「諏訪の神様が気になるの」・・・

長野県に住んで早や5年目。
山小舎の簡易神棚には毎年、諏訪大社と生島足島神社のお札をいただいています。

山小舎は行政的には上田地方に属するので、生島足島神社のテリトリーですが、直線距離的には諏訪が近く、東京からの入口でもあるので、諏訪大社へのお参りも毎年欠かしません。

「諏訪の神様が気になるの」という本を読みました。
東京の書店で見かけました。

2020年信濃毎日新聞社刊。
同新聞は、北海道で言えば「道新」のような存在で、午後のローカル番組には、同社のデスク格のおじさんがコメンテーターで出ていたりします。
著者は1958年上田生まれという女流作家です。

そもそも諏訪の神様って、どんな神様?という著者の疑問からスタートしたこの本。
著者は数々の古文書を紐解く方法によってこのテーマに迫ってゆきます。

著者が読破した古文書は「古事記」を始め、「諏訪重信解状」(1249年)、「諏訪大明神神絵詞」(1356年)などなど。

諏訪初心者の山小舎おじさんにとって、迷路のような世界です。

諏訪大明神はともかく、建御名方神(タケミナカタノカミ)、ミシャグジ、などの神様の名前。
大祝(オオホウリ)、神長(ジンチョウ)などの神職名。
これらはおじさん、初めて聞く名前です。

これらに各時代の個人名が加わって、神話時代から現代までの出来事がこまごまと続くので、文字を追うのが精いっぱい。
本文中のエピソードが記憶に残らなく、全体の流れなど霧の中をさまようがごとく、まったく把握できませんでした。

著者は山小舎おじさんより2歳年下でした

その後、神長職を77代務めたという守矢家の資料館を訪れたり、諏訪博物館の資料室を訪ねたりして、おじさんなりに、諏訪の神様像を求めてゆきました。

このブログをまとめるにあたり、改めて「諏訪の神様が気になるの」を斜めに再読してみました。
ちんぷんかんぷんだった本書の内容と、諏訪の神様の世界がおぼろげに浮かび上がってきました。

諏訪の神様を紐解くキーワードごとに章建てした内容

諏訪の神様たち(「諏訪の神様が気になるの」より)

「古事記」によると、大国主神の息子の建御名方神が高天原からの使者により諏訪湖のほとりに追放された、いわゆる国譲りが行われたとある。

一方、国譲り以前から諏訪地方には土着の神様がおり、それは、神長を務めた守矢家が祀る、洩矢神だったり、包括的にはミシャグジと呼ばれる古来の神格、霊性たちであった。

諏訪大社は、実はこれら歴代の神々を祀る社であること。

神仏習合時代には仏も含めて祀っていた。
明治維新後の廃仏毀釈と国家神道の流れの中で、主祭神を建御名方神として時代に迎合し現在に至っている。

独特のイラストに彩られた本です

神職たち(「諏訪の神様がきになるの」より)

大祝といわれる、諏訪大社の神職は諏訪家が代々務め、祭祀と為政者のトップとして君臨していた。
同時に、先住者として、諏訪家と争ったものの、敗れた守矢家が、下社周辺にあって、神長という神職を続けた。

諏訪家、守矢家ともども、鎌倉時代には武家化し、実力を持って血で血を洗う抗争を行い、また武田氏など時の支配勢力に迎合・対立するなど、時代によって変容しつつ存在してきた。

最終的には明治維新後、国家神道のもとに統制されることになった諏訪大社に於いて、諏訪家が担ってきた大祝職は消滅し、地元の血脈による諏訪大社の運営はその長い歴史を終えた。

神長・守矢家は、ミシャグジ神を下ろすという、一子相伝の秘法こそ明治で途絶えたものの、78代目が現存している。
当代の女性は家に伝わる古文書を茅野市に寄付し、資料館で保存して後世に伝えている。

読後感想

以上は、山小舎おじさんが本書を再読後に、無理やり内容の一部を要約したもので、理解不足があるかもしれません。

いずれにせよ、静謐として整えられた現在の諏訪大社の背後には、鬱蒼たる太古の神々が控えていることを想像して、興味が絶えないことを感じています。
おじさんなりに、その実像に迫ってゆこうと思っています。

このテーマについては、次回以降、「神長守矢家資料館訪問記」、「諏訪大社下社の御頭祭祭見物記」、などでブログでフォローしてゆきたいと思います。
ブログのシリーズ名は、勝手ながら、「諏訪の神様が気になるのVOL.〇」にしようと思います。

大祝(諏訪家)と神長(守矢家)の当初の抗争のシーン

底冷えの上田に「真田」を探す

予報通りに雪が降った12月中旬の日。
山小舎仕舞いを前にして、別荘地管理事務所と畑の大家さん宅にちょっとしたお歳暮を配りました。
ついでに上田の街に出て今シーズンの名残りを惜しみました。

上田市内から見る里山も真っ白

中華モリタで腹ごしらえ

昼前に上田に着きました。
山小屋周辺では真っ白だった路面も、雨でぬれた程度の上田市内でした。

先に昼食を摂ることにしました。
地元で働く人がランチで選ぶ店、というブログに載っていた、駅前の中華モリタに行ってみました。

雪は少ないとはいえ、底冷えのする上田市内。
これが信州の冬の寒さでしょうか。

目指す食堂のあるあたりは、とんかつ力亭、馬肉うどんの中村屋などが並ぶなじみのエリア。
目指す店はすぐ見つかりました。

まだ温まりきらない店内には先客が一人。
滞在中にあと2組が入ってきました。

駅前、天神の中華モリタ

チャーハンとラーメンのセットを注文。
チャーハンは期待通りというか、予想通りの、町中華の味。
ラーメンはやや物足りなかったかな?

チャーハンラーメンセット880円

地方の食堂は、都会のラーメン屋ように「味にヒステリー」を競うようなことは全くありません。
手作りの味と、量と、皿数が売り物です。
おいしいみそ汁と手作りの漬物が定食についているだけで満足するほどです。

が、ラーメンのような、「力づくのダシ」で食う料理は、手作りがアピールできる種類のものではありません。
しっかりダシを取るなどして、味にメリハリをつけてもらいたいものです。

現に、辰野町のタイガー食堂など、地鶏のダシで抜群にうまいラーメンを出す店はあります。

ラーメンへのダメ出しが続いたところで、上田駅へ行って、観光案内所と特産物販売店をパトロールして最新の情報収集。

台風で千曲川にかかる鉄橋の一部が落下して1年たつ、上田電鉄別所線の復旧工事がやっと進み、来年3月の全線開通を目指し、鉄橋の土台部分を工事中との明るいニュースにも接する。

博物館で「真田の鎧」を探す

上田訪問の目的の一つ、上田城内の市立博物館へ向かう。

本館の正面

底冷えする城内には人影も少ないが、そこは有名な観光地、博物館には三々五々観光客の姿も。

目指すは「真田の鎧」。
というのは、真田氏の本拠地・上田市真田地区にある「真田歴史館」という資料館に展示されていたのが、NHKドラマで使用されたという、レプリカの鎧一式。
では、ホンモノは残っているのか?どこの博物館にあるのか?と思ったから。

別館の正面

ありました。
市立博物館の別館2階が真田関係の専用コーナー。
その中央に幸村の父親で、ともに上田合戦で戦い徳川軍を撃退し、関ケ原の後、ともに高野山に蟄居の時を過ごした、真田昌幸の本物の鎧兜が。

他にも当時交わされた、秀吉など有力者との書状なども。

江戸時代になってからの幸村らの錦絵は、葦に隠れて家康の本陣をうかがう幸村や、騎馬上で一騎打ちする幸村と家康など、史実とはかけ離れた設定ながら当時からの真田人気を物語る貴重なものでした。

さすが真田氏の本拠、上田城を擁する上田市の博物館。
さりげなくも貴重な資料が保存展示されています。
真田ファンは一見の、いや二見三見の価値があります。

上田城のお掘を外側から見る

池波正太郎真田太平記館へ

真田本流の鎧兜の本物に接することができた勢いで、市内中心部にある「池波正太郎真田太平記館」へも行ってきました。

市内中心部に建つ真田太平記館

週刊朝日での連載、NHK大河ドラマ化、の小説「真田太平記」の作者、池波正太郎を記念しての資料館。
小説家池波を通しての真田史に触れることができる場所だった。

映像シアターも併設されている

真田氏の歴史という視点を通しての上田めぐり。
帰りの路面凍結を心配しつつ、夕暮れまでに山小舎に帰りつくように帰途につきました。
上田よまた来年!

浅間山、山麓に行ってみた

令和2年、12月になったある日、急に思い立って浅間山を見に行ってきた。

ひとつ山越しゃ、見える景色が一変する信州。
地域地域で仰ぐ山々も変わってくる。

茅野から見えるのが八ヶ岳連峰、松本からは北アルプスが地元を見守る山、というか地域のシンボル的な存在だとすれば、上田、佐久地方にとっては浅間連峰が、同様な存在なのではないか。

佐久地方から遠望する浅間山の秀峰

ということで、空気も澄み、仰ぐお山の姿も鮮烈なこの頃、佐久地方の母なる山、浅間山に近づきたくて軽トラを走らせた。

地図を見ると、小諸から山麓までのルートがある。

あたりは上信越高原国立公園エリアだ

10月に孫たちとリンゴ狩りをした小諸のリンゴ園の脇を通り、浅間山麓へと登ってゆく。

峠への道を登ってゆく

シーズンオフ、曇天、行きどまりのルート(冬季間、群馬へ抜ける道、湯ノ丸港高原へ抜ける林道は閉鎖)。
通行量はほとんどない。

浅間山登山口への分岐点を過ぎる

浅間山の山頂も雲がかかっている。

雲がかかった浅間山山頂

けっこうな傾斜のルートを登りきると、群馬との県境の車坂峠に到着。
下山してきた登山者もいるにはいたが、肌寒い気温と霧。
単独行の高齢登山者一人のほか、あたりに人影はない。
浅間山一帯が完全なシーズンオフであることを物語っている。

登山者への警告
峠から見た浅間山山頂

湯の丸高原への林道が閉鎖されているので、元来た道を引き返す。
とりあえず浅間山に近づけたドライブだった。

中山道シリーズ第五弾 芦田宿と茂田井間宿

今回、中山道二十六次・芦田宿と、その江戸よりにある茂田井間宿を訪ねた。

芦田宿

白樺湖から、県道40号線を使い、雨境峠を越えて下ってゆくと立科町の中心部に着く。
旧甲州街道との交差点を左折すると、中山道芦田宿だ。

長和宿と望月宿の間にあり、諏訪に向かって笠取峠のふもとに位置する宿場だ。

旧甲州街道・芦田宿

全国的に有名な場所でもなく、山小舎おじさんもあまり来たことがない。
通過するには旧中山道ではなく、新道を使うことが多いので通過することもほぼない。

本陣跡の門構え
現役で営業中の旅館

現役の旅館や、現役の醤油屋、本陣跡などを表面から見て歩き、町の中心部と思しきエリアに建つ「ふるさと交流館」に入ってみた。

ふるさと交流館に入ってみた

最初はいぶかしげに対応してくれた女性職員。
館内にはリモートワーク風にパソコンに向かう利用者、井戸端会議風に情報交換する利用者が三々五々。
平時のこともあり、全員女性だ。

来館の意図を伝えると、職員さんは地域紹介のパンフをくれたり、現役旅館のマッチをくれたり、付近の直売所の情報交換に応じてくれたりした。
部外者には戸惑ったものの、相手の意図を理解するとフレンドリーに対応してくれた職員さんに感謝。
館内に展示されている、東山道、東海道、地元の名士などの資料を見せてもらう。

この芦田宿には、立科町の役場がある。
昔からの街の中心地なのだが、車の流れ、商圏は完全に中山道の新道沿線に移っている。

町の中心部とバス停

ひっそりと時を刻む芦田宿の現在。
真新しい白壁の古民家が軒を連ねる歴史遺産的なエリアでもなければ、古民家が一掃され、宿場の香りが残っていない町に変貌していることもない。
無理なく自然な感じが好ましかった。

茂田井間宿

芦田宿から望月宿(江戸方面)へ歩いてすぐの場所に茂田井間宿がある。
間宿というのは、幕府が定めた正式な宿場ではなく、その中間にあり、宿場で賄いきれない客などをさばくための場所だという。
したがって本陣などはなく、殿様はあくまで正式な宿場の本陣に泊り、家来が泊まるのだという。

旧中山道。茂田井間宿には古い町並みが残っている

ここには造り酒屋が2軒残っており、その白壁が目を引く。
酒屋の一つ大澤酒造が民族資料館を併設しているので入ってみる。

大澤酒造の門構え、敷地内に資料館がある

声をかけると50代くらいの当主が出てきて、二階にある資料館の電気をつけてくれる。
びっくりしたのが鎧兜の展示。
かつての当主が殿様より賜ったものという。
宿場の住民で会っても名主を務めるような存在ならば、名字帯刀を許されたのだ。
名のある街道筋で歴史を刻んだ旧家の重みを感じることができる空間だった。

資料館の中央には鎧兜があたりを睥睨する
名主としての歴史を感じさせる展示物

入場料代わりに酒蔵の新酒を1本購入。

大澤酒造大吉野新酒を購入

通りがかりに見えた諏訪神社。
柱を組んだような本堂脇の外観が珍しくて寄ってみる。
かつての名工が刻んだ彫刻を保護するために柱で囲んでいるようだった。

集落にある諏訪神社
左の骨組みの中に名工の彫刻が保存されている

軽トラを駐車したのはかつての集落の中心地。
村立の学校から後に公民館として使われたという木造の愛すべき建物の前の広い駐車場。
バスが展開するというその場所は、今ではJAも閉店し、ひたすら無聊の時を刻んでいるようだった。

村立学校だった建物
柿の実越しに遠望する浅間連峰

地元パワースポット訪問記VOL.15 日本アルプス総鎮守・穂高神社

気になっていた穂高神社へ行った。

ガイドブックには「信州屈指のパワースポット」と、凛と輝く社屋の写真とともに紹介される穂高神社。
是非いかなきゃ!

穂高神社があるのは安曇野市。
山小舎から行くには諏訪側へ峠を越え、北上しなければならない。
しかも交通量が集中する松本周辺を抜けなければならない。

うーん、混むのは嫌だなあ。
そこで、諏訪側に出て国道20号から19号に入った後、アルプス側に迂回北上し、松本を避ける形で安曇野を目指すことにした。

国道19号線沿いの塩尻から山沿いの山形村へと迂回する。
通称「サラダ街道」と呼ばれている県道25号線を進む。

周辺はバラエテイに富んだ畑作地帯。
いろんな作物が植えられていて観ていて楽しい風景。
リンゴの収穫は終わっていた。

上高地から流れてきた梓川を越える

安曇野市に入ったあたりで、山裾の道から大糸線沿いのメインルート、国道147号線に下りた。

安曇野市の中心部で、大糸線の豊科駅があるエリアは、長野自動車道の安曇野インターにも近く、地元商店街のほか、郊外型チェーン店も並んでおり、交通量も多かった。
北アルプスが雪を湛えた姿を見せている。

安曇野から望む北アルプス
安曇野市豊科地区の商店街

かつては「壁」として日本列島を東西に隔てていた日本アルプス。
その東側は「毛人」の住む場所といわれていた。
朝廷が京都にあった時代の一方的な歴史観だが、なるほど遠望される北アルプスは、近寄りがたくも決然としてそびえる壁のようだ。

安曇野市豊科郷土博物館に寄ってみる。
郷土が現在まで受け継いでいる「御船祭り」に特化したといっていい館内のレイアウト。
手作りの「御船」がぶつかり合う祭りの映像が流れている。
石器時代からの歴史を追うような、一般的な郷土博物館より、郷土の一押しに特化したレイアウトは印象的に映った。

二階では特別展示として、郷土から出征し特攻隊として戦死した青年の資料や、満蒙開拓団、空襲、疎開などに関する聞き書きなどが展示されていた。
きちんと保存されている当時の遺品や、手打ちのワープロによる説明文などを見ると、まじめな県民性がうかがえるようだった。

博物館玄関にあったニホンカモシカの毛皮。寒さに強そうな手触りだった

国道147号線を北上して穂高神社へ。
日曜とはいえ、渋滞ともいえる交通量にビックリ。
大糸線・穂高駅駅前の穂高神社までは程ない距離。

穂高駅前の商店街の背後に隠れるようにして穂高神社はあった。
鳥居をくぐって1時間無料の駐車場へ。
境内に入ってびっくり。

まず、そこら中に鶏が放し飼いになっている。
あとで聞くと「神様のお使い」だからとのこと。

混んでもいなく、閑散ともしていない参拝客。
ガイドブックの写真で目に付くピカピカの社屋は、拝殿の前、境内の中央に立つ神楽殿。

思わず足取りが軽くなり、自然に笑みがこぼれるかのような雰囲気。
来てよかったと思えるありがたさ。
これだけ有名で、参拝者も数知れずの歴史を持ちながら、今も境内に流れるすがすがしい空気。

拝殿
神楽殿
ご神木

帰りに境内にある、御船会館という宝物館に入ってみる。
ここも、安曇野郷土博物館同様に、御船中心の展示だった。
7年ほどごとに行われる遷宮の行事にも、御船に乗った飾り物が欠かせないようで、歴代の写真が展示されていた。

安曇野地方。
真のパワースポット、北アルプスの神々しいパワーを背景に、空気がすがすがしいエリア。
そうすると穂高神社は、「北アルプスのパワーを受取る場所」という意味での「パワースポット」なのだろうか。

菅平を越えて須坂まで行ってきた

11月初旬の旅です。

地図を見ると、上田市から真田地区を経て北へ進むと菅平高原に至ることがわかります。
その道は上州街道といい、群馬との県境を越えて嬬恋村に至ります。
上州街道を菅平口という分岐点で左折すると、菅平高原に至り、さらに進むと須坂市に至ります。

 菅平高原への道

上田市北部の真田地区を進みます。
国道144号線、上州街道です。
ちなみにこの道、群馬に入ってからは長野街道と呼ばれるようです。

上田市郊外の真田地区から菅平方面を望む

標高があってゆきます。
分岐点がありました。
菅平方面に左折します。

分岐点「菅平口」。右手は群馬方面

菅平高原は、ラグビーなどスポーツの合宿地として有名です。
グラウンドや体育館の設備が整っています。
絵にかいたような高原の風景です。
東京からの距離は遠い印象ですが、ある程度の期間をスポーツ合宿などで過ごすにはいい場所だと思います。

菅平入口の看板
整備された野外グラウンドが散見される
立派な体育館やセンターが並ぶ

スキー場も何か所かあります。
東京からの日帰りではちょっときつい立地です。
かつてのスキーブームの頃ならともかく、昨今の集客状況は如何?と思ってしまいます。
菅平高原に入ったときは上田市の領域でしたが、いつの間にか須坂市への境を越えていました。

 須坂、大笹街道沿いの風景

菅平から須坂に至る国道406号線は、大笹街道といいます。
須坂の市街地まで急坂をつずれ折りして下ってゆきます。
高原のカラマツ林が過ぎると、スギの植林がカラマツや雑木林の中に混じった景色が現れました。

大笹街道を下る。

麓の集落を過ぎ、町に入ったとき、右手に不思議な塔の建物が見えました。
太鼓楼という建物で、お寺の一角に建っています。
かつては法要の時などに太鼓を打ち鳴らしたらしい。
楼の土台の建物の造りに、お寺とは思えない妙な艶があります。

大笹街道沿いのお寺の太鼓楼

また、お寺本体の建物を見ると、屋根が瓦葺ではなくトタン屋根となっています。
雪国ならではの造りで、東北北部から北海道のお寺に見られます。
山小舎おじさんはトタン屋根のお寺を見ると、郷愁を感じてしまいます。

大笹街道の少し先にある田中本家。
江戸時代から藩の御用を務めた豪商の屋敷で、現在は歴代の品々を展示して一般公開しています。

陶器、箪笥から着物など、状態よく保存されてきた様子がうかがえます。
なるほど今となっては貴重なものの展示ですが、例えば酒田の本間家のような圧倒的なきらびやかさを感じませんでした。

酒田という当時国内有数の物流拠点が生んだ蓄財とは所詮異なる山国のつつましやかな文化の集積、というべきなのでしょうか。
他を圧倒するギラギラな豪勢さではなく、趣味がよいというか、身の丈に合っというか。
同じ豪商でも、信州らしさを観ることができた田中本家でした。

館内の展示
庭も来館者に解放されている

 昼食はとら食堂で

地元の人が集まる県道沿いの食堂で昼食を食べた。

県道沿いに立つとら食堂の幟。駐車場も昼は満車だ

ホールに近所のパートさんらしき3人を配置した活気のある食堂。
がっつり系で定評と聞き行ってみた。

来客が引きも切らぬ。
単身の男性が多いが、カップルや仕事途中のグループも多い。
評判の焼肉定食を頼む客が多いようだ。
ごはんとキャベツはお替り自由とのこと。

カツ煮定植。見た目よりボリュームあり

手作り感十分で、満足感あり。
ただ1,250円は割高感あり。
ごはんのお替りを見越した設定額なのか、それなりの原材料を勘案するとやむを得ないのか。

 須坂、旧市街を歩く

須坂は群馬からの大笹街道と、千曲川沿いに飯山から千曲に向かう谷街道の合流地点の町。
谷街道沿いに栄えた旧市街地が蔵の町として再開発されている。

須崎の旧市街入口。左は蔵の町観光案内センター

菊祭りが開かれて、家々の前に見事な菊が飾られていた。

旧家の前に飾られる立派な菊

かつての商家の後には、カフェなどの新しい店が入っているのが目立つが、一方、昔ながらの商家の造りや味わいのある商店が現存しているところに味がある。

古い商家の建物
入口は狭く奥に長い商家の造り
休業となったが堂々たる造りを残す商店の建物
信州ならではの看板。はちみつ屋さんにて

 須坂駅前を歩く

須坂のオモテの歴史の一端に触れた後は、現在進行形の須坂の姿、あるいはウラの姿の一端に触れたくて駅前に行った。

長電須坂駅前。長電バスが停車する

須坂駅は、長野電鉄線の駅。
長野市と湯田中を結ぶ私鉄路線上にある。
長野市までの運賃は550円。

土曜日昼間ながら、駅周辺及び駅構内には人気が少ない。
駅前にあたりを睥睨するように屹立しているイオン周辺は多少違うようだが。

いずれにせよ、人の流れは駅周辺から、国道沿いの郊外型店舗地帯に移っているようだ。
ほかの全国各地同様、ご多聞に漏れずに。

駅構内の券売所
駅2階からみた駅前風景

駅前に1本怪しげな通りがあったので一巡してみる。

駅前の飲み屋通り

飲み屋街というよりはキャバレー、スナックが集まった通りのようだ。
コロナ禍以降どうなっているのか。
建物の荒廃ぶりから見て、景気が良ければ真っ先に再開発されそうな地域だがその気配やナシ。
店子の撤退→建物の解体→更地の道を歩んでいくのだろうか。

かつては賑やかだったのだろうか
貸店舗の看板が見える

 式内・墨坂神社にお参り

市内にある神社にお参りした。

式内神社の表参道。参道が路地というところに古い商店街の歴史を感じる

広い境内にお太鼓橋と池。
ご神木の幹が立派である。

落ち葉を踏んで参拝。

帰りは谷街道を使った。
途中の松代で長芋の直売所へ寄る。
50センチ以上の長芋が2本で1,000円。
土産に買って帰った。

松代にある長芋の直売所
50センチ以上が2本。これで1,000円!

 須坂のお土産

須坂で買ったお土産。地元産。
須坂市内の醸造所製の味噌
須坂の和菓子屋・盛新堂のどら焼き。バタどら焼きがうまかった
シナノゴールド。須坂の無人直売所で200円。

地元パワースポット訪問記 VOL.14 長野といえば善光寺

10月27日の信州ワンデーパスの旅で3時間ほど長野市にいた。
気になる市内のポイントを回って、善光寺にたどり着いた。

堂々たる木材の柱が支える長野駅。信州の玄関口だ

 ポイント1、市内の映画館まわり

気になる市内の映画館2館に行ってみた。
権堂通り商店街にある相生座と、駅前の千石劇場だ。

シネコン以外のいわゆる旧来の映画館は、県内には知っているだけで、上田映劇、茅野・新星劇場、塩尻・東座、伊那・旭座がある。
ほとんどが、昔ながらの大スクリーンと多数の座席を有し、フィルム上映も可能な映画館だ。

そういった映画館が長野市には2館残っている。
長野に来た時は、入場しないまでも当該2館の外観だけでも確かめたくなる。
映画鑑賞歴50年のオールドファンの、これがサガなのだ。

相生座。
「小津4K」と「ルイス・ブニュエル」の各特集のとき入場したことがある。
入場者にはまずお茶のサービスがあった。
女性支配人は雑談に応じてくれた。

意欲的なプログラムが目を引く。
なんと明治30年の開業。
現在は3スクリーン制で営業している。

120年の歴史を誇る相生座の正面風景
手書きの宣材が掲示板を飾る。「天井桟敷の人々」をやるのか!

千石劇場。
入ったことはないが、昭和25年開業と歴史は古い。
去年通りかかったときは、「仁義なき戦い」の連続上映のポスターがあった。
フィルム上映もできるのか。
2スクリーン制とのこと。

千石劇場の建物。映画館用に作った歴史ある建物とのこと
プログラムは一般向けだ

 ポイント2、権堂通りと小路

長野の街並みは、善光寺参道を中心に形作られている。
参道へと集まる小路があちこちにある。
参道が光とハレの場所だとすると、小路は日常と影の世界なのか。

市内に数多い小路。しまんりょ小路というところ
お寺への通行路なのか
街角にある銭湯

権堂通り商店街は昔ながらのアーケード商店街で、小売店、食堂などのほかに飲み屋も集まった、商店街と歓楽街が合わさったようなところ。

商店街から長野大通りを挟んだ東側には、善光寺参り客が精進落としをしてゆく、飲み屋、宿が並んでおり、今も名残の飲み屋が軒を連ねる。
聖俗併せのむ長野の歴史を飲み込んだ場所。

商店街の一角を占めていたイトーヨーカドーが撤退した時は、しばらく県内のニュースをにぎわしていた。

権堂アーケード街にあったヨーカ堂の建物
かーけーど街の一角にレコード屋があった
食堂のメニューが食欲をそそる

 そして善光寺

毎年訪れている善光寺。
3時間の長野散歩で街を歩いているうちに、今年もたどり着いてしまった。

参道が尽きたところに山門がある
仲見世通りには参拝客が引きも切らない

やはり長野の町の中心は善光寺なのだと思った。

堂々たる山門が他を圧倒する

参道を善光寺に近づくにつれて、人の密度が高くなる。
平日とはいえ常ににぎわう参拝客。

小学生の一団に追いつき追い越し、大急ぎでお参りだけを済ませる。
帰りの列車は14時半だ。

本堂へお参りしようと小学生の一団が登ってゆく

堂々たる大寺院の造作。
醸し出す伝統の風格。
何度訪れても、にぎやかで、明るさに圧倒される善光寺。

大昔から現在に至るまで、参拝客、観光客が絶えないのも、それなりのありがたさがあるからなのだろう。

折角長野にいるのだから、これからも折に触れて訪れたい場所だ。

真田氏発祥の郷を歩く

上田地方は戦国時代にその名を謳われた真田氏の本拠地だ。

真田氏は、初代が現在の上田市真田町に居城を築き、二代目で上田城に本拠を移した。

初代で歴史に登場したとはいえ、地方のいち土豪として、武田、北条、織田、徳川と有力勢力とつながることで命脈を保ってきた真田氏だったが、上州の領土をめぐって徳川の不評を買い、大軍で上田城を攻められること2回。
そのたびに、謀略、戦略、実力を持って徳川軍を上田城から撃退し、有名を馳せた。

次に、関ケ原の合戦で豊臣方に付いたが、敗戦側の将として幸村らが島流しにあい、上田城も取り潰された。

豊臣と徳川の最終決戦となった、大阪の陣で、幸村は再び豊臣方に付き大阪城の出城・真田丸に布陣。
最終的に出城を撃って出て家康の本陣に突入せんとすること3度。
寸前にて本陣突入を果たせず、幸村は討ち死にした。

徳川方の島津氏が、本国への書簡に「真田、日本一の兵」と記したように、真田の有名は、その後軍記物などで語り継がれることとなった。

真田氏は現在でも上田地方の誇りだ。
初代の居城があったこのあたり、真田を地名を残して現在に至る。
今回は真田の郷と呼ばれるあたりを歩いてきた。

国道144号線沿いに広がる真田の郷。下方上田市街地、上方菅平高原

真田氏本城跡

上田市の北部。
真田町の東方向。
里山のふもとのリンゴ畑のわきの道をたどってゆき、集落を抜け頂へ上る。

本庄麓のリンゴ畑は収穫間近
頂から国道144号線方面を見る

真田の郷から上田方面が一望できる。
あいにくの雨模様だったが、霧が立ち込める山際が戦国時代を髣髴とさせるよう。
あたりに漂う雰囲気もなんとなく襟を正しめるようだった。

雨天のせいか山霧がものものしい
ここから山頂にかけて築城されていたとのこと
頂から上田市街方面を見る

真田氏館跡と歴史館

本城跡を下り、国道144号線へとつながるリンゴ畑に囲まれた集落。
その一角に、真田氏の館跡がある。
館とは土豪らの屋敷のことで、周りに土塁を築き、厩などを持った砦のようなものだったのだろう。

現在は石垣の一部や門の後、土塁後などが残っている。
敷地の中央部には神社が建っている。
館からお城へと居住を替えるにあたり、館跡が荒廃しないようにと建立したとのこと。

館跡に建つ神社

歴史館に入ってみる。
真田氏3代を中心にその歴史が周辺の勢力の遍歴とともにディスプレイされている。

当時の書簡、文書の実物が展示されているのはうれしいが、例えば真田氏の鎧はNHKドラマで使用したものの展示だった。
敗軍の将としてそれらの実物は破棄され、あるいは散逸したのだろうか?
それとも上田城内にある博物館には本物があるのか?
今度、確かめてみよう。

歴史館ロビーには芸能人の色紙が並ぶ

山家神社

真田氏が武運を祈願したというゆかりの神社が郷にある。

山家神社一の鳥居

地方に埋もれた神社の中に、とてつもない尊厳を感じることがある。

山家神社も、普段の人気は感じられないが、隅々まで人出がかけられた感じがする。

本殿を望む
本殿。きれいに整えられている印象

人家が栄えて、神社は埃だらけということもあるだろう。

人家は寂れているが、神社は大事にされていることもあろう。

パワーを感じる山家神社だった。

境内には招魂碑と社も建つ
最近ではこいういったブームもあるようだ

本城、館、山家神社とも、現在でも集落に囲まれて残っている。
真田氏と領民との関係をうかがわせるようだった。

郷から群馬方面へと続く角間渓谷の入口

今日のお土産

途中の直売所で買ったかりん。はちみつ漬けにします
畑で全滅したデストロイヤーが売っていました
家族に好評な真田産の新米を購入

ご近所立寄り湯めぐりVOL.10 下諏訪温泉の矢木温泉に入る

下諏訪町に噴出する下諏訪温泉。集めの源泉は、町内の何か所かの公衆浴場に引かれています。

公衆浴場には、新湯、菅野温泉、矢木温泉などが、町中に点在しています。
また、中山道・下諏訪宿付近には、より観光性の強い、旦過の湯があります。

今回は国道20号線に沿いに看板が出ており、その存在が普段から目についていた、矢木温泉を訪れてみました。

国道20号線の下諏訪町沿道を走っていると見える看板

駐車場は10台ほども止められます。
玄関の造りは、ほどほどに整えられており、地元限定に鄙びすぎてもいなく、観光性を追求した派手さもありません。

収容台数の多い駐車場を完備
つつましやかな入口から入場する

番台には地元の住民と思しき高齢者のおじさんが座っており、また県内のこういった公衆浴場と同様に、検温や氏名住所の提出、マスク着用・・・の手続きは一切ありません。

入浴料240円を払って入浴。
混んでもいない客層は、地元の高齢者が中心でした。
下諏訪温泉の湯の印象は高温、ですが、旦過の湯はもちろん、菅野温泉ほどに熱くはなく、適温でした。

松本、塩尻方面からの帰途、国道20号線を利用するときの立寄り湯として貴重な存在です。
ただし、気温が低くなるこれからの季節、ここから約1時間かかる山小屋までの間、軽トラの座席での湯冷めを心配する必要はありそうです。

杖突街道→伊那→塩尻

10月に入った秋晴れの日。
軽トラで旅に出発した。

鄙びた別世界のような杖突街道を走って、高遠では行きそびれていた郷土資料館へ入り、伊那でソースカツ丼を食い、国道153号線を北上しつつ箕輪町の直売所で仕入れ、さらに北上して行ったことのない塩尻市内を見物しよう、という予定だった。

杖突街道での発見

伊那地方と諏訪地方を結ぶ杖突街道こと国道152号線。
杖突峠を越えて古都・高遠までの沿道風景は、時間から取り残されたような鄙びた集落が続く、山小舎おじさんお気に入りのルートだ。

高遠歴史博物館で買った杖突街道のマップ。情報がてんこ盛り

木造の古い建物が目をかすめた。
木造校舎か?と立寄ってみた。
正体不明の建物だった。

とりあえず写真撮影して、近くに神社があったので表敬訪問。
貴船神社とあるその神社。
案内板を見ると京都の本家・貴船神社から正式に勧請された、とのこと。
縁結びで有名な貴船神社。
調べてみると全国に450社の分社があるという。

杖突街道からこの木造建物が目についた
正面から見た木造建物
京都から勧請した貴船神社
貴船神社の本殿
このあたりの集落は新しい蔵が目立つ

さて不思議な木造建物の件。
この先で寄った、沿道唯一の直売所の駐車場で荷造りしていた地元?の男性によると、地元(藤沢地区)の公民館だったとのこと。

沿道唯一の直売所は閉まっていた

高遠を経て伊那で昼食

高遠では歴史博物館へ寄ってみる。
ここの展示の目玉の一つが、絵島囲屋敷。
絵島という江戸時代の女性が、大奥で女中頭の身でありながら、歌舞伎見物で帰城の門限を破り、当地に島流しにあって、27年間幽閉の身を過ごした屋敷が博物館に隣接しているのです。

高遠歴史博物館で購入した朱印

13時を回ったので慌てて伊那を目指す。
目指すソースカツ丼屋は、長野県の食堂の例にもれず、昼食は14時までの営業時間。
遅れるわけにはいきません。

目指す、たけだという食堂に着いたのが13時36分。
既に看板は「準備中」に裏返っています。
店員に掛け合ってみましたが、「ごめんねラストオーダーは13時30分なの」というばかり。
残念ながら諦めました。

さてどこで何を食べようか?何度か行ったことがある田村食堂へだめもとで行ってみますと、こちらは「ラストオーダーが13時45分」の看板が。
同時刻に滑り込み、快く受け入れてもらいました。

たけだを目指したがかなわず、田村食堂へ

国道153号線沿いに出現する信濃国二ノ宮・小野矢彦神社

伊那から北上して箕輪町の直売所で季節の紅玉リンゴなどを仕入れ、さらに国道153号線を北上する。

伊那地方と塩尻・松本方面を結ぶ国道153号線は交通量も多く、車両の運行速度も速い。

長野県の交通事情は、運転マナーもよく、奥ゆかしいイメージがあるが、どうして、平地を走る主要国道・バイパスの車は飛ばす。
のろのろ走っているとあっという間に後ろがつながってしまう。

国道20号線の塩尻峠、佐久平を北上する国道141号線などは、通行車両が「必死になって先を争って走る」印象がある。

ということで、後ろを気にしながら走っていると、ただならぬ雰囲気の神社が左手に出現して慌ててストップする。
辰野町小野地区と塩尻市にまたがる、小野矢彦神社だった。

国道153号線沿いに出現する小野矢彦神社。巨木がそびえる
手水場はコロナ下(禍)でも閉鎖されていない。心意気やヨシ!

境内に外にまでにじみ出る荘厳な雰囲気。
境内には巨木が立ち並ぶ。
取り急ぎ拝殿に参拝。

参拝したのは小野神社のほうで、矢彦神社は隣にあったらしい。
信濃国二ノ宮とのことがだが、二ノ宮は上田の生島足島神社もそうだったよなあ、と思う山小舎おじさんでした。

小野神社の拝殿。派手にデイスプレイされている
小野神社の神楽殿は拝殿の正面に建つ

塩尻でびっくり!

塩尻は松本と隣接し、つながってしまっている印象だが、実際訪れてみると個性豊かな町だった。

国道から市街地方面へ折れると目の隅に看過できない建物が飛び込んできた。
よく見ると映画のポスターが貼られた建物だ。
東座と銘が打たれた大き目の建物。
よく見るとピンク映画のポスターも貼られている。

待てよ、これは絶滅危惧種の昔ながらの映画館の生き残りではないのか?
慌てて軽トラを止める。

塩尻東座の建物が現れた

「新東宝映画」「大蔵映画」の文字がうれしいというか時代錯誤というか。
都内でも、ここ2.3年で飯田橋駅前にあった専門館が撤退し、上野と池袋にのみ現存するピンク映画の上映館が、一般映画上映館と併存とはいえ塩尻に残っていたとは!
後日ゆっくる訪問することにして写真撮影を済ます。

上映作品のポスター
一般映画上映の1号館入場口

行き当たりばったりの塩尻初訪問。
町の情報を得ようと塩尻駅でパンフ類を収集する。

隣の観光案内所に行って再度びっくり!
コンテナにマスカットを山盛りにして、「3房で100円」の張り紙。
どうしたものかと眺めていると、職員が「駅構内で栽培しているんですよ、黄色めのものが熟してます。種は出さずに食べると甘いです」とのご案内。
思わず100円玉を出し、買う旨を伝えると、袋に詰めてくれ、おまけにもうひと房をくれました。
昔ながらのマスカットは香り豊かで、甘さ充分でした。

JR塩尻駅
観光センター入口
駅構内特産のマスカット特売現場!
駅構内には黒葡萄が実っていた

折角なので、イヅツワインの醸造所まで行ってみます。
塩尻はワイン醸造の名所でもあります。

イヅツワインの売店でワインとジュースを購入しました。
醸造所限定品などはなく、むしろ出荷優先で販売しているとのことでした。

国道19号線沿いの、桔梗が原と呼ばれる当たり、イヅツのほかに五一ワイン、アルプスワインなどの醸造所が集まっているエリアです。

塩尻市桔梗が原のイヅツワイン工場売店

杖突街道から派生する金沢街道などの旧街道筋はぜひ行ってみたいともいました。
また、塩尻の東座は近々訪問したいと思いました。
うれしい宿題二つをもらった今回の旅でした。