シドニーは主人公の弁護人事務所の秘書だったが、ヘンリー・フォンダ扮する主人公と恋に落ち、犯罪を犯して自滅するまでの行動を共にする。

「暗黒街の弾痕」の一場面

雨の中、バックミラーに映る目線だけで犯人側を表現した銀行強盗シーン。

人気のない操車場の貨車に隠れるシーン。

恋人が差し入れた拳銃でヘンリー・フォンダが死刑当日に脱獄する一連のシーン。

いずれも〈この世のものとも思えない〉緊張感に満ちた悪夢のような場面が続く。

DVDパッケージ

制作者:W・ウエンジャー、監督:F・ラング、主演:S・シドニーらメインスタッフ、キャストがユダヤ人である事が、開戦前夜の世相と相まっての不安感、悪夢感に満ちた画面を起因せしめているのだろうか?

ドイツからの亡命者、フリッツ・ラングのアメリカ映画の第2作目。

本作でのラングの視点は、登場人物を冷徹に見つめるもの。

本作は、〈ボニーとクライド〉ものの原点と呼ばれてはいるものの、のちの「ハイシエラ」(1941年 ラウール・ウオルシュ監督)でのハンフリー・ボガートとアイダ・ルピノ、「夜の人々」(1949年 ニコラス・レイ監督)のファーリー・グレンジャーと.キャシー・オドンネル、「拳銃魔」(1950年 ジョセフ・H・ルイス監督)のジョン・ドールとペギー・カミングス、「明日に処刑を」(1972年 マーチン・スコセッシ監督)のデビッド・キャラダインとバーバラ・ハーシーが演じた〈ラヴ・オン・ザ・ラン〉作品で濃厚に漂う、若い犯罪者への同情というか共感の視点はほぼない。

ヘンリー・フォンダのキャラに同情の余地は少ないし、シルビア・シドニーがフォンダに惹かれる必然性の描写はない。
むしろ、二人の逢瀬の場面で池のガマガエルを執拗に映して、若き犯罪者を突き放すようなラングの視点がある。
もともとが真人間とは異なる世界の人間の物語だといわんばかりに。

DVDパッケージ裏面

冷徹で表現主義的なラングの描写は、銀行強盗のシーンがのちのギャング映画にそっくり使われたり、安モーテルで公証人?から結婚証明書をもらう場面が、のちの〈ラヴ・オン・ザ・ラン〉映画の数々で繰り返されたり、貨車の場面が「明日の処刑を」に援用されたり、と、映画的記憶の原典の数々を生み出した。

「明日に処刑を」貨車のシーン

シルビア・シドニーの清純な演技も一見の価値がある。

DVD名画劇場 太平洋戦争の分岐点「ガダルカナルダイアリー」と「シン・レッド・ライン」

1942年のソロモン諸島をめぐる陸海空戦は、日米両軍の戦力が拮抗していた時期のことだった。

そもそも日本軍がなぜ、今にして思えば無謀な、かつ1943年の御前会議で決定された〈絶対防衛圏〉(千島、マリアナ諸島、ニューギニア西部を結ぶエリアを太平洋戦争における日本の最終防衛圏としたもの)においてすらその圏外とされたソロモン諸島に兵を進め、あまつさえ貴重な戦力を漸次低減消耗させていったのだろうか?

日米両軍が死闘を繰り広げたヘンダーソン飛行場の現在

その契機となったのが、飛行場建設のために、ソロモン諸島のガダルカナル島に上陸した日本軍守備隊と、その後ガダルカナル島に反抗上陸した米海兵隊との一連の戦いだった。

当時の写真。表情の必死さ

1942年7月の米軍反抗上陸から、1943年2月の日本軍撤収まで、ガダルカナル島内の陸戦のほか、幾多の海戦、空戦が行われ、日米両軍ともに相当数の軍艦、輸送船、航空機、兵員を周辺海域で失った。

米軍の目的は、西太平洋の日本軍に対する反抗の拠点としての飛行場占領確保で、日本軍の目的は米豪分断の拠点としての飛行場建設と確保だったが、日本軍の飛行場再占領の作戦はすべて失敗に終わり、ガダルカナル島に残された陸軍兵の兵站は分断され、駆逐艦、潜水艦による細々とした物資輸送を余儀なくされた。
飢餓とマラリアに苦しめられた日本軍は駆逐艦により残存兵を撤収し、ガダルカナルでの戦いは終わった。

映画の一場面ではない。実戦だ

「ガダルカナル・ダイアリー」1943年 ルイス・セイラー監督

同島米軍上陸の1年後に製作された劇映画。
従軍記者による原作の映画化。

太平洋戦争真っ盛りの時期の劇映画ながら、単純な戦意高揚映画ではなく、また一方的に米軍の活躍を賛美してもいない。
戦争を知る人々が作った冷静さ、シリアスさを感じられる作品。

この戦争では、ジョン・フォード、フランク・キャプラ等そうそうたるハリウッド巨匠が招集され、戦争記録映画を撮っている。
本作は有名ではない監督と出演者によるものだが、その独立性がリアルな映画作りに貢献したのだろうか?
デビュー間もないアンソニー・クインが海兵隊役で出ている。

輸送船内での新兵の不安、上陸直前の恐怖感が描かれている。
一方で、日本軍の刀を土産に持って帰りたい、などと話す明るく陽気なアメリカ兵の姿は、のちのハリウッド映画のアメリカ兵の姿と同様だ。

上陸直後は戦闘機が7機しかなかった米軍。
おっかなびっくり上陸し、日本軍を追ってゆく。
ジャングルには入りたがらない様子なども描かれる。
指揮官は「日本軍を甘く見るな」を連発する。

DVDパッケージ裏面

ガダルカナルを巡る一連の戦闘の記録としても貴重な作品。
劇中のセリフに、〈サボ島沖海戦〉が出て来たり、日本海軍の戦艦、金剛と榛名によるガダルカナル島飛行場への夜間艦砲射撃の描写も出てくる。

飛行場を占領した米軍への反撃として、ガダルカナル島沖に日本海軍の高速戦艦が夜間出撃し、焼夷弾による艦砲射撃を行い、飛行場と周辺の物資を火の海としたもの。
防空壕で艦砲射撃におびえる海兵隊員の姿が描かれていた。

交代要員が到着し、ボロボロになった先任の海兵隊とすれ違う。
ピカピカで張り切っている交代要員と、黙々と行進する前任の海兵隊員との対比が描かれる。

そこには戦争の賛美も、米国の全能感もない。
主役の一人、アンソニー・クインも作品の途中、戦闘で狙撃されてあっけなく戦死する海兵隊員を演じている。

「シン・レッド・ライン」1998年 テレンス・マリック監督 20世紀フォックス

ガダルカナルのジャングルを進む米米兵

「ガダルカナル・ダイアリー」から55年後に描かれたガダルカナルの戦闘。

55年前の映画では上陸前の輸送船内の米兵は、ジャズで踊っていたが、本作では物悲しいバイオリンがむさ苦しい輸送船内の蚕だなベッドに流れる。

上陸後の戦闘では、日本軍の迫撃砲に負傷する米兵の叫び、苦痛の声がやまない。

突撃前に胃がつって動けなくなる米兵。
丈の高い草の中を恐る恐る前進する米兵。

ニック・ノルテイ扮する中佐は叩き上げの指揮官で、やたら部下を叱咤し、酷使して成果を焦る。
昔の劇映画なら、小心で狡猾な卑怯者の指揮官として描かれるだろうキャラクターも、この作品では組織としての軍隊で屈辱にまみれながら年下の上官に仕えてきた中間管理職の、無能ではあるが悪意のない姿として描かれる。

ショーン・ペン(右)

故郷に残してきた最愛の妻がいる米兵。
美しい妻との魅惑的な回想シーンがカットインされる。
最前線で妻からの待望の手紙を受け取った米兵が、その手紙で妻から離婚を懇願される絶望感。
妻は別の男に〈恋〉をしたという。

白兵戦で日本兵を蹂躙する。
降伏した日本兵を銃座で殴り蹴飛ばす。
死体から金歯を集める。
死臭を避けるために鼻の穴にたばこを詰める。

交代要員を迎えた米兵の姿は敗残兵のように疲れ切っている。

パッケージ裏面

主人公は脱走して原住民の村に入り浸っていたところを哨戒艇につかまってガダルカナル戦に連れていかれた。

水木しげるさんも兵隊時代にソロモン諸島での戦闘を経験。
脱走こそしなかったが、原住民の村に自由に出入りし、村長の娘と仲良かったと自伝の漫画にあった。

「シン・レッド・ライン」の天国のような原住民村と米兵の描写も嘘ではないのだろう。

一時的なパラダイスに憩う兵隊たち。現実か幻想か

戦闘シーンでは日本軍の激しい砲弾の中を米兵が進む。
当時、兵站は途切れ、ただでさえ弾薬が乏しかった日本軍が、平地を散開して進む米兵に対し、果たしてあんなに景気よく砲弾を消費したものだろうか?という疑問もわく。

ジョン・キューザック

ショーン・ペン、エイドリアン・ブロデイ、ジョージ・クルーニー、ジョン・トラボルタなどの新旧俳優が挙って出演を希望したという作品。
寡作のテレンス・マリックは本作品で第49回のベルリン映画祭金熊賞を受賞している。

(おまけ)「太平洋航空作戦」1951年 ニコラス・レイ監督 RKO

日米が雌雄を決したガダルカナル戦には米空軍も参加した。
この作品はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場に展開した米空軍戦闘機隊の物語。

ロバート・ライアン大尉の元、腕利きの戦闘機隊に出動命令が下る。
指揮官はライアンが昇進して当たるのではなく、新任の少佐のジョン・ウエインが赴任してきた。
命令が絶対で、作戦のためには部下を容赦なく使い倒す少佐。
この少佐と大尉(および隊員)の間に軋轢が生まれる。

部下思いのヒューマニストがライアン、作戦遂行のためには統制第一のウエイン。
両者のキャラクターは、ただし画一的ではない。
ウエインが戦死した部下の両親に手紙を書いたり、家族の声をソノシートで聞いてしんみりしたり、と人間性も見せる。
ライアンは部下のためにはウエインと衝突もするが、それは指揮官を上司に持つ〈気楽な〉立場のなせる業でもあると最後に示唆される。

戦争当時の、グラマン、コルセアなどの実機が編隊で飛ぶ飛行シーン。
当時の機体がほとんど残っていない現在ではこんな画面は二度と撮ることができない。

負傷したパイロットが、プロペラを曲げながら何とか着陸するが機体は壊れるシーン、日本軍の空襲でグラマンが燃えるシーンなど、実機をバンバン壊したり燃やしたりして、ぜいたくな撮影を敢行。

空戦シーンは実写フィルムをモンタージュしており、主に日本機が撃墜される映像が続く。
金剛、榛名の艦砲射撃でヘンダーソン飛行場が炎上し、ウエインらが掩体壕に飛び込むシーンもあり、史実に忠実たらんとする姿勢は見える。

それでもあれっ?と思ったことがあった。

たとえばウエインが日本の輸送船談を空襲する際に、無線電話で列機に「トウキョウエキスプレスを攻撃する!」というシーンがあったが、東京エキスプレスとは、速度が遅い輸送船では兵站を維持できない日本軍が、やむなく駆逐艦や潜水艦を使って夜間細々とガダルカナルの残存兵に食料弾薬を運んでいたことを米軍が揶揄したコトバなはず。
日本の輸送船がガダルカナル近海でさんざん沈められたのは事実だが、輸送船団は〈エキスプレス〉ではない。

日本軍の呼称についてはこの映画、ニップスとジャップが使われていた。
「ガダルカナルダイアリー」や「シンレッドライン」ではジャップ一辺倒だったが、ここら辺何か意味があるのか?

また、一時本土に戻り帰宅するウエインの土産は日本刀。
それを幼い息子に与え、息子は重いはずの真剣を片手ですらッと抜刀する場面があった。
特に意味のないシーンではあろうが、日本人としては不自然極まりない思い。

更に言えば、ガダルカナル戦のはずが、いつの間にか時間経過し、機種がグラマンから戦争後期に使われたコルセアに代わり、日本のカミカゼ攻撃が現れたが、これは単なる尺のカットで、説明不足のなせる業か?

さはさりながら1951年のこの作品。
世の中は大戦の経験を鮮明に残した人々が現存し、また新たな朝鮮戦争が起こっている。
単純な米国賛美、軍隊賛美では嘘くささが喝破されかねない風潮でもあったろう。
スポーテイな戦争映画ではなく、銃後も含めて人間の痛みが伝わるような作りとなっている。

DVDパッケージ裏面

監督のニコラス・レイはRKOの「夜の人々」(1949年)でデヴュー。
社会に疎外された若い男女が、惹かれ合うも社会に受け入れられず、犯罪に手を染めて自滅してゆく、いわゆる〈ラヴ・アンド・ザ・ラン〉の佳作だった。
このデヴュー作は、のちに「カイエデュシネマ」の評論家に「B級映画だが精神においては上等」と評価された。

ニコラス・レイは、その後も「暗黒への転落」(1949年)や「危険な場所で」(1951年)などで、旧来の権威に対する疑問と弱い立場の者に対する同情的な視点を崩さなかった。
「太平洋航空作戦」はレイ初のカラー大作ではあるが、人間を見つめる視点は変わっていなかった。

ニコラス・レイの左翼的姿勢は、デヴュー当時にハリウッドを席巻していた〈赤狩り〉の犠牲になってもおかしくなかった。
本人が非ユダヤ人だからということもあるが、所属する映画会社のRKOのオーナー、ハワード・ヒューズの庇護により、非米活動委員会への召喚を免れたといわれる。

DVD名画劇場 ジーン・セバーグの「悲しみよこんにちは」

ジーン・アーサーに続いてはジーン・セバーグが登場するDVD名画劇場。
セバーグの映画デビュー第2作目の「悲しみよこんにちは」です。

「悲しみよこんにちは」1957年 コロンビア オットー・プレミンジャー監督

同作DVDパッケージの表紙

原作は18歳でこの小説を発表したフランソワーズ・サガン。

南仏リビエラでの父と娘と愛人の楽しい日々。
そこにかつて父と縁があったデザイナーが現れ、父と婚約。
とたんに娘にとって婚約者は、父を奪った異性でかつ、口やかましい新しい母的存在となる。
婚約者に反抗し、父の浮気の現場を見せつけるなどして婚約者を追い出す娘・・・。

DVDパッケージ裏面

原作者の分身ともいえる娘に当時19歳のジーン・セバーグ。
事業があたりブルジョワ暮らしをしながら、いつまでも若い女を渡り歩く父にデビッド・ニブン。
婚約者にデボラ・カー。
娘とも仲の良い父の若い愛人にミレーヌ・ドモンジョ。

リビエラの別荘地での過去の楽しい日々。
カラーで描かれ、セバーグは最初は赤、次に青、最後は黄色の水着で現れる。

水着でないときには活動的なショートパンツ姿。
ベリーショートカットに細身のシルエット。
父とキスし、動き回り、海に飛び込み、ボーイフレンドと戯れる。
若さとエネルギーが発散する。

オフショット。赤い水着姿ということは前半部分の撮影時のものか

劇中、19歳のセバーグが、主人公の若い衝動、婚約者への反発心、日常の倦怠、父へのアンビバレントな感情、などを一生懸命表現しようとする。
時に輝きを伴い、時に達者な演技力で、また時に痛々しくも。

デビッド・ニブンは適役過ぎて、製作者サイドはこの父親というキャラクターを軽視し(戯画化し)ているんじゃないか、と思うほど。
デボラ・カーもしかり。
わざわざ名のある彼らを持ってこなくとも、あるいは無名の実力は俳優を持ってくれば、戯画化を避けてよりシリアスなものになっていたのに、と思いもするが、監督のプレミンジャーには商業的な意図もあったのだろう。
というかそれが第一なのだろう。

父(デビッド・ニブン)とはとても仲良しだが・・・

19歳のセバーグは商業目的のこの作品で唯一、与えられたキャラクターの自分なりの表現に取り組み、作り物ではない存在感を得た。

映画の冒頭と最後に描かれる、父と娘の現在のシーン。
モノクロで描かれるそこには、倦怠にまみれ、底知れぬ絶望感にさいなまれる〈その後〉の主人公の姿が描かれる。

カラーで描かれたリビエラでのはつらつとした水着姿のセバーグと同一人物か?と思わせる黒のドレス姿。
これを演じ分けたセバーグを称賛したい。

この作品により、「カイエ・デュ・シネマ」誌の表紙を飾ったセバーグはフランソワ・トリュフォーにこう評された。
「ジーンがスクリーンに映っているときはいつでもスクリーンから目を離すことはできない。彼女の動きすべてが優雅で、まなざしは的確。頭の形、シルエット、歩く姿、すべてが完璧だ。スクリーンでこのような魅せ方をする女優ははじめてである。」(ギャリ・マッギー著、石崎一樹訳「ジーン・セバーグ」83P)と。

ジャン=リュック・ゴダールは長編第一作の「勝手にしやがれ」を作るにあたり、主人公のパトリシアを「悲しみよこんにちは」の主人公セシルの3年後の姿と想定して形作った。
パトリシア役には、「悲しみよこんにちは」でセシルを演じたジーン・セバーグをキャステイングした。

番外) 「大空港」 1970年 ジョージ・シートン監督 ユニバーサル

70年代らしいミニスカートの制服姿で、当時30代に入ったばかりのジーン・セバーグが登場する。

ベストセラーの原作をバート・ランカスター、デイーン・マーチンらのオールスターで映画化した大作。
ジーン・セバーグは三番目にクレジットされ、ギャラは15万ドルだったという。

ジーンの役柄は空港に駐在する航空会社の現場責任者。
空港長のランカスターと歩調を合わせ、日常的に起こる様々な出来事に対応してゆく。

ハリウッドが斜陽を迎えてからしばらくたち、過去のタイクーンたちはとっくに去り、映画はオフハリウッドや低予算の独立プロ作品などに多様化していた時代。
70ミリ、トッドAO方式、2時間尺の「大空港」はハリウッドが事態の打開を模索していた中での(おそらくもっともイージーな)トライアルの一つだったと思われる。

多様な登場人物を手際よく、テンポよく描く。
古い技法である画面のワイプも、スピード感に寄与している。
ヘレン・ヘイズのキセルばあさんや、モーリン・ステープルトンの爆弾犯の妻など、わき役も芸達者。
ここら辺にハリウッドメジャーの職人芸が受け継がれている。

ストーリーの味付けには70年代らしく、夫婦間の問題だったり、空港の騒音問題に対する市民運動だったりも加味されているが、全編を通して描かれるのは、仕事に取り組む人々の姿。
社会への疑問や、心理的不安などなく、目の前の障害に取り組み、解決してゆく職業人の姿に、まだまだ社会が健全だった(健全であろうとした?)時代性を感じることができる。

もっとも、オールスターといいながら、ランカスター、マーチンの主演は、微妙に弱くもあり、とっくに全盛期を過ぎたハリウッドの衰退感も漂う。
二人ともさすがの演技ではあったが。

キャストで勢いを感じたのは、マーチンに不倫相手のCAを演じたジャクリーン・ビセットで、ミニ丈の制服姿が似合っていた。
彼女はこの作品の後、キャリアを積み重ねてゆく。

キャビンアテンダント役のジャクリーン・ビセット。この作品で一番旬の配役だった

ジーン・セバーグは当時フランスに住んでおり、夫のロマン・ギャリーとの問題、ブラックパンサーの支援者としてFBIにマークされていたことからのストレスに苦しんでいたころ。
「大空港」の役は、彼女じゃなくてもいい役柄にも思えたし、劇中、彼女らしい繊細でかつ豊かな感情表現を要する場面もなかったが、演技者としての確かな成長ぶりがみられる。
彼女が出演した70年代の数少ないメジャー作品としても貴重だった。

DVDパッケージ裏面

DVD名画劇場 30年代アメリカ映画の女神、ジーン・アーサー

山小舎暮らしで映画に飢えている昨今。
古本屋で見かけた100円のDVD。
こんなに安く映画が見られるんだと思った。

ブックオフに行って見るとDVDのコーナーがある。
よく見ると500円以下の廉価コーナーもあり、古の名作が安く販売されている。
山小舎でも映画が見られると気が付き、廉価版を中心に集めてみた。
山小舎版名画劇場という塩梅だ。

ジーン・アーサーは1930年代に活躍したアメリカ女優。
セシル・B・デミルやフランク・キャプラといった巨匠作品で、ゲーリー・クーパーやジェームス・スチュアートらと共演した。
彼女の30年代の出演作4本プラスアルファを続けて見た。

ジーン・アーサー

1,「平原児」1936年 パラマウント映画 セシル・B・デミル監督

パラマウント映画のタイクーン、アドルフ・ズーカーを先頭に、製作、監督、出演者名が画面下から上に、斜め後方に流れてゆくクレジットタイトルで始まるこの映画。
このタイトル方法は「スターウオーズ」がのちにマネをした。

西部の大立者、ワイルド・ビル・ヒコックとバッファロー・ビルの友情に、カラミテイ・ジェーンが絡むという、日本でいえば、〈ご存じ次郎長三国志〉のような物語。

大向う受けを狙ってハリウッドのタイクーンが企画し、国民的巨匠のデミルがタイクーンの意を受けて現場を仕切って作り上げた作品であり、また、正攻法で作られた大作の楽しさに満ち満ちた作品である。

ジーン・アーサー扮するカラミテイ・ジェーンは男勝りの西部の女。
ゲーリー・クーパー扮するワールド・ビル・ヒコックを見かけるなり、抱きついていきなりキスする登場シーン。

男勝りながら純情なカラミテイは、ビル・ヒコックへの追慕を隠さない。
健気でガラッパチながらも、かわいらしいカラミテイのキャラクターは、ジーン・アーサーのイメージに重なっており、愛らしい。

「平原児」のジーン・アーサー

南北戦争が終わり、ガンマンだのバッファロー狩りだのの時代は終わりつつあり、インデアンとの戦いにも先が見えてきている。
遅れてきたガンマン二人のストイックな時代遅れの友情と、彼らを追慕する独立心にあふれてはいるが純情な女性像。
古き良きアメリカへの賛歌であり挽歌でもある。

ロケの群衆シーン、騎兵隊とインデアンの戦闘シーン、その全部がエキストラを使って再現されている。
今の時代では不可能なぜいたくさであった。

DVDパッケージ裏面

2,「オペラハット」1936年 コロンビア映画 フランク・キャプラ監督

西部の男勝りから一転して、ニューヨークのマスコミのキャリアウーマンを演じるのがこの作品のジーンさん。
都会的でスレていて、てきぱきと事を進める役もジーン・アーサーには似合っている。

新聞社の上司役の男優とジーン・アーサー

相手役は、まだ若さが残り、イノセントな田舎者の役が似合っていた頃のゲーリー・クーパー。
イノセントな田舎者のクーパーが、遺産相続で都会に出てきて、狡猾な都会人に騙されようとするが、クーパーは信念の人でもあり、自らの人間性を頼りに、悪漢たちを退け、女性の愛も獲得する、という物語。

田舎で、〈妖精つき〉ともいわれた純朴、マイペースの変人ぶりをクーパーが好演。
すれっからしのジーン・アーサーが、この田舎者をネタにマスコミではやし立てるが次第にクーパーの本質に惹かれるというシンデレラストーリー。
クーパーの田舎では全員が〈妖精つき〉だというオチもつく。
ジーン・アーサー全盛期の美貌を堪能できる。

DVDパッケージ裏面

3,「我が家の楽園」1938年 コロンビア映画 フランク・キャプラ監督

続いてもキャプラ監督作品で、ジーンさんの相手役は若々しいジェームス・スチュアート。

「我が家の楽園」。ジェームス・スチュアートとジーン・アーサー

スチュアートは大企業の御曹司で副社長だが、買収を繰り返す企業戦士の親父社長とは正反対の性格。
都会に生まれた〈妖精つき〉。
ジーン・アーサーは副社長の秘書で仕事はできるがスレてはいないキャラクター。

DVDパッケージ

この二人が惹かれ合って、ジーンさんの実家へ挨拶することとなった。
ところがこの実家、企業戦士を退職してから自分に正直に生きている祖父を中心に、自分に正直すぎる人々が集まっているシェアハウスのような場所。
スチュアート自身は、通じるものを感じるが、ゴリゴリの現役企業家である父親を連れての再訪では、お約束通りの大混乱と相成る。

DVDパッケージ裏面より

この作品でのジーンさんは、都会人ながら純情一方のキャラで、だからこそ役柄に屈折がなく、印象が薄いものの、〈妖精つき〉の相手役に惹かれる役柄という点では、ほかのキャプラ作品同様であり、彼女一流のイメージに合っている。

まさに現代のおとぎ話。
これがキャプラタッチというものなのだろうか?
ジーン・アーサーのおとぎ話のヒロインぶりも一興。

4,「スミス都へ行く」1939年 コロンビア映画 フランク・キャプラ監督

キャプラ作品が続きます。

ジーン・アーサーが出演したキャプラ監督の上記3作品。
コンセプトは共通していて、〈妖精付き〉のヒーローを、実は純真な心を持つヒロインが支える、という設定です。

封切り当時のプレスシート

この作品は、まだおどおどした演技が似つかわしかった頃のジェームス・スチュアートが田舎から補選の上院議員としてワシントンに上京し、政治の現実に夢破れるものの、最後に上院で自らの思いのたけを延々とぶちまけて信念を通すというお話です。

ジーン・アーサーは上院議員秘書を演じて、当初は田舎者のスチュアートに失望するものの、その信念を通す姿に味方となって助けます。
政治の世界の裏も表も知って、仕事はできるが疲れも出始めている、議員秘書の感じをよく演じています。

DVDパッケージ

〈妖精つき〉で最後は己の信念を貫き通す主人公と、彼を陥れようとする〈私利私欲の〉勢力の対決、という構図は「オペラハット」と同じですが、この作品の方が、〈私利私欲の〉勢力の描き方がより強烈でリアルになっています。
したがって、陥れられる〈妖精つき〉主人公の追いつめられ方もより深刻で、切羽詰まっています。

とはいえ、ベースにはユーモアがあり、例えば上院議長役のハリー・ケリーの、世の中の正義もインチキもわかっているかのような議事進行ぶりと、馬鹿正直な主人公に一服の清涼剤をもたらすかのような仕草など、観客にとってもユーモラスな息抜きとなる演出です。

また、「我が家の楽園」ではジーンさんとスチュアートのデートシーンに流しの子供楽隊が急に現れ、見るものを驚かせ、喜ばせますが、本作では本格的な子供のマーチングバンドが要所で登場し、大々的に主人公たちを〈応援〉し、またまた見るものを驚かせます。
キャプラ監督一流のユーモアに満ちた前向きな場面転換のテクニックの炸裂です。

ジーン・アーサーは「オペラハット」同様、ラストの議会(この作品では法廷)での主人公の懸命な自己発露を女神のように見守り、励まします。

パッケージ裏面

番外、「シェーン」1953年 パラマウント映画 ジョージ・ステイーブンス監督

ジーン・アーサーの存在感については、全盛期の30年代の上記作品より、この作品において一番重く感じるのは邪道だろうか。
最後の映画出演、彼女50歳前後の作品である。

この作品のジーンさんは、表立って主張しない。

30年代の懐かしい彼女の横顔。
微笑んで、目をキラキラさせる。
がみられるのは、独立記念日のお祭りに切るドレスを選んで、長持ちの底からウエデイングドレスを見つけるときのシーンくらい。

後は、ひたすら自分の夫と、息子と、特にシェーンを見守り、料理し、喧嘩の手当てをし、ひそかに思いを寄せる。

自分の意志を表示したのは、息子に「シェーンを好きになったらだめよ。いつかいなくなるのだから」といったときと、最後に夫がガンをもって対立する悪徳牧場主に殴り込みに行こうとするときに「私のために行かないで」という時くらい。

シェーンとの別れの場面でも、「もう会えないのね」「死なないで」と言って万感の握手をするだけだった。

パッケージ裏面。ウエデイングドレス姿でシェーンと踊るジーン・アーサーの姿も

ガンマンがもう流行らなくなり、そのことを自分が一番理解しているシェーンもまた、ひたすら堅気(開拓民)の一宿一飯の恩義に感謝しつつ、自分を殺している。
感情を発露したのは、悪漢の牧場主に「(開拓民の家で働く目的は)女房か?」とある意味図星の指摘を受けたときに「黙れおいぼれ」と悪態をついた時だけ。

男として、時代遅れのガンマンとしての矜持を貫いたのは、前半で悪徳牧場主一味に挑発され、一度は引き下がったものの、再び酒場でまみえたときにウイスキーを浴びせ返して殴り合いになった時と、最後に殴り込みに行こうとするヴァン・ヘフリン(ジーン・アーサーの夫)を力づくでひきとめたとき。

力ではもう、ヘフリンに敵わなくて、ガンで殴って気絶させ、彼の馬を追い放ち、拳銃をジーン・アーサーに隠すように託す。

40年代にスターとなり、素早い動きでギャング映画で一時代を築いたアラン・ラッドも俳優としては晩年。
低い身長を隠すこともなく、ラブシーンもなく、正体不明の中年ガンマンとして流れ着き、去っていく役を寡黙に演じきった。

時代遅れではあっても、己の信念と人間としての矜持を貫く役柄は、現実のラッドの俳優人生ともオーバーラップし、思い残すことはないだろう。

左からアラン・ラッド、ジーン・アーサー、ヴァン・ヘフリン

ジーン・アーサーも中年となり、母親役を演じた。
往年のこぼれ出るような色気は封印しても、控えめに大事な存在を見守り、平和を説き、バックアップする女性像を、彼女の女優人生の集大成として演じた。

映画人生最後の役柄は、心ひそかに愛するヒーローを見守る以上のことはせず、最後までキスもしないヒロイン役だった。
監督のジョージ・ステイーブンスは十分なリスペクトをもって彼女を演出した。

余談

ラストのジャック・パランスとの決闘シーン。
酒場のカウンターに寄りかかったシェーンとパランスは2,3のやり取りをする。
シェーンはパランスを挑発して応える。
「うそつきの卑怯者」と。
パランスは「抜け」と応じる。

この時のシェーンの言葉。
山小舎おじさんが中学生の時にリバイバルで観た版では「南部の豚野郎」だったと記憶している?!

今回見たDVDで原語を確かめると「なんとか・ヤンキー・ライヤー」と言ってる。

ライヤーはうそつき、最も相手を否定する言い方だ。
ヤンキーとは、アメリカで南部の住民が、北部の住民を軽蔑して呼んだ言葉だそう。

とすれば「北部の嘘つき野郎」が直訳である。
では山小舎おじさんの記憶にある「南部の豚野郎」とはいったい?

山小舎おじさん得意の記憶違い、なのか?
やっぱりそうなのか。

南部と北部の対立は歴史的にも根深い宿命的なものがありそうだ。
この作品の制作当時にあっては、南北戦争勝者の北部(北軍)に対する批判はタブーだったろう。
ということは、このシーン、ぎりぎりの北軍批判だったのか?

ちなみに、インデイアンなどに対する北軍のふるまいや、北軍そのものの程度の悪さなどは、のちの「ソルジャーブルー」(1970年 ラルフ・ネルソン監督)や「ダンスウイズウルブズ」(1990年 ケビン・コスナー監督)に描かれた通りなのだろう。

「シェーン」にとって南北対立はどのような意味を持つのか?

ジーン・セバーグと「勝手にしやがれ」

先日、塩尻東座で観た「勝手にしやがれ」。

改めて、俳優が輝いているし、作り手が自由に作っているし、古びていないし・・・〈ヌーベルバーグ〉という60年当初の〈フランス文化の新人台頭の現象〉の枠内にとらわれない画期的な映画だと思いました。

中でもヒロイン、ジーン・セバーグの魅力。
彼女の代表作であり、彼女と、監督:ゴダールと、相手役:ベルモンドとの化学反応が、この作品で歴史的輝きを発していたことを痛感しました。

有名なシャンゼリゼでの再会シーン

手元にあるセバーグの伝記、「ジーン・セバーグ」ギャリー・マッギー著、石崎一樹訳、2011年水声社刊。
彼女の女優生活の転機となった「勝手にしやがれ」出演時の前後で一章が割かれています。
そこには貴重な証言が記録されています。
映画の女神に祝福された奇跡的な1本であるこの作品を主演女優の観点から追ってみましょう。

伝記の目次

ゴダールが「勝手にしやがれ」が映画にできるかどうかを彼女に賭けている(P101)

ゴダールはプレミンジャー作品(「聖女ジャンヌダルク」「悲しみよこんにちわ」)のセバーグを気に入っており、自分の長編第一作への起用のために会いたがった。
ゴダールは自分の短編「シャルロットとジュール」をセバーグに見せた。
主演予定のベルモンドも彼女に会って出演を要請した。
セバーグは好意的に反応した。(伝記P101要旨)

セバーグはコロンビア映画の専属女優だった。
ゴダールはコロンビア映画にセバーグの出演を求め、出演権を12,000ドルで購入するか、興行収入の半分を渡すかの条件を提示した。
当時のセバーグの夫であったフランス人弁護士・フランソワ・モレイユがコロンビア映画と交渉し、セバーグの出演権を12,000ドルで買取った。(P103)

ゴダールとセバーグ

コロンビア映画の首脳陣はもちろん、セバーグ自身もゴダールの存在は認知していなかった当初。
ゴダールが(ベルモンドも)ジーン・セバーグの出演を映画の生命線と考えていたことがわかります。

「勝手にしやがれ」撮影中も脚本の決定稿は存在しなかった(P104)

撮影の初日は1959年8月17日。
ジーンにはまだ不安が残っていた。
その日の撮影が終わらないうちに帰りかけたほどだ。
「(前略)意見の相違をお互いに認め、握手をし私はその場を離れようとした。でも彼が私を追いかけてきたから仲直りしたってわけ」(P103)

「ジャン=リュックは毎朝、学生が持っているようなノートをちぎった束をポケット一杯に詰めて現場に来るのよ。そこに書かれているのは前の晩に彼が考えたことなの。
彼は恐れていたわ。
自分が作っている映画が、長編とい呼ばれている尺にはならないっじゃないかって」(P104)

「即興の演技ばかりだったわ。
ベルモンドも私も、私たちが思った以上のいい演技ができた、と思うことが何度もあった。
(でも)そこはゴダールよ。きっちりコントロールしていたわね。」(P104)

ハリウッドの制作環境とのあまりの違い、ゴダールの〈即興演出〉への戸惑い、反発。
一方でそのやり方を楽しんでいるセバーグ。
その輝きが完成作品の端々から窺えます。
セバーグにとって奇跡的に幸運な出会いがこの作品だったのではないでしょうか。

つまり、プロのアメリカ人女優なんだ(P105)

カメラマン、ラウル・クタールはジーン・セバーグに初めて間近で会ったとき、「いったいどうやって彼女を撮影すればいいんだ」と思った。
肌の状態が良くなかったのだ。
しかしひとたびメイクした彼女は豹変した。画面に映える。
照明が足りない時でもジーンのカメら映りは抜群だった」
クタールは語る「彼女の仕事ぶりはまじめだったよ。まわりにも協力的だった。つまり、プロのアメリカ人女優なんだ」(P105)

「撮影の時以外、部屋(セーヌ左岸にあるホテル・ド・スエード12号室)にはほとんどだれもいなかったわ。
照明を調節しに時々入ってくる技師と、セリフを思えようと必死になっている女の子(セバーグ自身)。
それだけね」(P106)

9万ドルという予算はあまりにも少なすぎた。
彼女の衣装はフランスのデイスカウントスーパー、プリズニックで調達された。
シャンゼリゼでの撮影時、カメラマンのクタールが歩行者から見えないようにするために、郵便配達用の箱をゴダールは自分で押して運んだ。
最後のシーンはゴダール自身が車椅子で押されながらの移動撮影となった。(P106)

撮影はくだけた雰囲気の中で行われた。
気分が乗らない日には、ジーンはそういった。
同じくゴダールも気分が乗らなければその日の撮影は休みになった。(P106)

映画のラストシーンで、パトリシア(セバーグの役名)が恋人を売った後、彼の財布を盗むことにしないかとゴダールがもちかける、とジーンは反対した。
彼女にしてみれば、自分が演じる役の女はそこまで徹底的にやらなくてもすでに充分みすぼらしかったのだ。
議論の末、パトリシアは財布を盗まないことに決まった。(P103)

画面をよく見ると、セバーグのメイクが濃いことに気が付きます。
シーンによってはつけまつげとアイシャドウがばっちり目立ってもいました。

同時にメイキングフィルムのように自然な彼女の笑顔が映るシーンも。

撮影は照明を気にしない移動撮影(レールを敷いた撮影所方式ではなく、車椅子にカメラマンが乗っかる方式)や、ベルモンドとセバーグが意味のないやり取りを延々と行う場面では、二人の間をカメラがさ迷うようにパンします。

技法的束縛から解放されたスタッフが発揮した技量と、自由な精神下で発揮された旬の俳優たちの演技が幸運な出会いを果たしています。
とはいってもベースにはプロの女優としてのセバーグの、セルフプロデースの技量、演技の技量があります。

ゴダールが心配した、尺の足りなさは、作家役でインタビューを受ける、映画監督ジャン=ピエール・メルビルの長時間のアップや、主人公や刑事たちの動きを俯瞰でとらえたつなぎうのカットの使用などで何とか埋めています。
ジャズ音楽の使用も良い感じです。

20歳のセバーグと26歳のベルモンド

60年代の新しい映画の女神(フランソワ・トリュフォー談)ジーン・セバーグの起用に成功し、相手役に将来のフランス人間国宝・ベルモンドを擁した、プロデユーサーとしてのゴダールの時代性。
結果として自由な撮影空間が生んだ、撮影技術と即興演技の化学反応。

かくして「勝手にしやがれ」は映画史にとってのターニングポイントとなり、ジーン・セバーグは「ヨーロッパ最高の女優」(トリュフォー談)となったのでした。

上田トラムライゼで「湖のランスロ」

トラムライゼ(旧上田電気館)へ行きました。
ロベール・ブレッソンンが1974年に製作した「湖のランスロ」という映画を観るためです。

モダンな外観のトラムライゼ(旧上田電気館)

トラムライゼは、上田映劇を復活させたNPO法人の運営で2館の距離は歩いて3、4分です。
上映プログラムは、ミニシアター系作品が中心です。
その中に、旧作をデジタルで再輸入した作品も含まれており、ブレッソンの「たぶん悪魔が」(1977年)と「湖のランスロ」(1974年)もその流れで輸入公開され、東京公開を経て上田にも来たものです。

この日は10時5分開映。
ロビーでモギリを済ませてトイレへ急ぐと、開いた入り口から場内が見えました。

スクリーンには次回上映の「勝手にしやがれ」(1960年 ジャン=リュック・ゴダール監督)の予告編がかかっており、思わず見入ってしまいました。

〈ジーン・セバーグ20歳!〉〈ジャン=ポール・ベルモンド26歳!〉〈ゴダール28歳!〉の文字が躍るスクリーン。
画面には、トリュフォーが絶賛した〈新しい映画の女神〉ジーン・セバーグの若さが輝いています。
「勝手にしやがれ」でのジーン・セバーグの登場は、映画史上で最も輝かしい瞬間の一つです。

これは何度でも見に来なければなりません。

「気狂いピエロ」予告編の一場面。(映画泥棒にならないよね)

さて「湖のランスロ」。
アーサー王と円卓の騎士伝説の英雄・ランスロが、キリストの血を受けたといわれる聖杯探しに失敗しての帰還後、王妃との不義密通、ライバル騎士との確執に揺れる挙句に死ぬまでを描いています。

例によって素人俳優、特に女優の静謐で理知的な美しさに心ひかれます。
ランスロとの不義密通を、単なる肉欲にまみれたものだけではなく、二人の宿命的なものとしての表現に説得力をもたらすこの素人女優さんは魅力的です。

パンフレットより、王妃役

西洋鎧の重さと剣の重さの表現、打撃を受けた人体の損傷の表現にはリアリテイが見られます。
騎士が乗る馬はサラブレッドではなく、農耕馬のような丈夫な馬。
騎士の野営地にはテントが張られ、黒い衣装と帽子を被った従者が騎士たちの世話をします。
ブレッソンは、ヒーローものとしてではなく、中世ヨーロッパの現実としての騎士団を描いています。

木と土壁で作られた当時のヨーロッパの家屋。
内部はクッションと防寒材を兼ねた藁のくずが散乱しています。
一歩、野営地を出ると、かつてヨーロッパ中を覆っていた暗く湿った森が広がっています。

馬に乗って槍でぶつかり合う騎士の試合に使う槍は、木を削って作り、壊れると従者が代わりの槍と交換する、という描写も、ブレッソンが史実に忠実に再現したものなのでしょう。

山小舎おじさんに、アーサー王伝説や、聖杯伝説、中世ヨーロッパの実情などの知識があればもっと楽しめたことでしょう。

パンフによると騎士道精神の崩壊過程を描いてもいるとのことでした。
ランスロは王妃と不義密通するなど、最大限の背信行為をしつつも、王への忠誠心、神への信仰心は厚く、その人間らしい矛盾と苦悩が主題の一つだったのかもしれません。

パンフより、左ランスロ、右王様

トラムライゼを出ると11時半。
上田の街で食事をと、中心部のはずれにある相生食堂へ。
850円のとんかつ定食を堪能。

熱いお茶を何度も注いで回ってくれるおかみさんのサービスにも感激し勘定へ。
1,050円出すとおつりを500円出してきました。
850円だよと言って200円のおつりをもらいなおしました。
大丈夫かなおかみさん。

相生食堂全景

今年最初の上田映劇

上田映劇は、大正6年開業の上田劇場をルーツとする映画館。
現在はNPO法人が運営するミニシアターとなっている。

映画好きの山小屋おじさんとしては、上映情報のチェックが欠かせない。
上映作品は、いわゆる内外のミニシアター系の新作が中心だが、時に「フィルム上映大会」として寺山修司の「田園に死す」などを取り上げたり、地元上田出身の映画監督・成沢昌茂の追悼上映として、「花札渡世」など4作品を上映するなどの企画にも取り組む。

今回はロベール・ブレッソンというフランスの映画監督の旧作「たぶん悪魔が」(1977年)が上映されたので駆け付けた。

この日、劇場に駆け付けると、支配人がラックにチラシなどをセットしていた

この日の上映開始は16時20分。
14時半ころまで畑で苗の植付作業などを行い上田を目指す。

上映開始までに近くの商店街で今川焼のあんことクリームを購入、上田映劇に併設しているカフェでコーヒーテイクアウトしてから場内へ。

いつものように広々とした場内。
観客は自分を入れて5人ほど。
まるで大スクリーンを個人で独占しているかのような鑑賞条件に感謝、満足。

ロベール・ブレッソンは映画史上で評価が定まった巨匠だが、山小舎おじさん的には、リアルタイムで見た「白夜」(1971年)という作品が唯一の鑑賞体験。

ここ最近になって、「少女ムシェット」(1967年)、「やさしい女」(1969年)などがデジタル素材で再輸入されてミニシアターなどで上映されており、本作「たぶん悪魔が」と「湖のランスロ」(1974年)も同様にデジタル素材での輸入公開(日本では初公開)となったもの。

作品チラシより、ブレッソン紹介の部分

今川焼を食べ、コーヒーを飲みながら(上田映劇は場内での飲食可能)ほぼ初めてのブレッソン作品を見た山小舎おじさん。
芸術作品にありがちな、観念的、象徴的、形而上的な映画なのかと思っていました。
もしそうだったら無理して理解しようとはせず、画面のあるがままを受け入れ、力を抜いて見ていようと思いました。
退屈しないか、だけが心配でした。

作品チラシより

心配は当たりませんでした。
登場人物は他のブレッソン作品同様、職業俳優ではないようでしたが、静謐で知的な美男美女でそれだけで画面が締まります。

素人俳優の演技は個性を排した動きで、まるで小津作品における俳優たちのセリフ回しのようですが、それが映画そのものをスポイルするということはありませんでした。

登場人物たち

ストーリーは、1970年代のパリの学生である青年が、あらゆる事象に救いを得ることができず、自殺するといいものです。
政治運動、宗教、ヒッピー、麻薬、恋愛、学問などの事象が出てきますがそれらは青年の救いにはなりません。
反対に当時の環境汚染などの映像が青年の絶望の象徴としてカットインされます。

映画を貫くテーマは、ブレッソン監督の感性〈そのもの〉です。
もっというと、ブレッソンの感性〈それだけ〉です。

俳優に自由な演技を許さず、むしろロボット的な動きを求めるなど、ブレッソンの感性を逸脱する動きを排した映像が続く作品です。
そういった作品が緊張感を維持し、退屈ではないのは、ブレッソンの感性の完成度が高く、また普遍性を持っているからだと思います。

映画作家には、〈この作品を撮らなければ前へ進めない〉と思って作った作品があるように思います。
それは大島渚の「日本の夜と霧」(1960年)だったり、ビリー・ワイルダーの「異国の出来事」(1946年)だったりします。
両作品に共通するのは興行的にヒットしなかったこと(「異国の出来事」は日本に輸入すらされなかった)。
作家の個人的感慨を唯一のテーマにしたり、濃厚に反映させた作品の宿命でもありましょう。

おそらくはブレッソンのフィルモグラフイーはほとんど全部が、ほかのだれかが企画したものではなく、ブレッソン自身が〈この作品を撮らなければ前へ進めない〉と思って撮った作品なのではないでしょうか。
その結果が、興行成績はともかく、各作品が映画祭等で受賞し、現在に至るまでファンを獲得しているところがロベール・ブレッソンのすごいところだと思います。

恩地日出夫「砧撮影所とぼくの青春」

映画監督の恩地日出夫が2022年の1月に亡くなった。
山小舎おじさんは恩地監督の作品を追っかけるようにして観ていた。
監督の著作である「砧撮影所とぼくの青春」を引っ張り出して再読してみた。

著作表紙。「黒い画集・あるサラリマンの証言」現場にて。助監督時代

「砧撮影所とぼくの青春」

恩地監督は1955年に東宝に入社、砧にある撮影所に助監督として配属された。
助監督としての初仕事は「獣人雪男」(1955年 本多猪四郎監督 デビュー間もない根岸明美が脚線美を強調した衣装で登場する伝記ホラー)。
以降、主に堀川弘道監督の組に付き、先輩助監督の岡本喜八の指導を受ける。

本著は、東宝入社時から1984年までの30年間の、映像作家としての自身の変遷の記録であり、映画とは何か、映画会社東宝とは何か、の思索の書でもある。

戦争中に疎開を体験し、帰京してから東京大空襲を体験、終戦後になって世間の価値観の180度転換を体験した恩地は、「頼れるのは自分自身だけ」との原体験を持つ。

大学2年の時の「血のメーデー」で法政大学の学生が警官の水平射撃で殺されたのを見てデモに飛び込む。
学生時代は日本共産党の指導方針下で学生新聞の編集に没頭するが、共産党の方針転換に絶望する。
東宝入社後も助監督の協会活動を通して60年安保のデモに参加していた。

1959年、27歳の若さで監督昇進。
「若い狼」を撮る。以降、1964年の「女体」まで4本の作品がフィルモグラフィー前期。

「若い狼」は北関東の炭鉱の町からあてもなく都会に流れ着いた少年院上がりの若者とその幼馴染の少女の物語。
街頭ロケを多用し、若い主演(夏木陽介と星由里子)が都会の現実にぶつかる姿が初々しくも痛々しい佳作。

「女体」は「肉体の門」を原案に、戦後の混乱期にパンパンとして生き抜いた女が、戦後の平穏期の中で偶然にかつての仲間と再会し、命を燃焼させる物語。
団令子が、やけくそのように戦後混乱期を駆け抜けた若い日と、戦後の平穏な日々を抜け殻のような表情で演じるその対比に、恩地監督の狙いが反映されていた。

「若い狼」。左から夏木陽介、星由里子、恩地監督
「女体」。団令子(中央)

「女体」の撮影で牛を密殺するシーンを実際に演出したこともあって干された恩地が、「再起」したのは、アイドル候補内藤洋子を売り出すための企画「あこがれ」(1966年)から。

以降「伊豆の踊子」(1966年)、「めぐり逢い」(1967年)と東宝青春映画の旗手としてヒット作を連発するが、東宝の会社合理化により、「恋の夏」(1972年)を最後に東宝を離れる。

東京の山の手育ち、慶応ボーイでハンサムな恩地は、東宝入社の同期に石原慎太郎がいたことが象徴するように、新進の文化人の知り合いも多く、干された時期にテレビの司会者に抜擢されるなどした。
が、本人としてはテレビなどでの派手な活躍がその本意ではなかった。

70年代以降は「傷だらけの天使」など、テレビドラマを中心に活躍。
タイトルバック(ショーケンがアイマスクを取って目を覚まし、牛乳瓶のキャップを口で空け、トマトにかぶりつく)を演出したのも恩地である。

本著で恩地はそのアイデンティティーたる東宝という会社と、愛する砧撮影所について詳細に語っている。

戦前のPCLから戦後の東宝争議に至る会社の歴史の再検証から、恩地自身が撮影所で経験した細かなことまでの記述の中で、読み手に印象的なことは、著者が、森岩男という東宝役員の存在を東宝映画のキーマンとして挙げていること。
森は戦前から脚本家、批評家として活躍し、東宝役員に就任後は「プロデユーサーシステム」を東宝に導入した人物である。

プロデユーサーシステムは松竹のでデイレクターシステムと対比されるが、いずれにしても現場中心の発想という点では共通するシステムである。
映画の発想は現場が行う、ということである。
現場と対比する概念として本社があり、東宝にとっては親会社の阪急資本も本社の概念に含まれる。

恩地は、現場に育てられ、現場を愛する映画人として、森のアメリカ的なスマートな現場主義を評価するとともに、70年代以降の会社合理化により、映画企画などが現場から本社に吸い上げられたことを、映画産業そのものの衰退の一因とする。

活気のあった時代の撮影所育ちである恩地は、自身が独立後に組むことになったフリーのスタッフを「町場のもの」と呼ぶなど、撮影所育ちのプライドを持つ。
「町場」であっても熱意のあるスタッフと共同する柔軟性は持ちついつも、東宝撮影所という映画界のエリート育ちのプライドとともに歩んだ映画人生だった。

本書は、記憶の赴くままの随想ではなく、東宝の歴史を検証し、関係者の証言を取り入れつつ、自身の愛する撮影所システムの中の自分史であり、日本の映画史を紐解くうえで貴重な記録の一つとなっている。

「東宝青春映画のきらめき」

山小舎おじさんの手元にあるこの本。
2012年のキネマ旬報社刊。

1966年の「としごろ」から1973年の「20歳の原点」までの東宝青春映画をテーマにした編集で、数々の作品のスチル写真を中心に、内藤洋子、酒井和歌子のほか、恩地日出夫監督、出目昌伸監督へのインタビューで構成されている。
紹介される作品には恩地監督の「としごろ」「伊豆の踊子」「めぐり逢い」も含まれている。

「としごろ」(1966年 内藤洋子、田村亮主演)

干されていた恩地が木下恵介の脚本でカムバックのチャンスを得た。
恩地は松竹の重鎮・木下を訪ねた。

仰向けに寝ながら、傍らに正座で控える助監督に口述筆記させていた木下は、他社の新進監督が当該脚本に関して述べる意見を黙って聞いた。
やがて「その方向で直していいと思う。この子上手だから貸してあげる」といって木下組の助監督・山田太一を脚本改定に参加させた。

なるほど、東宝の、特にこれまでの恩地作品との共通性というより、「木下恵介アワー」的な色合いの濃い作品に仕上がっていた。
孤児院で育った者同士(内藤洋子、田村亮)の純愛と、彼らを取り巻くすべて善意の人々。

予定調和に満ち満ちたかのようなこの作品の中で、ヒロインだけが流れに逆らっていたのが印象的だった。
内藤洋子は、周りの善意の中で時に抗い、時に不器用に自己主張する不安定さを持つ少女を演じた。

内藤洋子の不安定さの中に、恩地監督の主張があったのか。
ひょっとしたらこの作品、かくれた東宝版「非行少女」(1963年 浦山桐郎監督 和泉雅子主演 日活)であって、内藤洋子躍進のきっかけになった存在なのかもしれない。

「伊豆の踊子」(1966年 内藤洋子、黒沢年男主演)

「としごろ」のヒットによって恩地にも会社企画のオファーがやってくるようになった。

主演は黒沢年男と内藤洋子。
旅芸人一座の座頭に「若大将シリーズ」の江口マネージャーこと江原達治、おかみに乙羽信子。

主人公の衣装を原作通り紺絣に袴姿にしたり、内藤洋子への演出にアイドルに対する忖度性が一切ないこと、などに恩地のこだわりが濃厚に映る作品。

劇中の踊り子(内藤洋子)に、すがすがしい笑顔などはなく、呼ばれた座敷で笑顔もなく黙々と踊るカットが続く。
一高生に「下田へ着いたら、活動(映画)に連れて行ってくださいましね」と繰り返し懇願する。

「物乞い、旅芸人村に入るべからず」の看板が村境に立てられていた時代の旅芸人の物語でもある「伊豆の踊子」。
恩地は原作にない、零落した売春婦のキャラクターを団令子に演じさせもする。

青春純愛物語を装った、ある意味、非常民階級(被差別階級)の内部のドラマでもある本作を、恩地は原作に忠実に再現したのかもしれない。

一高生と踊り子は当然ながら「下田で活動へ行く」という約束も果たせないまま永遠に分かれることになる。

「めぐりあい」(1967年 酒井和歌子、黒沢年男主演)

東宝青春映画の金字塔として今なおファンの多い作品。

川崎を舞台に、失業中の父親、受験の弟と団地に住み、自動車工場へ通う主人公(黒沢年男)と、母子家庭に育ち金物屋で働くヒロイン(酒井和歌子)の出会いとその後の話。

庶民的なヒロインと、一家の大黒柱ながら実は逆境に弱い主人公が出合い、親しくなり、励まされ、別れ、再会する。

勤めを休んで海へ行った時のヒロインの白い水着。
友達の修理工場からダンプカーを借りてのデートで、いさかいをおこし、荷台に座り込むヒロインにダンプをかけて脅かし、抱きついた時の雨の中のキスシーン。

バックもコネもなく、正真正銘自分だけの存在の若者が、健気に社会と格闘し、お互いにぶつかり合い、見つめ合う時のすがすがしさ。

金物屋を喧嘩してやめ、母親もなくしたヒロインが遊園地で働く場面がラストシーン。
一度は分かれた主人公が遊園地に向かい、黙ってヒロインの仕事を助ける。
微笑み合う二人。

ご都合主義のエンデイングとしてではなく、心から若い二人の前途にエールを送りたくなったのは私だけか。

酒井和歌子初期の代表作にして、恩地監督の代表作だと思う。

余談1

何年か前、ラピュタ阿佐ヶ谷で「若い狼」を見たとき、主演の星由里子さんがおつきの人と来ていた。
彼女らは最後列の端っこに座った。
私は偶然、そのひとつ前の列に座った。

と、前方から一人の女性が出てきて、星さんに礼をした。
「恩地の家内でございます」と挨拶したその女性は、暗がりでよくは見えなかったが、当時で40代ほどに見えた。
ジャンパーにジーパンのような服装の、落ち着いた声の女性だった。

星さんは自分の登場シーンに「ハアツ」と声を上げていた。
「若い狼」は当時16歳の星由里子が初めてのキスシーンに臨んだ作品だった。

余談2

「あこがれ」と「めぐりあい」は何年か前の渋谷シネマヴェーラでの特集で見た。
これらの作品のプリント状態が良くなかった。

「あこがれ」は全編、セピア調のモノクロ作品ではないかと思うくらいカラーが腿色していた。
「めぐりあい」は主人公とヒロインが海へいったときのカットがとびとびに切れており、酒井和歌子の水着のカットはほとんど残っていなかった。

フイルム作品のニュープリント代も1作で40万円ほどがかかる今節。
聞くところによると、東映は自社作品を割とニュープリントしてくれるらしい、映画館側で費用を出し配給会社にニュープリントしてもらうケースもある。

とはいえ、自社の代表作の貸し出しを、細切れ、腿色のプリントで行うとは、さすが東宝である。
のちにテレビで「めぐり逢い」を見たが、当然ながら完全なプリントを使っていた。
東宝が映画館よりテレビのほうを大事にしていることがわかって一層残念だった。

ミニシアターエイド基金

渋谷シネマヴェーラでは初回上映が始まる前に、「ミニシアターエイド基金」への賛助に感謝する5分ほどの映像が流れます。

このミニシアターエイド基金なるもの。
コロナ下で経営困難に陥ることが予想される全国の「ミニシアター」を経済的に援助するための有志による緊急支援策とのこと。

2020年5月に終了した基金募集は、目標の1億円に対し3億3千万円余りの実績。
29,926人の賛助を得たという。

初回上映前のシネマヴェーラの座席でこの映像により、同基金のことを知った山小舎おじさん。
半分暗くなった場内でこの映像が流れると毎回見入っていました。

全国のエイド参加のミニシアターの風景写真で始まるこの映像。
札幌のシアターキノ、仙台の仙台フォーラム、東京ではラピュタ阿佐ヶ谷、下高井戸シネマなどの写真が流れます。
長野県では、長野相生座、上田映劇、塩尻東座、飯田トキワ座と県内ミニシアター(「名画座」といいたいところです)のオールスターが登場します。

これまでに行ったことがある劇場、思い出や親近感のある劇場の数々。
現存するそれら劇場の背後には、今は亡き数々の名画座たちの幻影が浮かび上がるようで、オールドファンの思い入れは2倍増になります。

映像は、次に各地のミニシアターの館内の情景を映し出します。
このシーンになるころにはおじさんの視界はなぜかいつも曇ってしまいます。

それは現代にあって映画文化を担い続けようとする若い世代への感動なのか?
若き日、映画文化に育てられた(曲がりなりにも)古い世代の自己感傷なのか?
おそらくそのどっちも、でしょう。

現在の映画館は、シネコンとミニシアターに二分割されました。
大きなスクリーンと、高い天井(時には2階席も)を持ち、フィルム映写も可能な昔ながらの名画座も天然記念物的に残ってはいますが、この度の基金で明らかになったように、それらはミニシアターとして分類されました。
このほかに、建物と設備は残しているものの、休館中だったり、移動映写にほぼ特化しているような映画館もあります。

全国のミニシアターの前で笑顔で集合する若いスタッフ達。
映画文化の若き担い手達の笑顔に限りないエールを。

追記

ミニシアターエイド基金参加映画館・上田映劇がリニューアルしました。

アーケードの文字が「花やしき通り」から「上田映劇」になっている。隣のストリップ小屋のデコレーションも解消

劇団ひとりが2014年に監督した「晴天の霹靂」で、浅草雷門ホールのロケ地となり、その後もロケセットによる外観を残してきた上田映劇がついに、「雷門ホール」の看板を下ろした。

「雷門ホール」のデコレーションが撤去。元々の「UEDA MOVIE THEATER」が引き立つ劇場正面

いいことだと思う。
ぱっと見の意外性はともかく、信州上田の映画館で「雷門ホール」は似合わないから。

〈新生〉なったNPO法人上田映劇とその若き支配人、スタッフの活躍に期待です。

同館今後のラインナップには、パゾリーニ(「テオレマ」「王女メデイア」)、ロベール・ブレッソン(「湖のランスロ」)、ゴダール(「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」)などが含まれていて、オールドファンはにっこりです。

この日の上映ラインナップ

旧上田電気館に降臨!70年代の映画の女神ミムジー・ファーマー

旧上田電気館という映画館が上田映劇の近くにある。
大正10年に開館したという上田で3番目に古い映画館で、近年は東映の封切館として運営されていたが、平成23年に定期上映を終了。
平成29年に、トゥライム・ライゼという館名で、NPO法人上田映劇の傘下の元、定期上映を再開している。

旧上田電気館のエントランス

コンクリート打ちっぱなしの外観。
現在は座席数100のワンスクリーンにて運営し、フィルム映写機も残っているとのこと。

3月のこと、この映画館で、ミムジー・ファーマーという女優の代表作「モア」(1969年 バーベット・シュローダー監督)と「渚の果てにこの愛を」(1970年 ジョルジュ・ロートネル監督)が上映された。

ミムジー・ファーマーは1945年生まれのアメリカ人女優。
キャリアの中では何といっても「モア」が有名だが、日本ではそれほどブレイクしなかった。
が当時を知る世代にとっては忘れられない女優の一人だったようだ。

作品の輸入元はキングレコード。
ベルモンド傑作選の企画、輸入といいレトロ作品の発掘に気を吐いている同社。
映画を愛する担当者が相当に尽力しての企画だと思われる。

「モア」

この作品の時代背景は70年代のヒッピー世代。
医学生をドロップアウトしてヒッチハイクでパリを目指すドイツ人の若者が主人公。
パリで出会った正体不明の女・ミムジー・ファーマーにイカれて、スペインで麻薬三昧の生活を送った末に・・・というストーリー。

冒頭のシーンは雨の道端でヒッチハイクをする主人公。
パリに着いた後、若者のたまり場で、怪しい男を相手になんとなくカード賭博。
スッテンテンにされるが、その怪しい男は主人公に金を返してくれる。

男に連れていかれたパーテイーには大麻を吸う若者たちが所在なく集まっている。
部屋の端っこで焦点の合わない目をしている若者たち。

当時のヨーロッパのドロップアウトした若者の雰囲気が再現されている。
その空気感はまるで当時の記録映画のようだ。

パーテイーで出会う主人公と正体不明のヒロイン。
主人公はヒロインを追ってパーテイー会場の台所へ。
主人公に「カクテル飲む?」と聞いたミムジーは、コップを取り出し、端っこをぐるりと舌で舐めて塩を乗せる。
手に残った塩は吹き飛ばし、コップにカクテルを注ぐ。
ソルテイーカクテルが出来上がる。

電気館で来場者に配っていたカード

主人公は、ミムジーの滞在先の安ホテルまで追いかける。
生活感はないものの、たばこや大麻などの細かなものが雑然としたその部屋。

ミムジーとくっついた主人公はスペインに流れ、大麻のほかコカイン、LSDと麻薬三昧の生活を送る。

普段は〈手抜き〉でしか物事をしないのに(ソルティーカクテルを作るミムジーの場面に象徴的)、大麻を巻くときとコカインを炙って注射器を用意するときだけは集中して、手抜きせず、こまめに動く二人。

ミムジー・ファーマー

パリにたどり着いた主人公からカード賭博で金を巻き上げ、その金を返しに近いづいてきた冒頭の男。
怪しげで何をやっているのかわからないが、悪人ではない20代中盤から後半の男。
この男は、ミムジーに迷い始めた主人公に「彼女には近づくな」と警告し、警告が無視された後、麻薬中毒になった主人公の前に現れ、彼女からの逃げろとアドバイスまでする。

この人物は何?何を表すキャラクター?

アパートの一室や海岸などで開かれるパーテイ。
パーテイといっても参加者は集まって〈まったり〉とするだけ。
ボー然としている、といった方がいいかもしれないない。

周辺に漂う脱力感。
彼らはすでに〈あちらの世界〉へ行ってしまったのか?

ドロップアウトした当時の若者の気分が「ああこの通りだった」と思うほどよく描かれている。

映画が醸し出す雰囲気があまりに懐かしくて、麻薬に溺れてゆく主人公たちが悲惨に見えるというより、「ああこんな奴いた」とむしろ共感してしまった。

これは間違った見方だろうか。

でもいたんだよなあ、旅の途中で出会う若者にはこういったキャラが・・・。
ものすごくいい加減だが忘れられないほど魅惑的な女とか・・・。
汚くて怪しいけど、実は正しくて頼りになる男とか・・・。

ミムジー・ファーマーは何の違和感もなくこの時代のドロップアウトした若者の空気感を体現する。
70年代ヒッピー世代の女神として。

60年代を迎える時、当時の「カイエ・デュ・シネマ」誌でフランソワ・トリュフォーが新人女優ジーン・セバーグを「新しい映画の女神降臨」と絶賛した。

ミムジー・ファーマーは70年代の映画の女神として降臨していたのかもしれない。

本作は2015年のカンヌ映画祭で凱旋上映されたとのこと。

「渚の果てにこの愛を」

1970年のこの作品はおそらく「モア」とミムジー・ファーマーの出現によって企画されたものだろう。
監督はフランスの職人監督・ジョルジュ・ロートネル。
わき役(影の主役)に往年のハリウッド女優・リタ・ヘイワース。

ミムジーはこの作品でも謎めいた女性を演じ、その魅力を発散しまくる。
舞台はリゾート地・カナリア諸島。
流れものがヒッチハイクに疲れてたどり着いた一軒のドライブイン。
そこには息子の帰還を待つ母親(ヘイワース)と妹(ミムジー)がいた・・・。

サスペンスじみた設定と、一筋縄ではいかない登場人物像。
さすがはフランス映画、というべきか。

作り物じみた設定のせいか、ミムジーの演技が、無理をしているかのように痛々しく見えるのが難点。

認知症のふりをし、流れ着いた若者を「息子」として遇するヘイワース。
認知症のふりをしてまで、孤独から逃れようとした末のヘイワードの絶叫がラストシーン。

ハリウッド一の美人女優といわれたリタ・ヘイワースのおそらくキャリアの最終章を飾る叫びであった。

余談1

山小舎おじさんはヒッピー世代(団塊世代)に遅れること約10年。
1982年にアジアからヨーロッパを放浪していました。

当時、すでにヒッピーはいなかったが、インドでネパールでヨーロッパで、大麻はよく吸われていました。
気の合った連中がそろったインド、ネパールの安宿では車座になって吸われました。

大麻は「草」の時のあれば「ハシシ」と呼ばれる大麻樹脂を削って吸うときもありました。
ヨーロッパでも若者はよく吸っていたが、さすがに隠れるようにしてのことでした。
パリに滞在する日本人には安宿の部屋の外にまでハシシの匂いが染みついているような者もいました。

ドイツのユースホステルで白人に誘われ、ハシシを付き合ったときは、周りが気になったのか悪酔いして往生しました。
ああいうものは大勢でやるべきものかもしれません。.

余談2

パキスタンや特にイランなどイスラム圏で麻薬の保持が見つかると冗談では済みません。
イランは当時イスラム革命の後、イラクと戦争中の時でしたから国内が余計ピリピリしていました。

パキスタンからの入国時は、税関職員が家族連れの私服の文官で、荷物検査もなく、むしろ「ドル持ってるか?」と公定レートでの両替をせがみました。
当時のイラン国内の実勢レートは公定の10倍(10分の1とういうのか)でしたので、ドルの価値は絶大だったのです。

一方トルコへの出国時のイランの税関員は陰険な制服姿の男で、有無を言わさずリュックの中味を全部調べられました。
この時、万万が一、麻薬でも見つかったら…。
その後の人生が大きく違ったことだけは間違いなかったでしょう。

余談3

旅を開始した82年4月。
まだ日本の匂いそのものの姿の若き山小舎おじさんが、バンコクからカルカッタまで飛行機に乗りました。

ひげを生やし、髪を地後ろに束ねた30歳くらいの日本人が同乗しており、「地球の歩き方」に紹介されているカルカッタの安宿にたどり着くまで偶然一緒でした。

その日本人は宿に着くなり太い注射器を取り出し、腕をゴムで縛って静脈注射をし、ふーッと安どのため息を漏らしていました。
あれは何だったのか?